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<ウツボ)アメリカ側の資料では、日本の大本営発表こそ華々しかったが、回天が沈めた戦艦、空母はなさそうだ。(カモメ)戦艦、空母は対潜防御が厳しく、近づく事すらできなかったのが実情ですね。結局は輸送船団あたりを目標にせざるを得なかった。(ウツボ)回天戦全体で、実際には、アメリカ側の記録では、回天は大型タンカー「ミシシネワ」と駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈し、その他駆逐艦2隻を大破、輸送船等に被害を与えたとになっている。(カモメ)だとすれば、潜水艦の本来の魚雷攻撃で充分であり、わざわざ人間を載せた人間魚雷を使用しなくてもよかったはずですね。(ウツボ)そう簡単に良い切れはしないと思いますが、だけど回天は潜望鏡を出したまま敵艦を追いかけるのではない訳でね。潜望鏡を出しても高速で走れば波のしぶきで全く見えない。だから敵艦に当てるのは相当な熟練と技術が必要とされる。だが、特攻隊の戦闘機と同じ様に、大部分が訓練が充分でないまま出撃した。(カモメ)攻撃方法は簡単に言えば、敵船の進行方位、速度を把握して、回転の現在位置から、激突する射角(方位角)を割り出し、基本的に一直線に突っ込むのですね。(ウツボ)だから、それはつまり、基本的には潜水艦が魚雷を発射する方法とほぼ同じ訳でね。(カモメ)回天の操縦は複雑で難しいらしかったですね。訓練中に十五名が事故死しています。(ウツボ)「ああ人間魚雷回天」(両文堂)によると、飛行機による特攻を「神風特攻」と呼ばれたのに対して、回天による特攻は「神潮特攻」と呼ばれた。(カモメ)だけど、当時の回天特攻隊員たちは、この名称を嫌がったといいますね。(ウツボ)そうらしいね。ところで、実績はともかく、アメリカ軍は、回天にはたいへん神経を悩ませたことは事実だ。(カモメ)終戦直後の話ですが、マニラに飛んだ日本軍の軍使に対してマッカーサー司令部の参謀長、サザランド中将が、最初に質問した話がありますね。(ウツボ)「回天を搭載した潜水艦が何隻洋上に残っているか」だろう。(カモメ)そうですね。日本側が「約十隻」と答えると、「それはたいへんだ、一刻も早く行動を停止するように厳重な司令を出してくれ」と言った。(ウツボ)「ああ人間魚雷回天」(両文堂)によると昭和20年8月15日正午からの終戦の玉音放送を回天搭乗員達は聞かされなかった。(カモメ)そうらしいですね。そのことから混乱と不信が始った。なぜ聞かせなかったか、その理由を基地幹部たちは戦後も口を閉ざして語らなかった。(ウツボ)指揮官であった、板倉光馬少佐はその著書で「八月十五日声涙ともにくだる玉音を耳にしたとき」と記している。(カモメ)放送を知っていながら搭乗員には聞かせずに自分は聞いていたことになる。(ウツボ)だが、搭乗員は翌16日に終戦を知った。そして呉鎮守府司令長官・金沢正夫中将が大津島に飛来し「天皇の御言葉により回天隊を解散する」と告げ、全ては決したという。(カモメ)大津島の回天基地の士官室の階段の踊り場に掲げられていた回天隊のシンボルの額が十文字に切り裂かれていたという話があります。(ウツボ)そう。もう一つある。士官食堂の前の涼み台にぶらさがっていたヘチマが、ものの見事に、袈裟懸けにバッサリ切られていたというんだね。(カモメ)回天搭乗員の誰かが海軍刀で切ったのでしょうね。(ウツボ)誰がやったとは記されていないから、それは分からないけれども、回天搭乗員達が終戦を知って、それまで抑圧されていた心境が開放されたということはあるだろうね。(カモメ)基地の上官の誰かを頭に描いてヘチマをバッサリやったとか。(ウツボ)それは穏やかな話ではないね。だけど当時穏やかになれというのは無理な話であったでしょうね。しかし、カモメさんの言うように上官を頭に描いてやったかどうか。(カモメ)とにかく気持ちが爆発して、バッサリやったと。(ウツボ)そうですね。張り詰めていた気持ちが一挙に崩壊して、過去に自分達の置かれた状況に対する不満、戦争に負けたくやしさ、などが噴出したのではないかと思います。想像の話ですから、分かりませんけどね。(カモメ)回天戦では海兵出身も頑張ったけど、学徒出陣の予備学生の若者もよく頑張りましたね。(ウツボ)いつも第一線で活躍したり、犠牲になるのは、若い人たちだね。現在の企業でも同じではないかと思いますが。 (「人間魚雷回天」は今回で終りです。次回からは「硫黄島玉砕」が始ります)
2007.03.02
(ウツボ)「ああ人間魚雷回天」(両文堂)によると、戦後「イ36」潜水艦の艦長、菅昌徹昭氏が、元回天搭乗員の園田一郎氏、横田寛氏と共に会食したことがあった。(カモメ)二人はイ36潜で何度も出撃しながらも発進の機会を得ずに生き残ったということですね。出撃して、発進せずに帰るときは、つらいらしいですね。(ウツボ)皆そう言っているね。それで、その三人で会食したとき、元艦長の菅昌氏は「君たち二人が艇の故障で発進できないと分かった時、皆を死なせたくなかったから、ほっとした。艦長の責務で仕方がないが、発進命令を出す時ほど辛い事はなかった」と語ったというんだ。(カモメ)回天を出す潜水艦長としてのつらさですね。(ウツボ)そういうことだね。出すほうも辛い。ある潜水艦長の話があるんだ。阿部牧郎の書いた「キャプテン源兵衛の明日」(文芸春秋社)のモデル、川口源兵衛・潜水艦長の話だ。(カモメ)川口源兵衛氏は実在の人物で、平成6年夏に死去していますね。(ウツボ)そうだね。その川口艦長が指揮したイ44潜水艦は昭和20年2月、千早隊として回天4基を搭載して硫黄島方面の敵艦隊襲撃に向かった。(カモメ)イ44潜は硫黄島への出撃ですごい爆雷攻撃を受けましたね。(ウツボ)それはすごかったらしい。敵駆逐艦による攻撃で47時間にわたって深度80メートル(回天の耐圧深度は80メートル)で爆雷攻撃をかわしたというんだ。(カモメ)さらに島の北側から接近しようとしましたが、敵哨戒機に制圧され、回天発射が不可能な状況の連続だったと記されていましたね。(ウツボ)そう。司令部からは「再度回天で奇襲すべし」との命令を受けたが、川口艦長は回天による攻撃は不可能と判断し呉基地に向けて帰途についた訳だ。(カモメ)そのことで川口艦長は責任を問われ、命令違反を追及されたということですね。(ウツボ)そう。それで呉基地では第六艦隊長官、参謀長、参謀ら十数名が出席し、査問会が開かれた。そこで厳しく追及された川口艦長は「人間の生命をただの資源として消耗するのは許されない。艦長として百名の乗組員の生命と艦を守り、たとえ死ぬにしても意義の有る死とするのが艦長の責務である」と主張した。(カモメ)結局、川口艦長は潜水艦から退艦を命じられ、イ44は新しい艦長が着任しましたね。(ウツボ)だがその新艦長が指揮したイ44は次の作戦で4月3日、沖縄方面で回天を積んだまま消息を絶った。(カモメ)これは、どう解釈したらいいのか。(ウツボ)戦争の現実は解釈するのが難しいですね。倫理的な意味づけなんてできはしない。そもそも善悪を超越したところで戦って殺し合いをしているのだから。(カモメ)「ああ人間魚雷回天」(両文堂)の著者、武田五郎氏は、回天戦の結果多くの潜水艦がその目的を達することなく、ほとんどが海底の藻屑と消えてしまったことは、誰が考えても不可解な事であったと述べています。(ウツボ)武田氏は「回天作戦を展開した海軍司令、参謀の責任は大である」と記しているね。だけどね、俺は回天作戦がうまくいかなかったのは、当時の海軍の科学技術の遅れと、このような作戦を展開せざるを得なかった末期的戦況ということだろう。分かっているけど止められなかった。日本海軍の限界に近づいていていたんだね。(カモメ)さらに、武田氏は戦後、潜水艦長の経験を記し出版をしている、あの板倉光馬氏を名指しで批判していますね。(ウツボ)板倉光馬氏は潜水艦長として戦った体験を出版し有名になった人だがね。「どん亀艦長青春期」や「あゝ伊号潜水艦」は代表作ですね。(カモメ)ですけど、潜水艦長の出身であり、回天の性能も知り尽くしていた回天指揮官であった板倉少佐の責任は重大であると、武田氏は述べていますね。(ウツボ)それはつまり、鬼が島である大津島での指導方針でしょうか。(カモメ)それもありますね。だけど、武田氏が指摘しているのは、結果については百も承知で、回天の当初の目的であった泊地攻撃から、洋上攻撃へと切り替えた事ですね。(ウツボ)洋上攻撃の方が難しいからね。(カモメ)それはもう、相手が動いて警戒態勢に入っているわけですから。つまり、無理の上に無理を重ねて無謀な作戦を展開したことを批判しているわけですね。(ウツボ)だけど、無理の上に無理を重ねざるを得なかったし、無謀な作戦でない作戦ももうなかった。戦争末期の当時はね。(カモメ)くやしかったでしょうね。(ウツボ)それはそうだろうね。男たるものけんかに負けたらくやしいからね。大体、特攻機のパイロットだって、まともに戦ったら勝ち目はないから、それがくやしいから体当たりする。そういう心境もあっただろうからね。(カモメ)それで思い出したけど、渚さんが言ってましたよ「くやしいから第二次世界大戦で日本が勝ったという小説を書いてやります。サイパン、硫黄島までは史実の通りにして、沖縄で逆転です。第二艦隊の大和も沈ませないで、大和と特攻機で、沖縄作戦中の米軍を全滅させてやります。菊水作戦で日本は大勝利です。南方も取り返し、石油も取り返し、それからミッドウェイ、ハワイを占領して、100万人で米国西海岸に上陸します」とね。(ウツボ)それは少し無理があるんじゃないかね。せめてガダルカナル位で逆転しないと。それにアメリカには原爆があるしね。(カモメ)それを言ったら「アメリカの原爆製造工場で、事故で原爆を爆発させ、アメリカを最初の被爆国にしたらいいでしょう」と言いました。(ウツボ)やれやれ、小説とはいえ、思うがままだね。(カモメ)本当に。
2007.02.23
(ウツボ) 「愛と死の768時間」(青春出版社)によると、和田少尉は回天の中で酸欠で死ぬまで、一行の遺書も残していないんだ。(カモメ)不思議ですね。確かに酸欠までに充分時間があるのだから、発見されて助かるかもしれないが、死の可能性も時間と共に大きくなってくるわけだから、俺だったら、何らかのメッセージを家族や友人に残したいと思いますけどね。(ウツボ)本当にそうだね。そのことについて和田少尉の妹、若菜さんは「私はあの沈黙の意味を、ここ何十年も考え続けてきました、が、わからない。海底に突っ込んで、それが故障と分かった時、もう何もかも面倒になってしまったのかもしれない」と記しているんだね。(カモメ)若菜さんは「言葉では言い表せない、そういうものだけが彼の中にあったのかもしれない」とも述べていますね。(ウツボ)次第に酸素が薄まりつつある中で、彼は三日分の糧食をすべて食べつくしていたというんだね。(カモメ)食べるだけ食べてしまおうと思ったのですね。和田少尉は発見されたとき、あぐらをかき、眠るように、死んでいたということです。(ウツボ)死の恐怖感はあっただろうが、それを克服したか、超越したか、そのように感じられるよ。ところで、ここらで回天特攻作戦の全体的な流れを述べておこうよ。(カモメ)はい。そうですね。じゃあ、俺が出撃年月日、出撃隊名、潜水艦数、発進基地の順に述べていきます。昭和19年11月8日(菊水隊・3隻・大津島)、昭和19年12月21日(金剛隊・6隻・大津島)、昭和20年2月20日(千早隊・3隻・大津島・光)、昭和20年3月1日(神武隊・2隻・大津島・光)、昭和20年3月29日(多々良隊・4隻・大津島・光)、昭和20年4月30日(天武隊・2隻・光)、昭和20年5月5日(振武隊・1隻・大津島)、昭和20年5月30日(轟隊・4隻・大津島・光)、昭和20年7月24日(多聞隊・6隻・大津島・光・平生)、昭和20年8月16日(神州隊・1隻・平生)。(ウツボ)昭和19年11月8日出撃の菊水隊は西カロリン諸島のウルシー泊地のアメリカ軍艦船を攻撃した。伊47潜からは仁科中尉ら四基の回天が発進した。(カモメ)だが米軍の被害はタンカー「ミシシネワ」一隻でした。珊瑚礁で座礁して、自爆した回天もいました。(ウツボ)動けなくなり、搭乗員は安全装置を解除後、電気信管を発火させ魚雷を爆発させたのだ。回天はこの操作を行う事により自爆できるようになっている。(カモメ)米軍の駆逐艦に体当たりされ真っ二つになった回天もいたということです。(ウツボ)昭和19年12月21日に金剛隊で出撃した伊36潜水艦の寺本巌艦長は高等商船学校卒だが、敵の警戒をくぐりぬけ、1月16日4基の回天を発進させた。(カモメ)4基の回天はウルシー湾に突撃しました。だが戦果は確認できなかったのですね。 (ウツボ)そうのようだね。全般的に回天戦は敵の防護が厳しくなり、思うように成果が出なかった。(カモメ)ちなみに、寺本艦長は昭和20年7月、潜水学校教官として、訓練指導のため伊予灘に出勤中、戦死しました。(ウツボ)グラマン機に掃射され、三発の貫通弾を受けた。(カモメ)同じ金剛隊の伊53では1月12日パラオ諸島のコッソル水道へ向けて回天4基を発進させました。(ウツボ)発進直前、潜水艦の電機長・小家喜久雄少尉が特攻隊員の久住宏中尉ら四人に「みなさん、何か言い残される事はありませんか」と声をかけたんだね。(カモメ)そうですね。すると久住中尉が「もう別にありませんが、鯛の刺身が食いたいですね」と言ったそうです。他の三人も「そうですね。全く同感です」と声を揃えたと記してありますね。(ウツボ)うん、それで、小家少尉は十年間、今日のこの日には必ず鯛の刺身を供養に供えることを回天特攻隊員に約束した。四人はにっこり笑って回天に乗り込んだ。(カモメ)最後の別れが、このようなさりげない会話で締めくくられると、かえって胸が痛みます。(ウツボ)しかもにっこり笑って行ってしまったというんだ。まだ若いのに。(カモメ)俺にはとてもできそうもありませんが。(ウツボ)そうですか。俺はやってみるよ。(カモメ)どういうことですか?(ウツボ)いや、ただ、俺が死ぬ直前には、家族ににっこり笑ってやろうかと。それだけのこと。(カモメ)ああ。でも、それができればたいしたものですよ。
2007.02.16
(ウツボ)父親の和田勤一郎氏(医師)は、20年間、稔氏の日記を大学ノートに写し取り、それを読み返すのが日課になっていたと記してある。(カモメ)その日記は昭和42年7月、筑摩書房から出版されました。(ウツボ)うん。ところで、「ああ人間魚雷回天」(両文堂)で特にとりあげているところがある。(カモメ)和田少尉の日記の20年3月29日の項に「帖佐大尉」とだけ書かれたところですね。(ウツボ)つまり、和田少尉の3月29日の日記には「帖佐大尉」とだけ記してあった。外には何一つ記してなかったんだ。父の勤一郎氏はこの意図が解しかね、日記の出版時にこの名前をはずしたというんだ。(カモメ)ところが、後に、光基地で最後まで和田少尉と苦楽をともにした神津直次氏がそれを解明しました。その手掛かりは同じ搭乗員仲間の岩井忠正氏が西原若菜氏に出した手紙ですね。(ウツボ)そうなんだ。それによると、岩井氏は3月29日命を受けて和田少尉と大津島に来た。二人は高台にあった本部に行き、先任将校の帖佐大尉に来訪の申告をしようとしたが不在だった。(カモメ)二人は大津島に一泊したが、依然として帖佐大尉に会う機会がなかった。(ウツボ)翌30日士官食堂で二人が朝食中に帖佐大尉から突然声がかかり、他の士官多数のいる前で何発か鉄拳をくらい「貴様達は挨拶もしないで泊まった上に、大騒ぎして大きな顔をして飯を食うとは何事だ、バカヤロウ」とまた何発か食らった。(カモメ)「帖佐大尉」とは帖佐裕大尉のことで、海軍兵学校71期。「同期の桜」の作詞者として知られていて、戦後有名になった人ですね。(ウツボ)そうですね。彼がこの歌を作詞したのは昭和16年頃で、まだ海軍兵学校の生徒時代だったとある。(カモメ)帖佐生徒は海軍兵学校の江田島のクラブで、「二輪の桜」というレコードをたまたま聴いたんですね。(ウツボ)そうだね。帖佐生徒は、その歌詞「君とぼくとは二輪の桜、どうせ花なら散らなきゃならぬ、見事散りましょ国のため」を「貴様と俺とは同期の桜、同じ兵学校の庭に咲く、咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ国のため」に置き換えて作詞し、自分で歌っていた。(カモメ)その元となったレコード「二輪の桜」は、キングレコード社が昭和14年7月に発売した流行歌「戦友の歌」で、歌手は樋口静雄です。(ウツボ)それは昭和13年2月号の少女倶楽部に掲載された西條八十の小説『二輪の桜』の主題歌に『麦と兵隊』の大村能章が曲をつけたものだね。(カモメ)そうですね。それを元に帖佐が「同期の桜」を作詞し、その曲で歌っていたのが広まり「同期の桜」と知られるようになった訳ですね。(ウツボ)だが大津島当時の彼は、病的とも思えるギラギラした眼光で、肩まで長い髪を垂らしていたというんだ。(カモメ)和田、岩井の両氏は正に「鬼ヶ島の大津島」を味わったのですね。(ウツボ)確かに申告をすませていないのは事実だから叱られても仕方がないことだった。それで和田少尉は日記にただ「帖佐大尉」とだけ書き残したんだ。(カモメ)「ああ人間魚雷回天」(両文堂)によると元神戸芸術大学教授・立亀長三氏は回天特別攻撃隊光基地で、和田稔少尉と同期だったですね。(ウツボ)和田少尉のことを深く心に刻み、生きた人だ。回天特攻隊当時、その立亀長三氏が和田少尉の日記が書かれた何冊もの大学ノートを見ていく中に、「贈 立亀長三君 赤誠」と書き遺されているのを発見した。(カモメ)彼は「赤誠」と書かれたノートを切り取ってポケットにしのばせ、8月21日の出撃にそなえたが、終戦となり生きのびた。(ウツボ)当初、立亀氏は7月末の出撃予定だった。だが体調をくずし、伝染病の恐れがあったため、一度出撃して発進の機会を得ずに帰還していた和田少尉が先に行く事になったんだ。(カモメ)その出撃のための、潜水艦発射訓練が7月25日に行われたんですね。ところが、その訓練で和田少尉は行方不明になり殉職したのですね。(ウツボ)だから立亀氏は「俺が出撃していたら和田君は死ななくて済んだ」と痛烈に思った。そしてその思いを背負って戦後を生きることになった。(カモメ)立亀氏は和田少尉の「赤いまごころ」毎日着ようと心に決め自ら裁断して赤い下着を縫い上げ、それ以来下着は常に赤色であったそうです。(ウツボ)そう。そのため他人から「けったいな奴」「狂っている」と嘲笑されたが、戦後ずっと赤い下着を着続けている。)「ああ人間魚雷回天」(両文堂)の著者、武田氏が立亀しからもらった名刺の紙も赤色であったそうだ。
2007.02.09
(カモメ)板倉光馬少佐は搭乗員全員を士官室に集め、大声で「ここにいる者は総員一ヵ月後に敵艦隊めがけて突入する」と宣言したんですね。(ウツボ)そう。全員粛然としてこれを聞いたと書いてあるね。一人一人の人生はあと30日間で断ち切られる訳で、生命の終末に向かってカウントダウンだ。(カモメ)戦後生き延びた隊員もこの日のことは脳裏から離れていないという。これがまさに大津島の「鬼が島」たる所以ですね。(ウツボ)うん。板倉光馬少佐も責任感の強い人だから、戦局の挽回を期してそういう発言になったたのだろうが、それを聞いた大学出の回天特攻隊員たちは衝撃を受けた訳だ。(カモメ)次に黒木大尉と共に回天採用に走り回った仁科関夫中尉と光基地で回天訓練中に殉職した和田稔少尉についてふれておきましょう。(ウツボ)黒木大尉と共に回天採用に走り回った仁科関夫中尉は海軍兵学校71期。昭和19年11月菊水隊(伊47潜)として大津島を出撃、11月20日回天に登場して発進、ウルシー泊地のアメリカ軍艦船を攻撃、戦死した。(カモメ)「回天特攻」(光人社)によると、仁科中尉は黒木のように平泉門下生ではなく、淡々とした男だったということです。(ウツボ)本当にそうだね。特攻に出撃する直前、実家に帰った時も、仁科の母親の手記「最後の帰省」によると父親(師範学校の校長)が出かけていたので、風呂に入り母親といつものように食事をした。(カモメ)そこのところは、食事が進まないので「今日はなぜ少ししか食べないの」と聞くと「おかずがたくさんあるのでね。それにぼくも大分大きくなったんだから、そう何時までも大食いじゃないんだよ」と笑いながら言ったとありますね。(ウツボ)親子の会話だね。海軍軍人といっても、家に帰れば親子だからね。帰るとき母親が駅まで送ろうかと言うと「門前でいいよ」といい、母がつくった握り飯を風呂敷に包んで、手にぶら下げ、ゆったりとした足取りで去って行った。(カモメ)どこからどこへ行くとも言わないで行ってしまったというんですね。(ウツボ)もうこのときは死は決意していたからね。これが母親との最後の別れであった。俺は仁科中尉はひょうひょうとしているが、精神的に鍛錬されていた人だったと思えるんだ。(カモメ)その仁科中尉(戦死後少佐)は、先頭を切って黒木大尉の遺影を胸に抱いて出撃、戦死しました。(ウツボ)21歳だった。なんとも言いようがないよ。(カモメ)もう一人触れなければならないですね。「ああ人間魚雷回天」(両文堂)によると平成7年角川文庫から和田稔著「わだつみのこえ消えることなく」の改訂初版本が出版されましたね。(ウツボ)そう。この本は昭和20年7月25日、光基地で回天訓練中に殉職した和田稔少尉(殉職後中尉)の日記をもとに構成されている。(カモメ)。「ああ人間魚雷回天」(両文堂)の著者、武田五郎氏は和田少尉(東京帝国大学出身)と机を並べて訓練に励んでいたということです。(ウツボ)武田氏の本によると、和田少尉は過酷な訓練中でも毎日克明に日記を綴っていたという。疲労困憊の和田少尉が居眠りをして椅子から転げ落ちるのを見た事もあるという。(カモメ)ところで、和田少尉は事故当日7月25日の朝、なぜそうしたか謎として、写真、日記、その他の私物をトランクに入れて、ただでさえ狭い回天内に持ち込んでいたんですね。(ウツボ)何か思いがあったのだろう。和田少尉にしか分からないけどね。和田少尉の回天は訓練中行方不明になり、懸命の捜索にもかかわらず、航跡を絶った回天は発見されなかった。そのまま8月15日の終戦を迎えた。(カモメ)その年の9月、日本を枕崎台風が襲った。光基地から15キロ離れた長島の高瀬の浜に一基の回天が台風の大波で打ち上げられたのですね。(ウツボ)そうだね。それが和田少尉の回天だった。遺体は収容され、和田少尉の日記は遺族に届いた。その日記が戦後出版された。(カモメ)映画「出口のない海」でも同様の場面がありましたが、この和田中尉の打ち上げられた回天から発想されたのでしょうね。(ウツボ)もちろんそうだろう。
2007.02.02
(ウツボ)大津島の整備長の浜口大尉は兵から特進した士官だが、水雷学校普通科練習生、高等科練習生をともに恩賜で卒業している優秀な人物だった。特に酸素魚雷のエキスパートだった。(カモメ)もう一人、回天を作った側の証言があります。昭和31年に発行された「特集人物往来・日本戦史の告白」(人物往来社)の中で「死の秘密兵器の正体」と題して、元回天整備員の川本友一という人が、寄稿していますね。(ウツボ)俺も読みました。回天の試作機から完成までのいきさつを暴露しているんだね。(カモメ)そうですね。川本氏によると、昭和19年8月に呉の工場に直径が1メートル長さ8メートルくらいの円筒が入ってきた。その筒の前後に日本が世界に誇る九三式魚雷を装着したんですね。(ウツボ)それが人間魚雷の原型となった訳だ。 (カモメ)ええ。それで、川本氏が勤務していた、広島県の大入用地魚雷調製工場に昭和19年5月頃、黒木という士官が度々訪れ出した。(ウツボ)人間魚雷回天を発案した黒木博司大尉だね。(カモメ)そうなんです。その黒木大尉について、川本氏は次のように記しているんです。「黒木という本官の大尉が度々訪れ出した。日露戦争の軍司令官、黒木陸軍大将の御曹司だというので、私達の間に人気が湧いた。ひどく秀才で、新兵器考案のため、艦政本部と魚雷場を、往復していることがわかった」と。(ウツボ)これについて、俺も調べてみたのだが、川本氏の言う黒木陸軍大将が、日露戦争の第一軍司令官・黒木為禎大将だとすると、黒木大尉が「黒木陸軍大将の御曹司」というのは少し信じ難いのだがね。(カモメ)そうですね。日露戦争の黒木大将は天保15年(1844年)の生まれで、大正12年に68歳で死去していますから。<ウツボ)黒木博司大尉(殉職後少佐・海軍機関学校51期)は大正10年9月11日岐阜県益田郡川西村に生まれているので黒木大将が死去する2年前、66歳の時の子供となる。(カモメ)いくらなんでも、それはね。もし黒木大将の子孫であるなら曾孫位ですね。それに黒木大尉の父親は医者ですしね。(ウツボ)そうだよ。そこのところだが、「回天特攻」(光人社)の著者小島密光造氏は海軍兵学校出身で黒木大尉とは交流があった人だ。児島氏によると、黒木大尉の父親は医者で教育者でもあり、吉田松陰の教えを守り、毎年吉田松陰をお祭りするのを行事としていた、と述べている。(カモメ)ところで、黒木大尉は皇国史観の提唱者で東京帝国大学教授平泉澄博士の門下生だったですね。また佐久間艇長を尊敬していたと言われています。(ウツボ)佐久間艇長というのは明治43年4月15日、山口県の岩国沖(新湊沖)で訓練中沈没した第六号潜水艇の、佐久間勉艇長のことだね。(カモメ)そうですね。死ぬまで乗組員14人とともに整然として職務を全うした。佐久間艇長は死ぬまでメモをとり、潜水艇の事故原因、改良点、遺書などを書き残しています。(ウツボ)黒木大尉も回天の事故で殉職した時、同じ様に、回天の事故原因や改良点について書き残した。(カモメ)「ああ人間魚雷回天」(両文堂)の著者、武田五郎氏はまえがきで「私が所属した回天隊は特攻隊ということもあったが、まさに戦争末期の断末魔の軍隊の姿であった」と記しています。<ウツボ)戦争末期の断末魔の軍隊の姿、武田氏の本を読んでみると確かにそういうものが浮かび上がってくる。(カモメ)昭和19年9月6日、黒木、樋口両大尉が訓練中に殉職しましたが、その葬儀の後、指揮官である板倉光馬少佐は回天搭乗員全員を士官室に集めて重大な発表をしました。(ウツボ)それを聞いて回天搭乗員全員、衝撃を受けた。
2007.01.26
(カモメ)もともと日本海軍では、とくに新兵器において、帰還する手段を持たない兵器は採用すべきではないという大原則がありましたね。(ウツボ)そうなんだ。ところが昭和19年1月20日、軍令部参謀、黒島亀人大佐が回天について「ようやく陛下のご裁可を得たので、このようなものを至急設計し、製作に取り掛かってもらいたい。これには必ず脱出装置をつけ、乗員は必ず帰還する事ができます、ということでお許しが出た」と坂本義鑑技術大佐に指示したのだね。それで計画が発動された。(カモメ)そうですね。黒島亀人大佐は山本五十六連合艦隊司令長官の下で、真珠湾作戦、ミッドウエー作戦を立案した人ですね。19年8月1日海軍大臣の決裁があり、回天は正式に兵器として採用されました。(ウツボ)昭和19年9月1日、元々魚雷試験場であった、山口県の大津島(周南市)、に回天訓練基地が海軍で最初に開隊した。(カモメ)具体的には「どんがめ艦長青春期」の著者、板倉光馬海軍少佐が大津島に決定したんですね。(ウツボ)彼はイ41潜水艦艦長から、正式に回天特攻隊の参謀に発令されたのは昭和19年8月だが、その前から、回天基地開隊の準備に関わっていた。(カモメ)「ああ人間魚雷回天」(両文堂)によると、大津島は回天隊発祥の地、メッカであると記されていますね。(ウツボ)そうですね。だが回天搭乗員達は大津島を「鬼が島」と呼んでいた。予備学生出身の搭乗員達は毎日のように鉄拳制裁を受けたからね。(カモメ)さらに回天自身お粗末な兵器で、とても名前の由来のように「戦局の挽回」を期するようなものではなかったと記してありますね。(ウツボ)そうなんだ。第六艦隊参謀長が口癖のように言っていた「潜水艦もろとも死んで来い」のような精神的虐待を受けた特攻隊員の心情から、大津島が「鬼が島」としての位置づけがされたのも頷ける訳だ。(カモメ)大津島の回天隊には、肩まで垂れる長髪で、壮士気取りの大尉が何人かいたそうですね。だが基地幹部はそれも取り締まれなかった。板倉光馬海軍少佐も批判の対象になっていますね。(ウツボ)板倉光馬海軍少佐は潜水艦長として活躍した人だが、回転隊の予備学生からは良く思われていなかった。このことはまた、後でふれることにしよう。(カモメ)とにかく大津島の予備学生出身の回天隊員に対しては鉄拳の嵐が吹きすさんだということですね。(ウツボ)殴られるといっても、一度に二十発、三十発殴られるのは日常茶飯事だった。少尉に任官しても殴られっぱなしであったらしい。海軍少尉の誇りも吹っ飛んだ。そのあげく、彼らを爆弾つきの鉄の棺桶に入れて敵艦に突入させたのだから、大津島はまさに「鬼が島」ということだったのだろう。(カモメ)予備学生出身の士官は学徒出身としてグループで行動したために学生気分が抜けず、それを娑婆気(しゃばっけ)と言われて、ますます修正、鉄拳制裁の対象にされたということです。(ウツボ)このようなことから回天搭乗員の心は荒れすさび、無念の思いで出撃して行った人が多いんだ。死の出撃だから、学生気分でも何でも、好きにさせてやる度量が、大津島の幹部達にはなかったのだろう。海軍兵学校で受けた教育を、そのまま予備学生に押し付けたのだろう。(カモメ)本当に、このような横暴をなすがままにした基地の幹部の責任は重いですね。このような上司が戦後の回天会でメインテーブルの真ん中に座って大きな顔をしていたと言われています。(ウツボ)武田氏によると、回天部隊には敗戦の濃くなった時期でも、ピアノやバイオリンがあり、予備学生仲間には演奏の出来るものがおり、訓練の合間に楽しんだ。また、レコードで音楽を聴いたり、似顔絵をお互い描きあったりしたということだ。それは多少救われる話だね。(カモメ)大津島での訓練開始2日目の、9月6日、黒木博司大尉と樋口孝大尉の乗った回天が訓練中海底に突入、殉職しましたね。(ウツボ)そう。大変なことが起ったんだ。黒木大尉は佐久間艇長と同様に酸素が切れて死ぬまで、回天の改良点を書き残している。(カモメ)原因は樋口孝大尉の操縦ミスでしたね。「人間魚雷」(毎日新聞社)によると、大津島の整備長の浜口米市大尉は「もし、一基でも、整備不良が原因で、人命にかかわるような事故をおこしたときは、即座に自決しておわびする覚悟だった」と終戦の時告白しています。(ウツボ)記録では着任以来千二百回を越える訓練で、整備不良に基づく大きな事故は一件もなかったとされているんだ。
2007.01.19
(ウツボ)歴史群像36「海龍と回天」(学習研究社)によると、現在、日本には「回天一型改」が靖国神社に、「回天十型」が京都の湯豆腐「嵯峨野」に展示してある。山口県の大津島と平生には「回天一型」のレプリカが展示してありますね。(カモメ)海外にもありますね。米国にはシアトルの対岸キーボードにある海軍潜水艦博物館に「回天一型改」が、ミュージャージー州ハッケンサック市の海軍博物館に「回天四型」、ハワイ真珠湾のボウフィン潜水艦博物館付設公園に「回天四型」がそれぞれ展示してあります。(ウツボ)ところで実戦に参加した回天一型改は搭乗員一名、直径1メートル、全長14.5メートル、全重量8.3トンとなっている。(カモメ)頭部に1.55トンの炸薬をつけ、航続距離は最高速力30ノットで23キロ、20ノットで43キロ、10ノットで78キロですね。(ウツボ)つまり全速30ノットで航走すれば約25分で燃料は尽きる訳だ。胴体には長さ約1メートルの浮上観測用の潜望鏡を備えている。機関は93式酸素魚雷だね。(カモメ)そうですね。その燃料は酸素および灯油ですね。回天内での呼吸可能安全限度は一人で約十時間といわれています。(ウツボ)「ああ人間魚雷回天」(両文堂)によると、昭和19年10月、横須賀の航海学校で訓練を受けていた著者の武田五郎氏たちは武道館に全員集合され「戦局の重大性に鑑み、今回特殊兵器の搭乗員を募集したい」との説明があった。武田氏らは志願した。(カモメ)武田氏は早稲田大学(政経)を卒業し昭和18年学徒出陣で海軍に入り19年10月、回天の搭乗員になっっています。12月少尉に任官し、光、大津島の回天基地で訓練中、終戦を迎え、復員しています。(ウツボ)武田氏は戦後は大洋漁業常務取締役、大洋球団〈ホェールズ)社長、大洋商船社長などを歴任しているね。(カモメ)そうですね。戦後、海洋国日本を作り上げた一人ですね。話はもとに戻りますが、昭和19年11月、武田氏らは部隊に着任して特殊兵器が実は回天であることを知り、その回天の実物を見たとき、「これが俺たちの棺桶か」と思い、頭の中が真っ白になった。(ウツボ)予備学生出身の園田一郎氏も、はじめて回天に接した時の感想を「巡検後の暗闇の中で、タバコ盆を囲んで、誰も言葉にならなかった」と語っている。(カモメ)仕組みを知り、唖然としたのでしょうね。ところで回天搭乗員の出身と人数は海軍兵学校89人、海軍機関学校32人、予備学生210人、一般兵科9人、甲種予科練935人、乙種予科練100人となっています。(ウツボ)そうだね、合計1375人となっており、そのうち戦死・殉職は106人。殉職の事故死は15人くらいと言われているので実際に戦死は90人くらいだね。(カモメ)その中には発進、出撃せずに、潜水艦もろとも撃沈された人もかなりいますね。橋口大尉など自決者2人もいます。実際に作戦に投入された回天は244基と記録されていますね。(ウツボ)もともと「回天」と命名した発案者は人間魚雷を研究・開発、採用を上申した黒木博司中尉(海軍機関学校51期)と言われているね。(カモメ)そうです。黒木博司中尉ともう一人、仁科関夫少尉(海軍兵学校71期)も回天の採用に奔走したと記されていますね。(ウツボ)この時は黒木はまだ中尉でしたか。(カモメ)そうですね。発案時の二人の階級は中尉と少尉ですね。二人が大尉と中尉に進級したのは昭和19年3月です。(ウツボ)「人間魚雷」(毎日新聞社)によると、黒木中尉は昭和18年の暮れから正月にかけて上京した。軍令部作戦室で、嶋田繁太郎軍令部総長をはじめ作戦指導部の高級将校の前で、22歳の若い中尉は堂々と人間魚雷の採用を懇願し続けたとあるね。(カモメ)熱情にあふれていたのでしょうね。だが作戦指導者の間で、救命装置をどう付けるかが問題になったのですね。その時黒木中尉は「生命を捧げているのだから、救命装置など考えずに、できるだけ攻撃威力を発揮するよう工夫してもらいたい」と明言したと言われています。(ウツボ)普通は当事者として、そのような事は言わないよね。もう戦況は、そこまで彼らの精神を追い込んでいたのだろう。
2007.01.12
(ウツボ)前回でもふれましたが、先日、平生町の阿多田交流館に行ってきたけど、これは別名、回天記念館で多数の回天関係の資料や遺品が展示してあるね。(カモメ)そうですね。本当に。この阿多田には海軍の人間魚雷回天の基地がありましたね。(ウツボ)もともとこの平生基地は、昭和19年4月1日、大竹潜水学校平生分校が開校している。昭和20年3月から回天だけでなく、水中特別攻撃隊、特殊潜航艇の蛟龍、海龍の訓練基地となった訳だ。(カモメ)平生基地の回天特別攻撃隊の隊長、橋口實海軍大尉は、昭和20年8月18日午前3時頃、出撃予定の回天の中で、第二種軍装に身を正して拳銃で自決しましたね。(ウツボ)橋口大尉は鹿児島県出身で海軍兵学校を卒業しているね。(カモメ)平生基地からは回天特攻隊員6名が出撃し、4名が戦死、2名が生還していますが、そのとき、出撃から生還した2名に対し、青酸カリを返せと基地の幹部が言ったところ、2名は、青酸カリを持っていなかったので、問題になったと言われていますね。(ウツボ)そもそも昭和20年3月までは、回天特別攻撃隊の出撃隊員には自決用の短刀と拳銃を渡していたんだ。その自決用の短刀「護国」は2本、平生の記念館に展示してある。(カモメ)それは俺も見ましたよ。自決用の短刀は、見るだけで心が重くなります。(ウツボ)ところが6月に出撃した「轟隊」からは短刀は渡されるが、拳銃の代わりに青酸カリを渡すように切り替えられた。(カモメ)そうですね。ところで、基地の軍医長が橋口隊長に、出撃する6人分の青酸カリを渡したが、橋口隊長は搭乗員6名には青酸カリを渡さなかったと聞きましたが。(ウツボ)いや、だけど、それは分からない。俺はそのことの、裏をとっていないのでね。よく知らないんだ。申し訳ないが。(カモメ)俺も又聞きですから、自信はありませんが。ことの成り行きからすると、そうではないかと。(ウツボ)う~ん、そうかも知れませんが。だけど、そうなら、あなたは、なぜ渡さなかったか、その理由をはっきり言えるのかね。(カモメ)理由は、難しいですね、これは。(ウツボ)そうだろう。橋口大尉は隊長として自決した。それは事実だね。橋口大尉は兵学校入学から自決当日の昭和20年8月18日までを綴った「自啓録」を残しているんだ。短歌、檄文、決意などが克明に記されているのだが、俺はそれも読んでいないのでね。橋口大尉についてはよく知らないんだ。知らないことは言えない。(カモメ)これは難しいところなので、次に移りましょうか。平生回天記念館には回天の資料が多く展示してありますが、映画「出口のない海」の撮影で使用された回天一号のレプリカも展示されていますね。(ウツボ)それは記念館の外だね。金属製の原寸大のものだね。それはそれとして、この記念館で、俺の心が、チクッと痛んだことがあるんだ。(カモメ)それは、搭乗員に渡された「護国」ですか。(ウツボ)いや、この記念館には当時の平生基地司令の澤村成二大佐の礼帽、勲章、階級章など遺品もあるが、その中に小柄な短刀が展示してあるんだ。(カモメ)ああ、分かりました。(ウツボ)それは、澤村大佐に万一の事があったとき、夫人に自決するよう渡された短刀だというんだ。そこでチクリときたんだ。(カモメ)はい。当時の戦争の現実の厳しさを象徴していますね、本当に、その短刀は。(ウツボ)そうなんだ、戦争の現実の厳しさ。そして短刀もそれぞれ重い意味を持って人間にのしかかってくる。(カモメ)ところで、平生基地から7月18日、回天特別攻撃隊の6人を乗せて出撃した潜水艦は伊58ですね。(ウツボ)そうだね。艦長は橋本以行中佐ですね。「伊58潜帰投せり」の著者だ。(カモメ)米国重巡洋艦「インディアナポリス」を撃沈した潜水艦ですね。昭和20年7月29日午後11時半頃魚雷6本を発射し、3本が命中、7月30日に日が変わって「インディアナポリス」は沈没した。(ウツボ)「インディアナポリス」は広島、長崎に落とされた原爆をテニアン島に運んだ帰りだった。(カモメ)ここらで、元に戻って、もう少し回天の基本的なことにふれていきましょう。回天は四種類作られました。最初に「回天一型」が作られたが、11項目を改良して「回天一型改」の量産に移ったのですね。(ウツボ)そうだね。このほかに、「回天二型」、「回天三型」「回天四型」「回天十型」などが計画、または作られた。(カモメ)だけど実際に作戦に参加したのは「回天一型」と「回天一型改」で、両方で約420基作られたと聞いています。(ウツボ)はい。そうですね。
2007.01.05
(カモメ)広島の江田島が海軍のメッカなら、我々のいる山口県の瀬戸内海沿岸は、人間魚雷回天のメッカと呼んで差し支えないでしょうね。(ウツボ)そのとおりだと俺も思うね。我々の住んでいる山口県柳井市の南隣の平生町、西隣の光市、さらに西方の周南市の三箇所にそれぞれ回天の基地があった訳ですから、特に大津島は初めて回天基地ができた所だから、回天のメッカという表現は当てはまるだろうね。(カモメ)このほかに、大分県の日出町に大神基地がありましたね。(ウツボ)そうそう。ところで、先日、平生町の阿多田交流館に行ってきましたが、これは人間魚雷回天記念館と称しても差し支えないほど、資料が結構展示してあるね。(カモメ)私も入ったことがありますが、周南市の大津島の回天記念館も有名ですが、平生の交流館も回天の資料館と言っていいですね。(ウツボ)うん。だけど、そこに一度入ったら直ぐに立ち去れないものがある。展示物の一つ一つを簡単に通り過ぎられないね。(カモメ)ええ。今回から「人間魚雷回天」に移るわけですが、決死の特攻隊である人間魚雷は日本の帝国海軍の専売特許ではありませんね。(ウツボ)日本の回天よりもっと以前にすでに人間魚雷はイタリアやイギリス等でもでも開発されている。(カモメ)その事に最初に触れて、そのあと「回天」をやりましょう。「海龍と回天」(学習研究社)によると、人間魚雷が最初に出現したのはイタリアですね。(ウツボ)そう、イタリアで開発された。すでに第一次世界大戦でミグナッタ型人間魚雷が実戦に参加し、オーストリア戦艦「フィリプス・ユニティス」を撃沈している。また人間魚雷は第二次大戦でも活躍している。(カモメ)第二次大戦で使用されたイタリアの人間魚雷SLCは「ピグ」と呼ばれていました。SLCは低速魚雷の意味です。SLC「ピグ」は1935年10月、イタリア海軍の二人の士官が海軍司令部に進言した事により開発が開始され、三ヵ月後には試験艦が完成している。(ウツボ)日本の回天も、二人の青年士官の進言で開発に移った。どこの国でも若い人の発想が出る。現場から出るものだね。(カモメ)1941年3月にこのSLCの第1軽艇隊と第10軽艇隊が第一線に配備されました。1941年10月、アレクサンドリア港でイギリス戦艦「クイーンエリザベス」と「ヴァリアント」を撃破しています。またタンカー「サガノ」にも被害を与えています。(ウツボ)ジブラルタル港内にいるイタリア商船「オルテラ」を母船基地としてSLCは、敵商船を攻撃して多くの戦果をあげ、第二次大戦中で最も活躍した小型潜水艇の一つになっている。(カモメ)SLCは魚雷を基に開発された小型潜水艇で、胴体は弾頭部分に250か300キロの機雷一発が装備されています。機雷の時限式信管は爆発の時間を最大二時間半後まで設定できたということです。(ウツボ)このあたりが、日本の回天とちがうところだね。二時間半あれば搭乗員は、安全に退避する事が出来る。(カモメ)そうですね。決死ではあるが、必死ではないわけです。相手艦のビルジキール直下までSLCを進めて行き弾頭部分を同乗の作業員(フロッグマン)が機雷を相手の船体に固着させる。作業が終了するとフロッグマンが操縦員に合図をおくると、弾頭部分の機雷がSLCから切り離されるという仕組みです。(ウツボ)このSLCを運ぶ潜水艦はSLCを格納する耐圧格納筒を四基装備していたらしいね。(カモメ)そうです。SLCは全長7.3メートル、全幅0.5メートル、推進機関は発動機で1・1馬力。航続距離は15ノーティカルマイル。1海里(ノーティカルマイル)は1852メートルだから約28キロメートルですね。(ウツボ)SLCで攻撃されたイギリスは、1942年、チャーチル首相により捕獲したSLCを基に同じ様なものを造る命令が出された。1942年6月には最初の試作艇が完成した。(カモメ)それはチャリオットと呼ばれイタリアのSLCとほぼ同じですね。チャリオットは北洋の冷たい海の中ではフロッグマンが体温を奪われるため、地中海、インド洋で1943年から1944年にかけて作戦に使用され、かなりの攻撃の成果を挙げています。
2006.12.29
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