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騎馬民族
・始めに
騎馬民族の歴史を明かすことによって世界史を新たな視点から捉え直そうというコラム「シリーズ さすらう人々」。前回の第1回では、「劣れる文明の脅威」と題して、農耕民族の視点から騎馬民族の動きを見ていき、その存在の一端を知ることができたと思います。そこでこれからは、実際に騎馬民族そのものにスポットを当て、彼らが一体どんな人々なのか、そして前回のような農耕民の視点から見るのと騎馬民族側の視点から見るのとではどれほどの違いがあるのか、ということを探っていきたいと思います。
シリーズ第2回では、まずその手始めに、騎馬民族がどうやって生まれたのかについて、古代の生産活動の変遷や騎馬民族国家の成立の過程を通して見ていきます。また同時に、農耕民族の国家と騎馬民族の国家の違いを見比べて、両者の民族性の相違を少しでも明らかにしていきたいと思います。
・騎馬民族とは?
では騎馬民族の誕生について見ていく前に、そもそも騎馬民族とはどのような民族を指すのか、ということを考えてみたいと思います。普通、騎馬民族と言って真っ先に思い浮かべるのは、遊牧騎馬民族であると思います。これは日々の生活の糧を大部分遊牧に頼っている騎馬民族のことで、有名なモンゴルをはじめ、スキタイや匈奴も遊牧騎馬民族でした。ただし、遊牧民イコール、騎馬民族であると考えるのは誤りであります。もちろん、騎馬民族イコール、遊牧民でもありません。
前回の「劣れる文明の脅威」でも、私は遊牧騎馬民族と言ったり、ただ騎馬民族と言ったり、あるいは遊牧民という語を使っていたりしました。これはただ混然と、その時々によって適当に使っているのではなく、きちんと違いを区別して使い分けています。騎馬民族というのは、普段から馬に乗ることを得意とし、戦争の際に騎兵を中心に軍隊を構成するような民族を指します。その中でもとくに普段遊牧を行っている民族に、遊牧騎馬民族という少し限定された言葉を使うのです。遊牧民は、確かに騎馬の民となるに有利な条件をいくつも持っていますが、騎馬民族化しない遊牧民もたくさんいますし、また逆に遊牧にそれほど頼らずに生活している人々でも騎馬民族となる例も多いのです。例えば史上2度にわたって強大な勢力を誇り中国を支配した女真族(満州族)は、中国東北地方で半猟半牧の生活をしていた民族でしたし、もっと古い時代に、東アジアにおける民族大移動の主役であった鮮卑や烏桓は、遊牧も行いつつ農業にも従事する半農半牧の民族でありました。
ただし、やはり騎馬民族の多くは遊牧民であることは事実であり、それは史上最初の騎馬民族となったスキタイが遊牧民であったことからもよく分かります。では、その騎馬文化を生み出した遊牧民が、どのように生まれたのでしょうか?
・遊牧の誕生
遊牧とは、牧畜の一形態です。牧畜は家畜を飼育して生計を立てる生産方法で、家畜の肉や乳を食料として用いるだけでなく、その毛皮や骨、さらには糞までも役立てます。またその家畜の種類も、牛、羊、馬、豚などの他、山羊、ロバ、らくだ、トナカイなど、実にさまざまなものがあります。
一口に牧畜といってもさまざまなやり方や目的があります。現在のわが国でも農家で牛などを飼っているのを目にすることが出来ますし、また養鶏場や牧場などの大規模なものもたくさんあります。外国に目を向けてみると、オーストラリアやニュージーランド、そして欧米各国の羊牧場は、広大な柵の中で牧羊犬の助けを借りて羊を管理しています。これは肉や乳よりも、羊毛を取ることが目的です。また私がベトナムに行った時には多くの農家が水牛や牛、豚(猪豚でした)や鶏を飼っているのを実際に見てきました。これらはみな牧畜のさまざまな形態であります。
では遊牧はどういったものなのかと言うと、家畜をその辺に放牧し、柵はなく、また固定家屋もなく、一年中テントに暮らして、移動し続けるのです。家畜たちは自然に生えている草を食むので、いちいち餌を与える必要はありません。その代わり家畜たちは、草のあるところを群れでぶらぶら歩く必要があるため、広大な敷地が無ければなりません。そのため放牧(放し飼い)というやり方なのでしょう。ただ、だからといって人間も家畜について毎日移動し続けなければならないかと言うとそんなことはなく、家畜は夜になると人間の住むテントに戻ってきて、そこに作ってある屋根つきの簡単な柵のなかに入れられて、また翌朝には草を食みに出かけるのです。人間が移動するのは一年間で2回から4回ほどが普通なのでしょう。私が行ったモンゴルではいまだにかなりの人々が遊牧生活を続けていて、私もそのテントに一泊だけ泊まらせていただいたのですが、そこで聞いた話では季節ごとに宿営地が決まっていて、季節の変わり目になるとテントをたたみ、家畜を追い立てて移動するらしいです。もちろんこれは現在のモンゴルの話で、何千年も前の遊牧民がまったく同じ生活をしていたわけではありませんが、ただ遊牧のやり方はそれほど大差ないのではないかと思います。
このような遊牧がいつ誕生したのかは、はっきりとしたことはあまり分かっていません。恐らくは家畜を飼育し、牧畜という生産手段が生み出されてからそれほど時間の開きは無いのではないかと思われます。牧畜がいつごろ生まれたのかについては、だいぶ解明されてきたようです。
農耕と牧畜は、どちらも文明の成立に大きな役割を果たしました。長い間狩猟や採集、漁労といった獲得経済に頼っていた人間は、農耕と牧畜を行うことによって生産経済へと移行し、それによって多くの人口を養うことが出来るようになり、また富の分配の段階において貧富の差が生まれ、階級ができました。また農耕も牧畜も自然環境に影響されるところが大きいことは狩猟などと変わらず、特に農耕においては集団で大規模な作業となる傾向が強いため、多くの人々を飢えさせることのないよう導いていく指導者が現れるようになります。こうして人間は生産経済を営むようになってから急速に文明を築いていったのです。では農耕と牧畜はどちらが先に行われるようになったのか。この問題は長らく議論が続いていたようですが、考古学の研究が進み、どうやら農耕のほうに軍配が上がったようです。
農耕の起源は、紀元前7600年頃、西アジアの先土器新石器時代(文字通り、新石器時代のうち、まだ土器が出現していない段階の時代です。)にまでさかのぼるそうです。これはシュメール人が最初の文明を築いたといわれる時代より3000~4000年も前ですが、このころから人間はシリアやパレスチナあたりで農耕を開始し、集団で暮らすようになりました。牧畜が始まったのはこれより1000年ほど後で、おそらくこの頃は農耕のほかに狩猟なども行っており、集団で暮らすようになったため狩りも人数を集めて大規模に行った際、罠などで野生の羊の群れなどを生け捕りにし、一度には食べきれないので柵の中で飼育したのがきっかけではないかと思われます。この地方で農耕と牧畜の両方が生まれた理由としては、メソポタミアの北方、および西方の山地に小麦や大麦の野生種があったこと、そして西アジアのほぼ全域に渡って野生の羊や山羊が生息していたことなどがあげられます。こうして西アジアで誕生した農耕・牧畜は、地域ごとの環境などの影響で形を変えつつ、次第に大陸中へ広まっていったと考えられています。
ただひとつ私が引っかかっているのが、この頃から西アジアで牧畜が始まったのはよいとして、果たしてここから大陸中に牧畜が広がったと考えるのは正しいのかどうか、ということです。西アジアの話は「西アジアの考古学」という本を参照していますが、私の手元にはもうひとつ資料があって、これはモンゴルの首都、ウランバートルにある、国立民族歴史博物館へ行った際に買った、日本語(!)の資料集ですが、それによると前15000年頃~前7000年頃の中石器時代に、すでにモンゴルでは犬と牛を飼育していたらしいのです。これは西アジアの牧畜の起源の時期とほぼ重なり、あれほどの距離をわずかな時間に伝達するのはちょっと厳しいのではないかと想像すると、モンゴルの牛の飼育(犬は家畜かどうか微妙なので…)は完全に当時のモンゴル人自身の生み出した文化なのではないか、とするのが自然であると思います。この資料では牛の飼育の証拠として「オブス県サギル郡のモージオギーン洞窟内の壁画」を挙げており、考古学的にこの壁画が何年頃のものなのかは書いてないのですが、もしこの壁画が前7000年以前のものであるならば、東アジア、少なくともモンゴルにおける牧畜の起源は、西アジアからの伝達ではない可能性が高くなってきます。
しかしどちらにせよ、家畜の飼育方法が広まるにつれ、農耕をしづらい環境に暮らす人々の間で、放牧さえしていれば生きていくことが出来る遊牧という方法が自然と考え出され、瞬く間に広まっていったことは想像に難くありません。そして遊牧が古代からユーラシア大陸のさまざまな地域で広く行われていたことは、旧約聖書に見える古代イスラエル人(ヘブライ人ともいう。後のユダヤ人。前16世紀頃に登場)や中国殷王朝の時代(前16世紀~前11世紀)に活躍した羌族がすでに立派な遊牧民だったこと、そして近現代になるまで、ユーラシア大陸の大きな部分を占める草原地帯においてずっと遊牧が行われ続けたことなどから明らかです。
・騎馬民族の登場
こうして世界中に広まった遊牧民ですが、かれらが騎馬民族となるにはまだしばらくの時間が必要でした。騎馬民族といえば馬に乗らなければなりませんが、恐らく当時の遊牧民(ここではとりあえず西アジアの遊牧民)は主に羊や山羊を飼っていたと思われますが、まだ馬を飼育する術は知らなかったと考えられます。シュメール人は車を発明しますが、当時の車は馬ではなくロバに牽かせていました。古代の代表的な民族の中で最初に馬を使ったのは、アナトリア高原(現在のトルコ)の辺りに侵入したヒッタイト、およびミタンニの二大勢力でした。どちらも紀元前18世紀に西アジアに侵入し、猛威を振るった民族です。彼らが歴史に果たした役割はとても大きく、馬に牽かせた戦車を主力とし、また鉄製の武器を使用しました。ちなみに馬に牽かせた戦車は、ほぼ同時期にエジプトへ侵入しエジプト中王国を滅ぼしたヒクソスという民族も使用していたようです。これらの民族が遊牧民であったかどうかは定かではありませんが、この時代以降、西アジアでは鉄製武具が広まり、また戦車が大流行しました。
では人が馬にまたがるようになるのはいつ頃のことなのでしょうか?これもはっきりしたことは分かりませんが、ただ江上波夫氏の「神殿文明から帝王文明へ」(1980年、「文明の起源とその成立」に掲載)によれば、古代オリエント世界を統一したことで知られるアッシリアが、「遅くともティグラト・ピレセル1世時代ごろまでには、戦車隊とともにすでに騎兵隊をもっていた可能性がある。」としています。アッシリアがオリエントを統一したのは紀元前7世紀ですが、ティグラト・ピレセル1世はもっと前の、紀元前1112年~前1074年頃の王です。アッシリアは他国から優れた軍事技術をどんどん取り入れたことが知られており、戦車や鉄製武具など、当時の最新の兵器を導入し、その征服活動に役立てています。恐らくは騎兵も他の民族から学んだものであると思われるので、そうすると前10世紀には騎兵を持った遊牧民が西アジアに存在していたことになります。恐らくこれが遊牧騎馬民族の草分けと言えるでしょう。
ところで、騎馬民族はどうして馬に乗るようになったのか、少し考えてみたいと思います。というのは、世界中には背中に乗る、あるいは車を牽くなどすることの出来る駿足獣はたくさんいます。また、駿足獣でなくとも移動に利用できる動物も存在しますし、そうした馬以外の動物を利用する人々はそう少なくはありません。ところが、馬に乗った騎馬民族だけが大活躍をし、他の動物を利用する民族が歴史の主役たりえなかったのはなぜなのでしょうか?
まず遊牧の際、馬が必ずしも必要なのかというと、決してそのようなことはないのではないかと思います。馬が必要なのは遠出する際であって、もちろん遠くに行ってしまった羊たちを追いかけるのに必要かもしれませんが、例えば牧羊犬を使っても十分なはずですし、古代のまだ馬が飼いならされていなかった時代にも遊牧は存在していたわけで、そうすると馬が遊牧に欠かせないということはないでしょう。やはり、馬を使うことでとても得をするのは、戦争の際と移動の際です。馬がこれほど広範囲に広まったのは、ひとえにこの二つの理由からであると思われます。まず騎兵ですが、これは戦争の歴史において非常に重要な役割を持っています。詳しいことはシリーズの別の回でお話しようと思いますが、とにかく騎兵のあるとないとではその戦力に大きな差が出てくるという事実があります。また移動手段としてですが、よく私たちは一頭の馬で旅行をする絵を想像してしまいがちですが、実際は個人の場合は数頭の馬を連れて行き、最初の馬が疲れたら他の馬に乗り換える、ということを繰り返していけば、かなりのスピードで長距離を移動することができます。あとはときどき草を食んだり水を飲んだりする時間を与えるだけでよいので、現在の車などよりよほど便利であるかもしれません。またその他に、モンゴルの駅伝(ジャムチ)制度のようなものが、古い時代から強力な騎馬民族国家のもとではしばしば設けられます。これは一定区間ごとに替え馬が用意されたり、あるいはそれこそ駅伝さながらに、次々と荷(文書など)を交代で運んでいったりするもので、例えばモンゴル帝国のときは、この駅伝式通信方法によって、通常10日かかる大都と上都(どちらも中国北方にあった元の大都市)を1日で結ぶことができたといいます。こうした効率の良い方法もあって、馬はとても利便性の高い移動手段でした。
では戦争や移動において、馬以外の動物ではいけなかったのでしょうか?結論をいうともちろんそんなことはなく、例えばらくだは戦争の際にも使われたそうですし、モンゴルやエジプトをはじめ広い地域で今でも移動手段としてらくだが用いられています。また戦争においては象ほど強力な動物はいなかったでしょうし、移動においてはロバなども多く使われます。ところが、らくだ騎兵や戦象を駆使して活躍した民族は、数えるほどしかいません。戦象は古代においては北アフリカ、インド、東南アジアなどでしばしば使われましたが、その後世界的に軍事の主役となることはありませんでした。それに対し騎兵は近現代に入って戦車や飛行機が実用化されるまでの数千年間、ずっと重要な兵種であったばかりでなく、時には野戦において無敵を誇っていました。また移動手段として挙げたらくだやロバは、確かに広い範囲で用いられていました。らくだは沙漠を渡るのに最適ですし、またロバも古代から地中海周辺や中央アジアなどで用いられてきた動物です。ただらくだとロバには、馬にはない欠点がいくつかありました。まずらくだは、沙漠を越えるときにはとても役に立ちますが、それ以外の土地では馬に後れを取りますし、とてもひどい臭いがするのだそうです。またロバは小型なので背中に乗ることは出来ず、乗るのであれば腰のほうに座らなければならないそうです。また足も馬ほど速くありません。さらに重要な問題として、らくだやロバの性格が挙げられます。馬は本当に従順は生き物で、さすがに古き時代から馬と人のよき友情が語り継がれるだけのことはあります。しかしらくだやロバは獰猛で、あまり人の言うことを聞こうとしないのだそうです。
こうしたことを見てくると、どれほど馬が欠点の少なく、人間にとって使い勝手の良い動物であるかが分かるでしょう。こうした理由から、遊牧民に限らず多くの民族の間で馬が飼育され、愛されてきたのです。そしてこうした馬の優秀さが、騎馬民族をして大陸全体を股に掛ける大活躍の重要な要因となったのでした。
・騎馬民族国家の成立
こうして古代において農耕と牧畜が生み出され、その中で遊牧が行われるようになり、そして馬に乗る術を知る人々が現れました。そしていよいよその次の段階、すなわち騎馬民族国家の形成がどのようにして行われたかということを見ていきたいと思います。ここで国家の形成について触れるのには、大きな理由があります。それは、農耕民が国家を形成したのは農耕という生産手段に頼るようになったのが直接的なきっかけでしたが、遊牧民が国家を形成したきっかけは、遊牧そのものではありません。また彼らが馬に乗ったからといって、すぐさま騎馬民族国家を形成したわけでもありませんでした。そこには別にきっかけがあり、実はそこのところが、農耕民族と騎馬民族の決定的な違いのひとつであるからです。そもそも人々の間で初めて国家のようなものが形成されたとき、それは農耕民族国家であったことは間違いありません。それは考古学上の遺物に頼らずとも明白であります。それは、遊牧民の国家は、農耕民の国家形成が無ければ成り立たないからなのです。
古代国家の成立
人間が二人でも集まれば、そこはすでに社会であると聞いたことがあります。しかし歴史的には、多数の人間が集まり、王や神官や議会といった一部の人々によってその他の人々がまとめられる、統治機構を持ったものをここでは社会であると考るのでしょう。その社会に、人々の生活や嗜好に結びついた文化を掛け合わせると、文明になります。そうした意味での文明の起源は、やはり4大文明(メソポタミア、エジプト、インダス、黄河)でしょう。もちろん先ほども見てきたように、農耕、牧畜という生産経済は4大文明のさらに3000年以上も前から世界中に広まっていきましたし、あちこちで定住し、集団で生活を営むところも多くありました。そうした時期も簡単な統治機構はあったでしょうし、また装飾品や生活用品などはかなり発達していました。ただ4大文明が現れると、それらがいっそう顕著に独自の発展を遂げ、文明としての特色を備えてきます。こうした文明の特徴的なものとして、文字の使用、統治機関の充実、体系的な宇宙観を持った宗教の出現などが挙げられます。
ここで挙げた4大文明は、いずれも農耕民の国家でした。それは以前からそこで定住していた人々の持っていた文化などをそのまま発展させたもので、それも自然発生的に生まれた国家でした(たださまざまな説はあります。例えば江上波夫氏は、メソポタミアの文明には牧民的な要素が多々あると指摘されています)。こうした定住農耕民の文明は、しばしば美意識からくる人工物を生み出します。例えば家具や家なども必要があるわけでもないのに派手に色を塗ったり飾りをつけたりしますし、国家事業として大きな建造物を造ります。彼らの生み出す文化的な品々は周囲の民族の憧れの的となり、また他の文明に好奇心を抱かせます。こうして農耕という生産活動だけではなく、交易に従事する人も多くなります。高校などで習う限りでは、文明のあるところにのみ人間が暮らしているような印象を受けてしまいがちですが、実際にはあちらこちらにさまざまな民族がそれぞれ独自の文化を持って存在していました。例えばメソポタミア文明のさきがけであるシュメール人も、周囲の諸民族と活発な交易を行っていました。
さて、農耕民が優れた品物を生み出す一方で、遊牧民はあまりそうしたものをつくろうとはしませんでした。いえ、むしろ出来なかったと言う方が正しいでしょう。常に移動し続けなければならない彼らは、あまり持ち運びに困るような家具は持とうとしませんし、もちろん立派な建造物を建てるということも古代においてはありませんでした。彼ら遊牧民は機能的だが質素な生活を長い間変わることなく保ち続けていたのです。農耕が自然に手を加え、資源を消費することで成り立っている生活だと見れば、遊牧は自然に溶け込み、資源を出来る限り利用し尽す生活であると言えます。それは放っておくと永遠に続きそうな、発展性に乏しい代わり持続性に富んだ生き方でした。
農耕民と遊牧民の争い
ところが、そうした遊牧民も、農耕民の生み出す文化に興味を持ち、その芸術に憧れるようになります。そして農耕民と遊牧民の交易が始まりました。当初はそれで満足していた遊牧民も、もっと効率よく財物を手に入れたいと思ったとき、ではそれを力ずくで奪ってしまえと考えた人々が現れるようになります。こうして、遊牧民と農耕民はしばしば抗争を繰り広げるようになります。また遊牧民が農耕民に襲いかかった理由として、農耕民が遊牧のための土地を奪ったことが挙げられます。遊牧生活は常に移動を繰り返すので、遊牧民は土地に対する執着がほとんどありません。ところが農耕民は畑を作るのに土地が必要なので、土地を所有するという考え方が早くから生まれます。人口が増えて新たな農地を探した農耕民がもともと遊牧民の暮らしていた土地にやってきて農耕を始めると、季節がめぐって再びそこへやってきた遊牧民は、しかたなく他の放牧地へと移動せざるを得ません。そうしていくうちにどんどん遊牧民の生活の場が奪われていき、その状況を打開するために遊牧民が武器を取ることも多かったでしょう。古代中国の、殷王朝と羌族の抗争や、春秋戦国時代に各地で諸侯を悩ませた諸民族は、みなこうして土地を奪われ、生きる土地を求めて農耕民へ攻撃をしかけたのだと思われます。
騎兵は恐らくこうした抗争の中で編み出され、取り入れられていったと思われます。ただこの騎兵は、遊牧民だったからこそ生み出せた兵種であると言えます。遊牧民なら、家畜である馬を増やし育てることは普段から行っていることですし、馬に乗ることだって騎兵が生まれるずっと前から行われていたのでしょうから、遊牧民にとって乗馬は生活の一部であったはずです。そして何より騎兵は、当時軍事界のエースだった戦車を、ほぼ無効化してしまうのです。そうして、しだいに農耕民は遊牧民に押され始めるようになりました。
遊牧騎馬民族国家の誕生
ただこの段階においては、農耕民は国家を形成していましたが、遊牧民はまだ部族集団から抜け出していませんでした。そのためその勢力もたかが知れており、文化的に農耕民に遅れを取っていると言わざるを得ない状態でした。ところが紀元前8世紀頃、初めて国家としての体制を整え、独自の絢爛たる文化を花開かせた民族が現れます。すでに何度も名前の出てきているスキタイです。
スキタイは、遊牧民のイメージからはかけ離れた、言ってみればとてもゴージャスな文化を生み出しました。それは黄金の櫛であったり、見事な騎士の絵が描かれた壷であったりと、その美しさと量の豊富さはけっして農耕民の文明に劣るものではありません。そしてそうした文化を生み出す基盤となる、国家の存在も疑う余地はありません。ヘロドトスといえばペルシア戦争を書き表し、歴史家の父として非常に有名ですが、彼はスキタイに実際に行ってその実態を調べています。それによれば、スキタイは4つのグループに分かれており、「農業スキタイ」「農耕スキタイ」「遊牧スキタイ」が、数も多く完全な遊牧民であった「王族スキタイ」によって支配されていたといいます。「農業」「農耕」の両スキタイは、スキタイの土地に住み、スキタイに従っているためにスキタイ人と見なされていますが、実際は恐らく遊牧民に農作物やその他の品々を収めていた異民族であったのでしょう。事実、スキタイの土地には多数のギリシャ人がおり、華美な装飾品や家具などをスキタイのために作っていたといいます。そしてスキタイそのものは、東方に住んでいた「遊牧」および「王族」スキタイでした。とくに「王族スキタイ」は強大な権力を持ち、他の3つのスキタイのもとへ太守を派遣して治めさせるなどしていたことを考えると、かなりしっかりとした統治機構を持っていたのではないでしょうか?
スキタイの歴史に果たした役割は絶大です。なぜなら、スキタイこそ、それまでせいぜい部族単位でしか行動しなかった遊牧民を束ねて、国家の枠組みを形成したからです。これにより遊牧民は複数の部族で共同体となる術を知り、結果的に交易や戦争も大規模なものとなっていきました。スキタイが登場して以降、その文化とともに、国家の概念も他の遊牧民の間にすばやく広まっていきました。そしてたちまち匈奴、月氏、パルティアなどの強大な遊牧騎馬民族国家を誕生させることになります。そして広大なステップ地帯を母体として、後数千年に渡る騎馬民族と農耕民族の抗争の歴史をつむいでいくことになるのです。
・騎馬民族国家の特徴
騎馬民族国家は、さまざまな点で農耕民族の国家と違うところがあります。中でももっとも大きな相違点が、農耕民族国家は自然発生的に形成されることがほとんどであるのに対して、騎馬民族国家は人為的に形成されるという点です。先ほども見てきたとおり、農耕民は農耕という生産方法の性格上一箇所に集団で定住することが多く、国家としての基盤を多分に持っています。さらに農耕を行うには暦を知っていなければなりませんし、水を得るために治水や灌漑などの大規模な工事を行うことにもなってきます。そうすると指導者が必要になってきますし、また階級も生じてきます。こうして農耕民は自然と国家を形成していくのです。ところが遊牧民は、家畜を育てる際の大きな役割は自然が負っている(家畜は勝手にそこらにある草を食べる)のでそれほどたくさんの人手が必要でなく、むしろ大人数で暮らすとたちまち草が食べつくされてしまうので、基本的に家族や親戚などの2,3世帯で生活をします。しかもそれで生活のほとんどはまかなえてしまうため、あえてたくさんの人々が集まるなどということはありません。ただ人数を集める必要があるときは話は別で、それはどんなときかといえば、戦争に他なりません。つまり、遊牧民が集団になるということは、彼らが略奪行為による利益を十分に理解し、しかも誰か統率者の存在を認めて初めて可能なのです。そうでなければ、農耕民のように自然に集団を形成し、国家を築くといったことは起こりえません。よく歴史の教科書などにある勢力地図で、草原地帯に突然国が現れたかと思えば、その国が滅んでしまえばあとはまるで何も無いかのように描かれているのは、このためです。
人為的に形成された国家である騎馬民族国家は、しかしその形成の動機付けとなったものが、そのまま国家としての弱点であることも見逃せません。すなわち交易と略奪のために集団となった彼らの国家を維持するには、常に交易と略奪によって利益を獲得し続けなければならないのです。でなければ、遊牧社会本来の姿とはまったく矛盾して集中した人口を遊牧で支えきることはできず、またもとのばらならの遊牧民となり、その土地も「何も無い」地になってしまいます。分かりやすい例を挙げれば、匈奴は紀元前3世紀末に冒頓単于(前209年頃~前174年)が現れてから急激に成長し、南方の漢に侵攻しただけでなく東は大興安嶺から西は西域と呼ばれたタリム盆地、さらには現在カザフスタンにあるバルハシ湖あたりまで版図に加えていた大帝国でした。そしてその全盛期には、漢などの周辺諸国からの貢物や徴税、交易活動により莫大な収益を得ていたと思われます。しかし漢に武帝が現れ、漢帝国の全力を投入して匈奴討伐を行い始めると、ついに匈奴は甘粛(現在の甘粛省)やオルドス(内モンゴル自治区西方)を手放し、さらに西域の支配も放棄するまでにいたります。こうなると漢からの莫大な貢納はストップし、東西交易の利益はほとんど漢のものとなり、さらに支配力の低下から周辺諸国からの徴税も滞るようになり、国家を維持することはたちまち困難になりました。そして漢からの援助を仰ぐようにさえなります。匈奴の内部では、漢の援助に頼って国を保とうとする派と、あくまで自力で独立を保とうとする派に分かれて抗争が始まり、匈奴は真っ二つに崩壊してしまいます。そして独立派の北匈奴は、91年に漢の将軍 竇憲(とうけん)にアルタイ山脈にあった本拠地を衝かれ、西方へ逃れていきました。こうして匈奴帝国は滅亡してしまいます。
匈奴は、成長する際には驚異的な勢いを見せ、たちまち大帝国を築き上げましたが、崩壊する兆しが見え始めるとまるで坂を転がり落ちるかのように急激に衰えていきました。これは匈奴に限ったことではなく、後の突厥(とつけつ)やフン、モンゴル帝国など、あらゆる遊牧騎馬民族国家に共通のことです。これら遊牧民が騎馬民族国家を形成するやたちまち肥大化するのは、遊牧をしているよりも皆で集まって略奪や交易をしているほうが得をするからでしょうし、それがあっという間に崩壊するのは、略奪などの収入が割に合わなくなってきたからであることは想像に難くなく、利益のために人為的に形成された騎馬民族国家ならではのことと言えるでしょう。
もうひとつ、騎馬民族国家の特徴を挙げるとすれば、それは文化に対する寛容性です。農耕民は、中国の例を挙げるまでもなく、しばしば自分たちの文明こそが世界一であるという考えに陥ることがあります。そのため文明間の戦争や宗教戦争が頻繁に起こるのです。ところが遊牧民の国家は、今見てきたとおり利益を追求する人々の集まりであるため、自らの文明や宗教に対して農耕民のような誇りがあまりありません。いえ、誇りは持っているのですが、その考え方が農耕民と根本的に違うと言った方が正しいでしょう。彼らは、自分たちが祖先から引き継いだ遊牧民としての生活や文化、草原の民の心に高い誇りを抱いています。ただだからといって他の文化を否定するのではなく、使えるところは使える、良いところは良いと、許容する傾向が非常に強いのです。許容するだけでなく、積極的に取り入れようとする場合もあります。
文化に対する寛容性のなかで特に際立っているのが、宗教に対する問題です。あのモンゴル帝国がすさまじい勢いで支配を広げた理由は何かと言われれば、さまざまなものを挙げることができますが、その中のひとつに、信教の自由を認めたことがあります。もちろんこれはモンゴル帝国だけでなく、それ以前にも多くの騎馬民族国家が取っていた方針です。彼らにとって、宗教を全て許容することは、仏教徒でも、ムスリムでも、キリスト教徒でも、みな平等に扱うことで、より世界規模で交易が活発になり、国家の利益に直結するからでありました。またシャーマニズムを信奉する遊牧民にとって、部族間で信じる神が違うのは当然であり、そのことが他の宗教を許容する下地になっていると見ることもできます。現在でさえ宗教間の確執が絶えない中で、昔から騎馬民族国家がどんな宗教や文化に対しても寛大で、国の大きな枠の中でさまざまな民族がさまざまな宗教や文化や習慣を持って活発に交流していたのはある種驚くべきことです。
・匈奴帝国の構造とその影響
ごく初期の段階において、騎馬民族のなかでも特に重要なのがスキタイと匈奴ですが、それはこの二つの民族が他の騎馬民族に与えた影響が絶大であるからです。特にスキタイは先ほども見てきたとおり遊牧騎馬民族として初めて国家を形成し、騎馬文化を生み出して北方ユーラシアの遊牧民たちにその文化を伝えました。それがどのようなものであるかは次回以降探っていきたいと思いますが、紀元前のころの北方ユーラシアでは、それこそ西は黒海沿岸から東は蒙古高原にいたるまでの広大な領域に、スキタイの模倣文化が一斉に出現しています。それほど、スキタイ文化の影響力は大きかったのです。また騎馬民族国家の構造に関しては、匈奴の及ぼした影響が計り知れません。後々の歴史を見てみると、騎馬民族の動きはみな比較的東方(現在のモンゴル周辺やカザフスタン東方)が発信源となっています。ヨーロッパに侵入した騎馬民族も、もとはこの辺りから流れてきた民族でした。そして有力な騎馬民族国家の多くは、蒙古高原やアルタイ山脈あたりから出現し、その国家構造は匈奴帝国に倣ったものばかりでした。匈奴はただ最初に東アジアに興った騎馬民族であっただけでなく、後の騎馬民族国家の性格を決定付ける役割をも果たしたのでした。
ではその匈奴の国家構造がどのようなものであったのか、ごく簡単に見てみましょう。
匈奴の王は単于(ぜんう)と呼ばれることはわりと有名ですが、その完全な名称は「タングリコトゼンウ」(漢字変換できませんでした。天の子の大いなるもの、という意)といいます。そしてこの単于は一つの家系の男子のみによって受け継がれます。国の要職はこの単于の出た家系の一族が占めますが、それだけでは足りないのでさらに他の有力な部族の者にも要職につかせ、そうしたいくらかの部族は単于と婚姻関係を結んでいました。またこうして要職に就いたものたちが権力を独占しないよう、それぞれ役割が割り振られ、そのすべてに単于の目の行き届くようになっていました。軍事に関してはさらに合理的なシステムがとられています。単于は有能な人物に「万騎」と呼ばれる役職を与え、各地方を治めさせました。この「万騎」は字のごとく戦時には1万騎の兵を徴兵し統率するものですが、この役職は封建制のように世襲されるものではなく、単于の意向によって転任させられたりすることがあったようです。こうした役人制とでも言うべき統治システムは、匈奴をたんなる部族連合ではなく、単于というただ一人の指導者のもとに国民を結束させる、まさに帝国の名にふさわしいものでありました。
また匈奴では春と秋に一回づつ、全ての族長が集まる国会のような会議が行われました。そこでは人口や家畜の数、それに対する税の問題などの内政的なものと、軍事活動をするかどうか、もしするのであれば攻撃目標や兵力などといった対外的な政策、さらには単于の跡継ぎという非常に重大なことがらまで、さまざまな議題が話し合われたそうです。この会議は恐らく遊牧民としての伝統であったもので、後にモンゴル帝国などでもクリルタイとしてそっくり受け継がれています。こうした体制は、匈奴が単なる絶対主義国家であったのではなく、あくまで単于に権力を集中させながらも、国民の意向を尊重し、それを国政に反映させてゆく実に民主主義的かつ合理的な国家であったことが分かります。また農耕民の国家ではなかなか考えづらいことですが、匈奴においてのみならず遊牧民国家では女性の地位が高く、男性とほぼ同等であると言われています。それは単于に関しても同じで、国家の存亡に関わる重要な局面になるほど単于は妻の意見を尊重しています。このことは、現在の眼で見れば、漢やローマといったいわゆる文明を持った大帝国よりも、よほど匈奴のほうが先進的であったと言えるでしょう。
ところで、数多くいる騎馬民族の歴史を見てみると、東方と西方ではその国家の特徴に差があるように思えます。というのも、東方では匈奴や突厥、契丹にモンゴルなど、国家として強勢を誇った民族が多いのに対し、西方ではフン族をはじめアヴァール人、マジャール人、後にはティムールの帝国まで、数多くの騎馬民族が出現しているにも関わらず、国家としての体制をきちんと整えて何代にも渡って勢力を維持したことはほとんどありません。アッティラにしろティムールにしろ、一代で強大な国家を築いても、彼らが死ぬとたちまち帝国は分裂してしまいました。一方匈奴などは今見てきた通りかなりしっかりとした統治機構を備えており、国家を築き上げた冒頓単于の死後も、長い間勢力を保ち続けました。またモンゴル帝国は、チンギス・ハンの死後、その後継者たちによっていっそう帝国は拡大し、その支配も決して長期ではないにしろ、全盛期を過ぎてもなお政権を維持し続けることができました。私は、こうした東と西の相違は、匈奴の影響力の強さにあると思うのです。つまり東方の騎馬民族は少なからず匈奴の国家体制を真似し、あるいは改良して広大な領域を支配したのですが、西方に興った騎馬民族は国家形成の方法を知らなかったがために、その国が部族単位での行動を上回る規模となったとき、希代の英雄でなければそれを維持することができなかったのです。こうして見ると、いかに匈奴が騎馬民族国家として画期的であり、またいかにその存在が歴史に影響を及ぼしたかが、理解できるのではないでしょうか?
・国を持ったさすらい人たち
さて、いままで遊牧民が誕生し、彼らが国を形成して騎馬民族として歴史に登場するところまでを見てきました。ここから、騎馬民族国家がその成立段階から農耕民の国家と根本的に違うものであることが分かったと思います。すなわち、遊牧という非発展的で永続的な暮らしを送っていた遊牧民が、富を求めて人為的に集められた組織を形成し、やがて匈奴によって国家として一応の完成を見たのでした。彼らは農耕民とは異なるラインで発展し、そしてそれが前回見てきたような農耕民族と騎馬民族の対立の図式となっていったのです。そこには国家構造もさることながら、まったく異なる生活や文化が花開いていました。それは決して農耕民に劣るなどというものではなく、かといって優れているわけでもない、完全に独自の文化です。
遊牧騎馬民族の多くは、国家を持ったからといってその草原をさすらう遊牧生活を捨てることはありませんでした。ただし、国家を持たなければ彼らの優れた文化が生まれなかったであろうことも事実であります。彼らの文化は国を持つことで発展し、交易活動によってさらに多彩な文化へと成長していきました。のみならず彼らの存在は、農耕民の文化にも著しく影響を与え、地理的にも文化的にも離れた文明同士の交流を促し、それらが互いに影響を与えあって、大陸全土において文化水準が急速に高まっていきました。一方で国家によって統合された遊牧民たちは実に優れた騎馬戦術を駆使して大陸中を駆け回り、軍事面において何百年、何千年もの間つねに世界をリードし続けました。この騎馬戦術も国家の形成なしには発展しなかったでしょうし、騎馬民族国家がその勢力を維持し、他の文明に影響を与え続ける重要な鍵でありました。
ただ、こうした事柄は、今回扱うのはやめにしましょう。これは次回以降、詳しく見ていきたいと思います。歴史コラム「シリーズさすらう人々第2回 さすらい人たちの国」は、この辺りでお開きとさせていただきます。
それでは、また。
参考文献
「騎馬民族国家」 江上波夫 著 中公新書 1967年
「文明の起源とその成立」 江上波夫 著 平凡社 1986年
「ユニバーサル 新世界史資料」 岡崎勝世 鈴木薫 並木頼寿 監修 帝国書院編集部 編集 帝国書院 2001年
「世界の考古学 西アジアの考古学」 大津忠彦、常木晃、西秋良宏 著 同成社 1997年
「モンゴル歴史博物館」 イデンシンノロブ、マホージャー・ナンサルマ、アユーシ、オチルフヤグ 解説 ボルマ、ムンフザヤ 訳 デ・コム社 発行年 不明 ※モンゴル民族歴史博物館資料
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