2005.11.12
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「乾杯」

私たちはグラスを傾ける。

杉村は自分が持ってきたワインではなくて、グラスに水を注いだ。

車でやってきた杉村に、最初の一杯くらいはと勧めても

首を横に振るだけで、その生真面目すぎる性格と頑固さは、

想像以上に母の気に入るところになった。

しきりに「今夜はうちに泊まればいい」と繰り返し、

その度に私と杉村は目を合わせて苦笑いをした。





普段、お酒を飲まない母は、早くに床につくと言い出す。



私は母を寝室に連れて行くと、杉村の座るテーブルに戻った。

彼は穏やかに笑っている。私は、そこで。

初めて安堵のため息をついた。

最初から、ずっと緊張のしっぱなし。

杉村がそんな私を見て微笑む。

「ありがと、楽しかった」

「私の誕生日だよ、もう」

そしてふたりで笑い合う。向かい合わせで。

ああ、そう。本当に。こういう形でいい。

私は多くの幸せを求めたりしない。びっくりするようなイベントも必要ない。

こういう、穏やかな、本当になんでもないことで感じられる、そういう幸せ。



「まだ、眠くない?」

杉村が聞く。「眠くない」と言いつつ、私は首を横に振る。

「ちょっと、夜風に当たりに行かない?」

「うん、行く」

5月とは言え、夜は冷える。私は薄手のカーディガンを羽織り、



私の住む家から車で20分くらい。

そこにはちょっとした高台があって、そこの公園からは街がよく見える。

そこに行こう、と私は言った。

彼には言わなかったけれど、ずっと前から私は、

恋人と二人でそこから街を眺めたいと思っていて、

いままでそれが叶うことが無かった。

車から降りて公園の遊歩道を歩く。ワインで少し火照った頬に夜風が当たり、

私は酔いが醒めていくのを感じながらも気持ちが高揚していた。

ベンチが二つ並んだ先を抜けると、そこから。

街が、見える。

杉村と私は、並んで街を見た。夜の街を。

決して素晴らしい夜景では無いけれど、ぽつぽつと並ぶひかりがとても綺麗で、

私はちょっとした自分の夢が叶ったことに、少し感激を覚えた。

「いいね、ここ」

杉村も満足そうに街を眺める。私はそれが妙に嬉しかったことを、今でも強く記憶している。

それだけ、私はその瞬間を幸せに思った。

ちょっとした幸せ。それでも私にとって大切な幸せ。

しばらく、何も言わずふたりで街を眺めていて、そして。

彼が口を開いた。

「ん、そう。誕生日プレゼント」

振り向いた私に、小箱を差し出した。

そう。私は、その形に見覚えがある。そして、その中身も、一瞬で分かる。

ぱかり、と開いたその中に、指輪がひとつ。

「えっと、なんだかこういうのってクサくて照れるんだけど」

きまりが悪そうに笑ったあとに杉村が続ける。

「永遠に、俺と、一緒に居てください」






















私は、何でもない小さい幸せで、それでじゅうぶん。

そんな私が、その瞬間に抱いた幸せの大きさが分かる?

息が止まるかと思った。心臓が壊れるかと思った。

だから私みたいな女には、小さい幸せでじゅうぶんなのに。

だけど、その時ばかりは。

この幸せな瞬間を、この幸せな自分を、最高に感謝した。

そのあとのことをほとんど憶えてないくらいに。

泣いていた。次から次へと溢れる幸せの涙。

ああ、それから困ったように笑いながら、私の頭を撫でる彼。

そして、声が出ないから、何度も頷く私。

それくらいしか思い出せない。

胸がいっぱいで。頭もいっぱいで。

だから、きっと。そのときに気付けなかった。

気付くことなんかできなかった。

このとき、気付いていれば、引き返せたなんて、

今更どれだけ思っても仕方の無いことなのだろうけれど。





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Last updated  2005.11.12 23:33:37


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