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ドラッカー的年表
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紀元700年から1100年にかけて欧州では、技術革新によって2つの全く新しい階級が生まれていた。1つは封建制における騎士、もう1つは職人である。騎士は700年頃中央アジアで発明された鐙から生まれた。馬上で戦うことを可能にしたのは鐙である。これによって封建制度が作られた。この社会変化が完成するのに400年近くの年月を要した。(ドラッカー「ポスト資本主義社会」P55-56)
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[[転換期1]]
13世紀。ヨーロッパ社会はほとんど一夜にして都市中心社会となった。ギルドが新勢力として登場し、遠距離貿易が復活、ゴシック様式(際立って都市的かつ中産階級的な新建築)、シエナ派(画派)が興った。知恵の源泉はアリストテレスに移り、文化の中心は、田舎の孤立した修道院から、都市の大学に移った。宗教、学問、精神の担い手として、新しい都市型の修道会であるドミニコ会、フランシスコ会が登場し、数十年後にはダンテがヨーロッパ文学を生み、言語はラテン語から地方言語へと重心を移した。
(ドラッカー「ポスト資本主義社会」P22)
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[[転換期2]]
中世からルネサンスを経て近代をもたらした
1455年(グーテンベルクによる植字印刷や印刷本の発明)~1517年(ルター宗教改革)の60年間。
この転換期の存在が理解されるのに50年以上かかった。コペルニクス「コメンタリー」(1510-1514)、マキャヴェリ「君主論」(1513)、ミケランジェロがルネサンス芸術のすべてを統合しかつ超越する絵画をシスティナ礼拝堂の天井に描いたのは1508-1512にかけてであった。カトリック教会がトレント宗教会議において再建されたのは1540年代。
ルネッサンス絶頂期のの隆盛(1470-1500フィレンツェ、ヴェネツィア)、古代の再発見、欧州人によるアメリカの発見、スペイン歩兵軍団(ローマ軍以降初の常備軍)の創設、解剖学をはじめとする科学的探究の再発見、西洋におけるアラビア数字の普及。(ドラッカー「ポスト資本主義社会」P22,24)
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西洋は、1500年から1650年の間に、世界のリーダーシップを握った。その大きな原因は、印刷本という新しい技術で学校を変えることができたから。中国や、イスラムの政治的統合体たるオスマントルコは、1550年頃までは政治、軍事、経済、科学、文化いずれの面でも世界の「超大国」だったが、やがて停滞の道を辿った。両国とも、伝統的な教育のありかたに固執し、学校は「進歩に対する障害」と見なされるようになり、この2つの文明にあっては、改革を目指すあらゆる運動が、学校と対決することから出発しなければならなかった。(ドラッカー「ポスト資本主義社会」P322-323)
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1618-1648の三十年戦争には、まだ私兵の軍隊があったが、この戦争を契機に、あらゆる国家が、戦争とその手段を独占するようになった。国防なる言葉もここから発した。国民を外部の攻撃から守ることが、国家の義務であるとともに、国家の独占的な権利であるとされた。(「新しい現実」p76)
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1750年から1900年に至る150年間において、資本主義と技術革新が世界を征服し、新しい世界文明を作った。これらが特別なのは、その伝播の速度とグローバルな到達度においてであった。それが「近代資本主義」であり「産業革命」である。
1750年には資本家もプロレタリア(工業労働者)もほとんど存在しないに等しかったが、1850年までに、西ヨーロッパでは、「資本主義」と「産業革命」の結果として、両者は大きな階級として台頭してきた。
この転換は、「知識」の意味の基本的な転換によってもたらされた。
[1]
最初の100年間にわたって、知識は「道具」「工程」「製品」に適用された結果「産業革命」がもたらされた。
[2]
1880年頃から第二次大戦の終わり頃、知識は「仕事」に適用され、「生産性革命」がもたらされた。
[3]
最後の第3の段階として、第二次大戦後、知識は「知識」そのものに対して適用されるに至り、「マネジメント革命」がもたらされた。こうして知識は、資本と労働をさしおいて、最大の生産要素となった。(ドラッカー「ポスト資本主義社会」P49-50,57)
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[[転換期3]]
1776年(米独立、ワットが蒸気機関を完成、「国富論」が書かれた)からはじまり、40年後のワーテルローの戦いで終った。この間に近代のすべての「主義」が生まれた。資本主義、共産主義が現れ、産業革命が起こった。1809年にはじめての近代大学(ベルリン大学)がつくられ、普通教育がはじまった。ユダヤ人の解放。1815年にはロスチャイルド家が王侯の影を薄くするほどの影響力を持つ存在に。この40年間はヨーロッパに新しい文明を生み出した。
この存在が最初に理解され、分析されたのは60年後、トクヴィル「アメリカの民主政治」(上巻1853、下巻1840)によるものだった。(ドラッカー「ポスト資本主義社会」P23,25)
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今日のIT革命と、スピード、影響の大きさに於いて酷似した2つの前例があった。18世紀化~19世紀初めの第1次産業革命であり、もう1つは19世紀後半の第2次産業革命である。
[1]
第1次産業革命 ワットが蒸気機関を発明したことが引き金になった。人々の想像力を刺激はしたが、それが社会や経済そのものに大きな影響を与え出したのは、1829年の鉄道の発明であり、その十年後の料金前納制の郵便制度の発明、電報の発明だった。/工場が中心的な生産の場となり、主たる富の創出者となった。製造業労働者が、1000年前の甲冑の騎士以来の新種の社会階層として登場した。1810年には、ロスチャイルド家が世界で最初の投資銀行として、15世紀のハンザ同盟とメディチ家以来のグローバル組織となった。
[2]
第2次産業革命
・19世紀は、2つの産業革命の結果、16世紀以降、制度と思想のイノベーションにおいてもっとも実り豊かな時代となった。
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1800年頃のパリ、ロンドン、NY、ウィーンは、昔ながらの都市だった。田園社会と農業経済のための政治、技能、交易の中心だった。ところが1850年には、それらの都市が、邸宅ではなく、工場の煙突が立ち並び、工場労働者が住む近代都市に変わった。(「断絶の時代」p31)
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1850年以前の技術や産業は、経験だけにもとづいていた。目的意識をもつ体系的な情報としての知識とは無縁だった。19世紀後半に生まれ、今日の経済と産業を動かしているいわゆる近代産業でさえ、基本的には経験に基盤をおく産業であって、知識に基盤をおく産業ではなかった。(「断絶の時代」p38)
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1850年から70年にかけて、経済の重心は、石炭、蒸気、繊維、機械工具などの産業革命をもたらした産業から、鉄鋼、電力、有機化学、自動車などのいわゆる近代産業へと移行した。(「断絶の時代」p10)
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1873年ウィーンの株式市場が恐慌に陥った時にも、歴史の境界を超える分水嶺があった。ウィーン市場の崩壊の1年半後には、欧米の経済は完全に立ち直ったが、政治的には、自由主義時代の終わり、自由放任が政治の基本理念であった100年間の終わりを意味していた。すなわち1776年にAスミス「国富論」とともに始まった1つの世紀を終わらせた。それまで欧米に於て進歩と啓蒙の担い手だった自由主義政党が、混乱と後退に入り、2度と再起することはなかった。代わりに、マルクス主義と反ユダヤ社会主義が来た。ドイツでは、1883―1888年にかけて、ビスマルクが社会保障を政府が提供する「福祉国家」を作った。(「新しい現実」p7-9)
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1880年当時、階級闘争による動乱は回避できると言うには、かなりの自信と勇気を要した。そのための方法などは、相当の楽観論者でさえ示せなかった。しかるに、1883年にマルクスが没した頃には、労働者階級の主導権は、革命主義から離れ、イギリスではフェビアン主義、アメリカではゴンパーズの組合主義、ドイツでは修正社会主義の手に移っていた。その10年後には、エンゲルスが『イギリスの労働者階級』の新版への序文で、無産階級の窮乏化が止まり、マルクス主義の不可避の革命も延期されるに至ったことを認めた。さらにその20年後の第一次大戦時には、先進国では、マルクス主義は完全に活力を失った。(「断絶の時代」p105-106)
[3]
IT革命1940年代半ばにコンピュータが出現。人々の想像力を刺激はしたが、IT革命として経済と社会に真の革命をもたらしたのは、その40年後、1990年代に全世界に拡がったインターネットのほうだった。(ドラッカー「ネクストソサエティ」p64-66 未完)
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「1890年代から1960年代までの70年間、人類とくに先進国の人間は、政府によって催眠術をかけられていた。政府を愛し、万能と思い込み、善意の固まりと信じた。とくに1918年から60年の間、政府との間には熱い愛情関係があった。政府にまかせれば、すでに仕事はなされたも同然とされた。1900年頃、イギリスではフェビアン主義が、ドイツでは社会民主主義が、政府との愛に酔った。」(「断絶の時代」p229)
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1899ボーア戦争。1912-13バルカン戦争。「19世紀、世界は統治単位の拡大の方向に向かっていた。そして
国民国家
が真の国際協力を可能にするものとされていた。しかしこれはボーア共和国の大英帝国への武力による編入によって幕を閉じた。その後世界は一転して解体の歴史に入った。それは、統一を目指して分裂に終わったバルカン戦争
(バルカン諸国が同盟してトルコに戦争を仕掛け勝ったが、新しく得た領土をめぐって同盟国が分裂した)
から始まった。その後分裂の傾向は加速するばかりとなった。(「断絶の時代」p239)
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[[転換期4]]
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「1960年以降の年率4%という食料生産の伸びと、それを上回る単位面積当たりの生産量の増大は、人類史上記録的なものである。この調子でいけば、世界の食糧生産は1985年までに倍増する。…(食料問題に非常に悲観的だった米農務省の)レスター・ブラウンさえ、1968年の国際飢餓対策会議において、途上国とくにアジアの人口稠密国で、
農業革命
が起ころうとしていることを認めた。」(「断絶の時代」p107)
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「1960年ごろ始まり、2010年か2020年まで続くとみられる。この転換は西洋の社会や歴史に限定されていないだけでなく、もはや「西洋」の歴史も文明も存在しえないことが根本的な変化の1つ。
現在の転換期が、1960年頃日本が大きな経済力を持ったはじめての非西欧国家として登場したことを契機として始まったのか、それともコンピュータの登場によって情報が中心的な存在となったことを契機としたのかは、わからない。私自身は、第2次大戦後の米国の復員援護法をその契機としてあげたい。この法律とこれに対する復員兵たちの熱い反応が、知識社会への移行を合図したといえる。
1990年に生まれた者が成人に達する頃には、彼らの祖父母の生きた世界や父母の生まれた世界は、想像することもできないものとなっているだろう。」(ドラッカー「ポスト資本主義社会」P23-24)
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「戦後の終わりを示したものは、ベトナム戦争でもオイルショックでもなかった。1963年11月に起きたケネディ暗殺だった。それは一つの時代の終わりを意味した。アメリカ人の意識に大きな衝撃を与えた。大戦と戦後によって回復されたはずの文明の底に、暗黒を意識させた。遠く離れた日本においてさえ、ケネディ暗殺は取り返しのつかない事件として意識された。」(「断絶の時代」p428)
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「目立つこともなく、その時点では気づかれることもないが、ひとたび超えてしまえば、社会的、政治的な風景が変わり、気候が変わる。言葉も変わる。そんな歴史の境界がある。1965年から1973年のどこかで、世界はそのような境界を越え、新しい次の世紀に入った。我々はその時、過去1―2世紀にわたって、政治の信条、公約、権力構造としていたものから、卒業させられた。そして、道しるべのない未知の世界に入った。」(「新しい現実」p5-6)
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「1970年代の最大の特徴は、オイルショックやスタグフレーションではなかった。私がプロダクション・シェアリング(生産分担)と名づけた新しい種類の国際分業だった。」(「断絶の時代」p426)
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