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2018.01.03
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​毎日宗教新聞>コラム(2017.01.03)


http://www.dailywrn.com/sub_read.html?uid=11470






​​​ ……

​一生涯「平和」を話題(話頭)にして、人類の平和のために献身した世界平和統一家庭連合の創設者、文鮮明(文鮮明)総裁は、生前に出版した 自叙伝「平和を愛する世界人として」 の平和に対する見解を「父など学んだ平和」で詳しく述べている。文総裁の自伝に出てくる短い内容だが、平和が何なのかについて深く考えることができるきっかけを私たちに与える。文総裁は「父背中に背負われ何の心配もなく、心がチャックに置かれる感じ」、それが平和だった回顧する。平和は、親の愛を体恤する子の心から開始されるだろう。次は文総裁の自伝「平和を愛する世界人として」の中「父背中に背負われ学んだ平和」の内容を抜粋したものである。  ​

父の背中に背負われ学んだ平和  (自叙伝、P.14~19からの引用)
   ​


私の生涯の一例と考えていました。平和な世界は、戦争や争いなく全世界が愛を交わし生きるよう世界を作りたかった。このような話をすればだれでも"いいえ、どのように幼い頃から平和を考えて生き段言葉か」とされて求められます。平和な世界を夢見ることが途方もないことはありますか? 

私が生まれた1920年は、日本が韓国を強制的に占領していた時でした。光復後も6.25動乱と通貨危機など厳しい混乱を複数回経験し、この地は、平和とは距離が遠い歳月を送信しました。このような痛みと混乱は、絹、韓国だけのことはありませんでした。二度の世界大戦とベトナム戦争、中東戦争など世界の人々は、常にお互いを憎み、銃を向けて爆弾を爆発ました。肉引き裂かれ骨が折れる試練を経験した人に、平和と夢でも描いてみる雲をつかむことがいるかもしれません。しかし、平和を実現することは決して難しいことではありません。私取り巻く空気、自然環境、そして人から、私たちは、簡単に平和を入手できます。

野原を我が家のような考えて住んでいた子供の頃、私は朝ごはん一杯をさっと空飛び出し一日中山に川に撃ち通いました。あらゆる鳥や動物が住んでいる森の中を歩き回ってプールと実をタモクダ見れば一日中お腹が空いたことも知らなかった。子供心にも森の中だけ入る体と心が和むのを感じました。

山でトィノルダ眠りに入ったこともありました。そんな時、父が森の中に私を探しきました。「用ミョンア!用ミョンア!」父の声が遠くから聞こえ寝ながら笑いが自然に出るように嬉しかったです。私子供の頃の名前はフェードイン(龍明)です。私を呼ぶ声に一見睡眠が覚めたが、眠っているふりをして、父等鷲掴みに背負われていたその気持ち、何の心配もなく、心がチャックに置かれる感じ、それが平和でした。その父背中に背負われ、平和を学びました。

私の森を愛したのもその中に世界のすべての平和が宿っているからです。森の中の生命は戦うん。もちろん、お互い食って食わが、それはお腹がすいて仕方なくそうであって憎くてそうではありません。鳥鳥同士、獣は、獣同士、木は木同士憎む法がありません。憎しみがあって、平和が続きます。同じ種(種)同士を憎むのは人だけです。国が違うと憎み、宗教が違うと憎み、考えが違うとまた嫌います。(中略)     

私は理念と宗教のためにお互いを憎み、敵にここの国の間に平和の橋を置くことに生涯を捧げました。イスラム教徒とキリスト教が和合する出会いの場を作ってくれて、イラクを間に置いて対決する米国とソ連の意見を調整して、韓国と北朝鮮が和解するように助けるもしました。お金や名誉を望んでたことがありません。鉄持ってから今まで私の人生の話題はただひとつ。世界が一つになって平和に暮らすことです。他のものは望んもありません。昼夜を問わず、平和のために生きることが容易ではなかったが、ひたすら仕事をするときに幸せでした。

冷戦時代に、私たちは理念によって世界が二つ分かれる痛みを経験した。それは共産主義だけ消え、すぐに平和が行わそうだったが、冷戦が終わった今、より多くの争いが生じました。人種や宗教のために粉々にナボリョトた。国境に戻って国同士の反目することも足りなくて、同じ国の中でも人種同士分かれ宗教に分かれて生まれた地域で再分割されます。このように分割された人々は、お互いがお互いの敵になってまったく心を開こうとしません。 

人間の歴史を振り返ると、最も残酷で恐ろしい戦争は国家間の戦争ではなく、人種間の戦争でした。また、宗教を前面に出した民族間の戦争でした。20世紀最悪の民族紛争と呼ばれるボスニア内戦では、イスラム教徒の種乾燥のための民族浄化が求められてされて、子供を含む8000人のイスラム教徒が虐殺(筆者注:ボスニア内戦(1992〜1995)中に起きたスレブレニチャ集団虐殺事件は1995年7月ボスニアのサラエボ北東部に位置し、スレブレニチャのイスラム教徒を除去するためにボスニアに駐留していたセルビア軍によって8,500人の死者を出した虐殺事件。この事件でボスニア-ヘルツェゴビナのスレブレニチャ地域住んでいた25,000〜30,000人のボスニア人はセルビア系のスープスカ共和国の軍隊によって無差別に殺害ダンヘトウム)しました。ニューヨークの110階建ての貿易センターの建物を飛行機では受け二洞間出し9・11テロも覚えています。このすべてが、民族や宗教間の紛争がもたらしたひどい結果です。(中略)     

一体何のためにそのようにお互いを憎み、殺すか、表面的な理由ですいくつかのですが、その内幕を詳しく見てみると、間違いなく、宗教がめまいがあります。石油を巡って行った湾岸戦争がそうで、エルサレムを占めようとするイスラムとイスラエルの紛争がそうです。このように人種主義が宗教という名分をなどアップをするとき、この問題は非常に複雑になります。中世の時代に終わったと思っていた宗教戦争の悪霊が21世紀にもまだ私たちを苦しめています。

宗教戦争が絶えず起こる理由は、多くの政治家が自分の利己的な欲を満たそうと宗教間の敵意を利用するからです。政治目的の前で宗教は方向を失ってグラグラゴリプニダ。宗教が持つ本来の目的を喪失することです。宗教は本来、平和のために存在します。すべての宗教は、世界平和のために責任があります。

ところが、逆に宗教が紛争の原因になったから嘆いする役割です。その醜い裏には権力と資本を握った黒い政治が隠れています。指導者の本分はすべからく平和を守るのに、むしろその逆になって世界を対立と暴力に追いやっているのです。

指導者の心が正しく立たなければ、国と民族は行き場を失ってさまよわされます。彼らは自分の黒い野心を満たすために、宗教と民族主義を利用します。宗教と民族主義の本質は悪くないが、国際社会に貢献する場合にのみ価値があります。私の民族と私の宗教だけが正しいと主張しながら、他の民族と他の宗教を無視して、けなすなら、その価値を失ってしまいます。私の宗教を主張するのに他人踏みつけ他人の宗教を些細思い、憎しみを積ん紛争を起こした場合、それはすでに、善ではないからです。私の民族は、私の国だけが正しいということも同様です。

お互いを認めて助け生きること、宇宙の真理です。些細な動物たちも、それを知っている。猫と犬はお互いにライバルだが、一家で一緒に栄養を与える見ると、お互いの子を抱いてボドゥムた親しくます。これは植物を見てもわかります。木の柱に乗って上がるチルノンクルは木の幹にもた成長する。それでも木は「なぜ私を閉じて上がっか」とチルノンクルをせいていません。お互いのために与えながら一緒に住むのが宇宙の原理です。この原理を超えた場合は必ず滅びることになります。今のように民族同士、宗教同士中傷戦うことが続けば、人類に未来はありません。絶え間ないテロとの戦争である日、ほこりのように消滅してしまうことです。しかし、希望が非常にないのはありません。希望は明らかです。

私はその希望の紐を離さず、生涯を平和を夢見生きてきました。私風は世界を幾重にも取り囲んフェンスとフェンスをきれいに壊してしまって一つになる世界を作ることです。宗教の垣根を崩し、レースのフェンスを越えて豊か(富者)者と貧しい者(貧者)の隙間を埋めた後、初めに、神が造らくださった平和な世界を復元することです。空腹の人もなく涙を流す人もいない世界のです。希望のない世界、愛が足りない世界を癒すには、私たちは、子供時代の純粋な心に戻っています。もっと持とうとする欲から脱して、人類の美しい性質を回復する道は子供の頃、父等オプヒョソ学んだ平和の原理と愛の息吹を復活ことです。      

「父背中に背負われ何の心配なしに心に置かれる感じ」がまさに平和 

親を愛することは、決して難しいものになることができないにもかかわらず、堕落した人類の文化の中では決して簡単なことではなくなった。これ切ない現実だ。特に「世代差」という言葉は、誤った文化がもたらした虚像であるという点を知るべきである。親子の関係の中で世代差とすることができない。愛する親の背中に背負われているときのような快適な一体(一體)の境地をなすすべてのことを親の意に合わせて生活したい愛の衝動が私たちの生活を導くになる。本来の世界では、すべてが自然だ。親を愛する心が自然に私たちを個性完成、家庭完了すると、主観性完成に導くためである。

眩暈がするよう、現代社会の葛藤の中で、平和とは何なのか到底知ることができないらしいたびに、上記の詩、「父背中に背負われ何の心配もなく、心がチャックに置かれる感じ」を心の中に刻んだ場合の平和の正しい方向性を見つけることができるある。 

<ムンユンホン・時事コラムニスト・
​​​






一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う 奇知の外の凡人 が徒然なるがままに書く日記です。

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Last updated  2018.01.03 18:30:22
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