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2005/02/06
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テーマ: ニュース(95826)
カテゴリ: カテゴリ未分類
神奈川県三浦市でワゴン車の中で6人が練炭自殺したそうです。静岡県東伊豆町でも乗用車の中で3人が練炭自殺したそうです。

暗い世相になお暗い影を落とすようなことで、残念に思います。

暫く前に、小中学生に死後の世界はあるかとアンケートして聞いたところ、かなりのパーセンテージで「ある」という答が返ってきたというニュースが出ていたように思いますが、これとルーツは同じようなことのように思えます。

疲れたときに眠くなって横になり、気づいたらさわやかな朝が来るのと同じように、一酸化炭素中毒で希望のないこの世と絶縁し、死後の世界での救い求めて、ということなのでしょうか?

今までも同様な事件が何度かありました。でも、プライバシーの問題もあり、報道がそのまま封印されてしまうので、どういう人がどのような悩みを抱えて命を絶ってしまわれたのかがわかりません。封印することが抑止になるのか、むしろ原因を広く社会で考え直して相互にコミュニケーションを取る方が抑止になるのか、私にはわかりませんが、やはり事情をお伺いしてみたい気がします。案外伺ってみると、何でそんなことで、と言いたくなるようなことではないかと思います。

現在の私も耐え難い苦しみを抱えてはいます。昨年の夏頃までは、本当に落ち込んでいて涙するばかりの毎日でした。今は、いろいろな方のアドバイスもあって、少なくとも表面的には明るく楽しく行動できています。

受験生の相手をしていて思うことがあります。粘り強く頑張ってきていて期待していた受験生が、入試間際に急に失速して奈落の底に沈んでしまうような姿を、今まで何度か見てきました。原因が友人たちにもよくつかめないことが多いのです。

もちろん、家族との間で、友人との間で、何か人間関係のトラブルがあって、やる気を無くしてしまったというようなこともあるでしょう。ですが、一つ感じることがあります。入試間際になって、急に、自分が大学受験することの人生的・哲学的意味を考え始める受験生に失敗することが多い気がします。時間的に余裕のある状態の時であれば、それはむしろ必要なことと言うべきなのですが、最後の追い込み時期には、むしろ焦燥感や閉塞感を煽ってしまう原因になりやすい気がします。

安易に自分の命を捨ててしまわれる方にも、そうしたことはないでしょうか?経済的な不安、健康の不安、人間関係のつまづき、そうしたことは誰でも抱えていると思います。そうした悩みを抱えるうちに、人生そのものの意味を深く問い直すようなことになると、現世への幻滅、絶望になり、命あること自体の幸福を忘れて、早まった行動に出てしまう、ということはないでしょうか?



資本主義経済であったにしても、経済とは別の側面において、社会のコミュニティ化を推し進めて、悩みを相互に相談し合ったり、励まし合ったり、助け合ったりするような、何らかの実効ある社会のシステムが用意されるべきだと私は考えます。普段のおつきあいがふんだんにある方はよいと思います。でも、先日の愛知県安城での事件、奈良で起きた事件、佐世保で起きた小学生の事件、等々、社会から完全に疎外されて、見かけ上は社会の中で他人との交流を持っていても、心の奥底での葛藤が克服できないでいる人たち、あるいは、私と活動をともにされている方の中にも、全く理不尽な法的扱いを受けているのにもかかわらず、どこに訴えを起こしても全て門前払いで放置されている方がいます。社会的使命を負うような仕事を誇りをもってなさっていて、それでいて、人間として当然至極の感情をもって行動しているのにもかかわらず、社会は、この方の抱える複雑な問題について、全く関心を持とうともしていない、ということが実際にあるのです。

現在の自分の生活だけで精一杯というだけでなく、少なくとも社会には、未解決の問題がたくさん残っているのだ、ということぐらいまでは、みんなで認め合う必要があるのではないでしょうか?被害にあった可哀想な子どもたちのためにも、同じような犯罪が繰り返されないように、社会全体でも、国会議員の皆さまにも真剣に考えて頂きたいですが、犯罪を犯した人を厳罰に処するだけで、そうした犯罪に人を駆り立ててしまう社会の病理が解決されるわけではありません。実際に、奈良の殺人犯は自分を宅間のように処刑せよ、というようなことを言っていると報じられています。刑罰の重さがまるで犯罪の抑止力になっていないどころか、犯罪を犯すことの快感にすらなっているのです。他人に大きな不幸を与えることで自己実現を果たして満足してしまうという人が出て来ないような、社会のシステムが考えられなければ、同じことがいつまでも繰り返されることになります。この日本という社会の中に疎外されている人がいてはならないのです。そうした人を放置すれば、いかに警察の機能を高めても安心は得られないでしょう。疎外されている人を見つけたら、必ず誰かが声をかける必要があるのです。相互にしっかり交流しあい、相談に乗ったり乗られたりするような、そして、幸福感や使命感を相互に持ちつ持たれつして行くような、そんな社会のメカニズムが、しっかりと法律上にもサポートされた形で必要だと思います。

私が、よく見に行くJackieさんのページでは、自分を幸福と言い聞かせよう、自分の気持ちを明るく鼓舞していこう、というようなことが書かれていて、苦しみを克服するための材料が並んでいます。私も随分と救われました。ただ、気負いすぎるとかえって疲れるような面もあるかも知れません。深刻に考えすぎず、自分のできる範囲で、自分に納得のできる範囲で、自分の気持ちを自分自身で支えて行ければ良いのではないかと思っています。

私なりに、いろいろな言葉を考えてみました。

無理に行動しない。
退屈するまで、何もしないでボーっとして待つ。
退屈したら、とりあえず外を歩き回ってみる。ウィンドウ・ショッピングとか。
歩き始めたら、楽しく歩けるように、何か新しいものを探す。
珍しいものを見つけたら、とりあえず覗いてみる。
興味を持ったら、深入りすればよいし、
興味が湧かなければ、触れなくたって構わない。

話があえば、話を続ければよいし、
話が合わなければ、きょうは良いお天気ですね、じゃあまたとか言って、別れればよい。
社会には、いろんな人がいるんだな、と、
社会の人、それぞれの意識を認めるように考える。

悲しければ涙をこぼし、楽しければ笑う。

感情が持てる、と言うこと自体に、幸福感を持つ。

眠くなったら眠る。
というわけで、きょうはおやすみなさい。





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最終更新日  2005/02/06 01:44:46 AM


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