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乾し杏 片山廣子
乾 あ ん ず
片 山 廣 子
十坪に足りない芝庭である。
ひさしく手を入れないので一めんに雑草が交って野芝となってしまった。
しかし野も林も路もすべての物が青む季節になれば、野芝の庭もめざましく青い。
庭のまん中よりやや西に寄って一本のいてふの樹が立ってゐる。
芯をきり落としたので、いてふはずんぐりとふとって無数の枝を四方にさし伸べて、
むかしの武蔵の草はらに一ぽんのいてふが立って風に吹かれてゐたであらう
風景を時をり私の心にうつしてくれる。
去年の初夏この野芝の庭に一つの異変がみえた。
庭のごく端の方に一株の小さな小さな青い花が咲き出したのである。
何か見なれた花のやうで熟視すると、ああ、これは忘れなぐさであった。
優しく青く細かく、たよたよと無数の花が夏ふかむまで咲いてゐた。
雨にも日でりにもそれをいたはって眺めたが、今年も五月がくると
去年の花のみえたあたり、一面に幾株もいく本も同じ花が咲いて
芝の上の一部は朝日ゆふ日にうす青く煙って見えた。
けふも梅雨めいた雨で、いてふは荒く白いしづくを落し、芝は沼地の草みたいに濡れてゐる。
わすれな草はもうすっかり終わるのだろう。
ガラス戸越しに庭を見ながら私はお茶を入れた。
お茶の香りが部屋にあふれて、飲む楽しみよりももっとたのしい。
静かに鼻にくる香りはのどに触れる感じよりももっと新鮮に感じられる。
乾杏子を二つ三つたべて、これはアメリカの何処に実った杏子かと思ってみる。
乾杏子からほし葡萄を考へる。ほし棗を考へる。
どれもみんな甘く甘く、そして東洋風な味がする。
過去の日には明治屋か亀屋かで買って来て、
菓子とは違ふ風雅なしづかな甘みを愉しく思ったものである。
ゆくりなく今度の配給で、すこしも配給らしくない好物を味はふことが出来た。
私はことに乾いちじくが好きだった。
むかし読んだ聖書の中にも乾いちじくや乾棗が時に出てくる。
熱い国の産物で、東方の博士たちが星に導かれて、ユダヤのベツレヘムの村に
キリストの誕生日を祝いに来たときのみやげ物の中にもあったやうに思はれる。
ソロモン王の言葉にも「こ請ふ、なんぢら乾葡萄をもてわが力をおぎなへ、
林檎をもてわれに力をつけよ、われは愛によりてや疾みわづらふ」と言ってゐる。
雅歌の作者はこんな甘いものや酸っぱい物を食べながら人を恋ひしてゐたらしい。
「もろもろのかをりもの薫物をもて身をかをらせ、煙の柱のごとくして荒野より来たるものは誰ぞや」
ソロモンがシバの女王と相見た日のことも考へられる。
世界はじまって以来、この二人ほどに賢い、富貴な、豪しやな男女はゐなかった。
その二人が恋におちては平凡人と同じやうになやみ、そして賢い彼等であるゆえに、
ただ瞬間の夢のやうに恋を断ちきって別れたのである。
「シバの女王ソロモンのうはさ風聞をきき、難問をもってソロモンを試みんと
甚だ多くのともまはり部従をしたがへかうもつ香物とおびただしき金と宝石と
を駱駝に負せてエルサレムに来たり、ソロモンの許に至りてその心にあるとこ
ろをことごとく悉く陳べけるに、ソロモンこれが問いにことごとく答へたり、
ソロモンの知らずして答へざることはなかりき。
シバの女王がソロモン王に贈りたるが如きかうもつ香物はいまだ會てあらざりしなり。
ソロモン王シバの女王に物を贈りてその携へ来たれる物に報いたるが上に、
また之がのぞみにまかせて凡てその求むる物を与へたり。」
旧約聖書の一節で、ここには何の花のにほひもないけれど、
二人が恋をしたことは確かに本当であったらしい。
イエーツの詩にも「わが愛する君よ、われら終日おなじ思ひを語りて朝より夕ぐれとなる。
駄馬が雨ふる泥沼を終日鋤き返しすき返しまたもとにかへる如く、
われらおろかもの痴者よ、同じ思ひをひねもす語る・・・・・」
詩集が今手もとにないので、はっきり覚えてゐないが、
女王もこれに和して同じ歎きを歌ってゐたやうに思ふ。
彼等がひねもす物語をした客殿のとこ牀のみどり青緑であったと書いてある。
あまり物もたべず、酒ものまず、ただ乾杏子をたべて、乾葡萄をたべて、
涼しい果汁をすこし飲んでゐたかもしれない。女王が故郷に立って行く日、
大王の贈物を載せた数十頭の駱駝と馬と驢馬と、家来たちと、砂漠に黄いろい
砂塵の柱がうづまき立って徐々にうごいて行った。
王は物見台にのぼって遥かに見てゐたのであらう。
女王が泊った客殿の部屋は美しい香気が、東洋風な西洋風な、世界中の最も
美しい香りを集めた香料が女王自身の息のやうに残ってゐて王を悲しませたことであらう。
「わが愛するものよ、われら田舎にくだり、むらざと村里に宿らん」といふ言葉を
ソロモンが歌ったとすれば、それは王宮に生まれてほかの世界を知らない
最も富貴な人の夢であった。あはれに無邪気な夢である。
私は村里の小さな家で、降る雨をながめて乾杏子をたべる。
三つぶの甘みを味ってゐるうち、遠い国の宮殿の夢をみてゐた。
めざめてみれば何か物たりない。庭を見ても、部屋の中をみても、
何か一輪の花が欲しく思ふ
部屋の中には何の色もなく、ただ棚に僅かばかり並べられた本の背の色があるだけだった。
ぼたん色が一つ、黄いろと青緑と。
私は小だんすの抽斗から古い香水を出した。
外国の物がもうこの国に一さい来なくなるといふ時、銀座で買ったウビガンの香水だった。
ここ数年間、麻の手巾も香水も抽斗の底の方に眠ってゐたのだが、
いまその壜の口を開けて古びたクッションに振りかけた。ほのかな静かな香りがして、
どの花ともいひ切れない香り、庭に消えてしまった忘れな草の声をきくやうな、
ほのぼのとした空気が部屋を包んだのである。村里の雨降る日も愉しい。
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