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「せんせ、サイアクですよ。」
そう言って、
高校生の男の子が入ってきました。
何がサイアクなのかと思ったら
せっかく早くでてきたのに
踏切で、4本も電車を待たされた
っていうんですね。
「そういうこともあるよね。
でも、ちゃんと早めに出たから
間に合ったじゃない。
ね、うまくいくようになっているでしょう。
そして、目の前の人が、自分に対して
『サイテー』『サイアク』と言い続けたら
腹が立ったり、目を背けたくなったり
そこに居たくなくなったりするでしょう。
自分の言葉を一番聞いているのは自分だから
自分のことをそんな風に言っているのと
実は、同じことをしているんだよ。」
そんな風に答えたら
「そんな風に物事を考えるものなんですか。」
って、話していました。
この男の子に限らず
中高生の子たちにとって
「サイアク」「サイテー」「ムカツク」
「イラっとくる」「死にそう」は
挨拶と同じ程度に
普通の言葉のようなのですが
彼からのその重大事件を
よくよく聞いてみると
生命の危機に瀕している
というようなことは、当然ないわけで
ただたんに、自分が思うようにならなかった
自分の期待通りに事が運ばなかった
そういうことが、ほとんどです。
「結果に対する期待というのは
『こうなってほしい』
『こうしてほしい』などの気持ちだよね。
つまり、期待は、
過去からのデータから
未来は、こうなればいいなと
考えてしまうことなんだけど
期待をしているということは、
ありのままの現実を受け入れず
現実に対して
不満を感じてるということで
期待が詰まっていると
何も入る余地がないから
自分の中を空けることが大事なんだよ。
自分の中を空けることができれば
インスピレーションは降りてくるんだ。
すべて良いほうにしか変化しないし
起きるべきことが起きているんだから。
『そういうこともあるさ
良かった、良かった。』とか
『それは、ちょうどいい。
で、これをどう活かすか』とか
『これは、何のサインだろう』
そんな風に、それをどう生け取るか
活かすか、活用するか、
これすべて自分次第なんだよ。」
そんな話をしたんですが
期待を手放すというのは
無関心になる、どうでもいい存在と思うことではなく
むしろ、期待を手放すというのは、
存在そのものを認める、
ありのままの存在を受け入れると同義で
そのものと温かくつながることとも言えるから
期待を手放すって、面白いものだし
それでも期待って、
Agnes - Release Me