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2007.04.27
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D・E・トルーブラッド(小林哲夫・小林悦子訳)『キリストのユーモア』
~創元社、1969年~

 しばらく(?)前に古本で購入していました。現在は、もう古本の形でしか入手できないかと思います。
 著者のトルーブラッドは1900年生まれ。ハーバード大学などの教授を歴任し、アーラムカレッジの哲学科主任を最後に引退した人物とのことです。
 本書は、キリストの言説を解釈するにあたり、そこに「ユーモア」という視点を持ち込んで、通説を批判していきます。私は、この分野の最近の研究動向をよく知らないのですが、少なくとも本書が書かれた時点では、聖書に見られるイエスの言説を、「真面目」に、ユーモアを認めずに解釈しようとする研究が主流だったようで、そのような研究ではあやふやになっている問題も、ユーモアという考え方でよりはっきりするよ、ということを強調しています。
 本書の目次は以下の通り。

一 無視されている事柄
二 キリストのユーモアの普遍性
三 キリストはどのように皮肉を用いたか

五 ユーモラスなたとえ
六 ユーモラスな対話

 第一章は、先にも述べたような、従来の研究がキリストのユーモアを無視していることを指摘します。キリストは、たしかに悲しみの人でありましたが、悦びの人でもあったといいます。その他、キリストは忍耐強いと思われているが、聖書を読めば、彼がいらだちを示していることはいくらでも認められることなど、一般的なイメージを覆してくれます。
 第二章では、最初の方に興味深い記述がありました。ユーモアは、他言語に訳してみると案外つまらなくなるものです(駄洒落や言葉遊びなど、特にそうですね)。ところが、キリストのユーモアは、「ことばのくみあわせではなく、考えのくみあわせであるから」(43頁)、どんな言語に訳されても、面白さが伝わるというのですね。
 ここで興味深かったのは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコによる福音書10章25節)の解釈です。この言葉について、針の穴というのは、らくだが苦労してようやくくぐったエルサレムの門だ、などといった解釈が生まれてきたそうですが、こうした解釈を著者は否定します。これは、チェスタートンという研究者の言葉によれば「巨大表現」で、散文的で限られた言い方では忘れられるような教えを、はっきりと記憶できるようにとキリストが考えた末の言葉だというのですね。「キリストが自分のことばを、ばかげて聞こえさせようと考えて、わざとそのような使い方をしたのには、わけがあったことである。調子をさげてやわらげたなら、象徴していることの真意をそこなうし、また、力がすっかり抜けてしまう」(63-64頁)と、著者は続けています。
 第三章は、その標題の通りなのですが、いろいろと興味深い記述がありました。まずは、ある研究者の言葉の引用です。「どのような社会であっても、その社会自体を、静かにひそかに笑うことがないようでは、健康的とはいえない。どのような人物も、自分をみつめることなしに、また、行きすぎはしなかったと考えないようでは、健全とはいえない」(75頁)。この箇所に限らず、本書には、ときどき啓蒙書(? その分野の本をほとんど読んだことがありませんが…)のような印象を感じました。
 物事を考えるにあたって、ユーモアは非常に大事だという部分では、次のようにさえ行っています。「どこかにユーモラスな気質のない哲学者はすぐれているかどうか疑ってみてもよい。とくに、自分自身の主張を笑えない哲学者には、疑惑を感じる」(77頁)。著者自身、哲学もされていたようですし、なかなか含蓄のある言葉だと感じました。
 同じページから、もう一つ引用します。「皮肉屋の特徴は、いつも、人を傷つけたいと思うのではなく、鋭い洞察力のあることである。このことが、最もはっきりと皮肉といやみを区別する」。こちらもなかなか面白い言葉ですね。
 第四章は、特に、戒律を厳密に遵守しようとしていた、ユダヤ教パリサイ派の人々と戦うにあたり、キリストが「笑い」を武器として用いていたことを述べています。興味深かったのは、キリストを批判する者たちが、キリストが悪霊どものかしら(ベルゼブル)によって悪霊を追い払っていると言っていましたが、キリストは、次のように言ったということです。「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」(マタイによる福音書11章22-32節参照)。なるほど、たしかにユーモアをまじえた反論だなと感じました。
 第五章は、説教のなかのたとえ話の中で用いられたユーモアについて述べています。私は大学で、 13世紀頃から説教の中で用いられた「例話」について勉強したのですが、そのときに本書を読んでいれば、もう少し深められたかな、と思いました。…とまれ、ここでも、興味深かった箇所を引用しておきます。「私たちは、今日でも、時々、ひとに、お前は手もつけられない大馬鹿者だと、反対の言い方をすることがある。そう言うと、その人がひどくおどろいて、目がさめるだろうと期待していうのである。望みをもって、絶望と告げているのである!」(134頁) …いわゆる、愛の鞭ですね。
 ここでは、新しいぶどう酒と新しい革袋についてのたとえ(ルカによる福音書5章37-39章)などが取り上げられます。ここでキリストは、身近なぶどう酒と革袋という素材を用いて、新しい信仰と古い信仰について語っているとのことです。その他、従来の研究では不十分な答えしか出されていなかった、「不正な管理人」(ルカによる福音書19章1-13節)のたとえについて、ユーモアの観点を持ち出して、新しい解釈を示しています。この部分はとても面白かったのですが、ここでは省略します…。

 いま聖書の新共同訳と本書の訳を見比べて見たのですが、本書の解釈でいえば、新共同訳の訳はどこか不自然な感じもしました。

 全体を通して、面白い本でした。聖書に詳しかったら、もっと興味深く読めたと思いますが、巻末には、本書で言及するユーモアを記した聖書の記事が引用されているので、そちらを参照しながら読みました。





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Last updated  2008.07.12 18:43:35
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