セレンディピティ

セレンディピティ

『Historiai:歴史』





イェリコ(Jeriko)


海面下225mという最も低い地点に位置し、 イェリコの町から2km程にあるテル・エル・スルタンの遺跡であると同定されている。
  現在発掘されている遺構によると、 紀元前9000年頃のナトゥフ時代の狩猟民の一時規定着地であったと思われる21m程の居住層の他、 円形住居跡や、 その後定住したと見られる紀元前8000~7000年頃に建てられたと見られる幅約1.8mの石積みの壁や、 高さ約9mの望楼と思われる石塔が発掘されており、 この頃には町の面積約4万平方メートル、 定住人口は2000人に達していたと見られる。
  狩猟を主な食料調達手段としていたナトゥフ時代(前1万年~前8000年)の人々は、 末期には幾つかの土地に半恒久的な集落を形成し、 小麦やナツメヤシ等の農耕や牧畜を営むようになっていたが、 必要とする水源は雨水に頼っていた。

  しかし、イェリコ近くにはエリシャの泉(現スルタンの泉)と呼ばれる、 毎分3000リットル以上の水を噴出す泉があり、 それがこの町をいち早く発展させたと思われる。 この時期には既に泉へと続く竪坑が掘られていた。
  この時期にイェリコ及び他の集落では首長制が採られ、 灌漑用水の利用の指導、 農閑期の交易と戦争の指揮を執った。 交易品としては農牧生産物、 工芸品、死海産の瀝青(注5)、硫黄、岩塩などを輸出し、 アナトリア、シナイ半島、地中海や紅海から黒曜石、孔雀石(注5)、貝殻などを輸入していた。 これらの交易や戦争が行なわれていたことは、 出土品や周囲の防壁の存在によって裏づけされる。
  前6500年頃になると中庭と方形住居をもつ別の文化により取って代わられた。 この時代の層から石製農耕具の出土数が増えたことから、 農業生活が本格化したことが窺える。 また地母神や動物の像、 各家庭の床下から化粧した頭蓋骨が発見されていることから、 祖霊信仰のほか各家庭がそれぞれの家内神を持っていたことが分かる。

  その後、 前5000年~前4500年の間にメソポタミアで大河を利用した灌漑設備を持つ土器文化が広がると、 やがてこれらの都市は衰退して行った。
  この遺跡丘を 1952年から1958年にかけて発掘したキャスリン・ケニヨンは、 炭素14年代測定法を行ない、 木材、穀物などの有機体の遺物を分析し、 前9000年~前3200年までの各層を決定した。 また測定法と出土品の比較研究によって残りの年代も決定された。

  ヨシュア記において、 イェリコはヨシュアが最初に攻略した都市とされ、 武力征服されたと書かれているが、 それが行なわれたとされる遺構(前1400~前1200の間とされる)からは防壁跡が発見されておらず、 判断することは出来ない。 近郊にアイという遺跡丘がありヨシュア記に記載されているが、 同様に争った跡が発見されていない。



新石器時代になって、生活物資の取得方法が狩猟・採集から農耕・牧畜へと変化
 それまでの食物を求めて移動する生活から、耕地へ定住するようになり、集落ができる
 これが、BC80c頃のメソポタミア事情

 初期の農耕は、乾地において天水頼りの不安定な方法で小規模だったけど、肥沃な土地での治水による灌漑農業を行うようになると、規模は大きくなり共同作業の必要性が高まる
 BC55c~BC35c頃のメソポタミアでは、ウバイド人がこの農業技術を軸に文化圏を築いた

 BC35c頃、ウバイド人に替わって、シュメール人が両河下流域に小都市を形成
 同じ頃、エジプト人はナイル河流域にnomos:ノモス:小国家を形成
 ノモスは、上流域で22と下流域20ほどあった

エジプト第1王朝(BC30c頃)
 Menes:メネスが上下エジプトを統一して、最初のpharaoh:ファラオ;大きな家の意;王になる
 ナイルのデルタ地方南端に位置するメンフィスは、最古の都である
 古代エジプトには、絵文字の発展形のhieroglyph:神聖文字と、それを簡略化して主に神官に使用されたhieratic:神官文字、そして最も簡略化されたdemotic:民衆文字があり、これらはpapyrus:パピルス;当時の紙に墨で書かれた
 パピルスは、ナイル河畔の湿地帯に茂るカヤツリ草の1種の茎を裂いて、開いたものを数枚貼り合わせて作る

ジェムデト・ナスル期(BC31c~BC29c頃)
 メソポタミアの一時代、シュメール人が担う

エジプト第3~6王朝(BC28c~BC23c)
 引き続き、首都はメンフィス
 このエジプト第3~6王朝を古王国という

 古代エジプトでは、支配者の遺体は再生を信じてミイラにされたが、このミイラを保存するための巨石墳墓がピラミッド
 第4王朝の王Khufu:クフは、最大のpyramid:ピラミッドを建立

シュメール人が両河下流域に都市国家を形成(BC27c~BC2350)
 19世紀半ばまで、メソポタミアでの文明の始まりは、BC10c頃でアッカド人が最古参と思われてたけど、それよりも以前にメソポタミアにおいて文明を担ったのは、アッカド人とは全く別のシュメールという民族で、しかもアッカド人より1500年以上も前に遡り、はるかに高度な文化を持ってたことがわかってきた

 Cuneiform Script:楔形文字はclay tablet:粘土板に木片などで印刻したもの
 シュメールの遺跡から発掘された5万枚~6万枚という夥しい数の粘土板は、それまでのアッカド語で書かれたものとは違ってた
  解読後、それはシュメール語として成立した


 中でも、証拠とするに相応しい特徴的な建造物だと、価値があがるのは言うまでもない
 シュメール都市国家発祥の7層の塔で代表的なモノにバベルの塔があるZiggurat:聖塔や、世界の七不思議のひとつでもある空中庭園は正にそれ

ギルガメシュ:ギルガメッシュ伝説
 ニネヴェの大図書館遺跡より発掘された粘土板に記されてた冒険叙事詩
 その主人公Gilgamesh:ギルガメシュは、この頃メソポタミアの都市国家の1つであるウルクの王という設定だけど、実在は懐疑的な伝説的英雄

アッカド人がシュメール都市国家を侵攻(BC24c)
アッカド王朝(BC2350~BC2170)
 両河上流域原住民のアッカド人は、Sargon:サルゴン1世に率いられてシュメール都市国家を陥落、両河下~中流域を統一
 アッカド人が侵入してくる以前に、シュメール都市国家同士の抗争が多々あって、最終段階でウルクの王がシュメール統一を果たしたばかりのところで、Sargon1世にしてやられた

 アッカド王朝は7人の王によって36年間続くけど、その間に政局は地方政権の一つに縮小してった
 シュメール人とアッカド人は、言語も全く別物なくらい民族としてかけ離れてたから、征服された元々のシュメール都市国家にとって、単純にアッカド人を外敵として離反するのは無理もない
 また、エラム人などの異民族の侵入が相次いでたのも、アッカド統一国家の地方政権化に拍車をかけたと予想できる
 もっとも、アッカド王朝の首都の所在さえ議論の余地があるほどだから、中央集権はありえない
 思い起こせば、アッカド人はやっぱり侵略者でしかなかった

シュメール人によるウル第3王朝(BC2050~BC1950)
エジプト第11~12王朝(BC21c~BC18c)
ヒッタイト人がアナトリア高原に出現
 アッカド王朝の地方政権化に伴って、シュメール人が各都市国家の支配権を取り戻し、ウルクの王が統一国家を樹立、中央集権化によって、王政が5代続いた
 世界最古の法典であるシュメール法典もこの間に成文化されたけど、ここで一気に開花したシュメール文化は、エラム人の侵攻によって終焉を迎える

 このエジプト第11~12王朝を中王国といい、首都はナイル中流域のテーベに移る
 ヒクソス;西アジア騎馬民族に侵攻されて滅亡

 ヒッタイト人はドナウ文化圏発祥 or コーカサス地方発祥

古バビロニア王国:バビロン第1王朝(BC1830~BC1531)
アナトリア高原にアッシリア人が台頭、ヒッタイト人を植民支配(BC20c~BC1750頃)
 ティグリス河下流右岸遊牧民のエラム人が、シュメール人による最期の王朝を侵攻した頃、ユーフラテス河上流左岸遊牧民のアムル人が、バビロニア;バビロン周辺地域を侵攻、アムル人によるバビロン第1王朝を開き、事実上の古バビロニア王国建国
 以来、首都バビロンは次々と侵略の憂き目に遭いながらも都として栄えた

 バビロン第1王朝第6代の王Hammurabi:ハムラビ:ハンムラビが、シュメール法典に倣ってハムラビ法典を集大成、刑法には「目には目を」の復讐法の原則が取り入れられてるが、これはのちにイスラエル人に継承された(『旧約聖書』に類似の記載あり)


 この頃、両河上流域商業民族のアッシリア人が、アナトリア高原を侵攻、ヒッタイト人を植民支配
 また、民族系統不明のフルリ人が、両河上流域に出現

ヒクソスがエジプト中王国を侵攻(BC18c~BC1580頃)
ヒッタイト人がアッシリア人の拠点を攻略、アナトリア高原に古王国建国(BC18c~BC14c)
 ヒクソスは、セム語系の西アジア騎馬民族で馬と戦車によって、エジプトを攻め滅ぼした
 エジプト新王国に追放されるまで、150年に渡って侵攻

 植民支配されてたヒッタイト人は、ハットゥシャ(現ボアズキョイ)などいくつかのアッシリア人の都市で、おそらく放火によって、陥落させたんだと思われるが、それはこれらの都市の遺跡が発掘されたのが、 焦土層であることから推察されてる
 セム語系のアッシリア人とインド=ヨーロッパ語系のヒッタイト人は、アナトリア高原で興亡を繰り返すが、どちらも鉄器の使用で周辺諸国を侵略、これが拡大して強国にのしあがり、ついにはオリエントの統一までしてしまう
 この度は、ヒッタイトに支配権が移行

ヒッタイト人がバビロンを攻略(BC1595)
カッシート人がバビロニアにカッシート王朝(BC1500頃~BC1155)
 アッシリア人に替わってアナトリア高原を制したヒッタイト人は、既に衰退してた古バビロニア王国:バビロン第一王朝を滅ぼしたが、バビロンはそのまま捨て置かれて、ヒッタイトの支配を受けることはなかったようだ
 結果、バビロンの歴史に空白が生じた

 ザクロス山中原住民であるカッシート人が次第に勢力を拡大し、バビロニア統一に乗り出した
 周辺諸国のエジプト、ミタンニ、ヒッタイトと抗争はあったが、攻め滅ぼされるには至らなかった

エジプト第18~26王朝(BC1567~BC525)
 ヒクソスを追放して、新王国を建国、首都はテーベ
 エジプト第18王朝の王Thut-mes:トトメス3世が周辺諸国を帝国支配(BC1504~BC1450)
 同じくエジプト第18王朝の王Amen-hotep:アメンホテップ4世は、唯一神アトンを信仰し、自らをイクナートン;アトンに愛される者と改名、アマルナ遷都を強行(BC1375~BC1358)
 続くTut-ankh-amen:ツタンカーメンは、1922年に王家の谷から墓が発掘されて、多大な財宝とミイラの呪いに世間が驚愕したので有名だが、政治的にも活躍しており、アモン信仰に復し、首都をテーベに戻した(BC1354~BC1345)

両河上流域にミタンニ王国建国(BC1550頃~BC1300頃)
アッシリア人がティグリス河上流域に国家を形成、ミタンニに服属(BC16c~BC13c)
 ミタンニ王国を建国したのはインド=ヨーロッパ語系のミタンニ人だったが、 BC2000年紀前半にメソポタミア上流域に出現した民族系統不明のフルリ人は、西アジア各地に侵入、ミタンニでは半世紀で人口の大半を占めるようになった
 のちにヒッタイト帝国の支配下に(次々項参照)

 ヒッタイトにアナトリア高原の支配権を奪われたアッシリアが、ティグリス河上流域に国家を形成、強国ミタンニの属国となる

ユダヤ民族の移動
 ユーフラテス河上流域遊牧民のヘブライ人が、カナーン(現パレスチナ)に定住、先住民のカナーン人は現レバノン海岸へ移住
 ヘブライ人はこのあとエジプト移民してイスラエル人と名乗るようになり、カナーンに戻ってきてヘブライ人国家を樹立、その後イスラエルとユダに分裂して、最後まで残ったユダ王国民はユダヤ民族と称されるようになる
 これがパレスチナ問題の発端?!

ヒッタイトが周辺諸国を帝国支配(BC14c~BC1190)


~アレクサンドロス大王によるオリエント統一まで~
カデシュの戦い(BC1285)
 エジプト第19王朝の王Ramses2世がシリアに遠征、ヒッタイトに敗退

Exodus(BC1230頃)
預言者Mosesの指導によるエジプト移住ヘブライ人の出エジプトとカナーン定住
Judaism
Judaism:ユダヤ教:ヘブライ教はヘブライ人の信仰する宗教
多神教のOrientでは唯一の一神教で神はJahveh:ヤハウェ
契約観念、選民思想、戒律・祭儀の遵守、終末観を持ち
Messiah:救世主やProphet:預言者による救済を信じる
ペルシアのバビロニア征服によりバビロン捕囚だったユダヤ人が
解放され帰国が叶ったことから信仰の正しさが確信された経緯がある
経典は『旧約聖書』でキリスト教の母胎となる

海の民;地中海を制圧した混成民族がヒッタイトを侵攻、帝国崩壊(BC1190)

エラム人がバビロニアを侵攻、支配(BC1150~BC1124)
アッシリアがバビロニアを侵攻、支配(BC12c~BC11c)
フェニキア人;カナーン人のギリシア語名が現レバノン海岸に開港都市シドンとティルスを建設

alphabet
フェニキア人が使用したフェニキア文字は世界最古の表音文字で
東地中海一帯の交易活動を担って広く流布された
22文字の子音文字だったのがギリシアで母音文字が加わり26文字になり
現在のalphabetに発展した

ヘブライ人が現イスラエルにヘブライ統一王国建国(BC11c~BC922)

ヘブライ統一王国の建国から分裂(BC10c)
フルリ人が王国建国
ヘブライ統一王国第2代の王Davidが首都をイェルサレムに制定
ヘブライ統一王国第3代の王Solomonがイェルサレムにヤハウェの神殿を建立
Solomonの死後、イスラエル王国(BC922~BC722)とユダ王国(BC922~BC586)に分裂

 フルリ人がウラルトウ王国を現在のアルメニア辺りに建国
アッシリアに滅ぼされる→戻る

アッシリアがバビロニアを侵攻、支配(BC9c~BC625)
フェニキア人が現チュニジアに植民市カルタゴを建設(BC814頃)

フリュギア人;バルカン半島からの移民がアナトリア高原を侵攻、支配(BC725~BC715)
アッシリアがイスラエル王国を侵攻、支配(BC722~BC612)
アッシリアがアナトリア高原を侵攻、支配(BC715~BC612)
イラン人;原住民がイラン高原にメディア建国(BC8c~BC550)

リディア人がアナトリア高原南西に国家を形成(~546)
新バビロニア王国:カルデア王国建国(BC625~BC538)、首都バビロン
キンメリア人;北方騎馬民族がアナトリア高原を侵攻、支配(BC690~BC630)
スキタイ人;北方騎馬民族がアナトリア高原を侵攻、キンメリア人を追放(BC630)
アッシリア王Assur-banipalがOrient統一(~BC612)、首都アッシュール
メディアと新バビロニアとスキタイ人がアッシリアを征服(BC612)
4国分立(BC612~)新バビロニア王国、エジプト新王国、メディア、リディア
ニネヴェの大図書館→戻る
大征服者であるアッシリアの王のAssur-banipalが建設した


鋳造貨幣
世界最古の鋳造貨幣の使用はリディアにおいてであった


新バビロニア王国のNebuchadnezzar2世がユダ王国を征服、捕囚(BC586)
Exile(BC586~BC538)新バビロニア王国によるユダ王国住民のバビロンへの強制移住


ペルシア人;パールス地方原住民がメディアを征服、アケメネス朝ペルシア建国(BC550~BC330)
アケメネス朝ペルシアがリディアを征服(BC546)
アケメネス朝ペルシアが新バビロニア王国を征服(BC538)
アケメネス朝ペルシアがエジプト新王国を征服(BC525)
アケメネス朝ペルシアがアナトリア高原に遠征、スキタイ人に敗退(BC513)
Zoroastrianism
Zoroastrianism:ゾロアスター教:拝火教はBC7cにZoroastrによって開基
善悪二元論により善の神アフラ・マズダと悪の神アーリマンを拝し
この二神が3000年交替で世界を司り最後の審判では善神が勝つとしてた
火を神聖視するのが特徴
ササン朝ペルシアで国教とされて経典も教会組織も確立された
経典は『アヴェスター』で現存する最古の経典はササン朝ペルシアのモノで
『ゼンド・アヴェスター』と呼ばれる

ペルシア戦争(BC500~BC449)アケメネス朝ペルシアがアテネとその同盟市に遠征、敗退
Persepolis
Persepolis;ギリシア語で"ペルシア人の都"の意
Orientの覇者であるアケメネス朝ペルシアの第3代の王Dareios1世が建設した王都
次のOrientの覇者になったマケドニアのAleksandros大王により陥落
125000km2の広大な敷地を占める宮殿跡に石柱の残骸が残る遺跡


『Historiai:歴史』
歴史家Herodotos(BC484~BC425)がペルシア戦争(BC500~BC449)を物語的に記述

BC4cギリシア北方の王国マケドニアのAlexandros大王が東方遠征(BC334~BC324)、Orient統一(~BC323)
アレクサンドリア市
Alexandros大王が東方遠征の途上に建設してった約70の都市
中でもプトレマイオス朝エジプトの首都となったアレクサンドリア(BC331建設)は
ヘレニズム文化の拠点で「世界の結び目」と呼ばれた




© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: