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人間の行くべき生涯路程

この講演文は、1999年1月17日から25日まで、韓国の8都市で開催された真の家庭世界化大会で語られたみ言です。


 高名なる紳士淑女の皆様、きょう「人間の行くべき生涯路程」という主題で進められるこの大会に、御来場をいただき、心より感謝申し上げます。

 今、全世界は大混乱の中で呻吟しています。個人では心身の紛争、家庭では青少年の淪落と家庭破綻、国家と世界の間に不信と戦争が絶え間なく続いています。ところで、この諸般の問題の解決は神人愛一体理想を知ることによって克服することができます。

  神様が人間を創造した目的

 人間はなぜ生まれたのかという問題は、人類が歴史的に追究してきた根本的問題です。ある人は自分の国のために生まれたと考え、ある人は自分の父母のために生まれたと考えます。あるいは自分自身のために生まれたと考え、信仰者たちは神様のために生まれたとも考えるのです。

 しかし、神様が宇宙を創造なさった目的が人間だけのためであるとか、神様御自身だけのためであるという論理は成立し難いのです。人間が造られる過程に連結された様々な目的、すなわち神様が人間を創造なさった目的や天使が人間創造に協助した目的、万物が人間に投入された目的、そして人間が生まれたこと自体の目的などが、互いに違ってはならないのです。

 全体がみな喜ばなければなりません。人間創造に関連した神様も喜び、天使も喜び、万物も喜び、そして人間自体も喜ぶことのできるそういう共通の内容でなければなりません。

 それはもてばもつほどうれしく、一度もてば永遠に手放したくない、そのような何かなのです。それは外的な内容ではなく極めて内的なものであり、目に見えないものなのです。知識やお金や権力のようなものは、人間が生きていくのに必要な付帯条件であるだけです。そのようなものはすべて人間のためにあるものなので、人間には当然そのようなものを所有する権限があるのであって、そのようなものを所有するために生まれたとは考えることができないのです。そのようなものはみな流れていくものです。そのようなものは自分と一時的な相対関係を結ぶことはできるかもしれませんが、永遠の相対関係を結ぶことはできないのです。

 さらに神様はお金が必要なのではありません。全能であられる方なので、お金はいくらでもつくることができます。神様は万物を造るとき、原理原則を通して造ったがゆえに知識の根本でもあられます。そして神様御自身は創造主として権力の主体であられるがゆえに、権力が必要でもありません。



 このように見るとき、それは真の愛しかないのです。人間は愛で生まれ、愛の道を行かなければなりません。そして死ぬときも愛のために死ななければなりません。したがって私たちの人生を見るとき、生命より愛がもっと貴いのです。そして、それだけでなく、愛が生命よりも先なのです。したがって愛のためには生命まで喜んで捧げるのです。

 愛は永遠なのです。小説や詩のような文学作品を見てもすべて「不変の愛」「永遠なる私のあなた」という表現が多く見られます。これは、私たちが瞬間的な愛、限られた時間内の愛を願うのではなく、永遠な愛を願うということなのです。

 愛は神様も微動だにできなくさせる権威をもっています。神様も愛には弱いというのです。全能なる神様も人間の愛の香りをかぐならば、満面に笑みを浮かべられるのです。神様も愛の話が好きなのです。話だけでも好きなのに実際に愛すればどれほど喜ばれるでしょうか。

 私たちの体の様々な器官も、愛という一つの目的を中心に生まれました。目は見るために生まれましたが、どのようなものを見るためかというと、共同のテーマである愛を探すために生まれたのです。鼻も臭いをかぐために生まれましたが、臭いの中でも愛の香りをかぐために生まれたのです。耳も愛の声を聞くために生まれました。私たちが聞く言葉の中でいくら聞いても嫌気がせず、好きな言葉は「愛している」という言葉です。これは若者も老人も同じなのです。

  真の愛は宇宙創造の起源

 したがって、あらゆる存在が互いにみな喜ぶことのできるテーマは、愛以外にはないというのです。その愛とは、大宇宙が歓迎することのできる真の愛です。神様も、天使世界も、万物も、そしてすべての人が公認できる、そのような愛なのです。愛というふろしきを持ってきてかぶせておけば、みなその中から抜け出そうとはしません。このような点から見るとき、宇宙創造の起源や生命の発源地とは、正に真の愛なのです。

 人間が宇宙を愛する境地に入れば、宇宙のすべての門が開くことを経験することができます。また、自分が今この空間に極めて小さなものとして存在しているとしても、愛を中心としては極めて大きな存在と共同的で共通的な、そして同等かつ対等な相対的権限をもつようになります。その極めて大きな存在が絶対的な神様ならば、私は愛の権威によってその絶対的な神様の相対的な立場に上がることができるのです。

 神様の属性が愛であるからです。したがって神様の愛の公約を立てておいて、その公約の中に存在するようになれば、宇宙のどこに行こうと自由なのです。神様の愛に酔えば、砂粒一つを千年見つめても飽きないのです。自分の手を見つめれば、自分の手から光が出ることが分かります。夜、一人で横たわっていると、暗い夜にもかかわらず、自分が黄金の板に横たわって黄金の光を発して寝ていると感じるようになります。夢のような話です。そのようになれば丘に上がっても万物が喚声をもって歓迎するのを感じることができます。皆さんもこのような経験をしたことがありますか。

 私たちが、自分が愛の宇宙の中に生まれたと考えれば、無限に幸福に感じられるだけでなく、世の中に「我を見よ」と自慢するほどなのです。神様が実験室で研究している途中に最も理想的で、爆発的な発見があったとすれば、それは正に自分だったというのです。このような観点から、神様の愛の相対的立場として造られた自分自身を破綻させることは、罪の中の罪であり、これを愛して保護することは善の中の善であるという結論が出てくるのです。それゆえに自殺することは最も大きな罪になります。宇宙を破綻させる行動です。

 監獄に入って、拷問で血を吐くことになったとしても、神様が抱いてくださる愛のみ手を感じれば、それがかえって神様が骨髄に染みる愛で抱くことのできる一つの条件になるのです。このように考えるとき、死ぬような環境も幸福な立場だと考えていくことができるのです。

 このようなことを考えるとき、男性も女性も愛の力の中にいる人は強い人なのです。国や世界を与えても変化させることができないのです。そのような人の前にはサタンも屈服せざるを得ない驚くべき結果が現れます。したがってこの宇宙愛を中心として神様が人間を代表して呼ばれるとするなら、その方が正にメシヤです。イエス様がその代表者なのです。メシヤを通さなくては宇宙愛を見いだすことができないのです。ですから、万民はそのあとについていかなければならないという論理が成立するのです。

 イエス様が「私は道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言われましたが、ここに愛という言葉を一つ加えなければなりません。「わたしは道であり、真理であり、命であり、愛である。誰でもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言ってこそ、論理がもっとはっきりするのです。

  私は父母の生命、愛、理想の結実体



 統一教会の原理では主体と対象が一つになるところから力が出てくるといいます。したがって原因である両親が自分と一つになれば、主体と対象が一つになって、一体となったがゆえに新しい対象となり、より大きな主体と一つになることができます。神様がその主体ならば、その神様と一つになるのです。すなわち神様の理想的な愛を中心として神様と完全な主体対象関係を成すならば、神様と人間は完全に一つになるのです。神様と人間の愛の圏が成されれば、宇宙にはいつも明るい太陽のような愛の光が発せられるのです。

 自分はお父さんとお母さんの二つの生命が一つに結合した生命の連結体であるだけでなく、父母の愛の同参者として父母の愛と一体です。さらには自分は父母の理想とも一体です。理想には幸福や平和というものがすべて入ります。父母にとって、自分が世の中で成功したときの喜びが大きいとしても、なくした子供に出会ったときの喜びとは比較にならないのです。ですから子供は父母の最高の理想と一体だというのです。

 自分にはお父さん、お母さんの生命の綱、愛の綱、そして理想の綱が連結されているので、この綱は誰も切ることができないというのです。神様も切ることができず、宇宙も切ることはできません。むしろ宇宙のすべての力がそれを擁護しようとするのです。

 したがって私がどこに行っても、お父さん、お母さんがついてくるようになります。あの霊界にまでもお父さん、お母さんはいつも共にいようとするのです。ですからお父さん、お母さんが同行することを嫌うのは最も大きな罪です。この宇宙を破綻させる破壊行為なのです。父母を連れていくことを嫌うのは、既にその人が原則から離れて堕落していくということを意味します。

 したがって父母を自分の体のように思って愛し、父母に孝行することが人間において最高に価値あることです。「円満な家庭に福が来る」という言葉も、みなそこから来るのです。反面、父母が離婚することは刀で子供を半分に切ることと同じです。それは宇宙の公法が許しません。これに逆らう父母はどこに行っても災いを受け、不幸がついて回るのであって、幸福になることはできないのです。

  物質世界、父母、神様は三大父母



 愛の理想の立場ですべての細胞が楽に生きられるようになっています。もし腹を立てれば、みなこじれてしまいます。次に、自分の体を生んでくれた父母が二番目の父母です。自分を生んでくれた父母が、自分をして一つの形態を備えて生まれてくることができるようにしました。しかし、この父母はどんなに頑張っても愛の主人になることはできません。自分の生命の主人にはなれますが、愛の主人にはなれないのです。

 愛の主人は神様です。愛を宇宙化させて、愛を永遠化させるために神様がいらっしゃるのです。神様は愛の主体であられるので、愛を中心として父母になっています。ですから、神様が私たちの第三の父母です。このように私たちは三大父母をもっているのです。

  人生が経る三時代の意味

 私たち人間の一生を見てみると、腹中時代十カ月、肉身時代百年、そして霊魂時代千年万年を永遠に生きていきます。私たちの顔を見れば目、鼻、口の三段階になっていますが、これは人間が生きてゆく三時代の姿を見せているのです。口は物質世界の腹中時代を象徴し、鼻は人の世界の地上時代を、目は霊界の天上時代を表します。

 赤ん坊が育つお母さんのおなかの羊水の中は、赤ん坊には正に自由天地です。お母さんのおなかの中ではいつも背中を曲げていなければならず、また勝手に足げりもできず、鼻も口もみなふさがっているのですが、ここは赤ん坊には自由天地だというのです。赤ん坊に必要なすべてを供給するパイプがへそについていて、へそでだけ息をしなければなりませんが、そのような世界が赤ん坊には自由天地なのです。

 赤ん坊がおなかの中から生まれるとき、「私は世の中に出て、口で蜂蜜も食べて、餅も食べて、御飯も食べる」と考えて生まれますか。むしろ、その腹の中から外に出るかと思って「ああ、出なければいい」と言うのです。しかし「出たくない」と言っても、時が来ればみなはじけて出るようになるのです。水(羊水)が流れ出れば、それに従って外に出るようになりますが、このようにして生まれるのが安産です。

 赤ん坊は生まれるや否や、泣くと同時に鼻の穴で息をするようになり、第二世界、すなわち空気世界に連結されます。

 おなかの中から空気世界に連結されて出てくるときには、腹中世界で暮らしたへその緒と羊水の袋をみな破壊して出てこなければなりません。それらの死(破壊)と同時に地球星のお母さんの所に生まれるのです。生まれて口で食べて鼻で息をするのです。ところが地上で食べる食べ物は肉身が生きるのに必要な栄養分であり、本質的な生命要素ではありません。生命要素は、正に愛です。したがって、この世の中で愛という空気を吸わなければなりません。お母さんから、お父さんから、愛の空気を吸わなければなりません。

 赤ん坊が生まれるとお母さんの愛の電波に沿って自動的に乳首を探しにいきます。醜女でも美女でも関係なく、お母さんであればいいのです。これこそ創造の妙味であり、神聖で偉大な姿なのです。人は愛で生まれ、愛を受けながら成長します。このような立場で見るとき「私」というものは、父母の愛の実なのです。お父さん、お母さんの愛がどうだということを実際の実として見せたのが自分なのです。愛の実であるがゆえに、父母は「私」を愛さなければなりません。

 その実を通して無限な愛がまた実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的な神様の愛まで連結することのできる道がここにあるというのです。

 出生したのち、肉身時代には自分を生んでくれた父母が子育てを受け持って正しい人に育てるのです。世界と国と家庭を代表し、父母がすべてを教えて供給してくれます。私たちが父母から物質を供給され、教育され、個体として完成すれば、愛を中心とした横的な基盤に連結させなければなりません。それが結婚というものです。

 父母は結婚するまで責任をもつのです。結婚してお父さん、お母さんが愛し合ったものを引き継ぐのです。父母が自分を生んでどれほど愛したかを、自分が結婚して子供を生んで育ててみることによって知るようになり、その愛を引き継ぐのです。そうすることによって自分は愛を完全に受けることができ、与えることができる人になるのです。そのようにして完全な一人の男性、女性として成熟するのです。

 父母の縦的な愛で生まれて成熟し、横的に愛するようになって初めて、総合的な愛の圏を見いだすことができるのです。天地は球形世界であるがゆえに、縦横と上下、左右、前後の愛が連結されてこそ、それが授受して回り、すべてが総合されて一つの調和のセンターとして現れるのです。したがって天地の縦的愛が内外に軸としてしっかりと立てば、その次に横的な愛が必要なので思春期というものがあるのです。

 思春期には、ただ秋風に落ち葉がころころ転がるのを見るだけでもいいと言うのです。乞食が訪ねてきて物乞いの歌を歌っても、思春期には「あ! また来た。またやってるな」と言って歓迎します。そのように四方に拡大されるのです。ですから、おとなしくしていた女性たちも髪の手入れや化粧をし、しきりに体に何かを塗るようになります。欲深くなるのです。それが愛の横的な現象なのです。

  家庭を中心として人生が行くべき真の愛の道

 したがって人生行路は旅のような道ですが、ここで備えるべきことは縦横の愛を体恤していくことです。真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛、真の息子、娘の愛を中心とした家庭を築いたのち、これを横的に拡大し、東西南北に多くの家庭を広げておかなければなりません。

 そして彼らが縦横を連結させることのできる真の家庭の形態を成し、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏でもって神様と連結されるようになるとき、真の愛で連結されたその世界を天国というのです。

 夫婦が愛するということは、神様を植えることです。本来父母は本然の神様の立場を代表し、ここで夫と妻は互いに他の一方の神様になります。そして息子、娘はまた一つの小さな神様です。神様は真の愛の本体であられるので、真の愛と連結されればみな同じ体になります。父母は神様の身代わりの生きている神様であり、夫婦も神様を身代わりし、子女も神様を身代わりするのです。このように三代が真の愛を中心として神様の立場を身代わりするのです。

 それゆえに父母も、夫婦も、そして子女も真の愛を必要とするのです。このように真の愛を中心になされた家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を成さずには、天国が実現しません。これが公式です。家庭とは、すべての宇宙の現実世界の中心です。今日、人々は自分の家庭が国と世界と宇宙を代表した家庭であることを知らずにいます。中心としての家庭であるということを知らずにいるのです。ですから家庭を破綻させることは、国と、世界と、宇宙に対する反抗になります。

 家庭完成は宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。この場合、神様は宇宙全体の父母として愛の複合的な中心の立場にいらっしゃいます。

 真の愛を中心として男性と女性が一つになって理想的な夫婦となり家庭を築けば、彼らは神様を身代わりする立場に立つようになり、宇宙のすべてに連結されます。そうなるとき、神様のすべてが自分のものになるのです。どれほど幸福な立場でしょうか。ですから私たちは万物を征服したい気持ちになるのです。

 男性と女性が合わさって家庭と社会と国家、そして世界を築くがゆえに、男女が中心になって築いた家庭は氏族のモデルにならなければならず、氏族は国家のモデルにならなければならないのです。私たちの家庭が行くべき道とは、理想的な家庭と氏族と国を復帰していくことです。したがって理想的な国が出てくるためには理想的な家庭がなくてはなりません。

  三時代の人生において絶対必要なものは真の愛

 尊敬する御来場の皆様! 真の愛が偉大な理由は真の愛で神様の対象になることができるし、神様も自分自身になることができるからです。聖書にも「神様が自分の中にあり、イエスが自分の中にある」という内容があります。父が息子の中に、孫がおじいさんの中に、おじいさんが孫の中にあるという言葉はここから生じた言葉だと考えます。

 おばあさん、おじいさんは孫を中心として情を結ばなければなりません。それでこそ、愛の垂直線が始まるのです。また、孫はおばあさん、おじいさんと一つになるべきです。おじいさん、おばあさんは神様と同じ立場であるので、神様のように侍らなければなりません。そうでなければ縦的な愛の軸を探すことができません。これを立てたのちに、横が生じるのです。横的なものは四方に連結されますが、縦的なものはただ一つの方向です。横的なものは東西南北、三六〇度に動くことができますが、縦的なものは一つの点で動くことができず、分離することもできないのです。

 ですから愛を中心として、まず体と心を一つにしなければなりません。そして神様を中心とした縦的な世界である霊界を愛することができなければなりません。そして未来に中心国家が現れれば、その国を中心として全世界の人類を愛さなければなりません。したがって真の愛を中心として犠牲、奉仕、献身の道を通じ、霊界と全世界の人類を愛する生活を送れば、人間は自動的に中心的存在になって二つの世界を主管し、一つの世界をつくることができます。そうすれば、神様もそこに臨在なさるようになるのです。

 全霊界と全宇宙が合わさったものを天宙と言いますが、すべての霊界と宇宙は真の愛を中心として、この天宙が一つに統一されることを願います。天宙を統一することができるのも、全体の家庭を理想化させて一つにすることができるのも真の愛です。それで今日、人間が地上に暮らしても、永遠の生活をする霊界に入っても、絶対に必要なものは真の愛しかないという結論が出てきます。

 真の愛は人間や霊界だけでなく、すべてが好むことです。ですから真の愛をもった人は動物も植物も好んで、彼を主人として迎えようとし、いかなる存在でも真の愛を中心とした人と一つになろうとするのです。被造世界のあらゆる存在は真の愛をもって生きる男性、女性の前に近づこうとして彼と共に生き、彼により主管されることを理想とするのです。

 したがってこの世の中で一番貴いものとは、真の愛をもった男性と女性、すなわち真の人という結論が出てくるのです。人間には翼がないので、どんな昆虫や鳥よりももっと遠くに飛び、どんな飛行機よりももっと速く地球を回るためには、実体の肉身ではできません。どんなに飛んでもいくらも行くことができないのです。

 人は万物の霊長として神様と対等な相対的立場にあります。ですから、一秒間に三十万キロメートルを走る電気や光よりもっと速い作用ができなければなりません。それを可能にするものが霊人体です。今、私がソウルにいても、霊人体はさっとニューヨークに行ってくることができるというのです。稲妻よりも速いのです。このように思いとともに歩調を合わせて作用できるのが霊人体です。

 しかし、世の中で一番速い作用とは愛の作用です。世の中で一番速度が速いのは電波ではありません。世の中で一番速く、高く飛ぶことができる力をもったものが愛です。この地の果てとあの地の果てにいる人間同士で愛し合うようになれば、その地の果てを越えて引っ張り合うのです。愛はそういう力をもっているのです。真の愛を体験した人は、神様の本来の理想的な世界では神様が願うことすべてを即刻所有できる能力と権限をもちます。

 そして、そのような資格は地上で成し遂げなければなりません。霊人体を中心として肉身が一つになる過程で、神様の愛の接続点がなされてこそ、そのような立場に進むことができるからです。神様の真の愛は同胞を愛するとか、世界の人を愛するとか、万物を愛することによって感じることができます。どの国の人でも五色人種を愛する心をもたなければならないのです。人だけでなくて微々たるものまでも愛することができる、そのような心をもたなければなりません。自動的にそれがわき出てこなければならないのです。

 花が咲けば、その美しい色や香りは自然に出るのです。同様に、愛の花が咲かなければならず、愛の香りが自動的に宿らなければならないのです。そうするには、その愛の花を咲かせることのできる栄養素を受けなければなりません。植物が地と太陽から栄養素を受けるのと同様に、私たちも肉身と霊人体を通じて栄養素を受けるのです。それで、肉身を通じて生力要素を受け、その次には霊人体を通じて生霊要素を受けるのです。

 そうすることによって自分が愛の完備体になって、どこでも飛んでいくことができます。そのようになれば、太陽系やすべての大宇宙世界は、全部自分の活動舞台になるのです。

  霊界は愛を中心とした世界

 人間が肉身生活を終えたのちには、第二の出生をするのです。これが死です。第二の出生をする所、死んで行く世界が正に霊界です。その世界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表した愛が供給されるのです。理想的な愛が供給されるというのです。ですから、霊界では統一されざるを得ません。

 死ぬ瞬間からは第二の空気世界をけ飛ばして、新しい第三の愛の呼吸気管に連結されなければなりません。父母の愛、兄弟の愛をけ飛ばして霊界に入って、結局は大宇宙の神様の本体に化した愛の世界に入ります。種が本体から出てきたので、結果を結んで、また本体に戻らなければならないのです。

 霊界は愛の空気でできている世界です。愛の空気でいっぱいです。ですから私たちはこの地上世界から愛の息をすることができるもう一つのパイプ装置をしかなければなりません。そして霊界を体験し、霊的な愛を感じて呼吸できる人になってこそ、霊界で死なないというのです。

 霊界は愛を呼吸し、愛を中心として暮らす世界です。したがって完全な愛の人格を成し遂げることができなければ、行ったり来たりする道が制限され、四方に通じません。門を通ったとしても一つの門だけを通らなければならないのと同じです。

 春夏秋冬、いつでもどこでも合わせて暮らすことのできる資格を備えようとするなら、完全な愛の人格を具備しなければなりません。ですから三時代を経るように人間を造ったのです。

 とんぼも幼虫が水の中で泳ぎ回り、地上に上がってきてしばらくはい回ります。その次にはひらひらと飛び回り、陸地で食べるだろうとは思いもしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台として飛び回るのです。このように昆虫類の中では翼があって三段階世界を経るものが多いのです。

 昆虫もこのように水と陸地での生を経て空中で暮らします。ましてや万物の霊長である私たち人間はもっと次元の高い翼をもっているのです。私たちは神様の代わりに愛で生まれ、愛で生きながら息子、娘を生んで、愛の目的地に到達して永遠に神様と共に生きるために神様の所に帰るのです。すなわち私たちの一生とは、愛で始まって、愛で熟して、愛の実として収められるのです。人が死ぬということは、愛の実を収めることです。

 私たちが父母の愛を受け、夫婦の愛を交わし、子女を愛することによって、内的な愛の世界に蒔かれた神様の愛のすべてを、私が一生をかけて実を結んで収め、あの世に行くのです。したがって私たちが完全に愛で一つになれば、神様に似るようになります。夫婦が合わさってこのような三段階の愛を完全に成して霊界に行くようになれば、永遠の主体である神様の前に、永遠に相対的な神様になるのです。真の愛を中心とした夫婦が死ねば、そのようになるのです。そのように神様で始まって神様で締めくくるのです。

 人間が死ななければならない理由は、体をもっていては制限された愛でしか愛することができないからです。無限大の神様の愛の対象的実権をもって現れようとするなら、制限された肉身だけではできないのです。ですから無形の霊にならざるを得ません。

 さらに、愛の理想を全天地と同一化するためです。ですから、死は苦痛の道ではなく、宇宙的な愛を所有することのできる幸福の門を開門する時間なのです。

 死ぬということは、歩き回る陸地の世界から、ひらひらと飛び回って暮らすことのできる世界に移ることです。

 全宇宙を自分の舞台にして、愛で楽しむことのできる旅行の資格者になり、そのような世界に入門するために死の道を行くのです。ですから、死ぬことは正に新しく生まれることなのです。

 私たちは初めお母さんの胎内にいました。その胎が私たちを育てたふろしきです。そのふろしきの中から出てくるとき、全部け飛ばして破ってしまって生まれるのと同様に、私たちの霊人体に対して肉身はふろしきのようなものなので、これを切ってしまって飛んでいくのです。したがって人間は結局水の世界、陸地の世界、空中の光の世界を経て、永遠なる真の愛の世界で暮らすようになるのです。

 霊界では生命の要素が愛であるので、愛を通じた命令にはすべてに不可能がなく即刻なされます。そこでは億万人が一度に夕食を食べるとしても、そこに合う食べ物を準備して、あっという間に宴会をすることができます。そのとき列席する貴賓たちが、みな王女、王子になりたいというときは、本物の王女、王子になるのです。それが可能なのです。

 皆さん、そのようなことを理解するなら、この地上で暮らしたいですか。あの世に行きたいですか。腹中にいるときは「腹中が一番いい」と言いながら、腹中でただ足でけりながら暮らします。中間に引き出せば嫌だと言うでしょう。そしてお母さんのおなかの中から外に出るときは、死んでから目覚めます。地上での死というものも、死んでから目覚めるのと同じ作用なのです。したがって死とは、正に第二のお産なのです。

  回復すべき神様と人間の本然の関係

 御来場の皆様! 今日、ひと時を生きていく私たちの人生の道というものは平坦な道ではありません。それは人間が堕落したからです。

 私たち人間は堕落の因縁をもって生まれたがゆえに、その堕落によって生じた怨恨の過程をどうせいつかは乗り越えなければならない運命をもって生まれました。数千、数万年の歴史過程を経てもそれを越えなければ、その恨の道は私たちの前に永遠に残るようになるのです。

 エデンの園でアダムとエバが堕落したその瞬間から、私たち人間は不幸の要件をもって出発しました。ですから、人類が幸福の世界に戻るためには、必ず不幸の世界を退けて進まなければなりません。そうでなくては誰も幸福な世界に戻ることができません。人類始祖が堕落したことによって人間だけが不幸になったのではなく、神様までも共に不幸になりました。

 私たち人間が生涯を捧げて生きていく一つの目的は、理想世界の実現だけではありません。それよりまず、生命の根源であられる神様に積もりに積もった悲しみと悲痛さをどのように打開するかということが、私たちの生涯の目的です。したがって人類が幸福な所を訪ねるとき、神様も幸福になるのです。このように神様や人間は同じ立場に立って一つの目的を指向して、歴史過程を経ながら今まで歩んできました。神様はアダムとエバを失うことによって険しい道のうちで最も険しく、世の中の誰も願わない、また行きたがらない道を歩んでこられたのです。人間もやはり堕落で残った、この避けることのできない運命の道を、救いの一日を願ってやって来たのです。

 神様に対して人間は「その方の息子、娘になりたい」ということが最高の願いです。なぜなら、父母と最も近い立場は親子関係であるからです。

 「私」という人は父母の愛と生命が集中したところ、父母の理想を代表した立場に生まれました。ところが愛とか理想とかいう言葉は一人について言う言葉ではありません。生命も一人で独断的に出てくるのではなく、連結された立場で出てくるのです。したがって神様が人をお造りになるとき、神様の愛と生命と理想の対象として造られたのです。これは驚くべき偉大なことです。

 自分がいなければ、父母の愛は現れることができません。父母の愛と生命と理想は自分と共に関係しているのです。自分は父母の愛と生命と理想の結実体です。ですから息子の立場は最高に価値のある立場です。神様と人類は親子の関係であるからです。

 父母と自分が一つのところから共に出発したという事実は驚くべきことです。父母の愛は自分の愛であり、父母の生命は自分の生命であり、父母の理想は自分の理想として決定づけることができるのです。ですから父母は子女を見つめるとき、これは自分の愛する息子、娘だと言います。これは自分の愛と、自分の生命と、自分の理想の実体だということを父母は感じて悟り知っています。愛する息子、娘は一日だけ会わなくても、会いたいし、今見てもまたすぐ見たいというようなものなのです。それはどんなに離そうとしても離すことができない、骨の中の骨であり、肉の中の肉です。いなければ死んでしまうくらい、そこにはすべての理想がかかっているのです。

 今日、堕落によって真なる愛と、真なる生命と、真なる理想をもたない人間世界に生まれた父母も、そのように子供を愛することができるのに、そのような父母の主体であられる神様は、それよりもっと愛するというのです。

 本来堕落前のアダムとエバは神様の直系の息子、娘として神様の血筋を引く者です。アダムとエバは天上天国と地上天国を受け継ぐことのできる王子、王女だったのです。王子、王女であると同時に、無形の神様であられ、主体であられる神様の前に対象として造られた存在であるがゆえに、神様の前に愛を受けることのできる実体であり、無形の神様が実体として顕現したものです。

 神様の息子の特権は、その方は自分のものであり、その方がもっているすべても自分のものだというものです。神様の愛までも、生命までも、理想までも自分のものです。このように驚くべき偉大な本然の価値を、人間は再び回復しなければなりません。

 したがって神様が主体的愛で永生するなら、その愛の相対も永生しなければなりません。神様の愛と一つになれば、神様が自分になるのです。

 堕落していないアダムとエバの体は、神様が住むことのできる家です。アダムとエバが神様を心の中心として真の愛で永遠に統一された愛の体、生命体、血統体になっていたならば、今日私たちの心と体は闘いません。

  人生が行くべき最高の道

 堕落とは悪魔の愛を中心とし、悪魔の生命体と血筋を受け継いだことです。

 偽りの父母から生まれたのです。ですから、この血筋を改造しなければなりません。野生のオリーブの木を真のオリーブの木に改造しなければならないのです。そうするためには接ぎ木をして三代以上経て、そこで結ばれる実が真のオリーブの木になって、本然の基準を身代わりするようになるのです。そのとき、初めて堕落した人間が本然の人間に復帰されるのです。そしてそのとき、救いの摂理の完成がなされるのです。

 このように神様と一致した愛を中心として、善なる父母の息子、娘にするために、神様がこの地上に救世主を真の父母として送るのです。救世主は人類の血統を清め、本然の創造理想を実現するために来られるお方です。

 私たち人間は誰でも最高になりたいし、神様の息子、娘になって、神様の王子、王女として王権を受け継ぐことのできる相続者になりたいという本然の欲望があります。しかし、他の血筋を受け継いだがゆえに、生まれながらも嘆かわしく、生きながらも嘆かわしく、死にながらも嘆かわしいのです。人生は苦海だという言葉がここから出てきたのです。

 ですから自分の体と心の闘いをどのように中止させ、一つに統一させるかという問題が重要です。自分の体と心を一つにできなければ、南北統一も、世界統一も、そして霊界統一も自分とは何ら関係がなくなります。

 主体と対象は対応的な関係を結んだのちには、より大きいものを中心として一つにならなければなりません。男性と女性が対応して一つになったあと、より大きいプラスやマイナスになって、国の前に忠臣にならなければなりません。そして、これが再びプラスやマイナスとして世界的次元で聖人の道理に接ぎ木されなければならず、聖人の道理が再びプラスやマイナスになって、天宙的次元で聖子の道理に接ぎ木されなければなりません。そのように聖子の道理を備えたのちにこそ、神様に接ぎ木することができるのです。

 ところが私たちは発展を願い、大きいものを願い、高いものを願うというこのような原則において、自分が行くべき道が運命的に横たわっているにもかかわらず、その道を知らずにいます。本然的な天道の動きに対する対応的な反射として自分の心の欲望は作用していますが、その成就の道を知らずにいるために、人生は塗炭の苦しみの中で呻吟しているのです。これを探すことができないがゆえに、世の終わりの日になれば、自分の生命を絶ってでもその道を探すために自殺がだんだん増えていくのです。私たちは何としてもこれを克服する道を求めなければなりません。

 人類は世界の舞台で一番となることを願う前に、まず本然的アダムとエバの家庭で一番になるべきです。アダムとエバが神様の前に直系の王子と王女の立場を備えるようになれば、彼らは男性として最高であり、女性として最高になるのです。

 しかし彼らが堕落したことによって、彼らが占めるべき長子権の王子、長子権の王女の立場を失ったのです。これが人類歴史に恨として残りました。それで人類は神様の愛を再び探そうと、最初の息子と最初の娘の立場を探していく人生の道を歩んできたのです。

 そのような愛を受けるためには自己中心に生きるのではなく、神様を主にして、兄弟である人類を主にして生きなければなりません。お父さん、お母さんに代わって兄弟のために最も多く血と汗を流して長く耐えて克服した人であるほど、深く、広く、高い愛を受けるのです。そのような息子になり、娘になってこそ、お父さん、お母さんの全体を相続することができるのです。この道は男性も女性もみな行かなければなりません。したがって十回でも百回でも死の峠を経て、また死んだのちも絶えず神様の愛を求めていくことが、人生において行くべき最高の道なのです。

 統一教会の原理は、人間が神様の愛の圏内から脱したことが堕落であり、神様の愛の圏内に再び入ることが復帰だと教えています。そのような愛の圏内に入れば、自分の手一つ見ても千回、万回激賛するようになります。その世界では自分の手も神様の愛を受ける手になるので、その喜びは言葉で表現できないのです。そのようにすてきな世界が天国です。

 私たち人間の心が神様の愛を占領する日には、千年万年歌を歌って踊ることができるというのです。神様の愛に酔うようになれば、酒やあへんのようなものに酔うのは比較にもなりません。天下に存在するものすべてを呼べば、そこにこたえないものがありません。流れる水だけ見ても、千年間歌を歌うことができます。そこにおけるささやきの甘味は無窮無尽だというのです。その時は世の中のすべてを成し遂げたことになるので、金銀財宝も他の何も、みな必要ありません。世の中でそれより貴いものがないというのです。

 このように見るとき、人間の価値は愛を通じ、真の愛の感覚を通じて宇宙と和することができる主人格なのです。これを成し遂げることが人生の行くべき道です。

  宗教の使命

 霊界は今まで未知の世界でした。その世界は神様の存在原則である、「ため」に生きた人間だけが行く所です。そういう内容で形成された世界が理想天国です。そこが私たち人間が求めていくべき本郷です。

 今日私たちは堕落した人生によって本郷から追放された人間となったがゆえに、本郷の地に向かって帰らなければならない運命にあります。しかし、そこは人間自体だけでは帰ることができません。それで神様は人間が帰ることのできる道として、その民族の文化背景、風習あるいは伝統に従って数多くの宗教を立て、歴史的に収拾してこられたのです。

 宗教は本郷の地へ帰ることのできる資格者を鍛える訓練の場です。神様は東西南北四方の文化背景によって、高い所に前進できる一つの統一された宗教世界に導いてこられたのです。

 そのような本郷の地に導くべき宗教であるがゆえに、宗教は「ために生きよう」ということを教えてあげざるを得ません。それで高等な宗教であるほど「ため」に生きなければならないという原則を強調し、温柔謙遜であれと教えるのです。無数の人々を高め、彼らのためになる立場に立って、犠牲になり奉仕しなさいと教えるのです。

 これから、私たちの前に到来する二〇〇〇年代は、世界の全人類が神様を中心とした真の本然の人間の価値を取り戻し、天地父母と一体となり祝福を受けた真の家庭を成し遂げ、神様と真の父母を中心として、永遠に「ため」に生きる真の愛の道理を実践する、真の平和と理想の天国時代を迎えなければならないのです。

 皆様の家庭と国家が神様の愛と祝福に一層満たされますようお祈りいたします。ありがとうございました。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2023.07.22 06:16:42
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