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戒、戒律を「おきて」や「最低限のルール」と捉えるのは違うのかもしれない。
特に日本仏教では、戒律は人気がない。
私もあまり好きな方ではない。
真に迫るイメージが湧かないからかもしれない。
修行の本丸ではないよねっていう印象。そんな戒律より大事なものがあるでしょうと考えてしまう。例えば「覚り」とか。禅僧の「覚り」の前では「戒律」すら引っこむ。
校則ではなく「ボーイズ
ビーアンビシャス」と語る方が受けがいいのだ。
真面目でルール厳守の日本人が特に戒律嫌いなのが面白いところ。
日本以外の仏教では戒律をとても大事にしている。
けれど、それとは別に、私にとって戒は珠玉の経典のような印象も受けるのです。
つまりですね。修行を積んだ僧侶たちが智慧を働かせて反省点を一つ一つ見つけていって作られたのが戒律です。
修行者にとっての道しるべのようなもの。
初期の段階で必要と思われた戒律も、時と場所によっては不要となることもあるだろう。
ならば修行の段階によって戒律が異なってくるのが普通というものだろう。
戒律こそ編纂しなおさなければならないのではないか?
経験から学んでゆき、戒律が作られてゆく。
段階が上昇するにしたがって不要になってくる戒律も存在するだろう。振り返ってみればそれが「方便」であったと分かってくる。
方便を排除してのち残る法身の純粋な智慧。それを形にしたのが戒律。という視点なんですが、となると特に「戒」は修行初心者程すくなく、高僧になるにつれて溢れんばかりに増えてくるのが正常なのでは?高僧ほど経験を多く積んでいることになりますからね。
戒律はお釈迦さま在世時から存在した「経典」のようなもの。
現在の経典は「如是我聞」から始まる伝聞形式。
戒律の方がよっぽど仏説に近い。
戒律を「~してはいけない」ではなく仏道として捉える。(それが三昧耶戒かも?)
しかしながら現在の世界標準の戒律は、何でもかんでも残したんだな、みたいな印象です。魔訶迦葉が何でもかんでも残してしまったからなんでしょうけど。
仏法の「ど真ん中」が「おきて」になってしまった。
南伝仏教がお釈迦様在世時に近い戒律を残すのは
歴史的価値
のような有難さはあります。
けど我々はそれでいいの?っている疑問は日本仏教の影響を受けた身として持っておきたい。
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