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生と死に対する理解

 この講演文は、1998年12月19日、アメリカのワシントン・タイムズ社で開催された「世界平和超宗教超国家連合」の大会で語られたみ言です。


 尊敬する議長、世界の宗教指導者、ならびに内外の貴賓の皆様! きょうのこの場は、各宗教の指導者の方々が参席されていらっしゃることと思います。キリストの聖誕日を前後して、各宗教では重要な日程と儀式が予定されているにもかかわらず、このように参席してくださり、心より感謝申し上げます。

  死は根源の世界への回帰

 時間をお借りして、これまで各宗教が解答に苦しんできた問題である「人間の生と死」に対しての、私の見解の一端を披瀝させていただこうと思います。私たちはこの地上に住んでいますが、この世界は地上だけがあるのではなく、霊界もあるということを知っています。霊界は間違いなくあるのです。そしてこの地上と霊界は、全く異なる二つの世界ではなく、一つの世界として連結されているのです。したがって、私たち人間は霊界から生まれたので、いずれにせよ再び霊界に帰らざるを得ないのです。

 皆さん! 韓国語にはおもしろいことに、「死ぬ」ということを「帰る」という言葉を使って表現します。どこに帰るというのでしょうか。これは単に共同墓地に行くことを言うのではありません。もともと人生が出発した、本来の場に戻るという意味です。はるかかなたの、歴史の起源を越えて帰るということです。だからといって、韓国人として生まれたので、韓国人に帰るという意味ではありません。私たち人類始祖の根源の世界へと帰るという意味です。すなわち創造主がいらっしゃるならば、その創造主がいらっしゃる所に帰るという意味です。そこから出発したので、そこに帰るのです。

 宇宙も循環作用をします。例えば、山に積もっていた雪が解ければ、その水が小さな谷を通って流れ、さらにはいくつかの川を通って大きい海へと流れていくのです。大海へと流れていったその水は、水蒸気となって再び帰るのです。このように循環運動を通してより高まることのできる所へ、より良い所へと帰ることを願うのです。

 それでは、私たちが行って、永遠に生きなければならない所とはどこでしょうか。私たちは地上界で肉身生活をしていますが、心だけは永遠の世界に向かって進んでいるのです。私たちはこの世に生まれると、十代、二十代、三十代、そして中年と壮年と老年時代を通過します。このように青春時代を過ぎて壮年時代を経、老年の峠を越えつつ、日が沈むように人生を終えていくのです。しかし霊界があるという事実を知っている人々は、地上で肉身をもって生きる一生はわずかなもので、死んだのち、私たちが迎えるべき世界は永遠だということをよく知っているのです。ですから地上での生涯というものは、永遠の世界に行く準備をするための期間なのです。

 学生を例に挙げれば、学生が一学期あるいは一学年を終えるときには、学校が定めたすべての学科の単位を取らなければならないという単位の基準があるのです。その最高基準を百点とするとき、その基準にその学生の単位がどれほど到達したかという割合によって、学校から認められる割合が決まるのです。しかし単位が足りない比率が高ければ高いほど、その学生は学校が立てたその価値基準から遠ざかるのです。

 このようにすべてのものは、ある標準を中心としてその価値を測定するようになっているのです。私たちが一生の間肉身世界で生きるのも、あたかも学生が学校でいい点数を取るために準備する期間のようなものなのです。言い換えれば、私たちの生涯すべてを懸けて単位を取る準備期間だということです。すなわち私たちの一生において責任を追及するある基準の前に、私たちがどれほど一致するかという基準値を中心として、私たちは日々の生涯路程を歩んでいるのです。

 ところがほとんどのこの世の人々は、本来人間がこの世に生まれて生き、求めていくべき本然の世界がどこなのかをはっきりと知らずにいるのです。すなわち死後の世界があるかないか、神様が存在するかしないかも知らずに生きているのです。



 皆さん! 私たちはいずれにせよ、みないつかは霊界に行くようになっています。気づいてみると、その霊界は一つの国です。地上世界でのように、いくつもの国に分かれているのではありません。それでは、霊界で生活する内容はどうなっているのでしょうか。

 例えば、魚は水を離れては生きられません。魚には水が絶対的な生命の条件となります。だからといって、魚も一箇所だけで棲むのではありません。魚の中には産卵のために淡水を離れ、海水と接するきっかけをつくって子供を産ませる場合もあるのです。二つの世界に通じなければならないという意味です。私たちの体と心も、このように互いに通じなければなりません。

 人類歴史を互いに比較して考察してみるとき、もし私たちの先祖のアダムが生まれた日と結婚した日、そして死んだ日を記念する世界的な統一圏が形成されていたならば、その日を記念する人類は、一つの兄弟となり、一つの国民となっていたことでしょう。すなわち、一つの世界で生きる人類になることができていたという意味です。

 そのようになっていたならば、アダムの生活の風俗、習慣はそのまま人類歴史を通じて継承されていたでしょうし、そのとき形成された文化は人類が生存する限り、永遠に継承されていたことでしょう。

 人間は誰しも、いつ死ぬかを知らずに生きています。いつ交通事故に遭って死ぬか分からないというのです。死んでから、「ああ、レバレンド・ムーンの言うことが正しかったのだ!」と言って後悔する人もいるでしょう。私たちは、実はとても深刻な人生の道を歩んでいるということを知らなければなりません。私たちは永遠の世界へ行くための準備をするために、寸暇を惜しんで生きなければなりません。そのような運命の岐路に立っていることを、私たちは知らなければなりません。

 一般的に霊界に行く人には、二種類があります。自分のもって生まれた運命のとおりに生きて行く人と、自分の運命のとおりに生きられずに行く人の二種類です。自分の運命のとおりに生きられずに行く人の中には、罰を受けて早く死ぬ人と、民族や世界の罪を蕩減するために代わりに行く人がいます。

 もし神様が千人の価値をもった一存在を中心的な立場に立てて、すべての人の代わりに死の道を行かせたとすれば、千人がみなその人の恩徳の前に感動し、その人のために生き、その人の生涯を見習ってその人のように生きようとするなら、結局人々はその人と同じ恵沢圏内に入っていくのです。人々が忠臣の思想を見習おうとし、聖賢の生き方に従おうとするのも、彼らと同じ恵沢圏内に入ろうとする欲望のためなのです。

  死と闘って勝利することのできる希望

 人間の中には、希望をもって生きる人もいるし、希望をもたないで生きる人もいます。ところで希望は、人間を中心とした希望と、天を中心とした希望の二種類に大別することができます。

 私たちは生まれたその日から、お母さんの懐が何よりも一番いいものと思って大きくなりますが、ある程度大きくなれば、お母さんの懐を離れます。私たちはまた、成長しつつ友達と付き合い、友達こそこの世で一番いいものと思って過ごしますが、いつかはその友達とも別れていくのです。このように人間は成長しながら、愛する親も愛する夫婦も愛する兄弟も、さらには愛する子供も自分の希望のすべてにはなれないという事実を知るに至るのです。

 人間は、いつも多くのことを希望します。しかし、その希望する心も結局は消えてしまいます。家庭に対する希望、国家に対する希望、さらには世界に対する希望をもっていますが、年齢が多くなるにつれて、希望する心もだんだん弱くなっていくのが事実です。

 事実、多くの人々は自分たちの希望を全体的な希望として誇り、自分の生命を失うようなことがあったとしても、その希望を捨てることができないという確固とした信念をもつことができないのです。



 人間は自分を中心として見るときは、希望をもっているようですが、死の峠を越えることのできる希望をもってはいないのです。私たちが人生の道理として死さえも笑って乗り越えることのできる一つの希望を見つけなければならないのが、今日この地上に生きている人間たちが考えるべき重要な問題なのです。

 皆さん! この世のすべてのことは、みな過ぎ去るのです。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、さらには世界、あるいはいかなる主義や思想もみな過ぎ去るのですが、最後まで残らなければならないものとは何でしょうか。それが正に、死と闘って勝利することのできる希望です。私たちにそのような希望がないとすれば、「私たちは人生の敗北者である」と言わざるを得ないでしょう。

 この世には、生まれながらにしてこの世的なすべての希望一切を拒み、人間の世の希望ではない天の希望、すなわち永遠の希望を抱いて生きる人たちがいます。天は正にこのような人々を助けているのです。ですから信仰生活をする人々は、地上のある希望を抱いて生きるのではなく、死の峠までも乗り越えることのできる希望を抱いて、永遠の希望の世界を夢見て生きなければなりません。

 私たちが若いときには、死についてあまり考えませんが、年を取るほど私たちは死についてだんだん深刻になります。ここに座っている皆さんも、この場に立っているレバレンド・ムーンも、いつかは死ぬようになっています。このように死というものは、宿命の関門です。誰も避けられない道だからです。

  私たちはなぜ死を恐れるのか

 私たちが死んだのちには、果たしてどうなるのでしょうか。死という言葉を使った目的が何であるか知っていますか。生の意味を知らせるためです。生の価値は誰がよく知っていますか。生きようと身もだえする人は分かりません。死ぬ境地に入り、生死の岐路で天にすがり、生の価値を打診したことのある人でなければ分からないのです。



 皆さん! 私たちが死ぬということは、神様の愛の中に生まれることなのに、人間世界では「ああ、死ぬ!」と言って大騒ぎです。それを御覧になる神様は、げらげら笑うでしょうか。それとも「うう!」と言って驚き、悲しむでしょうか。喜び、うれしがるのです。限られた地上の愛の圏内から無制限の愛の圏内へと突入することのできる喜びを迎える瞬間が肉身が死ぬ瞬間、すなわち第二の出生の瞬間であるからです。

 それなら神様は、私たちがこの肉身世界に生まれた日を喜ばれるでしょうか。それとも第二の無限拡大世界の愛のために肉身を脱ぎ、死を通して新しい息子、娘として生まれるその時間をもっと喜ばれるでしょうか。もちろん後者です。私がこのような話をするのは、皆さんが死の恐怖から解脱せずしては、神様と関係を結ぶことができないという事実を知らなければならないからです。

 神様は人間が赤ちゃんとして生まれたときから、おしっこやうんこをしながら成長していく過程を見守り、また直接参与しながら喜ばれるのです。赤ちゃんが成長するにつれて、神様の心に動く愛の鼓動も増大するからです。

 神様があるしぐさをすれば、子供たちも一緒にそのしぐさをします。神様が笑えば子供たちも共に笑い、悲しまれれば共に悲しみながら、このようにだんだん神様に似ていくのです。また子供たちは、成長しつつ親たちの姿に似るのです。言葉も習い、生活規範も親たちから習うのです。もちろんこのすべてのことは、本来神様から由来したものです。それなら神様が私たち人間と共にこの地球星に暮らしたのち、向こうにさっと飛んでいくとき、私たちはどうすべきでしょうか。

 「ああ、私もついていきます」と言えば、「こいつ、お前は誰だ」と言いながら神様が私たちを切り離してしまうでしょうか。それとも一緒に連れていかれるでしょうか。もちろん連れていこうとされます。ところが「今は連れていくことができないので、お前がもう少し大きくなってもう少し完成したのちに連れていく」と言うとき、人間は「私たちも今は行けませんが、いつかは行く時が来るでしょう」と言いながら待つのです。地上で肉身をもって生きる間は、人間は神様にいつもついて回ることはできないのです。

 さあ、それでは何が問題ですか。私たちが神様に似たがり、神様も私たちを神様の息子、娘として御自身に似させたいという願いをもつのは当然のことです。

 それで、人は再び神様に似ることのできる体をもって生まれなければならないという結論が出てくるのです。神様と人間は共に永遠に生まれることのできる日を待ち望むのです。そのように生まれることのできる人に生まれる日、そのような体に生まれる日、その日が正に肉身を脱ぐ、死の日なのです。

 それなら人間は死を歓迎しなければならないでしょうか。それとも悲しまなければならないでしょうか。もちろん歓迎しなければなりません。だとしたら、私たちが死ぬときは何のために死ななければならないでしょうか。神様の真の愛、すなわち「ため」に生きる愛のために死のうとしなければなりません。ですから肉身を脱ぐというのは、無限の神様の愛の活動圏に私たちが同参するためであり、神様の愛の世界のためだという結論になるのです。

 皆さん! 皆さんは一度、そのような真の愛を受けて実践する神様の本当の息子、娘として生まれてみたいと思いませんか。神様がお金持ちなら、どれほどお金持ちでしょうか。皆さん、一度考えてみたことがありますか。

 あの無限の星の中に、ダイヤモンドの星がないと言えるでしょうか。純金でできた星がないでしょうか。神様こそ全知全能なるお方です。御自分の子供たちに、何でも与えようとされないでしょうか。いかがですか。

 神様はこの無限の宇宙を、あっという間に往来することができます。皆さんも関心がありますか。それなら私たちは、どのようにしなければならないでしょうか。神様が定めてくださった法度を守らなければなりません。そうしてこそ神様と共にいられるのであって、私たちの勝手にしてはできないのです。

 皆さん、神様が「するな、しろ!」と言われることを守ることができる自信がありますか。人間は二重構造になっています。心が主体で体は対象なので、心が体に従って一つになるのではなく、体が心に従って一つにならなければなりません。

  水中、地上、天上の三時代を通過しなければ

 人はまた三段階の世界、蘇生時代、長成時代、完成時代を通過します。すなわち、お母さんの腹中での水中時代、地球星の世界、天上の空中世界をいいます。私たちは腹中時代を経て地上に生まれ、肉身をもって百年ほど地の時代を経るようになり、最終的には飛んでいく空中時代、このように三時代を通過するようになるという意味です。

 私たちがお母さんの腹中にいるときは、外の世界に出ていくまいと抵抗します。その中にずっと残ろうとじたばたします。なぜなら私たちが腹中を飛び出るときは、家がみな破壊され、私たちが食べて生きていた栄養の価値とすべてのものが崩壊し、分娩過程を通過しながら頭も伸びなければならず、体も伸びなければならないからです。それを誰が好むでしょうか。生まれるその瞬間までみな「ノー!」と言うのです。子供は、羊水がどっと出てくるその水に従って出てくれば、安産になるのです。

 お母さんたちが赤ちゃんを分娩するのを見れば、本当にかわいそうです。赤ちゃんを産んだことのあるお母さんたちは、みな知っています。力を入れる時は、顔がいくら美人でも、すごい形相で顔をしかめるので、夫さえもその顔を見ていられず逃げていくほどです。いかつい、あばた顔になってしまうのです。このように、産婦も最後の瞬間まで大変な苦痛を通過したのちに子供が産まれてくるのです。

 ところで、この過程でおへそについているへその緒は、そのままにしておかなければなりませんか。それとも無慈悲に切ってしまわなければなりませんか。「それは人の命綱なのに、人と人の命綱をどうして切ってしまいますか」と抗議する人がいるかもしれません。

 産まれてくる赤ちゃんも死にそうだと、あんあんと泣きじゃくります。しかしそれを見つめる神様は、喜びのほほえみを隠しきれないのです。そうなると産まれた新しい生命には一つの世界は完全になくなり、新しい一つの世界で「ふうっ! ふうっ!」と息をするようになるのです。

 皆さん! 人は初めに生まれるとき、一番深い水の中で生まれるのです。腹中時代は水中時代です。赤ちゃんがお母さんの胎の中にいるときは、水の中に浮いています。ちょっと考えると、お母さんのおなかの中の時代では息が途切れて、生きるのが大変なように感じられます。

 水の中で生きているので当然、水を飲んでは吐き出さなければならないのではありませんか。そのために腹中の赤ちゃんたちは、ホースをおなかに連結して生きるのです。腹中の子は栄養分をどこを通じて供給されるのでしょうか。おへそを通じてです。へそは腹中の赤ちゃんには口なのです。それで、私たちはおへそを冷遇してはいけません。「おへそよ、お前は昔、苦労したな」と言って触ってあげるのです。おへそをよくなでてあげると健康になります。笑い話ではありません。

 そのように運動をしなさいということです。へその運動を通じて健康になりなさいということです。その例として、いくら寒い部屋で寝たとしても、へそさえよく包んで寝れば下痢になりません。私たちはまた、へそを昔の口だと呼ぶこともできます。ある者は「この愚か者、昔の口がどこにあるか」と言うかもしれませんが、へそが私たちの過去の口であったということは間違いありません。

 このように私たちの呼吸器の役割もしていたへその段階が終われば、次は口です。しきりに上に上がっていくのです。同じ原理で、この地球上で空気を呼吸して生きる肉身についている私たちの霊人体は、お母さんの腹中の胎児のように、肉身を使って食べ、肉身が老いてしまえば、それを捨てて外に出ようとするのです。

 ところがその時に、肉身が「ああ、死にたくない、死にたくない」と言って悲鳴をあげるなら、神様はその姿をどのように御覧になるでしょうか。苦痛に直面したその肉身に同情されるでしょうか。あるいは静かにほほえまれるでしょうか。

 大変な苦痛を甘受し、お母さんの腹中を飛び出してきた赤ちゃんが成長して、お父さん、お母さんの愛の対象になるように、私たちは肉身の悲鳴をあとにして新たに生まれ、霊的父である永遠の神様の相対として再び生まれなければならないというのが、原理的な結論です。

 地上世界でも子供が生まれたのちに大きくなれば、お母さん、お父さんの友達になり得るのです。お母さんとお父さんの愛を共に分かち合うことのできる地上世界に生まれるからです。赤ちゃんが母胎の中で泳ぎ回るのと同じように、人間の地上生活は空気を吸い、空気のふろしきの中で生きるようになるのです。そのような過程を経ながら地上でこのようにお母さん、お父さんと愛を分かち、呼吸する人であってこそ、「死なないで生きている」と言えるのです。同じように私たちは、霊的無限の世界に通じることができる親の代わりに、神様と愛を分かち合うことのできる霊界へ再び生まれなければならないのです。

 それでは霊界は、どんな所でしょうか。私たちが霊界に入れば、頭の上にある気孔と細胞で呼吸するようになります。霊界での空気は、地上の空気ではなく愛です。呼吸を通じて愛の要素を受けるのです。

  私たちが地上ですべきことは何か

 私たちが地上で生きるときも、御飯だけ食べてはいけません。御飯だけ食べて、水だけ飲んで生きるというのは、御飯袋と水袋を満たすだけのことです。結局、そうして死んでいくということです。地上で生きる間の私たちの姿は、第二の私たちの存在です。

 私たちがこの期間にすべきことは、新しい愛の人格を形成することです。この地上で私たちが最も必要とするものは愛です。孤児とは何でしょうか。お母さん、お父さんの愛を受けられない子供たちをどうして孤児と呼びますか。霊界と永遠に連結させることのできる愛がないからです。愛がなければ孤独なのです。それで独身で生きる人をかわいそうだというのです。

 もう一度お話ししますが、私たちが死ぬということは、第二の呼吸をしていた肉体に連結されたこの器官を壊してしまって、愛の要素を受け継ぐのです。ですから私たちは、いずれにせよ肉身を破って出ていかなければなりません。

 愛は見えないものです。父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛、このすべての愛を中心として私たちの内的な構造が成長するのです。

 それで私たちが神様の法則のとおりに生きるときにのみ、赤ちゃんがお母さんの腹中で正常に育つのと同じように、私たちがこの地でもよく成長できるのです。ですから、むやみに生きてはならないのです。

 私たちが自然界を調べてみると、取るに足らない昆虫、実の中の木の種、そして鳥までも飛ぶことができるのに、ましてや万物の霊長たる人間が飛べなくてどうしますか。たんぽぽの種を見てください。風が吹くと自然に飛ぶようになっています。

 このように鳥も飛び、昆虫も飛び、植物の種も飛ぶのを見れば、人間も明らかに飛べるように創造されたに違いありません。ある者は性急に神様に「神様、ほかのものたちはみな飛んで回るのに、どうして私たちは飛べないように造りましたか」と抗議したがるでしょう。しかし神様は「お前たちは数十年待って完成すれば、飛べるようにしてやる」と答えられるでしょう。

  地上で愛する訓練をしなければ

 それではその時まで私たちは何をしなければなりませんか。その時になって、その世界に適応できるように、私たち自身を訓練しなければなりません。父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子供を愛しながら、この地上世界で訓練をしなければなりません。そうして時が来れば、永遠の世界へ入り、永遠に神様に侍って生きるようになるのです。そのためには、いつかはこの肉身を脱いで死んでこそ可能なのです。

 私たちがせみの一生を調べてみれば、せみも飛ぶようになる前に、幼虫の段階を経ます。ところでそのせみが「ぼくは幼虫のまま暮らしたい。殻を脱ぐのは嫌だ。ああ、陸地も空気も何もかもみんな嫌いだ」と言って反抗したとしても、いざ殻を脱いでみると、びゅーんと飛ぶようになるのです。

 とんぼも同じです。初めは幼虫になって水の中で泳いで暮らし、地上に上がってきて、しばしはい回り、その次は殻を脱いでぱたぱた飛び回り、陸地では食べるようになるとは想像もしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台にして飛び回るのです。このように昆虫類の中には、三段階の世界を経るものが多いのです。

 それで昆虫には翼があります。水と陸地と空中の三時代を過ごしながら翼をもつようになります。万物の霊長という私たち人間に翼がありますか。地上でのみ生きていいでしょうか。人間には次元の高い翼があるのです。皆さんも肉身を脱いで死ぬのは嫌だと言うでしょうが、いざ死んで肉身を脱げば、私たちは霊人体として第二の出生の恵みの関門を通過するために、ひゅーっと飛んでいくのです。

 前にもお話ししたように、人間はどうせ死にます。私たちは、善なる自己を永遠の世界に第二の私として立てるために、苦労を覚悟しなければなりません。お母さんの腹中で胎教をよく受けてこそ、健康で善なる赤ちゃんとして生まれるのと同じように、私たちの地上世界での生活も、よく準備しなければなりません。神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の聖なる神性を見習いつつ、大きくならなければなりません。大きくなってからは、また命を懸けて越えていかなければなりません。したがってどんなに恐ろしい暴風雨がやって来ても、私たちは最後の峠を越えなければなりません。よくやっていても、境界線の前で倒れてはなりません。

 私たちがこのような人生の境界線に立つとき、私たちは果たして何をしなければならないでしょうか。思いをしっかりして頑張っても最後まで行けるかどうか分からないのに、あたふたしていたら、途中で挫折してしまうのです。最後の決勝点まで境界線を突破しなければ、勝利者になれないのです。

 人として生まれ、一度やってみるだけの価値あることです。いくら後ろで反対し、横から迫害したとしても、自分の行く道を行けばいいのです。人が反対するのに関与する余地がありません。一歩ずつでも早く行って、この運命の道を通過していこうという人が、最後の境界線を越えることができるのです。私たちはみな、そのように行かなければなりません。

 私たちはよく「心がまっすぐだ」と言います。それはどんな意味ですか。まっすぐに垂直に立ったものを「まっすぐだ」と言います。木も横に傾いたのを「まっすぐだ」とは言いません。「心がまっすぐだ」というのも同じです。垂直に立っているという意味です。それで人は立って歩くのです。垂直になってこそまっすぐなのです。

 自分の心を完全に垂直になるようにしなければなりません。そこに体が水平線になるのです。このように垂直と水平が私たちの内部で成されるとき、垂直から引っ張る力と水平から押す力がバランスを取り、求心力と遠心力が形成されるのです。

 ですから私たちは、私自身を見つけなければなりません。私たちが自分自身を主張するときは、神様と真の父母にそうだと認定されなければなりません。その土台の上に私たちは親戚、一族、一国、このように発展させていき、私たちの生活環境を拡大していくのです。

 この世で危険な伝染病の患者たちを隔離して収容するように、遠からず神様のみ旨を知っても罪をたくさん犯した人々は、隔離して北極のような寒帯地方に収容する時が来るかもしれません。彼らは完全に悔い改めて改悛するその日まで、そのような所にほうり出して、食べ物も寝る所もなく、大変な苦痛の道を歩むかもしれません。

  天の希望を抱いて生きる人とはどんな人か

 皆さん! 私は恨めしいことが一つあります。神様が御自身のみ旨を成就する責任を私に下さったので、私が生きている間に神様が満足される水準までみ旨を成就しなければならないということです。

 そうするまでは、死ぬに死にきれないのです。それで私が死地に入っていっても、神様が導かれ引っ張ってくださるのです。私はこのみ旨を成すために、御飯を食べるときも、寝ても覚めても世界と人類のために祈り、努力しています。

 ある特定の国や特定の民族のためには苦労しませんでした。私の目的は世界の救援です。私はその目的のために今まで死を覚悟し、犠牲的に命を捧げて、働いてきました。

 皆さんも世界のために生き、死ななければなりません。世界を救うためなら、愛する妻を抱いて、家庭を抱いて、自分の宗族を抱いて、民族をまるごと抱いて、死ぬこともできなければなりません。

 さて皆さんは将来、ある日死を迎えることになり、死を前にして過ぎし日を回顧するようになるでしょうが、その時どんな一言を残して逝くのかということを考えなければなりません。死の道は、友もいない道です。愛する父母のいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただ一人で行かなければならない道です。

 もう一度行くこともできないし、行って来ることのできない道、一度行けば永遠に帰ることのできない道ですが、この道を行くときに、人間はどんな心をもって行くかが重要です。人間が死に逢着する瞬間、その死を乗り越えることのできる希望がないとするならば、そこでおしまいです。

 今日まで神様のみ旨を支え、神様のみ旨を立ててきた多くの人々は、どのような人々だったかと言えば、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を凛々しく乗り越えた人々でした。そのような人々が天の道を立ててきたという事実を、私たちは歴史を通じてよく知っているのです。

 それでは天の願いを抱いて生きる人は、どんな人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も喜びで越えることのできる人です。そのような人が天の願いを抱いた者だということを知らなければなりません。ですから私たちは死を前にして、この世のすべてのことを恨み、嘆く人にならないで、喜び、天の前に立って、自分の死の価値を誇り得る人にならなければなりません。

  人生の勝敗はいつ決まるのか

 それでは、死んだならどうなるのでしょうか。死ぬ直前までは私のものですが、死んだのちは神様のものになります。それは私たちが堕落した血統を受けたからです。ですから死ぬまでは、私たちの生命すべてはサタン側の因縁を抜けきれないのです。しかし、死んだのちは神様と因縁が結ばれるのです。死なずしては復活できません。一つの時代を過ごさずしては、次の時代を迎えることができないのです。

 「生きんとする者は死に、死なんとするものは生きん」という聖書で言う「死」とは、何を意味するのでしょうか。神様が下さった永遠で真の生命を殺せということではありません。

 サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せということです。それで、み旨のために死のうとする人は生きるということです。この言葉は逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ、復帰ができないのです。これは復帰の正常的な論法です。

 人生の勝敗は、数年の期間を通して決定されるのではありません。それは一瞬間に決まるのです。私たちの一生を通して見ても、皆さんが生まれるその瞬間は、長い期間ではありません。

 もちろん生まれるまでの腹中の時期がありますが、その腹中の十カ月という期間は、出生する一瞬間のための期間なのです。ところがいくらよく準備したとしても、決定的な一瞬間をうまく越えられなければ、生まれるその赤ちゃんは悲運の運命を迎えることになるのです。

 この地上に来て、運命の瞬間を迎える最期の場で、過去を悔い改める人がいるとすれば、その人の心には過去のすべての事実が映像として映し出されるでしょう。その中で「真があり、自分の生命よりも貴い何かを残した」人がいるとすれば、彼はたとえこの地に来て逝ったとしても、生き甲斐のある一時を楽しむ人になるでしょう。

 しかし、過去のすべてのことを回想してみるとき、頭を振って回想したくない過去をもっているならば、彼は悲惨な人です。過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜が満ち、自分のすべての問題が理想に浸ることができるならば、死の恐怖も彼には慰労の一場面として飾られるでしょう。過去を回想する瞬間が恐怖の瞬間ではなく、ほかの何かを残すなら、彼の過去は死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう。

 そうすることのできる過去をもった人は、必ず民族がついていくことができる因縁をもった人であり、世界万民がついていかざるを得ない因縁を残した人であると見ることができます。

 神様の前に一人で立つことができるかという問題を考えるとき、真と善は自分から始まって自分で終わるのではありません。自分から始まって人に結果を結ばせるか、人によって始まり、人に結果をもたらすことができてこそ、善になり得るのです。

 過去の生活が人のために生きる生活だったならば、死の道でも恐怖がないはずです。人のためにすべてを与え、人のために犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人のために流し、自分の生命も人のために投入し、自分の願いも人のためのものならば、自分の脈拍から流れ出るすべての生命力を寄せ集めて人のために投入するならば、その過去は光輝く過去になるでしょう。

 聖賢が行く道と凡人が行く道は違います。聖賢は歴史と共に生きようとし、世界と共に生きようとし、未来と共に生きようとした人です。しかし凡人は自分によって生きようとし、世界も自分のためにあるようにした人です。

  霊界は真の愛を中心として「ため」に生きるところ

 霊界にも霊界としての世界があり、国があり、氏族があり、家庭があり、個人があります。個人を中心として見るとき、「私はそこで絶対的に必要な存在だ」と言える自主性なしには入れないところが天国です。家庭を中心として見るときも、氏族を中心として見るときも、「やはり私が絶対的に必要だ」と言えるそのような自主性があってこそ行けるところが天国です。

 霊界では地球というものは、ごみつぶのようなものです。霊界は時空を超越した無限の世界です。そして「ある時代にこれこれこういう心情をもって地上に生まれ、生きて死んだ人がいれば、ここに直接現れよ!」と言えば、その人が瞬時に現れます。そのように直感的感覚が現実化される世界です。そこには食料を作る工場もないし、自動車を造る工場もないし、何もありません。

 人間は霊界に入籍するとき、地上生活を証明する証明書をもって行かなければなりません。「私はこのように生きた。このようなことをやった」と言える生涯の証明書です。そのような証明書は自分自身が書くことはできません。初めはサタンが書きます。まずサタンに証明書をもらってから、イエス様の証明書をもらわなければなりません。その次に神様の証明書をもらわなければなりません。この三つの証明書が必要だということを知らなければなりません。

 霊界に行けば霊界は膨大ですが、三段階になっています。誰が最高の位置に上がるかといえば、より人のために人生を生きた人です。しかし、自分のために生きてきた人は反対の位置に立つようになります。自分のために生きた人はみな反対し、人のために生きた人はみな歓迎します。霊界に行けば、自分の親、自分の妻も関係ありません。高いところに行く人はみな、人のために生きた人々です。

 世界のすべての国を回りながら、自分のお母さんと家庭に対する愛を拡大したような心情をもって「ため」に生き、世界の人々をみな悪から救おうとする聖人の心をもった人々が、高いところに行くのです。自分のために生きた人は地獄に行くのであり、人のために生きた人は天国に行くのです。この二つの世界が死から分かれるのです。ですから全体のために生き、より大きいもののために生きよというのです。

 世界のために生き、神様のために生き、人類解放のために生きよというのです。これから互いに「ため」に生きようとする競争が始まるでしょう。天の国では、「ため」に生きる人が高い位置に行くので、その高い人のために私が生きれば、その人に乗ってジャンプできるのです。その人のために生きるのは、神様が創造して相対を造ったのと同じなので、その人の愛の対象圏に立つということです。

 霊界は、真の愛を中心として、ほかの人のために生きるところです。人のために一〇〇パーセント生きる人に対しては「私を踏んで越えていってください!」と言うのです。どんなにアメリカという国が大きくても、アメリカの大統領よりもっとその国の国民のために生きる人がいれば、その人が大統領を踏んで超えていっても、みな歓迎するのです。

 しかし自分の利益だけを得ようとするときは、みな怨讐になるのです。霊界でも同じです。より大きなことのために生きようとするときは、自然に通過するのです。より大きなことのために生きれば、自然に通じるのです。ですから世界のために生きる人は、アメリカのために生きなくてもいいのです。世界の中にアメリカが含まれるのです。すべての国がみな含まれるのです。

 みんなが歓迎することのできるその方向の内容とは、真の愛を中心として「ため」に行く愛の道以外にないという結論が出てくるのです。死ぬときにもっていくべきものは、神様を愛し、自分を愛し、本質的人間としての自分を立てるために苦労し、自分と相対との夫婦の愛、家庭の愛を中心として、この愛を世界に拡大するために努力したものです。

 人類を愛し、神様を愛したことが、最後に残り、あの世の所有権決定の基準となるのです。霊界に行けば、伝道した人の数によって皆さんの霊界の所有権が決められるということを知らなければなりません。霊界に行って誇るものとは何かといえば、どれほど人を慕って生きたかということです。

 あの世で必要なものは、ほかのものではありません。世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子、娘よりも、神様をもっと愛したことです。妻が話すとき「あなたは私より神様をもっと愛して私を愛してください」と言ってこそ、夫からより高い次元の神様的愛を受けられるのです。

  心情圏の世界は愛が普遍化できる世界

 今日レバレンド・ムーンは心情圏ということを説いていますが、心情圏の基地とは、神様を中心とした真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛、そして真の子女の愛というものです。そのような愛が普遍化できる世界が心情圏の世界です。

 そのような本然の世界においては、愛する夫婦の愛の基準を中心として生きたとしても、天と地、天宙を中心とした夫婦の愛でなければなりません。ですから、その世界に合格することのできる愛の基盤をどこで築くのでしょうか。レバレンド・ムーンは、この世でそれを築いて行かなければならないと教えているのです。この世で貴いというそのいかなるものとも違って、心情圏世界の合格者になれるようにです。

 ですから、霊界には家庭を連れて入らなければならない原則があるのです。どうして息子、娘がなければなりませんか。後孫とは本来、縦的な神様の愛と横的な父母の愛、神様と父母の血が縦横に混ざって生まれたものです。したがって後孫をもてなかった人は、霊界に行って天地の調和を成すことができず、東西南北に拍子を合わせられないのです。後孫をもてなければ、あの世に行っても遊び、休むことのできる場所がないのです。

  世界宗教国連創設を主唱する

 皆さん、霊界では宗教や宗派は必要ありません。そこに行って長老派だカトリックだのというのは必要ありません。神様との生活圏内に入るのです。あの世に行けば、世界を愛した人もいるし、愛国者、忠臣、烈女、聖人たちがみないるでしょう。しかしレバレンド・ムーンが知る限りでは、今までは神様の本然の愛の中で心情圏の伝統を中心として生きた人は一人も行っていないのです。

 あることを出発させるときは、神様を中心として出発しなければなりません。霊界に行けばそのような原則にどれほど同化し、ここにどれほど一致するかということが、これから地獄から中間霊界、楽園、天国まで、みな連結されるのです。

 何が一番貴い道かといえば、天のために地上でどれほど苦痛を受け、どれほど涙を流したかということです。それがあの世においてパスするチケットです。あの世に行けば、他の国の人同士は一緒にいられませんが、すべての宗教圏は一緒にとどまることができるのです。

 宗教圏は、一つの世界を願って歩み、一つの神を信じて行くので一緒にとどまることができるのです。宗教を信じる人々がこの世の人々と違うこととは何かといえば、彼らは一生の間霊界を標準として生活するという点です。宗教というものは、永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様なら神様がいらっしゃるところと神様が住んでいらっしゃるところを中心として、私たちが関係を結ぶことのできる内容を教えてくれるのです。

 世界の各宗教を代表して、きょうこの場に参席された皆さんに、私がこれまでお話ししたとおり、人間の生死の問題を中心とした生の価値を集中して取り上げたのは、他意があってのことではありません。生と死に対する正しい教えを与えるのは、私たち宗教指導者たちの責任であることを強調するためです。

 今日、この世界の政治指導者たちは、国連を通じた世界平和と人類の繁栄を追求しています。しかし私の判断では、政治、経済、軍事的側面を中心とした国連の機能だけでは、世界平和の道は不完全だというのです。政治、経済、軍事的手段は、外的、肉的、物質的側面にすぎません。ですからより内的、霊的、精神的な側面は、宗教的教えと世界すべての宗教の連合と一致した行動を通じてこそ可能なのです。

 私は、きょうこの場を借りて、これまでの国連に世界の主要宗教とその指導者たちが参与する世界宗教国連機構が創設されなければならないことを主唱するものです。

 世界と人類の未来のために、きょうこの時点で世界宗教国連創設とその役割の重要性について、これから皆さんと世界のすべての国々が、さらに深く論議してくださることをお願いするものです。ありがとうございました。




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Last updated  2023.07.12 18:44:20
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