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【林喜重(はやし・よししげ)少佐■戦死・5機】(カモメ)大正九年七月十七日生まれ。神奈川県鎌倉市出身。昭和十六年三月、海軍兵学校六九期卒業。十一月、少尉。第三七期飛行学生。昭和十七年八月、大分航空隊、戦闘機専修。昭和十八年一月、中尉。二月、戦闘機教程修了。(ウツボ)昭和十八年、第二五一航空隊配属。六月七日、<ベルP-39「エアラコブラ」単発戦闘機>を一機初撃墜。九月、二五三航空隊分隊長。十一月、厚木航空隊配属。(カモメ)昭和十九年三月、大尉、第三六一航空隊戦闘第四〇七飛行隊長。七月、戦闘四〇七飛行隊は第二二一航空隊に転属。十月、フィリピン進出。(ウツボ)昭和十九年十二月、戦闘四〇七飛行隊は第三四三航空隊(剣部隊)に転属。昭和二十年一月末、松山に転属。装備機は<川西・紫電改・局地戦闘機>。(カモメ)林喜重大尉は、部下から、「部下思いで、腕もいい、度胸もいい。この隊長との為ならと思える兄貴のような人」と慕われていました。(ウツボ)昭和二十年四月二十日、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型戦略爆撃機>の撃墜法について、戦闘四〇七飛行隊長・林喜重大尉(海兵六九期)と戦闘第三〇一飛行隊長・菅野直大尉(海兵七〇期)が激論になった。(カモメ)その結果、林喜重大尉が「明日、撃墜できなかったら、俺はもう帰って来ない」と宣言したのです。菅野直大尉は「そこまでする必要はないでしょう。運が悪くて墜ちない時は仕方がないじゃないですか。また次の機会にやればいいでしょう」と言いました。(ウツボ)だが、林喜重大尉は「いや、君はそれで気が済むかもしれないが、俺は我慢できない。一機も墜とせなければ帰って来ない」と断言した。(カモメ)第三四三航空隊飛行長・志賀淑雄少佐(海兵六二期)や第三四三航空隊司令・源田実大佐(海兵五二期)も「あまり考えすぎるな」と諭しました。(ウツボ)翌四月二十一日、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型戦略爆撃機>が来襲した。林喜重大尉は出撃搭乗員から外されたが、林喜重大尉は自分で出撃表に名前を書き加えて<川西・紫電改・局地戦闘機>で出撃した。(カモメ)林喜重大尉は清水俊信一等飛行兵曹と協同で<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型戦略爆撃機>を一機撃墜しました。だが二人とも戦死したのですね。(ウツボ)そうだね。林喜重大尉は増槽が落下しなかったが、そのまま攻撃した。だが、愛機も垂直尾翼とエンジンに被弾した。(カモメ)愛機を巧みに操りながら、林喜重大尉は、鹿児島県阿久根市折口浜の海岸に不時着水を行いましたが、干潮時で砂浜に胴体着陸を行ったのです。(ウツボ)その時、落下しなかった増槽が砂にのめり込み、機体は急制動がかかり、林喜重大尉は計器盤で頭を強打、頭蓋底骨折で戦死した。享年二十四歳。少佐に進級。戦死地点には石碑が建立されている。撃墜数は五機とされている。【横山保(よこやま・たもつ)中佐・5機】(カモメ)明治四十二年八月十一日生まれ。神奈川県横須賀市出身。昭和六年十一月、海軍兵学校五九期卒。(ウツボ)昭和九年十一月、第二六期飛行学生。昭和十年七月、霞ケ浦航空隊飛行学生終了、戦闘機搭乗員。中尉。飯山航空隊、佐伯航空隊配属。(カモメ)昭和十二年二月、大村航空隊分隊長。七月、支那事変勃発に伴い、第一三航空隊分隊長。九月十九日、南京第一次空襲に第一大隊の第三中隊長として、<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で出撃、敵機と初空戦を行い、一機を撃墜(不確実)。(ウツボ)その後、木更津航空隊、空母「蒼龍」(二〇二九五トン)戦闘機隊分隊長。大尉。大村航空隊分隊長。(カモメ)昭和十五年六月、横須賀航空隊配属。七月、第一二航空隊分隊長。第一航空隊、第三航空隊、大村航空隊、第二〇四航空隊飛行隊長。(ウツボ)昭和十八年五月、第一一航空艦隊参謀。九月、第二六航空戦隊参謀。昭和十九年三月、横須賀航空隊配属。六月、筑波航空隊飛行長。(カモメ)昭和二十年五月、第二〇三航空隊飛行長。八月十五日、築城基地で終戦。中佐。撃墜機数は五機とされています。(ウツボ)昭和二十九年、航空自衛隊発足と同時に入隊。航空自衛隊幹部学校教育部長、第一航空団副司令、中部航空方面隊司令部幕僚長、空幕総務課長、第七航空団司令(空将補)。昭和三十九年、航空自衛隊退官。(カモメ)昭和五十六年三月死去。享年七十歳。著書は、「あゝ零戦一代」(光人社・昭和四十四年一月)があります。(海軍撃墜王列伝は終わりです) ■■■ブログ休止のお知らせ■■■ 諸事情により、当ブログを休止させて頂きます。読者の皆様には、長年、当ブログをご愛読いただき、ありがとうございました。
2020.05.29
(ウツボ)戦後、鷲淵孝少佐の部下であった山田良市大尉は、鷲淵孝少佐に遺品がないことから、自分の時計を鷲淵孝少佐の遺品として届けた。(カモメ)その時に、鷲淵孝少佐の妹、光子と出会い、後に結婚しました。(ウツボ)山田良市大尉は、「隊長が生きていたら、自分が悪いのをよく知っているから、(結婚を)認めなかったでしょうね」と語っている。(カモメ)ちなみに、山田良市大尉は昭和二十九年十一月、航空自衛隊に入隊、昭和五十四年八月、第十五代航空幕僚長。勲二等瑞宝章。平成二十五年二月二十七日死去。享年八十九歳。正四位。【鈴木實(すずき・みのる)中佐・5機】(ウツボ)明治四十三年四月二十日生まれ。東京市麹町出身。昭和七年十一月、海軍兵学校(六〇期)卒業。昭和九年、第二六期飛行学生(霞ケ浦航空隊)。(カモメ)昭和十年、鈴木實中尉は戦闘機操縦士として館山航空隊配属。昭和十一年、第一航空戦隊の空母「龍驤」(一一七三三トン)乗組み。装備機は<中島・九五式艦上戦闘機・複葉>が主力機。(ウツボ)昭和十二年七月、支那事変勃発、第一航空戦隊は出動し、陸戦協力に従事。(カモメ)八月二十二日、兼子正中尉(海兵六〇期・空母「飛鷹」飛行隊長・少佐・戦死・中佐・撃墜数五機)が指揮する<中島・九五式艦上戦闘機・複葉>四機が宝山(上海市)上空で、<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>一八機のうち六機撃墜しました。(ウツボ)八月二十三日、鈴木實中尉が指揮する<中島・九五式艦上戦闘機・複葉>四機が哨戒中、<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>と<ボーイングP-26「ビーシューター」全金属製戦闘機・単葉>の混成二七機編隊と遭遇、九機を撃墜した。鈴木實中尉は三機を撃墜した。味方機に損害はなかった。(カモメ)この空戦の戦果で、鈴木實中尉は、第三艦隊司令長官・長谷川清中将より個人感状を授与されたのですね。(ウツボ)そうだね。また、支那事変での論功行賞では殊勲甲の特とされ、功四級金鵄勲章を授与された。(カモメ)同時にハンモックナンバーが八〇番台から一〇番台に急上昇し、大尉進級では六〇期の先頭組に入ったのです。(ウツボ)昭和十三年六月、大尉。佐伯航空隊等の分隊長を歴任。昭和十六年四月、第一二航空隊先任分隊長。山西省、運城飛行場に進出。(カモメ)昭和十六年五月二十六日、鈴木實大尉指揮の第二戦闘機隊、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>一一機は中国空軍第五大隊と空戦、五機を撃墜。(ウツボ)また、天水飛行場に駐機していた<ポリカルポフ「I-153」複葉戦闘機>一七機と<ツポレフSB双発軽爆撃機>一機を発見、銃撃で全機を破壊した。(カモメ)この戦功により、鈴木實大尉は、支那方面艦隊司令長官・嶋田繁太郎大将より二度目の個人感状を授与されました。(ウツボ)だが、その後、鈴木實大尉は着陸時の事故で、重傷を負い、首が左に回らなくなった。また、マヒの後遺症も晩年まで残った。(カモメ)昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃時には、鈴木實大尉は入院中だったのです。昭和十七年六月、少佐。(ウツボ)昭和十八年三月、第二〇二航空隊飛行隊長。五月二日、<三菱・G4M・一式陸上攻撃機・双発>二五機と鈴木實少佐指揮の直掩隊<零戦・三菱零式艦上戦闘機>二七機でダーウィン空襲を決行した。(カモメ)その帰路、<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機(イギリス製)>三三機と空戦になり、敵機一三機を撃墜した。味方の損失はありませんでした。(ウツボ)昭和十九年二月から七月にかけて、テニアン、トラック諸島、グアムなど各地を転戦。十月から、館山、茂原、神ノ池、谷田部の各航空隊と転進。(カモメ)昭和二十年二月、第二〇一航空隊副長兼飛行長。八月、中佐進級、終戦。十二月三十一日、台湾から帰国。公認撃墜数は五機とされています。(ウツボ)鈴木實元中佐は、昭和二十二年、キング商事・国内貿易課長。昭和二十三年キングレコード販売課長。その後、営業部長、営業本部長、洋楽本部長、常務取締役等を歴任後、顧問就任。平成十三年十月二十八日死去。享年九十一歳。
2020.05.22
(ウツボ)志賀淑雄大尉は、昭和十七年一月二十日のラバウル攻撃をはじめ、カビエン、ダーウィン、ジャワ攻撃に参加、連戦連勝。(カモメ)昭和十七年四月、空母「隼鷹」(二七五〇〇トン)飛行隊長。六月、ダッチハーバー攻撃に出撃。十月二十六日、南太平洋海戦で、アメリカ海軍の空母「エンタープライズ」と空母「ホーネット」を攻撃、大破させました。十二月、空母「飛鷹」(二七五〇〇トン)飛行隊長。(ウツボ)昭和十八年一月、志賀淑雄少佐は、海軍航空技術廠テストパイロット着任。<川西・紫電改・局地戦闘機>の試験飛行に従事、「役に立つ戦闘機に仕上げた」と高い評価を得た。(カモメ)昭和二十年一月、志賀淑雄少佐は第三四三航空隊(剣部隊)飛行長。<川西・紫電改・局地戦闘機>が集中配備されました。(ウツボ)第五航空艦隊から第三四三航空隊に特攻を下問した際、飛行長・志賀淑雄少佐は特攻には反対し、次のように主張したと言われている。(カモメ)「指揮官として絶対にやっちゃいけない、自分が行かず、お前ら死んで来いというのは命令の域じゃない」。(ウツボ)昭和二十年八月十五日、志賀淑雄少佐は、大村基地で終戦を迎えた。終戦後、第三四三航空隊司令・源田実大佐とともに皇統護持作戦に参加。(カモメ)昭和二十八年、ノーベル工業に入社。昭和三十年同社社長、平成六年同社会長。零戦搭乗員会・第四代会長。(ウツボ)戦後、撃墜機数を尋ねられた志賀淑雄元少佐は、「単独撃墜は六機でございます。あと、共同撃墜はもっと多うございます。ある程度撃っておいて、未だ撃墜記録の無い新参の列機に墜とさせるのでございます」と答えたという。(カモメ)平成十七年十一月二十五日死去。享年九十一歳。【鷲淵孝(おしぶち・たかし)少佐■戦死・6機】(ウツボ)大正八年十月二十二日生まれ。長崎県長崎市出身。父は医師。昭和十二年四月、海軍兵学校入校。昭和十五年八月、海軍兵学校六八期卒業。(カモメ)昭和十六年四月、少尉。五月、第三六期飛行学生。昭和十七年二月、同課程卒業、大村航空隊配属、戦闘機専修。三月、中尉。六月、同教程修了、横須賀航空隊教官。八月、大村航空隊教官。(ウツボ)昭和十八年三月、鷲淵孝中尉は、第二五一航空隊分隊長。五月、ラバウル進出、ソロモン、東ニューギニア航空戦に出撃。九月、第二五三航空隊分隊長。十一月、大尉、厚木航空隊配属。(カモメ)昭和十九年二月、厚木航空隊は第二〇三航空隊と改称。四月、鷲淵孝大尉は、戦闘第三〇四飛行隊長。五月、占守島進出、北千島防空に従事。(ウツボ)十月、鷲淵孝大尉は、台湾沖航空戦に出撃。フィリピン進出、捷号作戦に参加。十一月、セブ島上空の空戦で負傷、内地に帰還。横須賀鎮守府附。別府の海軍病院で療養。(カモメ)昭和二十年一月、鷲淵孝大尉は、第三四三航空隊(剣部隊)戦闘第七〇一飛行隊(維新隊)飛行隊長、先任飛行隊長。(ウツボ)当時の、鷲淵孝大尉は、「学業・技量・人格ともに優れた青年士官の鑑のような人だった」と評されている。(カモメ)昭和二十年七月二十四日、鷲淵孝大尉率いる二一機で、一〇倍以上のアメリカ海軍機動部隊艦載機を、豊後水道上空で迎撃。(ウツボ)鷲淵孝大尉は<川西・紫電改・局地戦闘機>で、敵編隊に三回の攻撃を加えたが、愛機のエンジンに被弾した。(カモメ)初島次郎上等飛行兵曹に付き添われている鷲淵孝大尉機を僚機が確認したのを最後に、未帰還となったのです。戦死認定後、少佐に特別進級。享年二十五歳。撃墜数は六機とされている。
2020.05.15
(カモメ)昭和九年十一月、横須賀航空隊配属。昭和十年二月、英国大使館附武官補佐官。昭和十二年七月、横須賀航空隊分隊長。八月、木更津航空隊分隊長。(ウツボ)昭和十二年十月、第一三航空隊分隊長。支那事変の為上海進出。十二月二日、南郷茂章大尉は<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>六機を指揮して南京攻撃に出撃。(カモメ)迎撃に上がって来たソ連空軍志願隊二〇機と空戦になり、南郷茂章大尉の編隊は<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>を一三機撃墜したのですね。(ウツボ)そうだね。この戦果により、南郷隊は、支那方面艦隊司令長官・及川古志郎中将から感状を授与された。(カモメ)昭和十二年十二月、南郷茂章大尉は空母「蒼龍」(一八八〇〇トン)分隊長。昭和十三年三月、空母「蒼龍」(一八八〇〇トン)飛行隊長。六月、新設の第一五航空隊飛行隊長。(ウツボ)昭和十三年七月十八日六時、松本真実少佐(広島・海兵五二期・大佐)指揮の元、南郷茂章大尉は<中島・九五式艦上戦闘機・複葉>と<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>の五機を指揮して、艦爆一四機、艦攻五機とともに安慶基地を出撃、南昌攻撃に向かった。(カモメ)一時間後、鄱陽湖(中国江西省北部)上空で、日本海軍の編隊は、迎撃に上がって来たソ連空軍志願隊の<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>と<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>、及び中国空軍の<グロスター「グラディエーター」複葉戦闘機(英国製)>と空戦になりました。(ウツボ)南郷茂章大尉は、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>一機を撃墜したが、墜落する<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>と衝突して、湖に墜落、戦死した。(カモメ)戦死した南郷茂章大尉は、享年三十三歳、少佐に特進しました。その死は、海軍次官・山本五十六中将を始め多数の人に惜しまれたのです。国内では「軍神・南郷茂章」として報じられ、有名になりました。撃墜機数は八機となっています。【志賀淑雄(しが・よしお)少佐・6機】(ウツボ)四元淑雄(昭和十五年に志賀に改姓)は大正三年三月二十八日生まれ。東京出身。四元賢助海軍少将の三男。父の賢助は、海軍兵学校教官として、山本五十六元帥、豊田副武大将らを教えており、子息教育も厳格だったという。(カモメ)昭和六年四月、四元淑雄は海軍兵学校入学。同期生に伏見宮博英王がいる。昭和十年十一月、海軍兵学校(六二期)卒業。(ウツボ)昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起きる。海軍砲術学校学生だった四元淑雄候補生は機銃小隊長を命じられ、海軍省の警備に当った。四月、少尉。(カモメ)昭和十一年十二月、第二八期飛行学生、霞ケ浦航空隊。昭和十二年九月、佐伯航空隊、戦闘機専修。(ウツボ)昭和十三年一月、第一三航空隊(南京)配属、日中戦争に参加。二月二十五日、第二中隊長として、四元淑雄中尉は<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で中攻機三五機の護衛任務に初出撃。空戦となり<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>を一機初撃墜した。(カモメ)昭和十三年八月、四元淑雄中尉は横須賀航空隊配属。十二月、空母「赤城」(四一三〇〇トン)乗組。昭和十四年十一月、大分航空隊分隊長。大尉に進級。(ウツボ)昭和十五年九月、四元淑雄大尉は結婚(婿養子)し、四元から志賀に改姓した。(カモメ)昭和十六年四月、志賀淑雄大尉は第一航空艦隊所属の空母「加賀」(三三六九三トン)先任分隊長。(ウツボ)昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃に参加。志賀淑雄大尉は板谷茂少佐指揮の第一次攻撃隊に、空母「加賀」(三三六九三トン)第二制空隊長として出撃。<零戦・三菱零式艦上戦闘機>九機を指揮してオアフ島飛行場に最初の攻撃を行った。(カモメ)その後、志賀淑雄大尉は空母「加賀」(三三六九三トン)戦闘機隊飛行隊長に就任。
2020.05.08
(ウツボ)昭和十九年十一月、白根斐夫少佐は、第三四一航空隊に復帰、戦闘第四〇一飛行隊、戦闘第四〇二飛行隊、戦闘第七〇一飛行隊の三個飛行隊を指揮して、フィリピン航空戦に出撃。(カモメ)昭和十九年十一月二十四日、白根斐夫少佐は、レイテ進攻作戦に出撃、オルモック湾上空で、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>と空戦中に自爆、戦死しました。享年二十八歳。戦死後中佐に特別進級。公認の撃墜数は九機。(ウツボ)日本海軍航空隊で、名戦闘機指揮官はだれか、と問えば、南郷茂章少佐らと共に、白根斐夫中佐の名前が必ず出た。上下に信頼の厚い名指揮官だった。【原田要(はらだ・かなめ)中尉・9機】(カモメ)原田要は大正五年八月十一日生まれ。長野県上水内郡浅川村(現・長野市)出身。昭和八年、志願して海軍横須賀海兵団入団。駆逐艦「潮」(一九八〇トン)乗組。(ウツボ)昭和十年、航空兵器述練習生として横須賀航空隊入隊。空母「鳳翔」(一〇五〇〇ト)乗組。その後、操縦練習生として霞ケ浦航空隊入隊。(カモメ)昭和十二年、第三五期操縦練習生を首席で卒業。原田要三等航空兵曹は佐伯航空隊で延長教育終了後、戦闘機操縦員。第一二航空隊配属。その後、各航空隊教員として配属されました。(ウツボ)昭和十六年九月、空母「蒼龍」(一八八〇〇トン)戦闘機隊配属。十二月八日の真珠湾攻撃では、原田要一等飛行兵曹は機動部隊の上空直衛任務で出撃した。その後、クェーク島の戦い、ダーウィン空襲、セイロン沖海戦に参加した。(カモメ)昭和十七年四月五日、セイロン沖海戦で、コロンボ空襲での空戦の結果、原田要一等飛行兵曹は敵戦闘機五機(うち不確実二機)を単独で撃墜したのですね。(ウツボ)そうだね。さらに、六月五日~七日のミッドウェイ海戦では、原田要一等飛行兵曹は戦闘機小隊長として機動部隊上空直衛任務で出撃、敵機五機(うち協同撃墜三機)を撃墜した。(カモメ)昭和十七年十月十七日、ガダルカナル島ルンガ泊地の敵輸送船団攻撃に、原田要上等飛行兵曹は空母「飛鷹」(二七五〇〇トン)戦闘機隊第三小隊長として出撃、敵戦闘機<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>と交戦、敵機に白煙を吹かせ撃破しましたが、自身も左腕に被弾したのです。(ウツボ)重傷を負った原田要上等飛行兵曹はガダルカナル島の椰子林に不時着、数日間、ジャングルをさ迷い歩いて、日本海軍の特殊潜航艇基地にたどり着いた。(カモメ)同基地で原田要上等飛行兵曹は治療を受けたが傷は悪化し、十一月五日、舟艇に乗せられ、ガダルカナル島を脱出、一週間後にトラック島の第四海軍病院に入院しました。(ウツボ)その後は、空戦に復帰は出来なかった。内地に送還された後、原田要上等飛行兵曹は飛行兵曹長に進級し、霞ケ浦航空隊に教官として配属された。(カモメ)昭和二十年、原田要少尉は、霞ケ浦航空隊千歳派遣隊教官としてロケット戦闘機「秋水」の搭乗員養成に従事。(ウツボ)昭和二十年八月十五日終戦、中尉。原田要中尉の撃墜数は一五機以上だが公認は九機とされている。飛行時間は約八〇〇〇時間。(カモメ)戦後は、長野県長野市で幼稚園を経営。平成二十八年五月三日、多臓器不全のため死去。享年九十九歳。【南郷茂章(なんごう・もちふみ)少佐■戦死・8機】(ウツボ)南郷茂章は、明治三十九年七月一日生まれ。広島県安芸郡江田島村(現・江田島市)出身。父は南郷次郎海軍少将、弟は撃墜王の南郷茂男陸軍中佐(15機)。(カモメ)昭和二年三月、南郷茂章は海軍兵学校五五期卒業。戦艦「長門」(三九一二〇トン)、重巡洋艦「加古」(一〇五〇七トン)等乗組。昭和五年十二月、中尉。(ウツボ)昭和六年十二月、第二二期飛行学生。昭和七年十一月飛行学生終了。昭和八年四月、空母「赤城」(四一三〇〇トン)乗組。昭和八年十一月、大尉。
2020.05.01
(カモメ)昭和二十八年十月、保安庁警備隊入隊(二等警備正)。十二月、初代鹿屋航空隊司令。昭和二十九年八月、一等海佐。昭和三十年七月、訓練飛行隊群司令。十一月、海上自衛隊幹部学校。(ウツボ)昭和三十一年八月、海上幕僚監部防衛部。昭和三十四年七月、徳島航空隊司令。昭和三十六年七月、海将補。九月、第二航空群司令。昭和三十七年七月、自衛艦隊幕僚長。(カモメ)昭和三十九年十二月、第三代航空集団司令官。昭和四十年一月、海将。十二月、自衛艦隊司令官。昭和四十二年七月、海上自衛隊退官。(ウツボ)昭和五十七年四月、勲三等旭日中綬章受章。平成五年三月六日、心不全のため死去。享年八十一歳。正四位。【白根斐夫(しらね・あやお)少佐■戦死・9機】(カモメ)大正五年生まれ。東京出身。昭和十二年三月、海軍兵学校六四期卒業。昭和十三年三月少尉。七月、第三一期飛行学生。(ウツボ)白根斐夫の父は、白根竹介(山口・東京帝国大学法科大学政治学科卒・岐阜県知事・石川県知事・富山県知事・埼玉県知事・静岡県知事・広島県知事・兵庫県知事・内閣書記官長・貴族院議員・戦後・千葉工業大学理事・昭和三十二年三月五日死去・享年七十三歳)。(カモメ)昭和十四年三月、白根斐夫少尉は、第三一期飛行学生終了、戦闘機搭乗員。第一二航空隊配属、中国戦線に参加。六月、白根斐夫少尉は中尉に進級。(ウツボ)昭和十五年八月十九日、白根斐夫中尉は、重慶攻撃に参加。<零戦・三菱零式艦上戦闘機>での初出撃だった。(カモメ)この日の出撃の指揮官は横山保(よこやま・たもつ)大尉(神奈川・海兵五九期・第二六期飛行学生・中尉・飯山航空隊・佐伯航空隊・大村航空隊分隊長・第一三航空隊分隊長・木更津航空隊分隊長・大尉・空母「蒼龍」戦闘機隊分隊長・大村航空隊分隊長・第一二航空隊分隊長・第三航空隊・第二〇四航空隊飛行隊長・第一一航空艦隊参謀・第二六航空戦隊参謀・筑波航空隊飛行長・大分航空隊飛行隊長・少佐・第二〇三航空隊飛行長・終戦時中佐・航空自衛隊入隊・幹部学校教育部長・第一航空団副司令・中部航空方面隊司令部幕僚長・航空幕僚監部総務課長・空将補・第七航空団司令・退官・少佐五十六年三月死去・享年七十二歳)でした。(ウツボ)<零戦・三菱零式艦上戦闘機>一二機で、<三菱・G3M・九六式陸上攻撃機・双発>の爆撃隊を援護する任務だった。だが、この出撃では敵機との遭遇は無かった。(カモメ)九月十三日、進藤三郎大尉を指揮官とする<零戦・三菱零式艦上戦闘機>一三機が出撃しました。白根斐夫中尉は第二中隊六機の指揮官として出撃したのですね。(ウツボ)そうだね。零戦隊は、<三菱・G3M・九六式陸上攻撃機・双発>の爆撃隊を直衛して漢口攻撃に向かった。中国空軍戦闘機二七機と空戦になったが、日本側の大勝利になった。(カモメ)日本の零戦隊は中国空軍戦闘機二十七機を全機撃墜したのです。白根斐夫中尉にとっては、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>での初空戦でしたが、一機も撃墜できなかったのです。(ウツボ)昭和十六年五月、白根斐夫中尉は大尉に進級。昭和十六年十二月八日の太平洋戦争開戦時は、空母「赤城」(四一三〇〇トン)戦闘機隊分隊長。(カモメ)昭和十七年六月、白根斐夫大尉は、空母「瑞鶴」(二九八〇〇トン)乗組。第二次ソロモン開戦、南太平洋海戦に参加。十一月、横須賀航空隊配属。(ウツボ)昭和十八年十一月、白根斐夫大尉は、第三四一航空隊飛行隊長。装備機<川西・紫電・局地戦闘機>。戦闘第三〇四飛行隊長。装備機<零戦・三菱零式艦上戦闘機>。(カモメ)昭和十九年十月、少佐に進級。白根斐夫少佐は、戦闘第七〇一飛行隊長として台湾沖航空戦に出撃。T部隊の直衛に就きました。十月二十四日、総攻撃で多数の戦闘機を失い、稼働機は四機だけとなりました。
2020.04.24
(ウツボ)昭和十八年一月ブイン、ムンダ基地に移駐した。(カモメ)三月六日、ルッセル島攻撃の艦爆隊直掩戦闘機第二中隊長として、樫村寛一飛行兵曹長は<零戦・三菱零式艦上戦闘機>九機を率いて出撃しました。(ウツボ)やがて、前方に敵機<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>一八機編隊が、迎撃に向かってきた。(カモメ)これを認めると、樫村寛一飛行兵曹長は単機、この敵編隊に突入していったのです。(ウツボ)その後を、列機が駆けつけたが、樫村寛一飛行兵曹長を発見できず、樫村寛一飛行兵曹長は行方不明となり、戦死と認定された。享年二十九歳。戦死後少尉に進級した。総撃墜数は一二機が公認されている。【相生高秀(あいお・たかひで)中佐・10機】(カモメ)相生高秀は、明治四十五年一月四日生まれ。広島県出身。昭和六年十一月、海軍兵学校(五七期)卒業。装甲巡洋艦「浅間」(九七〇〇トン)乗組。(ウツボ)昭和九年七月、第二五期飛行学生課程終了。館山航空隊配属、中尉。昭和十年、空母「龍驤」(一〇一五〇トン)戦闘機隊分隊士。佐伯航空隊配属。(カモメ)昭和十二年七月、第一二航空隊配属。八月、第二次上海事変勃発に伴い、公大飛行場に進出。十二月、大尉。本土に帰還し、霞ケ浦航空隊分隊長兼教官。(ウツボ)昭和十三年三月、第一二航空隊分隊長。中国の蕪湖(ぶこ)に進出。装備機は<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>。(カモメ)四月二十九日、相生高秀大尉は漢口攻撃に出撃。空戦となった。初陣だったが、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>を二機撃墜しました。(ウツボ)六月二十六日、相生高秀大尉は三機小隊の小隊長として南昌攻撃に出撃。空戦途中で、相生小隊は主隊から離れて空戦中、敵機二〇機に囲まれた。(カモメ)この敵機二〇機を相手に空戦となり、相生高秀大尉は単独で二機を撃墜、小隊で六機を撃墜して、敵機の追撃を振り切り、安慶飛行場に無事着陸しました。(ウツボ)十二月、空母「赤城」(四一三〇〇トン)戦闘機隊分隊長。(カモメ)昭和十四年十月、相生高秀大尉は第一二航空隊配属。昭和十五年一月、空母「赤城」(四一三〇〇トン)配属。十二月、大分航空隊分隊長兼教官。(ウツボ)昭和十六年、横須賀航空隊分隊長兼テストパイロット。十一月、空母「龍驤」(一〇一五〇トン)戦闘機隊飛行隊長。(カモメ)十二月八日、太平洋戦争開戦。相生高秀大尉は、フィリピン進攻作戦に参加。艦攻隊を直衛しながらダバオを攻撃。(ウツボ)昭和十七年二月、相生高秀大尉は第三航空隊飛行隊長。南方作戦、ガダルカナル島の戦い、ポートダーウィン航空作戦に参加。(カモメ)十一月、少佐。第三航空隊は第二〇二航空隊に改名、相生高秀少佐は第二〇二航空隊飛行隊長に着任。(ウツボ)昭和十八年、大分航空隊飛行隊長。昭和十九年三月大分航空隊は筑波に移転、相生高秀少佐は筑波航空隊飛行隊長に着任。(カモメ)昭和十九年十月、レイテ沖海戦で、相生高秀少佐は空母「瑞鶴」(二九八〇〇トン)配属。(ウツボ)十月二十五日、エンガノ沖海戦で、空母「瑞鶴」(二九八〇〇トン)は沈没、相生高秀少佐は駆逐艦に救助された。(カモメ)昭和二十年四月、相生高秀少佐は第三四三航空隊(剣部隊)副長に着任、搭乗員の錬成に当たりました。(ウツボ)昭和二十年八月十五日、終戦。九月五日、中佐進級。撃墜数は一〇機が公式認定されている。
2020.04.17
【樫村寛一(かしむら・かんいち)少尉■戦死・12機】(ウツボ)大正二年七月五日生まれ。香川県善通寺町出身。昭和八年六月、呉海兵団入団。昭和九年二月、第二四期操縦練習生に採用され、霞ケ浦航空隊に入隊。七月、同課程卒業、戦闘機操縦者になる。大村航空隊、横須賀航空隊、鹿屋航空隊配属。(カモメ)昭和十二年七月七日、支那事変勃発後、十月、第一三航空隊(上海の広大飛行場)配属。(ウツボ)十一月二十二日、南京攻撃に出撃、樫村寛一三等航空兵曹は、敵機二機を撃墜した。これが初陣で、初撃墜だった。(カモメ)十二月九日、樫村寛一三等航空兵曹は南昌攻撃に<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で出撃。敵戦闘機<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>の大編隊と空戦になりました。(ウツボ)樫村寛一三等航空兵曹は<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>一機を撃墜した。その直後、機首を立て直すために上昇旋回に移った。(カモメ)その時、後方から迫って来ていた他の敵機<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>一機と真正面から衝突したのですね。(ウツボ)そうだね。この衝突で、樫村寛一三等航空兵曹の愛機<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>は左主翼外側三分の一を失った。(カモメ)バランスを崩し、墜落する愛機<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>を地上に激突する直前、水平飛行に戻したのです。(ウツボ)その後、樫村寛一三等航空兵曹は、左に沈もうとする片翼の愛機<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>を巧妙に操縦しながら、約六〇〇キロを飛び南京基地に帰還した。(カモメ)着陸は難航し、四回もやり直した後、左側に傾いた状態で接地、転覆して機体は大破しましたが、樫村寛一三等航空兵曹は機体から這い出してきて無疵でした。(ウツボ)樫村寛一三等航空兵曹の帰還の様子は、南京基地に滞在していた従軍報道員によって撮影された。(カモメ)樫村寛一三等航空兵曹は「奇跡の片翼帰還」として日中戦争の英雄となったのです。日本国内の新聞やニュース映画で報道されたのです。(ウツボ)また、破損した樫村寛一三等航空兵曹の愛機<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>は、東京に運ばれ、終戦時まで公開展示されていた。(カモメ)この神業的操縦と、不屈の闘志に対し、樫村寛一三等航空兵曹に特別善行章一線が付与されました。また、下士官としては異例の功五級金鵄勲章が授与されました。(ウツボ)その後、樫村寛一三等航空兵曹は横須賀航空隊に配属され帰国した。(カモメ)昭和十四年末、樫村寛一二等航空兵曹は第一二航空隊に配属され、再び南支方面の柳州、桂林攻撃などに参加。その後、横須賀航空隊にお配属され帰国しました。(ウツボ)昭和十六年十二月八日、太平洋戦争勃発後は、横須賀航空隊で、樫村寛一一等飛行兵曹は、後輩を鍛えた。(カモメ)特に、同郷の丸亀中学の後輩、宮崎勇三等飛行兵曹(撃墜数一三機の撃墜王)を列機として厳しく鍛え上げました。(ウツボ)昭和十七年四月十八日のドーリットル空襲の時には、樫村寛一一等飛行兵曹は、列機(三番機・宮崎勇三等飛行兵曹)とともに迎撃に上がった。(カモメ)樫村寛一一等飛行兵曹の小隊は、<ノースアメリカンB-25「ミッチェル」双発中型爆撃機>を視認しましたが、事前の「味方の双発戦闘機が試験飛行している」との情報から、これを味方機と誤認して見逃したのです。(ウツボ)昭和十七年十月、樫村寛一一等飛行兵曹は飛行兵曹長に進級、第五八二航空隊に配属された。(カモメ)十二月二十四日、樫村寛一飛行兵曹長は、第五八二航空隊に着任。東部ニューギニア方面のラエ船団の護衛、防空任務などに当たりました。
2020.04.10
(カモメ)角田和男飛行兵曹長は風防を開け、落下傘バンドをつけて、いつでも飛び出せる準備をしました。ラバウルへの帰投は直ぐあきらめ一番近いルッセル島に機首を向けたのですね。(ウツボ)そうだね。頭、手足を動かしてみた。角田和男飛行兵曹長の手足のどこにも傷はなった。あまりエンジンの踊り方が大きいので、レバーを巡航に戻したところ、たちまち焼き付いて止まってしまった。(カモメ)実に陽炎のような煙を発見してから全力運転すること一時間、よくも回ってくれたものだと思いました。(ウツボ)急に静かになり、爆音のない空中に一人いるのは妙に寂しかった。エンジンが停止したため、火災と空中分解の心配は無くなったが、角田和男飛行兵曹長は不時着の準備を急がなくてはならなかった。(カモメ)不時着の準備を行い、角田和男飛行兵曹長は海面スレスレで飛行しました。速力の落ちるに随って水面を自然滑走して、ほとんどショックなしで着水に成功したのです。(ウツボ)停止後も機体は浮いている。角田和男飛行兵曹長は座席をけって海に飛び込み、五、六メートル泳いで振り返って見たが、すでに愛機の姿は見られなかった。(カモメ)近いつもりでも、いざ海上に下りてみると、船も漂流物も全然見当たらず、大海の中にただ一人置き忘れられたようでした。(ウツボ)これは大変なことになったな、と角田和男飛行兵曹長は思ったが、間も無く駆逐艦「天霧」(一九八〇トン)が近づいてきた。(カモメ)こうして角田和男飛行兵曹長は九死に一生を得たのです。(ウツボ)昭和十八年六月、角田和男飛行兵曹長は内地帰還命令を受け、厚木航空隊に教官として配属された。(カモメ)昭和十九年三月、第二五二航空隊に配属、再建に従事しました。角田和男飛行兵曹長は戦闘第三〇二飛行隊分隊士として館山と三沢で隊の錬成に当たったのです。(ウツボ)六月二十一日以降、米軍のマリアナ進攻にともない、角田和男少尉の属する第二五二航空隊は硫黄島に進出した。(カモメ)だが、アメリカ海軍機動部隊の三度に及ぶ空襲と艦砲射撃により、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>六二機全機を失い壊滅しました。(ウツボ)第二五二航空隊は輸送機で館山に帰還した。その後、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>を出来る限り集め、七月十三日から八月二十日まで、硫黄島に再進出した。この間、大きな空戦は無かった。(カモメ)昭和十九年八月末、特攻新兵器の特攻要員募集があり、角田和男少尉の部下である搭乗員が志願したので、分隊士である角田和男少尉も特攻に志願しました。(ウツボ)十月以降、アメリカ海軍機動部隊の沖縄接近により、第二五二航空隊は緊急出撃した。空戦がなく、台湾の高雄に着陸した。(カモメ)高雄基地から数日間、アメリカ海軍艦艇への攻撃、迎撃に出撃しましたが、戦果はなく、隊長と分隊長を失った戦闘第三〇二飛行隊は戦闘第三一六飛行隊の指揮下に入りました。(ウツボ)十一月六日、角田和男少尉はエンジン故障でニコルス基地に不時着した。この基地で角田和男少尉は、神風特別攻撃隊「梅花隊」の直掩隊に任命された。以後特攻隊の直掩任務に従事した。(カモメ)昭和二十年二月五日、台湾から引き上げた隊員を中心に第二〇五航空隊が開隊しました。角田和男少尉は、戦闘第三一七飛行隊に配属されました。(ウツボ)四月以降沖縄攻撃のため台湾近海に出没してきたアメリカ海軍艦艇への特別攻撃隊の直掩機として、角田和男少尉は出撃を重ねた。(カモメ)五月、角田和男少尉は中尉に進級。八月十四日、在台湾航空隊の全機に対して、特攻突入の準備が命令されました。(ウツボ)八月十五日、終戦。「特攻出撃待て」の指示が出た。角田和男中尉が終戦を知ったのは、数日後のことだった。(カモメ)角田和男中尉の公式撃墜数は九機ですが、複数の資料から、単独撃墜数一三機、共同撃墜数は約一〇〇機とされています。
2020.04.03
(カモメ)角田和男飛行兵曹長は振り返って見た。左右にピタリと列機七機が続いて飛んでいた。明るい陽光の下に浮かぶ零戦の雄姿は、いつもながら頼もしい。(ウツボ)自分は良い、恐らく今日は私の最期の戦と覚悟はつけていると角田和男飛行兵曹長は思いました。(ウツボ)しかし、ガダルカナルの小型機とモレスビー、ダーウィンからの大型機を相手に、いかに歴戦の部下を連れているとは言え、わずか八機で一時間、果たして任務を遂行できるだろうかとも思った。(カモメ)与えられた責任と重大さ、徳に前途の不安にいつまでも続く角田和男飛行兵曹長の胸騒ぎでした。(ウツボ)飛行をかなり続けると、ソロモンの島影が見えてきた。レンドバ島を過ぎる頃、ようやく船団の全容があきらかになった。(カモメ)五隻の船は炎上しつつ全速力でガダルカナルへ向けて航行中でした。恐らく隊形は解かれて、各船の能力に随って南へ南へと、突進を続けているものと思われました。(ウツボ)健全なのは最後尾の輸送船一隻だけで、他の護衛艦と共に五隻の影は既に見えない。またしても、作戦は失敗に帰したのかと思われた。(カモメ)近づくに随って発見した敵機は三群で、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>一八機、高度四〇〇〇で丁度反対の東側から輸送船団に向かっていたのですね。(ウツボ)そうだね。さらに南方向に北上中の大型機一八機、その東側に小型機二十数機が北上していた。味方機は角田和男飛行兵曹長以下八機以外、どこにもいなかった。(カモメ)角田和男飛行兵曹長は全機突撃を命令しました。角田和男飛行兵曹長はまず編隊最先端の一番機を狙いました。(ウツボ)前上方より一撃、真下方へ滑らして避退、再び高度を取り、敵の前方に出た。この攻撃法を繰り返した。(カモメ)次に他の編隊にも突撃して攻撃を繰り返し行いました。角田和男飛行兵曹長に着いてくる列機は三機で他の機はそれぞれに攻撃していました。(ウツボ)かなりの戦闘時間が過ぎた後に、角田和男飛行兵曹長は輸送船と敵機の中間に入り込んで、<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>の編隊に向かって機首を突っ込んで行った。(カモメ)入り乱れた空戦になったあげく、ガン、ガン、ガンと、ドラム缶でも叩きつけるような甲高い銃撃の命中音が、角田和男飛行兵曹長の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>の胴体や主翼から響いてきたのです。(ウツボ)「撃て、撃て、俺を撃ってくれ!お前たちの爆弾は俺が貰った」。どんなに練達した搭乗員でも投弾中は空戦は出来ない。爆弾の命中するはずはない。「私が撃たれれば、撃たれるだけ爆弾は外れる」と角田和男飛行兵曹長は思った。(カモメ)緊張と不安に堅くなっていた角田和男飛行兵曹長の胸が、ふぁ~ッと暖かく膨らみました。「形容しがたい嬉しさ、若しこの時死んでいたら極楽往生は間違いなかったろうに」とも思いました。(ウツボ)どの位の時間か、角田和男飛行兵曹長の愛機の力は尽きて、ふわりと空中に浮かんだ。と、思うと失速、操縦装置は軽く利かなくなり、次に機首を真っ逆さまにして、墜落していった。(カモメ)角田和男飛行兵曹長の視野の端を敵の黒い影が一団となってかすめ過ぎました。しばらくして、舵に手ごたえを感じて引き起こし、高度計を見ると元の二〇〇〇メートルでした。(ウツボ)角田和男飛行兵曹長は下の船を見た。健在だ、爆弾の煙は上がっていない。上空の敵機もなく、防御作戦は成功したのだった。(カモメ)飛行機の振動が激しい。角田和男飛行兵曹長は本能的に機首をラバウルに向けていたのです。機体は大小の穴だらけ、燃料タンク、潤滑油タンク等全部貫通されている。(ウツボ)エンジンからは白煙がもうもうと吹き出し、いつ空中分解するか分からなかった。
2020.03.27
(ウツボ)それにしてもおかしな敵であった。射たれても射たれても反撃もせず、火を噴いても逃げようとする様子もない。(カモメ)ただ直線飛行を続けるばかりで、話に聞いた空中戦とはまるで違う。速力の差があまりに大きく、照準する暇がない。(ウツボ)ようやく態勢を整え、射とうとするとたちまち追い越してしまう。(カモメ)地上、五六ケ所に黒煙が上がり始めた。撃墜された敵機だ。残念ながら今日も獲物にはありつけないかと、諦めかけた時、左下方を南方に逃げる一機を発見した。(ウツボ)今度こそはと、エンジンを全開にして突っ込む。それでも右上方からでは二、三発しか射つ時間がない。(カモメ)一度引き上げ追尾に移った。高度は一〇〇メートル。しかし、今度は横槍が入らないから、落ち着いて座席や上翼中央に曳痕弾の吸い込まれるのを見届け、再び右上方に引き上げて様子を見た。(ウツボ)既にお互い超低空になっていた。確かに命中しているはずなのに墜ちない、火も吐かない。(カモメ)味方の二機が上空五〇〇メートル位に近づいていた。また横取りされてはたまらんと思い、急ぎ三撃目を加えようと追尾に入ると、こちらが射たないうちに、相手は前方の竹林の中に突っ込んでしまった。(ウツボ)搭乗員は二人乗っていた。ホッとするとともに、何か後味の悪い空虚さを感じた。せめて適わぬまでも、旋回して反撃して呉れたら良かったのに、子供を相手に本気で喧嘩でもした後の様な嫌な気持ちはいつまでも残った。(カモメ)以上が角田和男一等航空兵曹の初撃墜の日記の記述です。(ウツボ)昭和十七年四月、角田和男一等飛行兵曹は、飛行兵曹長に進級。五月、第二航空隊に配属された。(カモメ)七月、角田和男飛行兵曹長の所属する第二航空隊はラバウル方面に派遣されました。(ウツボ)十一月一日、第二航空隊は第五八二航空隊と改称された。航空隊基地はソロモン諸島北部のブイン(ブーゲンビル島南端の町)だった。(カモメ)当時の第五八二航空隊司令は、山本栄(やまもと・さかえ)大佐(兵庫・海兵四六期・第五八二航空隊司令・大佐・大村航空隊司令・第二〇一航空隊司令・終戦・第三〇二航空隊司令)でした。(ウツボ)昭和十七年十一月十四日、指揮官・角田和男飛行兵曹長以下八名の搭乗員がガダルカナルへ向けて南下中の日本の輸送船団の護衛に当たることになった。(カモメ)当日の早朝、ブインの第五八二航空隊の飛行場で、第五八二航空隊司令・山本栄大佐は、出撃を前にした角田和男飛行兵曹長以下八名の搭乗員に対して、次の様な訓示を行ったのです(要旨抜粋)。(ウツボ)命令、角田飛曹長は零戦八機を以て輸送船団の上空直衛に任ずべし、輸送船十一隻、護衛巡洋艦一隻、駆逐艦数隻はソロモン水道をガダルカナルへ向け南下中である。正午の位置はルッセル島東方、哨戒時間十三時より十四時まで、高度四千。(カモメ)数次に亘る輸送作戦は殆ど失敗に帰して、補給をたたれたガ島の陸軍は餓死寸前である。この度の輸送は日本海軍がソロモン水域に動員し得る最後の輸送船団である。(ウツボ)これが失敗に帰したならば、後にはもう一隻の輸送船もない。ガ島の陸軍は見殺しにするしかないのである。(カモメ)角田飛曹長は何としてでも一時間頑張ってくれ、一時間経てば交代の直衛機が行くはずだから、それまで頼む。(ウツボ)船団は夜明けと共に敵の哨戒機に発見されているはずだから敵襲は必ずある。丁度時間からしてもポートモレスビー、ポートダーウィンからの敵機も到着する頃であるから、警戒は特に厳重にするように。(カモメ)以上が、第五八二航空隊司令・山本栄大佐の訓示でしたが、「頼む」と言われた一言が角田和男飛行兵曹長の胸を痛めました。(ウツボ)昭和十七年十一月十四日早朝、角田和男飛行兵曹長は列機七機を率いて、ブイン基地を発進した。
2020.03.20
(カモメ)昭和十五年十月二十六日、角田和男一等航空兵曹は第三次成都攻撃に参加、中国空軍の<フリート「モデル7」2人乗り・複葉練習機・米国製>一機を共同撃墜して、初撃墜を果たしました。(ウツボ)「修羅の翼」(角田和男・今日の話題社・平成2年)によると、その初撃墜の戦闘詳細が日記形式で次のように記されている(要旨抜粋)。(カモメ)十月二十六日、待望の成都攻撃に参加する。この日の編制は次の通り。(ウツボ)指揮官・飯田房太(いいだ・ふさた)大尉(山口・海兵六二期・五番・少尉・軽巡洋艦「那珂」乗組・第二八期飛行学生・大尉・佐伯航空隊・大村航空隊・空母「蒼龍」配属・霞ケ浦航空隊教官・第一二航空隊・第三回成都攻撃指揮官・空母「蒼龍」分隊長・昭和十六年十二月八日真珠湾攻撃で自爆・戦死・享年二十八歳・二階級特進で中佐)。(カモメ)二番機・光増政之一等航空兵曹、三番機・平本政治三等航空兵曹。(ウツボ)第二小隊・一番機・山下小四郎航空兵曹長、二番機・角田和男一等航空兵曹、三番機・岩井勉二等航空兵曹。(カモメ)第三小隊・一番機・北畠三郎一等航空兵曹、二番機・大木芳男二等航空兵曹。(ウツボ)朝の内に漢口を発進、宜昌に着陸して燃料補給の上、陸偵の誘導に随って成都へ向かう予定で計画されていた。(カモメ)だが、当日朝から一帯は煙霧に覆われ視界が悪く、宜昌上空で旋回しつつ待ったが、遂に偵察機と合流することはできなかった。(ウツボ)宜昌は最近対岸からの射撃がしばしばあり、燃料補給中も気が気ではなかった。(カモメ)遂に指揮官は単独進撃を開始した。重慶までは数回通った慣れた道だが、長時間の敵地上空は、はやり緊張する。(ウツボ)高度四〇〇〇メートル上空は快晴なので前途を拒むかの様にそびえる雄大なチベットの高原が、真っ白に雪に覆われて迫って見える。(カモメ)宜昌を出発してから霧の上を飛ぶことに時間、果たして敵を捕捉する事が出来るだろうか、と不安になったが、そろそろ目的地に近づく時間だなあと思った時、突然一番機の山下空曹長がバンクをした。(ウツボ)ハッと思う間もなく急降下に移った。敵発見である。急いでその前方を見ると、遙か下方一五〇〇メートル付近を西に向かう一機があった。(カモメ)私にはその時一機しか見えなかった。敵機だと思うまで一秒足らずだが、既に一小隊も私の後続機も突っ込んでいた。(ウツボ)私は視力でも空中の勘でも自信があり、訓練では滅多に人に遅れをとる様な事はなかったが、実戦の未経験は余りにも差があり過ぎた。(カモメ)僅か一、二回だが、今日の搭乗員は私以外は全部実戦で撃墜の経験者ばかりである。あっという間に獲物にとびついてしまう。(ウツボ)早くも先ほどの飛行機は真っ赤な炎の尾を引いている。白い霧の中で特に印象的な光景だった。(カモメ近づいてみると、初めて見る三、四機の複葉機がいた。すかさず前方の一機に後上方より廻り込んだ。(ウツボ)距離二五〇メートル、照準も良し、二〇ミリと七・七ミリ機銃を同時に発射したが、たちまち近づき、追突しそうになったので、数発しか射つ暇はなかった。(カモメ)慌てて右上方へ引き上げる。これでは駄目だ。もっと落ち着いて、速力を落として、と自分に言い聞かせて二撃目に入ろうとした。(ウツボ)その瞬間、スーと横から出てきた味方の一機に追い越され、敵機はたちまち空中分解、黒煙を吐いて落とされてしまった。(カモメ)こんなことを繰り返してまごまごしていると、戦果にありつけないぞ、とあせって来る。
2020.03.13
(ウツボ)昭和十二年八月、角田和男一等航空兵は、第五期乙種飛行予科練習生を卒業、第五期乙種飛行練習生となる。(カモメ)昭和十三年五月、第五期乙種飛行練習生卒業、三等航空兵曹に進級。(ウツボ)第五期乙種飛行予科練習生の同期生に次の二人がいる。(カモメ)中瀬正幸(ながせ・まさゆき)少尉(徳島・乙飛第五期・三等航空兵曹・大村航空隊・第一四航空隊・日中戦争・横須賀航空隊・第一二航空隊零戦隊・漢口進出・成都攻撃で太平寺飛行場に強行着陸・第三航空隊・太平洋戦争・一等飛行兵曹・フィリピン島攻撃・蘭印航空戦・セレベス島マカッサル付近で戦死・特務少尉・享年二十三歳・正八位・撃墜数一八機)。(ウツボ)吉野俐(よしの・さとし)少尉(千葉・乙飛第五期・三等航空兵曹・空母「蒼龍」・千歳航空隊・ラバウルの第四航空隊・ニューブリテン島方面で空戦・一等飛行兵曹・モレスビー方面に出撃・上等飛行兵曹・ラエ方面で迎撃し戦死・特務少尉・享年二十三歳・撃墜数一五機)。(カモメ)昭和十三年九月、角田和男三等航空兵曹は、大村航空隊に配属。十一月、空母「蒼龍」(一八八〇〇トン)乗組。(ウツボ)昭和十四年五月、二等航空兵曹。十二月、筑波航空隊に配属、百里航空隊に配属。(カモメ)昭和十五年一月、第一二航空隊配属。五月、角田和男二等航空兵曹は、一等航空兵曹に進級。支那方面艦隊司令長官より感状授与。十一月、筑波航空隊に配属。(ウツボ)昭和十六年六月、一等飛行兵曹(階級の名称変更により)。(カモメ)昭和十七年四月、角田和男一等飛行兵曹は、飛行兵曹長に進級。横須賀第一海兵団准士官学生。五月、深沢くまと結婚。第二航空隊配属。(ウツボ)昭和十七年七月、ラバウル方面派遣。十一月、第五八二航空隊配属。(カモメ)昭和十八年六月、厚木航空隊に配属。(ウツボ)昭和十九年二月、第二〇三航空隊に配属。三月、第二五二航空隊配属。四月、戦闘第三〇二飛行隊配属。(カモメ)昭和十九年五月、角田和男飛行兵曹長は、少尉に進級。六月、硫黄島基地進出を命ぜられ、館山を出発。八月、館山に帰隊。十二月、フィリピン島基地進出を命ぜられ台中を出発。勲六等瑞宝章。(ウツボ)昭和二十年二月、戦闘第三一七飛行隊配属。五月、角田和男少尉は、中尉に進級。八月十五日、終戦。九月、従七位。十二月、予備役。(カモメ)戦後は、茨城県出島村の開拓地に入植、農業に従事。昭和四十九年頃から、戦友たちの慰霊の旅を始めました。(ウツボ)慰霊の旅は、日本全国から硫黄島、台湾、フィリピン、ニューギニア、ソロモン方面まで及んだ。(カモメ)平成二十五年二月十四日、死去。享年九十四歳。<空戦記録>(ウツボ)昭和十二年七月、日中戦争が勃発後、昭和十三年十一月、角田和男三等航空兵曹は、空母「蒼龍」乗組となった。(カモメ)昭和十四年十一月、空母「蒼龍」は、南支那方面に進出。洋上から南寧攻撃に参加した。これが、角田和男三等航空兵曹の初陣となったのですね。(ウツボ)そうだね。昭和十五年二月、角田和男二等航空兵曹は、第一二航空隊に配属、漢口飛行場に進出した。(カモメ)七月、装備機が、<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>から<零戦・三菱零式艦上戦闘機>に変更されました。角田和男一等航空兵曹は、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>での訓練を行いました。(ウツボ)九月、戦闘が始まったが、角田和男一等航空兵曹は会敵する機会がなかった。
2020.03.06
【磯崎千利(いそざき・ちとし)大尉・12機】(ウツボ)磯崎千利は大正二年一月十二日生まれ。愛媛県松山市出身。中学卒業後、海兵団(四等水兵)を経て、昭和七年十月、第一九期操縦練習生。(カモメ)操縦練習生の同期生に半田亘理(はんだ・わたり)中尉(福岡・第一九期操縦練習生・空母「龍驤」・日中戦争・空母「加賀」・上海戦線・第一五航空隊・空母「蒼龍」・空母「飛龍」・台南航空隊・肺結核・終戦・昭和二十三年十月二十一日死去・享年三十七歳・撃墜数一三機)がいます。(ウツボ)昭和八年三月、第一九期操縦練習生修了、教員となる。空母「龍驤」飛行隊配属。霞ケ浦航空隊友部分遣隊附教官。(カモメ)磯崎千利二等航空兵曹は、支那事変勃発後の昭和十二年十月、空母「加賀」飛行隊配属。(ウツボ)昭和十四年末、磯崎千利一等航空兵曹は、第一二航空隊配属。桂林攻撃に参加するも、その後大きな空戦になることはなかった。(カモメ)昭和十五年十一月、磯崎千利一等航空兵曹は、航空兵曹長に進級。昭和十六年十月、台南航空隊転属。(ウツボ)昭和十六年十二月八日、太平洋戦争開戦後、磯崎千利飛行兵曹長は、南方に進出。昭和十七年四月内地帰還。大村航空隊附。(カモメ)昭和十八年四月、磯崎千利飛行兵曹長は、少尉に任官。五月十四日、ラバウルの第二五一航空隊(ラバウル)配属。(ウツボ)六月十六日、磯崎千利少尉は、ルッセル島(ソロモン諸島中央部)上空でアメリカ軍とニュージーランド軍の混成戦闘機編隊と空戦に入り、初撃墜を記録。(カモメ)以後、磯崎千利少尉は、第二〇四航空隊、第二〇一航空隊の分隊長としてブイン、ラバウル航空戦において、<零戦・三菱零式艦上戦闘機二一型>で戦果を挙げ続け、一二機の撃墜数を記録した。磯崎千利少尉は初陣以来五年目で撃墜王となったのです。(ウツボ)昭和十九年三月、磯崎千利中尉は、内地に帰還し、第三〇二航空隊(厚木)の第一飛行隊<三菱「雷電」局地戦闘機>第二分隊長として防空任務に就いた。(カモメ)その後、昭和十九年九月、第二一〇航空隊(愛知県明治村)第四分隊長(徳島分遣隊)として錬成教育に当たりました。(ウツボ)昭和二十年五月、磯崎千利中尉は、第三四三航空隊戦闘第三〇一飛行隊分隊長。装備機は<川西・紫電改・局地戦闘機>。だが、この時から終戦まで空中戦を行う機会はほとんどなかった。(カモメ)昭和二十年八月十五日終戦。大尉。終戦までの総撃墜数は一二機以上。磯崎千利大尉は終戦までの十三年間に、四〇〇〇時間以上の飛行時間を記録していますね。(ウツボ)そうだね。昭和二十年八月十七日、磯崎千利大尉は、皇統護持作戦の有志に名を連ねるが、天皇制存続が決定され、皇統護持作戦は自然消滅した。(カモメ)磯崎千利大尉は、謙虚で礼儀正しく、第三四三航空隊の会と零戦搭乗員会等では尊敬を集めていたということです。(ウツボ)戦後は、愛媛県松山市で小さなうどん店を営んでいた。平成五年六月二十日死去。享年八十歳。【角田和男(つのだ・かずお)中尉・12機】(カモメ)角田和男は、大正七年十月十一日生まれ。千葉県安房郡豊田村出身。農家の次男。大正十三年、父が死亡し、家は貧しかったのです。(ウツボ)昭和八年、高等小学校二年四の時、海軍予科練習生を受験したが、不合格だった。実家の農業を手伝いながら翌年の受験に臨んだ。(カモメ)昭和九年六月、角田和男は、第五期乙種飛行予科練習生に合格、横須賀航空隊予科練習部で訓練を受ける。入隊後に四等航空兵。その後、三等航空兵、二等航空兵に進級。
2020.02.28
【大森茂高(おおもり・しげたか)少尉■戦死・13機】(カモメ)大森茂高は大正五年一月十五日生まれ。山梨県出身。昭和八年五月、海兵団入団。昭和十一年二月、第三三期操縦練習生。九月第三三期操縦練習生卒業。(ウツボ)日中戦争(支那事変)勃発後の昭和十三年二月、大森茂高二等航空兵曹は、第一三航空隊配属。二月二十五日、中国江西省の南昌上空で空戦、敵機を初撃墜。三月、第一二航空隊配属。(カモメ)その後、大森茂高二等航空兵曹は、空母「赤城」(四一三〇〇トン)乗組、筑波航空隊、大湊航空隊を経て、空母「鳳翔」(一〇五〇〇トン)乗組。(ウツボ)昭和十六年十二月八日、太平洋戦争開戦。昭和十七年五月、大森茂高一等飛行兵曹は、空母「赤城」(四一三〇〇トン)乗組。(カモメ)昭和十七年六月六日、ミッドウェー海戦(昭和十七年六月五日~七日)では、大森茂高一等飛行兵曹は、空母「赤城」(四一三〇〇トン)戦闘機隊の小隊長として、第一次攻撃隊を直衛として出撃しました。(ウツボ)指揮官は戦闘機隊分隊長・白根斐夫(しらね・あやお)大尉(山口<父は内閣書記官長・貴族院議員の白根竹介>・海兵六四期・第三一期飛行学生・太平洋戦争開戦時空母「赤城」戦闘機隊分隊長・第三四一航空隊飛行隊長・第三四一航空隊戦闘四〇一飛行隊長・戦闘七〇一飛行隊<川西・紫電改・局地戦闘機>指揮官・戦闘四〇一・四〇二・七〇一の三個飛行隊統一指揮官としてフィリピン航空戦を戦う・昭和十九年十一月二十四日レイテ作戦中オルモック湾上空で戦死・享年二十九歳・少佐・撃墜数九期)だった。(カモメ)第一次攻撃隊を直衛として飛行中の空母「赤城」(四一三〇〇トン)戦闘機隊<零戦・三菱零式艦上戦闘機>に迎撃に上がって来た<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>が襲いかかったのですね。(ウツボ)そうだね。大森茂高一等飛行兵曹は、直ぐに空戦に入り、<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>を二機撃墜した。(カモメ)また、帰投後、大森茂高一等飛行兵曹は来襲してきたアメリカ軍の雷撃機を六機、共同で撃墜しました。(ウツボ)だが、空母「赤城」(四一三〇〇トン)が被弾炎上し、退艦命令が発令されていた。(カモメ)そのため、大森茂高一等飛行兵曹は、空母「飛龍」(二〇二五〇トン)に着艦し、同空母の戦闘空中警戒にあたりました。(ウツボ)ところが、間も無く、空母「飛龍」(二〇二五〇トン)も被弾、炎上した。(カモメ)そこで、大森茂高一等飛行兵曹は燃料切れとなり、六月六日午後七時頃、指揮官の白根斐夫大尉と共に不時着水し、軽巡洋艦「長良」(五五七〇トン)に収容されました。(ウツボ)昭和十七年十月二十六日、空母「翔鶴」(二九八〇〇トン)乗組であった大森茂高一等飛行兵曹は、ソロモン海域で行われた南太平洋海戦に参加した。(カモメ)当日、戦闘空中哨戒に出撃した大森茂高一等飛行兵曹は、来襲したアメリカ軍攻撃隊と空戦となりました。(ウツボ)この空戦で、大森茂高一等飛行兵曹は、敵機五機を撃墜した。(カモメ)だが、その直後、大森茂高一等飛行兵曹は、空母「翔鶴」に投弾しようとしている敵攻撃機に体当たりして、自爆したのです。(ウツボ)自爆した場所は、南太平洋のメラネシアの、ソロモン諸島、サンタクルーズ諸島沖だった。(カモメ)戦死した大森茂高一等飛行兵曹は、享年二十六歳。死後、全軍布告で特務少尉に二階級特進しました。撃墜数は一三機。(ウツボ)大森茂高少尉は、体格は小柄で、無口な優しい性格であったが、内に闘魂を秘めたしっかりした人物だった。(カモメ)好青年で、上下から愛された戦闘機乗りでしたね。
2020.02.21
(カモメ)その後、太平洋戦争中の、昭和十九年八月二十六日、黒岩利雄操縦士は輸送任務でマレー半島沖を飛行中に、行方不明になったのです。享年三十五歳。撃墜数は一三機が認定されています。【宮崎儀太郎(みやざき・ぎたろう)飛行兵曹長■戦死・13機】(ウツボ)宮崎儀太郎は、大正六年六月十九日生まれ。高知県出身。昭和八年六月一日、第四期飛行予科練習生(乙飛)として横須賀航空隊入隊。(カモメ)昭和十二年五月、飛行練習生課程修了、宮崎儀太郎一等航空兵は三等航空兵曹に進級。佐伯航空隊配属、高雄航空隊転属。(ウツボ)昭和十三年九月、宮崎儀太郎三等航空兵曹は、第一二航空隊配属、日中戦争に出動するも、すでに敵機はいなくて、空戦の機会がなかった。(カモメ)十月五日、宮崎儀太郎三等航空兵曹は<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で、漢口攻撃に出撃しました。(ウツボ)この出撃の指揮官は、相生高秀(あいお・たかひで)大尉(広島・海兵五九期・第二五期飛行学生・空母「龍驤」戦闘機隊分隊士・佐伯航空隊・第一二航空隊・大尉・第一二航空隊分隊長・空母「赤城」戦闘機隊分隊長・大分航空隊分隊長兼教官・横須賀航空隊分隊長兼テストパイロット・空母「龍驤」戦闘機隊飛行隊長・第三航空隊飛行隊長・少佐・第二〇二航空隊飛行隊長・大分航空隊飛行長・第六〇一航空隊飛行長・第三四三航空隊副長・終戦・中佐・海上自衛隊入隊・一等海佐・訓練飛行隊群司令・徳島航空隊司令・海将補・第二航空群司令・自衛艦隊幕僚長・航空集団司令官・海将・自衛艦隊司令官・退官・勲三等旭日中綬章・平成五年三月六日死去・享年八十一歳・正四位)だった。(カモメ)この漢口攻撃の空戦で中華民国国軍の<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>を一機撃墜。これが初撃墜でした。(ウツボ)この空戦では、僚機の坂井三郎三等航空兵曹も<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>を一機撃墜している。(カモメ)昭和十四年六月、宮崎儀太郎二等航空兵曹は横須賀航空隊教官。その後、高雄航空隊に転属。(ウツボ)昭和十六年四月、宮崎儀太郎一等航空兵曹は再び第一二航空隊配属。漢口王家墩(かんこうおうかとん)飛行場に進出。八月十一日、成都攻撃で、一機を共同撃墜。(カモメ)昭和十六年十月、宮崎儀太郎一等飛行兵曹は、飛行兵曹長に進級。同時に台南航空隊に配属されました。(ウツボ)昭和十六年十二月八日、太平洋戦争開戦の初日、ルソン島(フィリピン・首都マニラの北西約六〇km)のアメリカ軍・クラーク空軍基地攻撃に参加した。(カモメ)第三中隊長は、台南航空隊先任分隊長・浅井正雄(あさい・まさお)大尉(東京・海兵六三期・台南航空隊・先任分隊長・中隊長・戦死・少佐)でした。(ウツボ)宮崎儀太郎飛行兵曹長は、第三中隊の第二小隊長として出撃し、激しい空戦の後、一機を撃墜した。その後も、小隊長として、フィリピン島攻撃、蘭印航空戦に参加した。(カモメ)昭和十七年四月一日、台南航空隊は第二五航空戦隊に編入され、ラバウル基地(ニューブリテン島)に移動、四月十六日には進出が完了したのですね。(ウツボ)そうだね。宮崎儀太郎飛行兵曹長は、四月十七日、ラバウルの前進基地、ラエ基地(ニューギニア島東部)に進出した。(カモメ)昭和十七年六月一日、宮崎儀太郎飛行兵曹長は、病気にもかかわらずポートモレスビー攻撃に陸攻隊とともに出撃したのですね。(ウツボ)そうだね。だが、攻撃中に、奇襲した敵戦闘機の射撃を受け、愛機が発火、空中で爆発し、宮崎儀太郎飛行兵曹長は、戦死した。享年二十四歳。(カモメ)戦死した宮崎儀太郎飛行兵曹長は、二階級特進して飛行特務中尉になりました。(ウツボ)宮崎儀太郎中尉の撃墜数は、一三機(中国で二機、太平洋で一一機)とされているが、小隊戦果としては、撃墜数四四機、炎上六機、撃破三〇機。空戦回数三七回。(カモメ)宮崎儀太郎中尉は、痩身であったが、柔道二段で、特に腕相撲は台南航空隊随一であったといわれていますね。(ウツボ)そうだね。
2020.02.14
(ウツボ)二月七日、空母「加賀」飛行隊は、上海の公大基地(飛行場)に進出した。(カモメ)当時の黒岩利雄三等航空兵曹の戦闘機分隊長は、生田乃木次(いくた・のぎじ)大尉(福井・海兵五二期・第一九期飛行学生・空母「加賀」戦闘機隊分隊長・空戦による初撃墜記録・予備役・退官・逓信省航空局航空官・再招集・航空官・少佐・終戦・魚屋・保育園開設・第三回参議院議員選挙落選・平成十四年二月二十二日心不全で死去・享年九十七歳)でしたね。(ウツボ)そうだね。二月二十二日、生田乃木次大尉が率いる<中島・AIN三式艦上戦闘機・複葉>三機の二番機として黒岩利雄三等航空兵曹は蘇州攻撃に参加した。三番機は武雄一夫一等航空兵だった。(カモメ)共に出撃した<三菱・BIM一三式艦上攻撃機・複葉>三機を援護する任務だったのです。(ウツボ)蘇州上空で、生田乃木次大尉率いる編隊は、アメリカ義勇兵のロバート・ショートが操縦する<ボーイングP-12艦上戦闘機・複葉>により攻撃を受けた。(カモメ)ショートは、<三菱・BIM一三式艦上攻撃機・複葉>一機を撃墜したが、生田乃木次大尉、黒岩利雄三等航空兵曹、武雄一夫一等航空兵の<中島・AIN三式艦上戦闘機・複葉>三機によって、撃墜されました。(ウツボ)これは日本の陸海軍を通じて、初の空戦による撃墜だった。三人は、公式に日本海軍の初の撃墜記録保持者として認められた。(カモメ)この戦果は日本国内で大きく報道され、三人は、一躍時代の英雄となったのです。(ウツボ)三人は、第三艦隊司令長官・野村吉三郎中将(和歌山・海兵二六期・在アメリカ合衆国大使館附武官・大佐・巡洋艦「八雲」艦長・講和全権委員随員・ワシントン会議随員・少将・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・海軍省教育局長・軍令部次長・中将・練習艦隊司令官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・学習院長・外務大臣・在米国特命全権大使・枢密顧問官・終戦・日本ビクター社長・参議院議員・昭和三十九年五月八日死去・享年八十六歳・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級)から感状を授与された。(カモメ)上海事変後、黒岩利雄二等航空兵曹は、内地に帰還し、教員任務に就きました。(ウツボ)「大空のサムライ」の著者の坂井三郎元海軍中尉(佐賀・佐世保海兵団入団・海軍砲術学校・第三八期操縦練習生首席・大村航空隊・三等航空兵曹・第一二航空隊・二等航空兵曹・大村航空隊・高雄航空隊・第一二航空隊・一等航空兵曹・台南航空隊・太平洋戦争・ラバウル第二五航空戦隊・ガダルカナル上空で負傷・内地送還・台南空教官・飛行兵曹長・豊橋航空隊・大村航空隊教官・横須賀航空隊・少尉・第三四三航空隊戦闘七〇一飛行隊・終戦・中尉・撃墜数六四機)が、当時の黒岩利雄二等航空兵曹について次のように述べている。(カモメ)昭和十二年、佐伯航空隊で訓練を行っていた坂井三郎一等航空兵は、黒岩利雄二等航空兵曹との空戦訓練で簡単に負かされたのです。(ウツボ)また、坂井三郎元中尉は、対談において、空戦技術が巧みだった戦闘機搭乗員の筆頭に黒岩利雄飛行兵曹長を挙げている。(カモメ)支那事変が始まると、黒岩利雄一等航空兵曹は、昭和十三年二月、第一三航空隊に配属され、南京に進出しました。(ウツボ)昭和十三年三月、編成換えで、第一二航空隊に転属。黒岩利雄一等航空兵曹は、出撃を繰り返し、八月までに一三機の撃墜を記録した。(カモメ)黒岩利雄一等航空兵曹は、その荒っぽい戦法から当時は「悪童」と呼ばれていました。(ウツボ)昭和十四年、三十一歳になった黒岩利雄一等航空兵曹は、航空兵曹長に進級後、高齢を理由に除隊し、民間航空会社である大日本航空の操縦士になった。(カモメ)昭和十五年二月五日一六時五五分、福岡発、那覇経由、台北行きの<ダグラスDC-2旅客機・双発・乗客座席一四名>「阿蘇号」を黒岩利雄操縦士が操縦中、「右エンジン不調、魚釣島に不時着す」の無線電信を残し消息を絶ったのです。(ウツボ)だが、翌朝、魚釣島北岸に同機が不時着しているのが発見され、乗客乗員一三名全員が救助された。
2020.02.07
(カモメ)昭和十九年二月五日、宮崎勇一等飛行兵曹の所属する第二五二航空隊は<三菱・G4M・一式陸上攻撃機・双発>に分乗して、マロエラップを脱出、二月中旬に内地に帰還して、第二五二航空隊の再建に従事しました。(ウツボ)昭和十九年六月、マリアナ諸島にアメリカ機動部隊が来襲、「あ号作戦」が発令された。(カモメ)第二五二部隊は、横須賀航空隊とともに「八幡部隊」に参加しました。六月二十五日、宮崎勇一等航空兵曹は、硫黄島に進出しました。(ウツボ)だが、数度にわたるアメリカ機動部隊の艦載機の攻撃で、「八幡部隊」は壊滅、第二五二航空隊は再び内地に帰還し、再建を行った。(カモメ)昭和十九年十月十日、アメリカ機動部隊による沖縄攻撃が行われました。これに対して、第二五二航空隊は、沖縄県那覇市の飛行場、次に台湾の台中飛行場に進出したのですね。(ウツボ)そうだね。さらに十月十日、第二五二航空隊は、フィリピンのマバラカットに進出した。十月二十四日、ルソン島(フィリピン諸島最大の島)東海上のアメリカ機動部隊への攻撃に参加した。(カモメ)十月二十四日夜、第二五二航空隊飛行長・新郷英城(しんごう・ひでき)少佐(佐賀・海兵五九期・第二五期飛行学生・館山航空隊附・中尉・空母「龍驤」乗組・横須賀航空隊教官・大分航空隊分隊長・<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>操縦員・空母「加賀」乗組・大尉・鹿屋航空隊分隊長・佐伯航空隊分隊長・第一四航空隊分隊長・負傷・霞ケ浦航空隊分隊長兼教官・岩国航空隊分隊長兼教官・大分航空隊分隊長兼教官・高雄飛行隊長・台南航空隊飛行隊長・第六航空隊飛行隊長・元山航空隊飛行隊長・空母「翔鶴」飛行隊長・少佐・築城航空隊飛行隊長・第三三一航空隊飛行隊長・第二〇二航空隊戦闘六〇三飛行隊長・第三四一航空隊戦闘七〇一飛行隊長・第二五二航空隊飛行長・兼戦闘三〇四飛行隊長・終戦・中佐・北海道庁警察部・警部補・農協主事・航空自衛隊入隊・二等空佐・一等空佐・空将補・第二航空団司令・航空総隊司令部幕僚長・航空幕僚監部監察官・北部航空方面隊司令官・空将・航空自衛隊幹部学校長・勲三等瑞宝章・昭和五十七年十一月二十七日死去・享年七十一歳・従四位)から集合がかけられたのです。(ウツボ)第二五二航空隊飛行長・新郷英城少佐は、特別攻撃について説明をした後、「特攻を希望しない者は、一歩前に出ろ」と告げた。(カモメ)誰も前に出る者はなく、第二五二航空隊の戦闘機搭乗員全員は、そのまま特攻配置となったのです。(ウツボ)昭和十九年十一月一日、宮崎勇一等飛行兵曹は、飛行兵曹長に進級した。二十六歳だった。(カモメ)十一月、第二五二航空隊の宮崎勇飛行兵曹長と岩本徹三少尉(終戦時中尉・撃墜数二〇二機)、斎藤三郎飛行兵曹長(終戦時少尉・撃墜数一八機)に対して、飛行機受領の為、内地帰還命令が出ました。(ウツボ)昭和十九年十二月、宮崎勇飛行兵曹長は第三四三航空隊(剣部隊)戦闘三〇一飛行隊(新選組)に配属された。(カモメ)宮崎勇飛行兵曹長は、三〇一飛行隊の「新選組」という隊名に、気概を持ち、「我こそは近藤勇なり」と言っていたそうです。(ウツボ)昭和二十年三月十九日、広島県呉市に来襲したアメリカ機動部隊艦載機の邀撃が、第三四三航空隊(剣部隊)の初陣となった。(カモメ)だが、宮崎勇飛行兵曹長は出撃第二陣の配置であったため、会敵の機会がなかったのです。(ウツボ)その後、第三四三航空隊(剣部隊)は、鹿屋、国分、大村と移動し、沖縄作戦、本土防空戦闘任務に従事して、終戦を迎えた。九月五日、少尉進級。(カモメ)宮崎勇少尉の撃墜数は、単独・協同合わせて一二〇~一三〇機とも言われていますが、複数の資料により、一三機としました。【黒岩利雄(くろいわ・としお)飛行兵曹長■戦死・13機】(ウツボ)黒岩利雄は、明治四十一年十二月二十五日生まれ。福岡県出身。大正十五年佐世保海兵団に入隊。昭和三年、第一三期操縦練習生修了、戦闘機操縦員となる。(カモメ)昭和七年一月二十八日、第一次上海事変が勃発、黒岩利雄三等航空兵曹が乗組みの、空母「加賀」(三三六九三トン)は上海沖に出動しました。
2020.01.31
(ウツボ)さらに、ラバウルを拠点として、バラレ島(ソロモン諸島西部のシュートランド諸島)、ブイン(ソロモン諸島北部のブーゲンビル島南端部の町)、ラエ(ニューギニア島東部の町)の各飛行場に進出、ソロモン・東部ニューギニア方面での戦いに従事した。(カモメ)宮崎勇二等飛行兵曹は、この方面の出撃で、二度、空中被弾や海上不時着をしましたが、生還していますね。(ウツボ)そうだね。運の強い人だね。昭和十七年十一月十二日、宮崎勇二等飛行兵曹は、ガダルカナル島ルンガ泊地に入港したアメリカ輸送船団を攻撃に向かう陸攻隊の直掩機として出撃した。(カモメ)この出撃が、宮崎勇二等飛行兵曹にとって、この方面での最初の空戦となり、ガダルカナル沖で、激しい空戦の結果、<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>を一機撃墜しました。これが初撃墜となったのです。(ウツボ)だが、基地に帰還した後、宮崎勇二等飛行兵曹は、菅波政治大尉に「深追いするなと、言ってただろう、あんなに敵機を深追いするとは、何事だ!」と叱責された。(カモメ)十一月十四日、日本の高速輸送船団の上空直衛任務で出撃した後、帰還する時、菅波政治大尉は戦果確認のため引き返しました。(ウツボ)二番機の宮崎勇二等飛行兵曹が同行を願うと、「お前は早く帰還せよ」と合図して、菅波政治大尉は単機で戦果確認に戻って行った。(カモメ)これが、宮崎勇二等飛行兵曹と飛行隊長・菅波政治大尉の最後の別れとなったのです。菅波政治大尉は二度と帰還することなく、戦死と認定されました。(ウツボ)その後、宮崎勇二等飛行兵曹は、ソロモン諸島での熾烈な航空戦で多数の航空戦に出撃して、空戦経験を積み重ねた。(カモメ)昭和十八年二月一日、第二五二航空隊は南洋方面、マーシャル諸島に転進、宮崎勇二等飛行兵曹はウェーク島(北太平洋、南鳥島の南東東約一四〇〇キロにある島)に配属されました。(ウツボ)ウェーク島では、時々、アメリカ軍機の空襲があったが、半年間は比較的平穏で、非番の時は、釣に行ったり、演芸会をしたりしていた。(カモメ)だが、十一月、マキン・タラワに上陸したアメリカ軍に対して、宮崎勇一等飛行兵曹の所属する第二五二航空隊は、爆装した<零戦・三菱零式艦上戦闘機>で爆撃を行いました。(ウツボ)その後、マキン・タラワの日本軍が玉砕すると、アメリカ軍は飛行場を完成させ、マーシャル諸島の日本軍の各基地に対し、<ノースアメリカンB-25「ミッチェル」双発中型爆撃機>で空襲を行うようになって来た。(カモメ)これに対する邀撃戦の連続で、第二五二航空隊は戦力を消耗していったのです。(ウツボ)昭和十九年一月三十日、アメリカ機動部隊による大空襲を受け、宮崎勇一等航空兵曹ら四機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>はその迎撃に上がった。(カモメ)敵大編隊に対する空戦は不利であった。宮崎勇一等航空兵曹を除く三機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>は損傷を負い、戦場を離脱しました。(ウツボ)宮崎勇一等飛行兵曹が一機で飛んでいると、海上三〇メートル付近に一機の損傷を受けた<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>を発見した。(カモメ)その敵機に接近した宮崎勇一等飛行兵曹は、反撃不可能な状態での、敵パイロットの悲痛な面持ちが確認できたのです。(ウツボ)宮崎勇一等飛行兵曹は、「その悲痛な敵パイロットを撃ち落とす気にならなかった。私はその<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>を、そのまま見逃してやった」と後に回想している。(カモメ)アメリカ軍の資料によると、その<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>のパイロットは、フレッチャー・ジョーンズ海軍少尉で、その少し後に、海面への不時着水に失敗して、溺死してしまいました。(ウツボ)この日の、アメリカ軍機動部隊の大空襲で、マロエラップ(マーシャル諸島)の第二五二航空隊は壊滅した。
2020.01.24
(カモメ)横須賀航空隊には、中国の南昌攻撃で、中国軍機と接触して愛機<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>の片翼の三分の一以上を失ったにもかかわらず、六〇〇キロ以上操縦を続けて南京基地に帰還、ニュースや新聞で報道された有名な操縦士がいたのですね。(ウツボ)そうだね。その“片翼帰還”の英雄は、宮崎勇三等飛行兵曹の丸亀中学の先輩、樫村寛一(かしむら・かんいち)一等飛行兵曹(香川・第二四期操縦練習生・第一三航空隊・南昌攻撃で片翼帰還・功五級金鵄勲章・横須賀航空隊・第五八二航空隊・飛行兵曹長・昭和十八年三月六日戦死・享年二十九歳・少尉・撃墜数一二機)だった。(カモメ)宮崎勇三等飛行兵曹は、この樫村寛一一等飛行兵曹の列機となり、以後約一年間、樫村寛一一等飛行兵曹から戦闘訓練を受け、鍛えられました。(ウツボ)昭和十七年四月十八日、「ドーリットル空襲」が行われた。この空襲は日本本土への初めての空襲だった。(カモメ)日本の東方海面にいたアメリカ軍の空母「ホーネット」(一九八〇〇トン)から発進した<ノースアメリカンB-25「ミッチェル」双発中型爆撃機>一六機が参加しました。(ウツボ)東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等を爆撃・空襲し、民間人に被害が出た。軍事的損害は軽微だったが、日本軍には大きな衝撃を与えた。(カモメ)「ドーリットル空襲」空襲の由来は、この空襲部隊の指揮官が、ジェイムズ・ハロルド・ドーリットル中佐(カリフォルニア州・アメリカ陸軍航空部入隊・カリフォルニア大学バークレー校卒・マサチューセッツ工科大学で博士号・中尉で退役・シェル石油航空部支配人・弁ディックストロフィ・トンプソントロフィ・軍に復帰・少佐・日本初空襲指揮官・二階級特進で准将・北アメリカ戦線司令官・アフリカ北西部戦略空軍司令官・少将・イギリス本土アメリカ第八空軍司令官・中将・予備役・シェル石油副社長・予備役大将・平成五年九月二十七日死去・享年九十六歳)だったことから命名されたのです。(ウツボ)宮崎勇三等飛行兵曹は、小隊長・樫村寛一一等飛行兵曹の列機(三番機)として、ドーリットル空襲の迎撃に出撃した。二番機は五日市末治二等飛行兵曹だった。(カモメ)小隊長・樫村寛一一等飛行兵曹ら三人は、出発前に飛行長から「味方陸軍の双発戦闘機二機が飛行試験をしている」と注意を受けていました。また、敵機は、単発の艦載機と思い込んでいたのです。(ウツボ)小隊長・樫村寛一一等飛行兵曹ら三機は、迎撃に上がり、来襲する敵機を探し求めたが、発見した<ノースアメリカンB-25「ミッチェル」双発中型爆撃機>を味方の双発戦闘機と誤認して見逃してしまった。(カモメ)だが、宮崎勇三等飛行兵曹は、横須賀航空隊から第二五二航空隊に転出する時、小隊長・樫村寛一一等飛行兵曹から次のような激励の言葉を貰ったのです。(ウツボ)「日本一の横須賀航空隊でこそ、貴様はまだまだと思うかもしれんが、よそに行ったら誰にも負けん。自信を持って行くんだ」。(カモメ)そのあと、小隊長・樫村寛一一等飛行兵曹は、宮崎勇三等飛行兵曹に、「攻撃や行動に移る前に、必ず後方を確認しろ」など、実戦での注意を繰り返し言い伝えました。(ウツボ)戦後、激戦を生き延びた宮崎勇元少尉は、「樫村さんは厳しい人だったけど、今、自分が生きているのは、樫村さんのお陰です」と述懐している。(カモメ)昭和十七年十月、宮崎勇二等飛行兵曹は、第二五二航空隊に配属されました。(ウツボ)宮崎勇二等飛行兵曹を第二五二航空隊に引き抜いたのは、第二五二航空隊飛行隊長・菅波政治大尉(海兵六一期・真珠湾攻撃時は空母「蒼龍」第一次攻撃隊第三制空隊長・第二五二航空隊飛行隊長・戦死)だった。(カモメ)十一月九日、第二五二航空隊は、空母「大鷹」(二〇〇〇〇トン)で、ラバウルに進出しました。
2020.01.17
(ウツボ)昭和十二年三月、宮崎勇三等水兵が乗組んだ装甲巡洋艦「磐手」(九七五〇トン)は、練習艦隊として出発。インド洋、スエズ運河等を経由しフランスまでの遠洋航海を行った。十一月二等水兵。(カモメ)後に宮崎勇は、「若いときに遠洋航海に出て、世界を巡ることができたことは、貴重な体験であった」と述懐しています。(ウツボ)昭和十三年十一月一等水兵。昭和十五年十一月三等兵曹(二十一歳)。水上機母艦「千歳」(一三六〇〇トン)乗組。(カモメ)その後、宮崎勇三等兵曹は、軽巡洋艦「長良」(五五七〇トン)、砲艦「熱海」(二四九トン)乗組。(ウツボ)昭和十五年十一月、第二期丙種飛行予科練習生。第五八期操縦練習生として土浦航空隊(茨城県)入隊。(カモメ)昭和十六年一月、第一二期飛行練習生として百里原航空隊(茨城県)初歩練教育、宇佐航空隊(大分県)で艦上爆撃機の教育を受けました。(ウツボ)昭和十六年十一月、予科練を卒業、横須賀航空隊配属。横須賀航空隊で、戦闘機搭乗員に転科した。宮崎勇三等飛行兵曹は、丸亀中学の先輩、樫村寛一一等飛行兵曹の列機となり、鍛えられた。(カモメ)昭和十七年十月、操縦練習生同期の鎌田哲夫(愛媛・第五八期操縦練習生・第二五二航空隊・ガダルカナルで撃墜され入院・出水航空隊教官・終戦)とともに第二五二航空隊へ転属しました。(ウツボ)昭和十九年二月、内地に帰還し、第二五二航空隊を再建。六月、宮崎勇一等飛行兵曹は「八幡部隊」として硫黄島に進出。(カモメ)昭和十九年十一月、飛行兵曹長に進級。十二月、第三四三航空隊(剣部隊)戦闘三〇一飛行隊(新選組)に配属。主力戦闘機は、<川西・紫電改・局地戦闘機>。(ウツボ)昭和二十年三月十九日、宮崎勇飛行兵曹長は、広島県呉市の防空戦に、<川西・紫電改・局地戦闘機>で初陣。八月九日、長崎での原爆を目撃した。八月十五日、終戦。ポツダム進級で少尉に進級。(カモメ)宮崎勇少尉の総撃墜数は複数の資料から一三機としていますが、宮崎少尉自身は、「単独・共同撃墜数は約一二〇機~一三〇機」と語っていますね。(ウツボ)そうだね。本人がそう述べている。また、宮崎勇少尉の実戦出撃回数は全戦闘機搭乗員の中でも最多であるといわれている。(カモメ)終戦後、宮崎勇元少尉は、愛媛県松山市で郵便局の運転士や会社社長等を経て、妻の実家の酒屋を継いだのです。(ウツボ)宮崎勇元少尉は、自ら戦争体験を口にすることはなかった。酒屋の常連客でさえ、宮崎勇元少尉が戦闘機搭乗員であったことさえ、知らなかったそうだ。(カモメ)昭和五十三年、愛媛県城辺町の海底で<川西・紫電改・局地戦闘機>が発見され、NHK放送局から、宮崎勇元少尉に連絡が入ったのですね。(ウツボ)そうだね。その後の調べで、この<川西・紫電改・局地戦闘機>は、昭和二十年七月二十四日に未帰還となった六機の中の一機と判明した。(カモメ)宮崎勇元少尉は、この<川西・紫電改・局地戦闘機>の調査、引き揚げ作業に協力しました。(ウツボ)この<川西・紫電改・局地戦闘機>の発見、引き揚げをきっかけに、それまで戦争を語らなかった宮崎勇元少尉は、戦争体験を語るようになってきた。(カモメ)昭和五十八年六月、「帰って来た紫電改」(宮崎勇・潮書房光人社・1993年・235頁)が発刊されました。(ウツボ)この本は宮崎勇元少尉の自伝だが、主に第三四三航空隊(剣部隊)と<川西・紫電改・局地戦闘機>について記してある。(カモメ)平成二十四年四月十日、宮崎勇元少尉は、肝臓の病気で死去。享年九十二歳でした。<空戦記録>(ウツボ)昭和十六年十一月二十九日、宮崎勇三等飛行兵曹は、予科練習生を卒業し、横須賀航空隊に配属された。
2020.01.10
(ウツボ)本土に帰還後は、霞ケ浦航空隊配属。その後昭和十四年十月、山本旭二等飛行兵曹は、第一二航空隊に配属され、再び中国大陸の航空戦において、出撃を繰り返した。(カモメ)昭和十五年七月、内地に帰還、大分航空隊配属。昭和十六年十月、山本旭一等飛行兵曹は、空母「加賀」(三三六九三トン)の戦闘機隊に配属されました。(ウツボ)昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃には、山本旭一等飛行兵曹は、第一次攻撃隊の制空隊として出撃、民間の練習機を一機撃墜した。(カモメ)昭和十七年六月五日のミッドウェイ海戦で、空母「加賀」(三三六九三トン)が撃沈されたので、山本旭一等飛行兵曹は、空母「飛龍」(二〇二五〇トン)に着艦しました。(ウツボ)空母「飛龍」(二〇二五〇トン)に着艦した山本旭一等飛行兵曹は、再び出撃し、敵戦闘機を四機撃墜した。これらの戦闘機はアメリカ空母「ヨークタウン」(一九八〇〇トン)所属の艦載機だった。(カモメ)昭和十七年七月、山本旭一等飛行兵曹は、空母「瑞鳳」(一三一〇〇トン)の戦闘機隊に配属、南太平洋海戦(十月二十六日)に出撃したのですね。(ウツボ)そうだね。さらに、ガダルカナル戦(昭和十七年八月~昭和十八年二月)などソロモン航空戦において、山本旭飛行兵曹長は、出撃を繰り返し、戦果を挙げた。(カモメ)その後、山本旭飛行兵曹長は、本土に帰還したのです。(ウツボ)だが、昭和十九年六月、あ号作戦(マリアナ・パラオ諸島の戦い)が発動されると、山本旭少尉は、八幡(はちまん)部隊(七月四日のアメリカ軍硫黄島空襲で雷撃機と戦闘機は全滅)に配属され、硫黄島に進出した。(カモメ)硫黄島の飛行場で、出撃の機会を待っていた山本旭少尉は、アメリカ艦隊の艦砲射撃により、直撃弾を受け、土の中から救出されましたが、左胸部を負傷して、本土に送還されました。(ウツボ)本土で治療を受け回復した山本旭少尉は、<川西・紫電・局地戦闘機>や<三菱「雷電」局地戦闘機>などの新鋭機のテスト飛行に従事した。(カモメ)昭和十九年十一月二十四日、山本旭少尉は、神奈川県の第三〇二航空隊(厚木航空隊)に配属されました。(ウツボ)当時の厚木航空隊司令は、小園安名(こぞの・やすな)大佐(鹿児島・海兵五一期・第一四期飛行学生・大村航空隊分隊長・横須賀航空隊分隊長・少佐・第一二航空隊飛行隊長・中佐・台南航空隊副長兼飛行長・第二五一航空隊副長兼飛行長・第二五一航空隊司令・第三〇二航空隊司令・大佐・終戦・“降伏せず”という厚木航空隊事件を引き起こす・軍法会議で無期禁錮刑・海軍大佐剥奪・横浜刑務所に収監・昭和二十五年赦免・鹿児島で農業・昭和三十五年十一月脳出血で死去・享年五十八歳)だった。(カモメ)配属された当日の十一月二十四日、サイパン島から発進した<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型戦略爆撃機>により、東京が初めて空襲を受けました。(ウツボ)山本旭少尉は、これを迎撃するため出撃し、千葉県北部の八街町上空で、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型戦略爆撃機>の後方から攻撃をしかけた。(カモメ)この攻撃中に、山本旭少尉は操縦席後部に被弾したのです。山本旭少尉は、愛機から脱出して落下傘降下を行いましたが、開傘せず、地上に激突して墜死しました。享年三十一歳。戦死後、中尉に特進しました。従七位。(ウツボ)撃墜数は、複数の資料では一三機としているが、「日本陸海軍航空英雄列伝」(押尾一彦・野原茂・光人社・2001年)や「ウィキペディア」では一五機と記されている。【宮崎勇(みやざき・いさむ)少尉・13機】(カモメ)宮崎勇は、大正八年十月五日生まれ。広島市呉市出身。昭和十一年六月佐世保海兵団入団、四等水兵。十一月三等水兵(十七歳)、装甲巡洋艦「磐手」(九七五〇トン)乗組。
2020.01.03
(ウツボ)この空戦で、羽切松雄飛行兵曹長は、右肩の後ろから、敵機の12.7ミリ機銃弾が貫通、鎖骨と肩甲骨が粉砕され重傷を負ったが、操縦を続け基地に帰還した。(カモメ)十月十日、羽切松雄飛行兵曹長は、内地に送還され、横須賀海軍病院に入院させられました。リハビリの結果、再び操縦桿を握られるまでに回復したのです。(ウツボ)昭和十九年三月、羽切松雄少尉は、横須賀航空隊配属、テストパイロットとして、試験飛行に従事した。その後、本土防空戦に参加するようになった。(カモメ)昭和二十年二月十七日、羽切松雄少尉は、横浜市杉田上空で、アメリカ海軍の第五艦隊第五八任務部隊所属、<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>と交戦し、一機を撃墜しましたね。(ウツボ)そうだね。その後、三月に、羽切松雄少尉は、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型戦略爆撃機>一機撃墜を報告している。(カモメ)四月十二日、羽切松雄少尉は、<川西・紫電改・局地戦闘機>に搭乗して、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型戦略爆撃機>を攻撃しました。(ウツボ)だが、この攻撃で、羽切松雄少尉は、敵爆撃機の防護銃座の機銃により、右ひざの皿を砕かれる重傷を負い、熱海の古屋旅館(海軍病院)に入院した。(カモメ)昭和二十年五月一日、羽切松雄少尉は、中尉に進級しました。八月十五日、入院中に終戦を迎えたのです。終戦までの総撃墜数は一三機。【山本旭(やまもと・あきら)中尉■戦死・13機】(ウツボ)山本旭は大正二年六月十三日生まれ。静岡県庵原郡興津町出身。清水市立清水商業学校卒業後、昭和八年六月、横須賀海兵団入団。(カモメ)昭和九年二月、第二四期操縦学生として霞ケ浦航空隊に入隊。七月卒業、戦闘機操縦者。館山航空隊を経て、大湊航空隊配属。(ウツボ)昭和十年十一月、空母「鳳翔」(一〇三〇〇トン)乗組。昭和十二年七月に勃発した支那事変に参加。上海、南支方面に十数回出撃した。(カモメ)昭和十二年八月十九日、山本旭三等航空兵増は、<ノースロップBT急降下艦上爆撃機・単発>を一機撃墜し初戦果を挙げました。(ウツボ)九月二十一日、上海上空で、単機飛行中の<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>を発見した山本旭三等航空兵増は、一騎打ちを挑み、五〇メートルからの近接射撃で撃墜した。(カモメ)しかし、この一対一の空戦は、戦闘時間が長かったので、燃料切れになったのです。山本旭三等航空兵増は、海面に不時着しましたが、その後、救助されました。(ウツボ)九月二十七日の広東空爆には、花本清登(はなもと・きよと)大尉(広島・海兵五七期・海大三九期・少佐・横須賀航空隊戦闘機隊長・中佐・第三航空隊飛行長・連合艦隊参謀・昭和二十年七月十一日死去・大佐)の二番機として出撃した。(カモメ)この時の空戦でも、山本旭三等航空兵増は、<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>二機を単独撃墜しました。(ウツボ)昭和十二年十二月、山本旭三等航空兵増は、本土に帰還。第一航空戦隊司令官から感状を授与された。(カモメ)当時の第一航空戦隊司令官は、草鹿任一(くさか・じんいち)少将(石川・海兵三七期・二一番・海大一九期・戦艦「山城」砲術長・第二艦隊参謀・中佐・戦艦「長門」砲術長・海軍砲術学校教官・海軍省教育局局員・大佐・軍令部出仕・欧米各国出張・二等巡洋艦「北上」艦長・海軍省教育局第二課長・戦艦「扶桑」艦長・少将・海軍砲術学校校長・第一戦隊司令官・第一航空戦隊司令官・支那方面艦隊参謀長・海軍省教育局長・中将・海軍兵学校校長・第一一航空艦隊司令長官・南東方面艦隊司令長官兼第一一航空艦隊司令長官・終戦・戦犯でチャンギ―刑務所に収監・株式会社光和堂社長・旧軍人関係恩給権擁護全国連合会会長・軍恩連盟全国連合会名誉会長・遺骨収集団長・ラバウル方面・ソロモン方面の遺骨収集・昭和四十七年八月死去・享年八十三歳・勲一等旭日大綬章)でした。
2019.12.27
(カモメ)私は、拳銃一挺で必死の殴りこみをかけてやろうと決心した。私の胸に、あれほどしがみついてはなれなかった死の恐怖も、最後に燃えあがったすさまじい闘志に圧倒されてか、いつしか消えさってしまった。(ウツボ)「どうれ、そろそろ行くか」と、やおら立ちあがろうとした、そのとき、いままで周囲を圧していた銃撃音が、急に、少なくなったようだ。(カモメ)「おや、おかしいぞ?」 私は一瞬、自分の耳を疑った。だが、たしかに銃撃音は少ない。それに、だいぶ高いところを飛び去るようだ。(ウツボ)「待てよ。ひょっとすると、俺は助かるかも知れないぞ。……まぁ、死に急ぐこともあるまいから、ここはひとまず脱出しよう」 私は全身に湧き上がる『生』への執念を感じとった。(カモメ)「生きるんだ! 俺にはまだ、やりたいことがいっぱいあるんだ。俺は死なない。死んではならないのだ!」(ウツボ)心の声は、私に向かって、そうはげましてくれた。私はふたたび地上をけった――。(カモメ)愛機に駆け込んだとき、すでに東山空曹長ら三機は、離陸したあとだった。離陸――炎と煙の滑走路を、愛機の零戦は走る。やがてフワッと機体が浮く。(ウツボ)「助かったぞ。俺は生きることができたぞ」 私は、そう叫びたかった。快調なエンジンの音を聞くとき、かすかな落ちつきがきた。(カモメ)それは、やがて死から開放された穏やかな顔に、止めようとして止まらない笑いがこみあげてきた。(ウツボ)たとえ焼打ちの戦果は挙げられなかったにせよ、敵の真只中に強行着陸した誇りと、死を目前にして、ついにその恐怖に打ち勝つことができた、限りない闘志をたたえる、快心の笑みであった。(カモメ)「俺はエラいぞ、俺の度胸はたいしたもんだ。それでこそ真の戦闘機魂だ。いつかふたたび死と対決しなければならないときがくるが、俺には、勝つ自信がある。その自信をけっして忘れてはならない」(ウツボ)大空が視界にひろがり、無上の喜びを機内いっぱいに満たして、零戦は上昇して行く。かねての打ち合わせのとおり、集合場所の大平寺飛行場上空四千メートルめざして上昇を続けた……。(カモメ)以上が、大平寺飛行場に強行着陸した羽切松雄一等航空兵曹の手記ですね。(ウツボ)そうだね。後年、振り返って記したもので、主観的な記述が多いが、それでも、当時の強行着陸の状況や心境がよく分かる貴重な記録だ。(カモメ)昭和十八年七月、羽切松雄飛行兵曹長は、第二〇四航空隊に分隊士として、ソロモン諸島ブーゲンビル島ブインに着任しました。(ウツボ)七月二十五日、レンドバ島迎撃戦に参加。以後九十七回の出撃に参加、熾烈な空戦を行い続け、戦果を挙げた。(カモメ)昭和十八年九月二十三日、連合軍の航空部隊が、ブーゲンビル島のカヒリ飛行場の対空陣地を攻撃に進攻してきたのです。(ウツボ)オーストラリア軍の<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>の編隊が、低速の<ダグラスSBD「ドーントレス」艦上急降下爆撃機>と<グラマンTBF「アベンジャー」雷撃機>を護衛して、対空陣地の攻撃に来襲した。(カモメ)さらに、第二一三海兵戦闘飛行隊と、第二一四海兵飛行戦闘隊の<ヴォ―トF4U「コルセア」艦上戦闘機>の編隊が、飛行場に対して攻撃してきました。(ウツボ)これらの敵機群に対して、日本海軍の第二〇四航空隊は迎撃に出撃した。羽切松雄飛行兵曹長は、<ヴォ―トF4U「コルセア」艦上戦闘機>二機を撃墜した。(カモメ)その後、ソロモン諸島西部のべララベラ島上空で、羽切松雄飛行兵曹長は、<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>と<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>を相手に空戦を行いました。
2019.12.20
(カモメ)漢口基地では、第一二航空隊司令・長谷川喜一大佐以下各幕僚、各隊員が取り巻く中、横山保大尉が戦闘状況と戦果を報告しました。(ウツボ)戦果は、空戦により撃墜したものは六機、地上銃撃で炎上・大破させたものは、炎上一九機、大破一〇機だった。(カモメ)これに対して、日本側の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>の損害は、二機が被弾したが、八機全機が帰還したのですね。(ウツボ)そうだね。この戦果を称えて、支那方面艦隊司令長官・嶋田繁太郎中将は、再び、第一二航空隊に対して、感状を授与してその勲功を称えた。(カモメ)ちなみに、「あゝ零戦一代」(横山保・光人社・昭和四十九年六月・第13刷)には、この大平寺飛行場に強行着陸した羽切松雄一等航空兵曹の手記が次のように掲載されています。(ウツボ)おくれてはならじと、ただちに着陸姿勢に移る。脚を出す。滑走路が。ぐんぐん視界にひろがる。友軍の銃撃で周辺の敵機が燃え上がっている。(カモメ)もうもうたる黒煙が行手をさえぎる。――ガクンと主輪が地上にあたる。敵中着陸――全身が、ぶるぶるとふるえるような興奮――私は、敵の銃撃を油断なく警戒しながら、停止地点に向かった。(ウツボ)そこには、すでに二機の零戦が翼をならべていた。私は三番目だった。続いて最後の一機が着陸した。全機着陸に成功だ。私は天蓋をひらいて地上に飛びおりた。目標はさっき自分が銃撃した北側の引込線だ。(カモメ)東山空曹長と中瀬兵曹の二人が指揮所の方向に、さらに大石空曹長が私と同じ北側の引込線めざして、突っ走った。私も、まるで撃鉄ではじかれたように地上をけった。(ウツボ)引込線までおよそ二百メートル、炎上する敵機から飛び散る火の粉が、地上に落下して滑走路の芝生に燃えうつる。むんむんする熱気が飛行服をとおして肌に感じる。(カモメ)私は、無我夢中で突っ走った。引込線に駆けこんだときは、はげしい動悸と息切れで、いまにもブッ倒れそうであった。全力疾走百メートル、十六、七秒として三十秒だ。しかし、私にはそれが一分にも二分にも感じられた。(ウツボ)私はポケットから、マッチとボロ布をとり出して、放火する飛行機をさがした。ところが、無傷の飛行機のすべてが巧みに偽装された囮のものだった。(カモメ)「なんてこった! これでは戦果にならないじゃないか。えい、いまいましい」 私はくやしさのあまり、拳銃で二、三度、飛行機の胴っ腹を思いきりひっぱたいた。(ウツボ)それでもその中で修理さえすれば可動機となりそうなヤツをえらんで、かねて用意の七ツ道具をとり出して放火しようとした。その瞬間、ヒュルヒュル……と、重たく空気を引き裂く無数の機関銃の音が私の左右を走った。(カモメ)「しまった。銃撃だっ」 私はマッチとボロ布を握った両手をつっ張って、飛び込むように地面に這いつくばった。姿は見えないが、どうやら敵は、私が放火する瞬間を狙って集中攻撃をかけてきたのだ。(ウツボ)飛び散った火の粉の上に伏せているように、地上に押し付けた頬が、やけに熱い。私は両手をあごの下に組んだ。あたかも、のんびりと寝そべっているような格好だが、頭が少し上がったので、それだけ飛んでくる弾丸との距離がせばまり、いまにもグワーンと頭蓋骨をブチ抜かれる気がして、恐怖はいっそう増してくる。(カモメ)ヒュルヒュルという空気の悲鳴は、なおもつづく。「大石はどうした? 中瀬、東山は……」 彼らのようすを知ろうにも、地上にクギづけでは、どうにもならない。(ウツボ)しかし、もしも敵が、包囲作戦に出たら、それこそ袋の中のネズミ同然、脱出の道はなくなる。そして、残されたものはただ一つ、死だ。(カモメ)私は、ふと蜂の巣のように銃弾を浴びて倒れる自分を想像した。恐怖と焦燥が折り重なって、逆まく怒涛のように、私の胸に迫ってきた。(ウツボ)「とうとう俺にも最後がきたか。俺はずいぶん危ない橋をわたってきたが、ついに年貢の納めどきとなったか。どうせ死ぬなら、大空で華々しく死んでやろうと思っていたが、これも俺の運命なのだ。ええい、クソッ、こうなったら、日本男児の死にかたを見せてやるか!」
2019.12.13
(ウツボ)昭和十五年十月四日、羽切松雄一等航空兵曹は、分隊長・横山保大尉の二番機として、成都(中国四川省の省都)空襲に参加した。(カモメ)八時三十分、分隊長・横山保大尉以下の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>八機が、漢口基地を離陸しました。九時三十分、最前線の補給基地、宜昌(ぎしょう=中国湖北省西部)に着陸し燃料を補給しました。(ウツボ)十一時五十分、宜昌を離陸した八機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>は、一路、成都を目指した。(カモメ)八機のうち四機の搭乗員は、前日の夜に話し合い、大平寺飛行場に強行着陸し、地上の敵機を放火して焼き払おうと、計画を立てていました。四機の搭乗員は次の通り。(ウツボ)羽切松雄一等航空兵曹(静岡・第二八期操縦練習生・撃墜数一三機・中尉)。(カモメ)東山市郎航空兵曹長(長野・第二期乙種飛行予科練習生・撃墜数九機・戦死・大尉)。(ウツボ)中瀬正幸一等航空兵曹(徳島・第五期乙種飛行予科練習生・撃墜数一八機・戦死・少尉)。(カモメ)大石英男二等航空兵曹(第二六期操縦練習生・撃墜数六機・戦死・少尉)。(ウツボ)「蒼天録」(野原茂・イカロス出版・134頁・2008年)によると、計画の内容は、強行着陸後、拳銃で燃料タンクを射抜き、漏れ出した燃料にボロ布とマッチで火を点けるという大胆極まりないものだった。(カモメ)軍紀違反の可能性もある無謀な行為だったのですね。(ウツボ)そうだね。二時間余りの飛行後、分隊長・横山保大尉以下八機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>は、成都上空に達し、在空敵機がいないことを確認すると、飛行場の地上の敵機銃撃の為、高度を下げていった。(カモメ)その途中、羽切松雄一等航空兵曹は温江飛行場の東方、高度一五〇〇メートル付近を上昇中の<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>一機を発見、後上方から迫り、一撃で撃墜しました。(ウツボ)大平寺飛行場には、多数の敵機が駐機していたので、八機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>は、それぞれに目標を定めて銃撃を反復、飛行場上空は炎上する敵機の黒煙で覆われた。(カモメ)銃撃終了後、午後二時二十五分頃、四機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>は、打ち合わせ通り、次々に芝生の飛行場に着陸しました。(ウツボ)四人は、それぞれ停止した愛機から地上に降り立ち、銃弾が飛び交う中、走り回り、敵機の焼打ちに取り掛かった。(カモメ)ところが、拳銃の故障や、上空からは分からなかったトーチカの敵兵の猛烈な反撃などで、一機も地上の敵機を焼打ちできなかったのです。四人は、それぞれ愛機に素早く飛び乗り、敵の銃弾を避けながら、どうにか離陸しました。(ウツボ)敵機の焼打ちは出来なかったが、敵飛行場に強行着陸し、機外に飛び出し焼打ちを図ったという勇敢な戦闘行為は、ほとんど例がなかった。(カモメ)なお、羽切松雄一等航空兵曹は、この強行着陸後、帰艦中に<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>三機と空戦を行い、そのうち二機を協同撃墜しました。(ウツボ)一瞬のうちに、二機を撃墜という戦果を挙げたのは、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>がいかに高性能かということと、羽切一等航空兵曹ら日本の戦闘機搭乗員の空戦技量の高さを表している。(カモメ)帰途、午後五時、宜昌に着陸して燃料補給を行った横山保大尉以下八機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>は、午後七時漢口基地に着陸しました。(ウツボ)当時の第一二航空隊司令は、長谷川喜一(はせがわ・きいち)大佐(埼玉・海兵四二期・二七番・航空本部総務部部員・空母「龍驤」副長・大佐・呉航空隊司令・第二一航空隊司令・航空本部技術部第二課長・航空本部技術部第三課長・空母「龍驤」艦長・第一二航空隊司令・空母「赤城」艦長・土浦航空隊司令・少将・航空本部第四部長・第五〇航空戦隊司令官・第二二航空戦隊司令官・昭和十九年三月戦死・中将・享年四十九歳)だった。
2019.12.06
(カモメ)戦後郷里の富士市で半農半漁の生活、昭和二十一年、青年団長に就任。昭和二十二年、再婚。昭和二十八年、弟・羽切崇と運送会社を設立、役員に就任。(ウツボ)昭和二十九年、富士市議会議員、以後四期務め、市議会議長にも就任。昭和四十二年、自由民主党所属として、静岡県議会議員当選、以後四期(~昭和五十八年)務める。(カモメ)昭和五十二年、藍綬褒章受章。静岡県トラック協会会長に就任、八年間務める。平成九年一月十五日、羽切松雄はガンで病死。享年八十三歳。趣味は囲碁と読書でした。(ウツボ)著書として、「さらばラバウル」(羽切松雄・山王書房・238頁・1967年)、「大空の決戦 零戦搭乗員空戦録」(羽切松雄・文芸春秋・329頁・2000年)がある。<空戦記録>(カモメ)昭和十二年七月七日の盧溝橋事件を発端として支那事変が勃発しました。昭和十三年六月末、<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で出撃、中国の安慶上空で、<ツポレフSB双発軽爆撃機(ソ連製)>を一機撃墜しました。これが初撃墜でした。(ウツボ)昭和十五年七月十五日、羽切松雄一等航空兵曹は、第一二航空隊に配属。初出撃は、八月十九日だった。(カモメ)当時の分隊長は、横山保(よこやま・たもつ)大尉(神奈川・海兵五九期・第二六期飛行学生・戦闘機搭乗員・中尉・大分航空隊分隊長・第十三航空隊分隊長・空母「蒼龍」・大尉・横須賀航空隊・第十二航空隊分隊長・少佐・第三航空隊飛行隊長・大分航空隊飛行長・第204航空隊飛行隊長・第十一航空艦隊参謀・第二十六航空戦隊参謀・筑波航空隊飛行長・第二〇三航空隊飛行長・中佐・終戦・航空自衛隊入隊・幹部学校教育部長・第一航空団副司令・中部航空方面隊司令部幕僚長・空幕総務課長・空将補・第七航空団司令・昭和五十六年三月死去・享年七十一歳・著書「あゝ零戦一代」)でした。(ウツボ)初出撃では、羽切松雄一等等航空兵曹は、横山保大尉の二番機として出撃した。だが、会敵しなかった。(カモメ)昭和十五年九月十三日、羽切松雄一等航空兵曹は、初めて<零戦・三菱零式艦上戦闘機>に搭乗し出撃しました。(ウツボ)この時の分隊長は、進藤三郎(しんどう・さぶろう)大尉(神奈川・海兵六〇・第二六期飛行学生・戦闘機操縦課程・空母「加賀」乗組・佐伯航空隊分隊長・大尉・第一三航空隊分隊長・第一二航空隊分隊長・第一四航空隊分隊長・空母「赤城」分隊長・徳島航空隊飛行隊長・第五八二航空隊飛行隊長・少佐・第二〇四航空隊飛行隊長・空母「龍鳳」飛行長・第六五三航空隊附・第二〇三航空隊飛行長・筑波航空隊飛行長・終戦・福島県沼沢鉱山鉱山長・東洋工業(マツダ)・山口マツダ常務取締役・平成十二年二月死去・享年八十八歳)だった。(カモメ)当日は、重慶を爆撃する<三菱・G3M・九六式陸上攻撃機・双発>編隊の護衛として、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>一三機が出撃したのですね。(ウツボ)そうだね。この出撃では、中国空軍の大編隊、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>と<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>の合計三三機と遭遇、大空戦となった。(カモメ)この空戦で日本の零戦隊は中国空軍機三三機のうち二七機を撃墜したのです(中国側資料では一三機)。日本側の損害は〇機だったのです。(ウツボ)当時の支那方面艦隊司令長官は、嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)中将(東京・海兵三二期・二七番・海大一三期・駐イタリア大使館附武官・練習艦隊参謀・軍令部参謀・中佐・戦艦「日向」副長・海軍大学校教官・大佐・第七潜水隊司令・二等巡洋艦「多摩」艦長・戦艦「比叡」艦長・少将・第二艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・潜水学校校長・第三艦隊参謀長・軍令部第三班長・軍令部第一班長・軍令部第一部長・中将・軍令部次長・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・軍令部総長・終戦・終身刑・昭和五十一年六月死去・享年九十二歳・正三位・勲一等瑞宝章・功二級・イタリア王冠勲章コンメンダトーレ等)だった。(カモメ)進藤三郎大尉、羽切松雄一等航空兵曹らの<零戦・三菱零式艦上戦闘機>戦闘機隊は、この空戦の功績で、支那方面艦隊司令長官・嶋田繁太郎中将から感状を授与され、この空戦(壁山空戦=中国名)は内地でも大きく報道されました。
2019.11.29
(ウツボ)出撃から二時間後、帰投したのは二機だけだった。私は半田飛曹長に向かって大声で呼びかけた。(カモメ)「本田はどうしました?」(ウツボ)半田飛曹長は首をうなだれて、私の手をとるなり、「申し訳ない、本田は食われた。俺の不注意からだ。済まない。許してくれ」と言った。(カモメ)半田飛曹長の指揮所での報告を聞きながら、本田が敵地上空で火焔に包まれて墜ちてゆく姿が目に見えるようで、また心中の無念さが思われて堪えられない気持ちだった。【羽切松雄(はぎり・まつお)中尉・13機】(ウツボ)羽切松雄は、大正二年十一月十日生まれ。静岡県田子浦村(現・富士市)出身。昭和七年六月、横須賀海兵団入団。十一月、巡洋艦「摩耶」(一二七八一トン)に三等機関兵として乗組。(カモメ)昭和十年二月、第二八期操縦練習生、霞ケ浦航空隊。八月、戦闘機専修、館山航空隊で延長教育。昭和十一年十一月、大湊航空隊配属。(ウツボ)昭和十二年十月、大村航空隊配属。空母「蒼龍」(一八四四八トン)乗組。三等航空兵曹。(カモメ)昭和十三年五月、空母「蒼龍」(一八四四八トン)で中国へ進出、支那事変に参加。六月、中国の安慶上空で初撃墜。(ウツボ)昭和十四年十一月、横須賀航空隊配属、二等航空兵曹。12試艦上戦闘機(後の零式艦上戦闘機)の実験に参加、中国の漢口に進出。(カモメ)昭和十五年七月十五日、第十二航空隊配属。八月十九日、羽切松雄一等航空兵曹は横山保大尉の二番機として出撃するも会敵なし。(ウツボ)十月四日、横山保大尉の二番機として成都(中国の四川省の省都)空襲に参加。羽切松雄一等航空兵曹は、勇敢にも他の三機とともに大平寺飛行場に強行着陸し、地上の敵機に放火するという空前絶後の戦闘行為を行った。(カモメ)昭和十六年七月二十三日、羽切松雄一等飛行兵曹は、過労による胃痙攣を起こし、内地に転勤。筑波航空隊で専任教員。(ウツボ)昭和十六年十二月八日、太平洋戦争開戦。昭和十七年四月一日、飛行兵曹長に進級。八月、横須賀航空隊配属。J2M1(雷電)の試験飛行、三号爆弾、反跳爆弾のテスト飛行等、各種飛行実験に従事。(カモメ)昭和十八年初頭、羽切松雄飛行兵曹長は、<零戦・三菱零式艦上戦闘機三二型>による荷重実験を行い、8.6Gの荷重に耐え、専門家を驚かせました。(ウツボ)昭和十八年七月、第二〇四航空隊配属、分隊士。ブーゲンビル島ブイン(ソロモン諸島)に進出。七月二十五日、レンドバ島(ソロモン諸島・ニュージョージア諸島南西部)迎撃戦に出撃。その後、九十七回の出撃を行った。(カモメ)九月二十三日、べララベラ島(ソロモン諸島・ニュージョージア島西部)上空の空戦で右肩後ろから機銃弾が貫通し重傷を負うも、帰投。(ウツボ)十月十日、病院戦「高砂丸」(九三一五トン)で内地に帰還、横須賀海軍病院に入院。十一月十八日、長女・由美子が病死。リハビリの結果、再び操縦桿を握れるまで回復。(カモメ)昭和十九年三月、羽切松雄少尉は横須賀航空隊配属。十月十七日、弟の羽切四郎がフィリピン方面で戦死。(ウツボ)昭和二十年二月十七日、横浜市杉田上空で、一機撃墜。羽切松雄少尉の列機・山崎卓上等飛行兵曹が、被弾して落下傘降下するも地元警防団に米兵と間違われ撲殺された。三月二日、妻・文子が死去。三月十日、末弟・羽切忠雄が戦死。 カモメ)四月十二日、下田上空で<川西・紫電改・局地戦闘機>で空戦中、負傷、熱海の海軍病院(古屋旅館)に入院。五月一日、中尉に進級。(ウツボ)昭和二十年八月十五日、入院中に終戦。羽切松雄中尉の総撃墜数は一三機。
2019.11.22
(カモメ)昭和十五年十一月、半田亘理一等航空兵曹は、航空兵曹長に進級し、除隊しましたが、即日召集となったのです。(ウツボ)太平洋戦争開戦後、昭和十七年二月、半田亘理飛行兵曹長は台南航空隊に転属。ラバウル、ニューギニア各地を転戦し、年末までに七機を撃墜した。(カモメ)昭和十七年五月十三日、半田亘理飛行兵曹長は、坂井三郎上等飛行兵曹(佐賀・第三八期操縦練習生・首席・中尉・撃墜数六四期)に対して、列機の本田敏秋三等飛行兵曹(福岡・第四九機操縦練習生・戦死・一等飛行兵曹・撃墜数五機)をポートモレスビー攻撃へ貸して欲しいと頼んだのですね。(ウツボ)そうだね。坂井三郎上等飛行兵曹はしぶしぶ了承し、本田敏秋三等飛行兵曹は半田亘理飛行兵曹長の列機として出撃することになった。(カモメ)本田敏秋三等飛行兵曹も、坂井三郎上等飛行兵曹の列機を離れて、行きたくはなかったのですが、任務なので出撃したのです。(ウツボ)だが、この出撃で、本田敏秋三等飛行兵曹は戦死した。このことは、半田亘理飛行兵曹長にとって、衝撃だった。(カモメ)昭和十七年十二月、半田亘理飛行兵曹長は肺結核と診断され、内地に送還されました。内地では、人吉航空隊の高原飛行場跡近くに定住して、再び操縦桿を握る日を夢見て療養に努めていました。(ウツボ)昭和二十年八月十五日、終戦。終戦時の階級は中尉。半田亘理中尉の公認撃墜数は一三機。(ウツボ)半田亘理中尉は、死が迫りくる病床で、妻に次のように話した。(カモメ)「自分は人生を精一杯、勇敢に生きた。しかし、坂井の列機をラエで失わせたことだけは、自分を許せない」。(ウツボ)半田亘理中尉は、昭和二十三年十月二十一日に病死した。享年三十七歳。昭和五十八年八月、熊本県人吉市の相良護国神社に追悼碑が建立された。(カモメ)なお、本田敏秋三等飛行兵曹戦死について、「坂井三郎空戦記録(全)」(坂井三郎・出版協同社・昭和四十一年・三版)で、著者の坂井三郎は次のように述べているのです(要旨抜粋)。(ウツボ)われらの英雄半田飛曹長出撃の日が遂に来た。モレスビー敵基地の強行偵察だ。半田飛曹長を小隊長とし、モレスビーの状況に詳しい遠藤一飛曹を二番機、そして三番機には私の最も愛する(私の)二番機本田二飛曹が所望された。(カモメ)本田二飛曹は開戦以来私の片腕として常に私の二番機を勤め、終始生死を共にして来た間柄なので、私にとっては戦友愛以上――いや、骨肉以上のものを彼には感じていた。(ウツボ)彼もまた私に対して同様であったと思う。だから、たとえ一時とはいえ、私から離れて他の上官の列機として出撃するということには、気の進まないものが有ったのも無理はない。(カモメ)私と死ぬのが与えられた運命であるかの如く信じ込んでいる彼にとっては、空の英雄と共に出撃する光栄もさりながら、やはり何か心にわだかまるものがあるらしい。(ウツボ)出撃の時間もギリギリに迫った頃、本田二飛曹は私の傍へやって来た。心なしか、少しションボリしているように思えた。それでも顔だけは、いつものように笑っていた。(カモメ)「小隊長! 今日は小隊長と一緒でないのが残念です!」(ウツボ)私も、わざと笑ってそれを受けた。(カモメ)「バカを言え、今日は空戦の神様初の御出陣だぞ。それにお伴できるなんて、願ってもない戦闘機乗りの冥加だ。有難く思え」(ウツボ)「なァ、本田、今日のは、まだ敵地に慣れない半田飛曹長の初めての出撃でもあり、また強行偵察でもある。隠密にやらなきゃならん。そのために三機しか行けないんだ。だから俺もついて行けないんだ。俺も残念だよ。だけど任務は重いぞ、しっかり頼むぞ」(カモメ)彼は「ハイ、わかりました。元気で行って来ます」と私の眼を覗き込むようにして答えた。そして出撃していった。
2019.11.15
【半田亘理(はんだ・わたり)中尉・13機】(カモメ)半田亘理は明治四十四年八月二十二日生まれ。福岡県久留米市出身。昭和三年、佐世保海兵団入団、艦船勤務。昭和七年十月、第一九期操縦練習生。(ウツボ)昭和八年三月操縦練習生卒業、戦闘機専修課程修了。空母「龍驤」(一一七三三トン)飛行隊配属。その後、大村航空隊配属。(カモメ)昭和十二年八月、<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>の操縦員として、空母「加賀」(二九五〇〇トン)飛行隊配属、上海戦線で戦う。(ウツボ)九月七日、五十嵐周正大尉の二番機として出撃。三機で艦攻隊を援護中、太湖(中国の江蘇省南部と浙江省北部の境界にある大きな湖)の上空で、<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>七機と遭遇した。(カモメ)この空戦で、半田亘理一等航空兵曹は、<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>を一機撃墜しました。これが半田亘理二等航空兵曹の初撃墜となりました。(ウツボ)昭和十二年九月二十日、南京第四次空襲に艦攻、艦爆援護任務で<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で出撃。午後一時、南京上空で。半田亘理一等航空兵曹は<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>三機と空戦に入り、二機を撃墜した。(カモメ)最後の一機は、半田亘理一等航空兵曹に追われて、南京西部の揚子江上流に停泊している外国艦艇の上空に逃げ込んだのです。(ウツボ)半田亘理一等航空兵曹は、外国艦艇から射撃を受けたため、追撃を中止し、撤収した。(カモメ)10月17日、韶関(しょうかん=中国山東省の都市)空襲に向かう<空技廠・B4Y・九六式艦上攻撃機・複葉>の護衛で半田亘理一等航空兵曹は他の三機とともに<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で出撃しました。(ウツボ)指揮官は、新郷英城(しんごう・ひでき)中尉(佐賀・海兵五九期・第二五期飛行学生・中尉・空母「龍驤」乗組・大分航空隊分隊長・大尉・鹿屋航空隊分隊長・霞ケ浦航空隊分隊長・台南航空隊分隊長・第六航空隊飛行隊長・元山航空隊飛行隊長・空母「翔鶴」飛行隊長・少佐・築城航空隊飛行隊長・第三三一航空隊飛行隊長・第252航空隊飛行長・終戦・中佐・北海道庁警察部・農協主事・航空自衛隊入隊・二等空佐・一等空佐・空将補・第二航空団司令・航空総隊司令部幕僚長・航空幕僚監部監察官・北部航空方面隊司令官・空将・航空自衛隊幹部学校長・退官・勲三等瑞宝章・昭和五十七年十一月二十七日死去・享年七十一歳・従四位)だった。(カモメ)韶関手前の上空で迎撃に上がった中国空軍の<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>五機と空戦になり、日本側は敵機四機を撃墜、半田亘理一等航空兵曹はそのうちの一機を撃墜しました。(ウツボ)昭和十三年六月、半田亘理一等航空兵曹は、第一五航空隊に転属した。(カモメ)七月十八日、南昌空襲に艦戦隊の第三小隊一番機として半田亘理一等航空兵曹は、<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で出撃しました。(ウツボ)艦戦隊の指揮官は、南郷茂章(なんごう・もちふみ)大尉(広島・海兵五五期・第二二期飛行学生・空母「赤城」乗組・大尉・英国大使館附武官補佐官・横須賀海軍航空隊分隊長・大分海軍航空隊分隊長・第一三航空隊分隊長・空母「蒼龍」飛行隊長・第一五航空隊飛行隊長・昭和十三年七月十八日鄱陽湖上空で戦死・享年三十二歳・少佐・撃墜数八機)だった。(カモメ)南昌の青雲譜飛行場南方五キロで、迎撃に上がって来たソ連空軍志願隊の<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>と<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>六機と、中国空軍の<グロスター「グラディエーター」複葉戦闘機>編隊と空戦になったのですね。(ウツボ)そうだね。この空戦で、半田亘理一等航空兵曹は、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>二機(うち不確実一機)を撃墜した。(カモメ)なお、この空戦で、指揮官・南郷茂章大尉は、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>一機を撃墜しました。ところが、南郷茂章大尉は、墜落する敵機と衝突して戦死したのです。(ウツボ)昭和十三年十一月、内地に帰還。この時点で、半田亘理一等航空兵曹は、一五機を撃墜していたが、公認は六機だった。
2019.11.08
(ウツボ)昭和十七年八月七日、台南航空隊は、ラバウルから、初めての片道九〇〇キロにも及ぶガダルカナルへの長距離攻撃に出撃した。(カモメ)一七機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>が、二七機の<三菱・G4M・一式陸上攻撃機・双発>を援護して、ガダルカナルの米軍上陸地点を攻撃する作戦でした。(ウツボ)遠藤桝秋二等飛行兵曹は、笹井醇一(ささい・じゅんいち)中尉(東京・海兵六七期・第三五期飛行学生・台南航空隊・第二五航空戦隊・中隊長・昭和十七年八月二十六日ガダルカナル飛行場で戦死・享年二十四歳・二階級特進で少佐・撃墜数五四機)の小隊の二番機だった。(カモメ)この空戦で、遠藤桝秋二等飛行兵曹は、<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>一機と、<ダグラスSBD「ドーントレス」艦上急降下爆撃機>二機を撃墜しました。(ウツボ)八月十一日、遠藤桝秋二等飛行兵曹は、出撃し、敵戦闘機と空戦に入りましたが、この戦闘で、負傷した。(カモメ)回復後も、ガダルカナル攻撃に参加しましたが、多数の古参搭乗員が戦死していく中で、遠藤桝秋二等飛行兵曹は、その飛行技術で生き残ったのですね。(ウツボ)そうだね。昭和十七年十一月、台南航空隊は、第二五一航空隊として再編成されることになり、遠藤桝秋二等飛行兵曹ら生き残ったわずかな搭乗員は、本土に帰還した。(カモメ)本土に帰還した遠藤桝秋二等飛行兵曹は、教官配置となり、若い戦闘機操縦者に、自分の空戦経験を通して厳しい訓練指導を行いました。(ウツボ)昭和十八年五月、遠藤桝秋二等飛行兵曹は、第二五一航空隊附として、再びラバウルに進出した。(カモメ)五月十四日、遠藤桝秋二等飛行兵曹は、オロ湾の敵艦船を攻撃する陸攻爆撃隊の直掩で出撃し、敵戦闘機一機を撃墜しました。(ウツボ)翌五月十五日、オロ湾で不時着した陸攻の捜索の為出撃、空中戦を行った。日本側は指揮官を撃墜された。五月十八日、二十二日は、索敵攻撃で出撃。(カモメ)昭和十七年六月七日、ルッセル島諸島攻撃に、遠藤桝秋二等飛行兵曹は第二中隊第一小隊の二番機として出撃しました。(ウツボ)この航空戦は、八一機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>と、一〇〇機を超えるアメリカとニュージーランドの連合軍が激突、大空中戦になった。(カモメ)遠藤桝秋二等飛行兵曹は<零戦・三菱零式艦上戦闘機>で、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>一機撃墜を報告しました(実際には撃墜されていなかった)。(ウツボ)その直後、ヘンリー・E・マトソン少尉の操縦する<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>に攻撃され、遠藤桝秋二等飛行兵曹の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>の機体は火を噴いた。(カモメ)敵を道連れにしようと、遠藤桝秋二等飛行兵曹は、燃える愛機<零戦・三菱零式艦上戦闘機>を敵機、ヘンリー・E・マトソン少尉の<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>にぶつけたのですね。(ウツボ)そうだが、具体的には、両機とも正面から撃ち合いになり、遠藤桝秋二等飛行兵曹は回避行動をせず衝突した。(カモメ)その結果、ヘンリー・E・マトソン少尉の<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>のプロペラが、遠藤桝秋二等飛行兵曹の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>の主翼の付け根を打ち砕いたのです。(ウツボ)ヘンリー・E・マトソン少尉は、顔、首、手を焼かれ、プレキシガラス(アクリル樹脂・日本の戦闘機も使用)の粉を浴びながらも、高度五五〇〇メートルからパラシュートで脱出し、救出された。(カモメ)ニュージーランド空軍のデイビス少尉は、墜落して海に落ちていきつつある<零戦・三菱零式艦上戦闘機>の搭乗員(遠藤桝秋二等飛行兵曹)が、脱出もせず、デイビス少尉らに敬礼して最期を遂げたのを見て感動したと述べています。(ウツボ)遠藤桝秋二等飛行兵曹は、ルッセル島上空で戦死した。享年二十二歳。だが、この戦闘での<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>の撃墜は公認された。公認撃墜数は一四機。
2019.11.01
(ウツボ)昭和十九年七月、小八重幸太郎上等飛行兵曹は、新編成の戦闘七〇一飛行隊に転出、台湾沖航空戦、レイテ航空戦で戦った。(カモメ)本土帰還後、昭和十九年九月、小八重幸太郎上等飛行兵曹は、神奈川県追浜で、第三四三航空隊の戦闘七〇一飛行隊に編入されたのですね。(ウツボ)そうだね。その後、小八重幸太郎上等飛行兵曹は、<川西・紫電・局地戦闘機>と<川西・紫電改・局地戦闘機>で、西日本防空戦に従事した。(カモメ)昭和二十年八月十五日、小八重幸太郎上等飛行兵曹は、大村航空隊で終戦を迎えました。二十二歳でした。撃墜数は一五機。【古賀清澄(こが・きよと)飛行兵曹長■殉職・14機】(ウツボ)古賀清澄は、明治四十三年生まれ。福岡県出身。昭和二年、佐世保海兵団入団。昭和五年五月、操縦練習生課程修了、戦闘機搭乗員になる。(カモメ)昭和十二年八月、第一三航空隊配属、中国の上海に進出。(ウツボ)昭和十二年九月十九日、古賀清澄一等航空兵曹は、中国軍戦闘機と最初の空戦を行い、<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>を二機、初撃墜した。(カモメ)その三日後の、九月二十二日、古賀清澄一等航空兵曹は、さらに二機の<カーチス「ホーク」複葉戦闘機>を撃墜したのです。(ウツボ)十月二十四日、南京上空で、<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>を一機撃墜し、国際基準で言うところの撃墜王となった。(カモメ)また、十一月二日に、敵爆撃機を一機、十一月九日には、<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>を三機撃墜しました。(ウツボ)その後も戦果を上げ、日中戦争において、古賀清澄一等航空兵曹は、一一機の戦闘機と二機の爆撃機を撃墜という記録を出した。(カモメ)当時の支那方面艦隊司令長官は、長谷川清(はせがわ・きよし)中将(福井・海兵三一期・六番・海大一二・海軍省人事局局員・大佐・海軍省人事局第一課長・在米国大使館附武官・装甲巡洋艦「日進」艦長・戦艦「長門」艦長・少将・横須賀鎮守府参謀長・第二戦水戦隊司令官・艦政本部第五部長・呉工廠長・ジュネーヴ会議全権随員・中将・ジュネーブ会議全権・海軍次官・第三艦隊司令長官・支那方面艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・第十八代台湾総督・軍事参議官・高等技術会議議長・終戦・昭和四十五年九月死去・享年八十七歳・正三位・勲一等・功一級)でした。(ウツボ)日中戦争の傑出した戦果の功績により、古賀清澄一等航空兵曹は、支那方面艦隊司令長官・長谷川清中将より個人感状を授与され、さらに、航空兵曹長に特別進級した。(カモメ)その後も、古賀清澄航空兵曹長は、多数の作戦に従事し空戦の日々を送り、昭和十三年初頭、本土に帰還し、教官を命ぜられたのですね。(ウツボ)そうだね。ところが、その後、昭和十三年九月十五日、古賀清澄航空兵曹長は、横須賀航空隊で、夜間飛行演習を指揮中、墜落し、病院に運ばれた。(カモメ)だが、翌九月十六日に古賀清澄航空兵曹長は、死亡しました。享年二十八歳。公認の撃墜数は一三機ですが、複数の資料では一四機となっています。【遠藤桝秋(えんどう・ますあき)一等飛行兵曹■戦死・14機】(ウツボ)遠藤桝秋は、大正九年十二月二十日生まれ。福島県出身。昭和十三年六月、海軍に飛行予科練習生(乙種)九期生として入隊。(カモメ)飛行予科練習生(乙種)九期生は、卒業者一九一名中、一六七名が戦死しており、戦死率八七パーセントという過酷なクラスでした。(ウツボ)遠藤桝秋三等飛行兵曹は、さらに延長教育を受け、戦闘機操縦者課程を昭和十六年十月、卒業した。ちなみに、遠藤桝秋は、身長一八〇センチの大男だった。(カモメ)昭和十七年二月、遠藤桝秋三等飛行兵曹は、ラバウルの第四航空隊に配属されました。その後、台南航空隊に転属、ラエ、東部ニューギニア、ソロモン航空戦に出撃、戦果を上げました。
2019.10.25
(カモメ)吉野俐上等飛行兵曹は、第四航空隊の中核の古参搭乗員として、モレスビー、ホーン岬などの激しい空戦に出撃を繰り返し、戦果を上げたのですね。(ウツボ)そうだね。その後、吉野俐上等飛行兵曹は、台南航空隊に転属、飛行兵曹長に昇進した。(カモメ)昭和十七年六月九日、吉野俐飛行兵曹長らは、ラエを爆撃に来た爆撃機編隊を迎撃するため出撃しました。(ウツボ)味方の一個編隊が、敵重爆撃機を攻撃している間、他の日本の戦闘機隊は、敵第三九飛行隊の<ベルP‐400「エアロコブラ」単発戦闘機>(<ベルP-39「エアラコブラ」単発戦闘機>の輸出型)と空戦に入った。(カモメ)吉野俐飛行兵曹長も<ベルP‐400「エアロコブラ」単発戦闘機>と空戦を行ったが、カラン・L・ジョーンズ陸軍中尉により、ワード・ハント岬で撃墜された。(ウツボ)吉野俐飛行兵曹長は、戦死後、少尉に特別進級した。(カモメ)カラン・L・ジョーンズ陸軍中尉は、後に<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>で、撃墜王となりました。(ウツボ)坂井三郎(さかい・さぶろう)中尉(佐賀・海軍砲術学校・第三八期操縦練習生・首席・佐伯航空隊・大村航空隊・三等飛行兵曹・第一二航空隊・二等航空兵曹・大村航空隊・高雄航空隊・第一二航空隊・一等飛行兵曹・台南航空隊・第二五航空戦隊・ラバウル・ガダルカナル島上空で被弾・重症・内地送還・飛行兵曹長・大村航空隊教官・横須賀航空隊・硫黄島・少尉・第三四三航空隊・横須賀航空隊・終戦・中尉・撃墜数六四機)は、吉野俐少尉と同僚だった。(カモメ)昭和六十三年、坂井三郎元中尉は、アメリカのテキサス州フレデリックスバーグで行われたシンポジウム会場でカラン・L・ジョーンズと会見しました。(ウツボ)その時、坂井三郎元中尉は、「私の仲間で、」と言った。(カモメ)吉野俐少尉の総撃墜数は、台南航空隊の記録によれば、一五機とされています。【小八重幸太郎(こやえ・こうたろう)上等飛行兵曹・15機】(ウツボ)小八重幸太郎は、大正十二年三月十五日生まれ。宮崎県那珂郡出身。昭和十六年十月、丙種飛行予科練習生七期に採用。(カモメ)昭和十七年十一月、第二四期飛行練習過程卒業、大村航空隊で延長教育を受け、戦闘機操縦者となりました。(ウツボ)その後、小八重幸太郎一等飛行兵曹は、空母「瑞鳳」(一三一〇〇トン)戦闘機隊に配属された。(カモメ)戦闘機隊の隊長は、中川健二(なかがわ。けんじ)大尉(東京・海兵六七期・空母「瑞鳳」戦闘隊隊長・第二五三航空隊・第六五三航空隊飛行隊長・少佐・撃墜数八機)でした。(ウツボ)昭和十八年三月、空母「瑞鳳」(一三一〇〇トン)は、トラック島に進出、「い」号作戦に参加した。次いで十一月、「ろ」号作戦にも参加した。(カモメ)昭和十八年十一月二日、ラバウル迎撃戦で、小八重幸太郎一等飛行兵曹は、<零戦・三菱零式艦上戦闘機二一型>で、敵機<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>二機を撃墜し、初戦果を上げました。(ウツボ)戦闘機隊のラバウル引き揚げ後、小八重幸太郎一等飛行兵曹は、中川健二大尉とともに第二五三航空隊に編入された。(カモメ)ラバウルでは、連日、優勢な敵との空中戦で、激闘を繰り返したが、戦果を上げ、生き延びました。その後、小八重幸太郎上等飛行兵曹は本土に帰還しました。(ウツボ)宮崎県の郷里に帰省中の小八重幸太郎上等飛行兵曹は、夜、機位を失った陸攻を発見すると、オルヂス発光信号(強烈な光を発する信号灯)で連絡し、遭難を未然に防いだ。(カモメ)この小八重幸太郎上等飛行兵曹の善行に対して、大村航空隊司令・大竹嘉重郎(おおたけ・かじゅうろう)大佐(栃木・海兵四八期・中佐・練習艦「香取」副長・大佐・大村海軍航空隊司令)より、表彰状が授与されました。
2019.10.17
(ウツボ)昭和十七年六月、南義美一等飛行兵曹は、大村航空隊の教員に転属、本土に帰還した。十一月、南義美一等飛行兵曹は、上等飛行兵曹(階級名改称)に、昭和十八年には、飛行兵曹長に進級した。(カモメ)昭和十九年二月、南義美飛行兵曹長は、第六〇一航空隊に配属され、空母「大鳳」(三四七五三トン)に乗組んで、シンガポールのバトパハ基地に進出しました。(ウツボ)昭和十九年六月十九日のマリアナ沖海戦では、南義美飛行兵曹長は、第一大隊の第四小隊長として、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>で、アメリカ機動部隊に対する、第一次攻撃隊の制空隊に加わり出撃した。(カモメ)進撃中、敵機の大群と遭遇、熾烈な空戦を行い、その後、南義美飛行兵曹長は、列機とともに、帰艦、空母「大鳳」に着艦しました。(ウツボ)だが、空母「大鳳」は、アメリカ海軍の潜水艦「アルバコア」により雷撃を受け、六月十九日午後四時過ぎに沈没した。その際、南義美飛行兵曹長は、負傷した。(カモメ)本土に帰還後、昭和十九年八月、南義美飛行兵曹長は、少尉に進級、第六五三航空隊戦闘第一六四飛行隊に配属されました。(ウツボ)昭和十九年十月、捷号作戦が発動され、南義美少尉は、空母「千代田」(一三六四七トン)に乗組み、比島沖海戦に出撃した。(カモメ)十月二十四日、二十五日の二日間の、母艦上空直衛任務で、南義美少尉は、<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>四機を撃墜しました。(ウツボ)その後、南義美少尉の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>は海上に不時着水した。だが、軽巡洋艦「大淀」(一〇四一六トン)に救助された。(カモメ)引き続き、レイテ作戦に参加し、戦闘第三〇二飛行隊に配属されました。その後、特別攻撃隊に編入されたのですね。(ウツボ)そうだね。昭和十九年十一月二十五日、南義美少尉は、第三神風特別攻撃隊笠置隊隊員として、爆装<零戦・三菱零式艦上戦闘機>で出撃した。(カモメ)南義美少尉は、爆装<零戦・三菱零式艦上戦闘機>で、比島東方海上のアメリカ軍機動部隊に突入、壮烈な戦死を遂げたのです。(ウツボ)日華事変以来の、エースの熟練搭乗員としては、数少ない特攻戦死者の一人となった。戦死後、全軍に布告され、二階級特進で大尉に進級した。(カモメ)南義美大尉は、昭和十二年九月の第三次南京空襲で初めての空戦以来、七年間、熾烈な空戦を続けました。(ウツボ)また、数々の空母に乗り込み、戦闘機隊員として真珠湾攻撃を初め、主要な海戦に参加、苦闘の戦闘であったが、総撃墜数一五機の戦果を出した。(カモメ)さらに、最期は、特攻隊員として、敵機動部隊に突入、戦死したのですね。(ウツボ)そうだね。まさに戦いに明け、戦いに暮れた、戦闘機乗りとしての一生だった。享年二十九歳。【吉野俐(よしの・さとし)少尉■戦死・15機】(カモメ)吉野俐は、大正七年生まれ。千葉県出身。昭和九年六月一日、乙種予科飛行練習生入隊。昭和十二年八月、乙種予科飛行練習生(五期)卒業、延長教育。(ウツボ)昭和十三年三月、延長教育終了後、本土の陸上基地で勤務。その後、空母「蒼龍」(一五九〇〇トン)配属。後に千歳航空隊に異動。(カモメ)昭和十六年十月、マーシャル島に進出。昭和十七年一月、ラバウルの第四航空隊に配属。(ウツボ)昭和十七年二月十一日、吉野俐一等飛行兵曹は、<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>三機の列機とともに、ニューブリテン島のガスマタで、敵爆撃機編隊を発見、攻撃に移った。(カモメ)敵編隊は、オーストラリア空軍の<ロッキード「ハドソン」双発爆撃機>三機で、吉野俐一等飛行兵曹らは、繰り返し攻撃を行い、二機を撃墜しました。(ウツボ)二月十三日、吉野俐一等飛行兵曹は、再び、ニューブリテン島のガスマタで、<ロッキード「ハドソン」双発爆撃機>一機を撃墜した。
2019.10.11
(ウツボ)昭和十八年二月、内南洋に後退。その後、周防元成大尉は、ウェーク島派遣隊指揮官になったが、十月六日の大空襲で、部隊は全滅した。(カモメ)周防元成大尉は、生き残った搭乗員とともに、ルオット基地に収容されたのですね。(ウツボ)そうだね。昭和十八年十一月二十四日、周防元成大尉は、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>一九機を指揮してマキン島攻撃に出撃した。(カモメ)だが、進撃途中の洋上で、<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>編隊に奇襲され、周防元成大尉も燃料タンクに被弾して、ミレ島に着陸、攻撃は失敗に終わったのです。(ウツボ)昭和十九年三月、周防元成大尉は、本土に帰還。五月、少佐。元山航空隊飛行長、築城航空隊飛行長を歴任。昭和二十年八月十五日終戦。(カモメ)周防元成少佐の空戦技術は、士官搭乗員の中でも随一だったのです。沈着冷静で寡黙、武人タイプの名手と称されました。支那事変における個人撃墜数一一機は、士官搭乗員の中で最高撃墜数でした。総撃墜数は一五機。(ウツボ)戦後、航空自衛隊入隊。一等空佐。航空幕僚監部防衛部運用課長。昭和三十五年八月、実験航空隊司令。(カモメ)昭和三十九年一月、空将補。三月、第二航空団司令兼千歳基地司令。昭和四十年三月、航空自衛隊第五術科学校校長。(ウツボ)昭和四十一年二月、保安管制気象団司令。昭和四十二年十一月、航空自衛隊退官、空将。昭和五十六年死去。享年六十八歳。【南義美(みなみ・よしみ)大尉■戦死・15機】(カモメ)南義美は大正四年十二月十五日生まれ。香川県綾歌郡出身。昭和八年六月、呉海兵団入隊。昭和十年五月、霞ケ浦航空隊入隊。十一月、第三〇期操縦練習生課程卒業、戦闘機操縦者。佐伯航空隊、大村航空隊で延長教育。(ウツボ)昭和十二年七月、日華事変勃発と同時に、第一三航空隊へ配属、上海に進出。九月二十日、第三次南京空襲に参加、初の空戦を行った。(カモメ)昭和十三年五月三十一日、漢口攻撃には、南義美三等航空兵曹は、九機の<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>の中の一機として出撃しました。(ウツボ)指揮官は、吉富茂馬(よしとみ・しげま)大尉(佐賀・海兵五五・三四番・海大三八・大尉・第一二航空隊飛行隊長・少佐・築城航空隊飛行長・中佐・南東方面艦隊航空甲参謀・第二〇三航空隊司令・終戦)だった。(カモメ)漢口上空で、敵戦闘機約五〇機と空中戦となりました。南義美三等航空兵曹は、この空戦で敵機一機を撃墜しましたが、愛機も燃料タンクに被弾したのですね。(ウツボ)そうだね。弾丸も尽きたので、南義美三等航空兵曹は、敵機に体当たりを決行し、撃墜した。南義美三等航空兵曹の愛機は、左主翼の日の丸部分から外側を失った。(カモメ)だが、冷静な操縦で、奇跡的に機体の安定をとりもどし、片翼機を巧みに操りながら、帰路につき、揚子江河畔に不時着したのです。(ウツボ)南義美三等航空兵曹は、軍規により、愛機を焼却した。その時、味方の哨戒艇が駆けつけ、救助してくれて、生還した。(カモメ)この南義美三等航空兵曹の、戦功に対して、特別善行章一線が付与されました。(ウツボ)昭和十三年九月、本土帰還となった。この時点で、南義美三等航空兵曹の撃墜数は九機だった。(カモメ)本土帰還後、南義美二等航空兵曹は、佐伯航空隊、大村航空隊を経て、空母「飛龍」(二〇二五〇トン)、続いて、空母「瑞鳳」(一三一〇〇トン)に配属されました。(ウツボ)昭和十六年十月、南義美一等飛行兵曹は、新鋭空母「翔鶴」(二九八〇〇トン)の戦闘機隊に配属された。(カモメ)昭和十六年十二月八日、太平洋戦争開戦とともに、南義美一等飛行兵曹は、真珠湾攻撃、インド洋海戦、サンゴ礁海戦に参加、戦功を重ねました。
2019.10.04
(ウツボ)昭和二十年二月、甲木清実上等飛行兵曹は、内地に帰還した。大村航空隊、第三三二航空隊(阪神上空の迎撃)、第三五二航空隊(九州上空の迎撃)へと転戦した。(カモメ)当時の甲木清実上等飛行兵曹の乗機は、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>と<三菱「雷電」局地戦闘機>でした。(ウツボ)昭和二十年八月十五日、終戦。甲木清実飛行兵曹長の総撃墜数は一六機。そのうち七機は、水上機によるものだった。日本海軍の水上機エースの内の一人。(カモメ)ちなみに、日本海軍の水上機の撃墜王は、甲木清実飛行兵曹長のほかに、次の二名が知られています。(ウツボ)松永英徳(まつなが・ひでのり)上等飛行兵曹(第九三四航空隊・<中島・A6M2‐N二式水上戦闘機・単葉>・撃墜数一六機<うち水上機による撃墜数は不明>)。(カモメ)河村一郎(かわむら・いちろう)飛行兵曹長(大正九年生まれ・山口県出身・第四一期操縦練習生・水上機母艦「瑞徳」・R方面航空隊・第九〇一航空隊・第一三一航空隊・終戦・<中島・E8N九五式水上偵察機・複葉><三菱・F1M零式・水上観測機・複葉>・撃墜数五機<すべて水上機による>)。【周防元成(すおう・もとなり)少佐・15機】(ウツボ)大正二年生まれ。鳥取県出身。昭和九年十一月海軍兵学校六二期(四〇番)卒業、少尉候補生。昭和十一年四月、少尉。艦隊勤務後、第二八期飛行学生。卒業後、佐伯航空隊、横須賀航空隊で延長教育、戦闘機搭乗員となる。(カモメ)昭和十二年十二月中尉。昭和十三年二月、第一二航空隊附。周防元成中尉は、中支戦線で出撃を繰り返し、負傷して入院。(ウツボ)退院後、昭和十三年四月二十九日、中国の漢口上空で、空戦、敵機一機を撃墜した。これが周防元成中尉の初戦果だった。(カモメ)七月四日、周防元成中尉は、南昌上空での空戦で、二機撃墜。第一五航空隊に転属。その後、内地に帰還し、霞ケ浦航空隊、大分航空隊に配属、教官。(ウツボ)昭和十四年十一月、大尉、第一四航空隊分隊長。支那線で出動。十二月三十日、柳州攻撃で一機撃墜。(カモメ)昭和十五年一月十日、周防元成大尉は、桂林攻撃で一機撃墜。秋、漢口で<零戦・三菱零式艦上戦闘機>を受領、慣熟訓練を受け、ハノイに前進。(ウツボ)ハノイでは、周防元成大尉は、小福田皓文(こふくだ・てるふみ)大尉(岡山・海兵五九・飛行学生・戦闘機課程・大村航空隊・空母「加賀」・大湊航空隊・大尉・空母「龍驤」・第一二航空隊分隊長・大分航空隊分隊長・海軍航空技術廠飛行実験部・戦闘機テストパイロット・第六航空隊飛行隊長・少佐・厚木航空隊飛行隊長・海軍航空技術廠飛行実験部・横須賀航空隊飛行隊長兼教官・終戦・中佐・戦後警察予備隊入隊・保安隊航空学校研究部長心得・航空自衛隊保安管制気象団司令・空将補・第一七飛行教育団司令・第一航空団司令・航空幕僚監部人事教育部長・飛行教育集団司令官・空将・退官・日本無線株式会社取締役営業部長・ベルテック株式会社取締役工場長・平成七年七月死去・享年八十六歳)指揮の零戦隊の第二小隊長になる。(カモメ)昆明進攻作戦に参加、周防元成大尉は、敵機を四機撃墜しました。そのうち一機は、谷間に追いつめて、衝突させたものでした。(ウツボ)昭和十五年十一月、元山航空隊に異動。元山は現在の北朝鮮の元山。(カモメ)当時の元山航空隊司令は、伊沢石之助(いざわ・いしのすけ)大佐(新潟・海兵四三・六〇番・空母「赤城」砲術長・砲術学校教官・中佐・横浜航空隊副長・鹿島航空隊司令・航空本部・大佐・元山航空隊司令・潜水母艦「剣埼」艦長・空母「詳風」艦長・佐世保工廠総務部長・佐世保第二海兵団長・相浦海兵団長・第一三連合航空隊司令官・少将・横須賀警備府司令官兼横須賀海兵団長・昭和二十二年七月死去・享年五十四歳)でした(ウツボ)昭和十六年四月、海軍航空技術廠飛行実験部・戦闘機テストパイロット。<零戦・三菱零式艦上戦闘機>と<三菱「雷電」局地戦闘機>の実用実験に従事。(カモメ)昭和十二年十二月、周防元成大尉は、第二五二航空隊飛行隊長としてソロモンに進出。ソロモン群島のムンダ基地に移動。迎撃戦、ブナ進攻作戦、ガダルカナル島撤退作戦、ラエ輸送船団護衛などで活躍。
2019.09.27
(カモメ)甲木一等飛行兵らが所属する、当時の水上機母艦「千歳」(一一一九〇トン)艦長は・古川保(ふるかわ・たもつ)大佐(海兵四三・三八番・空母「赤城」通信長・空母「加賀」通信長・中佐・佐伯航空隊副長・空母「龍驤」副長・霞ケ浦航空隊教官・大佐・霞ケ浦航空隊教官・佐伯航空隊司令・水上機母艦「神威」艦長・特設巡洋艦「能代丸」艦長・水上機母艦「千歳」艦長・博多航空隊司令・空母「飛鷹」艦長・霞ケ浦航空隊司令・少将・第二三戦隊司令官・鎮海警備府運輸部長・終戦・昭和五十五年一月死去・享年八十五歳)でした。(ウツボ)十月十日、水上機母艦「千歳」艦長・古川保大佐から、甲木清実一等飛行兵と寶田三千穂二等飛行兵曹は、今回の体当たり撃墜で、褒状を授与され、特別善行章一本も付与された。(カモメ)十二月、艦爆一六機、<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>一〇機、<カーチスP-40「キティホーク」戦闘機>一二機が来襲しました。(ウツボ)これに対し、甲木清実一等飛行兵ら六機の<三菱・F1M零式・水上観測機・複葉>が迎撃し、甲木清実一等飛行兵と寶田三千穂二等飛行兵曹(偵察員)の機は、艦爆二機(うち不確実一機)を撃墜した。(カモメ)昭和十八年二月、R方面航空部隊が解散、甲木清実一等飛行兵らは、内地に帰還後、横須賀航空隊で水上戦闘機への転換教育を受けたのですね。(ウツボ)そうだね。その後、甲木清実二等飛行兵曹は、第四五二航空隊水戦隊(アリューシャン列島のキスカ島)に配属、乗機が一人乗りの<中島・A6M2‐N二式水上戦闘機・単葉>になった。(カモメ)昭和十八年七月、甲木清実二等飛行兵曹は、千島列島北東端の占守島(しむしゅとう・現在ロシアが実効支配)に進出しました。(ウツボ)この直後から、アメリカ第一一航空軍の<ノースアメリカンB-25「ミッチェル」双発中型爆撃機>と<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>が、占守島、幌筵島(ぱらむしるとう・千島アイヌが先住民・現在ロシアが実効支配)を攻撃してくるようになった。(カモメ)昭和十八年八月~十月、甲木清実二等飛行兵曹は、防空戦に従事、<ノースアメリカンB-25「ミッチェル」双発中型爆撃機>を一機撃墜していますね。(ウツボ)そうだね。さらに、九月十二日、アメリカ軍のフランク・T・キャッシュ少佐指揮の<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>編隊が、幌筵島の日本軍軍事施設を爆撃するために来襲した。(カモメ)日本海軍の一〇機の<中島・A6M2‐N二式水上戦闘機・単葉>は、日本陸軍第五四戦隊の<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>とともに迎撃に上がりました。(ウツボ)この空戦で、甲木清実二等飛行兵曹は、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>を二機、協同撃墜した。撃墜した機には、指揮官・キャッシュ少佐機も含まれていた。(カモメ)昭和十八年十月一日、占守島の水上基地が凍結したため、水上戦闘機隊は、第四五二航空隊から除かれ、甲木清実二等飛行兵曹ら、生き残ったわずかな搭乗員たちは、イ36(伊号第三十六潜水艦・二一九八トン・乗員九四名・零式小型水上偵察機一機)で内地に帰還しました。(ウツボ)帰還後、甲木清実二等飛行兵曹は、横須賀航空隊で、新型の<川西・N1K1「強風」水上戦闘機・単葉>の訓練に従事した。(カモメ)訓練終了後、甲木清実二等飛行兵曹は、第九三四航空隊に配属され、インドネシア西部のセラム島、アンボン基地に着任しました。(ウツボ)昭和十九年一月十六日、来襲したアメリカ軍爆撃機編隊に、甲木清実二等飛行兵曹は迎撃に上がり、アンボン付近で、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>を一機、単独撃墜した。(カモメ)<川西・N1K1「強風」水上戦闘機・単葉>による初撃墜だったのですね。(ウツボ)そうだね。その後、第九三四航空隊は解隊となったので、甲木清実一等飛行兵曹は、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>への転換教育を受け、陸上戦闘機隊である第三八一航空隊(ボルネオ島・バリクパパン飛行場)の戦闘機隊に配属された。(カモメ)パリクパパンでは油田防空任務、次にシンガポールへと転戦しました。シンガポール上空で、甲木清実一等飛行兵曹は、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>を二機、単独撃墜しました。
2019.09.20
(カモメ)激しい出血により意識を失いかけながらも、渡辺秀夫上等飛行兵曹は不屈の闘志で基地上空まで帰投しました。(ウツボ)空襲、爆撃を受けた滑走路を修復作業中の地上員に緊急着陸を合図して、やり直しをしながら、渡辺秀夫上等飛行兵曹は沈着冷静に着陸、指揮戦闘所まで地上滑走し、駐機と同時に、再び失神した。(カモメ)直ちに救急手術を受けた渡辺秀夫上等飛行兵曹は、ラバウル海軍病院に移送され、入院させられました。(ウツボ)当時の南東方面艦隊司令長官は草鹿任一(くさか・じんいち)中将(石川・海兵三七・二一番・海大一九・海軍砲術学校教官・大佐・軍令部出仕・欧米各国出張・二等巡洋艦「北上」艦長・海軍省教育局第二課長・戦艦「扶桑」艦長・少将・海軍砲術学校校長・第一戦隊司令官・支那方面艦隊参謀長・海軍省教育局長・中将・海軍兵学校校長・第一一航空艦隊司令長官・南東方面艦隊司令長官兼第一一航空艦隊司令長官・終戦・戦犯容疑でチャンギ―刑務所に服役・株式会社光和堂社長・旧軍人関係恩給権擁護全国連合会会長・遺骨収集団長としてラバウル方面、ソロモン方面に赴く・昭和四十七年八月死去・享年八十三歳・勲一等旭日大綬章)だった。(カモメ)この、渡辺秀夫上等飛行兵曹の奮戦の功績に対して、草鹿任一中将は、「武功抜群」と墨書した白鞘の軍刀一振を授与しその栄誉を称えたのです。(ウツボ)昭和十八年九月、渡辺秀夫上等飛行兵曹は病院戦「天徳丸」で内地に送還され、治療、療養に専念した。(カモメ)再起不能の病状でしたが、渡辺秀夫上等飛行兵曹は、驚異的な精神力で復帰し、昭和二十年六月、輸送航空隊である第一〇八一航空隊に配属され、霞ケ浦基地で八月十五日、終戦を迎えました。終戦時、飛行兵曹長。(ウツボ)平成十四年六月三日、福島県で死去。享年八十三歳。個人撃墜機数としては、一六機が認定されている。協同撃墜との合計は四八機との記録もある。【甲木清実(かつき・きよみ)飛行兵曹長・16機】(カモメ)大正八年四月十日生まれ。福岡県三潴郡蒲池村(現・柳川市)出身。昭和十三年六月、海軍佐世保海兵団入団。(ウツボ)昭和十六年五月、第五四期操縦練習生卒業、二座水上機の操縦員となる。鹿島航空隊、館山航空隊、博多航空隊勤務後、水上機母艦「千歳」(一一一九〇トン)乗艦。乗機は、<三菱・F1M零式・水上観測機・複葉>。(カモメ)<三菱・F1M零式・水上観測機・複葉>は、乗員二名、最高時速三七〇km、武装は、九七式七・七mm機銃(機首二門)、九二式七・七mm機銃(後方旋回式一門)、六〇kg爆弾×二。(ウツボ)昭和十七年一月十一日、セレベス島北部のケマで甲木一等飛行兵が<三菱・F1M零式・水上観測機・複葉>で上陸部隊支援中、オランダ軍第一七観測飛行隊の<コンソリデーテッドPBY「カタリナ」双発哨戒飛行艇(米国製)>を一機撃墜。(カモメ)九月、水上機母艦「千歳」(一一一九〇トン)の飛行機隊は、R方面航空部隊に編入。甲木一等飛行兵もショートランドに進出。(ウツボ)十月四日、甲木一等飛行兵は、水上機母艦「日進」(一一三一七トン)などの輸送船団を護衛中、<ボーイングB-17「フライングフォートレス」四発重戦略爆撃機>五機と戦闘機四機の攻撃を受けた。(カモメ)<ボーイングB-17「フライングフォートレス」四発重戦略爆撃機>が、水上機母艦「日進」(一一三一七トン)に向かって爆撃体勢に入りました。(ウツボ)これを見た、甲木一等飛行兵は、愛機の<三菱・F1M零式・水上観測機・複葉>で上空から、<ボーイングB-17「フライングフォートレス」四発重戦略爆撃機>に突入、接近降下後、下方から体当たりし、愛機の主翼で敵機の右主翼を切断、次に尾翼の水平安定板(スタビライザー)を破壊した。(カモメ)<ボーイングB-17「フライングフォートレス」四発重戦略爆撃機>は墜落し、機長のデヴィッド・C・エヴェリットjr以下、乗組員全員が戦死した。(ウツボ)だが、同時に愛機<三菱・F1M零式・水上観測機・複葉>の右翼を大破させたので、後席の偵察員・寶田三千穂(たからだ・みちほ)二等飛行兵曹(昭和十八年一月二十七日戦死・飛行兵曹長)と二人で、愛機を脱出、海面に降下後、駆逐艦「秋月」(二七〇一トン)に救助された。
2019.09.13
(カモメ)昭和十七年十月七日、宮野善治郎大尉は、二七機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>及び装備品、地上員とともに空母「瑞鳳」(一一二〇〇トン・<零戦・三菱零式艦上戦闘機>等約二七機搭載)で、ラバウルに向かって出発しました。(ウツボ)ラバウル基地に到着後、宮野善治郎大尉らは、前進基地のブインに進出した。ブイン基地では、連日、基地防空任務とともに、ガダルカナル島攻撃を行った。(カモメ)十一月一日、宮野善治郎大尉の所属する第六航空隊は第二〇四航空隊に改称され、ラバウル航空隊の主力を担ったのですね。(ウツボ)そうだね。宮野善治郎大尉は、米軍の空戦法を分析し、特に米陸軍航空隊の四機編隊の空戦法及び戦闘爆撃機戦法を研究した。(カモメ)さらに、それらに対抗する空戦法を編み出し、また、宮野善治郎大尉は、海軍航空隊で初となる四機編隊の空戦法を採用したのですね。(ウツボ)そうだね。日本海軍航空隊では、三機編隊が通常だったからね。(カモメ)昭和十八年三月、宮野大尉は飛行隊長に任命されました。当時は士官搭乗員のほとんどが戦闘未経験で、空戦は下士官搭乗員が主力だったのです。(ウツボ)そのような状況の中で、宮野大尉は常に率先して空戦に挑み、多数の敵機を撃墜し続けた。同時に卓越した戦闘機隊指揮官でもあった。(カモメ)だが、昭和十八年六月十六日のガダルカナル島上空の戦闘で、集合地点への帰還の遅れた部下を案じて、宮野善治郎大尉は、単機戦場に戻り、行方不明になり、戦死と認定されたのですね。(ウツボ)そうだね。最強の指揮官を失った。戦死の時点で、宮野大尉の撃墜数は一六機と記録されている。(カモメ)宮野大尉の戦死は全軍に布告され、二階級特進で海軍中佐特別進級しました。享年二十七歳。【渡辺秀夫(わたなべ・ひでお)飛行兵曹長・16機】(ウツボ)渡辺秀夫は、大正九年六月二十二日生まれ。福島県の農家出身。昭和十二年六月海軍横須賀海兵団入隊、四等水兵。昭和十五年十一月丙飛第二期予科練習生。(カモメ)昭和十六年十一月丙飛第二期予科練習生卒業。宇佐航空隊で艦上爆撃機の延長教育、後に戦闘機操縦者に転科。(ウツボ)昭和十七年三月、マーシャル諸島に展開する千歳航空隊配属。内海洋諸島ルオット島基地で防空任務にあたる。(カモメ)昭和十八年三月、第二〇四航空隊転属、南東方面に進出。ラバウル、後にブイン基地に展開、激戦のソロモン航空戦に参加。(ウツボ)激しい消耗戦で、士官、准士官搭乗員が次々に失われる状況の中、六月十六日、飛行隊長・宮野善治郎大尉が戦死した。(カモメ)その後、渡辺秀夫上等飛行兵曹は、弱冠二十三歳で、中隊長代理や大隊長代理として、第二〇四航空隊の指揮官に任命されました。(ウツボ)六月三十日、レンドバ進攻第一次、第二次をはじめ、七月一日の艦爆隊直掩で、指揮官機としてその役目を果たした。(カモメ)昭和十八年八月二十六日午後、アメリカ軍は戦闘機と爆撃機の連合でブイン上空に来襲した。(ウツボ)渡辺秀夫上等飛行兵曹は、単機で敵編隊を迎撃し、編隊の左外側に位置する<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型戦略爆撃機>に前上方から突っ込み、垂直上昇、反転攻撃により撃墜した。(カモメ)次いで、敵戦闘機、<ヴォ―トF4U「コルセア」艦上戦闘機>二機編隊と空戦に入り。その一番機を一撃で撃墜しました。(ウツボ)その直後、渡辺秀夫上等飛行兵曹は、右上昇反転、後方確認のため、振り向きざまに後方より被弾した。(カモメ)敵機銃の12.7mm弾が右眼球を貫通、前頭骨折の重傷を負ったのですが、渡辺秀夫上等飛行兵曹は<零戦・三菱零式艦上戦闘機>を急降下させました。その途中失神しました。(ウツボ)だが、降下中に意識を回復し、海面すれすれで、かろうじて機体を立て直し、水平飛行に戻した。
2019.09.06
【宮野善治郎(みやの・ぜんじろう)中佐■戦死・16機】(カモメ)宮野善治郎は、大正四年十二月二十九日生まれ。大阪出身。昭和十三年三月海軍兵学校六五期卒。十一月海軍少尉。(ウツボ)昭和十四年九月海軍練習航空隊飛行学生。十一月中尉。昭和十五年四月飛行学生三二期修了、大分海軍航空隊。九月大村海軍航空隊。(カモメ)昭和十六年四月第一二航空隊。九月第三航空隊分隊長。十月大尉。(ウツボ)昭和十六年十二月八日太平洋戦争開戦。宮野善治郎大尉は、第三航空隊分隊長としてフィリピンのクラークフィールドのアメリカ軍航空基地攻撃に参加、初撃墜の戦果をあげた。(カモメ)その後、第三航空隊は、東南アジア、北部オーストラリア、北太平洋アリューシャン列島と転戦しました。(ウツボ)昭和十七年三月三日、宮野大尉は、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>編隊を指揮して、西部オーストラリアのブルーム港まで長距離の攻撃を行った。(カモメ)この攻撃で、宮野善治郎大尉の編隊は、二二機の敵機と軍事施設、車両等を破壊し敵基地に甚大な損害を与えたのですね。(ウツボ)そうだね。この空戦で宮野善治郎大尉は、<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>二機を撃墜した。(カモメ)この空戦後、宮野善治郎大尉は二機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>を従えて帰還中に、飛行中のオランダの<ダグラスDC-3「ダコタ」双発輸送機>一機を発見したのです。(ウツボ)この<ダグラスDC-3「ダコタ」双発輸送機>は、第一次世界大戦のロシアの撃墜王、イワン・スミルノフ元大尉(撃墜数一二機)が操縦していた。(カモメ)イワン・スミルノフ元大尉は、軍人とその家族を乗せて、ジャワのバンドンから、安全なオーストラリアに向かう途中でした。(ウツボ)宮野善治郎大尉以下三機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>は、繰り返し<ダグラスDC-3「ダコタ」双発輸送機>を銃撃した。(カモメ)自らも被弾したイワン・スミルノフ元大尉は、傷ついた<ダグラスDC-3「ダコタ」双発輸送機>を巧みに操縦し、遂に期待を海岸に不時着させました。(ウツボ)イワン・スミルノフ元大尉は、出発前に、封印された宝石箱を託されていたが、不時着した輸送機から、脱出する時、それを紛失してしまった。(カモメ)数年後、その中身の一部は発見されましたが、他の宝石は戻らなかったのです。(ウツボ)昭和十七年四月、宮野善治郎大尉は第六航空隊に転属、分隊長に任命された。(カモメ)その後、宮野善治郎大尉は部下とともに、空母「隼鷹」(二四一四〇トン・<零戦・三菱零式艦上戦闘機>等約五〇機搭載)に乗組み、ミッドウェイ攻撃の陽動部隊として、アリューシャン列島に向かいました。(ウツボ)六月三日、宮野善治郎大尉は、六機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>を指揮して、<愛知・D3A・九九式急降下爆撃機・単発>編隊を護衛して、ダッチハーバー攻撃に参加した。(カモメ)六月四日、再びダッチハーバー攻撃を行いました。攻撃終了後、帰還中に、宮野善治郎大尉の護衛隊と爆撃機編隊は、アメリカ陸軍の<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>の攻撃を受けたのです。(ウツボ)宮野善治郎大尉の護衛隊は、<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>六機を撃墜した。アメリカ側も<零戦・三菱零式艦上戦闘機>を一機と<愛知・D3A・九九式急降下爆撃機・単発>三機を撃墜したと報告している。(カモメ)空母「隼鷹」(二四一四〇トン・<零戦・三菱零式艦上戦闘機>等約五〇機搭載)は、ミッドウェイ海戦に参加しなかったので、被害を受けずに、六月二十四日、大湊港に戻りました。(ウツボ)その後、ソロモン方面における連合軍の熾烈な反攻で、日本海軍軍令部は、戦闘機と搭乗員を至急ソロモン方面へ送り込む必要に迫られました。
2019.08.30
(カモメ)だが、今や制空権すら奪われたガダルカナル島地域においては、撤退さえ容易ではなかったのですね。(ウツボ)そうだね。そこで、この撤退作戦を成功させるための航空作戦(敵航空基地撃滅)が、一月二十五日実施された。(カモメ)中攻一八機、戦闘機七三機をもって、ガダルカナル島昼間攻撃が敢行されました。だが、この日は敵小型機数十機と交戦したものの、大した戦果もなく、帰投しました。(ウツボ)本田一等飛行兵曹はここ数ヶ月、ほとんど毎日のように出撃してきた。それは、一週間に四十七時間という激しい勤務で、これが、一週間当たりの、最高飛行時間となった。(カモメ)戦後の話になりますが、本田稔元海軍少尉は、戦後航空自衛隊を経て、昭和三十八年三菱重工業にテストパイロットとして入社したのですね。(ウツボ)そうだね。昭和四十年、本田稔は<三菱・MU-2双発ビジネス機>のパイロットとして、ヨーロッパでデモフライトを行った時、一週間に四十七時間二十五分という記録を作ったのだね。(カモメ)この記録は、戦時中の当時の記録を更新したのですね。(ウツボ)そうだね。一日平均七時間近くのフライトだね。一回だけならまだしも、毎日連続だから想像しただけで、大変なことだね。(カモメ)話は戻りまして、昭和十九年四月、本田上等飛行兵曹は先任搭乗員として、鹿児島基地の第三六一航空隊の戦闘四〇七飛行隊に配属され、フィリピンで戦いました。(ウツボ)この時、神風特攻隊に参加する若い搭乗員の訓練に当たったが、その任務は、太田上等飛行兵曹の気持ちを暗澹とさせた。(カモメ)遂に、太田上等飛行兵曹は、上官に対して、自分の部下を人間爆弾として、特攻させるという作戦の愚かさを述べ、徹底的に抗議したのです。だが、それは聞き入れられませんでした。(ウツボ)昭和十九年十二月、戦闘四〇七飛行隊は、本土防空に当たっていた第三四三航空隊(剣部隊)に編入された。この第三四三航空隊時代に本田稔飛行兵曹長は、二度の原爆の爆発を目撃した。(カモメ)昭和二十年八月六日午前八時十五分、広島市での原子爆弾の爆発を空中で目撃したのです。その衝撃波で本田飛行兵曹長の乗機は500メートルも落下しました。(ウツボ)昭和二十年八月九日午前十一時二分、本田飛行兵曹長は長崎県大村基地での登山訓練を行っていた。その山中で、長崎への原爆投下を目撃した。司令・源田実大佐もいた。(カモメ)海軍は、広島、長崎に続く原爆投下を阻止すべく、戦闘機隊に対して、「B29が単機で侵入してきた場合は、体当たりで即時撃墜せよ」と命令を出しました。(ウツボ)第三四三航空隊司令・源田実大佐は、「もし今度、新型爆弾の情報が有ったら、俺が体当たりをして阻止する。その時は、本田分隊士、君が二番機をつとめてくれ」と本田飛行兵曹長に言ったという。(カモメ)昭和二十年八月十五日、終戦。米軍の占領政策で天皇にもしもの事があった場合、皇族を匿い、皇統を守る事目的とした、「皇統護持作戦」に作戦隊員として本田少尉も参加しました。(ウツボ)熊本県八代市泉町の五家荘(ごかのしょう)が候補地となり、隊員は各地に潜伏した。その後、天皇制存続が決まり、作戦は中止、隊員であった本田少尉も復員した。(カモメ)本田稔元海軍少尉は、戦後次の様に、語っています。(ウツボ)「大きな問題は我々が、『精神力が勝っていれば戦争に勝てる』という教育を受けてきたことです」(カモメ)「日本人は精神で戦い、『アメリカ人はたいしたことはない』と教えられていましたが、それは正しくはありませんでした」(ウツボ)「アメリカ人のパイロットはとても勇敢で、勇猛果敢だったのです。ただし我々と違って、愚かな危険は冒しませんでした」(カモメ)「アメリカ人は失敗から学び、軍用機や戦闘技術の改良を重ねました。ところが我々は零戦一機での一匹狼的な戦闘方法にこだわり続けたのです。まったく、大失敗でした」。(ウツボ)本田稔海軍少尉は、どんな逆境にあっても、くじけることなく、常に運命を好転させることを信条として、日本一のパイロットになることを心がけ、戦前、戦後を生き抜いてきた撃墜王。現在九十六歳。
2019.08.23
(ウツボ)戦後、航空自衛隊入隊。パイロットの教官、テストパイロットを務める。昭和三十八年航空自衛隊退官(一等空尉)。(カモメ)退官後、三菱重工業でテストパイロット。戦後を含めた総飛行時間九八〇〇時間。撃墜数は四三機以上といわれていますが、複数の資料では一七機となっています。令和元年現在生存。(ウツボ)著書に、「私はラバウルの撃墜王だった」(光人社)がある。また、「本田稔空戦記―エース・パイロットの空戦哲学」(岡野充俊・光人社NF文庫)がある。<空戦記録>(カモメ)昭和十七年四月、本田稔一等飛行兵曹は、鹿屋航空隊配属され、哨戒任務に就きました。(ウツボ)シンガポール上空で、本田一等飛行兵曹ら九機の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>がイギリス空軍の<ブルースターF2A「バッファロー」艦上戦闘機>九機と交戦した。(カモメ)本田一等飛行兵曹にとっては敵機のとの初めての空戦だったので興奮し、落下タンクの切り離しも忘れたままだったのです。(ウツボ)また、機銃も弾丸が無くなるまで発射し続け、なおも逃げる敵機を追いかけた。遂に敵機はジャングルに突っ込み、炎上した。これが本田一等飛行兵曹の初撃墜となった。(カモメ)当時、本田一等飛行兵曹は、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>での飛行時間は九五時間に過ぎない十九歳の初心者でした。空戦後、基地に着いたのは、一番最後で、帰投後、叱責されました。(ウツボ)昭和十七年九月、ラバウルに進出し、ニューギニア沖やソロモン諸島上空で多数の空戦を経験、敵機をかなり撃墜した。(カモメ)ある日の空戦で、本田一等飛行兵曹は、ソロモン諸島西部の丸い島、コロンバンガラ島に不時着しました。(ウツボ)すると、原住民の集団が近づいてきた。本田一等飛行兵曹は、右手にブローニング拳銃を、左手にキャンディーの袋を持って、彼らと対面した。(カモメ)原住民は、友好的で、本田一等飛行兵曹が救助されるまでの、十日間、親切に接してくれ、世話をやいてくれたのですね。(ウツボ)そうだね。当初、基地では、本田一等飛行兵曹が帰投しないので、戦死と認定し、それまで顕著な戦功に対して戦死後の二階級特進の手続きがとられた。(カモメ)不時着して十日後に、日本軍に救助され、戻って来た本田一等飛行兵曹は、またもや厳しい懲罰を受けることになったのです。(ウツボ)直属の上官は、一下士官の戦死報告を撤回するのを厭うあまり、敵が占領している地域に連続七日間、単機で長距離哨戒任務につくこと本田一等飛行兵曹に命令した。(カモメ)これは、生還しないことを期待しての措置だったのです。だが、このことが上級将校の知れることになり、自殺的行為のような任務は解除されました。(ウツボ)死亡報告は撤回され、二階級特進は取り消された。生存下士官の二階級特進は前例のないことだったから。(カモメ)昭和十七年十一月、本田一等飛行兵曹は、ニューアイルランド島カビエンの病院で盲腸の手術を受けました。手術後、抜糸を終えた直後、<ボーイングB-17「フライングフォートレス」四発重戦略爆撃機>の編隊が来襲しました。(ウツボ)本田一等飛行兵曹は、迎撃に上がり、攻撃を繰り返し、<ボーイングB-17「フライングフォートレス」四発重戦略爆撃機>一機を撃墜した。(カモメ)だが、激しい空戦で重力がかかり、本田一等飛行兵曹の盲腸の手術の完治していない傷口が破れ、腸が飛び出したのです。何とか傷口を抑えて着陸しました。(ウツボ)昭和十八年の正月を迎え、本田一等飛行兵曹はニ十歳になった。すでに大本営では、ガダルカナル島にこれ以上の攻撃を続けることは犠牲を多くし、消耗戦に陥ることを恐れ、一万数千名の海軍将兵を撤退させることを決定した。
2019.08.16
(ウツボ)だが、中隊長・笹井醇一中尉はアメリカ海兵隊のエース、マリオン・カール大尉を追って敵基地、ガダルカナル飛行場上空まで行き、カール大尉と一騎打ちの空戦を行った。(カモメ)熾烈な一騎打ちでしたが、笹井醇一中尉は撃墜されました。享年二十四歳。戦死後二階級特進で少佐。(ウツボ)内地に送還されて、治療を受けていた坂井三郎一等飛行兵曹は、半年後に笹井醇一中尉の戦死を知った時、「俺がついていたら、中隊長を、絶対に殺さなかったのに」と悔しがった。(カモメ)二人は、階級を越えて、親友の仲だったのですね。(ウツボ)そうだね。羽藤三等飛行兵曹は、その後、九月二日と五日のガダルカナル攻撃、九月七日のポートモレスビー攻撃、九月十日のガダルカナル攻撃に参加した。(カモメ)九月十三日、ガダルカナル飛行場強行偵察の<中島・二式陸上偵察機・双発・三座>二機の護衛として台南航空隊の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>九機が出撃しました。(ウツボ)羽藤三等飛行兵曹も第三小隊の三番機として出撃した。ガダルカナル飛行場に、日本の編隊は、超低空で、侵入していった。(カモメ)だが、上空で退避していた<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>二八機の奇襲を受け空戦となったのです。(ウツボ)編隊最後尾の羽藤三等飛行兵曹は、勇敢にも、高度二〇〇メートルの超低空から反撃を開始しました。(ウツボ)だが、敵機の前方に突っ込んで行く結果となり、敵機の射撃が命中し、飛行場の一五キロ西の丘に激突して炎上、羽藤一志三等飛行兵曹は戦死した。享年ニ十歳。公認撃墜数は一九機。特進で二等飛行兵曹。【中瀬正幸(なかせ・まさゆき)少尉■戦死・18機】(カモメ)中瀬正幸少尉は、大正七年生まれ。徳島県出身。昭和九年、第五期乙種飛行予科練習生として横須賀海軍航空隊入隊。昭和十三年三月、乙種飛行予科練習生・飛行訓練生課程修了、三等航空兵曹、大村海軍航空隊配属。(ウツボ)昭和十三年末、第一四航空隊配属。日中戦争に出動するが、空戦の機会はなかった。その後、横須賀航空隊配属。(カモメ)昭和十五年七月、横須賀航空隊在隊中に、第一二航空隊の零戦隊として出動が決定。<零戦・三菱零式艦上戦闘機>に搭乗し、中国の漢口に進出。(ウツボ)昭和十五年十月四日、中国四川省の成都攻撃に参加し、太平寺飛行場に強行着陸、指揮所を炎上させた。(カモメ)昭和十六年三月十四日、成都攻撃で、<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>六機撃墜(うち不確実一機)。(ウツボ)昭和十六年五月二十六日、中国陝西省の南鄭攻撃で<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>三機撃墜。(カモメ)昭和十六年九月、鹿児島県、鹿屋航空隊の第三航空隊(戦闘機隊)配属。十二月八日、太平洋戦争開戦。フィリピン島攻撃に参加。オランダ領インド航空戦に参加。(ウツボ)昭和十七年二月九日、中瀬正幸一等飛行兵曹は、インドネシア中部のセレベス島マカッサル付近で、装甲車を銃撃中に被弾して自爆、戦死した。(カモメ)享年二十四歳。戦死後、中瀬正幸一等飛行兵曹は二階級特進で特務少尉。正八位。スポーツ万能で、何でも常に率先して行動する人物でしたね。(ウツボ)そうだね。中瀬正幸少尉の空戦技術には天才的であったと、語り継がれているね。総撃墜数一八機。【本田稔(ほんだ・みのる)少尉・17機】(カモメ)本田稔少尉は、大正十二年生まれ。熊本県熊本市出身。中学五年在学中の昭和十四年十月、第五期甲種飛行予科練習生として入隊。(ウツボ)昭和十五年、谷田部航空隊で延長教育。昭和十六年九月大分航空隊で実施訓練。(カモメ)昭和十七年一月、第二二航空戦隊司令部付戦闘機隊配属。四月鹿屋航空隊配属、哨戒任務で初撃墜。九月ラバウル進出。十一月鹿屋航空隊が第二五三海軍航空隊に改名。ニューギニア沖、ソロモン諸島での航空戦に従事。昭和十八年五月、大分航空隊配属。(ウツボ)昭和十九年四月、第三六一航空隊・戦闘四〇七飛行隊配属。第三六一航空隊は解隊。七月十日、戦闘四〇七飛行隊は第二二一航空隊編入、笠之原航空基地で訓練に従事。(カモメ)昭和十九年十二月、戦闘四〇七飛行隊は第三四三航空隊(剣部隊)に編入。本田上等飛行兵曹は防空戦に従事。昭和二十年八月十五日終戦。終戦時、皇統護持作戦に参加。その後天皇制存続が決まり活動を終了。最終階級は海軍少尉。
2019.08.09
【羽藤一志(はとう・かずし)二等飛行兵曹■戦死・19機】(ウツボ)羽藤一志は大正十一年八月十八日生まれ。愛媛県今治市出身。昭和十三年六月、海軍飛行予科練習生乙飛九期生。昭和十六年十一月、三等飛行兵曹。十二月八日太平洋戦争開戦。(カモメ)昭和十七年二月一日、千歳航空隊配属。二月十九日、第四航空隊配属、ニューブリテン島ラバウルに進出。四月一日、台南航空隊配属、ニューギニア島東部のラエ基地に進出。(ウツボ)四月十一日、羽藤一志三等飛行兵曹は、ラエ基地上空で、オーストラリア空軍第七五航空隊の<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>一機を撃墜した。初撃墜だった。(カモメ)六月二十五日、ポートモレスビー攻撃に参加、アメリカ陸軍第三五戦闘飛行隊の<ベルP-39「エアラコブラ」単発戦闘機>一機を撃墜。(ウツボ)八月二日、羽藤三等飛行兵曹は、パプアニューギニア、ブナ泊地上空で、アメリカ陸軍第四一戦闘飛行隊の<ベルP-39「エアラコブラ」単発戦闘機>一機を撃墜。(カモメ)昭和十七年八月七日、米軍がガダルカナル島上陸したとの報告を受け、上陸支援のアメリカ機動部隊攻撃に向かう第四航空隊の<三菱・G4M・一式陸上攻撃機・双発>二七機の援護と、アメリカ海軍機撃滅を任務として、台南航空隊から戦闘機一八機が出撃したのですね。(ウツボ)そうだね。羽藤三等飛行兵曹は、第三中隊(中隊長・笹井醇一中尉)の第二小隊(小隊長・坂井三郎一等飛行兵曹)の三番機として出撃した。(カモメ)<三菱・G4M・一式陸上攻撃機・双発>編隊は、ガダルカナル島沿岸に上陸中のアメリカ艦隊、輸送船に爆弾を投下しました。(ウツボ)すると、空母「サラトガ」を発艦した、<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>三機が上空から、襲ってきた。(カモメ)そのうちの一機、サザーランド大尉機は、日本の<三菱・G4M・一式陸上攻撃機・双発>一機を撃墜しました。(ウツボ)その直後、サザーランド大尉は、日本の、坂井三郎一等飛行兵曹、柿本円次二等飛行兵曹、山崎市郎平三等飛行兵曹、羽藤一志三等飛行兵曹の四機に囲まれ、格闘戦となった。(カモメ)サザーランド大尉の操縦技術と<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>の防御力の高さから、空戦は長引いたが、最終的に坂井三郎一等飛行兵曹がとどめの射撃を行い撃墜したのですね。(ウツボ)そうだね。だが、坂井三郎一等飛行兵曹は、勇猛果敢で優れた格闘技術のサザーランド大尉に敬意を表して、操縦席を外して射撃した。(カモメ)それで、サザーランド大尉は落下傘降下をして生還したのですね。(ウツボ)ところが、サザーランド大尉は、その後戦闘機操縦士として戦線に復帰し、四機撃墜のエースパイロットになった。(カモメ)サザーランド大尉機の撃墜は、坂井三郎一等飛行兵曹、山崎市郎平三等飛行兵曹、羽藤一志三等飛行兵曹の協同撃墜として認定記録されました。(ウツボ)この空戦からの帰路、坂井三郎一等飛行兵曹は、ガダルカナル島上空で、敵機の<ダグラスSBD「ドーントレス」艦上急降下爆撃機>編隊を<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>編隊を誤認して、至近距離まで接近したため、敵機後部機銃の一斉射撃を受けた。(カモメ)この一斉射撃で、坂井三郎一等飛行兵曹は右頭部を負傷、重傷でしたが、四時間かけて、必死に愛機を操り、ラバウルに生還しました。だが、重傷なので、内地に送還されました。(ウツボ)八月二十一日、<三菱・G4M・一式陸上攻撃機・双発>三六機の護衛戦闘機隊として、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>一三機が出撃。(カモメ)羽藤一志三等飛行兵曹も笹井醇一中尉の中隊六機の三番機として出撃。ガダルカナル飛行場北西の上空四〇〇〇メートルで、アメリカ海兵隊<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>四機と交戦しました。(ウツボ)笹井中隊の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>六機は、<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>の四機全部に命中弾を与えたが、敵機四機はガダルカナル飛行場方面へ逃げ、撃墜には至らなかった。日本の六機は無傷だった。(カモメ)昭和十七年八月二十六日、<三菱・G4M・一式陸上攻撃機・双発>一七機の護衛として、台南航空隊の<零戦・三菱零式艦上戦闘機>九機が出撃。羽藤三等飛行兵曹は笹井中尉小隊の三番機でした。(ウツボ)高高度で待ち伏せしていた<グラマンF4F「ワイルドキャット」艦上戦闘機>一二機と空戦になり、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>二機が撃墜された。(カモメ)混戦で、笹井中尉小隊はバラバラになり、二番機の大木一等飛行兵曹と三番機の羽藤三等飛行兵曹は、ラバウルに帰還したのです。
2019.08.02
(ウツボ)岩井勉飛行兵曹長は、ラバウルを出撃する時、何度も山本五十六大将の帽振りの見送りを受けて離陸し、感激したという。(カモメ)昭和十八年十月、「ろ号作戦」のため、空母「瑞鳳」はラバウルに進出するが、岩井飛行兵曹長は不慮の事故で、入院し、十一月五日から十一日までのブーゲンビル島沖航空戦に出撃出来なかったのですね。(ウツボ)そうだね。このブーゲンビル島沖航空戦(一次~三次)で、味方航空隊は搭乗員の半数を失った。十二月、空母「瑞鳳」は内地に帰還した。(カモメ)昭和十九年一月、岩井勉飛行兵曹長は、台南航空隊に配属され、第一三期予備学生の教育に当たることになりました。(ウツボ)岩井飛行兵曹長の戦歴と高度な空戦操縦技術により、学生たちの間では、彼を「ゼロファイターゴッド」と呼んでいた。(カモメ)八月、岩井飛行兵曹長は、航空母艦飛行隊である第六〇一航空隊に転属。十月空母「瑞鶴」に着艦。空母「瑞鶴」は第三艦隊の旗艦でしたね。(ウツボ)そうだね。当時の第三艦隊の司令長官は、小沢治三郎(おざわ・じさぶろう)中将(宮崎・海兵三七期四五番・海大一九期・欧米各国出張・大佐・第一駆逐隊司令・第四駆逐隊司令・第一一駆逐隊司令・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・一等巡洋艦「摩耶」艦長・巡洋戦艦「春名」艦長・少将・海軍大学校教官・連合艦隊参謀長・水雷学校長・第一航空戦隊司令官・第三戦隊司令官・中将・海軍大学校長・第一南遣艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・第一機動艦隊司令長官・軍令部次長兼海軍大学校長・海上護衛隊司令長官兼連合艦隊司令長官・終戦・昭和四十一年死去・享年八十歳)だった。(カモメ)十月二十四日、フィリピンに進出した空母「瑞鶴」から、岩井飛行兵曹長は、敵機動部隊攻撃のため出撃しました。(ウツボ)ところが、突如、<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>編隊の奇襲を受け、空戦となった。空戦後、岩井飛行兵曹長は、帰艦するため、空母「瑞鶴」を探した。(カモメ)だが、見つからないので、止むを得ず、ルソン島のアパリ飛行場に不時着しました。そこには、小沢機動部隊(第三艦隊)を発艦した二六機がすでに着陸していました。(ウツボ)昭和十八年十月二十五日、米機動部隊艦載機の攻撃を受け、空母「瑞鶴」を含むすべての空母が撃沈された。乗組員は駆逐艦に救助されたが、その駆逐艦も撃沈された。(カモメ)岩井飛行兵曹長は、空戦後、母艦をかなり探し回ったが、発見できませんでした。だが、もし発見し、空母に着艦していたら、翌日には、戦闘機隊は全滅していたのです。(ウツボ)十一月一日、岩井勉飛行兵曹長は少尉に進級した。その日、岩井少尉ら第六〇一航空隊搭乗員三名に内地への帰還命令が出た。十二月、岩井少尉ら戦闘機隊は岩国基地に移動した。(カモメ)昭和二十年二月、第三航空艦隊戦闘第三一〇飛行隊配属。四月、岩井少尉は、菊水作戦(沖縄特攻作戦)の特攻隊支援のため、出撃。(ウツボ)四月二十日、戦場での過労が原因で肺浸潤になり、霞ケ浦海軍病院に入院した岩井勉少尉は、入院療養中に八月十五日の終戦を迎えた。中尉進級。(カモメ)岩井勉中尉の撃墜数は二二機。総飛行時間約二二〇〇時間。着艦回数七五回。岩井中尉は多数の空戦に参加しながら、戦闘機搭乗員として一回も被弾しなかったという珍しい記録の所持者ですね。(ウツボ)そうだね。戦後、岩井勉氏は、元海軍主計特務大尉から経理を習い、経理として就職。その後、昭和四十六年奈良第一食糧株式会社の経理部長に就任。以後同社の常務、専務、社長として活躍した。(カモメ)戦後になっても、パイロットを続けたいと、昭和二十七年に日本航空を受験したこともあります(合格が認定されていたが、病気のため断念)。平成十六年、奈良市内の病院で死去。享年八十五歳。
2019.07.26
【岩井勉(いわい・つとむ)中尉・22機】(カモメ)岩井勉は大正八年七月二十日生まれ。京都府相楽郡出身。農家の末っ子。明治十年木津農学校在学中に海軍飛行予科練習生に合格、予科練六期生として横須賀航空隊に入隊。(ウツボ)昭和十三年一月飛行練習生として霞ケ浦航空隊入隊。八月、同期生一八六名中二〇名の戦闘機操縦者として予科練課程を卒業、佐伯航空隊で戦闘機操縦訓練を受ける。(カモメ)昭和十四年二月、大村航空隊配属。その後、鹿屋航空隊配属。(ウツボ)昭和十五年一月、岩井勉二等飛行兵曹は、中国、漢口の第一二航空隊配属。七月、<零戦・三菱零式艦上戦闘機一一型>が海軍の正式戦闘機として採用される。(カモメ)九月十三日、重慶爆撃の<三菱・G3M・九六式陸上攻撃機・双発>編隊の護衛戦闘機隊一三機の一員として岩井二等兵曹も出撃。(ウツボ)指揮官は、進藤三郎(しんどう・さぶろう)大尉(神奈川・海兵六〇・第二六期飛行学生・戦闘機操縦課程・空母「加賀」乗組・佐伯航空隊分隊長・大尉・第一三航空隊分隊長・大村航空隊分隊長・第一二航空隊分隊長・空母「赤城」分隊長・徳島海軍航空隊飛行隊長・第五八二航空隊飛行隊長・少佐・第二〇四航空隊飛行隊長・空母「龍鳳」飛行長・第六五三航空隊付・第二〇三航空隊飛行長・筑波航空隊飛行長・終戦・戦後沼沢鉱山長・東洋工業常務取締役・平成十二年死去・享年八十九歳)だった。(カモメ)岩井二等飛行兵曹は、第二中隊長・白根斐夫(しらね・あやお)中尉(東京・海兵六四期・第三一期飛行学生・空母「赤城」分隊長・横須賀航空隊・第三四一航空隊飛行隊長・少佐・第七〇一飛行隊長・昭和十九年十一月二十四日戦死・享年二十八歳・撃墜数九機)の三番機として出撃しました。(ウツボ)岩井二等飛行兵曹は、当時約八〇〇時間の飛行時間だった。護衛戦闘機隊は、爆撃隊の爆撃終了後、再び重慶へ引き返した。(カモメ)すると、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>と<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>が三〇機迎撃に上がって来たのです。(ウツボ)敵味方入り乱れての大空戦になり、日本の戦闘機隊の大勝利に終わった。岩井二等飛行兵曹もこの空戦で二機確実撃墜、二機不確実撃墜の戦果を上げた。(カモメ)十月二十六日、成都攻撃で、岩井二等飛行兵曹は<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>を一機撃墜しました。(ウツボ)十一月、内地に帰還。筑波航空隊で教員として勤務した。昭和十六年十二月太平洋戦争開戦。(カモメ)昭和十七年二月、大村航空隊配属。教員。九月、岩井一等飛行兵曹は結婚しました。十一月、岩井上等飛行兵層は、空母「瑞鳳」戦闘機隊配属。(ウツボ)昭和十八年一月、空母「瑞鳳」は呉を出港、トラック島に進出、ガダルカナル撤退作戦援護に従事。二月十九日、ニューギニアのウェワクに進出、陸軍輸送船団の護衛任務に従事。(カモメ)三月八日、岩井上等飛行兵曹は、初めて<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>と遭遇、撃墜しました。(ウツボ)以後、岩井上等飛行兵曹は、多数の空戦に出撃、撃墜戦果を重ねた。その中で撃墜数の一番多かったのが<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>だった。(カモメ)四月一日、岩井上等飛行兵曹は、飛行兵曹長に進級しました。二十五歳でした。翌二日、空母「瑞鳳」は、「い号作戦」のため、ラバウルに進出、ガダルカナル島、ポートモレスビー、オロ湾、ラビ方面への攻撃に参加。(ウツボ)この作戦では、連合艦隊司令長官・山本五十六大将も、連合艦隊旗艦「武蔵」より、ラバウルに進出し、自ら陣頭指揮をとった。(カモメ)昭和十八年四月十八日午前六時、山本五十六大将と幕僚らは、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線基地視察のため<三菱・G4M・一式陸上攻撃機・双発>二機に分乗し、ラバウル基地を離陸した。(カモメ)だが、この<三菱・G4M・一式陸上攻撃機・双発>二機は、暗号解読により待ち伏せしていた米陸軍航空隊<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>一六機にブーゲンビル島上空で撃墜され、山本五十六大将は戦死しました。
2019.07.19
(カモメ)昭和十五年十一月、海軍飛行予科練習生丙種二期生として土浦航空隊に入隊。大分航空隊で戦闘機専修課程卒業。昭和十六年十一月新編の第三航空隊(台湾高雄)配属。(ウツボ)昭和十六年十二月、八日太平洋海戦。第三航空隊は、フィリピン、ボルネオ、蘭印と、次々に進出。ベテラン搭乗員が多く、伊藤の出番がなかった。(カモメ)昭和十七年三月、第三航空隊の多くのベテラン搭乗員が転出し、伊藤にも出撃の機会が多くなったのですね。(ウツボ)そうだね。三月から八月まで、第三航空隊は、インドネシアのチモール島クーパン(小スンダ列島東端)やセレベス島ケンダリーを拠点に、オーストラリアへの空襲を一一回行った。(カモメ)伊藤は十一回の打ち六回の空襲に参加しました。この時期の連合軍の戦闘機は<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>でしたが、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>の相手にはならず、余裕を持った空戦ができました。(ウツボ)九月から二か月間、ガダルカナル攻防戦の激化にともない、第三航空隊の二五機がラバウルに派遣された。伊藤も参加した。(カモメ)十月三日、ガダルカナル攻撃に出撃した伊藤は、燃料コックの故障で燃料不足となり、ソロモン諸島西部のギゾ島近海に不時着しました。(ウツボ)伊藤は五~六時間海で漂流した後、ガダルカナル輸送中の日本の駆逐艦に発見され救助された。(カモメ)この二か月間のガダルカナル攻撃における伊藤の戦果は、<ベルP-39「エアラコブラ」単発戦闘機>を一機撃墜したのみでした。十一月に伊藤は、チモール島クーパンに戻りました。(ウツボ)昭和十八年一月、連合軍はイギリスから<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機(イギリス製)>一〇〇機を送り込んできた。そして、北アフリカ戦線で活躍したベテラン操縦士を揃えて航空隊を増強した。(カモメ)この情報をつかんだ日本軍は、再び、オーストラリアのダーウィン方面への航空攻撃を実施、三月二日から九月七日まで、一〇回に及ぶ攻撃を行ったのですね。(ウツボ)そうだね。この攻撃で、第二〇二航空隊(第三航空隊より改名)は合計一〇一機を撃墜(内不確実二〇機、オーストラリア側の記録では三八機損失)、味方損失三機を報じている。(カモメ)伊藤は、この一〇回の攻撃全てに出撃しました。十一月、伊藤は内地帰還になりましたが、その前に、表彰されました。(ウツボ)当時の第二〇二航空隊司令は岡村基春(おかむら・もとはる)中佐(高知・海兵五〇期・第一三期飛行学生戦闘機専修卒業。振武盃下賜・特殊編隊飛行「岡村サーカス」・「固定銃空中射撃教育法ニ就キ」の研究で恩賜研学資金受賞・第一二航空隊飛行隊長・中佐・第三航空隊司令・第二〇二航空隊司令・第五〇二航空隊司令・神ノ池航空隊司令・大佐・第三四一航空隊司令・特攻隊を上申・桜花部隊編成準備委員長・特攻兵器桜花の専門部隊第七二一航空隊<神雷部隊>司令・終戦・高知航空隊司令・昭和二十三年七月十三日鉄道自殺・享年四十七歳)だった。(カモメ)伊藤清飛行兵曹長の戦功は、撃墜破三二機(撃墜二三機・地上撃破九機)でした。この戦功に対して、第二〇二航空隊司令・岡村基春中佐より特別表彰、及び特別善行章が伊藤飛行兵曹長に送られたのです。(ウツボ)十一月、内地に戻った伊藤飛行兵曹長は、大分航空隊、次に筑波航空隊で専任教員として、多くの戦闘機操縦士を錬成した。(カモメ)昭和十九年十一月、筑波航空隊の教官・教員で邀撃戦闘機隊が編成されました。(ウツボ)昭和二十年二月十六日、十七日、連合軍の機動部隊による空襲があり、伊藤ら筑波航空隊教員たちも邀撃に上がった。これが伊藤飛行兵曹長最後の空戦になり、八月十五日終戦を迎えた。(カモメ)伊藤飛行兵曹長の撃墜数は、複数の資料より二六機としました。終戦時二十三歳。(ウツボ)戦後は、伊藤元春は、郷里、新潟県の建設会社「加藤組」に入社、大手の建築会社に発展させ、取締役社長、会長を務めた。昭和五十五年紫綬褒章、平成四年建設大臣表彰。平成二十四年七月四日死去。享年九十歳。
2019.07.12
(ウツボ)七月にも相模湾上空で、赤松中尉は<三菱「雷電」局地戦闘機>で、米海軍<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>一機と格闘戦となったが、ついに撃墜した。(カモメ)だが、燃料切れとなり、横須賀航空隊に不時着したのです。その時、「雷電はいい戦闘機だ。もう少し燃料がつめたら、もっといいが」と叫んで、厚木基地に飛び去ったと言われています。(ウツボ)八月十五日終戦。赤松中尉は、死闘の空戦を繰り返し、後半は圧倒的な米軍の爆撃機、艦載機を相手に、ひるむことなく立ち向かい、生還した。(カモメ)赤松中尉の撃墜数は日中戦争で単独一一機、太平洋戦争で単独二七機という説もあります。また、戦後、赤松中尉自身は、「記録にはないが、私の撃墜数は三五〇機ほどと思っている」などと述べています。(ウツボ)これは、戦時中に赤松中尉を取材した新聞社が、紙面上にはっきりと「三五〇機」と記して紹介していることによる。だが、戦意高揚のための誇大記事であったと言われている。(カモメ)赤松中尉自身が戦後残したメモには「総撃墜数は18機くらいだろう」と記してあり、本人は妥当と思われる数字を把握していたことが分かります。(ウツボ)だが、複数の資料が撃墜数二七機を表示しているので、総撃墜数は二七機とした。【荻谷信男(おぎや・のぶお)少尉■戦死26機】(カモメ)大正七年生まれ。茨木県出身。湊商業学校卒業。剣士三段。昭和十三年海軍入隊。昭和十五年一月第四八期操縦練習生卒業。千歳航空隊戦闘機隊配属。内南洋守備。(ウツボ)昭和十六年十二月八日、太平洋戦争開戦。昭和十八年三月新編成の第二八一航空隊配属。北千島に進出し、北方方面守備。(カモメ)昭和十八年十一月、第二八一航空隊分遣隊として、春田少尉、岩本飛行兵曹長らとともに一六機でラバウル進出、第二〇一航空隊に編入される。(ウツボ)十一月十七日、ブーゲンビル島トロキナへの侵攻作戦から、ラバウル航空戦に突入。十二月中旬第二〇一航空隊消耗により、第二〇四航空隊に篇有される。(カモメ)十二月十六日、荻谷信男飛行兵曹長がニューブリテン島南端、マーカス岬攻撃時において、公認の単独初撃墜。(ウツボ)昭和十九年一月二十日、<ヴォ―トF4U「コルセア」艦上戦闘機>二機、<ダグラスSBD「ドーントレス」艦上急降下爆撃機>二機、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>一機の計五機を撃墜。(カモメ)一月二十六日、第二〇四航空隊消耗により、第二五三航空隊に編入。引き続きラバウル航空撃滅戦に従事。(ウツボ)昭和十九年二月十三日、荻谷信男飛行兵曹長は、ニューブリテン島ラバウル上空迎撃戦で自爆戦死。少尉に特進。享年二十六歳。空戦期間は、わずか三か月だった。(カモメ)戦死時までに公認された劇類数は二四機。けれども荻谷信男少尉の機体には三二個の桜の撃墜マークがありました。(ウツボ)荻谷少尉の十三日間で十八機の公認撃墜数は日本軍の最高の短期間撃墜数。ただし、荻谷少尉は空戦期間が短かったため、部内でもほとんど知られていなかった。(カモメ)ところが、戦後二十年以上たって、岩本徹三中尉(樺太・第三四期操縦練習生・撃墜数二〇二機)の遺稿ノートから出版された「零戦撃墜王・岩本徹三空戦記」(今日の話題社)で荻谷少尉の戦果が知られるようになったのですね。(ウツボ)そうだね。貴重な記録だね。【伊藤清(いとう・きよし)飛行兵曹長・26機】(カモメ)大正十年十一月生まれ。新潟県村上市出身。六人兄弟の三男。高等小学校を卒業後、織物工場に勤務。(ウツボ)昭和十四年六月一日、横須賀海兵団入団。海軍機関兵だった従兄の影響を受けて海軍に入った。十月水雷艇「鴻」乗組。
2019.07.05
(カモメ)昭和十六年十二月八日、太平洋戦争開戦時、赤松貞明飛行兵曹長は、高雄(台湾)の第三航空隊に所属しており、以後、フィリピン、蘭印(オランダ領インド)攻略作戦に従事したのですね。(ウツボ)そうだね。この攻略作戦中に、<零戦・三菱零式艦上戦闘機>に搭乗した赤松飛行兵曹長は、<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>を含む敵戦闘機を数機、撃墜している。(カモメ)昭和十七年三月から四月にかけて、チモール島のクーパン基地に進出、オーストラリア北西部のポートダーウイン侵攻作戦で<カーチスP-40「ウォーホーク」戦闘機>一機を撃墜しました。(ウツボ)昭和十七年十二月、第三三一航空隊所属の赤松飛行兵曹長は、ビルマからインドのカルカッタ攻撃に参加、イギリス軍の<ホーカー「ハリケーン」戦闘機(イギリス製)>一機を撃墜、一機を撃破した。(カモメ)昭和十九年三月、赤松少尉は、新編の第三〇二航空隊(厚木基地)に転属し、装備機<三菱「雷電」局地戦闘機>と<零戦・三菱零式艦上戦闘機・五二型>を使い分け、帝都防空、迎撃任務に従事しました。(ウツボ)昭和二十年二月十七日、アメリカ海軍艦載機の大群が、数派に分かれて、関東地区に来襲した。(カモメ)だが、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型戦略爆撃機>迎撃のみの訓練しかしてこなかった第三〇二航空隊の戦闘機搭乗員の多くは、<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>や<ヴォ―トF4U「コルセア」艦上戦闘機>を相手にした空中戦では分が悪く、多数の損害を出したのです。(ウツボ)だが、空戦経験の豊富な赤松少尉は、<零戦・三菱零式艦上戦闘機・五二型>の編隊長として出撃し、米海軍第五八機動部隊の<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>を四機撃墜した。(カモメ)四月七日、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型戦略爆撃機>が<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>の援護の援護で来襲しました。(ウツボ)赤松少尉は列機一機とともに<三菱「雷電」局地戦闘機>で迎撃、千葉県沖で、<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>を一機撃墜、さらに一機を列機と協同撃墜した。(カモメ)五月二十九日、横浜市は、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型戦略爆撃機>五〇〇機、援護の<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>一〇〇機による大空襲を受けました。(ウツボ)だが、厚木の第三〇二航空隊の組織的戦闘段階は終了していた。援護の強力な<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>により、第三〇二航空隊の迎撃戦闘機は大損害を受けていた。(カモメ)さらに、四月八日からの沖縄菊水作戦の支援で複数の士官搭乗員を失っていたのです。(ウツボ)それでも、<零戦・三菱零式艦上戦闘機・五二型>八機と、<三菱「雷電」局地戦闘機>三機が迎撃に上がった。(カモメ)だが、日本の迎撃戦闘機隊は、撃墜されたり、撃破されて、基地に帰還したのは、<零戦・三菱零式艦上戦闘機・五二型>三機と、<三菱「雷電」局地戦闘機>一機だけでした。(ウツボ)そんな中、<零戦・三菱零式艦上戦闘機・五二型>に搭乗した赤松中尉は、横浜市街上空で米陸軍の<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>の大編隊に向かっていった。(カモメ)その敵戦闘機七五機に、赤松中尉はたった一機で突撃し一機を撃墜した。その後、敵機の包囲網を突破し無事帰還したのですね。すごい離れ業でした。(ウツボ)六月十日、赤松中尉は、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型戦略爆撃機>を機銃掃射で撃破、撃墜は未確認だが、乗員は機長以下全員戦死した。(カモメ)六月二十三日、赤松中尉は、列機とともに出撃、相模原上空で、米陸軍の<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>二機編隊と遭遇、編隊空戦で、赤松中尉は二機とも撃墜しました。
2019.06.28
【赤松貞明(あかまつ・さだあき)中尉・27機】(カモメ)赤松貞明は、明治四十三年七月三十日生まれ。高知県出身。昭和三年六月佐世保海兵団入団。四等水兵。(ウツボ)昭和四年、大村航空隊の柴田武雄(しばた・たけお)中尉(福島・海兵五二期・四六番・第一八期飛行学生・戦闘機専修・第四期高等科飛行学生・次席・横須賀航空隊戦闘機分隊長兼教官・少佐・海軍航空廠飛行実験部陸上班長兼戦闘機主務・呉鎮守府参謀・第一航空隊飛行長・中佐・徳島航空隊飛行長兼教官・大分航空隊飛行長・第二〇四航空隊司令・第三三二航空隊司令兼副長・大佐・第二五一航空隊司令・第三一二航空隊司令・終戦・戦後は実家の自動車修理工場の経理に就任・平成六年八月死去・享年九十歳)の従兵に任命される。(カモメ)昭和五年五月第一七期操縦練習生(教官は源田実大尉)。昭和七年三月第一七期操縦練習生修了。大村航空隊、空母「赤城」、空母「龍驤」、空母「加賀」に配属。(ウツボ)昭和九年横須賀航空隊配属。特殊編隊飛行の源田サーカスに所属。昭和十二年十二月第一三航空隊(上海)配属。南昌攻略戦などに参加。第一二航空隊配属。中国戦線で戦う。(カモメ)昭和十三年九月赤松貞明一等飛行兵曹は、空母「蒼龍」配属、広東攻略戦に参加。昭和十四年内地に帰還、鈴鹿航空隊配属。偵察員養成の練習機の操縦員を勤める。(ウツボ)昭和十六年四月赤松飛行兵曹長は、新設の第三航空隊(鹿屋)配属。<零戦・三菱零式艦上戦闘機>に搭乗。十二月八日第三航空隊は高雄基地(台湾)で太平洋戦争開戦。クラーク基地(フィリピン)空襲。その後、ダバオ基地に移動、タラカン島基地、蘭印など攻撃。(カモメ)昭和十七年一月第三航空隊はメナド基地に移動、アンボン基地攻撃。二月スラバヤ攻撃。三月チモール島のクーパン基地から出撃、オーストラリアのポートダーウインを攻撃。(ウツボ)昭和十七年五月、赤松飛行兵曹長は、内地に帰還、大村航空隊配属。(カモメ)昭和十八年七月第三三一航空隊配属。十二月インドのカルカッタ空襲に参加。(ウツボ)昭和十九年一月、赤松少尉は、再び内地に帰還し、本土防空のために新設された第三〇二航空隊(厚木航空隊)配属。雷電隊、零戦隊の若い搭乗員に空中戦闘法を教える。(カモメ)昭和二十年二月関東地区空襲の迎撃戦に出撃。四月<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型戦略爆撃機>の邀撃に<三菱「雷電」局地戦闘機>で出撃。(ウツボ)四月八日から一か月間沖縄菊水作戦支援で、第三〇二航空隊の<三菱「雷電」局地戦闘機>隊と<零戦・三菱零式艦上戦闘機>隊が鹿屋基地へ移動。赤松貞明少尉も参加。(カモメ)五月、赤松中尉は他の搭乗員と共に、厚木基地に帰還。迎撃戦に出撃を繰り返し、戦果を上げる。(ウツボ)昭和二十年八月十五日終戦。赤松中尉は、戦後、高知県に戻る。(カモメ)昭和二十八年二月西日本軽飛行機協会を仲間と設立。<パイパー・PA-20ペイサー>一機(「南風号」と命名)を購入し、運航部長、操縦士を務める。その後、高知市内で飲食店を経営。(ウツボ)昭和五十五年赤松貞明元海軍中尉死去。享年六十九歳。最終飛行時間六〇〇〇時間以上。総撃墜数は二七機。著書に「日本撃墜王」(今日の話題社)がある。<空戦記録>(カモメ)昭和十二年十月、赤松貞明一等飛行兵曹は、支那事変に作戦中の第一三航空隊、次いで第一二航空隊に配属されました。昭和十三年九月、空母「蒼龍」に転属するまでの、約九か月間に赤松貞明一等飛行兵曹は、撃墜数十機前後の戦果を上げたのですね。(ウツボ)そうだね。乗機は<三菱・九六式艦上戦闘機・単葉>で、南京、南昌、漢口などへの侵攻作戦だったが、当時は、向かうところ敵なしで、赤松一等飛行兵曹だけでなく日本の戦闘機操縦員は多大の戦果を上げていた。
2019.06.21
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