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サマタ瞑想は神秘的な意識に至りやすい瞑想法である。三界は精神状態の階梯のようなもので、感情に左右される欲界からより深淵な色界・無色界へと続いている。この三界の内に様々な神様も住んでいることになる。サマタ瞑想の欠点は、瞑想から出たら元の凡夫に戻ってしまうことである。だからお釈迦様はアーラーラ・カーラーマ「所有するものは何もない」【無所有処】、ウッダカ・ラーマプッタ「想うこともなく想わないこともない」【非想非非想処】の師匠の下から離れ苦行に打ち込んだのだ。苦行の目的はおそらく日常に於いてブッダを出現させることあろう。そのために欲望の滅尽を試みたのだと思う。しかしそれは不可能であることを悟った。苦行を捨て菩提樹の下で瞑想に入った。そこで「縁起の観察」を行った。つまりはヴィパッサナー瞑想である。縁起こそ日常の正体である。快楽にも苦行にも偏らない中道を歩むことにした。この場合の快楽とはサマタ瞑想に於ける恍惚境のことかもしれない。サマタにも苦行にも偏らない中道。それが縁起を対象とするヨーガである。具体的には八正道である。八正道を守ろうとすればサマタのみでは不可能なのである。正しい日常生活(縁起の場)を瞑想の糧としてヴィパッサナーに生きるのである。では、この方法で欲望を滅することはできるのか?否である。「苦集滅道」とよく言われるが、「滅」は正しい翻訳とはいえない。正しくは「制する」なのである。欲望を制する方法が、八正道の正しい日常生活なのである。だから【滅尽定】も「制尽定」とするのが正しいのかもしれない。制尽定こそがヴィパッサナー瞑想なのである。縁起を観察する瞑想法である。
2025年07月09日
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悟りというと般若の智慧、無分別智を用いるイメージがあるが、実際お釈迦様は分別智を繰り返し用いている。物事を分解して、それぞれに「我」の無いことを理解してゆくやり方だ。五蘊にしろ十二因縁にしろ四念処にしろ、このようにどこにも「我」はない。そしてヴィパッサナー瞑想も言葉を用いている。これは般若の智慧のように直観を用いたものではなく、接触した一つ一つの情報に言葉を当ててゆく。実況中継のような状態なのだ。言葉を離れるイメージがあるが、実際は言葉を積極的に用いている。ではこの言葉とは何なのか?言葉とは普遍の象徴であろう。唯名論の「名」とは「言葉」のことであり更には【普遍】を意味する。お釈迦様が発明したヴィパッサナー瞑想は、「固有」を「普遍」に変換する手法だったのではないだろうか。「どこにも我はない」そして「対象への執着を離れる」は、「一切は我の所有物ではない」ということであり、それは【固有】を【普遍】に変換することで達成されるのである。となるとプラトンのイデアと似てくるのであるが、この「普遍」を仏教は絶対視しない。言葉の中に「我」はない。無我でこれを制しようとするのである。これはおそらく「無色界の禅定」四無色定、想受滅に至ることで九次第定の過程である。【空無辺処】すべては無辺なる虚空である。【識無辺処】すべては無辺なる識である。【無所有処】所有するものは何もないという境地。【非想非非想処】想いがあるのでもなく、想いが無いのでもないという境地。有頂天。最後に【滅尽定】悟り。【空無辺処】で外界を離れ【識無辺処】で内界を離れ、【無所有処】で我及び対象を離れ【非想非非想処】は〈普遍〉(を離れる)なのでは?と思う。ちなみにお釈迦様の師匠は二人いて、アーラーラ・カーラーマは「所有するものは何もない」という【無所有処】を伝え、ウッダカ・ラーマプッタは「想うこともなく想わないこともない」【非想非非想処】を伝えました。【非想非非想処】はひょっとして固有を滅した〈普遍〉なのでは?これら無色界はサマタ瞑想で得られる境地のようです。それと同時に無分別智での境地でもあります。このサマタ瞑想の無分別の智慧がロゴス乃至イデアを滅たらしめるのです。ヴィパッサナー瞑想は外界を固有を普遍に変換させ、サマタ瞑想の智慧に於いて滅尽を果たす。これが出定したブッダが法を説いた理由だと思うのです。サマタで得られる境地は深海に降ろされた錨のようなもので非日常時の智慧は地上に出現することがなかった。しかしヴィパッサナー瞑想は錨を引き上げ日常の中で明らかにする智慧です。お釈迦様の悟りに「師の握りこぶしはない」のです。秘密のままにはしない。だからこそブッダは現象界に出現されたのです。
2025年06月27日
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名とは言葉であり、言葉とは概念であろう。普遍を象徴すると見てもいい。しかし仏教はこれらの実在を否定するのではなかったか。例えば「Aがある」これは仮の姿であって、実在ではない。縁起によって出現したものに過ぎない。「家がある」これは屋根や柱や壁など、そして設計士が設計し、大工さんの働き、資本、土地の確保など、様々な要因が結び合わさって出現したのである。永遠普遍の「家」が実在しているわけではない。建設された家も経年劣化する。日々変化の中にある。だから仏教では家を実在とは見ず、仮のものと考える。これが縁起である。縁起での考察では出現するさまの説明は為される。しかし、滅についてはほぼ為されていない。つまり縁起とは物事の成立事情のみを表すのではなく、滅を含んだ変化そのものを表しているのだろう。縁起は中道ということになる。【唯名論】という用語を使うとき、「存在は普遍(言葉)である」という意味で理解する。しかしこのような個物の実在を仏教は認めていない。その意味で仏教は唯名論ではないはずなのだ。しかし仏教では実在を認める概念があると考える。涅槃の存在だ。これが実在しなければ仏教は成立しない。密教的に表現するなら「阿字」。涅槃を現象の中で表現すると「菩提」という言葉になったりする。現象が尽きれば無余涅槃だ。現象の中で涅槃の表れ。それは「発菩提心」もそうだし、禅ならば「修証」となるだろう。修行そのものが涅槃の顕れかもしれない。この涅槃という普遍は実在する。それ以外の普遍は実在しない。私はそう考える。説一切有部では三無為を唱えるが。涅槃は択滅無為にあたる。虚空は無為法というが、私はそうは思わない。非択滅は「正しい知恵によらない法の止滅」であるが、これも一種の有為法ではないか。つまりは「無い」は実在するのかしないのか。「無い」は現象の中に出現するはずだから。仮であろう。「トンネル」や「穴」に実体はあるのか?という問いと似ている。環境が個を決定する縁あってのものだから有為法である。では縁起は?縁起は中道であるといってもこれは有為法であろうか、無為法であろうか。個物は有為なのはわかる。縁起そのものの普遍は無為ではないのか。となるが、これも有為であろう。修行が有為であるのと同様に。この「涅槃」という普遍の実在に統率された修行法が八正道なのであろう。現象(有為法)の中で涅槃が発露するのである。お釈迦様の説法や慈悲も有為法である。その止滅もそう。成仏も有為である。しかし涅槃だけは常住不変の実在なのだと思う。
2025年06月19日
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無明とは無知のことである。しかし漠然とした言葉だ。これは三毒と考えたらどうだろう。「貪瞋痴」のことである。それらは業を生み出す。三業などがそう。行為これが行。行為が輪廻する。という意味では記憶でもあり行為情報の貯蔵と理解してよいだろう。識とは何か。精神。判別。分別意識。認識作用。これらが名色を生み出す。名色とは名前とその対象のこと。精神と物質。これらを別けて表現している。「名色」これはインド式の実在論の世界観用語でだったのである。【「名前と対象物は、まったくの別物だよね」=実在論】→自然科学的。【「名前って本質だよね」=唯名論】→呪術・真言・言霊・真名など。この【実在論】は【中世ヨーロッパの普遍論争における実在論】とは異なる。ヨーロッパ式でならこれは【唯名論】に該当する。普遍論争に於ける実在論とは【「普遍」が実在する】ということ。つまりは唯名論なのである。普遍論争に於ける唯名論は【「普遍」はただの名前に過ぎない】ということ。つまりは実在論なのである。インド式の唯名論は言葉と対象が一体と考える。これは呪術的な思考である。インド式の実在論は言葉と対象が別物と考える。これは科学的であり、現代人の考え方と同じである。十二因縁に於ける「名色」は名前と対象を別物として表出されている。故にこれは実在論用語なのである。更には十二因縁にこのような実在論があるということは、釈迦自身が実在論者であったからだと考える人もいる。しかし私は逆だと思う。十二因縁は迷いの世界。苦に生きる我々衆生の因縁、無明の様を説明している。解脱した釈迦は二度とこの世界に生まれ変わってこない。お釈迦様の自己は現実世界に在居しているわけではないのである。この現実世界に「私」はどこにもない。無我であると説いた。この現実に私が在ると考えるから無明から逃れられず苦しむのだ。物理よりも先に精神の超越があるから解脱できるのだ。或いは精神が無明であるから物理世界に生まれ変わる。物理は精神の表象であり一部である。故にお釈迦様は唯名論者なのだと思う。名色があるから六処(眼、耳、鼻、舌、身、意)がある。これは共時的世界に於ける因縁である。通時的因縁論ではない。「同時」の世界である。対象があるということは感覚器官があるというのは当然のこととなる。触、受も同じ。これらは五蘊として共時性の縁起で存在している。「色」が有るとき、受想行識も「同時に」存在している。通時的順番ではないのである。五蘊それぞれが同時に存在するなら、これは唯名論なのである。まあ実際に思考するにあたって順を追うことはあるだろうが、「概念」で捕えるのであって個別情報を追っているのではない。でないと例えば目を閉じたり気絶した途端、「受」「愛」「取」「生」「老死」が消滅することになってしまうだろうから。これらは概念なのである。であるから三世両重の理論は間違った解釈であると思う。サマタ瞑想も瞑想中は悟りに近い境界でも、瞑想から出定すると凡夫に戻ってしまうのと同じである。一時情報を遮断しても悟りに至れない。「無い」という概念が実在しないのなら苦集滅道の「滅」とは至難の業となるだろう。しかしそれを可能にするのが八正道であったりヴィパッサナー瞑想なのだろう。その根本原理には「唯名論」がある。言葉が「滅」を可能にするのである。もっと言えば「八正道やヴィパッサナー瞑想は唯名論」なのである。
2025年06月18日
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まずもって「極楽往生」とは異世界転生のことである。往生とは生まれ変わりのこと。いわば転生。一度〇んで、そして極楽浄土に生まれるのだ。だから地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修道・人間道・天道の六つに生まれ変わるのが通常だが、特設コース「浄土」が存在することになる。異世界転生すると、通常は前世の記憶に従って「ゲームの知識を活かし」正しい選択をして適切な結果を得る。これは『法前仏後』の世界観だ。その世界の理(ことわり)、シナリオが前もって存在しているからだ。主人公は全能者ではないが、全知者に近い存在である主人公は選択する。これは外面的「行為」だ。救われるかどうかは「選択」「行為」が関わってくる。「選択」「行為」がシナリオを前へ進めてゆく。これは仏教的世界観と同じだ。しかし、キリスト教の神様は「外面的行為」を重視しない。「あなたはシナリオ中のただの駒に過ぎないのですよ」と言っている。「あなたが選択したと思ってることはみんな私が書いたシナリオなんです。みんな私が決めた決定に従っていっるだけです。だからあなたがどんな知識で何を選択しようが本当の意味であなたに選択権はなくシナリオを操作することはできません」外面的行為で結果は左右されない。つまり何をしようが、救われない者は救われないんです。「おい、転生者。お前救われないことに決めてるのでどんな選択しようが救われんからな」そう、神はその魂。内面、転生者の運命を決めてるのです。これが全知全能たる『神前法後』の世界観。しかしこの『神前法後』に近い世界観なのが浄土真宗だ。通常の、例えば浄土宗だったら『南無阿弥陀仏』を唱えたら極楽浄土に往生できる。これは「行為」が「結果」を生んでいる法前仏後だ。『南無阿弥陀仏』は転生する魔法の呪文だね。しかし浄土真宗で『南無阿弥陀仏』は報恩感謝の言葉なのだ。「転生する運命を与えて下さってありがとうございます」というお礼の言葉なのだ。だから自力で転生するのではない。外面的「行為」で転生するのではない。他力によって往生する運命が与えられ感謝の言葉を述べているのだ。念仏も自力ではない。他力である。往生する運命は予め?決められていたようなものである。まあ予めかどうかは分からないけど時間軸ではなくこの瞬間・瞬間に心だけは極楽浄土に往生してるんだな。そして行って帰ってきてる。
2025年05月01日
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真言とは真実語のことである。真実の言葉とは誓願のことである。よって菩提心を起こしたあらゆる菩薩は真言を持つ。真言は密教の専有物ではない。しかし大乗仏教はじめあらゆる仏教も密教の内にあると見ることができる。大日如来の智慧を分有する者を持金剛者と呼ぶ。別名執金剛。金剛杵を持つ者のことである。あらゆる菩薩は内面に真言を持つ者であるから、この内眷属は持金剛者と呼ぶにふさわしい。普賢菩薩はあらゆる衆生の内面に蔵する優れた仏の境地を示す。故に普賢の名を持つのだろう。三昧耶は「約束」「契約」の意。つまりは諸菩薩平等に蔵する如来秘密たる誓願を示しているのだろう。原因が結果を生むのなら、業にさいなまれた現状を生きる衆生の菩提に至る因は無始の果てにまで遡らねばならなくなる。しかしながら、この今この瞬間に菩提心を起こしたならば菩薩へと生まれ変わる。大日如来の智慧(金剛杵)を分有する必要があるため誓願が必要ということだ。具体的には「四弘誓願」とかということになるが、これは予定説ということだ。仏教は因果律と思いこんでいるが、菩提心を起こす瞬間は予定説に生きているのである。何故なら「誓い」「誓願」に生きることになるから。これは自分自身との約束事なのであるが、「公約」と言っても良い。「当選したら〇〇します」これが絶対であるならば、当選したとき〇〇することは確定しているので、確定した未来から、今この現実が生まれ変わるのである。この不思議パワーが「真言」「真実語」「マントラ」なのである。「当選したら〇〇します」と言って実行しない政治家は沢山いるが、これは誓いでもなんでもない。因果律に生きる者の姿である。凡夫が嘘をついただけの話だ。しかし凡夫が仏になるには確定した未来から力を得るしかない。故にあらゆる菩薩は菩提心を起こし、自心に誓願(マントラ)を持っていることになる。しかもそのマントラがその菩薩の真実〈核心〉となっているのである。故に如来秘密には誓願を供えた仏が隠されているのだ。発菩提心の真言がいかに尊いか。しかしこの誓願に生きる。誓いに生きることはかなり大変なのだ。舎利弗は無理だと思った。だから彼は声聞に生きる道を選んだ。いわゆる戒律に生きお釈迦様の教える道だ。しかし菩薩道に入るためにはどうしたらよいのか。彼は観自在菩薩に問うた。その答えが般若心経の真言だったのである。「渡れ、渡れ、彼岸に渡れ、完全に彼岸に渡れ、菩提よ幸あれ」。これは予定説からの言葉なのである。彼岸から此岸に向かって発せられた菩提の言葉。故にここに声聞・縁覚・大乗・金剛乗すべての仏説の悟りが含まれているのである。般若波羅蜜を説いた経文も、この真言の解説に過ぎない。つまりは波羅蜜、六波羅蜜の菩薩道も予定説として読み解く必要があるのだ。
2025年04月27日
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唯名論と実在論という用語については、『普遍論争』は無視して、存在論としての唯名論・実在論の用語をここでは使うことにします。なのでお釈迦様は「実在論者」という扱いになります。十二支縁起の「名色」というワードは名前と対象を分離しています。お釈迦様は実在論者であった証拠ともいえそうです。実在論は唯物論に近い論ですが、つまるところ主観と客観に密接な繋がりがあるかどうかです。そういう意味ではバラモン教「梵我一如」は唯名論ということになるでしょうか。そしてフッサールの現象学は唯名論ですね。主観がなければ客観は存在しないと考えますからね。ということは、唯識は唯名論です。心があるから客観がある。その逆ではない。部派仏教の説一切有部は如何でしょうか。これは原子論です。縁があって存在が結ばれる。しかし法は実在と考える。これが「法有」です。世間のものは諸行無常であるから唯物論的である。しかし真理は実在と考える二諦説。説一切有部は実在論なのです。対して龍樹(ナーガルジュナ)は法空を説く。世間法に於いて物事は実在しているように見える。しかし、「法(原子)もまた空なのだ」と考える。この二諦説は説一切有部と逆である。真理に於いては唯名論。客観は実在しない非実在論。かといって言葉(普遍)も否定している非唯名論。それが龍樹の空思想である。しかしながら龍樹の用いた四句分別(テトラレンマ)自体は唯名論である。言葉によって言葉を否定しているが、言語対象たる客観実在を否定し、しかも言葉で否定の「論理」を尽くす、真理を追究する過程は唯名論である。如来蔵思想は唯名論である。普遍の実在を説くからである。また菩薩の誓願を説く大乗仏教全般も唯名論である。しかし言葉で真理を説くことはできないとする空思想は実在論である。空海の密教は唯名論である。密教は法身説法。天地が真理の説法していると考える。あらゆるものは仏説である。三密もまた真理の表れ。また空海は「名は必ず体をまねく」と言う。声と字、声字と実相は不可分であるとする。故に明確な唯名論なのだ。しかも真言を説く。顕教の声字は密教に比べれば実在論寄りだ。密教ほどの明確な唯名論ではなかった。維摩の一黙というくらい真理は無言であると考えている。空思想である限りは唯名論ではあるが、まあ明確にどちらと区分でえきるものではない。
2025年04月26日
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呪文(言葉)の呪力を否定する時点で仏陀は「普遍論争に於ける唯名論者」「存在論に於ける実在論者」である。この「唯名論」「実在論」の扱い方はとても難しい。一般に謂う「唯名論」「実在論」は中世ヨーロッパの「普遍論争」に於ける用語だからである。普遍論争とは、普遍は(実在する)のか。普遍は(ただの名前に過ぎない)のか。という論争である。だから「生物」とか「動物」「植物」「犬」「猫」などのカテゴリーを実在と見るのかどうかという論争なのだ。いわゆる普遍とは神の存在論に結びつく。だから教会は「普遍の実在」を説く。しかし科学的には個物のみ存在し普遍は存在しないとする「唯名論」が支持されることになる。____________________________________________それとはまったく別次元で存在論に於いては、名前と対象物は無関係と見るのが実在論。名前と対象物は一体と見るのが唯名論となる。例えば花という名前とその名前の対象物は別の存在と見るのが実在論。花という名前と対象物は不可分と見るのが唯名論となる。____________________________その結果「普遍論争」に於ける(普遍)実在論は即ち(存在)唯名論となり、「普遍論争」に於ける(普遍)唯名論は即ち(存在)実在論となってしまったのだ。____________________________聖書に於ける「光あれ」は言葉が存在を生み出した顕著な例である。言葉と存在が固く結びついている。だから存在論としては唯名論だ。しかし普遍論争としては「言葉」という普遍が実在しているのだから実在論となるのである。____________________________しかし実生活において「光」の存在と「言葉」はまったく関係がない。だから我々は(存在)実在論の中で生活していることになる。しかし普遍論争における「光」という言葉(普遍)は「ただの言葉」に過ぎないので唯名論ということになる。ああ、ややこしい。
2025年04月26日
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インドの宗教の場合、必要な手続きを取れば、適切な結果が得られる。基本的にはヴェーダ聖典を理解するバラモンがそんな聖なる知識を持っている。そしてマントラを唱え神々を動かし、望む結果をもたらす。雨ごいなどがそうだ。密教もそのような性質を持つ。人生とはなるようになるものだ。何事も物事には原因があり過程がある。あとから「ああしていればよかった」「こうしていればよかった」、と思う。しかしすべては理に沿って運行している。偶然でさえもその理はら外れることはない。その積み重ねの知恵で真理の法を探る。経験を積み、道理を知り、天地人の法を理解しようと努める。聖なる法に出会い従う。これが法ありきの世界。適切な手続きをとれば老人ホームに入れるが如く、適切な結果がやってくる。しかしキリスト教の場合は適切な努力をしても「神の国」に入れるかどうかは関係がない。どんな善行を積み信仰心を持ち努力をしても、救われるかどうかは、その人にとっては運なのである。というか初めから決められている。「神の国」に入れる人はもう決定している。生まれる前から。天地が創造された時点で救われる人はもう決まっている。だから人間の努力なんて無意味なのだ。では仏陀はどう考えたのかというと、バラモンの呪文・聖語・真言を否定した。善行を行う者に対し他人がどんなに「地獄に落ちろ」と念じたところで、効果はない。その行動でその者の性質が確定する。クシャトリアであってもバラモンのように修行者として行動し、生きてよい。階級や名前によってその者の性質が決まるのではない。道元のように「飛ぶから鳥」「泳ぐから魚」「修行するから仏」というのと似ている。葬式をしようが、しまいが、救われる人間は、その人の人生自体によって救われるのである。行動によってその者の性質が決まる。ではキリスト教ではこの「行動」がどう解釈されるか。これは「外面に過ぎない」のである。外面のみでは内面は判断できない。外面でいくら神をののしり、誹謗中傷を行おうが、内心の信仰心とは関係がない。外面でその人の性質は判断できない。内面で判断されるべきなのである。しかし他人にはその人の内面は見えない。神のみが知ることができる。だからその人が良い人か悪い人かは神のみが評価できるのである。ここに「善い事をしたから救われる」なんて独善的な考えは否定される。踏み絵で十字架を踏みつけても良い。「神なんて信仰してない」と言っても良い。神様だけはその人の信仰心を分かってくださる。しかしイスラム教ではこれが許されない。内面と外面の信仰心は一致させねばならない。政教分離が実現しないのもこのせいだ。レコンキスタに於いてもイスラム教が弾圧の対象となったとき、イスラム教徒は嘘を付けない。ついてはならない。だからすぐ見つかって弾圧された。イスラム教を信仰しているなら「信仰してる」と述べねばならなかった。内面の問題だが、これは天台本覚思想と似ている。いわゆる修行無用論だ。我々は既に悟っている。ならば修行なんてしなくても良いのでは?という意味。道元さんは「仏だから修行するのだ」と考えた。仏になるために修行するのではない。修行する姿がそのまま仏なのである。坐禅こそが仏の姿なのである。そして行住坐臥すべてが修行なのである。仏として生きるのだ。
2025年04月26日
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法前仏後の世界観では、神々は法に支配されていると考える。この場合の法は「マントラ」だ。聖なる言葉、真実の言葉、真言を唱えれば雨を降らせたり敵を調伏したりできると考える。または生きる苦しみ、負のスパイラルから解放される。路線図や時刻表があれば目的地にたどり着くことができるのと同じである。法は初めから存在していて必要なときに必要な聖語を唱えれば幸福が齎される。科学もそれと同じで、自然法則を理解すれば必然的な結果が齎されるのである。ただこの考えの問題点は自我肥大になってしまうということ。自分の都合で神々を操れるのなら、いったい何を行動規範にしているのか。損得勘定で動いているのではないか。それでは信仰心を持っているとは言えないのではないか。つまりは鋼の精神とは無縁になってしまいかねない。神前法後に於ける法とは契約である。神と人との契約。それを応用した人と人との契約。この契約は絶対である。災害に「見舞われたから」「その日は病気で」などの言い訳は通用しない。約束は約束。絶対なのである。結婚も契約。離婚なんてありえないとかね。契約違反がない限り破棄はない。だから未来に対してできる限りの段取りを組んで挑む。未来に関して絶対はありえない。だからこそ人知の及ぶ限り絶対に近づける。資本主義社会はこうして発展した。つまりは西洋諸国の行動原理はキリスト教あってこそのものだった。そして定価を設定することで未来予測性が高まる。イスラム諸国は定価が存在せず契約も絶対ではないため資本主義になり損ねた。それはキリスト教は予定説で運営されていたのに対して、イスラム教には因果律が存在していることに原因がある。アッラーは規範を設けているが、まことに慈悲深くお目こぼしもある。天国行き地獄行きはその時まで確定はされていない。キリスト教の場合その人が生まれる前からその人の人生は決められていて、神の国に行ける人消滅させられる人は確定している。個人がどんなに努力しても救われない人は救われない。仏教の場合善因善果、悪因悪果の法則があるが、現実はそんな単純じゃないでしょ?それと一緒。神は全知全能であるから天地創造の時点で世界の終末までが確定している。「良いことをしたから救われる」、ななんていうのは人間の傲慢なのである。神は神なりの視点で人間を見ている。どんな悪人であろうが救われる人間は救われるのだ。しかし人間はそれを知ることはできない。どんなに信仰心を持っていようが救うかどうかは神次第なのである。だから人間にできることは、「自分が救われる側の人間である可能性をできるだけ高めてほのかな安心を得たらあとは運任せ」なのである。本音を言えば「いつも不安だらけ」なのだ。「これをしたから救われる」なんてものは存在しない。そんな教義があるなら神への冒涜だ。だからどんな善人も安心はできない。無限の努力を続けるのである。どんなに努力しても無駄かもしれない。神の国に入れず存在を消されるかもしれない。けれどそれに掛けるしかない。会社運営も同じでしょ。どんなに努力しても成功するとは限らない。どんな最善手を打ったとしても経営判断の間違いだったということはあるのだ。そして努力しなくても大成功する人はいるのだ。すべては神次第。運だ。けれどできるだけのことはする。キリスト教はこれなのである。なので予定説に生きてきたキリスト教国家の人々は計画を練って到達目標を設定し、ストレスを抱えて努力してきた。「原因が結果を生む」に安住せず原罪と目的因を持って行動してきたのである。アジア諸国を見ると、今はかなり改善されてきてはいるが理由を付けての納期の遅れとかかなりあったと思う。「契約は契約でしょ!」といっても分かってもらえない。理由があれば契約は変更できると思い込んでいる。そして日本よりも欧米の方が更に契約に関しては厳格なのだ。日本人の「俺の目を見ろ。これが嘘をつくやつの目に見えるか」「公約はともかく私という人間を信用して欲しい」なんてのは通用しない。
2025年04月26日
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無制限の国際化には危険が伴う。例えば相手の真理と私の真理は違うということだ。それを相手にも理解してもらわなければならない。そうでなければ、相手は自分の真理を振りかざして日本国内で行動するだろう。「信教の自由」を認めても、「信教の自由を認めない信教」は認めてはならない。寛容の精神を示さない宗教に寛容に接することはない。だからこと日本国内で「俺のルールに従え」と言ってくる相手には厳格な面を示さなければならない。一つ思考実験をしてみよう。イスラームには「多神教徒は見つけ次第〇せ」という教えがある。ならば帰化を希望する人には「日本は多神教の国です。偶像も沢山存在します。なのでコーランのこれらの個所についての信仰を破棄すると誓ってください」と要求したらどうなるだろうか。あるいはイスラム教徒は豚肉を食べない。この解説として日本で紹介される説明は「砂漠の国では暑さで腐って危険だから」というものだ。ならば検査の結果完全に安全であると証明された豚肉であれば、彼らは食べるであろうか?私はこれらに「否」というであろうと想像する。宗教教義とは因果律で成り立っていないのである。原因と結果で宗教教義は成り立ってはいない。科学なんて関係ないのだ。言葉が絶対の世界で生きている。これが宗教である。愛と平和の宗教?それはあるかもしれないが、必ず闇は存在する。普遍的な「愛と平和」ではなく、「彼らにとっての」愛と平和の真理なのである。だから相対的に接するしかないのだ。なのでこの問題の解決策は「言葉の真理」で解決させなければならない。日本国と日本国土は未来永劫「多神教と多宗教の国」であるということ。「他の宗教」「異教の神」の存在を認めない宗教は認めないということ。信教は個人に属し、信教の放棄も自由にできることを認めること。信仰を放棄した者に制裁を加えてはならない。また制裁を加えるという教義をも放棄すること。日本はイスラム教の国ではないということ。「イスラム教の国ではないところではイスラムの法に従う必要はない」という教義がイスラムには存在しているということ。故に日本国内ではイスラムの法に従う必要がないということ。日本国内ではこの論理に従うということ。日本国内では日本の法に従うということ。これらの宗教的問題さえ解決されれば、あとは文化的相違の問題に落とし込むことができるのである。だがこの論理を受け入れるかというと、実際は難しいものがあると思う。火葬を受け入れるのかとか、ハラールについてもそうだけど、これはもう個人のこだわり問題と割り切ることができるのかどうか。やはり宗教問題に格上げになりそうで不安。つまりどういうことかというと「唯一神は法に従うことはない」という神前法後の世界観が、彼らを支配しているということである。でも、「論理なんてくそくらえ」という精神はとてもすがすがしいものがあるよね。
2025年04月26日
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始めに神の強権ありなのか、始めに法ありきなのか。「郷にいりては郷に従え」というのは、これも一つの宗教みたいなものであり唯一神への信仰を強く持つ者にはまったく響かない。日本人はルールには従うもの。みんなに合わせる。みたいな概念が自然に身についており、他の人もこれに従うべきだと思っている。しかし世界を見渡してルールに従わない国のなんと多いことか。しかもそのルール、強者の都合で作られたものだったりする。つまりは西洋だったりアメリカ。だから中国は反発する。しかしながら近代化に於いて日本は西洋列強のルールに素直に従うことができたから近代化に成功できたと云える。これは日本文明が辺境の文明だったから。外国の流行に合わせる才能が有ったんだと思う。例えば四大文明の発生地の国々は西洋化に乗り遅れた。これは文明の「我」が強すぎて、西洋流に切り替えることができなかったためであろう。日本は仏教だから法ありきの世界観ではある。しかし天皇制は天皇の神聖不可侵性の下に法が成り立っている。だから日本にも「我」は存在するのだ。世界と付き合う際、(相手も法に従うだろうという期待値)ありきの世界観で行動していては失敗する。とくにならず者国家と付き合う際は。こういうときは力と力の勝負になる。性善説ではなく性悪説というのでしょうか。国内に於いては自分達の法で相手を裁く態度が必要になってくるのです。しかしどうしても無国家性に生きようとしてしまう日本人。帰化する人に国家への忠誠とか日本への誇りを求めない。国家観なんてない方が良いと思っている日本人。ある意味老子的世界観。これから外国人が増えてくるとトラブルが増えてくるだろう。「国境線」が存在することを信じるか、信じないかで生きる世界は異なてくる。そこで宗教の問題だが、みんな宗教は個人の問題だと勘違いしてないだろうか。例えば「コーランを燃やしてはならない」というのがある。常識があれば他人の大切にしている物を燃やすようなことは、悪意を持っている者でない限りまあしないだろう。しかし私が言いたいのはそういう意味ではなくて、他宗教の者であってもイスラムの法に従うことを求めてきているということである。例えばだ。イスラムには「多神教徒は見つけ次第〇せ」とか「偶像を破壊しろ」というのがある。これは個人の範疇を超えている。世界には様々な宗教や信仰があり、それぞれに価値を見出すものだろうが、〇さなかったり破壊しないでいるのは、教義上では相手への慈悲でしかない。個人の問題なら、彼らがアッラーの偶像を作成しなければ済むだけの話だ。しかし他宗教の偶像を、あるいは顔を破壊してゆくことを信徒には求めている。胴体を破壊しなかったのは彼らの「肝要の精神」、なんてわけない。でも学校の授業ではそう教わってたはずだ。愛と平和の宗教だと。しかし宗教には両面がある。「そんな過激派は一部に過ぎない。正統なイスラームはそんなことしない。」それはまあそうだろう。しかし、教義のみで解釈すると、そうなってしまうということが問題なのだ。だからいつまでたっても原理主義者は現れ続ける。
2025年04月25日
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天皇の権威というものは因果律に因るものではないのです。「善い行いをするから天皇にふさわしい」「悪い行いをするから天皇にふさわしくない」という考えは天皇制を破壊する考え方です。ただこの因果律を用いることで北条の鎌倉幕府は正統性を主張するのですが、どうしても日本人の心情的にこの考えは受け入れられなかった。同じく足利の室町幕府も天皇の権威を利用するほかなかった。天皇に弓引く足利尊氏は日本史に於いて大悪人という評価を得てしまいました。 しかし承久の乱に於ける北条義時・北条政子・北条泰時は日本史においてそれほど悪い評価を受けてはいない。これは巧妙に朝敵を回避したからであろう。あと裏切りではなく忠義を語るエピソードに変換されたからかもしれない。「頼朝様の恩は山よりも高く、海よりも深い。その恩を忘れましたか」実はこの北条政子の演説は≪因果律≫なんですね。 そして承久の乱は≪私闘≫の扱いとされたのもある。北条義時は北条泰時に「もし錦の御旗が出てきたら黙って降伏しなさい」と命じたという。しかし上皇側は最後まで錦の御旗を持ち出さなかった。だから私闘扱いなのである。さて仏教は因果律を説く。平安時代は国家鎮護、国家支配を支える役目を負ったが、鎌倉時代に仏教は民衆のものとなった。もしくは武士のものとなった。因果律による科学的な支配に近づいたという感じだろうか。これによって権力は下々にまで下りてくることになるのである。当然中世の戦乱と法治を含んでのことである。これが戦国時代、織豊時代、江戸時代の権力の再統一へと発展してゆく土台となったのである。そもそも国家としては神武天皇が建国(天下を統一)しているわけで、なぜに秀吉の天下統一が再び語られなきゃならんのかというと、そういう理屈である。これこそが河合隼雄のいう中空構造の日本を作り出したのだろう。一番偉い者は何もしない。君子は器ならず。御簾の向こうに隠れていて見えない。西洋の王様のように光を浴びて権威を見せつけることはない。これは権力の分配が上手く機能していたということだろう。日本はリーダーが引っ張て行く国民性ではないように思う。それよりも合議制の国柄だった。偉いやつは議長になって立ち回る。しかしながら人間は人間を裁けない。しかし現実問題的に人間は人間を裁き、統治しなければならない。ここに法が置かれるわけなのだが、しかしその法に根拠がなければならない。それが天皇の神聖不可侵性なのである。西洋に於いては神の権威。のちには社会契約となるのであるが。天皇が権威を保つためには「神聖ニシテ侵スヘカラス」でなければならない。つまりは天皇機関説としてです。その結果権力者である政府が政治的責任をすべて負うのである。まあ西洋は天皇はリーダーであったと勘違いするのですが、トップに立っているというよりは中心に隠れている。正体は「機関」だった。機関だから日本人はみんな天皇が人間であると理解していた。天皇機関説が批判されたのも「それを言っちゃうのは不敬(失礼)じゃん」という意味だった。でも連合国側は天皇のことをエジプトのファラオのような神聖統治を行う霊体のようなものと勘違いして「人間宣言」なんてやらせた。笑い話である。
2025年04月17日
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しばらくブログ記事上げていませんでしたね。時の経つのはあっという間です。では何を書きましょうか。パレスチナ問題とかニュースで出ていますが、どうしてイスラエルはこうまで自己中心的なんだろうか考えたりしてます。でもそれは中東や中国とかも同じことで、勿論西洋諸国も。ルールというのは強者が作ると考えている。中国とかがあからさま過ぎるだけで欧米はそこまでではないだけで、結局強者の論理であることに違いはない。ルールを都合よく持ち出す。これが西洋式なんですね。中国は法を持ち出さない。イスラム教なんていうのは「ルールの宗教」ですからね。移民としてやってきていきなり「イスラムのルールに従わなければならない」というのを主張してくるわけです。宗教は個人の自由というものではなく、私とあなたがたも、当然従わなければならないルール、という理屈なんですね。「郷に入りては郷に従え」というのは日本側のルール。イスラムのルールと対等ですから、日本側のルールに従う理由はないんですね。アッラーはすべての支配者ですからね。私たちもイスラムのルールに従うのが筋ですよね、という理屈。そしてそれを信じてしまっているからどうしようもない。偶像崇拝は禁止ですからね。仏像を壊すことは正しいことなんです。多神教徒も扱いも定められていますから、さてこの先日本はどうなるか。突然ですが、一神教は「神前法後」。仏教は「法前仏後」なんです。仏教は仏よりも先に法が存在していると考えます。普遍的な法が存在している。仏陀はそれを悟った。知った。されを人々に伝えた。仏教をそういう宗教なんです。だから私たち日本人は法には従わなければならないもの、と考えます。しかし「神前法後」は神が先に在って、法が後で定められた。だから法よりも神の方が優先されます。だから一神教の国々は信仰優先で物事を考えます。イスラエルが国際法違反だと分かっていても、「でも神様が与えた土地だしねえ」となる。キリスト教徒だとそうなる。ならば科学は?科学は法則に随うので仏教と同じです。中国はどうでしょうか?古代中国には法家というものがいましたが、これが実質的に中国を支配してきた統治法です。法で中国は強大になった。秦は天下を統一できたのも法家のお蔭です。しかしこの「法」は統治者には適用されない。支配する道具ですからね。そこが近代西洋に於ける法との違いです。法の下の平等がないのです。というのは建前が儒教の徳治主義ですからね。皇帝は徳で天下を統治する。禅譲も受ける。天命に随う。徳治という言葉は良いけれども、それがもたらすものは弱肉強食の肯定です。法よりも人間性が優先される。人治国家なんです。じゃあ日本はルールに従ういい子なのでしょうか?そうではないのです。日本国の独立を象徴しているのは天皇です。天皇の存在が中華皇帝の統治の拒否そのものなんですが、この天皇をどう位置付けるべきだと思いますか?「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 」これがもっとも正しい解釈だと思います。少なくとも右派ならばこの論理でなければならない。と申しますのも歴史的に日本人は天皇をそう扱ってきたからです。大日本国憲法とか皇室典範とかは伝統を文字に起こしただけなんですね。「大衆の支持を得たから」が正しいのなら足利尊氏は正義の味方でなければならない。しかし尊氏は大悪人扱いなんですね。尊氏の思いはみんな分かってる。しかしそれでも日本人として天皇に逆らった者は悪人扱いなんです。天皇のいう通りに政治を行って偉いことになったら?「側近は何をしてたんだ!!」と国民は怒るんですよ。つまりですね。天皇のやることは良いことも悪いことも全部「正しいこと」なんです。これを聞いて「こんなの嫌だ」と思うかもしれませんが、結果的にやってることは西洋とそん色ない。むしろ権威と権力を分離した優れたシステムと云える。天皇の権威。その正体は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 」なんです。その権威を笠に着て憲法なり国会なり法律が制定されている。この天皇制を破壊したい人は「善い人、が天皇になるのがふさわしい」と主張してくるでしょう。TVでそのようなことを言っている専門家らしき人がいましたが、私は工作員かいな?と思いました。良い人が天皇になるに越したことはないですけど、良い人でなくても天皇になるにふさわしいのです。慈善活動をしなくったっていい。性悪が天皇になっていい。ただしその責任は側近や政府がとらなくてはならない。だから皇族の教育にも気を使わなくてはならない。山岡鉄舟なんかは酒に酔った明治天皇をいさめたし、西郷は天皇が落馬して痛いと言った時、「どんな事があっても痛いなどとはおっしゃってはいけません」とたしなめた。会議中に居眠りしてたら伊藤博文は足を踏みつけたと聞く。もともと勤王の志士だからね。それこそが忠義だった。今の時代こんなこと書くと変な人扱いされるかもしれない。だって世間でこんなこと口にする人はまずいないでしょうしね。でも外国の文化・宗教と比較してカテゴライズ別けしてゆくと日本国というものが見えてくるんです。
2025年04月08日
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コロナ前と後では変化がかなりある。それまではどんなに技術が進んでも紙が業界から無くなることはないと思われていた。なぜなら原画マンさんとかは紙に絵を描くことで技術を磨いてきたから。それをガラスの上にペンを走らせるというのはかなりの挑戦になる。同様な理由から制作進行も車が必需品とおもわれていた。しかし現在の制作進行はもう車を運転したりはしない。ほとんどない。すべてPC上で仕事が完結してしまうのだ。カット袋もない。ということはリテーク作業はどうするんだ?全部データ上でやるのだ。このわずか数年でここまでになった。そもそも日本国内だけの問題だったなら紙を手放すことはなかっただろう。しかし海外に下請けを任せていた「おかげで」尻を叩かれる感じになった。コロナだからカット袋のやりとりができない。動画用紙も帰ってこない。もうデータ上で修正するしかなくなったのだ。もうすんごい変化。私もびっくりです。
2025年03月01日
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テトラレンマ(四句分別)についてもう少し考えてみたい。①「Aである」②「非A]であるという命題に加え③「Aであり、かつ非Aである」④「Aでもなく、かつ非Aでもない」これをどう解釈するかですが、前回は①②が相対③が絶対④相対と絶対という相対を離れた超絶対ということでした。今回は③④の考察です。①②は相対である。これは前回と同じ。③は【相対の肯定】④は【相対の否定】ということです。④の結論は言葉の否定ということになるでしょう。前回の結論との違い③は前回、相対から完全に離れた絶対であった。④は前回、相対と絶対を中和する超絶対であった。③は今回【相対の肯定】であることから相対に近い存在となる。④は今回【相対の否定】であることから相対から離れた存在となる。さて、前回と今回とではどちらが的を射た考察となるのだろうか。
2025年02月14日
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事法界の「事」とは遍計所執性だと思う。どちらも一般人の普通の視点。一般人が見る世界。言葉が支配する世界でもある。証明というのは言葉による客観化だから、遍計所執性ということになる。二項対立の相対を離れるのが中道。テトラレンマの場合それを極端に推し進めて「絶対」を置いた。それが「Aであり、かつ非Aである」なんだ。しかし次に「相対」と「絶対」の二項対立になる。この相対を離れた中道として「Aでもなく、かつ非Aでもない」が存在する。この状態は無碍なんだ。(「相対」と「絶対」の二項対立)の状態が理事無碍法界。「Aでもなく、かつ非Aでもない」が事事無碍法界。金剛界曼荼羅の五仏でいいますと、四仏は現象界から純粋な空の世界へのヒエラルキーになっている。この相対関係を離れた中道に在るのが金剛界大日如来ということになる。そのため四仏を円環に配し、その中央に金剛界大日如来が存在することになる。この関係は中央の金剛界大日如来から四仏が出生したと読み取ることもできる。そこにあるのは平等性智の真理世界だ。そして四仏それぞれに大日如来の悟りを宿すことになる。しかし胎蔵生曼荼羅の場合、ヒエラルキーがある。外側が現象世界に近く、中央が空の世界に近い。そのため、アシュク如来と胎蔵生大日如来は同質の者と考えることができる。そして思うに、金剛界大日如来は宝性如来と同質だ。密教を説くのは自性法身と自受用法身だから、金剛界大日如来は自受用法身となる。アシュク如来と胎蔵生大日如来は自性法身です。これで東と南の大日如来が確定した。残すところは西と北だ。それぞれ妙観察智と成所作智の大日如来が隠されているはず。西が妙観察智の阿弥陀如来で、そのうち浄土教大日如来としての仏教が誕生すると思う。本願力大日如来でもいいけど。そこ根本には教行信証が存在すると思う。そうでなくてもこれまで浄土教と密教の融合は存在した。他力の本源を阿弥陀=大日如来とする考えである。北は成所作智の不空成就如来(釈迦如来)だ。現実世界に身体を持って誕生した仏様です。身口意でいうと身に該当する。阿弥陀如来が口で、宝生如来が意です。不空成就如来は一般にお釈迦様ということになっているけど、お釈迦様の成仏を金剛頂経的に解釈した仏様です。ですから変化法身全般と受け取っても良いです。大釈同異論は古くからされています。しかし真言宗からみてかなり無理があるように思います。台密は大釈同体、東密は大釈別体という感じでしょうか。そして仏身についてなんですけど、等流法身をどこに配当するかなんです。一般には五智に当てはめられないから言及を避けるんですよね。自性法身(アシュク如来)・自受用法身(宝生如来)・他受用法身(阿弥陀如来)・変化法身(不空成就如来)・等流法身(?)の五つなんですけど、五智に当てはめられない。私なんかはもう等流法身を大日如来の法界体性智に配当しちゃえよと思うんですけど等流身は一般凡夫の生類のことなんで、それができないんだと思います。詳しく述べると、仏が教化の相手と同じ人間の種類あるいは天・獣畜の種類の姿を取って現われたものです。あと等流は「通り雨」のことでもあります。それで変化身との違いは何ぞやということですが、等流身の内悟りを得た者、教化する側が変化身ということだと思います。教化される側は等流身です。つまりは等流法身は如来蔵思想の体現者なんですよね。あと変化身は「化身」のことでもある。でもこのあたりややこしくて、難しい本読んでたりすると等流身も化身なんじゃないかと思うんです。偉い仏様の化身、それが我々凡夫ということです。じゃあどの仏様の化身なんだということです。あの人は「観音さまの化身に違いない」「仁王様の化身に違いない」これで良いのかもしれない。でも究極にはみんな大日如来の化身なんです。そして密教的には末端にこそ真理が体現されるような発展をしてゆく。仏教の進化発展もそうですが、主尊とされるものが時代によって変わってる。ただの門番だった神様がチベット仏教では一番重要な仏様になっていたりするんです。阿弥陀様も弥勒菩薩も元は仏教以外の宗教の神様だったはずですし。それで思うんですが、等流身の範囲を凡夫に限らないという風に考えたらどうでしょう。みんな大日如来なんだから互いが互いの等流法身で良いのです。ここでは敢えて中心を立てない。みんなが大日如来なんだからね。そして互いに他力を頂いている。そして北は成所作智の不空成就如来であり無碍身大日如来。まあこれ私が勝手に名付けました。中央の法界体性智の大日如来は「等流法身」。これでいいじゃないですか。【等流=みんな】ということで。
2025年01月29日
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テトラレンマとは四句分別というインド論理学で使われる概念です。西洋は排中律を用いる二項対立の論理学です。インド論理学ではこれにもう二つの項があるのですね。①「Aである」②「非A]であるという命題に加え③「Aであり、かつ非Aである」④「Aでもなく、かつ非Aでもない」この論理学ではゲーデルの不完全性定理とかどうなるのかとか思ってしまうのですが、私にはまだよくわかりません。ゲーデルのは自己言及するに及んで論理的証明は完全にはなりえない、とするものだった。この死角・盲点こそが自己の存在する処と、インド人は考えた。見る者は自己を見ることができませんからね。ゲーデルも同じ。自己言及の論理は客観性を欠き、完全たりえない。自己は論理的に証明できないものだから、この無明(無知)にこそ自己がある。自己を知ることができたら悟りに達した者となる。如実知自心とはそういうことなのかもしれない。自己=真理ということなのかな。何故ならば真理に於いて梵我一如だから。自己を知ることは宇宙原理を知ることだから。ここでトライコトミーが出てくる。清水高志さんから引用するんだけど【「主体/対象」「一/多」という二つの二項対立に加え「内/外」という二項対立を加え組みあわせたトライコトミーという思考法】これなんだよね。これがトライコトミー(三分法)。「主体/対象」「一/多」「内/外」の三つの軸。これら三つで梵我一如を説明している。華厳の場合「一即多」だから③「Aであり、かつ非Aである」の思考法だ。つまりこれら三つの二項対立で梵我一如を説明している。逆説的に真理が三つの側面で現れてくる。この場合の真理は顕教で云う空・不生です。じゃあ何で三つなのか。それはまあ三つでなくても良いんだろうけど、多の象徴なんだよね。そして「三すくみ」を説明できる。ジャンケンの関係ね。持ちつ持たれつ。相手がいて自分の存在価値が確定する。グーだけがあっても意味がない。グーとパーだけでも停滞する。グー・パーの関係は「還元」なんだよね。唯識もそうかな。(具現化)一如思想もそうなるか。応化身・応身が一仏乗を説く違和感ね。真に一如思想を説けるのは不生に存在する法の身体を持つ仏のみ。そしてグー・チョキ・パーでやっと縮約の真理に到達できる。空が無ではない所以なんだけど。「完全な人間」に実体がないようなもの。完全な三角形が現実には存在しないようなもの。グー・チョキ・パーをすべて備えた拳が存在しないようなもの。これが無我だ。みんなそれぞれが部分であり、全や多を包摂してる。どんなに優れた主義主張があっても「暫定的」な優劣であって、普遍の優越ではないんだな。色即是空を説明するなら、色がグーだとしよう。(グー・チョキ・パー)が空なんだ。そして、空即是色は(グー・チョキ・パー)があるからグーが存在している、って意味になる。だからグー自体をいくら調べてもグーの本質は見えてこない。どんなに顕微鏡で調べてみても見えてこない。イデア界にグーの本質があるわけでもない。他からの影響(縁起・因縁)があって、我がある。暫定的にね。これが依他起性。依他起性は個の次元での理解ね。個に実体、本質は無いって意味。個に於ける空なんだ。本質を欠いているから空。そして縮約の、つまりは宇宙の全体像が円成実性というわけだ。ジャンケンの三すくみでジャンケン宇宙の真理を説明している。宇宙次元では、空ではなく実性なんだよね。そして「真理を語ることはできない」というのは二項対立レベルでの話。空海は曼荼羅でトライコトミー的宇宙を示したわけだけど、三項、四項及び多項で真理を図画に示したんだな。う~ん。金剛界曼荼羅がトライコトミーで、胎蔵生曼荼羅がテトラレンマなか?真言宗での真理は所謂「空」ではない。沈黙の法身でもない。象徴化され、具現化されたものだ。それは個として真理を示しているのではなく、曼荼羅を含むものとして示しているんだ。だから真言宗の法身は語ります。説法します。陀羅尼にも曼荼羅を見ます。というますか、真言は如来秘密の悟り自体であり、不思議の言葉で他人は意味が理解できないでしょう。だからこそ行者は真言を唱えて三密加持で即身成仏する。まあそういう解釈もできるわけです。一般人には理解できなくても真言(真理)を説いてはいるんです。なぜなら真理は普遍だからですよ。顕教では方便として排除されるものにも曼荼羅を観ます。真理は普遍だからです。他宗の教えも抱合します。だからこそ、方便が究竟(菩提)となりえるのです。それでテトラレンマの話に戻るんだけど、四句分別に個物を当てはめても仕方ないんじゃないかとも思う。もっと象徴的に考えるなら①「Aである」②「非A]これは二項対立なんで〈相対〉なんだよね。③「Aであり、かつ非Aである」これは〈絶対〉という区分けになる。するとね、〈相対〉と〈絶対〉でこれも相対関係が出来上がってしまうんですよ。真の絶対に至るにはこの二項対立を超える〈超絶対〉が必要になる。それが④「Aでもなく、かつ非Aでもない」という訳なんですよ。じゃあこの④超絶対は①②相対世界から超越しすぎているのかというとそうではない。この相対世界の中に超絶対がトライコトミーの形で存在してるんですよ、ということ。これは華厳の四法界の教えと同じ。①②相対世界が事法界。③絶対世界が理法界。相対・絶対の二項対立が理事無碍法界。④超絶対が事事無碍法界という訳なんだ。自己をどう証明するかですが、テトラレンマで証明する。個の本質は存在しない訳ですから。宇宙そのものが個の正体、ということになります。でもそれって証明と言えるのか?証明という概念は二項対立に依るのではないか。だから真理を証明するのではなく、「悟る」という表現が適切なのかもしれません。
2025年01月28日
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そもそも十二因縁成立の過程は二支分から始まる。原初の形は〈原因→苦(結果)〉だった。シンプルです。そこから七支分に発展した。〈煩悩→愛好されるもの→欲望→快・不快→感官による接触→名称と形態→表象の連鎖縁起〉次が数が減るが五支分。〈愛→取→有(行為)→生(迷える生存)→老病死憂悲悩苦〉ここから十支分に増える。〈識(認識)→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死〉そして十二支縁起に発展した。〈無明→行(業)→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死〉〈無明→行(業)〉がふえたんだな。そして老死は〈老病死憂悲悩苦〉の短縮形。つまりは四苦八苦というわけだ。原初が二支分〈原因→苦(結果)〉と書いたけど。釈迦の教えそのものだよな。というわけで、更に元の姿となると法身偈・縁起法頌になる。法身偈・縁起法頌というのは「釈迦の教え」を問うた舎利弗に阿説示が答えたもので、これがきっかけで舎利弗は摩訶目犍連とともに釈迦の弟子になった。〈諸法は原因より生ずる。じつに如来はそれらの原因を説く。それらの消滅もまた。これが大沙門(ゴータマ・ブッダ)の教えである。〉律蔵『大品』漢訳すると『諸法従縁生 如来説是因 是法従縁滅 是大沙門説』「諸法は(因)縁より生ず、如来は是の因を説きたまう。諸法に滅をも是く、大沙門は是のように説く。」そして十二因縁は五蘊(色受想行識)を縁起的に読み解くなら同じことを言っているんです。〈行→識〉→〈色→受→想〉 →また行へと循環する。五蘊とはそもそも一切存在を五等分にしたものです。世界のすべては五蘊で構成されている。〈色は認識対象。受は感受。想は心。行は記憶や業。識は判断・意識・分別〉四念処の如く〈色受心法〉に要約しても良い。〈色受心法〉 また色へと循環する。十二因縁も五蘊も〈色受心法〉もみんな循環縁起している。終わりのないサイクルだ。これが釈迦の考える〈輪廻〉ではなかったか?つまりアートマンの輪廻ではない。この思想があってこその四法印「諸行無常」「一切皆苦」「諸法無我」「涅槃寂静」なのではないだろうか。四念処を踏まえて考えるならなおいっそう説得力が増す。それぞれの支分は無我なんだ。「諸法無我」であり、そして「諸行無常」なんだ。それらを知らないのは苦しみである。「一切皆苦」→四苦八苦→無明へこれらの原因を断ち切るのが〈ヴィパッサナー瞑想〉なのだ。そして〈サマタ瞑想〉により不生(阿字本不生と同じ)と一体化する。これが「涅槃寂静」だ。
2025年01月27日
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考えてみれば十二因縁のそれぞれのパーツはほぼ表層意識なんだよな。愛とか取とかはやや深めだけど、やっぱり表層意識にまで上げてきて自覚できるレベルなんだ。もし睡眠状態であったなら?無明のいう概念自体持たないだろう。停止しているなら行も起きない。識=決断・判断もしない。名色も我関せず。六処?外界と我を分けたりなんてしないよね。触、受はあからさまに外界からの情報受信です。外界からの刺激で起こされるということはありますが、睡眠そのものの本質とは関係ないでしょう。愛、取、有、生、老死外部からの情報キャッチの結果、差別世界・分別世界に生きる、そして死ぬことが生じます。しかし睡眠時は覚醒してませんので、分別は生じません。全ては一体な状態なのでしょうね。生物の本来の姿が睡眠。覚醒とは特殊な状態なのです。
2024年09月11日
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シンクロニシティは法身のヴィパッサナー瞑想なのかもしれない。それが自受法楽でもあって。だから現実と言葉との符合が起きる。ヴィパッサナー瞑想は心や体感の実況中継である。その実況する言葉が真実であれば、それを手放す。そうして執着から解放されてゆく。言葉にすることは同時に意識化することである。なるだけ無意識に行っていることを意識化して、表層意識に上げてゆく。もしそれが深層意識、如来蔵たる内証智の奥深くにまで至り言語化に至ったなら真言を口にするということになるかもしれない。ところで、「生まれる」ことだとか「亡くなる」ことというのも、シンクロニシティではないだろうか。上手く説明はできないのだけれども、あれは客観的に見るものではなく主観的・主体的に見るものだ。だから「これらの事態は私にとってどういう意味を持つのだろうか」と問うてゆくことでシンクロニシティが発生する理由であり、それらを突き詰めてゆくと「生まれること」「亡くなること」は決して客観的なものでなく、主観的・主体的なるものと見るのが正しい。この世に在ること自体がシンクロニシティである。生存していることは「主観的」なことだから。主観的であるから心的に「主体的」に生きることであるし、そうすることですべてが法身の説法であり自身が本来法身であること、外界はヴィパッサナー瞑想の言葉であり、元型に生きていることが分かる。法身の座は帝網の鏡の中を自在に移動する光である。大日は主観的主体である。しかも自在である。シンクロニシティに生きるとはそういうことなのかもしれない。
2024年09月09日
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十二因縁について書いてみる。このテーマはこれまで何度も書いてきた。しかしどうも理解できないでいる。なので毎回いろいろな解釈の仕方を探っている。さて今回思ったのは「無明」について。これは無知であると言われている。私のこれまでの解釈は概念としてだった。無明とは何を表しているのだろうと考えてきた。そして何か哲学的な解釈を施して納得しようとしてきたのだ。しかしそれは奥深い概念とかではなく、今我々は真理に対して無知であるという現実を示しているのではないかと思った。だから無明とは「不確定性原理」であるとか、「根本的無知」であるとか、そういう奥深い意味ではない。そう。我々は今何もしらない。この現実。だからこの出発点は皆平等であるはず。そして行(業)が発生する。あるいは行は(記憶)と解釈してもいい。そして識は(判断)だ。記憶が判断に影響を及ぼし、現実世界への認識を作り出してゆく。だから十二因縁が前世であるとか、果ては来世に因縁がおよぶだとか、そういう時間的因果とはまったく関係がない。今ここにある現実を述べている。そして無知なままに体の感覚器官からの情報に執着して限られた狭い世界の中で生きている。無知であるが故に捕らわれる本当の輪廻だ。もしかするとお釈迦様は、六道輪廻を説いていないのかもしれない。お釈迦様の説いた輪廻は十二因縁という具合に。だからこの世界は無知を土台として成り立っている。そして智慧を「ああだ、こうだ」と説いていない。そんな言語で真実を語れるものではない。言葉で語れるのは迷いの現実だ。ではどこでこの因縁を断ち切るのか。愛欲の段階である。「愛」(執着)を断ち切るのである。それが戒であったり、ヴィパッサナー瞑想であるということだ。あらゆることを意識に上げて言葉にして、手放す。これによってお釈迦様は解脱した。因果の論理は凡夫に働く。解脱すれば因果の束縛をうけぬ…と思う。禅僧は否と云うかもしれないが。解脱し、仏となれば空の境界に生きると思う。業因縁は智慧の光となり、衆生済度の道となる。識と名色の間は「唯識」の段階である。すべては識の作り出したものと見る。外界(名色)もまた識の作り出したもの。その識も行(記憶・業)が作り出したということになるが。シンクロニシティもここで働くのだろう。心(識)が名色(外界)とリンクするのだから。そしてそこに言語が発生する。これは法身の言語なのかもしれない。つまりリンクするということは、意味にならぬ意味を伝えようとしているようにも見えるからだ。これがヴィパッサナーの(言葉にする)、(実況中継する)に通じるのではないだろうか。しかしこの、心(識)と名色(外界)の間で発生する瞑想はサマタ瞑想なのだと思う。心の奥深い処まで下りてゆき、その意識が外界と繋がるのである。そこで真言と繋がるかどうかは分からない。真言は「内証智」の言語だからである。つまりは果分不可説なるところのものを、敢えて言語にしたものが真言なのだ。法身の言語たるものが真言ということになる。識が名色と一体にならんが如き結びつきを見せるのは迷いの深まりかもしれないし、そうでないかもしれない。シンクロニシティをどう認識すべきなのか。自我の及びもつかない言語を世界が発するのである。ならば無明から発した因縁ではなく、智慧から発した無因縁=共時性ということになろう。業を断ち切り「今ここ」ですべてが一体となる。しかし言語化できないので、法身の言語でもって「自我」に語り掛けてくる。自我にとっては恐怖であろう。自己解体にも等しいのだから。
2024年09月09日
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私の突飛な解釈を補強する詩句を上げます。これこそがお大師様の思想というものを。お大師様40歳のころの詩『中寿感興詩』から「三昧の法仏は本より我が心に具わり二諦の真俗は 倶(とも)に是れ常住、禽獣卉木は皆是れ法音、安楽覩史は本来胸中なり」このような詩を詠む人が、「虚空尽き…」のような空思想を語るだろうか。やはり密教者らしい意味で述べたと思うのだ。般若心経の解釈も空思想と異なっているだろう。曼荼羅世界を語っている。禅僧のような詩を詠んだとは思えない。
2024年09月08日
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更に言葉を加えようと思う。「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きなむ 」「無限無数の宇宙の隅々に至るまで、無機物有機物を問わず、衆生としての神秘生命は宿っていて、そんな心の内の極み果てに至るまで、生まれ持った無限の曼荼羅世界は広がっている。我が勝義菩提心はそんな曼荼羅世界と一体である」「もし虚空が尽きて、衆生が尽きて、涅槃が尽きるならば、私の願いも尽きることだろう。しかし、虚空は尽きることはないし、衆生も尽きることはないし、涅槃も尽きることはない。曼荼羅は、無限に展開し、即ち我が願いは永遠である。」まさに字相と字義の解釈深浅である。私はこのように解釈する。虚空尽而至法身衆生尽而至法身涅槃尽而至法身我願尽而至法身こんな感じに(しかして法身に至る)が隠されているように思う。字義の解釈ならばね。虚空尽而至法身(胎蔵生曼荼羅)東衆生尽而至法身(如来蔵思想)南涅槃尽而至法身(金剛界曼荼羅)西我願尽而至法身(勝義菩提心)北勝手な解釈であるが、それぞれこんな感じになると考えられる。お大師様ならば、大乗的空の思想で終結させるとは思いがたいからだ。
2024年09月08日
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「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きなむ」あらためて私独自の文意を述べると「宇宙は無数に存在しており、更にそこに存在する衆生は無数に存在し、更に涅槃(曼荼羅世界)は無限に広がる。それすなわち勝義菩提心たる我が願いは永遠でなのである」こんなところだろうと思うのです。
2024年09月08日
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お大師さまの言葉に「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きなむ」というものがある。これの訓がどうも納得がいかない。一般には「虚空が尽き 衆生が尽き 涅槃が尽きれば 我が願いも尽きることだろう」と読まれる。これはかなり大乗的な「空」の思想として解釈されているのではないだろうか。しかしお大師様の思想は真言密教である。空の理剣を振るうことを究極の願いとされるだろうか、という疑問がある。全てが尽きてしまって、それでよいのだろうか?それが真言密教なのであろうか。私には、これが訓の間違いであるような気がする。まず虚空とは空間のことである。最初に虚空が消えてしまったら、衆生は存在のしようがない。虚空と衆生の順番が違うように思う。そして「涅槃」と「我が願い」はどちらが先に尽きるべきなのだろうか。大乗の空の思想に依るなら、「願い」が先に尽きるべきである。しかる後に「涅槃」に至るものである。しかし密教であるなら、「涅槃が尽きる」というよりも、「我が願い」そのものが「涅槃」と一如であると解釈すると思うのだ。後半は密教思想として正しい。「涅槃」と「我が願い」が同列にあるという点で。そしてその涅槃は完全消滅の涅槃ではないのだ。すなわち「無余涅槃」ではなく「無住処涅槃」として。漢詩に戻してみると虚空尽衆生尽涅槃尽我願尽これのみである。涅槃〈尽きなば〉我が願いの尽きなばは、日本語の訓である。しかし漢詩では四句同文である。私としては「尽きる」(無くなってしまう)とは解釈しない。「尽くし」(無限の広がり)と解釈する。すると曼荼羅世界が広がる。ならば「虚空尽」ではなく「尽虚空」とするのが意に沿うことだろう。「尽虚空」の訓は(虚空を尽くし)となる。しかしこれだと〈一法界〉である。何もこの世界のみにこだわることはない。一念三千の如く、一法界即多法界である。もしかすると〈多法界〉の偏在性がお大師さまの思想なのかもしれない。すると「虚空」自体が能動的、主体的になる。その場合の訓は「虚空は尽くし 衆生は尽くし 涅槃は尽くし 我が願いと尽くす」文意は「法身の説法は無限の虚空ことごとくへ至り法身の説法はその内の無限なる衆生ことごとくへ至り法身の説法はその内の無限なる涅槃ことごとくへ至りそのような無限なる法身の説法と我が願いは一体なり」というような感じになると思う。虚空(法界)も生き物であり、悟りの境涯(涅槃)であり、仏の願い(菩提心)だからである。それらは無限の広がりと深さを持つ曼荼羅なのである。
2024年09月08日
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仏教も構造主義も共時的な構造を扱う。一方、社会学での構造‐機能分析は通時的だ。共時的=時代・過程に興味はない。関係性のみ関心がある。それは結局何なのかに関心がある。通時的=時代・過程に関心がある。その中で不変なものを見つける。すると未来予測ができるようになる。ということなら、社会的生き物は新聞を発行しますよね。共時的な生き物は新聞に興味はない。時代の変化に興味はない。普遍的なまなざしを世に向けている。だから新聞ではなく、教科書に関心があるタイプである。キリスト教やイスラム教は人類の歴史に関心がある。通時的宗教であり、現代でもキリスト教会は「正しい〇〇」を世に発信しているイメージがある。仏教の場合は時間に関して「無始無終」のイメージである。王が誰だったとか、など固有名詞に関心はない。唯一歴史的人物である釈迦にのみ現世に関心がある。それでも釈迦の誕生日や年などはっきりしたことは分からない。本来的には釈迦を信仰しているのではなく、釈迦の教えを信仰しているというのもあるだろう。
2024年08月02日
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仏教でいう真理は脱世俗的だ。故にその構造も社会や歴史の変化と何の繋がりもない。私は仏教と構造主義は似ていると何度も述べているが、構造主義の「構造」もそれと同じだ。逆に社会学でいう「構造‐機能分析」は社会や歴史の変化を見る。それは時代の変化の中で変化しない所に目を向ける。それが社会学での「構造」だ。世俗の中での構造ということになる。通常宗教というものは世俗や歴史と密接な繋がりを持つはずだ。王権は神から授かったものであるとか、救世主が現れるとか。キリスト教やイスラム教でも聖書ストーリーで描かれるのは人類の歴史ということになる。仏教では人類の歴史に関心がない。ただ栄枯盛衰してゆくものなんでしょ?という感じ。産業革命や大航海時代や異民族の侵略とか、そんなものに関心はない。歴史の中では、例えば538仏教伝来は暗記させられてテストに出たりする。じゃあ仏教にとってそれがどれほど大切なことなのか?実はあまり重要ではない。社会の側が勝手に仏教伝来を重要視しているだけで、仏教側では宝輪が転じたという価値以外ないのではないだろうか。無価値というのではない。ただメインテーマとはなりえない。あくまで宝輪が主人公で、宝輪がどこで転じたか、誰に転じたかはほとんど意味はもたない。末法思想も仏教のメインテーマではない。社会の側が勝手に盛り上がっただけ。それに仏教界の僧侶が応えた。時輪タントラでイスラームとの最終決戦や、シャンバラ伝説などもそう。付録みたいなもので、仏教で歴史を扱う方がどうかしているという感覚。終末思想なんて仏教とほぼ関係がない。仏教は真理とそれに伴う構造がメインテーマなのだ。
2024年08月02日
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「空」というものをできるだけ簡単に伝えるにはどうしたらよいか。試してみる。『歩くものは歩かない』未だ歩いていない者は歩いていない。既に歩いた者は歩いていない。未来・過去の両者を離れた、今まさに歩きつつある者。この者は歩いているでしょうか?(時間が止まった状態と同義です)歩いていません。故に真理に於いては「歩く者は歩かない」のであります。歩くという幻想は心が見ている世界です。業がそれを生じさせている。それが私たち凡夫の世界です。
2024年07月29日
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天台宗の円珍が叔父の空海を批判していたというのは依然から知っていたが、それがどういう批判だったのかは知らなかった。それで少し調べてみたが「大日経は大・小両乗を統摂する。それなのに空海は十住心を立して諸教を判じて、真言教の外に置き、浅深の配列をするというのは、空海が正しいという大日経疏の教えと違っているのではないか」ということを述べている。個人的には細かい文章の辻褄が合わないというのは気にしない。悟った側から見たら悟りの大筋から外れていなければOKなはずだから。凡夫が言葉の相違にこだわり悟り、ロゴスパズルを組み立ててゆくものではなくて、もう全体像が見えていたら細かい辻褄合わせは後で良い。そして円珍の視点というのは天台宗的な一乗思想に因るものと思われる。どんな教えも一仏乗だよ。そこに区別はないんだよと、と言っているように聞こえる。まあそれは法華経にではなく、外ならぬ大日経疏に書いてあるんだよと空海に云いたいのだろうけど。いや、細かいところは私にはわからない。大日経疏は読んでないから。けど批判の内容を知れてよかったと思う。
2024年07月29日
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お大師様(弘法大師)はどこにいらっしゃるのか。いろいろ候補があげられます。Ⓐ高野山(&同行二人)Ⓑ兜率天(望遠鏡で下界を覗いていらっしゃる)Ⓑ輪廻転生(恵果和尚とともに師となり弟子となり密教を伝えてゆく)私が高野山の道場で説明されたのがⒷです。お大師様がなくなる直前に述べられた言葉が真実ならそうなるでしょう。高野山での生身伝説は後世の創作だと思います。かといってⒸも捨てがたい。この議論は真実の追求ではなく真言宗として、密教として正しい解釈はどれかということです。弘法大師は空海様とイコールではあるのですが、民間伝承や伝説を反映した信仰対象としての弘法大師は無しということでお願いします。密教の阿闍梨は既に成仏している。即身成仏している。ならば輪廻転生するのか。これは輪廻転生するはずです。お大師様は不空三蔵の生まれ変わりということになっているからです。ではこれは「伝説」ではないのか。教学ではないですね。しかし生まれ変わりを密教は認めるのか。それは「認めます」。チベット仏教でもダライ・ラマの転生が前提になっています。しかし法王の立場は仏教の位なのか。そうではなく世俗としての仏教指導者の位です。ダライ・ラマの宮殿はプトラ宮。プトラ=補陀落ですから観音菩薩の浄土の宮殿です。ダライ・ラマは観音菩薩の化身なんですね。観音菩薩は大菩薩ですから、成仏できる実力はあるけれどもそうせず、現世に留まって人々を救済する者です。成仏してないなら転生OKです。では真言密教において阿闍梨は成仏しているのか。①そもそも我々は仏である。あらゆるものは大日如来の化身である。②三密瑜伽している最中は仏である。それ以外の時はただの人間である。これらの解釈が考えられます。しかし政治家で公人・私人の区別がないように、阿闍梨に仏・俗人の区別はないとも謂えます。①②ともに正解なのかなと。そして密教に於ける涅槃についてなのですが、ある真言僧の方は「無住処涅槃 」だとおっしゃられておりました。住むところを定めず自在なのだと。どこにでも住んでいるし、どこにでも生まれ変わっている。「業に縛られて」転生するのではなく、「自由」なのです。そうなるとⒶⒷ©どれも正解なのかもしれません。
2024年06月18日
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(スコトーマは縁起の場であり秘密の境界であり、「心即理」の性の場である。)突然で申し訳ないが、「スコトーマの方が本来の世界だとしたら?」というテーマ。このスコトーマとは生の世界に於ける盲点のこととしてです。盲点というと、客観的世界に於ける一部欠けたものという印象だろう。しかし真実の世界は(観測がともなう)客観的なものではない。それらは五蘊が作り出した幻想なのだ。むしろスコトーマにこそ真がある。一切は一方通行とでも謂うのだろうか。(それとも無観測の一如か。)自己は認識するものであり認識される対象ではない。諸行は無常であり、同じ川に入ることはできないようにすべては流れゆく。そしてその川は見ることもできない。(観測されたもの「顕」は)全て識(心)が作り出したもの。心は真に客観的として見ることはできない。観測するもの、「自己」はそもそも迷いのもとなのだ。自性とは胎蔵生曼荼羅に於ける慈悲の広がりの如く、中央の大日如来から一方的に発せられる。この場合の大日如来は自性法身だ。 自性法身は一如であり川の流れの如き存在だ。留まることはない。時の流れの如く、流れる時の内に世界を構築する。二度入ることのできぬ川だと人は悟らず常なる川だと誤解して世間が生じ有が生じ苦が生じる。 このように、スコトーマが本来であるということは、「秘密」が本来であるということである。顕に於ける客観世界は「縁起によって」成立したものに過ぎず、常なるものではない。「仮」の存在であり「無常」なのである。お釈迦様の身体も変化身ではなく、無常の流れに晒されて「自性身」の如くなのである。密教者から見れば、どんな仏身も自性法身であるはずだ。同じ釈迦に会うことは絶対にないのだから。尊ぶべきは(色身・釈迦)の内にある法身(仏法の身体)自性身である。「見ることのできない法身(一如)」は秘密と共にある。顕もまた秘密の内にある。スコトーマが光で、顕が影の如く。そして顕の内に秘密をも観る。真実の領域に足を踏み入れるのなら、一切が秘密の領域であると悟るだろう。根源に於いて「阿」の仏身は「阿」を説き「阿」の悟りを聞く。これが身口意平等の三密。一如である。一切衆生は法身の説法を聞く者であるが、法身の説法そのものでもある。他力を受ける者でもあるが、他力そのものでもある。加持を受ける者であるが、加持そのものでもある。衆生も法身であるが故に。三密は平等であるが故に。そして構造(関係性)とその循環と加持によって法身と一体になるのである。
2024年05月21日
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三力について第一に、三つの力を別々の異なる力として解釈することができる。第二に、三つの力を同一の力として解釈することができる。最初に「以我功徳力」とある。しかし、自力のみであるものなどない。「以我功徳力」には必ず「如来加持力」が働いている。「如来加持力」も「法界力」となって顕れる。別々のものではないはずだ。深秘の視点に立つならば「如来」と「加持力」も分別されるものではないだろう。つまるところ「一如」なのだ。あらゆる事々物々には加持力が働いている。加持そのものが大日如来の仏身であり、法界すべては大日如来である。「加」も「持」も大日如来の化身。一切は加持力であり、互いに与え与えられ一切は即ち大日如来である。加持をする者、される者、加持そのもの。すべてが大日如来である。そして真実の「我」とは大日如来であり法界力なのである。ここに真実の「以我功徳力」が達成される。「他力」も本来は阿弥陀如来の(過去の修行の功徳力)と考えられているが、それらは「以我功徳力」にあたるのか。 仮に真実の自己(プルシャ)が世界外にあるとするのなら加持力もまた世界外から来ることになる。ここで自己(プルシャ)の概念も仏教(密教)(一如)的に考えるのなら「他力」を発する別個の当体は存在しない。他力は一如故に自性身そのものと知ることができる。 阿弥陀如来は他受用身である故に他力を発する者の役割を果たしているが、それは顕教の仏であるから(授ける者・受ける者)の分別が発生しているだけで、密教(一如)の立場からは(授ける者・受ける者)の分別は発生しないはずだ。 そもそもサーンキヤ哲学の様に「自己」と「自性」の二元論で考えるのがおかしいのかもしれない。ならば自性(プラクリティ)はどこに存在しているのか。世界外に存在しているのである。自性は世界外に存在している。自性の全体像を自己(プルシャ)と表現し、自性の部分を(分別して)見るとき自性(プラクリティ)と表現すればよいのである。つまるところ「観る者」は二元論自己(プルシャ)ではなく一如的自性(プラクリティ)である。そしてそれは反省によって観ることができる。自性全体を外から直接観る者は存在しない。一如的自性の内側を観るとき分別が生じる。自性そのもの分別された目で見るということは、多元論の一如相即、つまり「法界力」ということになる。真実の自己は自性であり、自性は法界力である。他力の加持力も世界の果てからやって来た法界力の為すところであったのである。
2024年05月14日
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「法界体性智」は思うに「一如な存在」なのだろう。対立しえない存在なので顕在化(概念化)しないのである。自性(プラクリティ)の全体相=「法界」とは大きすぎる秘密の存在そのものなのである。「法界体性智」とは秘密そのもののことである。顕は分別なのである。しかしそれでも一切の顕は「法界体性智」を備えている。一切の存在は秘密語なのだ。(秘密はスコトーマや影のような一部ではなく、全体なのである)故に法身説法・果分可説が成り立つ。顕教の果分不可説は完全な悟りの言葉ではない。顕の言葉である。世界は常に秘密を語っている。秘密語は一切を語る。密教行者は顕からでも常に秘密語を聞く。これが「行者の心水」の「持」である。「法界体性智」が他力の「加」である主体と作用の分別をもたず、作用(三密)自体が法身の身体である。そして仏身が法身説法であり仏心である。(法身の説法=法身の身体=法身の心)=三密これらは対象を設けず自己完結・自己循環している。故にこれらは「自受法楽」の状態にあると謂える。「自受法楽」は本来、完全なる法身の状態(一如完結)を示す言葉であったと思われる。「仏は自らの説いた法を、自ら聞いて楽しむ」というのは顕教の仏身に於ける秘密説法の本質を示すたとえ話である。
2024年05月07日
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自己(プルシャ)は世界外存在であり、認識対象ではない。それ故認識されることはない。それは秘密の領域に存在する者であり、顕の分別から超絶している。そもそも分別は世界内にいるから存在する。世界外からなら分別を用いず認識が可能なのである。その論拠は「不完全性定理」にある。不完全性定理とは、自分の正しさを自分では証明できないというものである。例:刀Aで、刀A自体を切ることができない様に。例:認識する者は認識対象の内に、自己を見出すことができない。例:帰納法の正しさを帰納法で証明することができない様に。例:嘘つきが「私は嘘つきである」と言う様に。例:「この文は偽である」と云う様に。例:「すべての人は嘘つきである」と云う様に。「自己言及のパラドックス」が発生する。それらが例え正しかったとしても、それを証明することは(自身では)不可能である。論理学に於ける不完全性定理は、物理学に於ける「不確実性原理」として現れる。観測者が観測対象に影響を与えてしまうから。それ自体を観測できることはできない。世界外からの観測であれば、完全な客観が成立すると仮定することができる。しかしそれ自体についての観測結果は一つではない。自性(プラクリティ)は曖昧模糊な存在なのである。自性(プラクリティ)の全体相を観ることを自性自体が夢想する。そして生み出されたのが究極の客観。自己(プルシャ)という概念なのかもしれない。しかしそんな自己(プルシャ)は存在しえないとも云える。観測結果はことごとく真実を歪める。観測は真実に影響を与えてしまうから。自性(プラクリティ)の全体相を「法界」と名付けてみよう。そして法界の全体相を知る智慧を「法界体性智」とする。それらは分別された四智を合わせたものと説明される。しかし「法界体性智」とは何なのだろうか。正体不明である。不確定な存在である。究極の客観は「秘密」な存在だ。それ自体を規定する〈言葉〉にすると、分別の「顕」に堕してしまうだろう。それ故、自己と自性の二元論は存在しえない。
2024年05月03日
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他力は世界外からの加持力のことと思われる。何故なら如来は解脱した者であるから世界内の存在ではない。自己(プルシャ)は世界外存在である。故に自己は如来であり、世界外からの加持力を与える者である。仮に加持が世界内の存在から与えられるものであったなら、それは他力ではない。(外気を取り入れた)自力である。また、それらは他我からの束縛であり、我々凡夫が普段経験している環境からの圧力と変わるところがないものである。では加持が自己(プルシャ)から行われるものだとして、それに問題や矛盾点はないのか。有る。世界外存在は自体を持たないため存在しない者が他力を発していることと同義になってしまう。それを解決する回答は存在するのか。有る。しかしそれはのちに述べる。自己(プルシャ)と自性(プラクリティ)の分別はサーンキヤ哲学の思想であり、仏教の思想そのものではない。ただインド思想を理解するのに適しているからサーンキヤ哲学を用いるのであり、インド思想を知ることは仏教思想の裏側を理解するということなのである。さて、伝統的に仏教思想は「無我」を説く。故にサーンキヤ哲学に於ける自己(プルシャ)に該当する仏身を見出すことができない。では仏教思想においてプルシャをどこに見出すのであるか。仏教に於いては自己(プルシャ)自性(プラクリティ)との分別を離れたところにある存在として「如来」がある。仏教に於いてはサーンキヤの様に自己と自性との分別(二元論)を用いない。一元(一如)論(密教)と多元論(顕教)との両立にあると謂えるだろう。(その理論構成は二元論と言えなくもないが。)仏とは解脱者であり、二度と現世に生まれ変わらない存在であるとされる。故に生まれ変わりではなく、仏そのものとして衆生の前に姿を現す。それらは「如(悟り)」の世界から来た者「如来」として人々に存在を認識される。それ故に一切の仏身はすべて「自己(プルシャ)」の要素を備えている。〈かつて応身以外の仏陀を見た者はいただろうか?あらゆる仏身は解脱者(プルシャ)である。認識対象ではない。自覚によって観られる。故に仏教は自覚主教なのだ〉
2024年05月03日
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一般に謂う仏身論は顕教的な解釈である。それは法身は果分不可説、故に法身は最も純粋な空に近い存在というもの。ゼロに近い存在。胎蔵生曼荼羅中央の大日如来もそうだと思う。そして本地垂迹説もこの流れに沿っている。密教でポピュラーな仏身論は自性法身(所謂顕教の法身に近い)、自受用法身、他受用法身、応化法身(変化身)、等流法身の五種法身説。全ては法身扱いである。それでもそれまでの三身論の影響が強い。自分としてはこの流出論をなんとかしたい。そして還元論を払拭したい。そのためには反本地垂迹説も参考になるだろうか。所謂「神本仏迹説」だ。ただ仏と神を入れ替えただけなら、コンプレックスの裏返しで思想的意味はない。流出論、還元論は「阿字体大説」なのだ。そこを「六大体大説」で乗り越えたい。より密教化を推進するならそうあるべきだろう。そしてそれは構造化でもある。多元循環論で乗り越えるというべきだろうか。本当は曼荼羅全体で阿字(一元)そのものなのである。そこからは何も流出しない。付属要素との還元もいらない。阿字の中で多元循環、阿字の中に複数の阿字があり、構造のブリコラージュ等々それら事々無碍法界を展開するのである。構造とは「変換マトリクス」のことである。そのための四句分別なのだ。二項対立を掛け合わせることで存在Xは変換によって曼荼羅を描き出す。全体としてはゼロの均衡を保とうとするが、辺境の存在Xを肯定するとゼロを中心として様々な存在が肯定されることになる。東を肯定すれば西、南、北の存在が認められる。だからといって東西南北が実在するかどうかは別問題であるが、中央から流出したものでないことは分かるだろう。この辺境Xを肯定することに意味がある。それは仮の存在ではない。ゼロから発したものでもない。故に理事無碍法界からは脱することができる。事々無碍法界を理解しなければならない。有Xを肯定しながら法界一切と関係性の縁で繋がっていることが分かるだろう。
2024年04月20日
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一元論は論理として破綻し易い。この場合流出論を指すのだが、一元的ものから流出創造された途端に、二元的なものになり果てるからだ。創造されたものが幻影(仮)なるものとされ、真なるものではないと説明されたところで、幻影(仮なるもの)は一元的なものではないのだから結局のところ世界は二元論的に構成されていることになってしまう。この補足的な二元論こそが「還元」の論理である。主体的な一元にもう一元が補足されるのだ。真なる一元論を考えてみても、一なるものから一なるものが生まれていて尚且つそれらは同一体であらねばならない。ということは一は流出されず、元々そこに在り、不生不滅であり、認識不可なもの。認識されえないもの。二次化されないもの。方便化されなないもの。無始無終なるものということになる。う~ん。密教の世界ですなあ。(これが三密なんですよ)ところで胎蔵生曼荼羅は流出論を思わせるんですよね。(「方便を究竟となす」なんて大日経に書かれちゃってるし。)中央の大日如来から一切仏菩薩諸天が生み出される。中央から離れるほどにランクが下がっていく。(それじゃあいかんのですよ。成仏するなら有相に真がなきゃいけない。きっと大悲の究極とは自己と他己が同一体となり、手段が破壊され、菩提心が実現した状態だ)じゃあ中央の大日如来とは何やねん。創造主かいな、と思ってしまいそうだが、無から有を生む存在ではない。空の具現化なんですよね、これは。凡夫からはそう見えるだけで真実はそうではない。太陽は東から昇るように見えて真実は昇ってもいないし沈んでもいない。東西を超越している。この世界に生まれてきたものの全てに根本存在たる空・大日・ゼロが存在している。それが説明されているのだ。それでこれが華厳の理事無碍法界のようなものなんですよね。ところで空の概念は理法界です。それで互いが互いの存在を支え合っているのが事々無碍法界の「構造」ということになる。互いが互いを創造し合っているというような蓮華蔵世界。「重々無尽の縁起」(ブリコラージュ)が展開されている。それでその中の「有相」が仏たりえるかという課題で、即身成仏の答えを出したのが密教なあんですね。華厳までは有相は菩薩止まりだった。仏は説法しなかった。空ですからね。しかし密教では三密を説いた。それまでの仏教は「色即是空」の空を法身と考えたんだね。それで仏は説法しない。空だからと。しかし密教は「空即是色」の色にも三密の法身を見出したんだね。密教の教えは自性身と自受用身の教えとされていますが、三密を説くのがそれらの仏だからなんですね。他受用身、変化身は顕教を説くとするのは顕教に合わせた説明の仕方にみえます。というのは流出論的だから。空なる法身が一番純粋と考えている。この論理で行くと説法を方便として用いていることになってしまう。空なる真理を仮なる有相で表現している。だから「変化身」などとのたまうのだ。しかし、違うだろう。即身成仏した者を「変化身」「応化身」などと呼ぶべきであろうか?これらの法身説は古いものとなり、やがて新しい法身説の時代がやってくるのだと思う。
2024年04月06日
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レヴィ=ストロースは「(学問には)還元的な方法か構造的な方法の二通りしかない」と述べております。西洋は還元的であり、東洋は構造的であるといえるかもしれません。西洋の場合存在論の最終的根拠は神に帰します。アリストテレスなら第一原因です。第一原因こそが神であるとした。存在は最終的には神に還元される。一神教を論破する常套手段は「じゃあその神はだれが作ったんだい?」というものがあります。構造的とは「関係性で成り立っていますよね」ということ。だから本末の分別があったとしても本が極まれば末に帰ってくるし、末が極まれば本に帰ってゆく。世界一周するが如くまた元の所に帰ってくることができる。一神教の場合、神と人との間には絶望的な断絶がある。人間は神になることはできない。しかし仏教では人は仏になれるし、生まれ変われば神にでもなれる。ぐるぐる循環することも可能だ。この循環や円環にきまったルートがあるわけではない。ただ夫々が一切と繋がっているということなのだ。仏教には唯識という還元的唯心論がある。「一切は識が生み出したものに過ぎない」とする。これは識が最終的な存在の根拠であるようにも見える。しかしそうではない。唯識は凡夫の見る世界が唯識なのであって、識は絶対的なものではないのである。識はあるいは現象との間で持ちつ持たれつの関係を築いている。故に識も現象も相手の影響を受けて変化する。西洋の絶対神の場合は人間との間で存在のキャッチボールは行われない。預言者の助言を受けて神様が考えを改めるということはない。「いいえ、そんなことはない。聖書には神様が預言者の言葉に考えを改めたシーンがある」と思うかもしれないが、神様は全知全能ですのでそうすることは初めから神様は分かっていた。キリスト教は予定説です。世界の終わりまでの一切はもう神様はすべて知っています。というかもう決まっています。誰が救われ神の国に入り、だれが罰せられ存在を抹消されるか実はもう決まっています。人間は定まったレールの上で生きるしかないので、いくら善行を積もうが悪いことを積極的にしようが、だれが救われるのかはもう決定事項なのです。だから神様は考えを改めたが如くに演技してあげたに過ぎない。未来の果てまで、どうなるのかはもう決定しているのです。仏教は因果説を説きますが、第一原因を設定しません。「無始」を置きます。つまり過去にはどこまででも遡ることができて果てがない。これが輪廻転生の業です。カルマです。そしてこれが「何もしなければ」永遠に脱することのできない苦しみと考えられています。未来に対しては無終なのです。つまり輪廻転生や因果説は凡夫の世界であり、現状を説明しているに過ぎません。だから仏教の教えはその輪廻転生の苦しみから逃れるためにあるのです。輪廻転生や因果説は仏教ではありません。このカルマの輪から抜け出した者が仏なのです。彼は自由です。自在者です。しかし支配者ではありません。仏教に於いて因果は絶対ではありません。現在の行為で未来は変化します。だから功徳を積むこともできます。現在は自由とも言えますね。そして己の中の仏と交流することもできますし、ひいては宇宙全体と関係性を築くことができます。そして宇宙全体あってこその自己を自覚するのです。(以我功徳力、如来加持力、及以法界力、普供養於住)
2024年04月02日
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「内証智」という言葉があるが、この言葉を用いる者は外側の世界にいるわけで、曼荼羅世界の外に意識を置いているといえる。曼荼羅の内と外にいるか否かの問題には賛否あると思う。即ち孫悟空のように世界の果てに来たと思うてもお釈迦様の手のひらの内であったが如く、決して曼荼羅から逃れえるものではないという意見もあるだろう。しかし衆生自秘に至れば光明の世界も暗黒に住すと誤ることになる。端的に申せば「内外分別」に住するなら神力加持を以ても人に示すことはできない。唯識の世界は「顕」の世界である。現象として現れでたもの、これは即ち識の作り出したものと見る。受け手の論理であり、法身の三密を知らぬが故に秘密を業と誤る。秘密は内証智に属すものであり、外に現れ出るものではない。インド哲学・サーンキヤ哲学では「自己(プルシャ)」にあたるものであるかもしれない。見ようとしても決して見ることのできないもの、それが自己である。何故なら自己は(見るもの)のことであり(見られるもの)のことではないからである。自己はこの世界の内にはない。この世界の外にある。故に自己はすでに解脱している。唯識は識が自己であると誤って形成されたものである。そこに自我が生じる。あるいは転生の主体ともなる。しかしそれは永続的なものではなく生滅と苦の内にある。決して成仏・解脱していない。サーンキヤ哲学は自己(主体)と自性(対象)を別ける構成になっている。仏教の場合諸説あるが基本的には「無我」の説が大勢なので自己(主体)の実在を説かない。「非我」説の場合は仏教であっても自己の実在を認めている。さて、曼荼羅世界ではこのような内外の問題から超越しているようにも思われる。あるいはそれが仏教なりの解釈として必然であるのかもしれない。故に自己と自性が融合している。そこでは法身の三密も行者の三密も一致する無碍なる真理の世界を説くことができるのです。
2024年03月31日
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四句分別について以前も書かせて頂きましたが、これが案外仏教理論の根幹になっている可能性がある。仏教にも「構造」がある。真理は構造によってことなる。仏教の真理は、それを構成する構造がやはり有るのです。四句分別とは「A、非A、Aかつ非A、Aでもなく非Aでもない」の四つのことです。これはインド独特の論理です。西洋ではアリストテレスの排中律を用います。任意の命題 P に対し「P であるか、または P でない」の論理です。いわゆるYesかNoかです。曖昧な中間がない論理構造です。四句分別に戻りますと、Aがあるということは非Aがあるということになります。これは現実世界のことを言っているのではなく、理屈の話です。ですから言語世界の理屈です。Aがあるなら非Aというカテゴリーも存在する。ならば「Aかつ非A」というカテゴリーも存在するはず。そして「Aでもなく非Aでもない」というカテゴリーも存在するはずなのです。これら四つのカテゴリーを仏身論(四仏)に当てはめてみるのも面白いかもしれない。四仏を一つにしたものが大日如来。四句分別を一つにした存在ですから、究極の仏身としてふさわしいかもしれません。また、四法界として当てはめてみるのも面白いかもしれません。これら四つは(テーゼとアンチテーゼ)の関係にあるのです。まず初めにAが在ったというところから発生する弁証法です。そして最後の「Aでもなく非Aでもない」に至って言語の否定に行きつきます。論を極めれば「果分不可説」に行き着く。しかしながら、四句分別全体としての真理構造は言語でなければ説明できません。一句のみではこの全体構造を語ることができないのです。ですからこの点は「果分可説」です。全体を語るというのはいわゆる「レンマ」です。対義語は「ロゴス」。。梵字はロゴス的言語ではありません。一に全を宿すレンマなのです。仏教では諸法無我を説くが如く、核たる本質を認めません。ですから仏教の真理は究極的な本質を示す「還元」的な方法で説明されるのではなく、循環・円環する「関係性」で説明される方が理にかなっているのです。
2024年03月22日
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密教は梵我一如だと謂われる。仏教以前のバラモン教に於いても梵我一如を真理だとしている。仏教はそもそもバラモン教の梵我一如を否定する宗教であったはずだ。ならば密教の梵我一如と、バラモン教の梵我一如とはいったい何が違うのか。仏教では無我を説く。故に梵我一如は否定された。密教は仏教の発展形態。ならば顕教で云う無我を完全否定するものではない。その教説を密教の中にきちんと取り入れ体系化している。バラモン教及びインド哲学における「我」はアートマンや自己(プルシャ)と表現される。仏教ではこのような積極的な(現象世界に於ける)自己を認めない。諸行無常・諸法無我を説く仏教に於いて我とは、縁起に依って生じたものに過ぎない。そこのところは密教も同じ。故に密教に於ける梵我一如は「梵一元論」に近い趣がある。法身の三密に自身の三密を一致させてゆくもの。三密は行為・運動である。故に自己の三密を核在る主体としてあつかうことはない。しかしそれでも仏教に於ける唯識派は一人一宇宙を説く。これだと一個人の持つ阿頼耶識が全宇宙を有らしめていることになる。サーンキア哲学出身の仏教徒が深く関わったと謂われる唯識論らしいとは思うが、どうしても「我」の影がちらつくというもの。だからこそ唯識は「無我」であるんだと積極的に言いつくろう。そうすることでバランスを取ろうとしているのか。そうなるとユング心理学的に表現するなら「個人的無意識」が世界を作り出しているということになる。しかしながら阿頼耶識は特定個人の所有物ではない。これら阿頼耶識は集団的無意識によって、解体される必要がある。それが法身の法界としての、第九識、十識が設定された所以だ。(あなたと私は別々の自己をもっている)とするなら、それぞれはモナドを抱え、決して同一存在ではなくなる。鏡の如く互いを映し合い、その間に心及び現象世界が出現することになるだろう。逆に(あなたと私が同じ自己)をもっているとするなら、胎蔵界曼荼羅のように中央の毘盧遮那仏から無数の諸仏諸天を出現させることが可能になるのである。ユング心理学における集合的無意識の境界という訳だ。さてそうなると、たかが個人存在(我)が宇宙の根本原理(梵)と同一なわけがない思えてくる。我と梵とを分けるのではなくもっと曖昧なものとして。心の内側に自分では及びもつかない自らを創造した宇宙があると思っておけばよい。そしてそれは我の所有物ではない。逆に個人を作り上げ続ける因縁生成の場であると心得ておけばよいと思う。
2024年03月08日
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無意識というものは意識の自覚の及ばない領域だと思うのだが、それは「我」ではないのだろう。つまりは「無我」の領域にあたるのだろうが、何もないわけではないということだ。何らかの心理の動きはある。それはむしろ意識領域よりも広大で強い。そこに至るには「我」の自力感の限界を自覚するのが良いのだろう。そしてはじめて「他力」が働きだす。衆生秘密と如来秘密の領域だ。(衆生秘密=如来秘密=無意識=他力)(我=自力)そうだとするなら何故極楽浄土ははるか西方へと置かれたのか。横超なんぞせずとも心中に於いてなによりも身近にあるものであるはずである。いらぬ誤解を与え法華経系の人々に批判される。何者が往生するのか。何者が横超するのか。この娑婆世界の釈迦仏を捨てるのか。何故はるか別世界の浄土へ行かねばならぬのか。「如来」であり「他力」であるならば、はるか別世界であろうともこの世界へ来迎しこの浄土と一体無二となるべきではないのか。往生後成仏するのならその成仏の作法は真言であるはず。一切義成就菩薩と同様の方法を採るはずである。他力でもたらされるのは、枝葉末節の智慧と慈悲ではなく、本質たる智慧と慈悲なのである。このように考えてしまうのは、私が密教的な思考をしているからだろうが、浄土教の顕教たる理由をもっと研究すべきということなのだろう。
2024年02月13日
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空や無という言葉で表されるような、「寂静なる法身」理解は十分なものとは云えないだろう。「縁起からはなれたもの」ということになるからである。普遍や本質を求めたところでその当体は存在しない。法有を求めたけれども存在しませんでした、ということになる。求めた先にあるのは「ダルマ」ではなく「ダルミン(基体)」である。仏教ではそれを否定したはずである。ダルミンとは法にとってのアートマンのようなものだ。寂静なる法身は顕教的な法身だと思う。そして理法界の説くところのものだと思う。空の当体。普遍そのもの。しかしその体を探し求めたとしても見つけることはかなわない。そのようなものはないのだから。「法」とはもっと能動的に動くものである。つまりは縁起である。法とは現実世界に溶け込んでいる。それゆえに私は「阿字体大説」ではなく「六大体大説」が正しいと思うのです。阿字体大はアシュク如来の悟りだと思う。(大円鏡智)。もっとも純粋な法身。階梯を設けるなら四つの内で一番尊いかもしれない。チベット仏教でビルシャナ如来に取って代わったのも頷ける。しかしそれでも、それは法界体性智ではない。あと三つの智が足りていない。何故にただの「ビルシャナ」ではなく「マハービルシャナ」なのか。胎蔵生曼荼羅全体が法身の体なのである。中央に座す大日だけが大日という訳ではないのである。ただこの解釈は正統なものではない。私の解釈です。正統なる解釈では真ん中の大日が一番偉い。でも私はこの中央の大日が自受用法身だと考える。自性法身だとは思わない。ともかく私は胎蔵生曼荼羅の法身はアシュク如来の悟りを説いていると思っている。それは顕教の悟りにもっとも近い、ビルシャナにもっとも近い法身という意味で。チベット仏教の法身もこの法身から進化していったのだと思う。それが彼らの仏教であり密教。日本密教の大日とはまったく異なる進化・展開を遂げたのだと思。まあ私の解釈を長々と書いても仕方がないか。
2024年02月10日
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「密教は方法論か」ということですが、三句の法門でも「菩提心を因とし、大悲を根として、方便を究竟とす」とあります。方便とは手段のことですね。ということは「密教は方法論」という見解に説得力が増します。そして行為の中に成仏がある。法身の三密です。そこでは顕が密に融解されてゆく。行為として姿を現す。道元禅師も鳥は飛ぶから鳥、魚は泳ぐから魚というようなことを言っていたと思います。たぶん同じような悟りなんでしょうね。坐禅は仏の身密なんです。修行することが仏の身体。修行してから仏となるのではない。修行の中に仏がある。理屈は加持と同じです。この法身世界の理屈、説明が難しいです。例えば「生んだ者と生まれた者が別、ならこれは顕教。自らが自らを生むのなら密教」。何故なら行為をこそ仏は身体とするからです。目に見える身体にこだわるなら、仏の身体を見ることはできないだろう。
2024年02月09日
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ならば密教は方法論なのか、という疑問がわいてくる。たとえば顕密の差は読み手に因って変わってくる。顕教の経典、密教の経典という大雑把な差異はあるかもしれないが、密教者が顕教の経典を読んだなら密教経典となる。密教とは何か。秘密仏教である。秘密とは何か。衆生秘密と如来秘密である。そして両者は秘密の両面であり本来一体のもの。詳しい説明は割愛するとして、つまるところ法身の三密であり、仏の生命そのものといったところか。しかしそれらは行為であるので、対象ではない。仏の能動性そのものだ。「能所」の能が密、所が顕。両者を合わせて「加持」。であるから(密教は方法論)そのものではないものの、方法論の側面も持つ。顕を即座に法身へと融解してしまうのである。(色即是空)また、そのまま一切顕へと相即させる働きも持つ。
2024年02月08日
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構造主義の構造とは、現象より深部にある仕組みのようなものである。因って不変的なものを扱う。仏教でいう有部の「法有」と似ているかもしれないが、法は「存在」のニュアンスも含んでいる言葉なので少し違う。存在とは「自然状態に於ける実在」のこと。ここでは空の思想が徹底される前の仏教だから仕方ないか。何にせよ仏教は本来「諸行無常」でありますので、不変である「構造」とは相容れぬはずの概念のはず。けれども上記の通り仏教学派の中では「法」は存在するんじゃないか?と考える一派も出てくるのである。その後仏教では空の思想が徹底された大乗仏教が出てくることになる。法も個物も世界も何もかも一切は空という考えですね。(ただし仏性は除く)さて、「構造」とは「自然状態に於ける実在」という存在論や宇宙論とは関係ない概念である。単に観察対象に於ける不変となる仕組みを言っている。(比較方法論なんですね)仏教自体も空の思想、即ち「無常・苦・無我・穢土」から、「常楽我浄」の思想へと徐々に発展してゆく。普遍を取り扱う仏教である。「自然状態に於ける実在」の概念からはもう脱却した。故に密教は構造主義と近い位置にあると考えられる。
2024年02月07日
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この心は我が心ではない。天然自然の自律的存在である。しかしながら「我が心」はコンフォートゾーンの居を構え、分別心にとらわれてしまっている。「一個人一宇宙」の唯識は迷いの世界、分別心の中にある。即ち顕教を顕たらしめているのはこの「我が心」なのである。修行というのはこのコンフォートーゾーンの臨界に迫る行為なのである。そして別の生命の心域と接する。人間には人間の生活圏というものがある。人間には人間のコンフォートゾーンがある。しかし他の動物にはその動物なりのコンフォートゾーンがある。たとえば夜行性の生物に接するには人々の寝静まった闇夜に森へ出かけたりする。屋内ではないので、夏の暑さや、冬の寒さに晒される。そのような、決して人間圏ではない領域へと踏み込むのだ。そこでは人間の思う通りにことが進むわけではない。様々な偶然に晒される。狩猟にしてもそうだが、そんな中で生きてきた人類はアニミズムを持つ。他の領域に踏み込む際の礼節と霊性を重んじる。「他者」との交渉だ。「他者」との接触、交渉によって逆説的に自己が発見される。しかしその自己は我が身の内の個物ではない。他者も含む我なのである。そこでは唯識を超えた唯心論が発見される。一神教の論理でもない。唯一主催神をも超えた領域なのだ。阿弥陀仏を西方極楽浄土へと分け隔ててしまうのはもったいない。今ここに阿弥陀仏が必要なのだ。それでいながらの「他力」である。法身としての阿弥陀仏が必要なのだ。そのような仏教、延いては密教が必要なのだと感じる。
2024年02月06日
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仏教ではあらゆるものは「我」の所有物ではないとする。それは心についてもだ。この心は我が心と考えてしまいがちだが、案外客観的な存在なのかもしれない。もっと言えば阿弥陀仏の浄土なのかもしれない。こも信心は阿弥陀仏から与えられたもの。自力ではない。他力。そしてこの生存も業の為したるもの。法身と呼んでも良いが。我々は諸仏の後光を受けてそこにある。無量寿。これは無量の「長さ」と考えてしまいがちだが、無量の生命という「量」「多さ」を表しているのではないだろうか。無量の生命を支えている光なのだ。それらが互いに支えあい、照らし合う。それこそが菩薩行でもある。人々のために行動して、弥陀も人々を救う浄土をひらかれている。心の奥底で、精神は輝き、生命は繋がっている。
2024年01月31日
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「構造」と「還元」と二種類の構成法がある。構造は関係性で成り立っている。ジャンケンの三すくみのようなもの。還元は絶対的な主がまずある。あれに依拠いた従がある。各々が主従を兼ね備えている構造では、あらゆるものを相対的に扱う。しかし還元は絶対的な権威に他が従属する。さて。密教では阿字体大説と六大体大説とがある。阿字体大説は還元とみるべきだろう。そして六大体大説は構造である。六大は無碍であるが故に。それは真理の在り方についてである。真理の核があるとするなら阿字体大の在り方を取るだろう。真理は構造によって異なるとするなら六大体大の在り方を取る。即ちそこには核がない。「阿字の子が~」の歌があるが、あれも「還元」と見せかけて本当は「構造」である。なぜなら循環しているから。入我我入観も本質は循環である。阿字観ですら我と我との循環である。「自受法楽」もそう。そして仏教自体が絶対神の教えではない。故に構造の形を取っている。
2024年01月31日
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