全336件 (336件中 1-50件目)
パレスチナのカルメル山にあるタブーン洞穴の「女性」の骨格はネアンデールタール人の体の上に、丸くてずっと現代人的な頭がのっているという明らかに混成的なものであった。北部イラク山岳地帯のシャニダールの洞穴では、顔の上部全体が現代人的風貌をもつネアンデールタールの変種が見つかっている。それは4万5000〜44,000年前のものである。その近くのスリフル共同墓地から出土したものは、ネアンデールタール人よりもクロマニヨン人に近接しまた現生人誕生の前夜といえるまで進化したものであった。イスラエル北部のアームッド洞穴からは、頭はネアンデールタール人でありながら顔はホモサピエンスという、古いネアンデールタール人と現代人とのつながりを示すものが発見されている。その年代は40,000年前より前であるとされている。クリミヤ半島の突端のスタロセリエ洞窟でも、1〜2才の子供が埋葬されているのが発見された。たぶんにネアンデールタール人の特質を残しており、ネアンデールタール人とホモサピエンスの一種であるクロマニヨン人との中間的位置をしめるものとされている。このようにして確かめられた現生人類の祖先は、ほとんど現在のヨーロッパ人的なものであえうから、学者はこれを【ユーロポイド】と名付けたのである。これらは、西アジア、中央アジア、この地域で何故ヒトの進化がありえたのでしょう。当時、リス氷河期には、この地方では、気候が湿潤化し、広葉樹林、落葉樹林、そして多くの湖や河川、多種多様の食料源に恵まれるという人類の進化に最も適した地域だったからでした。この地域に現れたユーロポイドのことをアジア的ユーロポイドと呼んだ。彼らはやがて、被氷地ユーロポイドと、アフリカ地中海的ユーロポイドを生む。一方シベリアを見ると、ネアンデールタールじとホモサピエンスの過度期の型からホモサピエンスにまで進化したものが、バイカル湖にそそぐアンガラ川沿岸のマルタでも発見されたのである。これはシノ・シベリア的モンゴロイドと名付けられた。その他、ウラルの東、天山(テンシャン)の北にもモンゴロイドを見出し、これはツングースモンゴロイドと名付けられた。何故ここにも人類の進化が行われたのでしょう。その時期にあっては、アルタイ山地、サヤン山脈、ヤブロノイ山脈の北面には未だ氷原がまだらに残って寒気は厳しかったのであるが、その南面には樹林が茂り、その下草が萌え温暖であり、そしてその南には湖沼を連ね、緑に囲まれた東トルキスタンという盆地があったからである。したがって、この時期では、東トルキスタンの北壁と東トルキスタン、中央アジア、西アジアは、人類進化に絶好な環境に共通する一つの世界をなしていた。では、何故被氷地人類がこの進化に立ち遅れたのでしょうか。シベリアの中央高原が東西を隔離しているオビ川流域は氷原で、これもまた第2の隔離であった。ドン河とドニェプル河の線には未だ氷河が残っていて、それはアルプスに連なる欧州の山脈におよんでいた。その環境がホモサピエンスの出現をシベリアの南側・東パキスタン・中央アジア・西アジアの広地に限ってしまったのである。
2022/08/27
インダス人の出自はメソポタミアのシュメール人。このシュメールの人々の出自を太古にまで遡ると少なくとも16万年前にアフリカを出発しインドネシア辺りのスンダ列島から北上した古代モンゴロイドの縄文人がベージリアンが冠水したためアメリカ大陸への行く手を阻まれ、その地に留まらざるを得なくなり、その津軽半島の大平山元で今から1万6523年前に世界最古の土器(無紋式)を発明して作り出しやがてアムール河を遡行してアジア大陸を南へ、そして西南へと移動し、時として北極までも追われ、そこで寒冷地に耐えることができました。その一部がその後長い年月を経て氷河が溶けて出来た当時の巨大なタクラマカン大湖を経由してアフガニスタンのバタフシャンのラピスラズリとともにインダス河口から海路シュメールへと移動し(オアンネス魚人神話)そこでもBC3300年頃、世界最古の文字である楔形文字を発明するなどの文明を創り出していったと考えられます。この高度の文明を有していたインダス人の末裔が征服アーリア人から虐げられ今日、南インドやスリランカにまで追われてしまったドラヴィダ人だったのです。インドに侵入したアーリア人の中にカッシート人が含まれていたことはヒマラヤ山脈のヒマラヤという言葉自体がカッシート語に見られます。シマーラヤ(雪山中の女王)から名付けられています。そしてアーリア人もかつて最後の氷河期の到来により北極圏経由してインドに至ったことは(寒冷地適応)サンスクリットで書かれたリグヴェーダに暗示されています。プロト拝火教は北極圏での夜の暗黒に対しての恐れに由来するもの寒さに対しての苦しみからの由来するものだったのです。
2020/03/31
古代の人類集団は、【トーテム】をもち、そのトーテムの名で呼ばれます。【牛】の原産地はメソポタミア。そのウルク期に於いて牛はウルと呼ばれていました。牛族が王族となったため、ウル王朝と呼ばれ、都市もまたウル市といわれました。それから34世紀経ったBC1世紀、古代満州の扶余に牛を部族名とする【牛加】が実在しました。【加】とは、人の意であり、部でもあります。【牛加】が官名であると同時に部族名でありました。 牛加には二種あり、一つはウル族、一つはシオ族。この【塩族・シオン族】は、BC2800年前後頃から、牛族のウルクと帯同して原郷のメソポタミアを離れ、インドでは釈迦の名で呼ばれ、殷では、【召方ショウホウ】と呼ばれました。【日本書紀】垂仁天皇二年の条の第一の一書にあった【額に角の有る人】という記述は 牛の角形のついた冠帽をかぶった人の形容で、これが【兜】になり、二本の牛の角のある【牛冠】をかぶる古代の習俗だったのです。【ツヌガアラシト】はツノガアルヒト(角がある人)であると共にアラシトは、後代実在した加羅の人名、また王号でもありました。【蘇】は【于斯うし】牛の朝鮮語のsoです。【牛冠】とは、人間の身分を表し、【王】のシンボルだったようです。BC2500年、アッカド王国では、ナラム・シン王がかぶっていました。BC800年、ウラルトゥ王国では、牛冠のスフィンクスが王座の一部でした。祟神・垂仁朝、牛冠をかぶっていたというウシキアリは王子でした。【日本民族を形成するアジア五加】馬族・・・・・アルタイ系種族(白人系)牛族・・・・・オリエント系種族・シュメール人(白人系)犬族・・・・・印欧系アーリア種族(白人系)鳥族・・・・・殷人(黄色人系)蛇族・・・・・原南洋人(オウストロネシア語族(黄色人系)縄文晩期の西日本は、原南洋人、オウストロネシア語族、蛇をトーテムとするオラン・ラウトの生活舞台でした。次いで弥生早期に洛東江流域から南加と原シナ人(鳥をトーテムとする猪加)という猪加とは、チュルク族、つまりトルコ人のことです。猪加というのは、扶余の王族である馬加の文化人が蔑んで名づけた名でした。黄色人同士、稲作農耕民であるところの二種族が西日本へ渡来しました。これが日本列島へ稲作文化を搬入した二加であり、原畿内人であり、銅鐸人であったと考えられます。次に、弥生中期になると、扶余の王族、高句麗の前期王族、そして、馬韓王の系譜につながる馬加を盟主とする連合軍が、まず北九州の松盧国に上陸し、以後しだいに先住の狗加、牛加、猪加、南加たちを制圧して九州に入りました。これが日本の天皇氏族であり、種族の系譜としては馬をトーテムとするアルアイ系人種、すなわち北方騎馬民族の一種です。また、馬加が西日本一帯を完全に制圧したのは、【三国志・魏志・倭人伝】によると、247年、九州の狗奴国(狗加の国)が邪馬壱国に敗北した時点になります。弥生時代の【弥生】という名は東京の本郷弥生町からとったものでありもとの地名は【向ガ岡】、ムコガ岡を語源学的に表記し直せば【馬加賀岡】。即ち、東大農学部構内の弥生土器が出土した地点には弥生後期、馬をトーテムとする人間集団馬加が小邑落をつくっていたのであり、そこから出土した弥生土器はアルタイ系人が使用してものでした。また、大森の久が原遺跡は、弥生中期、狗加族(くかはら)が住んでいた跡であり板橋の前野遺跡は馬拝(まへの)が住んでいた後期遺跡であって、日本中の古代遺跡跡地の【地名】は、みな、そこに住んでいた種族、アジア五加の名が付けられていたといいます。現在、地名がどんどん新しく改変されています。歴史の唯一の手がかりを惜しげなく消してしまっていいのでしょうか。
2017/04/19
"Ur"という言葉は、【非常に古い根源的なもの】を意味します。Urbefolkning ;原住民、先住民族Urkraft ;根源力、底知れぬ力Urkristendem ;原始キリスト教Urkund ;原本、原典Urminnes ;太古(以来)のUrtid ;原始時代、先史時代【ウルの牛(Uroxe)】は、原牛(古代に住んでいた牛)を意味するそうです。ウルは、アナトリアのチャタルフュイックの牛頭信仰に繋がっていると考えられます。アッカド人が現われる前のメソポタミアは、シュメール人とウル人が住んでいました。シュメール人は蛇を、ウル人は牛をトーテムとする人たちでした。そしてウル人がシュメール人を支配していたらしい。牛の頭に対する信仰【牛頭信仰】は、後の人類の歴史の中に系譜が遡れます。日本国のスサノオのミコトも牛頭大王という別名をもっていますし、牛頭天王というのは、古代天竺(インド)に居て、釈尊の教国の僧坊である祇園精舎の守護神だったといいます。牛頭神はヨーロッパにも見られ世界文明の主なる流れの最高神だった可能性があります。BC3000年頃からインダス河口が人々の移住を許すようになるとセム族に圧迫されながらエラム、ドラヴィダ系の人々が南下し、前2350年頃から、アッカドのサルゴン王家は河口のロートルに上陸し、筏に乗せて牛を揚陸させました。インダスに於いては牛が貴重品であったため支配者のアッカド人とウル人はドラヴィダ人に聖牛思想を教え、牛首のバァル神の崇拝を強制しました。それまで、ドラヴィダ人の祭神は【ヤオロチ】即ち蛇神であり、シュメールではサルゴン時代からバァル神とディルムン説話が生まれていたのです。したがって、これ以降インダスでは聖蛇信仰と聖牛信仰が併存しました。アッカド人とウル人はグート人に圧迫され、前2000年以前に、チベットから黄河沿いに下降して彩陶文化を残すのですがウル人はチベットのホータンを中心として月氏となります。月氏の前身はカッシート人といい、そのカッシートの前身がウル人だったのではと考えます。アナトリアで自然銅を加工する技術を最初に発見した人々が牛頭信仰のウル人であり、銅、後には錫や金・銀・鉄を探鉱するために世界に散り、あらゆる民族の基になったのではないか? なぜなら、彼らウル人の痕跡が北方ヨーロッパ各地にも残っているからです。シベリアや東アジア、アメリカ大陸にも鉱山を探しに移動しています。彼らの鉱物を需要していたのが、メソポタミアの広大な農場でありエジプト王朝だったらしい。インドは、それらを円滑に行うためのコンビナートであり、精神性を高め民族の宇宙観を極めていったスピリチュアルな聖地だったのではないかと思うのです。ウル人は、月氏であり、サカ族になり、倭人の中心的存在であったと考えます。サルゴンの後、リムシュ→マニシュトス→ナラムシンが継承します。【ウル第三王朝】BC 2190~2005 【前期イシン王朝】BC 2017~1794ダミクイリシュ王の時、イシン王朝は一旦滅び、一族(イシンの人々)はラルサのリムシンに征服された後、エジプトに逃れ、ヒクソス国家をたてた後、再びカナンの地に逃れ、エブス人となり、その地でユダヤ人に出会いました。メソポタミアでアラム族のイシン本国が亡び、アッシリアが栄え、中国大陸に支配が及ぶと中国のアラム族も圧迫され、南湾の凌河流域に後退して箕子朝鮮を建てました。イリのアルタイは、シルクロードで一番の金山でしたので、アラム人たちは此処を根拠に決めました。この人々の金姓は、ここから始ります。タクラマカン砂漠の北部、イッシク・クル湖からクチャを経て、カラシャール、トルファンにかけての地帯が箕子(シン王の従兄)またはシウ殷の故地でした。砂漠の南部、ホータンからチェルチェンを経てロプ湖畔の楼蘭に至る地帯が辰国=ウガヤ王朝の故地になります。この後、アッシリアに抵抗して亡命した海の国カルデラ人(サカ族)が西方のアラル海とアム河・シル河、両河に挟まれた原野地帯に扶余を建国し王家は昔姓でサカ族の王を称し、王号を【シウスサカ】といいました。月氏族で朴姓のアメニギ氏が辰国をたてて三国が擁立しました。ヒンドゥークシュ山中に源を発し中央アジアのアラル海に注ぐアム・ダリア大河流域にはかつてバクトリア王国が存在していました。この国はBC4世紀後半のアレキサンダー大王の東方遠征に伴ってつくられたギリシア人の植民国家でした。アレキサンダーの死後はセレウコス朝(シリア)、マウリア朝(インド)アルサケス朝パルティア(イラン)などの手に委ねられましたが、最後はBC145年頃、北方から侵入してきた遊牧騎馬民族のスキタイ(サカ)によって滅ぼされました。このスキタイ(サカ)は、かつて中国西北部の河西回廊から敦煌にかけて勇躍していた月氏(大月氏)のことですが、後にガンダーラからインドへと進出したクシャン族であったとも言われています。そのクシャン族がタリバンによって破壊されたバーミアンの大石仏を造営したのです。アショカ王の説話は彼らサカ族の扶余人が、コータンを支配するアメニギ氏(アッカドの末裔)系の月氏を憚って、サマルカンド南方のバクトリアに建国した事実を示します。BC256年、バクトリア知事ディオドトスが、クーデターによって政権を奪い、グレコバクトリア(大秦国・大夏国)を建て、ディオドトス1世と称しました。BC246年、ディオドトスは、バクトリアの統治を2世(胡亥)に任せ、自らは精強なペルシア軍団を率いて中国に至り、秦の始皇帝と名のり、諸国制覇に乗り出しました。BC239年、秦始皇帝の余波を受けて、申国(大夫餘)にいたウガヤ42代・解慕漱(かいぼそ)が東北(満州)へ逃れ、松花江河畔の農安に北扶余王朝(前期王朝)を建て王となりました。同じ頃、マレー海峡のヤーヴァ・ドヴィーバの移民たちが沖縄から移って建てていた中山国が滅び、国王・綽(しゃく)が蜀へ移されたため、遺民たちは遼東へ移動し、原ツングース(韓人)を従えて箕子朝鮮(智淮氏燕ちえしえん)を再興しました。BC221年、ディオドトス1世、秦王政が中国を統一して秦帝国を建て、始皇帝と称します。BC213年、秦始皇帝(ディオドトス1世)による焚書坑儒事件が起こります。箕子朝鮮の上将卓が帯方(月支)に辰国を建て、秦の亡命者は、慶州に馬韓の分国をたて辰韓と称しました。この時、箕子朝鮮系の馬韓人に従って渡来した倭人が【北倭】でした。北倭と秦の亡命者は、エビス王から鳥栖河と背振山脈の間の地、吉野ヶ里を譲られ倭奴国(秦王国)としますが、後に神武と公孫氏に敗れ、出雲経由で大和地方に【秦王国】を建てます。馬韓人に領土を与えたという【東表国王クルタシロス】が【倭面土国王師升】のことです。このシロス王は駕洛史では金官国の【首露王】になり、新羅史では金氏の祖の首留日本史では孝元天皇になっています。
2017/03/21
中東は、アジア、ヨーロッパおよびアフリカの三大大陸が結合する地球上でも珍しい地域です。それに紅海で裂かれたアラビア・プレートが、アジア大陸に衝突し、ザクロス山脈をつくっているところです。1億年以上前、そこは浅い海でした。海の底の藻類やバクテリアの死骸がゆっくりと沈み、地下奥深く堆積しました。そして、地熱の働きによって、石油へと変成したのです。その中東の資源は昔も今も多くの人々を惹きつけています。それは、初期の農耕によって生み出されました。 では、農耕はどのようにして始まったのでしょうか。ナイル川の畔に文明が誕生したのは、気象変化のためだったと考えられています。昔々、北アフリカは、今よりはるかに温潤で植物が多かった。最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部のナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。 さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見しその銅を加工する高温技術を発明したと思われます。特筆すべきは、アナトリアの女系性です。壁画、漆喰浮き彫り、石の彫刻、粘土製のおびただしい【女神】小象、すべて女性崇拝の品々が発掘されています。この現象は、おそらくエリコからすでにあり、6000年頃にはアナトリアから農業の伝播とともにメソポタミア、コーカサス南方、カスピ海南方、それまでは辺境であった地域にまた一方では南ヨーロッパへと拡大し始めます。この地母神は、クレタ島やキプロスにも海路によりつながっていったのです。【大いなる女神】が、ときに鳥の姿になったり蛇の【女神】になったりしながら、水の生命授与力を支配し、ヨーロッパとアナトリアでは雨を孕み、乳を与える、そういう文様が刻まれています。アナトリアのチャタルフユィックの遺跡からは、母系で妻方居住の社会構造が現れました。その構造は、チャタルフユィックからクレタに移住し、太古地母神《女神》と共に農業技術をもたらし、つづく四千年の間に、土器製作、織物、治金、彫版、建築、その他の技能およびクレタ独特の生々とした喜びに満ちた芸術様式の進歩がありました。そこでは富は、公平に共有されました。年上の女性ないし氏族の長が大地の実りの生産と配分をつかさどり、実りは集団の全員に属するものとみられていました。主要な生産手段の共有と、社会的権力は、すべての人の利益になるよう図られ、責任のもとに基本的に共同的な社会組織が生まれていました。これは、パレスチナの世界最古の町エリコナトゥフの人々が成功していた共同社会につながると思われます。太古地母神《女神》を中心に女も男も異なった人種の人々も・・・共通の幸福のために平等に協力して働いていました。母系による相続と家系、至高の神としての女性、現世的権力をもった女司祭と女王の存在はありましたが男性の地位が低いということはなく、両性は平等な協調関係を築いていました。男女仲良く手に手をとった姿は、今でも道祖神のなかに見受けられます。彼らは、たいへん自然に親しんでいて、アニミズム(精霊崇拝)はクレタだけでなく、ケルト民族にも伝わりました。太古地母神《女神》を中心にした文化はアナトリアを中核として地球一周しました。ストーンサークルやドルメン、メンヒルなど、これらの祭祀が彼らの残した足跡です。しかし、その女神崇拝文化も侵略され滅亡される時がやってきました。 最初、それは家畜の群の草を求めて彷徨う一見取るに足りない遊牧民の集団にすぎませんでした。数千年以上も、どうやら彼らは地球の端の誰も望まぬような厳しく寒く痩せたシベリアに住んでいました。その遊牧の集団が長い期間をかけて数と獰猛さを増しヨーロッパ北東からヨーロッパ大陸に群がり南下し侵略してきたのです。彼らは最初のインド・ヨーロッパ語族あるいはアーリア人といわれるクルガン人。あるクルガンの野営地では、女性住民のおおかたはクルガン人でなく、新石器時代の太古地母神《女神》崇拝の人々であったことが発掘資料から判明しています。このことが暗示しているのは、クルガン人が、その土地の男性や子供たちの大部分を虐殺し、女性たちのある者だけを助けて妻や奴隷にしたということです。遺跡から農機具のみで武器というものが見あたらない【平和】で【民主主義】な社会が営まれた《女神》崇拝社会が破壊され、男性的支配社会の始まりでした。インド・ヨーロッパ語族は、先の文明を築いていた太古地母神《女神》を崇拝する農耕民族を次々侵略していったのです。インドに於けるアーリア人、【肥沃な三日月地帯】に於けるヒッタイト人とミタンニ人アナトリアに於けるルヴィ人、東ヨーロッパに於けるクルガン人、ギリシアに於けるアカイア人および後のドーリア人、彼らは征服した土地や先住民の上に次第に自分達のイデオロギーと生き方を押し付けていったのです。このほかにも侵略者はいました。ヘブライ人と呼んでいるセム系の人々です。
2017/03/21
カシート王朝から月氏王国、クシャン朝からサカ族~蘇我王朝につながる人々は交易においても重要な役割を担いました。中東は文明の十字路でした。数多の民族があらゆる方向からやって来て相争い、王朝を立てては滅んでいきました。「ムー」という雑誌の1999年12月号に「シャンバラ伝承と謎の古代文明クスターナ」という記事が出ています。シャンバラはシャングリラー。理想郷という意味です。またクスターナは、梵語で「大地の乳」を意味する言葉で、その後、クスタン、コタンと変化し、現在の新疆ウイグル自治区の町、ホータンだといいます。「ムー」の記事によれば、崑崙山脈から湧き出した清流が白玉川(ユルカンシュ)と黒玉川(カラカンシュ)という二本の川となってコタンの東西を流れ、その水が「大地の乳」なのだそうです。言い伝えによれば、コタンの町の近くにはアルティンタックと呼ばれる純金の山があり、無尽蔵の金が掘り出されていたといいます。さらに白玉川と黒玉川の両川からは、玻璃や瑠璃など玉が豊富に採れたともいいます。ラピスラズリの産地は、アフガニスタンの奥地、バダクシャンです。BC6000年頃から世界中に銅資源を求めて探し回った人々は、BC4500年頃には、東シベリアの銅や錫鉱石を採掘していた可能性が高く、それらの銅や錫は、メソポタミアまで運ばれていました。これらの銅や錫鉱石、ラピスラズリをメソポタミアに運んだ鉱山技術に優れた人々が、月氏=サカ族でした。彼らはイラン高原東部からバクトリア、ソグディアナ及び西北インドにかけてサカスタン王国を建てています。アケメネス朝ペルシアがパルティア帝国に滅ぼされた後のことでサカスタンは(サカ人の国)はペルシアの一部を引き継ぎました。BC6000年頃から世界中に銅資源を求めて探し回ったウルの人々が、文明の十字路クスターナを根拠に拡がっていったと考えられます。倭人には、北方性と南方性がありますが、南方性は弥生農民の文化です。倭人は、カルデラ人を中心とする南セム族であったのですが、バクトリア南部のシスターン(サカスターン)地域では既にサカ族の名になっていて、この地のサカ族は、ペルシアのキュロスの時、降伏して、ヒスタスペスの支配を受け、後ペルシア王統が乱れた時、ヒスタスペスの子がダリウス一世となっています。蘇我氏と、その一族が目指した方向というのは、仏教中心の政治でしたが、それは中国のものではなく、より西アジア的なものでゾロアスター教というより、もっと根源的なミトラ教的宇宙観でした。ミトラ教は、メソポタミアからペルシア、ユーラシア全域に広がった、太陽信仰・光明信仰でした。北メソポタミアの王国ミタンニがミトラ国という意味であり、ヒッタイト王国の王室も「聖なるミトラ」と名付けられ、日本の天皇も宇宙を統べる皇帝すなわち「ミトラの皇帝」と意味する『スメラミコト』と称される。ミトラは古代ペルシア語の一部の方言でミシアと呼ばれましたが、それがメシアとなりました。フリーメーソンの起源もミトラであり、弥勒菩薩もそうです。それに加えて鳥のシンボリズムもあります。蘇我氏のルーツサカ族は、アケメネス朝ペルシアがパルティア帝国によって滅ぼされた後、ペルシアの一部を引き継ぎ、イラン高原東部からバクトリア、ソクディアナおよび西北インドにかけてサカスタン王国を建てました。パルティアは470年ほども存続した巨大帝国でしたが、世界史上あまり知られていません。ペルシア帝国と同様、ミトラを国教とし、皇帝の名もミトラからとっています。パルティアを中国では安息国と呼びアンソクまたはアンキと発音しましたがそれが元来アサカ(アスカ)であったようで、日本の飛鳥につながります。シスターンに出来たサカスタン王国は、そのパルティアから、より宗教的に強い主張を持って【独立】した勢力でした。やがて彼らは東に移っていったのですが、シスターンに遺した彼らの貴金属の透かし彫りの技術は美しく精巧で学者の関心を惹いています。
2017/02/04
第三の眼。 二つの眼の間に位置する、もう一つの眼のことをいいます。仏像の眉間にある小さな丸いもの、これは衆生救済のための光を放射する「百毫」と呼ばれるものです。仏さまは、この第三の目を通して霊的世界に通じているといいます。ヨーガでは、体からエネルギーが発生する重要な部位を「チャクラ」といいます。これは人体に七個ありますが、そのうち一つが額の中央に位置する「サードアイチャクラ」です。この第三の目は「神の座」とされ、チャクラのなかでも特に重要視されています。驚くことに、私たちの遠い祖先も第3の眼を持っていたといいます。その痕跡は今も私たちの脳の中にあって、眉間から奥脳の中心辺りに光をキャッチしてメラトニンというホルモンを分泌する磁気センサーに相当する松果体という器官が第三の眼にあたります。松果体は珪素で出来ています。珪素(英語名シリコン)は宇宙では7番目に多い元素、地殻の約28%は珪素であり、酸素に次いで2番目に多い元素です。ケイ素の振動波が、宇宙の情報に通じると考えられます。太古の人々はテレパシーや透視力を日常の生活に取り入れていたそうです。テレパシー、透視力は右脳が開かれて宇宙の心と一体になったときの力です。古代人は岩石と岩石の間に自分を挟み宇宙人と交信していたとする壁画や遺跡で伝承されています。http://www.scribd.com/doc/16839498/Plasma-in-the-Lab-and-in-Rock-Art この宇宙の波動と共鳴・共振するときの入り口が「間脳」の中にある「松果体」という小さな器官です。松果体をヒーリングする事により、ひらめきやシンクロという宇宙からの情報を受け取ることで、生命力という情報処理能力を高めてくれるといいます。松果体は、さまざまな脳内ホルモンをコントロールしています。人間の肉体も意識も、この松果体によってコントロールされていますので松果体をコントロールすることができれば、宇宙の波動と同調することができると考えられます。【松果体】は脳の中にありながら、細胞レベルでは驚くほど眼、特に網膜の細胞と構造が似ているそうです。松果体になる細胞がごく若い胚の時期には、レンズ、色素上皮、網膜ニューロンなど、眼をつくる細胞になる可能性(分化能)、すなわち松果体は眼になる可能性を持ちながら、眼とはまったく別の器官に発達してきました。松果体の細胞はなぜ、眼になる可能性を秘めているのか?それは、サルより遥か昔に遡った人間の祖先にあるようです。 生物の眼は、進化の過程のごく初期に完成しました。動物には骨のある脊椎動物と骨のない無脊椎動物とがあり無脊椎動物が先に現れました。このうち背骨の前駆体の脊索をもつ原索動物がカンブリア紀頃脊椎動物に進化しました。現生の原索動物では、ナメクジウオが最も人間の先祖に近いとされます。ヒトとナメクジウオの遺伝子は少なくとも6割が共通しており、遺伝子の並び順も似ていることがわかっています。ナメクジウオは一つ目です。松果体は、太陽の電磁場エネルギーをメラトニンに変える働きをします。このメラトニン・ホルモン分泌の強力な影響によってバイオリズムを完全にコントロールし、女性の受胎力も与えられるようになっています。古代マヤやエジプト文明では、かなり詳しく研究されており太陽を受胎力の神として崇拝していました。彼らは地球や月、太陽、星などにも、同調して暮らしていたようです。生物は太陽なしには生きながらえることができませんでした。植物に比べ、動物は自分では太陽エネルギーを利用できずほかの生物のエネルギーを奪って生きる方向に進化した生物です。そのために最初に進化した動物の器官が腸です。腸の入り口が口、出口は肛門である単純なミミズのような生き物でした。そして腸を包む外側の細胞群のうち背側のものが板状になりやがて、餃子状に身体の内側に落ち込んで別の管をつくり、これが神経であり、脊髄になります。こうして、最も外側の細胞群が身体全体を包み込む皮膚になりました。腸の一部がふくらんだものが胃になり、胃に至るまでの部分が食道です。脊椎動物になると、ミミズのような管の口側の先端がふくらんで脳になり、この時に、それまで体の全長に散らばっていた光覚器官が頭のてっぺんと両側に集中し、間脳の背面がふくれ出しました。これが眼のような構造をもつ頭頂器官です。ナメクジウオの一つ目です。今ではニュージーランドのムカシトカゲしか見られない、第三の眼、頭頂眼です。高等脊椎動物では、大脳半球がふくれて頭頂器官は覆われ進化の過程で頸の動きが活発になると上の眼は不要になり結果、松果体は眼としての機能を失い、光に反応する内分泌器官となったのです。しかし、光に反応するメラトニンを分泌する松果体は宇宙の波動と共鳴するとされ、古代の人々、特にジャーマンは松果体を活性化し、太陽や月、星など宇宙と同調して超能力を発揮していたようです。松果体こそ人間の根源の働きを秘めたところでした。。松果体はとうもろこしの粒ほど小さな器官です。この器官は人間の体の中で一番最初に完成し、受胎後3週間ではっきり確認できます。36億年前、粘土(ケイ素+アルミの化合物)の海で、電気信号(雷)の刺激に因って生命が誕生したことから遺伝子DNAの源自体がケイ素でありました。ケイ素とアルミは結び易く、日本の河川の水が澄んでいるのは、岩から溶け出したケイ素が、直ぐにアルミと化合して粘土と成り、沈殿するからだそうです。現在の都会では、浄水場でアルミを投入し、汚れを沈殿させ浄化させているのだそうです。すると、ケイ素はアルミと化合して、水中から無くなってしまい、ケイ素の欠乏、逆にアルミの取り過ぎになってしまう。「アルミ」は、アルツハイマー病の原因の1つだそうですが、珪素が有害なアルミニウムの吸収抑制に働く物質ということから珪素不足は、 研究しなければばらない課題となりましょう。人間は、水道が整備されるまでは、山水や井戸水を飲んでいたので、体に必要なケイ素は不足することがありませんでした。 渡り鳥や回遊魚などの体内から、生体コンパスともいうべき磁性物質が相次いで発見され、人体にも同様の器官があるらしいということが解明されてきました。かつて人類も鳥や動物のように、地磁気を感知する能力をもち、採鉱をし宇宙と同調して暮らしていたことが鮮明になってきました。松果体は、硅素に拠って出来ており、「珪素」は、磁場に強く反応することから鳥が松果体に拠って時を計り、鳩は、遠くへ放たれても自分の巣へ帰り、渡り鳥は自分の体の内に羅針盤を持っていると考えられます。ヒトも植物同様に体内のケイ酸塩の圧電性から規則正しい波長を出し、どんな弱い波動でも分子や細胞と共振すれば、生命現象に大きな影響を与えます。樹木の葉は落葉され土壌菌によってケイ素が溶出され、川や海の魚類達は豊かなケイ素から豊かな魚場を形成するという正しい生態循環が自然に行われていた古代を生きていた人々の叡智は現代人を遥かに超えたものでしたでしょう。。
2017/02/04
日本人とユダヤ人のルーツについて、日ユ同祖論があります。半信半疑でしたが、調べれば調べるほど、その要素が濃く認めないわけにいかなくなってきました。確かに、彼らは、日本へ渡来し、日本国形成の重要な役目を担ったようでした。飛鳥時代から古墳時代がそうで、前方後円墳は、彼らの手によるものです。秦人といわれる彼らは、壬申の乱以後、影を潜めますが、そのパワーは、後の世の武士として蘇るのです。藤原氏に溶け込んだ秦人もいて、天皇家の側近に身を置き、今も連綿とつづいています。例えば雅楽部の方々がそう思われます。秦人は世の表舞台にでることは控え、芸術面などに広がっていったようです。能の世界、世阿弥などもそうです。世阿弥による【阿漕】という【能】は、九州日向国から伊勢国に参り、海人の亡霊に出会う内容になっています。阿漕は、三重県津市にあり【津】はシュメール語の【ツ】突き出た塊をいいます。越の【エ】は家、【ツ】は海岸線の突き出た塊(岬の入り江)などに海人が家を建てて拠点にしたことから【越】は拠点を意味します。これは【呉越同舟】の【呉人】と【越人】も倭人であるところからきています。海人は海岸付近で住み、先住民である縄文人のテリトリーを侵すことはせずに稲作農法を伝え、鉄の農具も与え、共存していたそうです。それが大黒・エビスへの親しみになったのでしょう。エビスと呼ばれた人達は、中国大陸では東夷(東のエビス)と云われたエブス人です。夷(てつ)の人で鉄部族ですが先住民と混血して蝦夷にもなったのでしょう。縄文人である先住民はメソポタミアに住んでいた苗族で、シュメール人の支配下にあったウバイト人(苗族)が、大移動を始め、パミール高原からアラル盆地、ウラル山脈沿いに北極まで行き、シベリア、モンゴル、満州、朝鮮、日本北部に拡がり、さらにベーリング海峡を渡ってアメリカに行き、インデアンになったと云いそれぞれ移動した地域によって各種族に形成したようです。バイカル湖のブリヤード人は、苗族が寒冷適応のツングース化した北方モンゴロイドで、さらに南方から来た倭人(南方モンゴロイド)と混血したのがアイヌ人、沖縄人も南方モンゴロイドなので同祖になります。『三郡誌』によると現在の津軽地方に最初に定住したのがアソベ族でその後、ツボケ族が大挙して渡来してきたといいます。好戦的なツボケ族により、アソベ族は、山辺に移ります。そして、大地震と火山の噴火でアソベ族は壊滅的打撃を受け、わずかに生き残った者もツボケ族の支配下に置かれます。伝承に「アソベ族 とツボケ族は同祖であり、アソベは西の大陸から、ツボケは東の大陸から東日流へやってきた」とあり、中南米にも「アステカ人は東方アジアからやってきた」という文献があって縄文土器も発掘されています。この伝承は、元々バイカル湖畔にいた種族が、一部は日本列島に渡ってアソベ族となり、一部は米大陸に渡った後に日本列島にやってきてツボケ族になり三内丸山遺跡を築き津軽古代王国造ったと思われます。この王国に、出雲の秦王国に敗れた長髄彦一族も亡命してきました。アソベ族・ツボケ族・長髄彦一族は混血し、新たに「荒吐族」(アラハバキ族)となり、倭人の王族だった長髄彦の一族が継承する事となり、幾度となく秦王国へと侵攻し崇神帝即位迄、次々と荒吐系の天皇を擁立したのです(孝安帝と開化帝)。 長髄彦の子孫は連綿と続き、奥州藤原氏(安倍氏の血を汲む)を輩出したのです。安倍氏は源義家によって滅ぼされましたが、長髄彦同様、棟梁が戦死しても嫡男は密かに宮城から津軽十三湊へと逃れ、安東氏として復活したのです。安東一族は「津軽の王」となり当時の有力氏族が所領を拡大する事に力を注いでいた 時、安東氏は、十三湊を「首都」に中国・朝鮮・沿海州から東南アジア・アラビア、遠く ヨーロッパまで交易し、莫大な収益を上げていました。当時の十三湊は、「津軽三千坊」 と呼ばれる程多くの神社仏閣が建ち並び、港には中国人は元より、インド人・アラビア人・ヨーロッパ人等が多数の異人館を営み、さながら幕末の横浜の様相を呈していました。 また、港には日本全国から常に二百隻以上の商船が停泊し、ヨーロッパ人の為にカトリック教会まで建っていました。更に、 安東氏は日本海を隔て た沿海州の至る所に、「安東浦」や、「安東館」(領事館)を持ち樺太・千島列島・カムチャツカ半島迄「領土」として支配していました。しかし、十八回もの大津波の被害により栄華も、終焉を迎えました。古代津軽王国が何度もリベンジしたという秦王国は、シルクロードから来たユダヤ十支族を含む弓月君の秦族が、シュメールの王=殷(辰王)の箕氏に従って中原(満州)~朝鮮半島~九州の鳥栖と吉野ヶ里に渡来した後、出雲へ移動し秦王サルタヒコを出雲大社に祀り、倭人の王、インドのナーガ族長髄彦と戦った後、近畿で秦王国を築き、白村江の戦いの後、新羅指令の元、神武・卑弥呼を祖とする倭国=九州の筑紫王朝と合体し日本国となって新羅の支配下に入りました。彼らは白村江の戦いの時に新羅方についたので優遇されました。やがて応神天皇の時、弓月君が120県の民を引き連れて、その時最初に上陸したのは赤穂市の尾崎の浜だったそうです。シュメール人を基層民とする秦人は高度な職能軍団で灌漑も得意とし、メソポタミアで小麦を育て、それを輸出していましたが、灌漑をやり過ぎたため塩害でウル第3王朝が滅んでしまい、この事も中国大陸に移動して殷を造った原因のようです。メソポタミア南部のような乾燥地帯で、灌漑を行い、大量の水を散布すると、灌漑用水は、一旦は土壌中の塩類を溶かしながら下方へと浸透しますが、やがて毛管現象により上昇し地表面にまで来ると、水分が蒸発するので、塩類だけが残る。そして、地表面に塩類が残留すると強い浸透圧により、植物は根から水を吸収できなくなり、枯れてしまう。これが塩害です。メソポタミアの刻文に「黒い耕地が白くなり平野は塩で埋まった」という記録があります。この経験を逆に活かして製塩の技術を取り入れたのか赤穂が製塩で有名なことと関連性が窺われます。また吉良家とは製塩業で競合していて赤穂製塩法の秘伝を乞われて断ったことからトラブって刃傷沙汰になったとの説もあります。古代イスラエルも日本も塩は撒いて邪気を祓う清めに使われています。相撲も古代イスラエルを起源とし、シルクロードを通ってモンゴル、朝鮮半島経由で日本に伝わったもので、土俵を清めるために塩が使われています。赤穂は養蚕、機織、蹉跌による製鉄にも適した土地で古くから秦氏系の人々の植民地でした。日本中の神社は、秦氏により建てられ、京都の本拠地、太秦はユダヤ、シメオン族系イスラエルの王国を現わすといいます。祇園祭りもシメオン族の祭りで葵祭(賀茂祭)、賀茂社も秦氏が関わり神社ばかりでなく仏教にも大きく貢献し東大寺建立にも尽力し立派な業績を残しています。しかし秦氏は政治家になる者はほとんどいないばかりか、歴史の表面にも積極的に出ない一族でありました。その反面、経師や絵師、能楽師などの芸術家、土木・建築の技術者また酒造りの技術など政治とは別の面で積極果敢に活躍した人々でした。日本のフリーメーソンと云われる所以です。世阿弥の母親は秦氏の出自であり、「猿楽」の祖は秦氏の首長、秦河勝、東義秀樹氏の祖です。斯様に日本に多大な貢献をしながら秦一族は平安時代を境に秦という名を消してしまいます。 生前はもちろん、死後に至っても徹底的に自分達の出自や素性を隠して日本に溶け込んでいったのでしょう。日本最大の支配階級として君臨してきた藤原氏、その出自も隠されています。藤原氏と秦氏は婚姻関係を結んでおり、藤原氏を秦氏が経済的に支援し、権力闘争や疫病で藤原氏が弱った時に、その一部が藤原氏に成り代わり、両者は、ほとんど融合し皇室を婚姻により包囲していったと思われます。
2017/02/04
天皇家は万世一系とはいえませんがシバの女王の時代から続くといわれるエチオピアの皇帝が1975年廃止してからは、アインシュタインをして【最も古く、最も高貴な家柄】と称させた世界最古の王家になります。日本人のルーツを調べていると、二系列の王族によって形成されていることに気づきます。それは、遙か古代アナトリアから始まり、中央アジアを通り、日本にも持ち込まれました。精神の王または最高位の祭司である天皇と、政治経済の実験を握る豪族、ある時は、蘇我氏であり、また、ある時は、藤原氏であったように。王が二重に存在して、精神の王と、現実社会に対する王、とが分かれるというのが西アジアの遊牧民の帝国に際立っていた双分制社会の大きな特徴でありました。これは、スキタイ・サカ族、匈奴らの大帝国に共通して特徴的に見られることでした。そして、もし両者が対立したら、精神の王が上位に来ることになっていました。中国の「史記」にも人間を創造した始原の神として伏犠氏と女カ氏があり蛇化した下半身が絡んでいる画が出土されています。日本の「古事記」の構成に於いても具体的な生成を行なう陰陽に分類された二霊、イザナギ・イザナミがあります。そして、これは、推測ですが、前方後円墳もこの流れを汲むのではないかと考えています。方墳と円墳の合体、これが当たっていたとしたら、すごい歴史の解明に繋がると思います。それは、遙か古代アナトリア~メソポタミアの人々が、円形の住居と方形の住居に分かれていることに起因しているのではないか?と、思うのです。フルリ語の粘土板文書がチグリス川の支流域のヌジ、ユーフラテス川沿いのエマルシリア方面のアララクやウガリトから出土しています。BC15世紀頃のもので、ヒッタイト王国の3代ムルシリ1世や5代スッピルリウマ1世がフルリ人国家を服属させたという記録があるそうです。このフルリ人はナーガ族と同じ蛇信仰をもっていましたが、ヒッタイト人に征服されウガリットでのフルリ人は天候神ダゴンと収穫神バールを崇拝しています。これはフルリ人の神が蛇神から征服者アーリア人の牛神に変わったことを表します。フルリ語は日本語と似ているとされていますが、フルリ人はシュメール人と同族だったようで妻のことを【妹】と言っていて、古代倭人も妻を呼ぶのに【吾妹わぎも】と言いましたので同習俗、同種族とされる理由になっています。フルリ人は【旧約聖書】で、ホリ人として登場します。フルリ人の【ミタンニ王国】がヒッタイト人によって征服された後、フルリ人の一部は北上し、アルメニアのヴァン湖畔に【ウラルトゥ】を建国しますがこのウル第三王朝~ミタンニ~ウラルトゥの流れが、満州の扶余に至る北回りルートで、【シルクロードの天皇家】となります。もう一つの南回りのルートは、シュメール~インド~ベトナム~満州という【シャキイ族】のルートです。これが【安冕あめ】氏と【阿毎あま】氏の二系です。ウラルトゥは、BC1300年頃のアッシリア碑文に初見されますが【ウラルトゥ】とは【ヴルトラ(蛇)】の意味で、【ナーガ族】の七頭の蛇との関わりがみれます。神社に張られるしめ縄は、男の蛇神と女の蛇神の交合を象った神の縄です。古代メソポタミアでは、この両蛇神を【ニンギジダ】と呼んでいました。しめ縄の原点であり【史記】の伏犠・女禍の神像は共に蛇身人首で両尾をしめ縄のようにからませています。有名な志賀島出土の【漢委奴国王】の金印は蛇紐です。【秀真伝ほつまつたえ】を作成した大物主家(公孫氏)の三輪氏(イッサカル族)は大和三輪山の蛇神を祀る神官の家柄なので、蛇紐金印の委奴国王家および蛇神信仰の新羅王家あるいは、亀神話のからんだ金官加羅の金首露王家と同族的な関わりがありました。ウラルトゥとしばしば戦いを交えたのがアッシリアで、シャルマネサル3世や4世が知られますが、彼らは、ウラルトゥを【ウルアトリ、ナイリ】と呼びました。アッシリアは、セムの2子、アシュルの流れでセム系とされていますが支配階級は、ハムの子、カナンの子孫、【旧約聖書】では、アララト王国となっています。中東の遊牧民族のなかにあって農業を主としており、この点シュメール人と同じです。【ウラルトゥ王国】は、BC9世紀始めにアラメによって建国され、アラメがアッシリアのシャルマネサル3世によって追放された後、次のシャルドウリシュ1世が国力を回復しアッシリア軍を撃退、以後、ウラルトゥとアッシリアは何度も交戦します。【ウルク】もバール信仰で、【ウル】の天神アンに敵対しましたが、もっと遡ればインドのナーガ族とアーリア人の敵対に端を発します。【フルリの王】と自称したシャルドウリシュ1世やメヌアシュ、アルギシュティシュ1世などの優れた王を出したウラルトゥもBC585年にアーリア系のアルメニア人が侵入し、首都ティシェバーナが没落、以後ウラルトゥ人はシルクロードに亡命することになりますが、このシルクロードのウラルトゥ人を中国の文献は【伯族】と称しています。【宮下文書】は、ウガヤ王朝が月読命(月氏)と同盟していたとしますが、このことはアナトリアのウラルトゥとシルクロードの月氏が同盟してアッシリアと戦った歴史を表しています。セム系の月氏は、ウラルトゥの時代にも天皇家と共にあったようです。この時の同盟関係が天皇家と月氏(藤原氏・秦氏)につながります。 ウラルトゥ王国はBC6世紀初頭のカルミール・プルーフの時代に滅亡してしまったとされますが、彼らはナボポラサルのカルデア王朝に従属し、その後アケメネス朝ペルシアの王族を王とし服していましたが、アレキサンダーによってペルシアが滅びた後、その一部が扶余を建てました。ウラルトゥ王国がスキタイなどの印欧語族に追われてキンメリ人やチュルク人と共にアフガン北部のバクトリアに逃れ、さらに華北に移動、ここで秦に伐たれたため満州に入って扶余前期王朝を建てたのです。
2017/02/04
匈奴はチュルク族とキンメリ族の二系が率いる連合軍でした。チュルク族は歌が好きで、それは万葉歌にも示されていて、今でも天皇家の歌初めという儀式に残ります。なおチュルク族の一派がたてたウイグル王家の風俗はカラ・ホージャ壁画に残っていて平安貴族とよく似ています。日本史では、チュルク族の韓文化とサカ族の蘇我氏とユダヤ族の守屋氏(物部)が作った倭人文化は銅矛文化と銅鐸文化の対立という形で表されますが言語と文字の対立も見過ごせないものがあります。人類の文字は、エラム族が作った絵画配列に始まるとされます。エラム族はサカ族などの原型となり、この人々こそ中国の甲骨文字とメソポタミアの原エラム文字を作った人々といわれます。原フルリ人が後の倭人やユダヤ人になったということで、この後、ウルクを支配したシュメール人は膠着語を用いてスメル文字を作ります。フェニキア人はアルファベット式文字を作りました。これはウガリット文書に残っています。チュルク人は、はじめ独自の文字を作らずサカ族からプラフミー文字シュメール族からウルク文字を借用していました。扶余と箕子朝鮮の人々は、BC274~236年のアソカ王刻分にあるプラフミー文字を持っていました。扶余人は漢字受容後もこの文字を持ち続けて、上記文字やサンカ文字として残しましたが扶余と箕子系の人々はトカラ文書をニギ氏系の人々はコータン文書も残しています。チュルク人の一部は河西の北涼に合し、439年に北魏に滅ぼされたため西走し北涼がトルファン盆地に高昌国を建てるとチュルクの阿史那氏が加わりました。この人々がソグド人の古体ソグド文字を学び、チュルク文字やトルコ・ルーン体文字に発展させたといいます。ソグドとは蘇塗であって、アラム・サカ・ユダヤ諸族の商業基地をいいます。扶余のサカ族が東行し、一部がソグディアナ地域を中心にして、シルクロードの商圏を支配したキャラバン国家が成立したのでしょう。
2016/10/27
私たち人間は、エネルギーを得るために、2種類のエンジンをもっています。「解糖エネルギー」と「ミトコンドリア・エンジン」です。私たち生物が誕生したのは、酸素のない地球でした。その時の生物が使ったエネルギーは、酸素を必要としない糖を原料とした「解糖」という化学反応を用いたものでした。即ち、解糖エンジンでエネルギーを作り出していたのです。それから、海中に光合成生物「シアノバクテリア」が誕生し初めて酸素が生成されました。シアノバクテリアの光合成によって酸素が放出されると、海水中に溶けていた鉄イオンが酸化鉄となって海底に堆積しました。海水中の鉄イオンがすべて酸化鉄となると、海水中の二酸化炭素が余剰となるため大気中に放出されました。こうして地球の大気に、酸素が増えていきました。シアノバクテリアが地球の環境を変えたのです。地球の海にシアノバクテリアという酸素が増加し酸素を利用しないと進化できなくなりました。そこで、私たちの祖先の細胞が、好気的(酸素を好む)な細菌「アルファ・プロテオ細菌」を自分の細胞の中に取り込んでミトコンドリアにしました。その結果、動物細胞ができあがったのです。この「アルファ・プロテオ細菌」は、酸素を利用して莫大なエネルギーに変える特性をもっていました。ミトコンドリアは酸素を使って大きなエネルギーを生む「酸化的リン酸化」という反応を用いたのです。私たちの細胞のDNAは、一つの細胞にたった一つしか存在しませんが細胞内のミトコンドリアDNAは、1個のミトコンドリアに数百以上存在します。このことは、私たちの細胞とミトコンドリアの細胞とが本来は、「別もの」という証拠です。解糖エンジンの特徴は、急なエネルギー需要が生じた時に血中のブドウ糖を利用して瞬時にATPというエネルギーを作り出せることです。皮膚や筋肉は、解糖系のエネルギーで生きています。このエネルギーでは瞬発力が得られます。若い人は、もっぱらこの解糖系のエネルギーを使っているので、糖質の多い炭水化物を食べる必要があります。しかし、持久力を求められる中高年以降では、解糖エンジンがあまり必要でなくなってエネルギー系は解糖系からミトコンドリア系に移行しますので、糖を摂りすぎるとミトコンドリアエンジンの働きが弱くなります。ミトコンドリアは、日々食べる食物から得る栄養素と酸素を原料として、効率よくエネルギーを生み出しています。ところで、ガン細胞は、解糖エンジンでエネルギーを得ています。ガン細胞は、先祖返りした細胞で、エネルギーをミトコンドリアエンジンに変えればがん細胞は増殖できなくなるといいます。私たちの祖先の細胞は無酸素と低温の環境で生きていました。 そんな過酷な環境にあっても、祖先の細胞は、さかんに血管を伸ばして栄養を 摂っていました。ガン細胞と、そっくりです。 ミトコンドリア系のエンジンをうまく引き出すには、細胞の内部環境を温め 酸素を十分供給することです。適度な運動をし、温泉などで身体を温め 深呼吸をし、食べ過ぎないようにすることだそうです。
2016/10/23
今年は出雲大社・伊勢神宮の史上初、ダブル式年遷宮。 皇室の氏神である伊勢神宮には謎が多いです。伊勢神宮は元から今の場所にあったわけではなく「太陽神」である「天照大神」は東から西に天を巡る性質があるので太古の「天照大神」は日本各地を巡っていたそうです。それが三重県 伊勢市を最後に動かなくなってしまいました。20年に一度の遷宮は「巡る宮」の名残り、社殿だけ移して「巡った」ことにしてしまおうという策だったのでしょうか。 地球から見た場合、太陽は常に移動をしています。公転によっても自転によっても太陽と地球の関係は変わります。この「太陽は常に動く」ということが太古の学問としてあり、それに合わせるようなかたちで宮は移動をしていたと思われます。そして「旧事本紀」に「天照大神」を祀ったのは伊雑宮が最初であり、皇大神宮の内宮・外宮よりも社格を上にするとハッキリ記述されていたので1681年、皇大神宮の神官は激昂し、「旧事本紀」は発禁、伊雑宮の神官は流罪されました。 これはガド族+神武 VS シメオン族+エブス加羅国の古代史と重なります。 すべては秦始皇帝による焚書坑儒・儒者弾圧に始まります。 BC213年、秦始皇帝に焚書坑儒された孔子・孟子の子孫、ガド族は、燕王公孫氏(南朝系イッサカル族)の一部勢力と連合して移動開始します。BC86年朝鮮半島を南下して対馬に至り天照神社を祀り、対馬から船出して糸島半島へ移動して吉武高木に【旧伊勢国】を建て、金属製造所をつくり鉄鐸・銅鐸文化圏を創始します。猿田彦2世は日代宮を平原王墓(遺跡)に築き八咫鏡ほか神鏡・鉄剣・勾玉などの【三種神器】を奉納しました。BC74年、辰韓(秦韓)にいた秦の 始皇帝の子孫、シメオン族らは、鳥栖と吉野ヶ里の地に委奴国を建てました。 委奴国の王はシメオン族々長の大国主命であり、弟のグループは日本海側の敦賀に上陸して奈良盆地に入り、大和(奈良盆地)にユダヤ人亡命者のコロニーがつくられました。さらに、この時、ユダヤ人亡命者集団の先遺隊は関東地方にまで進出して、利根川河口付近にコロニーをつくったのです。 147年、後漢に圧された高句麗が委奴国および東表国を攻撃しました。当時の東表国(エブス王朝)は、朝鮮半島の金官加羅国とワンセットの文化圏とする海人族の千年続く【天の王朝】で、委奴国は同盟国でした。これより、東表国は、 高句麗と敵対関係になり東アジアの覇権を競う【倭の大乱】が始まりました。 163年、東表国エビス王海部知男命は、シメオン族倭奴国大国主命と連合して高句麗と同盟していたガド族猿田彦らの旧伊勢国を攻撃し、吉武高木・平原遺跡および太陽神殿を破壊して古墳内の超大型青銅鏡を悉く破砕しました。 大国主命に神聖な神殿を壊され、旧伊勢国(筑紫国)を奪われた猿田彦5世らは二手に分かれて亡命移動しましたが、その一隊は、日本海沿いに北上して山陰地方の島根県に至り、同族ガド族の先遺隊であった牛頭天王(スサノオノ命)のガド族とイッサカル族の連合移民団リーダー【出雲王朝】へ参入しました。次に、別働隊の遺民は瀬戸内海を東遷する途中、海沿いの各地には、旧伊勢国遺民の一部ずつ割いてコロニーを作り、香川県の森広遺跡・奈良県三輪山の日代宮遺跡・大阪府の利倉遺跡と池上遺跡に鉄鐸・銅鐸遺跡を残し、周防灘の徳山湾(遠石八幡宮の地)にコロニーを作り、楊井水道の大畠瀬戸に至り、旧伊勢の日代宮(御神体は八咫鏡)を遷社して柳井市に【天照神社】を建てました。瀬戸の浜辺に【磯の神】を祀る石上神社を建て、その元宮として旧い周芳神社(柳井市日積の諏訪神社)が再建されましたが、この天照大神(内宮)の神霊は、のちに志摩半島の伊雑宮(伊佐和宮)に遷社されています。中国・四国・近畿にやって来て各地に彼らのコロニーを作り、さらに紀州・熊野に移動して伊国を建て、志摩半島に移動して新伊勢国(伊雑宮・伊勢神宮の元宮)を建てました。奈良大和にも約1300人が移動して鮭文化圏を整え、東テイ国(纏向遺跡が中心)を建てています。ガド族と連合していたイッサカル族は、三輪山を中心に定着しました。筑紫の三輪(福岡県朝倉郡三輪町)から移ってきた三輪氏などであり、彼らが祭祀を担いました。なお、纏向の太田地区などには大田氏系の先祖も居住しました。連合していたゼブルン族は、葛城などに定着しました(葛城氏など)5代目猿田彦の弟の系列が建国した東テイ国(奈良)と地方との交通・交易の状況は、東テイ国(当時の奈良盆地・鮭文化の国)の出土品によって東海・北陸・山陰・河内・吉備・関東・近江・瀬戸内海・播磨・紀伊と交易がされていたことが解っています。東テイ国は鉄鐸・銅鐸文化で、水と火の祭りが三輪山を中心に行われていました。三輪山は、縄文・弥生時代から旧い御神体で、本殿がありません。縄文港川人や弥生苗族人の蛇信仰に彩られた【鉄と水稲】文化を育む聖山です。 しかし、これらガド族の神殿は、のちに神武勢力に敗れ、亡命・東遷した時シメオン族によって、徹底的に破壊されました。210年、扶余王ケイ須(神武)が南下を始め、九州博多に上陸して橋頭堡を築きました。橋頭堡を守るためと、約50年前(163年)に旧伊勢国を追われたガド族猿田彦らの仇を討つため、大国主命(シメオン族)たちの委奴国を攻めました。神武らに敗れたシメオン族の土師氏らは博多湾志賀島から乗船して出雲へ逃れ、先住していた猿田彦らのガド族及びイッサカル族を駆逐して新しい出雲王朝を建てました。土師氏らは新しい四本柱の大社を建て、その祭神を大国主命とし、併せて八百万の神々(ユダヤ12部族の神々+倭王たちの氏神)を祀りました。熊野山中には100キロメートルにも及ぶ石垣が存在しますが、これはガド族がシメオン族との戦いに備えて築いたものです。やがて秦王国の人々と東表国の人々は相協力して古周芳国および古周芳の石上神社(楊井水道)の領域を占領し、秦王国の分国【周芳国】を作りました。この時、周芳神社(柳井市日積・諏訪神社)の【たたえ祭り】 神事が猿田彦の亡命と共に、縄文人たちの故郷・信濃の諏訪神社へと伝承されそれが今日まで伝わる長野県諏訪神社の【たたえ祭り】になります。伊勢神宮は日本中央構造線の真上に建てられています。このゼロ地盤は地下から磁場、磁気が出ています。人間の身体が70%鉄分ということから、パワースポットに行くと磁化され パワーを頂けるようです。
2013/06/18
現生人類のルーツは9万年前頃に紅海を渡り、海岸線沿いに移動し、8~7万年前頃にはスンダランドから東アジアに到達します。 彼らがモンゴロイドを形成します。モンゴロイドは、北方に移動する人々と、スンダランドに留まる人々に分かれ、それぞれの気候・風土に合わせて適応します。スンダランドは、現在のビルマの一部、タイ、カンボ ジア、マレーシア、ベトナム、及び、スマトラ島、カリマ ンタン島、ジャワ島、パラワン島にまたがり、全域が地続きの巨大陸塊を形成しており、全域が熱帯、亜熱帯に属し、当時地球上で最も動植物の種類と数に恵まれていました。更新世の人類はあらかたが狩猟採集生活を営んでいましたので、原ポリネシア族やネグリト族・ドラヴィダ族・メラネシア族、さらにはアボリジニーやモンゴロイド系諸部族、寒冷化が最も進行した氷河期の末期には、セム族・インドヨーロッパ系部族までがこの地で生活していました。民族間の接触も盛んで、BC3万年期からBC2万年期までは世界で最も先進的な地域でした。スンダランドは鉱物資源にも恵まれていて、金、銀 、銅の露出している鉱脈がいたるところにありました。 山火事等による自然融解した金、銀、銅を発見することによって、ある種族はこれらの金属の道具としての使用を思い立ちました。当初は祭具や族長のアクセサリーに使用されていましたが、供給が多くなるにつれて、鏃や釣り針など生活道具に使用され、後にはナイフや鏡等も作られるようになりました。 鉱石を溶かして玉状にした銅をまだ柔らかい内に平たく延ばして、後は砂や木の実などで研磨し銅鏡 が作られました。この銅鏡製造の技法は物々交換などでスンダランド の多くの部族に広まりました。琉球諸島に渡ったネグリト族もこの技法を持っていました。彼らは銅鏡を太陽の化身と考え、御神体として祭っていました。しかし、気象変動の度ごと、ユーラシア大陸に住んでいた様々な民族が スンダランドに大規模な流入がある度ごとに、体力の劣るネグリト族は他民族の圧力に屈する形で流出していきました。元々彼らはカヌーによる漁労を生業としてい たので、外圧がなくても魚群を求めて移住する習慣がありました。彼らネグリト系の太陽祭祀族はBC2万年前後の最後の大移動で東シナ海沿岸にやって来ました。 東シナ大陸の銅はスンダランドとの交易でもたらされました。 北方のシベリア大陸を起源とするモンゴロイドアスカ人の一部がBC20000年期、気候の寒冷化に伴い、南下する巨大獣を追って移動し、中国大陸に到達しました。彼らの特徴は顔の彫りが深く毛深い。血液型はO型が多くずんぐりした体型をしていました 。中国大陸部に進入した当初、アスカ人は尖頭器文化に代表される後期旧石器時代の文化を有していましたが、BC19000年期になると、細石器文化に至り、中石器時代を迎えました。この頃になると、西方の民族との接触により遊牧の技術を獲得し、食生活も安定してきました。当時、極地に存在した巨大な氷層のために海面は現在よりも120メートルほど低く、東シナ海・黄海の大陸棚は半分以上が陸塊でした。(東シナ海大陸)原始的な狩猟採集と遊牧生活を送っていたアスカ人が急速に文明化した最大の要因は、稲を発見し その栽培法を確立したことによりました。現在水没している東シナ海大陸棚には、当時至るところに湿原があり、そこにはジャポニカ種の稲が自生していました。稲の発見はアスカ人に人口の急増と、村落の形成をもたらしました。人口が多くなると、水利をめぐる同族間の争い、北方異民族や山岳部族の侵入、当時多数生息していた虎や狼などの猛獣による被害などのために、彼らが文明を築く ゆとりは生じませんでした。そういう事情で定住をあきらめたその内の東方の沿岸部にいた部族はBC18000年期になると、、対岸の琉球諸島に移住しました。 その部族をムイ族といいました。 奄美大島、沖縄本島、宮古島、石垣島の四島は現在よりも3倍から10倍の面積を持つ大島でした。さらに沖縄本島、宮古島間にも大島が存在しました。 当時の沖縄地方の総面積は現在の6倍弱の18000平方キロメートルもありました。琉球諸島に移住したムイ族は、BC16000年期、 その地で文字を発明し、アスカ文明に先行する世界最古の文明【ムイ文明】を確立しました。ムイ族が世界最先端の文明を持つことが可能だったのは、琉球諸島が地理的条件に恵まれていたおかげです。琉球諸島は、海洋性の気候のため年間を通じて気候も温暖で、台風の襲来に悩まされることもありましたが、そのおかげで水不足に陥ることが少なかったのです。ムイ族が沖縄に渡ったのとほぼ同時期に朝鮮半島経由で日本列島に渡った部族もありました。その部族 をスイジン族といいました。この当時朝鮮半島南端部と東シナ海大陸とは地続きでした。朝鮮半島と日本列島の間には現在よりも数倍も大きい対馬があり、西水道と東水道が存在しましたが、西水道は十数キロ、東水道にいたっては僅か数キロしかない狭い海峡でした。壱岐は本州の一部でした。 当時の日本列島は、北部や中部の山間部は寒冷な気候でしたが、南部の沿岸地方は比較的温暖な気候でした。当時の日本周辺の地形は、樺太が沿海州と地続きで、樺太から北海道・国後島までが大陸の一部であり、冬季には氷結した津軽海峡を隔てて本州、佐渡島、四国、九州、屋久島、種子島までがサーベル状の巨島として存在していました。その島はスイジン島と呼ばれました。スイジン島に渡ったスイジン族は稲作の最適地を求めて南下北上を続けました。スイジン族が侵入する以前のスイジン島の南方沿岸部にはメラネシア系の海洋民族やネグリト族が定住していました。彼らは漁労とタロイモ、ヤムイモ栽培等の原始的な 農耕を行っていました。スイジン族の侵入が開始される と、先住民族は山間部に追いやられていきました。文化的にも軍事的にもスイジン族の方が優勢でした。当時のスイジン島は現在の屋久島沖が最南端でしたが、そこから更に二十キロ離れたトカラ列島に渡る部族も現れました。トカラ列島の南端から奄美諸島までは四十キロありましたが、中間地点に停泊可能な岩礁がありました。奄美諸島から琉球諸島までは連綿と島が続いていました。琉球諸島は先住のネグリト系種族がわずかに原始的な漁労採集を営んでいただけで、ハブ以外に猛獣の類もおらず、そこに移住したムイ族は稲作が普及すると、生活に余裕を生じ現在水没している宮古島北東沖にあった陸塊 は、全島が平坦で、大いに栄えました。その島はニライ島と呼ばれていました。面積は3000平 方キロメートルほどでした。この島を中心にBC16000年期には農耕を基盤 とする古代ムイ文明が形成されたのです。ムイ文明は東シナ海大陸やスイジン島にも伝播し【アスカ文明】に発展しました。後発で東シナ海大陸に侵入して来たアスカ人は社会形態はネグリト族よりも進んでいました。ネグリト族の社会は漁労採集を中心とする母系の家族社会でしたが、アスカ人は既に農耕技術を持ち、職種の分化、階級制度も存在しました。アスカ人は既に黄海沿岸部でネグリト族と接触しており、彼らを原始的な裸族と見下していました。ところが、東シナ海大陸では同じネグリト族でありながら、アスカ人が見たことのない未知の金属を持っていました。彼らの銅鏡を見たときの驚きは想像を絶するものでした。太陽光を反射する銅鏡はネグリト族にとって太陽の化身として神聖な宝物でしたが、それを見たアスカ人も同様に認識しました。それまでアスカ人は部族ごとに特定動物の精霊を信仰するトーテム信仰が主流でしたが、この銅鏡を知ってからは太陽信仰に改めネグリト族を祭祀族として受け入れ、自然に融合していきました。
2009/09/02
ひょんなことから【折り紙】の歴史について調べていました。海外ドラマの【プリズン・ブレイク】のなかで、白鳥の折り紙がタイトルシーンに毎回でてきます。このシリーズは、シーズン4と、回を重ねている人気ドラマです。赤い花の折り紙もキーワードになっています。スワン(白鳥)を白い紙で折ってみました。日本の鶴とはまた違った清々しさです。日本と西欧は、独自にそれぞれ折り紙文化が発展していったようです。不思議なのは、西も東も【鳥】が基本になっているのです。スペイン人なら誰でも知っているパハリータ、フランス語でココットという可愛い鳥の折りがあり、東端の日本には【鶴】があります。 古代 、白鳥をトーテムとする部族は欧亜にかけて存在しました。 【白鳥族】は匈奴の中にいました。【匈奴】は自称【フン】Hu-unといいましたが、これはメソポタミアのウル語の【鳥】=【フ】huに起源しています。彼らは鳥(フ)をトーテムとしていましたから民族名を【フン】と称したのです。後に彼らは西欧に進行していきました。 【白鳥族】とは、丁零のことと考えられます。 新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシェバ文化が栄えました。この文化の担い手は周囲のモンゴロイドと異なり、パレオ・ユーロペオイド的(白人)でした。アフナシェバ文化は、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにアンドロノヴォ文化は、BC2000年紀末南シベリアのカラスク文化と中央アジア北部のダザバギャプ文化に代わりました。カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化の東方流入によって発達したといわれます。 中国北部で【丁零】と呼ばれた人々が、殷の住民から借用した様々な文化的要素とくに青銅鋳造の技術を南シベリアに持ち込んだとおもわれます。カラスク人につづくタガール人は(マイエミール人とともに)西シベリアの古いユーロペオイド(白人)に属し、中国史の丁零です。【丁零】は、チュルク族の一派ですが、カラスク文化の担い手が【丁零】ならば、その祖型にあたるアンドロノヴォ文化、さらに、その祖型にあたるアナシェヴァ文化も、同じくチュルク族の文化と考えられます。 学者の今岡十一郎氏は、シベリアにいた丁零と、西はトルコ人と広大な範囲を包括するチュルク族はウラル・アルタイ語族=ツラン族といいこの内、ツングース、蒙古、サモエード、フィノウグリア、チュルクの五族があるといいます。「ツラン族は、BC8000年頃、シュメールの地にいたが、BC3000年以降アフリカ民族がセム族を滅ぼして自らセム族となり、BC2200~2000年頃シュメール帝国を滅ぼしてしまった。この状況のもとで、ツラン族はBC3000年頃からインド、中央アジア、東アジア方面に移動した」と述べて、そしてチュルク族については、「往昔、その原郷のアルタイ山脈から出発し、北東と西に広がって、主としてアジアに限局する地域を占めた。・・・西に進んだ一部はイデル・ウラルとクリミア地方からバルカン南東隅まで・・・また他の一部はドナウ盆地にまで進出した。彼らの支配は、名目的にはメソポタミア、シリア、パレスチナ、北アラビアに及び、またかつて一時的に、イラン、アフガニスタ、インドまで伸張し、さらにアルジェリア、全バルカン半島全ハンガリー平野を領有していた時代があった」と述べています。彼らはシルクロード全域に亘って分布し、アレキサンダー大王が洛陽に侵入するまで中原の支配者だったのです。そして、高句麗・百済・天皇家につながります。この人々は後に分裂して【丁零】、【殷庶の高令】、【匈奴高令部】、【高句麗】などになりました。彼らは、バイカル湖あたりに居住していた遊牧民で、匈奴衰退後の3~4世紀頃、南下して【高車丁零】を立てましたが、6世紀前半に柔然に滅ぼされました。同じ頃、鉄勒というテュルクの名を持つ人々が現れ、丁零の原住地バイカル湖沿岸から、中央アジアのカスピ海西岸に至る広大な地域で遊牧していました。また、同じ6世紀中頃に、やはりテュルクの音写名で記録される突厥が現れ、柔然を滅ぼし鉄勒諸部族を服属させてモンゴル高原からカスピ海北岸のキプチャク草原に至り、ソグド人などの定住民が居住する中央アジアのオアシス地帯までも支配する大帝国を築き、その支配のもとで中央ユーラシア全域に及ぶテュルク世界の原型が形作られました。 白鳥は日本では越、出羽、周防方面に残りますがアルタイではチク、チャク等と言います。キプチャクは クマンとも言いますがこれは熊、白鳥の連合軍です。単独ではクゥイといい、紀氏がこれです。 熊野出雲族です。紀氏は吉備氏から分かれます。吉備氏は素鵞・熊野連合から来ますが、 これは熊・襲、熊野・出羽、同様のイェニセイ・ケト熊族・イェニセイ・ケト白鳥族であり、連合して金海(キメ)、吉備と称します。パレスチナ・アナトリア・アゼルバイジャン(麁鹿火という川がある)・アブハジア・ コーカサス北麓、後にはクマン族としてミラノ北部のスイス山村にナマハゲを残し、ポーランドには 沖縄のジュリ馬を残しています。セイマトゥルビノと言う世界で最も精密な木彫り木型にによる鋳造を 発明、長槍軍団で西シベリアを席巻しています。気多神社からは木曾・出羽等で日本彫刻芸術の 基礎を確立しています。 細形銅剣は遼東ではなくロシアのウラジオストーク、北朝鮮清津、元山方面を経由しています。 この先はシベリア鉄道乃至は東清鉄道経由バイカル・エニセイ方面に繋がります。突帯文土器のルーツは バイカルにあり、屈射はアルタイにあります。日本の銅剣銅矛文化圏、銅鐸文化圏は南シベリアと長江下流 から来ていることになります。偉大なる匠の民族ケト族、気多の大神の子孫は現在の日本でも生き残っています。これはナデネ・インディアンに近いとされており、言語的にもケト語はナデネ・シナチベット・コーカサスと同じ部類とされます。 犬戎の長、秦氏の導きにより、ホレズム(フルリ族の国)から日本に入るソグド・エフタル・滑はその地中海コーカソイド 遺伝子を残してはいませんが、白いフンの一環として引き帰したのでしょう。だが、コーカサス系の遺伝子 I-P19は0.4%残り、ヒッタイト・フルリ人としてケト族とパレスチナ・アナトリアで活躍したことを物語るようです。 白鳥をトーテムとする人々は、大きな白い翼に清浄さと憧れをもったと思われますがそれだけではなかったようです。彼らは製鉄部族でした。製鉄産地と白鳥の飛来地が不思議と重なるのは、どういうわけでしょう。それは、白鳥など渡り鳥には、体内にナビゲーションシステムが備わっているようです。センサーが働いて磁場を感知するようなのです。スーパーオキシドと呼ばれる活性酸素の一種が感光性タンパク質と結びつくことで、鳥の目の中にコンパスが生成され、地球の磁場が【見える】ようになるといいます。ゆえに、【白鳥族】は、白鳥を追いかけて移動し鉄を掘り出していたのでしょう。
2009/09/01
【武士】と書いて【もののふ】と読み、【物部氏】とは物の部民でありました。モノとは、物質を意味するのみならず、兵器や兵力といった軍事力のほか霊的な呪力をも意味しました。古代にあって、戦は武力のみならず霊力も必要としました。即ち、物部氏とは物を作る技術者集団であると同時に、軍事組織にして呪術集団でもありました。【祟仏論争】に見るように、物部氏は、神道を奉じ、古代の神道は物部氏が握っていました。しかし、物部氏は没落し、現在にあって神道祭祀を担っているのは藤原氏です。奈良時代から平安時代にかけて、藤原氏が政治権力を握ることによって、同族の中臣氏と卜部氏が宮中祭祀を独占し、物部氏および忌部氏の力は急速に衰えていきます。これによって、物部氏が奉じてきた古代神道は完全に封印されることになります。 では、いったい物部神道とは、いかなる神道だったのか?数々の弾圧を受けながらも、その奥義を現代まで密かに伝えているのが丹後一宮の籠神社だといいます。籠(この)神社は、数ある元伊勢の一つとして知られます。伊勢神宮が五十鈴川の畔に鎮座するまでの間、天照大神の御霊は各地を点々としましたが宮中から最初に大和を離れて祀られたのが、籠神社でした。籠神社の宮司は代々、海部(あまべ)氏が務めてきました。海部氏とは物部氏の中の祭祀を一手に行ってきた一族です。言霊でいえば、海部氏はアマ部即ち天部でありました。【海部氏本系図】は、歴史的重要性から国宝に指定されているほどです。これほど重要でありながら、海部氏は、弾圧を受けながら物部神道の奥義を極秘伝という形で継承してきたのです。極秘の鍵となるのが社紋、一般に表と裏があり、表紋は下がり藤で裏紋は長い間隠されてきました。それが平成の世になって、遂に公開されました。これは六芒星の中心に日輪と月輪を描いているもの。これはダビデの星といわれユダヤ人のシンボルです。物部氏がユダヤ人と関係があることを端的に示します。ところで、童謡の【カゴメ唄】は、籠神社の極秘伝の一部だといいます。伝承によって、一部は変わってしまっていますが、本来カゴメ唄は籠神社の隠し歌でした。そこには、日本の国家成立に関わる重大な秘密が、暗号として隠されているそうです。元伊勢である籠神社と伊勢神宮は、ほぼ一直線に並んでいます。もう一つ、江戸時代に伊勢本宮と名乗った伊雑宮もまた、このライン上にあります。伊勢神宮の内宮と外宮を結ぶ参堂脇の石灯籠にカゴメ紋が刻まれており、これは、ユダヤとの関係を指摘されますが、これは元々伊雑宮の裏社紋でした。籠神社もまた裏社紋はカゴメ紋です。極秘伝が記された紙には【カゴメ唄】に登場する鶴とは伊雑宮のことで亀とは籠神社のことを示すと記されていたといいます。【カゴメ唄】の最大の焦点は、【鳥】です。夜明けの晩に出てくるという【鳥】こそこの唄のメインであると考えられます。陰陽道にあって、鳥は天と地をつなぐ者。【鳥】は、物部氏がシベリアにいた時、シンボルとしていた・・・そう、彼らこそ【白鳥族】だったと推測します。彼らは騎馬遊牧民のなかに溶け込んでいたのかもしれません。古代イスラエル人の渡来には、少なくとも二つの流れがあります。一つは失われたイスラエル10支族がスキタイと共に騎馬民族となって日本にやって来た可能性。しかし、籠神社の極秘伝では、物部氏は騎馬民族や秦氏よりも古い、大量の渡来人が朝鮮半島からやって来る以前、すでに物部氏は王権を確立していたといいます。籠神社のある丹波を中心にして、近江や出雲を含む広大な地域を支配していました。【魏志倭人伝】に記された【投馬国】とは丹波国にほかならず、いわゆる出雲族は物部氏に他ならないといいます。【投馬国】とは古代イスラエル人の書【ホツマツタエ】に通じます。ここで、以前調べた【白鳥族】のことを補足します。 古代、白鳥をトーテムとする部族は欧亜にかけて存在しました。【白鳥族】は匈奴の中にいました。後の【匈奴】は自称【フン】Hu-unといいましたがこれはメソポタミアのウル語の【鳥】=【フ】huに起源しています。彼らは鳥(フ)をトーテムとしていましたから民族名を【フン】と称したのです。そして、この鳥の【フ】は、3世紀、馬韓の長い王号の中に、濆(フ)、不(フ)、報(ホウ)としてありました。また高句麗では王妃部の絶奴部が、細群(さいぐん)と麁群(そぐん)に分かれていましたが、細群が【白鳥トーテム族】、麁群が【大角鹿トーテム族(スキタイ人)】でした。いうなれば、白鳥トーテム族が匈奴に、高句麗に、馬韓に、いたのです。国史で猿田彦といわれるユダヤ・ガド族は、BC10世紀以降のウラルトゥ(ウガヤ王朝)時代からの歴史を【高天原の由来】として、ホツマ文字(神代文字)で書かれた【秀真伝】など、五七調の叙事詩として語り伝えながらシルクロードを東遷して中国→朝鮮→対馬へと至りました。そこで【記紀】では降臨したのがニニギノミコトでコノハナサクヤヒメと一緒になってという話が出てきますが、その天孫降臨、実際にはユダヤ系のガド族、日本名では猿田彦が最初にやってきました。彼らが天降って王宮を作った場所は吉武高木遺跡です。他にも、イエス・キリストを生んだゼブルン族、日本で言えば宗像神社の三人の姫=宗像神社の御三神に相当する人々、さらには女王卑弥呼と大物主命などの系統であるイッサカル族これらが三位一体となり連合して竺紫の地に渡来しました。ここには糸島半島がありますがガド族らは、ここに上陸しています。この吉竹高木でつくった国を伊勢国といいます。この伊勢国がやがて近畿地方に移るため、区別してこの地を【旧伊勢国】としていますがこの時、最初の【伊勢国】を建てたのです。伊勢の君・猿田彦は鉄鐸・銅鐸文化の祭祀者であり、秦末の【焚書坑儒】事件で多くの王族や儒者たちを殺されたガド族がイスラエル北朝からユダヤ南朝系に変身して急遽、鉄鐸・銅鐸文化を携えて日本列島へ亡命したのです。こうして九州博多の地に新しい青銅器文化の先進国が建設されました。次に、その初代猿田彦命に続いて、二代目の猿田彦は、イスラエル神(バアル神)を祀る太陽神殿(天照大神を祀る日代宮)を平原王墓(遺跡)に築き、 八咫鏡・神鏡・鉄剣・勾玉など【三種神器】を奉納しました。それが九州社会を発展させるきっかけになりました。この頃、九州の地には以前から縄文人や稲をもってきた苗族、あるいはシュメール人のグループといった先住民が居住していました。猿田彦二世は、その人々を支配化においてユダヤ人たちのヘレニズム文化(ギリシアとペルシャの混合文化)によって鉄鐸・銅鐸を生産する青銅器文化を九州全体に繰り広げていきました。【鶴族】は物部氏のこと、【亀族】とは九州豊国(金官加羅)の中臣氏のことです。
2009/08/23
前回のつづきで、【夷族】といわれる人々の中で2.日神スールヤを主神とするヤラヒ族に分類される遊牧民族は印欧語族系のアーリア族で、 ルウイ人、ヒッタイト、ギリシャ人。 この内、ヒッタイト人がさらに三族に分かれたとして、カッシート、ヒッタイト、ミタンニ(インドのアーリア族、後の唐)になります。ギリシャはマケドニアなどの八族からなりますが、リディア、メディア、ペルシア、スキティアなどを含みます。この一部がチュルク系高令と合して高句麗族となります。3.月女神ニンギルスを主神とするニギヒ族・・・商業民族はアブラハムに名を与えたアラム族系で、和義・シオン・ユダの三族になります。和義とは【史記】に蛇神であると書かれた女カ・伏犠のことです。伏犠を西域からバビロンに入ったフツリ族、女カをウルク期以降のセム系シュルパック人とすると、ユダヤ民族はウルク初期にバビロンを支配した運送・商業民族ということになります。従って、この人々が蛇身とされるのは、アダムに智恵を教えた多産の蛇が商業民族のトーテムとなったからといわれます。なお、ヒッタイトには、怪蛇退治の神話があって、これがヤマタノオロチの説話に転化します。これは、ヒッタイトが蛇をトーテムとするフツリ族を支配したことを表わす説話です。さて、和義族は、バビロンを支配したシュメール王に当るウルク・J/N(ジェムデト・ナスル時代)期後のエン神政王朝に従っていましたが、【旧約聖書】は、この人々がアブラハムに率いられてカナンに移住したと記します。この時、さらに一部のものは、セム系イシン(殷)族がエジプトに侵入して建てたヒクソス王朝に従い、カナンに残った人々は後にシメオン族となります。やがて、ヒクソスが亡びると、エジプト独立軍に囚われた和義の人々は奴隷にされ後、モーゼに従って脱出し、一部の人々はカナンに逃れてユダ族となり、ほかの人々はバビロンに戻ってヒクソス族の後期イシン王朝に従います。中国史の【殷】とは、この後期イシン末期のアラム王家の時代に、イシンが中国大陸においた交易センターで、いわば租界(中国の開港都市において、外国人がその居留地区の警察・行政権を掌握した組織および地域)となります。4.暴風神ダゴンを主神とするタキヒ族・・・農業民族は いにしえのテル・ハラフなどにいた高地農民・・・シュメール、エジプト、カナン、バビロン(チュルク・・・高令(丁零)この人々が後に高句麗、百済になる)の農民。このタキヒの諸族について【倭人興亡史】は【初めに四嶽あり、のち九伯となった】とし、この人々の言語に共通性があったとしています。またその三族として姜族炎帝のあと、アラム族が農民化したカナン人、カルケミシュのチュルク人、エジプト人をあげています。チュルク人について【新唐書】に【ウイグルの祖先は匈奴である・・・北魏の時代(386~534年)の時代には高車部と称し、あるいは敕勒ともいい、さらになまって鉄勒と呼ばれた】とあります。冒頓系匈奴は高令ともいいチュルク族です。この人々は前漢に敗れたあとゴビ砂漠に逃れその末裔が箕氏朝鮮滅亡後、辰国に招かれて箕氏国の故地に高句麗を建てます。この高句麗は、チュルク族の高令とギリシア系のトカラ語諸族の混血になります。先に書いたように高令は西河北部のチュルク語系農民のことで、テル・ハラフに始まりました。これらの人々は昔パレスチナのエリコにいたナトゥフの人々であったかもしれません。トロスという大きな円形の構造物を祭儀に使用していて、【動物と女性の多数の粘土像】は母神の祭儀が行われていたことを示します。匈奴には二系あって、刀漫系の単于はアラム系の王です。なので、【新唐書】が高車・敕勒の祖を匈奴とするのは冒頓系の匈奴のことです。【魏書】高車伝を引用します。「高車全体を支配する大師はおらず、それぞれの種族に君長がいる。性質は粗猛で、同じ仲間が心を一つにし、もし外敵の侵略にあうと、集まって一致合同し助け合う。戦闘の際には整然たる隊列を布かず、各人が別々に敵と衝突して、突進するかと思えばたちまち退却しそのため堅固な戦いを展開できない。(日本の源平時代と同じ)高車の風俗では膝を立てて腰をおろし。(韓国時代劇ではこのように座っている)目上の者に馴れ馴れしく振舞ってけがすのを忌み嫌わない。風俗は清潔でない。以下省略】高令は殷代の伯夷であり、実はイシンである孤竹を中心に農耕した殷の外戚チュルクです。【前漢地理志】に高夷・孤竹・令支の三族があげられていますが、これが後に高車・丁零と書かれ、この人々が高令です。この高令は、ハム族(伯)の一種であって、韓族ともいわれ高麗・コーリアの語源です。一方、扶余は倭人で、辰国・東表の人々は毛人(エブス人・エビス・エミシ)なのです。従って、BC1000年以降の西域は、カナンのアラム人とチュルク人が韓人でカルデア人が倭人、アメニギ氏の支配するフェニキア・マラ両族が毛人で互いに混じっていたのです。そして、この倭族が狗奴国・駕洛と新羅昔姓の人々で、韓族は高句麗から邪馬壱国と百済をたて百済滅亡の後、天智王朝を建てたのです。匈奴には二部族あり、チュルク族のシウ伊逗部とキンメリ族のシウ刀漫部とあります。匈奴は冒頓以降はシウ伊逗部氏から単于が選ばれ、アラム人系の人々はこれに服属しました。単于のもとに左・右骨都候という大臣がありましたが、骨都は【ミコト】のことです。シウ伊逗部氏の人々が後にフン族になって西に侵略します。
2009/08/19
【秀真伝 ほつまつたえ】は、前後篇に分かれ、前編は投馬国・大物主王朝の最後の王朝の最後の王・大物主櫛甕玉命が高句麗新大王の長子である五瀬命と末子・神武に降服した時、投馬国の史書をまとめて呈出したものであって、後に【旧事紀】や【古事記】の神代篇のモデルになります。この内容は、BC1000年頃、大物主王家がアマテラスやニギハヤヒと同盟を結びウラルトゥを盟主として建国し、タマガキノウチツ国といっていた後、国譲りによって東方に移動して投馬(秀真)国をたて、一方その故地には、ニニギノ命系の朴氏が辰国を守りさきにバルハシにいた箕子朝鮮や月氏国をたてた月読命らと同盟し、後のBC1世紀に高句麗建国とその南下を迎え、やがて高句麗が辰国を簒奪した後、投馬国は高句麗新大王の末子・ケイ須に降服し、ケイ須を神武として、これに従属するまでの記録です。大物主命がアマテラス系やニニギノ命系に、和歌の枕詞などをはじめ異質の習俗をを質問することが多く、これは、大物主命のユダヤ人が塩竈命の昔氏のサカ族・昔氏の扶余と通婚しながら同化していった状況を記したのであって、このことが合成史という形に発展したようです。次に後編は、大田田根子が書いた天皇紀で、神武から成務までを記します。神武が邪馬壱国をたて、その子・懿徳が狗奴国の王女・開化を娶り、その間にできた祟神が両国を合併して百済をたてると国威は盛んになりました。が、その結果、神武の本国である高句麗と衝突することになり、高句麗の広開土王は七枝刀に百済王の世子倭王旨と刻まれた辰斯王、即ち国史の景行天皇の派遣軍に反撃し、海路九州に上陸して景行を殺害したため、この後百済連合の勢威は衰え国家の再建が急務になりました。このため、百済側の両王家、即ち神武系邪馬壱国王家と昔姓(蘇我氏)の狗奴国王家の二系を併合するという系図偽造が行われることになって投馬国の大物主王家の末である大田田根子がこれに当り、二王家を一王家に繋いだ系図の偽史(合成史)が作られたと考えられます。後に畿内の毛人たち、即ち先行した弥生民族を倒した昔氏の蘇我王家は大物主家を含む六家から【秀真伝】などの史書と粘土板を呈出させ、扶余から狗奴国・駕洛国史に至る史書を作り、これを【旧事紀】と名付けるのですが、この史書は後に卜部家を中心とする藤原偽史集団によって改竄されるのです。この内容のほか、独自に発展したホツマ文字や、五七調のチュルク語(トルコ)順の文章に散見されるオリエント語は驚くべきことであって、富士浅間神社や、相模一ノ宮の寒河(サンガ)神社に伝わった【宮下文書】と一致する内容が多い。また【旧事紀】を通じて【記紀】の構造に影響し、編纂した大物主家は、後に大(多)氏となって史書の保管に当ったから【記紀】の虚構を説明する資料としても重要性をもつのです。 【倭人興亡史】の『神統志』には神々の体系が共通した【夷】族が、四分類して記されています。1.水神エンキを主神とするアキヒ族・・・青銅民族はアッカド人・・・イザナギ族泱委(ワイ)・・・月氏・月夜見命系・・・チベットのコータンが根拠地淮委(アイ)・・・カルデアのサカ族・・・蘇我氏系ワ弭(ワニ)・・・フェニキア人・エビスの命系(九州東表国のアシムス氏)潘耶(ハンヤ)・・・アモリ・アラム族(匈奴冒頓部)・刀漫系匈奴族(キンメリ人)このアキヒ族の人々がシルクロードに於ける辰国ウガヤ連合を構成する人々です。-------------------------------------------------------------------2.日神スールヤを主神とするヤラヒ族・・・遊牧民族はルウイ人、ヒッタイト、ギリシャ人。ヒッタイト人は、カッシート、ヒッタイト、ミタンニ(インドのアーリア族、後の唐)三族になる。3.月女神ニンギルスを主神とするニギヒ族・・・商業民族はラガッシュ人、シオン、ユダの人々。4.暴風神ダゴンを主神とするタキヒ族・・・農業民族は いにしえのテル・ハラフなどにいた高地農民・・・シュメール、エジプト、カナン、バビロン(チュルク・・・高令(丁零)この人々が後に高句麗、百済になる)の農民。 アキヒ族とは、【旧約聖書】のセム族の主神で月神らしいのですが、この種族の筆頭としてジグラットに月神・ナンナを祭ったエラム族が阿キとされます。BC7000年以降、オリエントで最古の集約農業が生まれ、同じところでBC4000年に青銅文化が生まれますが、それぞれ長い年月に独立して発展した異系文化ものと考えられます。金属文化のルーツは山岳部の自然銅の使用に始まります。BC4000年のエラム文化は金属文化を持ちこんだエラム人支配者と農業を行った原エラム人とは異族だったはずで前者が神祖族で、後者が異種のオロチ族であったことが分っています。従って、エラム人に銅鉱を渡した人々こそアッカド人のようなセム系民族であったと考えられます。王倹を祖霊とする諸族はアッカドなどのセム族に属する【アキ族】が日本民族の主族であって秋津島の名もこれによります。【倭人興亡史】第七章 秋津島の由来渤海のウスボツ著【ヤマト記】に曰く。「その国がいまだかつて衰えないのは、職として語り部があり、はるか上古を探り先世を明らかにして、神理をつまびらかにし、よく伝承をただすことによる。この国を秋洲と書き、アキシマと読むが思うにアキ(壇君王倹)を祖霊とするからである」初め四種の山民があったが、後に九伯となった。思うにその音が同じである。姜(ハム族系の呂氏・斉族)・濮(僕骨・チュルク)・高(高令・チュルク)犬戎の諸族がこれに属する。族外婚はアキ妣族の人々の特徴で、サカ族の末である蘇我王家、後の山窩系に行われています。エラム族は今日のドラヴィダで、縄文文化を伝え、後にカナンでサカ族・マラ族と混じって山東半島では來夷と混じって弥生文化を伝えました。【秀真伝】の説話は族外婚について、花嫁の属する部族を明らかにするために人形を持たせそれによって他部族の攻撃を避けたことを示します。ジグラットの主神・月神の娘イナンナは、アキ妣族の筆頭のアキ(エラム)族から同じアキ妣のアラム族に伝えられ、ユダヤ系大物主一族がこれを秋津姫の伝承として書き残したのです。なお国史では、弥生文化をもって進入した秦代の徐福らの一族を毛人とし、ニギ妣の人々とサカ族を合わせて倭人、タキ妣の人々をチュルク族(トルコ)を中心として韓人とするから、毛人・倭人・韓人の三族は、山東半島と朝鮮半島から侵入したのです。アイヌ族などの北方人や南海島諸族は、この三族には含まれません。
2009/08/18
645年、中大兄皇子、実は百済31代・義慈の末子・豊は、蘇我入鹿を暗殺し663年、倭軍を率いて百済支援に赴き、白村江で大敗をしました。後、新羅29代・大宗・武烈の王弟・金多逐は、30代文武の執政官として天智親子を殺害し672年、倭王となり、国号を【日本】と改めました。今日、天武の治世として記録されているなかには、文武王と金多逐の業績が混じっているらしい。【新羅本紀】文武王十四年(674年)の条に、春正月、百済の故地を占領し、人を送ってこれを守らせ、九月、義安法師を大書省に任じたとあります。このことは、金多逐の任命と稗田阿礼の下命を示すものと考えられます。【古事記】上表文によると、この時の修史のために、「帝皇の日継と先代の旧辞をよみ習わせた」とありますから、五七調の詠歌形式で書かれた【秀真伝ホツマツタエ】のような史書が読み習わせたものの原型であったと思われます。【古事記】は、日本という新国家の歴史を創造するに当たって、これを構成する邪馬壱国・狗奴国・百済・駕洛・安羅などの各王統を部分的に直系につないだものと推測されるのですが、ウガヤ王朝が疎外されているのは、修史の目的の一つに辰国史(ウガヤ王朝の朝鮮半島時代)の抹消があったからで、長スネ彦の死というフィクションも、そのためです。【古事記】中巻は、神武から応神までを記しているのですが、神武・綏靖・安寧・懿徳は百済王仇首・優福・沙伴・比流のことで、実は邪馬壱国王のことです。この時、狗奴国には孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化という王統がありました。【古事記】の中・下巻で、天皇以外の系図として書かれているのは、中巻に孝元天皇の子孫と、天ノ日矛の子孫を記す二つですが、実際は両者は同系で、共に狗奴国の蘇我天皇系図なのです。この天ノ日矛は孝安または安日彦のことで、以下、但馬モロスクが孝霊、但馬ヒネが孝元で、駕洛初代・首露と新羅の金首留、但馬ヒナラキが開化とつづきます。狗奴国の人々は、孝霊の時、辰国に入っていて、祟神代までは朝鮮半島の南部(金官加羅・駕洛)にいて、その後、畿内に進攻し、古墳時代となります。祟神期に、祟神妃である狗奴国王女・開化の子、彦坐が、但馬の叛乱を平定して、その司政官になったのが始まりで但馬を狗奴王家が支配していきます。以下但馬を姓として記すのは、後世、彦坐が但馬王となってから遡って命名したもので彦坐以前は但馬とは関係なく、朝鮮半島南部の辰国の故地にいたのです。従って、この時のタジマはタバナ国を表わします。タバナ国とは、サカ殷(扶余)の昔氏がいた楼蘭のことです。【古事記】下巻は、仁徳天皇に始まります。【三国遺事】によりますと、駕洛7代の吹希の王妃は進思の娘、仁徳となっていてこれが仁徳天皇のことであり、駕洛王統譜で仁徳の父である進思は、百済19代・久爾辛で同時に応神天皇でもあります。また夫の吹希は蘇我満智宿禰・木満致・宇治のわき郎子のことで、蘇我石川宿禰の子に当たります。【古事記】では石川宿禰と葛城そつ彦は兄弟ですが仁徳天皇は、そつ彦の娘、石の姫と結婚しているから、娘と息子と読み替えれば葛城そつ彦と石川宿禰は同一人となります。これを兄弟とすれば、駕洛王家は5代が武内宿禰6代が葛城そつ彦、7代が葛城石彦で、蘇我石川宿禰が6代王弟、蘇我満智宿禰が、その子という系図になって不自然です。さて、応神天皇(久爾辰)には、仁徳のほか大山守と宇治のわき郎子という二人の男子があったとなっていますが、実際は宇治は仁徳の夫、駕洛7代・吹希で、蘇我満智と同一人です。【古事記】下巻では仁徳と宇治が王位を譲り合い、海人部の者が貢物を献ずるのに、両者の間を往来して困惑し、自分の獲物に泣いたとなっており、この海人部とは、アメニギ氏の天の王朝の人々で、この説話は宇治王と王妃仁徳が、倭(辰)王の王座を譲り合ったことを示します。また実際には王妃の仁徳が倭王讃となった後、438年に死し、その後王の宇治が倭王珍となりましたから、倭の五王という場合の倭王は、ウガヤ王の辰王のことでもあります。吹希と仁徳の子は三子あり、長子が履中で百済20代・比、次子が反正で倭王済、三子が允恭で駕洛8代・金至知です。金至知の長子、木梨軽皇子は、駕洛9代・鉗知で蘇我高麗三子の安康は倭王興、四子の雄略は倭王武で、雄略の子、清寧によって駕洛王家の終わりを示します。軽皇子の子は国史にありませんが、実際は駕洛10代・仇衡で、その王弟・脱知爾叱今が蘇我稲目と同一人ですから、562年、新羅に敗れた後、日本に亡命したことになります。この蘇我氏の駕洛王家の滅亡は、百済が新羅と同盟したことによるらしい。倭の五王の侵略性については【宋書】の上奏文に残っていますが、ここに夷人とは新羅・百済であり、毛人とはアメニギ氏の一族のことで、北方縄文人のアイヌや南方縄文人のマラ族は倭の五王に対して抵抗力はなかったのです。一方、百済王家は履中の比の後、市辺が百済21代・蓋鹵なのですが、475年、高句麗・長寿王に殺され、仁賢の文周が曽祖父にあたる蘇我満智(吹希)を頼って駕洛に亡命し、百済の王位を継ぎます。【旧事紀】大成経は、市辺の即位を隠して、女帝飯豊と仁賢弟の顕示が即位したと記す【上記】の手法に一致しますので、飯豊の年代は市辺の座位を示します。この後に入る継体・安閑・宣化は安羅王・大伴金村以下で、蘇我系の一族です。【古事記】では、宣化の次が欽明となりますが、欽明と継体が並行して座位していたことになります。即ち、継体は蘇我王系の大伴金村と解し、この反乱王朝には駕洛の支持があったと考えられ新羅は、525年に百済王・聖明(用明)と修交し、後531年に駕洛を滅ぼしています。聖徳太子は無謀な対、高句麗戦で554年に父王・聖明を敗死させた威徳が日本に亡命した後の姿でした。以上の通り解明すると【古事記】下巻は、蘇我王家と百済王家が合体して駕洛と百済を建てた時代を記したことが判ります。したがって、【古事記】履中天皇の条にある【近つ飛鳥】とは駕洛、【遠つ飛鳥】とは百済のことなのです。
2009/08/17
ユーフラテス川とチグリス川を遡っていくと古代アナトリアのヴァン湖があります。BC3000年紀初め、ヴァン湖南岸にシュメール人一派のフツリ人が建てたエブラ王国が栄えました。エブラ王国の遺跡から出土した碑文に旧約に登場する神の名や人名が刻まれているそうです。セム系神話の神々、ダゴン、イシュタル、レセフ、ハダド、シュメール人の王ズイキドウとエンキ神・・・ズイキドウは、エンキ神に大洪水を予告され船を作って逃げ大洪水の後はディルムンに着いたと記す粘土板がニップルで発見されました。フルリ人の神話の神々、アシュタピ、ヘバト、イシャラの名が見られます。エブラ王国は、BC18~17世紀頃まで栄えて、アモリ人に破壊されましたが、その後、地中海に面したウガリットに王国を築き、東西世界の接点としてまた栄えました。後、エーゲ海から侵入した人々にBC12世紀頃、滅ぼされ、BC9世紀にバビロン北部に、またまたウラルトゥ王国(古名ビバイリニ)を建設しました。ウラルトゥはキンメリと同盟し、アッシリアに侵入しますが、アッシリアはスキタイとともに迎撃し、古アナトリア方面に圧迫され、BC714年に敗れて以来、バクトリア地方などの流浪の旅に出ます。中国に入った彼らは、伯族といわれて、北東部に扶余前期王朝を建て、後に高句麗と合流し、高句麗王となりますが、九代王の子、ケイ須は、自国を飛び出し、伯済国を建ててそれを弟に譲ってAD214年、百済国とし、再び2万の兵と共に朝鮮半島を南下し、AD239年に日本に攻め入りました。これが天皇の祖、神武天皇でありました。2万の大軍は当時の日本にとって強敵で、倭の大乱を起こします。斯くして、この王家は、されるエブラ王国をルーツとして、旧約聖書の原点となった歴史の系図を持つことになるかと思われます。<太古言葉は一つだった>といいます。日本の古代文字で世界各国の遺跡に刻まれている文字が読めることが明らかになっています。
2009/08/09
中央アジアのバル・ハシ湖は、【白鳥が水を浴びて乙女に変身する湖】という意味でした。またバイカル湖周辺に住むモンゴル・ブリヤート人は、自分たちの先祖は白鳥の母から生まれたという氏祖伝承をもち、氏族名のブリヤートも【鳥の子孫】という意味。さらに彼らが朝夕、眺めるバルグジン山脈は、バル・ガシュル(変身・白鳥)のブリヤートのなまり。このようにブリヤートは、氏族名、氏祖伝承、山脈名のすべてに【白鳥】をうたっています。ブリヤート人と多くの日本人が共通の遺伝子をもつことは、よく知られていることです。島根県津和野は小京都と呼ばれている山陰地方の町ですが、その津和野に格式高い神事芸能の鷺舞があります。天文十一年、津和野城主、吉見氏が隣県の山口にあった鷺舞を取り入れて津和野の弥栄神社に奉納したそうです。それから1000年後、今度は津和野藩主の亀井氏が家臣を京都に派して祇園祭りの鷺舞を取得させ、亀井家の直前の藩主で非業の死をとげた坂崎出羽の守の霊を密かに慰めんものと弥栄神社に奉納舞をしました。これが今日までつづいている津和野の鷺舞の秘史になります。ところが、その津和野の鷺舞で唄われる歌の句によると、鷺ではなく鵲カササギらしい。橋の上に降りた 鳥は何鳥 かささぎの かささぎの 鷺が橋を渡いた 鷺が橋を渡いた 時雨の雨に 濡れた鳥とうり 鳥とうりこの歌陰暦七月七日の夕、牽牛・織女の二星が天の川に会いする時カササギがその翼をひろげて渡すという七夕伝説を背景にしています。このような七夕伝説を伝えたのは、白鳥族といわれる人々。白鳥族といわれるのは、ブリヤート族とか契丹の審密部、後の遼人、金人たちです。獅子舞を伝えたのは牛トーテム族の司祭です。七夕伝説に、天に上ってしまった織女を追って牛の皮を着て、ふわふわと天に上る牽牛の話があるのです。この牛の皮を被るというところが獅子舞になったのですね。地中海のクレタ島の王が牛の皮をかぶり、エジプトにも牛の皮をかぶる神官がいたのは、この伝説の影響のようです。日本には、メソポタミアのウル語がアジアの北周りで入ってきています。【すごろく】などもそうです。ウル系の言葉を日本に持ち込んだのは、中央アジアの牛トーテム氏族、白鳥トーテム氏族を包括する騎馬遊牧民たちでした。
2009/07/30
今夜は七夕です。雲が切れて、大きな明るい月が出ているのに彦星と織姫星が見えました・・・と友人からステキなメールが届きました。牽牛と織姫の七夕伝説は古代オリエント史がルーツになります。地球の北半球諸語に於いて、動物の【牛】の原音には【ウル】が多い。牛の原産地はメソポタミア。BC3500年、ウルク期に於いて牛はウルと呼ばれていました。ウル王朝とかウル王朝の【ウル】が動物の牛のウルに由来することは明らかです。動物の牛が部族のトーテムとなり、部族名となりました。古代満州の扶余に【牛加】が実在し、高句麗には【牛加】は存在しませんが牛の原音のウルの入った部族名がありました。蚕友落部・・・ザム・ウルク・プ【蚕】のザムは、シュメール語のシォンsionの転でした。古代イスラエルのシオン部族です。そして、ウル人、蚕友落部を直訳すると、シオン・ウル人部族・・・ということになり一つの名の中に、古代オリエントの部族名が二つも入っていることが分かります。シオン族と牛族(ウルク)は対婚部族でした。即ち、この二つの部族が【織姫】と【牽牛】のルーツです。養蚕や絹織物技術にすぐれていたとされるシオン族は、 BC2800年頃から牛族のウルクと帯同して原郷のメソポタミアを離れたと考えられます。インドでは釈迦の名で呼ばれ、殷では【召方しょうほう】と呼ばれていたといいます。シオン族は塩を作る技術者集団でしたので【塩族】、新羅の旧称【斯櫨しろ】という国の特産品は【塩】で、それもシオン族の手によるものでした。新羅のはじめの国号は【徐那伐ソナボル】といいました。【徐ソ】はsioの転。【那ナ】は助詞の【の】。【伐ボル】は【馬】の仮借です。即ち、新羅は塩族と馬族によって樹立された国だったのです。馬加(加は人という意)は新羅の始祖、朴氏ナーガ族のことです。因みに新羅の旧称【斯櫨しろ】から新羅や源氏のカラーシンボルが【白】になります。古代イスラエルの民がシルクロードに於いて秦氏に変容し、シオン祭を祇園精舎大祭、祇園祭へと変容させながら日本の祭祀文化として醸成し、京都で開花させたようです。
2009/07/07
後漢書の高句麗伝に、涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部の五部族があったとあります。本来は涓奴部から王を出したが、徐々に微弱となり、後に桂婁部がこれに代わったとあります。 扶余伝にも、【六畜の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、狗加、羊加、大使、大使者、 使者などがいると書いてあります。どちらも、カースト的な部族連合です。カッシートは、月氏の先祖ですが、後に扶余の羊加、高句麗始の涓奴部になってシャーマン部族、牧羊民族で羊、鶏をトーテムとする壇国・番韓の王、後の物部氏になります。月氏の対婚族が牛加のウラルトゥで、ウガヤ王朝です。カッシート人というのは、BC3000年期から西トルクメニア特産の宝石ラピスラズリを持ってオリエントに行商していた人々です。シルクロードの西にいた彼らカッシートやアルメニア高原にいたウラルトゥの人々が、シルクロードを支配した後に中国史に於ける趙になり、後、さらに月氏になりました。その後、扶余になり、高句麗になって、そこから百済が分かれたのです。扶余は二派あって、このウガヤ王朝系のほかに、インドから入った製鉄部族ニギハヤヒ系があり、満州へ逃れて穢国をたてました。高句麗は黒海北岸の草原地帯にいた遊牧民族であるスキタイや匈奴の製鉄部族の高令でチュルク族が中心でした。この辺が私たちのルーツに関係します。ウガヤ王朝の戦士団は、オリエント史に初めて登場するシュメール人、言い換えるとエラモ・ドラヴィダ語族がダゴン・バアルの神話、即ち桓因-桓雄神話を持っていたらしい。ウンマ・ウルク・ウルというのはバビロンの第二王朝、海の国をたてたカルデア人で、エラモ・ドラヴィダ系の海人でした。そこにアーリア人が混同し、シルクロードを支配してカッシート、ウラルトゥ、ペルシャ、バクトリアなどの戦士団ができました。この人々が檀君朝鮮または辰韓になっていますが、その終わり頃、中国を支配しました。【史記】では、これが趙になっています。扶余族は、唐の時代にバクトリア東部のクスターナにホータンという国があって、月氏によって支配されていました。また馬韓にしても辰王は月支国の人となっています。趙の王家もこの月氏系で、それがギリシア系バクトリア人の秦に伐たれて満州に移って扶余になりました。 次に、ニギハヤヒ族というのは、オリエントのウルという海商国家が初めで、インド十六王朝の時代にウルのカルデア人やマラ族などの古代の海人たちがガンジス流域でカーシ国という海商国家をたてました。それがマレー半島を経て河南省の宛に入ってきて【宛の徐】氏といわれていました。宛というのは戦国時代の魏の製鉄基地ですが、この人々も扶余、高句麗の涓奴部なのでニギハヤヒ族(サカ族)と月氏とは同族ということでしょう。この人々は、戦国時代の魏(三国時代ではない)と同盟した製鉄部族ですが、魏が秦に伐たれたため、満州に逃れて穢国をたてました。穢国の王姓は、アグリ【余】というのですが、扶余、百済もそうです。したがって、天皇家もそういうことになります。天皇家のルーツ、扶余→百済→邪馬壱国のいわば本家である中馬韓を建国した【卓】という一族はフェニキア系でした。バビロニアのイシン王朝の末裔=箕子朝鮮が滅びた後、その将の卓が穢国の領地を引き受けて馬韓を建てたのです。そして穢国は扶余に合体しました。高句麗はチュルク人(トルコ族)で、当初は匈奴などのシルクロード諸族に所属していたのですが 後にバクトリアが衰えてからシルクロード全域で暴れだして、その中から高句麗が出てきたのです。この高句麗に扶余の皇子が養子に行き、九州に侵入した後の神武天皇になります。
2009/07/02
古代、白鳥をトーテムとする部族は欧亜にかけて存在しました。【白鳥族】は匈奴の中にいました。後の【匈奴】は自称【フン】Hu-unといいましたがこれはメソポタミアのウル語の【鳥】=【フ】huに起源しています。彼らは鳥(フ)をトーテムとしていましたから民族名を【フン】と称したのです。そして、この鳥の【フ】は、3世紀、馬韓の長い王号の中に、濆(フ)、不(フ)、報(ホウ)としてありました。また高句麗では王妃部の絶奴部が、細群(さいぐん)と麁群(そぐん)に分かれていましたが、細群が【白鳥トーテム族】、麁群が【大角鹿トーテム族(スキタイ人)】でした。いうなれば、白鳥トーテム族が匈奴に、高句麗に、馬韓に、いたのです。【白鳥族】と【牛族】は、ラガッシュ系とウル系に別れるのですが、両族は【七夕伝説】【羽衣伝説】【白鳥乙女伝説】【夕鶴物語】でも分かるように、対婚部族であったのです。日本にも、倭建命の霊魂が白鳥となって飛び去ったという白鳥伝承があります。 国史で猿田彦といわれるユダヤ・ガド族は、BC10世紀以降のウラルトゥ(ウガヤ王朝)時代からの歴史を【高天原の由来】として、ホツマ文字(神代文字)で書かれた【秀真伝】カスガ文字で書かれた【三笠紀】など、五七調の叙事詩として語り伝えながらシルクロードを東遷して中国→朝鮮→対馬へと至りました。彼らは、小船越に阿摩氏留神社(天照神社)を建立して、日本列島各地に移住する前進基地の本拠としました。阿摩氏留神社(天照神社)の一体には神武(尉仇台二世)の祖父仇台一世(彦波武鵜葺草葺不合命ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の霊が祀ってありまた別の一体は、天照意保比留貢あまてるおほひるむて(天照の世襲名)を称える祖神=ガド族の族長を祀っています。但し、現在この天照意保比留貢の御霊は次の三社に遷座されています。愛知県・・・安城市神明神社・蒲郡市神明神社・豊田市神明宮 天から降ってくる【天国アマクニ】というのは、対馬、壱岐、沖ノ島など朝鮮と日本の間にある島々のことです。【天国アマクニ】から朝鮮や日本、他の地へ行くことを天から行くので【天降る】といいました。今でも東京駅から他へ行くのを下り列車、東京へ行くのを上り列車といいます。昔は京都に都があったので、京都に行くのを上る、京都から地方へ行くのを下ると表現しました。それと同じに天国・対馬等の島々から他へ行くのを天下る、そこへ行くのを天上るというようになったと考えられます。島は海に浮んでいるので途中下車はなく、降りた・・・と記述したと思われます。そこで【記紀】では降臨したのがニニギノミコトでコノハナサクヤヒメと一緒になってという話が出てきますが、その天孫降臨、実際にはユダヤ系のガド族、日本名では猿田彦が最初にやってきました。彼らが天降って王宮を作った場所は吉武高木遺跡です。他にも、イエス・キリストを生んだゼブルン族、日本で言えば宗像神社の三人の姫=宗像神社の御三神に相当する人々、さらには女王卑弥呼と大物主命などの系統であるイッサカル族これらが三位一体となり連合して竺紫の地に渡来しました。ここには糸島半島がありますがガド族らは、ここに上陸しています。この吉竹高木でつくった国を伊勢国といいます。この伊勢国がやがて近畿地方に移るため、区別してこの地を【旧伊勢国】としていますがこの時、最初の【伊勢国】を建てたのです。伊勢の君・猿田彦は鉄鐸・銅鐸文化の祭祀者であり、秦末の【焚書坑儒】事件で多くの王族や儒者たちを殺されたガド族がイスラエル北朝からユダヤ南朝系に変身して急遽、鉄鐸・銅鐸文化を携えて日本列島へ亡命したのです。こうして九州博多の地に新しい青銅器文化の先進国が建設されました。次に、その初代猿田彦命に続いて、二代目の猿田彦は、イスラエル神(バアル神)を祀る太陽神殿(天照大神を祀る日代宮)を平原王墓(遺跡)に築き、 八咫鏡・神鏡・鉄剣・勾玉など【三種神器】を奉納しました。それが九州社会を発展させるきっかけになりました。この頃、九州の地には以前から縄文人や稲をもってきた苗族、あるいはシュメール人のグループといった先住民が居住していました。猿田彦二世は、その人々を支配化においてユダヤ人たちのヘレニズム文化(ギリシアとペルシャの混合文化)によって鉄鐸・銅鐸を生産する青銅器文化を九州全体に繰り広げていきました。こういう猿田彦の話が日本武尊ヤマトタケルノミコト九州征服譚に書かれ、この地が筑紫の大和と呼ばれたのです。【まほろば】という言葉は鳥の心臓に近い脇にある柔らかい毛をいう「摩倍還麻まへらま」が訛ったもので、「秀」「場」=日本の中心の秀れた地と一般には解釈されています。
2009/06/28
土地には良い土地と悪い土地があるといいます。良い土地は病気を癒し悪い土地は気が枯れるそうです。植物の生育も自ずと違いがあらわれその鍵は陰イオンです。植物生育の優勢地、養鶏の産卵率が高く動物、人間の健康度が良好な土地には陰イオンが多いのです。その逆の悪い土地は、陽イオンが多い。 ふぐの毒にあたった時、すぐさま穴を掘って埋めると助かるといいます。古代の人々は、生きるための知恵と、直感的な感性を持っていました。大地には解毒効果 があることも知っていたようです。新しい穴を掘ると、その場所にマイナスイオンが集まります。針灸刺激を皮膚に加えると、その部位 にマイナスイオンが集まり全身の自然治癒力が生じるのも同様の作用です。土地には解毒効果の優れた場所があり、そこは、マイナスイオンの密度の高い場所、地電位の高い場所です。この様な所は還元電圧地といって、金属が酸化しにくく、物が腐りにくい。穴を掘って、そこに炭を埋設するとさらに効果 があがるそうです。おそらくマイナスのイオンに敏感な古代人は、そのような聖地を見つけ定住し、特に気分も良くなり、健康を回復させる力が湧く所に神社を建てたのでしょう。
2009/06/17
To see a World in a Grain of Sand And a Heaven in a Wild Flower, Hold Infinity in the palm of your hand And Eternity in an hour. 一粒の砂に世界を見 一輪の野の花に天国を見 君の手のひらに無限をつかみ 一刻の中に永遠を感じる ウイリアム・ブレイク自然の万物は生命で脈動していて人間もそれらと通じ合う方法を学びさえすれば無限の秘密を明かしてくれる。人は、人体を取り巻くオーラ(生気体・魂・気)を通して宇宙とつながっており月ばかりでなく惑星の変化にも反応し、また自分以外の人間の病気想念、音、光、色彩、磁場、季節、月の周期、潮、雷雨、強風さらにいろいろのレベルのノイズに反応するといいます。宇宙の環境に変化が生じると、人体の生命エネルギーに共振(共鳴振動)が生まれそれが次々と肉体に影響を及ぼす。人が、生きている植物と直接交信できるのはその人のオーラを通してであるといいます。 【植物の神秘生活】よりカタカムナ人が捉えた【物質】【生命体】【時間】【空間】を書いてみます。ちなみに、私はカタカムナ人とは、縄文時代の港川人と名付けられたシュメール人でありヒエログリフ(岩文字)を書いた人がメソポタミアのウル人となり混血を繰り返しヘブライ人、サカ人月氏、秦人のなかに存在し、日本列島に渡来した後、賀茂氏、物部氏などになって一万年も前から祖先から伝え聞いた叡智を【先代旧事本紀大政経】に属して【カタカナム文献】を著したと考えています。サンカは、秦人の一部もなっていますので、彼らが密かに後世に伝えたものだと思います。そして、もしかしたら、もっともっと超はるか昔、カルメルの洞窟にいたケバラ人からナトゥフ人にアナトリアへ移動した人々だったのではないかと思いを馳せるのです。物質世界と精神世界は一体のもので、宇宙のすべてのモノの始まりが素粒子で、その集合体としての宇宙の気が凝集して目に見えない核をつくり、これが宇宙球を創り、万物万象の元になっていて、それをカムナという目に見えない力が支配しているとしています。素粒子のマリと呼ばれるカム(目に見えないチカラが無限に広がる世界)無元量で、このマリから電気、磁気、力、時、空間の5つの素量ができるといいます。そしてこの中の電気、磁気、力の3つの素量からできるモコロという素粒子から物質や生命体が創られていること、イノチは5つの素量の粒子が、変遷し連帯するものといいます。ココロ(心)とは、思念のあるマリからできた物質であると言っています。ですから、宇宙空間に実在するものも、精神や思念、心などの見えないものも、すべては究極の超微粒子=素粒子の働きであり、その存在の仕方によるものであることが理解されているのです。そして、カタカムナも量子力学も、物質世界は目に見えない精神世界(潜象世界)との2重構造になっていて、心はその見えない部分であるオーラ(気)にあると言います。脳科学を含め、科学が必死になって心の所在を究明しようとしても、物質化していない【心】を検知できないのは当然のことで、潜象世界に実証性や再現性を求めることはできないのです。では、その生命エネルギー体であるオーラ(気)の構造はどうなっているのかを見ると、原子核を元にしていると言います。素粒子が回転しながら結合して中性子、陽子、電子ができ、中性子と陽子が回転しながら結合して原子核がつくられます。この原子核に電子が結合して物質化するのですが、電子が結合せず、物質化していない原子核だけが回転しながら結合を繰り返して、物質化せずに物質との2重構造をつくっているものがオーラと呼ばれるものであると言います。【心】は脳にあるのではなく、このオーラにあり、脳はそのプログラム(指令)に従って働くコンピューターのようなものと考えることが適正なようです。なので、思考や言葉は波動によって現実をゆっくり変えていきますネガティブの言葉癖のある人は、ネガティブな人生を引き付けポジティブな言葉癖はポジティブな現実を引き寄せ易いと思われます。物事を肯定的に捉え、前向きに行動していくうちに、オーラ自体がゆっくり変わっていきます。時間と空間は、相互いに転換し、電気・磁気・力などの集積した素粒子に正進したり反転すという循環を常に続け、膨張したり収縮したり、しかもその逆性が共存していると捉えています。日本人は【間がもてない】と云って時間を【間】「マ」と表現します。また【土間】や【すき間】などのように空間も【間】「マ」と表現します。これは、古代人が原子を【マ】とし、その微分化された素粒子を【マリ】と云ったことからきているようです。カタカムナ人によれば、【空間】は、何もないのではなく【マリ】で出来たものということになります。死というのは、肉体の滅亡ではなく、物質(肉体)から生命エネルギー(オーラ・気・魂)が離れた状態を指していると考えられるようになっていますし、カタカムナの人たちもそう捉えていました。 カタカムナも最先端の科学者もこの点では同じ答えを導き出し、あらゆる物質には生命エネルギー体が宿り、心があると言います。その生命体は生物の方が強く大きく働いており、石などの無機質なものは弱いことも明らかにしています。カタカムナ文献では鉱物ほどモコロの内の生命系が少ないと言っています。
2009/06/03
世界各地に残る古代文明には【似通った文様】が見られます。螺旋、渦巻き、十字、六芒星・・・・・・。そしてこれらの【文様は】、その呼び名は違っていてもどの文明でもある種神聖なパワーを持つものとして扱われてきました。なぜこうした一致がみられるのか。この謎を追っていった時、一つのロマンを夢みる。【古代、地球は同じ一つの文明のもとにあったのではないか】超古代、人類は高度な文明に支えられ、平和で豊かな社会を営んでいた、そんな伝説が世界各地に存在しています。上古代の日本の地に【アシア族】という高度の文明をもつ種族が存在したということを前回述べました。彼らは、素粒子の存在を既に知っていました。 素粒子には、宇宙から、右に渦を巻きながら落ちてくるものと、左に渦を巻きながら落ちてくるものがあるそうです。【渦巻き】は、世界各地の古代文明に残る文様です。古代ケルト人は、泉から水を汲む時、瓶を回したそうです。それは、渦巻きを起こして、宇宙エネルギー(気・磁波)を取り入れるためとか。水質が確実に良くなるそうです。【カタカナム文字】も渦巻状に描かれています。アシア族とは、どのような人々だったのでしょう。縄文時代、日本列島には三内丸山は東の政権で黒曜石を武器(鏃)にしていました。西にはヒエログリフ(岩文字)を書いた人たちがいました。 シベリアから来たブリヤート系の東方の三内丸山の黒曜石に対して西のペトログラフの人たちは普通の石斧を使っていたために負けさらに鬼界カルデラの大爆発の後、滅亡し、生き延びた人々は日本を出て行くことになります。この2つの文明は土器を持っていたために、世界的に進んでいました。西日本で大きく花開いていたヒエログリフの人たちはどこへ行ったのでしょう?1万1千年前、港川人が沖縄を経て鹿児島へと上陸し、日向や阿蘇など の各地に広がり、縄文人になっていきました。阿蘇カルデラ北辺山頂にある【押戸石】と呼ばれるヒエログリフ(神聖絵文字)を刻んだ古代祭祀遺跡が港川人によって造られた【シュメール文明のモニュメント】であって、他にも飛鳥の【酒船石】に似た【宇宙図岩】は、ユダヤ民族の秘儀といわれるカバラの生命の樹(セフィロト)すなわち神的属性の図を立体的(4次元的)に岩全体に刻まれています。さらにBC6000年頃、彼らが奈良の地に渡来し、胡沼の畔に竪穴式住居をたて定住しコロニーをつくりました。現在の【奈良盆地】は、その頃は盆地ではなく琵琶湖ほどの大きな湖だったといいます。その中に半島的にわずかに見えていたのが 三輪山とか大和三山(畝傍山・天の香具山・耳成山)でした。現在の間氷期よりも気温が高く、彼らは採取だけでなく、根菜やヒエ・アワビ・キビなどの雑穀栽培を行い併せて狩猟・漁労などによって生活していたようです。当時、三輪山周辺にピラミッド・巨石文化の遺跡が多く存在し、これは港川人たちが三輪山を御神体(アニミズム信仰)として崇拝していたからと思われます。三輪山と天の香具山(人工的に造った聖地)を含む大和三山の関係は丁度二等辺三角形を形作っています。三輪山と畝傍山を結ぶ線が冬至の【日の入り】に当たる線になっています。そういう点で、縄文人というのは、【日の出・日の入り】といった天体観測を非常に詳しくやっていたようです。彼らの信仰というのは当時世界共通に巡っていた太陽信仰=蛇信仰なるものでした。カタカムナのアシア族とは、港川人だったと考えられます。鬼界カルデラの大爆発の後、生き延びた彼らは、メソポタミアへ向かい最古の文明とされるシュメール文明を担ったと考えられます。そして彼らは故地日本列島に帰り秦王国を築いたと。カタカムナは、先進科学も及ばないほど、優れた叡智をおしえてくれています。素粒子には、地球の大気にふれると左に渦を巻きながら落ちてくるものと、右に渦を巻きながら落ちてくるものがあると先に書きました。これらの素粒子は、天の気で生命の源と考えられています。天の気は、このように左と右に渦を巻きながら頭から体内に入ってきます。古代人は、既にそれを知っていてか、それを土器の模様にしたのが縄文土器かと思われます。左渦と右渦を土器に入れると、まず土器そのものが劣化しにくくなり土器の中に入った食べ物は美味しくなり腐りにくくなります。体の異常は、気の過不足が原因で起こります。気の流れが滞った場所(ツボ)その入るべき場所から素粒子が入ってこないために病気になるのだそうです。体で、最も気が入りやすい場所は、左右の鎖骨外端下のくぼみにある中府穴と首の後ろの大椎穴の3ヶ所です。どれも昔から着物に紋を入れる位置なのです。氣は丸が大好きです。丸型には、強い氣のエネルギーが集まってきます。イギリスのストーンヘンジのように石をサークル状に並べると、強力なエネルギーを集めることができるそうです。ちなみに両手を丸くしたとき、手で作った丸の中は、温かさを感じます。熱をもつのは空中の気が集まるからです。神社で拍手を打つのも気が集まるからです。現代科学は、目に見える物質世界しか信じてこなかったが、カタカムナ人は、目に見える物質と目に見えない【生気体】という魂、オーラ、気、の二重構造で宇宙の万物ができていることを知っていました。想念や言霊の波動が宇宙の生命エネルギーと感応して、現実を変える要素を知っていました。彼らの叡智は、私たちの未来を明るくしてくれます。
2009/06/02
宇宙は物質世界と非物質世界(潜象世界または多次元世界と呼ぶ)が重なった二重構造をしています。このようなことを、私たち日本人の祖先はすでに宇宙の二重構造性に気づいていた、という驚くべき情報があります。それが【カタカナム文献】です。【カタカナム文献】はアシア族によって書かれたといいます。アシア族は2万年前日本に住んでいた高度な文明を持った種族だそうです。太古の日本人はアシア族といい幾何学記号のような文字を使い、真理追究や錬金術を行っていたといいます。中国の道教の古伝によると、日本にはその昔、八鏡化美津文字を使う極めて知的水準の高い種族がいて、この種族はアシア族と呼ばれ、アジアという名称は、この超古代の種族に由来するといわれています。戦時中、一部の産業界や軍部から天才科学者と評価されていた楢崎皐月(ならさき こうげつ)という人物がいました。その楢崎皐月が戦後、才能を高く買ってくれていた星製薬社長の星一氏の依頼で、当時の食糧難と将来に備えた農業技術の開発という名目で研究を始めることになりました。そこで、助手の青年数名と一緒に六甲山系・金鳥山に入り60日余りの穴居生活をしながら研究をしていたところ、穴居の扉をドンドンと叩く者がいました。楢崎皐月が出ていくと、初老の猟師が鉄砲を持って立っていました。猟師は「山に何しに来た。お前さんたちが泉に妙なものを仕掛けるから、森の動物たちが水を飲みに行けなくて困っておるのじゃ。すぐに除けてやってくれ。あそこは動物たちの水飲み場なんじゃ」と訴えるのでした。それは楢崎皐月たちが泉に電線を張り巡らせて水の成分も分析していたからでした。翌朝、楢崎皐月たちが電線を外すと、その夜に再び猟師が現れました。「お前さんたちは感心な人たちじゃ、穴居しなければ本当のことは分からんものじゃ。これは、すぐに外してくれたお礼じゃ」といってウサギを1羽くれたといいます。そして、その猟師は「儂は平十字という者じゃ、父親はカタカムナ神社の宮司であった。これは父祖代々伝わるご神体で、儂たちなんかが見たら眼がつぶれると伝え聞いているもので、秘密にされてきたものなのじゃが」と告げられて古い巻物を見せられたといいます。その巻物は古い和紙に書かれてあり、円と十の字を基本とした図形を渦巻き状に配列したもので、暗号のようなものに見えるものでした。猟師は「今までにこれを見て、刀のつばや定紋ではないかといった学者がおったが、そんなものではないのじゃ、このカタカムナの神を伝える家は、平家と食家(中家を入れて三家という説もある)の二つしかない」と語ったといいます。楢崎皐月はその巻物に描かれていた図形を見て、満州にいた頃に老子教の道志であった蘆有三に聞いた話を思い出しました。それは「日本の上古代に、アシア族という種族が存在し、八鏡の文字を使い、特殊の鉄を作り、さまざまな生活技法を開発し高度な文明を持っていて、それが神農氏らによって伝えられシナの文化のもとになったものと秘かに伝わっている」というものでした。巻物の図形を見て、楢崎皐月はこれが八鏡文字ではないかと直感したのでした。そこで楢崎皐月は猟師に巻物を写 し取ることを申し出ました。平十字と名乗る猟師はすぐに了解したといいます。このようにして楢崎皐月が六甲山中で平十字と名乗る不思議な猟師に出会ったことで写 し取った図象がカタカムナ文献だとされています。この話にある平十字(ひらとうじ)なる人物は、サンカ(山窩)の族長と考えられます。【上記】【宮下文書】など秘史の保存された場所は、すべて山民の地であり、八ヶ岳の族長【トミオジ】が諏訪家の伝書使を勤め、また播磨木梨の里の族長繁蔵が【重蔵刻記】によって楠木伝承を伝えたことを考えると、山窩には、忍者、長吏の外、【語り部】的な役割をする者もあったと考えられます。この特徴はイラン文化と関わりがあることを示します。山窩の族長が伝承した【カタカナム】は2万年近く前に伝えられたものです。 古文書というと一般には歴史書ですが、【カタカナム文書】は、歴史書ではなく科学書です。すなわち、これは日本人の祖先、アシア人が直観で宇宙の構造やしくみを捉えたものです。大自然、大宇宙の息吹を友としていた超古代人にとって、その直観力は、現代人の想像も及ばないほど研ぎ澄まされており、宇宙の深淵、宇宙の背後に隠されている何ものをも射抜くほどの力を持っていたようです。カタは、我々の見ている宇宙が世界の全てではなくそれは片方であるの意味。 カムは、象(カタチ)が無く目には見えない潜象世界の意味。ナは、旦那のナと同様、代表する存在【主】の意味。【カタカナム文献】の内容は【宇宙の成り立ち】 【宇宙 の特徴】 【物質や生命の発生の仕方】【生命の本質】から【農業や製鉄技法】 【病気の 治療法】【人間の考え方】 【商人道の心構え】までを表していました。カタカムナ図象は、カタカムナ人が創造したカタカムナ声音符とその声音符を組み合わせた言葉を示す図象文字との基準になっています。声音符の造り方は、カタカムナ図象によって表現した8種類の自然の摂理を巧みに一つのウタに読み込みその歌詞に誘導されて48個の分割象を造りそれぞれに48種の声音を振り当てています。声音とは、可聴範囲内外の音を我々の耳で識別できる必要最低限の48種類としています。楢崎氏はカタカナの起源が、カタカムナ図象にあると結論しています。また、フトマニ図象は「日本数字の記号」として使用されていたといいます。アシア族の文字(カタカムナ)はカタカナとして残りますが、日本書記は完全に漢字となり日本文化は唐(藤原氏)を元に作られるようになります。のち空海プロジェクトによりカタカナを民間に広めるため平仮名を考案。
2009/05/29
難しいことは分かりませんが根源的なことが好きです。宇宙の根源や人類の根源に深い興味を惹かれて追求してきました。多くの科学者達の努力により、今では全ての物質は素粒子と呼ばれるとっても小さい粒子からできていることがわかってきました。宇宙も私たち人間も動植物も無機質の物もすべて素粒子で出来ているそうです。素粒子とは、自然界に存在する物質で、もうこれ以上分解できない最小単位の物質をいいます。では、私たちの体を構成している素粒子はなんなのでしょうか?素粒子まで分解してみますと。 私たちの体をどんどん細かく分解していくと、組織(胃、肝臓など)→細胞→タンパク質→アミノ酸→原子(酸素、炭素、窒素、水素など)と、まず原子にたどりつきます。原子は中心に原子核があり、周りに電子が存在しています。そして原子核は陽子と中性子からできています。こういう物質の基本となっている粒子、すなわち、電子や陽子や中性子のことを【素粒子】といい、もうこれ以上分解できないと考えられています。 電子は原子核の周りを回っています。電子はマイナスの電気を持っているので、原子核のプラスの電気に引っ張られてグルグル回っているのです。太陽の周りを地球が回るのと似ています。このように私たちの身体の細胞は素粒子で出来ています。そして、この【目に見える肉体の部分】に重なっている【目に見えない部分】も素粒子からできているそうです。この【目に見えない】生命エネルギーを生気体と天野仁氏が名付けました。この生気体が【生命の源泉】であり、【魂】であり【気】です。この【生気体】があるからこそ私たちは生きているのです。死ぬ時には【生気体】が抜け出していきます。人間だけでなく、万物すべては、こういう基本構造になっています。私たちの身体の周りには【生気体】という目に見えない【気・魂】が重なっていてそれをオーラとも呼びますが、むしろこちらが【生命体】の主となっています。宇宙とか生命とか個々の存在物とかは、すべて素粒子から成っており、すべては【気】として【場】として、互いに感応する意識、無意識の時空的な広がりをもっています。【気】が合う、【気】が強い、弱い、【殺気】、とか、昔から人は無意識に【生気体】の存在を感じていたのでしょう。いえ、遙か古代の人々は、天地人は、【気】によって感応し合っているということを知っていました。普通の動物と同じように、生きていくための叡智が自然に備わっていたのです。動植物は、本能的・直感的な天地感応の中で身を処しています。彼らの身体にも【生気体】が伴っているからです。彼らは自分たちの【生気体】を天地の【生気体】に上手に感応させることによって生きているのです。残念ながら人類は、そうした叡智を失ってしまったようです。大地の中の気の流れを【龍脈】、その気が集中しているところを【穴】といいます。西欧では【レイライン】と呼ばれます。日本でも平安京から吉野・熊野へ繋がるラインがそれに相当します。人体では、【ツボ】とか【チャクラ】というところが、生命エネルギーとしての宇宙エネルギーが集まるところです。エネルギーが流れるところは、【経路】とか【ナディ】と呼ばれるラインです。全く同様に、大地の経路が龍脈と【レイライン】に相当します。そして、聖地とされて古代に於いて巨石構造物がつくられたり、現在でも社寺仏閣のあるところが人体に於ける【ツボ】や【チャクラ】に相当します。そこは、大地のエネルギーが集まってくるところというだけでなく、宇宙の生命エネルギーとの相互作用のセンターでもあります。そういうところでは、私たちの生命波もまた天地に感応するのです。西欧でも、レイラインは宇宙と繋がる霊的エネルギーの連絡通路とされています。それを古代の人々は知っていて、ストーンヘッジやストーン・サークルを造っています。石にも生気体はあり、聖地に置いて宇宙と交信していたのでしょう。鉱物やクリスタルも同様です。【言霊】といって、言葉にも波動があり、思考にも現実を変えるパワーがあるといわれています。マイナス思考でネガティブな言葉を発すると、本当に不幸を呼び寄せてしまう例は、少なからずあります。【シンクロニシティ】という共時性も、素粒子論で理解することができます。すべては、波動によって宇宙とつながり感応しています。前向きにポジティブに生きていくことに越したことはありません。
2009/05/27
長州藩が幕末から強固な支配体制を維持している理由は【忍者・諜報】機関が背後にいたと考えられます。そういうシステムが毛利藩に継承されていきました。というのは、長州をつくった毛利元就は最初は小さな勢力でした。ところが、中国地方10ヵ国を支配するような大大名に伸し上がったのです。それはもっぱら諜報と謀略活動で大きくなったのです。そのような性質を持った毛利藩が関が原の戦で負けて小藩になります。しかし謀略機関は維持されて、【忍者集団】になります。そのトップが【上忍】で、【中忍】【下忍】などのシステムができあがります。吉田松蔭は1829年、長州萩松本村に藩士、杉百合之助の次男として生まれました。松蔭は五歳にして藩学師範家・吉田家の仮養子となり翌年、叔父吉田大二郎賢良の跡を継ぐと、十歳より、藩校明倫館に出勤して家学の兵学を教授、彼は幼くして天才でした。1841年、叔父玉木文之進の松下村塾に入り塾生を教育する傍ら、自らも山田亦介から長沼流兵法を学び、進んで西洋の兵学まで修めました。1850年、九州に遊学して、翌年、山鹿流兵法の皆伝を受け、藩主にしたがって江戸に留学佐久間象山に師事しました。同年12月には水戸藩を訪れ、藤田東湖を訪ねましたが会えず会沢正志斉らと気脈を通じて、南朝正系を説く【大日本史】を学びました。松蔭は、この頃すでに長州藩ウラ毛利の【上忍】益田元宣に引き立てられて【中忍・・・佐官級情報員】となり元宣の子・親旋とも親交を深めていました。そして相共に尊皇攘夷をスローガンにし倒幕・南朝革命を目指す同志となっていたので、1854年3月、上忍・元宣の命を受けると最新の世界情勢を調べ、さらに情報収集をする目的で浦賀に於いて米艦に乗り込もうとしましたが失敗して下獄。同年10月は帰国して野山獄に入り、翌年12月、実家杉家で謹慎生活。こうして幽囚の身となった松蔭が【松下村塾】に顔を出し始めたのが1856年9月から、つづいて熱心な講義を始めたのが同年11月からであり、それを知って塾生も急激に増加し、優秀な人材が揃うようになりました。このことによって、いよいよ松蔭自らが指導する革命の実践活動に入る決意を固めたのは、翌年正月のことでした。1858年正月九日維新革命の実践活動に立ち上がることを誓い合い、門下生をはじめ藩政府当局などに宣言しました。萩藩当役は益田弾正親旋で撫育方(表向きは産業振興役実は秘密の倒幕用軍資金を守る忍者集団)の長官を兼ねていました。即ち、親旋は長州藩独特の制度・ウラ毛利の上忍(情報局長官)であり、その父、元宣の時から密かに援助していた松蔭を中忍として動かしていたのです。従って、松蔭の動向は単なる個人的なものではなく相当な忍者集団を動かしうる組織的なものでした。松蔭は、水戸学の南朝正系論を理念とし、後醍醐天皇の血統、大室寅之祐を擁護していました。また部落・賎民など被差別民解放。松下村塾出身の志士たちに指導された長州奇兵隊の中核を成していたのは、部落解放の夢に燃える賎民出身の若者でした。 奇兵隊のなかでも、特に注目すべきは力士隊、伊藤博文は、この力士隊の隊長でした。 この時代の力士隊というのは弾体制(同和)に従属していて部落と密接して関係しているかあるいは部落そのものでした。さらに力士隊のあった第二奇兵隊の屯所は、麻郷(おごう)近くの石城山にあり、ここ田布施町は、大室天皇家のあった場所で、明治天皇となる大室寅之祐が明治維新の前年まで過ごした地でした。因みに岸信介・安部晋太郎・晋三氏が出自もこの辺りです。伊藤博文などもこの辺です。興味深いことに、古くから石城山は【聖なる山】として崇められ、石城山を基点として【太陽の道】レイラインに神社が置かれています。レイラインとは、古代遺跡などを地図上で結んでいくと見えてくる一定の法則でつながっている ネットワークのことです。ライン上には何らかの強いエネルギーが流れているとの説もあります。 レイラインはよく、経絡とツボの関係にたとえられるのですが、レイラインが経絡だとすると パワースポットがツボになります。世界的にも遺跡・古くからの宗教施設・聖地などが直線的に配置されていることが分かってきました。これら遺跡・古くからの宗教施設・聖地などは、活断層に沿ってあることが分かりました。岩石、特に石英に圧力を加えると電磁波が発生します。活断層上でしばしば起こる圧電現象は強力な電磁場を生み出し、条件がそろえば大気をイオン化して球電光を形成することもあるので古代人は、断層線上で起こる発光現象を目撃し【神】の出現と考え神聖視し、そこの場所に巨石などを配置して聖地として敬ったのでしょう。イギリスでは、レイラインの多くは、ケルトあるいはそれ以前の時代にまで遡る遺跡を結んでいるといわれ、 そこには、ストーンヘンジや、ミステリーサークルの出現地なども含まれています。ストーンサークルの建造目的は土着信仰(ドルイド教)の宗教的儀式と関係があったのではないか。ところで、人間の脳にある種の弱い電磁波を加えると、幻覚・幻聴・気分の高揚・逆に落ち込み等が発生することも知られていますが、このある種の電磁波というのが、活断層で発生する電磁波とそっくりなのだそうです。昔の聖職者(シャーマン)などは、感受性が非常に強い人たちで、活断層の近くに来るとそこで発生している電磁波の影響を受けて幻覚・幻聴・気分の高揚などがおこり、神の啓示を聞いたり姿(光)を見たりして、聖地としたのかもしれません。日本のレイラインで最も知られたものの一つとして小川光三氏が発見した【太陽の道】があります。大和の地に存在する寺社や古墳や山の山頂が、北緯34度32分の東西の一直線上に並んでいるというものです。太陽や星の運行とも密接な関係があるとされ太陽の道に付随して、神社や古墳が形作る巨大な三角形などが発見されており、それらは春分や夏至などの特定の暦日に太陽が昇ったり沈んだりする地上の地点を示すために利用されたといいます。真弓常忠氏は【古代の鉄と神々】のなかで、このラインが採鉱・鉄冶業を生業とする集団によって日神祭祀の祭場とされた・・・・・と云っています。田布施町の国森古墳からも、副葬品に鉄矛、鉄斧、鉄削刀子等が出土し、古くから鍛冶屋衆がいたと推論されています。この周辺の地から何人も首相が出ているのは偶然でしょうか。
2009/05/18
中臣氏に養育された土師氏の不比等の子孫が藤原四家(南家・北家・式家・京家)を形成して諸豪族の筆頭に躍り出る貴族となりました。さらに、藤原氏は新羅王族の植民地政策を排除して、日本独立路線の確立に成功しました。すると今度は藤原氏一族の内紛が起こりました。770年8月、称徳女帝が崩御しました。国史では白壁王(敬福の長男文鏡)が即位したようになっていますが、実際には白壁王の妻・井上内親王(敬福と光明子の三女)が即位して井上天皇となりました。その井上朝廷は道鏡を下野の薬師寺別当に落とし、他戸親王(敬福の次男武鏡の子)を皇太子としました。白壁王は表向きの光仁天皇となり実は内裏天皇として公務をこなす後見役となりました。先に、白壁王・文鏡と井上内親王との間に早良親王が生まれていましたが、まだ幼かった。このように光明皇后と百済王敬福との間に生まれた姉妹3人と敬福の先妻との間に生まれた兄弟3人が結ばれて、各々カップルになりましたが、天皇位をめぐって同族間の紛争の火種になりました。藤原四家が2派に分かれて盛り立て、諸豪族もそれぞれ利害によって応援しましたから藤原氏内紛は全国的規模のものとなり、【南北両王朝】の対立に発展したのでした。773年1月国史に【山部親王立太子】とあります。これは、藤原式家の4男雄田麻呂らの活躍により、白壁王こと後の光仁・内裏天皇を無理やり納得させて山部親王が立太子したのです。そのため、先の他戸(おさど)親王と併せて2人の皇太子が並立することになりました。即ち、孝謙天皇をめぐる仲麻呂と道鏡の確執が発展して、仲麻呂の子・刷雄(よしお)らの【南家】と道鏡の子・山部を擁立する百川らの【式家】の対立になり、これが古代南北朝の争いとなりました。775年4月、井上天皇と他戸皇太子が崩御(おそらく暗殺)。10月白壁王が即位して光仁天皇に。781年1月、国史では光仁(12月崩御)譲位し、山部皇太子が即位して桓武天皇となり皇弟・早良親王が立太子したようになっていますが、実はこの時、道鏡の子・山部は桓武天皇として【南朝】を建て、光仁(文鏡)の子・早良は早良天皇として【北朝】を建てたものと考えられます。784年11月、長岡京に遷都。桓武天皇は国民の生産意欲を刺激して増産に励み、一方朝廷の経費削減・倹約につとめて国家の安泰を図ろうとし、従来の朝鮮式平壌京を模した平城京から移って天皇の住居と国家の行政機構を分離した新しい都を【水陸の便】が良いところに造りました。ところが、造営開始からまもなくの785年9月、藤原式家の頭領である藤原種継が暗殺され首謀者は大伴継人(レビ族系)、佐伯高成(シメオン族系)らで、大伴家持や早良天皇は全く無関係でしたが、桓武天皇は大伴家持が生前計画し早良天皇が了解していたと断定し早良天皇の廃太子を行い、桓武自身の皇子の安殿親王を立太子させました。こうして、北朝側の惨敗となり、淡路島へ配流され早良天皇は食事もとらず船中で憤死しました。しかし平安京への遷都は早良天皇の怨霊のためではなく、長岡京の廃都は792年の大洪水によって万余の死者が出て、長岡京を中心に3分の一ほどが機能麻痺となったことを契機に、併せて新羅系勢力の一掃をはかるため、桓武天皇により決断されたものでした。さて、桓武天皇は【藤原種継暗殺】事件を逆手にとって、早良天皇を廃し、北朝系(新羅系)の根を絶ったかにみえましたが、今度は東国(蝦夷の地)から叛乱の火の手が燃え上がりました。奈良朝廷(新羅系)を倒して南朝系(秦王国系+百済王系)勢力が復権し桓武朝廷が成立したのを今度は北朝(新羅系)側が覆そうと、【アテルイの乱】が勃発したのです。これは白村江の戦いの際に活躍した阿部引田臣比羅夫・大宅臣鎌柄らの子孫、荒吐五王(安部水軍)が率いる東北蝦夷軍および新羅系花郎軍団の率いる東国農民の連合軍が北朝側となり、南朝側のクーデターを武力によって巻き返し、桓武朝廷から日本列島の支配権を奪還しようとする大戦争でした。【日本書紀】はアテルイのことを阿弓流為(アテルイ)と書き、公卿たちは悪路王と呼んでいました。胆沢(いさわ・岩手県水沢市)のツングース(アイヌ)族長であったアテルイは、蝦夷軍の総長として789年~801年の10年余りも桓武朝廷軍と交戦つづけ、特に衣川の戦闘で潰滅させたことは史上に名高い。しかし、803年、唐からの援将・坂上田村麻呂の懐柔工作に乗せられて上京したアテルイと副将モレは、騙されて河内国杜山で斬首されました。806年2月、蝦夷軍ら北朝側との戦いに明け暮れた桓武王朝がついに崩御しました。
2009/05/17
まもなく【天使と悪魔】の映画が封切られます。主人公は、【ダ・ヴィンチ・コード】と同じく米・ハーバード大学の象徴学者ロバート・ラングドン。『ダ・ヴィンチ・コード』は、イエス・キリストにまつわる謎がテーマでした。『天使と悪魔』のテーマは、宗教VS 科学です。過去にカトリック教会と激しく対立していた【イルミナティ】という秘密結社が、科学者を弾圧してきた教会、キリスト教に対して復讐をするという陰謀の物語です。【イルミナティ】日本では聞きなれない言葉ですが、もしかしたら関わりの深い組織かもしれません。諸説いろいろ、半信半疑ながら【さもありなん】と、思うことしばしば。イルミナティとは【光を与える、光から来たもの】【啓蒙、開化】を意味するラテン語だそうです。【イルミネーション】も同じ語源らしい。ここからは決して教科書には書かれない世界史です。 最初のイルミナティの首都はバビロンです。バビロンはシュメールが滅びたあとバビロンになりますが、シュメールとつながっていました。その次はローマです。ローマ帝国は800年くらいに亘って大帝国をつくります。イルミナティの首都がバビロンからローマに移る、そして、西ローマに滅ぼされるとその後のイルミナティの世界首都はヴェネチアに移るのです。ヴェネチアというのは西ローマが滅びたあと、ローマの貴族がそこに避難して栄えました。そして彼らは十字軍戦争以降、500~600年に亘ってヴェネチアを世界首都としたのです。ヴェネチアがキリスト教の分裂を仕向けたあと、大航海時代によって世界がヨーロッパ、地中海、中近東から大西洋、太平洋という具合に広がっていきます。そこで、世界首都はヴェネチアでは都合が悪いということを認識して、新しい状況で対応できる世界首都としてロンドンを選んだのです。ロンドンを彼らの世界首都にするために16世紀、ヘンリー7世の宮廷にエージェントを潜り込ませヘンリー8世の時に、ウイリアム・セシル家がヘンリー8世の宮廷で重要な役目を果たします。このセシル家というのはヴェネチアが送り込んだ工作員です。その後、エリザベス1世が女王の座につきます。エリザベス1世の時代にはヴェネチアが送り込んだセシル家は完全にエリザベス女王の腹心になりました。それ以降、現在に至るまでセシル家は英国権力の重要な地位に就きつづけています。そのようにして、ロンドン・ブリティンを次の彼らの世界首都に定める作戦が始まったようです。それが完結したのは18世紀です。英国王室の血統が切れたのでドイツからフリーメーソンの【ハノーバー朝】のジョージ1世が継ぐことになるのです。その後、英国の王朝はハノーバー朝がつづき、それ以降ハノーバー朝ができることによって、【イルミナティ】の英国を世界首都にするという作戦は完全に完結しました。ところで日本人はユダヤ教というものが17世紀の時点で、非常に重要な変化が生じたということをまったく知らされていません。2500年前、バビロンの捕囚期に、ユダヤ教のなかにバビロン化された【カバラ主義的異端】が生まれました。このカバラ主義的異端派はモーゼの10戒を否定し、従ってユダヤ教の本質を否定して悪を肯定したのです。悪魔たる【ルシファー】を至上の神として崇拝しました。17、18世紀にサバタイ・ツヴイ、ヤコブ・フランクが生まれて、カバラ主義異端がユダヤ教そのものを乗っ取ってしまうのです。ここが重要なのですが、そのヤコブ・フランクは後にロスチャイルド家と関わりをもつのです。ロスチャイルドのユダヤ教とは、このヤコブ・フランクが残したサバタイ派【フランキストのユダヤ教】だったのです。【ロンドン・シティ】は英国の国家、国王女王、議会、政府の上に存在しています。そして、ロンドン・シテイというのは独立国であって、英国の王、女王をも支配し独裁体制をしいているらしい。シテイは、独立した政府と独立した警察をもっています。シティには秘密結社フリーメーソンのロッジが非常にたくさんあります。 シテイの市長は実際はロスチャイルド家が関与し、理事はロスチャイルドその他の大きな金融勢力の代表が毎年、互選されていきます。シティが重要な勢力として出てくるのはクロムウェルの名誉革命を契機としてです。その次にオランダから英国の国王が出ます。そして、オランダの国王の下でアムステルダムに根拠地をつくっていたユダヤ商人・金融業者が多数、ロンドンに入ってくるのです。ユダヤ人の国際金融業者がつくった【イングランド銀行】という民営による株式会社にオランダから来た英国国王が特権を与えます。イングランド銀行に英国の通貨の独占的な発行権を与えるということです。この【イングランド銀行】が【ロンドンシテイ】に設立されて以来非常に重要な役割を果たすようになるのです。アムステルダムに根拠地をつくっていたユダヤ人の国際金融資本がイングランド銀行を支配していきます。彼らは英国政府に通貨を貸し出し、利子をプールし、やがて【イングランド銀行】はヨーロッパやイスラム圏や世界中の主要なユダヤ金融業者の支配化に置かれるのです。【イングランド銀行】ができていく過程で、英国はたくさんの戦争をしています。その戦争遂行のためにユダヤ金融業者が英国国王にお金を貸していました。【イングランド銀行】からお金を借りて英国は戦争をしていました。しかし、そのお金には利子をつけて返さないといけないから儲かる戦争をするように英国は変貌していくのです。14世紀半ばヨーロッパはペストによる災禍が起こり、その時に世界の秩序を再建したのはジャンヌ・ダルクが象徴でした。そしてヨーロッパのキリスト教の下のほうから世界を再建しようという動きが出てきました。ルイ11世以降は国家は国民の世話をし、教育、保護をする福祉施設をつくるという【国民国家】としてフランスは再建していました。そのフランスと真逆の金融権力が支配する英国が非常に激しい戦いを起こします。ナポレオン戦争に至るまで英国とフランスは壮絶な戦争をしています。世界中で常に勝てる戦争をしていく、即ち戦争を商業化、商品化していったのが、その頃の英国だったようです。その中心にいたユダヤ金融業者のなかからのし上がってきたのがロスチャイルド家でした。彼らは1773年に13人のユダヤの主要な実力者を集めて資金をプールし、その資金で世界征服のための行動を開始しようという秘密会議を開きました。彼らが最初に起こした事件が【フランス革命】であり、米国の【独立戦争】だといわれています。フランス革命を起こすことによって、ロスチャイルド家は全ヨーロッパに勢力を広げるきっかけをつくったのです。ロスチャイルドは5人の息子をパリ、ウィーン、ミラノ、フランクフルト、ベルリンに送ることによって世界支配のための基点をつくりました。ナポレオンの最後の戦争の時に情報操作をして大暴落させた株を安い時に買い、また売り抜けて巨利をロスチャイルドは手に入れます。その時以降、イングランド銀行とシテイの支配権をロスチャイルド家が握ったのです。そして、シテイ中心であった何人かのユダヤ国際金融閥との婚姻関係を結びます。こうしてロンドンシテイをロスチャイルド家が掌握していきました。石油業者から大きくなり、アメリカを牛耳っているロックフェラー家はロスチャイルドがもう一つのエージェンシーとして育成したものでした。米国民は感情的にヨーロッパを嫌悪するためにロスチャイルドはロックフェラーをフロントに立てて、自分たちの影を消したのです。日本の財閥のなかにロスチャイルド系に立つ三井財閥とロックフェラー系に立つ三菱財閥とがあるといわれています。ロックフェラーというのは石油が中心です。何十年も前からロックフェラー財閥の金融の管理の中心はロスチャイルドが派遣した人物が代理についています。ロックフェラーの金融関係のすべてについてはロスチャイルドの目が行き届き、ロスチャイルドの世界的管理システムのなかでロックフェラーは動いているのです。その世界金融権力の中心はロンドン・シティです。日本の主要な財閥・銀行も支配されていると考えられます。
2009/05/07
深夜に放映された【タイムスクープハンター】がおもしろい!未来のタイムスクープ社から派遣された時空ジャーナリスト(要潤)がタイムワープした過去の時代に生きる人々を取材する番組です。今までにない歴史番組で、非常にリアルなのがいい。こういう歴史ものが観たかったとドキドキ ワクワクしました。時代の主役級ではなく 普通の人々、ボサボサな小さな髷、よれよれの着物、ぼそぼそ話すリアルな会話、彼らの緊迫感が伝わってきて、こちらも息を詰めてしまう。戦国時代、忍者はリアルにどんな働きをしたのか? 戦場で救急救命士の役割を果たした人物は? 江戸時代、賭博の取り締まりはどう行われたのか? 加賀藩の献上氷を運ぶ困難さは?その時々の緊迫感ある状況が、小型高性能カメラを手にした沢嶋雄一(要潤)のスクープとして次々と紹介されていきます。 忍術の歴史は仏教とともに六世紀に伝来した兵書【孫子】に始まったとされます。【孫子】は、約2500年前、古代中国の春秋・戦国時代の将軍・孫武が記したものこの中の第十三【用間篇】に忍者の兵法の源流が見受けられます。これには【兵は危道なり、濫りに用う勿れ、智略は正道で王者の道である】という教えがあり、これがもとで日本の忍術が発生したとされています。また日本への仏教伝来と前後して陰陽道関係の暦本、天文地理書が輸入されるのと一緒に『日本書紀』によれば602年に百済僧・観勒によって忍法書の古典とされる【遁甲方術書】がもたらされ、聖徳太子は【志能便(しのび)】を使って飛鳥の動向を探ったとも伝えられ【志能便】は【便】即ち(情報の入手に能く志す者)の意味とされ、これが日本の文献で最初に登場した「しのび=忍者」といわれています。【孫子・用間篇】【遁甲方術書】等の兵法は、日本で独特の発達をし、平安時代の天台・真言密教の秘法や山岳信仰の修験道の修行とも結びつき、オール・ラウンドにミックスされて間(かん)を用いる術としての忍術が生まれ、特に修験道の開祖とされる奈良時代の役行者(えんのぎょうじゃ)を忍術の源流とみる説話が多いようです。スパイを【間者】【間諜】と言います。【間】とは、二つの物のあいだ、すきまのこと。または【うかがう】という意味もあって、すきをねらう、スパイする、となります。二つの物のあいだをうかがう、表と裏のあいだ(秘密)を覗いて報告することです。【孫子】の用間篇に【爵禄百金を愛(おし)みて敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり】とあります。爵位や俸禄や百金を与えるのを惜しんで、敵情を知ろうとしない者は不仁のいたりである、というのです。孫子は情報活動の重要さを強調して、敵情を知ることの必要性、【戦に勝つには敵を知り己を知らなければならない】と言っています。敵情は祈りや占いで知るのでなく、かならず人間(間者)によって得るものであると。間者(スパイ)には【郷間】【内間】【反間】【死間】【生間】の五種類あって、間者を使いこなすことは、君主たる者には大切なことであるとしています。 郷間・・・・その郷人に因りてこれを用うるなり。 敵国の領民を使って情報を集める。 内間・・・・その官人に因りてこれを用うるなり。 敵国の役人や要人を買収して情報を集める 反間・・・・その敵の間に因りてこれを用うるなり。 敵の間者を買収・脅迫などして利用する。 死間・・・・誑事(きょうじ・偽り事)を外に為し、吾が間をしてこれを知って敵に伝えしむるなり。 死を覚悟して敵国に潜入し、ニセ情報を流す。わざと捕らえられて偽情報を自白す長州藩が幕末からいまに至るまで強固な支配体制を維持している理由は、日本の政治では非常に異質な【忍者・諜報】機関が背後にいたからといわれます。長州をつくった毛利元就は、最初は小さな勢力でした。ところが、いまの中国地方10力国を支配するような大名にのし上がったのです。それはもっぱら諜報と謀略活動で大きくなったのです。そのような性質を持った毛利藩が関ヶ原の戦で負けて小藩になります。しかし諜報機関は維持されて、【忍者集団】になります。そのトップが【上忍】で【中忍】【下忍】などのシステムができあがります。上忍というのは、伊賀の場合は郷士(地侍)で、地主として小作人たちを支配しています。下忍は、この小作人で、実際に各地の戦国大名に雇われて活動するのは彼ら下忍でした。中忍は何人かの下忍を率いる小頭(こがしら)です。甲賀では【甲賀郡中惣】という自治共同体が形成されていて、【甲賀五十三家】(山中・伴・望月・鵜飼など)が対等で支配していました。伊賀における上忍三家(服部・百地・藤林)のような特定の支配者がいませんでした。そのため甲賀は上忍が存在せず、ともいわれます。個人技に優れる伊賀衆に対し、甲賀衆は集団技に優れていたそうです。【草】といわれる忍は敵国に潜入した後その土地に馴染んで暮らし、その土地の娘を娶りながらもいつか来るかも知れない指令を待っていました。そしてひとたび命が下ると普段馴染んで仲良くしていた人々を裏切り、命に従って味方を導くのが役目でした。 鈴虫売りやそのほか各種の行商人の多くは忍であり、行商人という名目で各地を旅する権利を手に入れて様々な情報を集めて歩いていたとも言われます。幕府の忍をおそれ嫌がった薩摩が故意に方言を作り出し、この方言を真似ることが難しかったことから【草】を潜入させてもすぐにばれてしまい、情報収集がなかなか成功せず、それが功を奏して島津は幕府に知られずに莫大な資金を蓄えることが出来それが明治維新に繋がったといいます。しかし、薩摩は長州の比ではありませんでした。グラバーの世話で長州の伊藤博文以下5人がロンドンに留学します。薩摩も同じようにグラバーを通じて続々とヨーロッパに留学して、そこでフリーメーソンになって帰って来た人物がたくさんいます。しかし、権力の中枢は長州藩にあって、薩摩のほうは下位に過ぎませんでした。 しかも、長州の諜報機関、忍者集団出身の権力中枢の連中は、薩摩を落とすために分裂させるわけです。大久保利通と西郷隆盛を分裂させて、西郷派を一掃すると、薩摩の勢力は半分くらいなくなってしまいました。さらにその次は、大久保利通を消してしまうのです。大久保を暗殺したのは島田一郎という加賀藩の人物でしたが、その動きは長州側が察知していて、彼を泳がせて大久保を暗殺させました。そういう諜報と謀略能力は、長州のほうが日本の他の藩とか勢力に比べて段違いに勝っていたのです。しかし、そういう諜報能力と謀略の力は英国のフリーメーソン、イルミナティのレペルと比べると、はるかに劣っているので立ち行かなくなってしまいます。
2009/05/04
レッド・クリフ2を観てきました。テンポがよくて無駄がなく、素晴らしい。ジョン・ウー監督解釈の信義と愛ある【三国志】は、感動的です。【約束した事は、最後まで違えません】という孔明の言葉に共感しました。キャスティングが決まるまでも様々なドラマがあって、当初周瑜役はチョウ・ユンファ孔明役はトニー・レオンだったところ、二人とも急遽降板してしまったそうです。代わりに金城武が孔明役を引き受けて事なきを得ましたが、周瑜役が決まらず途方に暮れていたジョン・ウー監督の元へ、トニー・レオンから電話が入ります。彼は、前作で体調を崩し降板したのでしたが、監督の苦境を見かねて「どんな条件でも、何の役でもいいから協力したい」と、申し出たのでした。レオンの友情に応えて監督も周瑜のシーンを2ヶ月先にしてレオンの体調が戻る猶予をつくり、有名な漢方医をつけるという配慮をしたそうです。義にあふれたエピソードです。繊細な音楽の才と戦術・武勇・人徳を兼ね備えた周瑜。絶世の美女と謳われた小喬のリン・チーリンの長身・美貌・才気。堂に入った悪役ぶりが魅力的なチャン・フォンイー。心躍る、趙雲、関羽のアクションシーン。趙雲はパート1で日本人に一番人気だったとか。ファースト・シーンの長坂の戦いで、逃げ遅れた劉備の妻子を救うために単騎で引き返し敵をなぎ倒して赤子を救う場面には、映画が始まったばかりなのに、泣かされました。今回は、クライマックスで、また趙雲がやってくれます。このように素晴らしい演技人の中で金城武の孔明は飄々とした笑みで最高に魅了させてくれました。【三国志演義】の元々の書には孔明が道術によって東南の風を呼んだ事になっていますが【レッド・クリフ】では、諸葛孔明は【風を読むことを知っていた】とし、リアリティ-のある設定をしています。【赤壁の戦い】の重要な鍵となるこのシーンは、美しく涼やかで好きでした。リアリティーな設定をしながら監督は、金城武の孔明に、【発火慮はつろ】という【風を呼ぶ】ポーズをさせています。観客には、そこまで解りませんから監督の遊び心かもしれません。【三国志演義】が纏められた明の時代には【秘蔵通玄変化六陰洞微遁甲真経】という道教の経典があってそこに記された道術を会得すると、六丁・六甲の神兵を使い、風を呼び、縮地の法を行うことができるといい、諸葛孔明が会得して使ったものと明記されているそうです。【風を呼ぶ】には、先ず、この経典に記された【呼風符】という符録を書き【発火慮】のポーズをとって【神を呼び出す】必要があります。【発火慮】のポーズとは、左手の中指を押し神を呼ぶ動作です。その後、結界をつくって聖域を生み出すために、禹歩という北斗七星の形に足を運びます。結界をつくった後は、魔を払うために叩歯という上下の歯をカチカチと噛み合わせ呪文を唱えて準備完了。このように【三国志】は、道教と密接な関係があったと思われますが時代が下るにつれ、儒教的な歴史観に基づきながら、物語を史実に近づける作業が繰り返されて道教の教義や道術は小説に載せてもらえなくなったらしい。道教とは、古代イスラエルからきたもので、三国志で活躍した道士の諸葛孔明や武将は西域から来た人々であったと思われます。
2009/05/03
日本人とユダヤ人のルーツについて、日ユ同祖論があります。半信半疑でしたが、調べれば調べるほど、その要素が濃く認めないわけにいかなくなってきました。確かに、彼らは、日本へ渡来し、日本国形成の重要な役目を担ったようでした。飛鳥時代から古墳時代がそうで、前方後円墳は、彼らの手によるものです。秦人といわれる彼らは、壬申の乱以後、影を潜めますが、そのパワーは、後の世の武士として蘇るのです。藤原氏に溶け込んだ秦人もいて、天皇家の側近に身を置き、今も連綿とつづいています。例えば雅楽部の方々がそう思われます。秦人は世の表舞台にでることは控え、芸術面などに広がっていったようです。能の世界、世阿弥などもそうです。世阿弥による【阿漕】という【能】は、九州日向国から伊勢国に参り、海人の亡霊に出会う内容になっています。阿漕は、三重県津市にあり【津】はシュメール語の【ツ】突き出た塊をいいます。越の【エ】は家、【ツ】は海岸線の突き出た塊(岬の入り江)などに海人が家を建てて拠点にしたことから【越】は拠点を意味します。これは【呉越同舟】の【呉人】と【越人】も倭人であるところからきています。海人は海岸付近で住み、先住民である縄文人のテリトリーを侵すことはせずに稲作農法を伝え、鉄の農具も与え、共存していたそうです。それが大黒・エビスへの親しみになったのでしょう。エビスと呼ばれた人達は、中国大陸では東夷(東のエビス)と云われたエブス人です。夷(てつ)の人で鉄部族ですが先住民と混血して蝦夷にもなったのでしょう。縄文人である先住民はメソポタミアに住んでいた苗族で、シュメール人の支配下にあったウバイト人(苗族)が、大移動を始め、パミール高原からアラル盆地、ウラル山脈沿いに北極まで行き、シベリア、モンゴル、満州、朝鮮、日本北部に拡がり、さらにベーリング海峡を渡ってアメリカに行き、インデアンになったと云いそれぞれ移動した地域によって各種族に形成したようです。バイカル湖のブリヤード人は、苗族が寒冷適応のツングース化した北方モンゴロイドで、さらに南方から来た倭人(南方モンゴロイド)と混血したのがアイヌ人、沖縄人も南方モンゴロイドなので同祖になります。『三郡誌』によると現在の津軽地方に最初に定住したのがアソベ族でその後、ツボケ族が大挙して渡来してきたといいます。好戦的なツボケ族により、アソベ族は、山辺に移ります。そして、大地震と火山の噴火でアソベ族は壊滅的打撃を受け、わずかに生き残った者もツボケ族の支配下に置かれます。伝承に「アソベ族 とツボケ族は同祖であり、アソベは西の大陸から、ツボケは東の大陸から東日流へやってきた」とあり、中南米にも「アステカ人は東方アジアからやってきた」という文献があって縄文土器も発掘されています。この伝承は、元々バイカル湖畔にいた種族が、一部は日本列島に渡ってアソベ族となり、一部は米大陸に渡った後に日本列島にやってきてツボケ族になり三内丸山遺跡を築き津軽古代王国造ったと思われます。この王国に、出雲の秦王国に敗れた長髄彦一族も亡命してきました。アソベ族・ツボケ族・長髄彦一族は混血し、新たに「荒吐族」(アラハバキ族)となり、倭人の王族だった長髄彦の一族が継承する事となり、幾度となく秦王国へと侵攻し崇神帝即位迄、次々と荒吐系の天皇を擁立したのです(孝安帝と開化帝)。 長髄彦の子孫は連綿と続き、奥州藤原氏(安倍氏の血を汲む)を輩出したのです。安倍氏は源義家によって滅ぼされましたが、長髄彦同様、棟梁が戦死しても嫡男は密かに宮城から津軽十三湊へと逃れ、安東氏として復活したのです。安東一族は「津軽の王」となり当時の有力氏族が所領を拡大する事に力を注いでいた 時、安東氏は、十三湊を「首都」に中国・朝鮮・沿海州から東南アジア・アラビア、遠く ヨーロッパまで交易し、莫大な収益を上げていました。当時の十三湊は、「津軽三千坊」 と呼ばれる程多くの神社仏閣が建ち並び、港には中国人は元より、インド人・アラビア人・ヨーロッパ人等が多数の異人館を営み、さながら幕末の横浜の様相を呈していました。 また、港には日本全国から常に二百隻以上の商船が停泊し、ヨーロッパ人の為にカトリック教会まで建っていました。 更に、 安東氏は日本海を隔て た沿海州の至る所に、「安東浦」や、「安東館」(領事館)を持ち樺太・千島列島・カムチャツカ半島迄「領土」として支配していました。しかし、十八回もの大津波の被害により栄華も、終焉を迎えました。古代津軽王国が何度もリベンジしたという秦王国は、シルクロードから来たユダヤ十支族を含む弓月君の秦族が、シュメールの王=殷(辰王)の箕氏に従って中原(満州)~朝鮮半島~九州の鳥栖と吉野ヶ里に渡来した後、出雲へ移動し秦王サルタヒコを出雲大社に祀り、倭人の王、インドのナーガ族長髄彦と戦った後、近畿で秦王国を築き、白村江の戦いの後、新羅指令の元、神武・卑弥呼を祖とする倭国=九州の筑紫王朝と合体し日本国となって新羅の支配下に入りました。彼らは白村江の戦いの時に新羅方についたので優遇されました。やがて応神天皇の時、弓月君が120県の民を引き連れて、その時最初に上陸したのは赤穂市の尾崎の浜だったそうです。シュメール人を基層民とする秦人は高度な職能軍団で灌漑も得意とし、メソポタミアで小麦を育て、それを輸出していましたが、灌漑をやり過ぎたため塩害でウル第3王朝が滅んでしまい、この事も中国大陸に移動して殷を造った原因のようです。メソポタミア南部のような乾燥地帯で、灌漑を行い、大量の水を散布すると、灌漑用水は、一旦は土壌中の塩類を溶かしながら下方へと浸透しますが、やがて毛管現象により上昇し地表面にまで来ると、水分が蒸発するので、塩類だけが残る。そして、地表面に塩類が残留すると強い浸透圧により、植物は根から水を吸収できなくなり、枯れてしまう。これが塩害です。メソポタミアの刻文に「黒い耕地が白くなり平野は塩で埋まった」という記録があります。この経験を逆に活かして製塩の技術を取り入れたのか赤穂が製塩で有名なことと関連性が窺われます。また吉良家とは製塩業で競合していて赤穂製塩法の秘伝を乞われて断ったことからトラブって刃傷沙汰になったとの説もあります。古代イスラエルも日本も塩は撒いて邪気を祓う清めに使われています。相撲も古代イスラエルを起源とし、シルクロードを通ってモンゴル、朝鮮半島経由で日本に伝わったもので、土俵を清めるために塩が使われています。赤穂は養蚕、機織、蹉跌による製鉄にも適した土地で古くから秦氏系の人々の植民地でした。日本中の神社は、秦氏により建てられ、京都の本拠地、太秦はユダヤ、シメオン族系イスラエルの王国を現わすといいます。祇園祭りもシメオン族の祭りで葵祭(賀茂祭)、賀茂社も秦氏が関わり神社ばかりでなく仏教にも大きく貢献し東大寺建立にも尽力し立派な業績を残しています。しかし秦氏は政治家になる者はほとんどいないばかりか、歴史の表面にも積極的に出ない一族でありました。その反面、経師や絵師、能楽師などの芸術家、土木・建築の技術者また酒造りの技術など政治とは別の面で積極果敢に活躍した人々でした。日本のフリーメーソンと云われる所以です。世阿弥の母親は秦氏の出自であり、「猿楽」の祖は秦氏の首長、秦河勝、東義秀樹氏の祖です。斯様に日本に多大な貢献をしながら秦一族は平安時代を境に秦という名を消してしまいます。 生前はもちろん、死後に至っても徹底的に自分達の出自や素性を隠して日本に溶け込んでいったのでしょう。日本最大の支配階級として君臨してきた藤原氏、その出自も隠されています。藤原氏と秦氏は婚姻関係を結んでおり、藤原氏を秦氏が経済的に支援し、権力闘争や疫病で藤原氏が弱った時に、その一部が藤原氏に成り代わり、両者は、ほとんど融合し皇室を婚姻により包囲していったと思われます。
2009/04/25
国史でいう【大化の改新】は無かったと次第に分かってきました。その実体は、新羅本国で起こった【眦曇の乱】という【政治改革】でありました。白村江の戦い以前、いくつかの小国家が九州と南朝鮮の両方に領土をもっていました。したがって、その頃の、朝鮮半島南部の歴史と九州の歴史とは密接に結びついていていましたので、中国史では、それらの国々を弁辰諸国と書いたり、倭国と書いたりしていたのです。時の天皇は皇極女帝、大化の改新後に擁立された天皇は孝徳帝が立って、そのあと皇極天皇が重祚して斉明天皇になっています。実際は、新羅の占領下でしたので、皇極、孝徳、斉明ではなく新羅の善徳王、真徳王でした。従って、飛鳥の【狂心渠】は斉明天皇が行なったのではないと考えられます。【狂心渠】は文字通り「狂った心の溝」の意味で、日本書紀では無駄な事業だったと批判されています。ペルシャの地下水路であるカナートと同じものだという【狂心渠】飛鳥時代というのは、非常にミステリアス、この時代に造られた石造物、文化財などは実は全てイ妥国(タイコク)(秦王国・古代ユダヤ王朝)の文化遺産だと考えられてきました。秦人は、【壬申の乱】の時、新羅に協力的だったので、後の百済政権になって【日本書紀】を改竄された時に、このように悪く書かれたものと思われます。日本が神話の世界から歴史の世界へと登場することになった飛鳥時代とは倭国およびイ妥国(タイコク近畿王朝・秦王国)への仏教伝来を契機として、古墳時代晩期の人々が中国大陸や朝鮮半島の先進文化を受容し、仏教美術を主体とする【上代文化】の基礎を築いた時代でした。秦始皇帝の【焚書坑儒】事件に始まったユダヤ人同士の【古代南北朝】の争いシメオン族とガド族の凄絶な戦いは、672年の【壬申の乱】の時、この反乱を鎮圧したのが新羅占領軍司令、郭務宗(レビ族大伴氏・藤原鎌足のモデル)が率いる花郎軍団(クシャトリア)でした。彼らは【黒染めの衣】を着た巫僧集団でもあり、郭務宗もユダヤ人でしたから、当初から妥協による和睦を図ろうと執拗に工作していました。その成果が実り、秦王国=古代ユダヤ王朝存亡の危機に際し藤原鎌足の仲介でシメオン族とガド族間の長年に亘る確執も解けて、古代南北朝の争いを中止し、共に新羅軍政に協力することになったと思われます。飛鳥時代の【酒船石】の遺跡は、実はカバラの「生命の樹」の形を刻んでいます。水を流したらしい溝とは神の流れで神的属性の間を結ぶ小径であり、それ故に【生命の樹】は交流する時は小径が二重になっているのですが「酒船石」も二重になっています。カバラの【生命の樹】をたどると、古代、中央アジアを中心に全世界に広まったミトラ教につながります。ミトラは密教、弥勒にもつながります。空海が長安から持ち帰った密教の曼荼羅が【セフィロト(生命の樹)】といわれるものです。【生命の樹】とはユダヤの秘儀といわれますが、起源はアーリア人のミタンニと考えられ世界のすべての事・物・者に影響を与えているおおいなる教えを図にしたものです。樹木崇拝は世界中にあり、各地で生命の樹の神話とそれぞれの土地の樹木崇拝が結びつき、樹木の造型として展開しました。世界の七不思議、バビロンの空中庭園も宇宙軸、生命の樹の観念につながる象徴的な樹木を配して、天上の楽園を観念的な表現としたものでした。【セフィロト(生命の樹)】が象徴することには多くの意味と解釈があります。 その基本は、一番上のセフィラーから、順々にエネルギーが流れていき最後のセフィラーで物質の力として安定する、という「万物創造」の仕組み図です。10個のセフィラーは、様々な創造の過程でエネルギーが溜まった渦のようなもの。そしてパスはエネルギーの通り道です。森羅万象は日々、様々な創造を繰り返し、人間の営みもまた同じです。【セフィロト(生命の樹)】には、そうした全ての現象が入っています。古代、このような宇宙観をもったユダヤ教の神官、ラビの一部の人々は、バアル(牛頭神教)が、万民の神であるということを伝えるために、カバラという秘密教団を組織しました。このカバラの神官が古代日本にもやってきたようです。【ユダヤの秘儀】によると【神】の流れはセフィロト間を結ぶ小径と、幾つかの三つ組その三角関係を辿ることによって詳しく追ってゆくことが出来ます。まるで【エヴァンゲリオン】の世界です。魂の成長・浄化。現代にも通じるスピリチュアルなことです。
2009/04/22
星は すばるひこぼし 明星 夕づつ よばい星すこし をかし尾だになからましかば、まいて。 枕草子 254段こんなステキな言葉を清少納言は残しました。 オリオンのすぐそばに牡牛座があります。その東上方に見えるいくつかの星の群が【昴】です。古代から世界の各地で仰がれてきました。ばらばらのものが纏まる意味の【すばる(統ばる)】が語源。【ひこぼし】は【牽牛】と表記され、七夕伝説に名高い【彦星】のことです。 【夕づつ】は夕星。金星の古名【太白星】の字が当てられ、宵の明星のことです。【よばひ星】は【婚(よば)い】を連想させるところから「すこしをかし」と述べたのでしょう。流星を意味すると言われますが、「尾さえ引かなければもっといいのに」とある記述からは、むしろ彗星の描写ではないかとする説もあります。これらの星を残念ながら清少納言は、目で見た星の姿から選んだのではなく、【倭名抄】という当時の辞典から得た知識のようです。【昴】という音には、平安時代においても人の心を惹く魅力的な響きがあったのではないかと思います。清少納言の出自は、舎人親王の子孫、清原の氏族だといいます。 舎人親王は、天武天皇の皇子、その一族の三十六歌仙の一人である清原元輔、その娘が清少納言です。清原家の一族は学問の家で、東国で紀清両党と呼ばれ、武芸の誉れを得ました。この清原家と紀家が後世、東国で紀清両党として一体化しているのは 大化改新、壬申の乱、日本書紀編集など、天武朝廷以来の長い軍事的、文化的、歴史的な 協力関係に基づいています天武天皇の実体は、新羅の文武王(金法敏)で、一度も来日したことのない名目上の皇帝でした。【日本書紀】に、壬申の乱で天武軍を率いて戦ったとある草壁皇子は681年に立太子していますが実は新羅文武王(金法敏)の皇子であって、689年に没する時まで、司政官として九州に駐在して倭国を支配していました。 672年6月、新羅占領軍に対する秦王国の戦い、すなわち、近江の【壬申の乱】が起こりました。この乱の首謀者は、大友皇子(弘文天皇)といわれていますが、実は東漢氏(やまとのあやし)レビ出身の秦王国最期の天子でした。この天子の指揮を受けた秦王国軍は、侵入してきた新羅軍(源花・郭務ソウが率いる花郎軍団)と一ヶ月もの間、勇敢に戦いました。この時、大王家に忠誠心が強かった蘇我氏の一族はこの王と運命を共にしましたが秦氏およびシメオン族らの諸部族が、花郎たちの統率力を見て、この戦いの無意味さを悟り、一斉に寝返って新羅軍に降伏したため、王家の軍は孤立して総崩れとなりました。これより以降、秦王国の豪族たちは新羅側の軍政に協力していくようになりました。そのため、機織部の秦氏のグループは敗北し、雪崩を打って秦王国の分国地・関東地方へ逃亡しました。やがて彼らは、鹿島神宮や静神社の機織部領域付近、蘇我、行徳および秦野付近などに散居して逼塞しました。ところが、従来の【国史】は、この経緯を時代をずらして【入鹿殺害】事件とし、秦王に忠誠であった蘇我氏一族が滅んだように修史したようです。さらに、この秦王国の滅亡を時期を遡らせて皇極天皇の御世の出来事とした【大化の改新】は、新羅の歴史を写したものでした。天武天皇とその子孫たちの王朝に於いて、紀大人臣の一族は優遇されていたといいます。紀臣の一族は壬申の乱において大海人皇子側で戦った功臣でした。日本書紀の記述には、紀臣阿閉麻呂、紀臣大音らの大海人皇子軍での活躍が見られます。紀臣阿閉麻呂は、東道将軍として、数万の兵を率いて、伊勢から鈴鹿を越えて大和へ向かい戦勝後は伊賀国にいて、天武天皇二年に壬申の年の功により、あらためて寵賞を受けています。天武三年二月の記事に【紀臣阿閉麻呂卒せぬ。天皇、大きに悲しびたまふ。壬申の年の役に労りしを以て、大紫位を贈ふ】とあります。日本書紀注釈では、阿閉麻呂の名が伊賀国阿拝郡に由来するという説をあげて、伊賀に駐屯して乱後の処置にあたったのか、あるいは本拠地を示すものか、と推測しています。伊賀国は鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代に至るまで、紀一族の根拠地の一つでした。この壬申の乱で始まった天武天皇と紀姓一族との軍事連合は、舎人親王から清党が あらわれて、紀清両党の名で後世の戦乱の歴史に続いていたようです。 彼らは、藤原一族が、天智天皇の皇統を擁して、政治の実権を握っていた期間、 東国において、強力な対抗勢力であり、おそらく紀伊半島、熊野の同族と連携していました。
2009/04/19
辰国は、遙かなる古の国、日本のルーツ、ウガヤ王朝です。 辰国は月神シンを主神とする、アッカド、ウル、シュメールの人々がサルゴン王朝末期に、インダスを遡って、チベットから黄河を下降した人々の国家です。 後の、【sin・シン】、秦、晋、清・・・・・は、この月神シンからくるのでしょうか?彼らの故郷、バビロンでの国も【イシン】といいました。アッカド人が王家で、タクラマカン砂漠を本拠としウル人は月氏としてチベットへシュメール人は殷の時代、姜人として黄河流域にいましたが遊牧化したものが匈奴冒頓部となりました。辰国とは、これらの人々とエブス人、またはフェニキア人(ユダヤ)による九州と山東半島(殷)を支配した東表国との連合体で、カラスク文化は辰国の人々が作ったのです。 ウルの商人(サカ族)は、ディルムンの銅をスーサにいたエラムの銅と交換することによって肥大化したのですが彼らが銅を買い付けるための基地が九州の東表国だったのです。イシン滅亡の後、イシンのアラム人と海のカルデア人がシルクロードによって辰国に亡命したため、辰国は、アラム人をバルハシ湖周辺の地に収容しました。 BC6800年~5800年頃、メソポタミア北部のクルディスタン山麓のジャルモでは 地母神信仰をもつ農耕社会が成立。BC5800年~5100年頃、チグリス河上流のハッスナーからサマッラにかけて高原農耕社会成立。BC5100年~4300年頃、ハラフ文化が展開。彩文土器、銅、円形のトロス、押捺印章など。 分業がはじまり、金属細工人、陶人、石工が生まれ、銅鉱石交易。この頃、銅鉱石を採集してハラフ農民(高令・丁零)と交換した人々が後のアッカド人。 すると、ハラフ農民(高令・丁零)は、パレスチナのエリコにいたナトウフの人々でしょうか。彼らは、北部ヨーロッパから寒冷期に南下して来た人々でしたからパレオ・ユーロペオイドのコーカソイドというのも合点がいきます。アッカドのサルゴン王朝は、BC3000年頃のアッカド人の民族移動の後BC2360年~BC2180年頃までバビロンを支配しインダス経営はBC2350年~1700年まで続きました。碑文は、この王朝がインダス渓谷と交易しマガン(エジプト)を征服しディルムン(山東半島)を支配したと記しています。アッカド人の出自は、ウラルトゥの北方のアゾフ海に流れ込むコーカサスのグバン河デルタにシンデイという人々がいて、このシンデイ人がアッカド人の先祖と考えられます。シンデイ人は、BC4000年以降のハラフ高地に自然銅を運んだ原セム族の人々でカスピ海周辺から南下し、メソポタミア南部のシュメール人を支配しました。 ハラフはヴァン湖に銅鉱器文化による農耕が始まり、シリア方面に西進し北イラクのトルコ国境、高地南麓【テル・ハラフ】で大河下流の流域を開墾し小麦初期農耕を始めのちBC5000年紀末、太古のハラフ農民(高令・チュルク)がユーフラテス河流域に下降しました。このハラフ文化は、東はヴァン湖から西は地中海におよんでいました。ハラフ農民【高令】族または【丁零】は、採鉱民族であるセム族アッカド人に率いられてBC1000年紀にシルクロードによってジュンガリア砂漠の北方に移住した農耕民族でした。銅鉱石文化についてはハラフ文化と同時期、エラム高地にも同様な文化が発達しさらにウルク原文字時代が始まります。ハラフ高地に銅器を持ち込んだアッカド人と、エラムに銅器持ち込んだ人々が、元来同一の文化の流れに属して、それぞれの農民と結合しながら異文化を発展させたと思われます。【姜】族(シュメール)とは、エラム高原の農民がチグリス河流域に移動した人々です。中国側の資料では、、【姜】族はチベット人で、殷の甲骨文では、しばしば生贄にされています。【姜】族がチベットの羌族になったのは、アッカドのサルゴン王朝がインダス河を遡行してチベットに侵入した時、チグリス農民を伴ったからです。 倭人はカルデア人を中心とする南セム族でしたが、バクトリア南部のシースターン(サカスターナ)地域では既にサカ族の名になっていて、この地のサカ族は、ペルシアのキュロスの時に降伏してヒスタスペスの支配を受け、後、ペルシア王統が乱れた時、ヒスタスペスの子がダリウス1世になっています。BC221年、大秦国(バクトリア)王、ディオドトス一世は、精強なペルシャ軍団を率いて中国大陸に侵攻し、中国全土の統一に成功すると、自ら【始皇帝】を名乗って秦帝国を建国しました。 【秦】というのは、多分【月神si-n】。【月神si-n】とは、悠遠のかなたのジグラッドの主神であり檀君神話のルーツになります。【檀君神話】は、イラン族のナンダナ神、アーリア族のインダナ神でもありますが、【【月神sin】から派生しています。ここ一帯を大洪水が破壊したあと、チグリスユーフラティスの流域に戻ってきた人々が夢と希望をこめてジグラッドを作ったのです。エジプトのピラミッド、高句麗の将軍塚、日本の前方後円墳のルーツとなったジグラットは主神として【月神sin】を祭るのですが、後に月氏も匈奴もこの神を祭りました。【月神sin】信仰は多様に分化してこの地域の各民族に拡がりましたが原型は同一でした。【辰国】の辰王は、秦よりはるかに古いイシン国の王統でした。国は滅びても、流浪の辰王が権威を持って、辰系諸族が作った諸国家の民の間に、いつまでも存在していたのです。中国の西域を支配して新しい権力者となった秦の大王は、その権威に対抗するべく秦という名を持つ国家を建てましたが、辰王の権威をもつことは出来なかったようです。そして、おそらく、本来は身内であったはずの匈奴勢力が離反したため、辰王の権威にとらわれない全く別の新権威を名乗って【始めての皇帝】したのでしょう。本来は草原地域からの軍用補給路であった万里の長城は、始皇帝以降、実力を熟知している嘗ての身内、匈奴軍を防ぐ防壁に変わっていったと思われます。しかし、彼ら秦は【イシン国】の遺民であるタイ系種族が建てた国であったがゆえに、既存の辰王の権威を無視することなしに新しい帝国運営は困難であったので【sin秦】。焚書坑儒という、とてつも無い規模の文化破壊も、すべての辰系学者を殺害も、文書類を焼いて過去とのつながりを断ち切って新しい国家を始めましたが【秦帝国】崩壊後もsi-nという音への魅力はいやしがたく、後々までもisinの遺民である【月神sin】諸族の間で、晋、新、清、と幾度も甦る事になります。 中国戦国時代、アッシリアの分国で周の諸侯となっていた強国は魏(キンメリ)・韓(アラム)・趙(ウラルトゥ)・燕(エラム)・楚(メディア)・斉(エジプト)・中山の七雄などでしたが、侵略者の秦のために征服され、王族たちは降伏して臣従を誓いあるいは亡命先を求めて遠隔の地へ逃亡していきました。
2009/04/15
なんという ういういしい、しかも切ない目ざしだろう。こういう目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示しているのだろう。それが何かわれわれ人間の奥ぶかくにあるものでその一心な目ざしに自分を集中させていると自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生れてくる --何かそういったノスタルジックなものさえ身におぼえ出しながら僕はだんだん切ない気もちになって、やっとのことで、その彫像をうしろにした。 【堀辰雄「大和路・信濃路」より】たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。阿修羅のことです。 阿修羅の起源はメソポタミア、紀元前に住んでいたアッシリアの人々が信仰していたゾロアスター(拝火教)の太陽神です。ペルシャのゾロアスター教と、インドのバラモン教は、元々は、アーリア人の宗教として、根本を同じくする宗教でした。 その宗教には、火や光を神聖視するグループと、水や自然を神聖視するグループの二つがあり、 火や光を神聖視するグループは、南西に移動し、現在のイランに定住しました。一方、水や自然を崇拝するグループは、南東に移動し、インドに定住します。不思議なことは同じアーリアン系でありながらイラン人とインド人の間では、神と悪魔の逆転現象があることです。ゾロアスター教のアフラ神(アシュラ)は、インドでは悪魔に、インドのアシュラ神は、ゾロアスター教では悪魔とみなされています。アシュラ=アシュールは、アッシリア人の神で、アシェラという女神に繋がります。アシェラは、セム族の神、パンテオンの主、エルの妻でした。西域では大地にめぐみを与える太陽神でしたが、インドでは大地を干上がらせる日照りの太陽神となり、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神となります。【阿修羅】は、仏教では釈迦の教えに触れた守護神と説かれ 密教世界に於いて8部衆の中の一族とされています。密教はインド仏教後期、ヒンドゥー教の隆盛によって仏教が圧迫されたことから生まれます。古代ヒンズー教(バラモン教)では業(カルマ)と言う考え方がありました。カルマとはこの世は善と悪で成り立っていて、善は綺麗なもの、清いもの、 価値ある物であるのに対して、悪とは醜いもの、穢いもの、役に立たないものと思われていました。そして、その思想は人の身分にも及び、身分が低くなるにつれて魂は汚れて行き、人に害を及ぼす存在であり、生きる価値の無いもの と見なされ、また悪は悪を好むことから差別されました。そこで、お釈迦様はその事を否定する為に、インドの神々である諸天や悪の象徴である阿修羅・ 迦楼羅などを仏教に帰依させて、人は平等である事、悪い事は人本来の内面にある事を説いたのです。しかし、ヒンドゥー教の隆盛には打ち勝つことができず、やがて西アジアからのイスラム勢力の攻撃により仏教はインドから消えていくことになります。密教はヒンドゥー教の神を取り入れるために起こった改革だったわけですが、ヒンドゥー教の神は仏の下に位置しなくてはならない。そこで、阿修羅=アスラの復権が密かに行われたわけです。アッシュール神は、古代アッシリアの守護神で、アッシリアが強大化するにしたがいオリエントで中心的な地位を確保してゆく神です。 アーリア人とは元々は中央アジア地方の西パキスタンのパミール高原に遊牧民として住んでいたアーリア民族を指します。アーリアとは【高貴な人】という意味であり、後にインドを植民地化した白人側の自称でしたが寧ろ、古代インドで発達した文化を有していたのは先住のドラヴィダ人の方でした。BC3000年~2800年にわたって、全インドに繁栄し優れた独立文化を持っていました。最初野蛮な遊牧民であったアーリア人がインドに侵入し定住するに及んで、戦術、農作村落制度、家長制度、その他工業経済等に関して、かなりの文化的発達を遂げたのはドラヴィダ人の文化に接触し、それに影響された結果です。野蛮民であったアーリア人が、如何にして先住民のドラヴィダ人を征服したかというとドラヴィダ人の知らなかった馬の使用を知っていたからです。インド・アーリア人は馬を持っておりこれが原住民との戦闘において勝利をおさめる大きな要因となりました。そして、パミール高原に残されたアーリア人は紀元前1500年頃ペルシャへ向かい、こちらがイラン・アーリア人と総称されます。この一派はさらに西を目指しゲルマン族として、バルト海沿岸に定住します。しかし時を同じくしてモンゴル高原を中心とした北アジアの遊牧民であった匈奴が草原地帯の地域的気候変化により、ヨーロッパに侵攻します。この匈奴がフン族となり、この勢力に押されたゲルマン族が東ゴート族と西ゴート族に分かれます。フン族は東ゴート族をも取り込みヨーロッパに侵攻します。この勢力に押された西ゴート族がローマ帝国になだれ込みローマ帝国を瓦解させます。その後、西ゴート族がドイツ、フランス、オランダ、イギリス等の文化を形作っていきます。アーリア人は歴史に限らずに世界の言語と宗教にも大きな痕跡を残しています。言語としては彼らはたいへん歌うことの好きな民族であったが文明と接触するまでは文字を知りませんでした。その為、遊牧の間、語り継がれた記憶こそが文章の役割をします。アーリア語から出たインド・ヨーロッパ語族。その際たる言語である英語は合理的で弁論・演説等口頭表現向きなのはこの事実に負うとされます。宗教としてはインド・アーリア人がバラモン教を作り。イラン・アーリア人がミトラ教を作りました。バラモン教から仏教・ジャイナ教→ヒンドゥー教へイラン・アーリア系宗教(ミトラ教、ゾロアスター教、マニ教)からは→ユダヤ教→キリスト教・イスラム教へとそれぞれが相互に影響を与えています。このアーリア人が信奉するものがアフラ・マズダー(阿修羅)なのです。ちなみにヒトラーは日本人を「東方アーリア人」と呼びアジア人の中で特別な存在ドイツ人に近い存在と位置づけています。アッシリアの神だったアッシュールが古代イランのゾロアスター教の最高神アフラマズダーと対応したりインドラ(ヒンズーの神 仏教では帝釈天となる)と闘う阿修羅と対応していくそして アフラマズダーは光の神と称され 密教の大日如来へと発展していきます。阿修羅は 密教に吸収されたヒンズー教の神の多面多臂の形をとっていく様々な宗教をかかえこみながら、阿修羅はまさに多面多臂の側面をもつ仏であることが曼荼羅の中にも八部衆として阿修羅も描かれています。
2009/04/12
エラム族のジグラットに始まる方型祭壇は、日本では前方後円墳になっていますが北朝鮮の将軍塚、ジャワ・ボロブドゥール遺跡などにも見られ、6世紀のチチェン・イッツァのピラミッドもその延長にあります。尚、日本の前方後円墳は鳥神信仰に基づくものでカリクヌトラウカの前方後円祭壇と同じ意味を持っています。またインカは殷夏を、マヤはコマヤ(宮廷)を表わします。さて、沖縄に行った狗奴国の人々が王族に、アラム族とサカ族を戴いていたことはアメニギ氏の狗奴国が邪馬壱国を破って国東半島南部のアマ地域(白水郎・今日の海部郡)から、京都の天部(余部)を経て最後に山形県の余目(アマルメ)に辿り着いたという地名遷移や余目の人々が今日でも白色碧眼であることからも明らかになります。このようにして、スキタイ系イラン、シメオン系の人々の混じった扶余・辰国系の人々の軌跡は海人であるマラ族によって、ごく広範囲に拡散したと考えられます。
2009/04/08
高校講座の【世界の地形】で興味深いことが分かりました。 ヒマラヤ山脈は、インドの北側に連なる8千メートル級の高さの大山脈ですが、そこではなぜか、海の生物の化石が見つかるといいます。その謎を解く鍵は、ヒマラヤ山脈の成り立ちにありました。大昔、インド(亜大陸)はプレートの動きと共に、ユーラシア大陸に近づいていきました。2つの陸に挟まれた海は徐々に狭まり、やがて小さな島が生まれました。海の底にたまっていた砂や土、生き物の死骸などの堆積物が押し上げられたためです。その後、インドとユーラシア大陸が衝突し、巨大な山脈が生まれたのです。これがヒマラヤ山脈です。高山に海の生物の化石があるのはそのためです。インドが乗ったプレートは、ユーラシア大陸が乗ったプレートにさらに潜り込んでゆき、ヒマラヤ山脈の北側にあるチベット高原も作りました。シルクロードのオアシスとも桃源郷とも云われたこの辺りが古代豊かな資源を蓄えていた理由が分かった気がしました。鉄は紀元前3500年くらいにメソポタミアで既に使われていたそうです。紀元前2000年くらいには現トルコのハッティという鉄の国ができて、そこに東からアーリア族が入ってハッティの製鉄の伝統を拡大して初めて鉄鉱石を溶かす溶鉱炉で鉄を量産して、ヒッタイト文化をつくったのだそうです。それ以前は、メソポタミアの鉄は6割が隕鉄でした。隕鉄は炭素を適当に含むので、溶かしてもう一度打てばいい鋼鉄になったそうです。青銅よりもつくるのが易しく、メソポタミアでは、そのために鉄は【天の金属】、【天の石】と呼んでいました。
2009/04/04
トルコと日本は遠くて近い国で、トルコ人は日本贔屓だといいます。日露戦争の時、いち早く日本の味方になると宣言し、日本の勝利に、国中が喜んだそうです。第二次世界大戦でもトルコは、日本側でした。トルコ人は、日本人は自分たちの兄弟だと、先祖から教えられているそうです。調べていくと、その通りであることが分かってきました。 BC3000年~BC2000年の始めにかけて南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方にアフナシェバ文化が栄えました。この文化の担い手は周囲のモンゴロイドとは異なり、パレオ・ユーロペオイド(白人)であったとします。アフナシェバ文化は西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間、分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにアンドロノヴォ文化はBC2000年、南シベリアのカラスク文化と中央アジア北部のダザバギャブ文化に代わりました。多数のカラスクの遺物が中国の殷の遺跡から出土し、バイカル湖沿岸では殷の山足土器が発見されています。かつて中国北部に住んでいた丁零が殷の住民から借用した様々な文化的要素特に青銅鋳造の技術を南シベリアに持ち込んだらしい。カラスク人につづくタガール人は西シベリアの古いユーロペオイド(白人・コーカソイド)に属し、中国史の丁零である・・・と、いわれます。丁零とは、チュルク族の一派です。丁零は、高令、後の高句麗とともにチュルク族の一派でシルクロード全域にわたって分布していました。匈奴のなかに高令または丁零というチュルク人がいたことは知られていますが秦始皇帝以前の中国を支配していたのは、この人々でした。匈奴には二系あって、一つはBC4000年頃から中国大陸に侵入したチュルク人であり他の一つはBC700年頃から侵入したキンメリ人でありました。両者はともに先秦期の中国内陸の支配者だったのです。古代シルクロードの諸族はすべて部族連合でした。チュルク人とキンメリ人の連合を基本として、後の日本天皇のルーツ、ウラルトゥの扶余伯族月氏、鮮卑などを外戚とした部族連合でありました。南シベリア、山地アルタイのボリショイ・ウラガン河岸にある古墳群でBC6~3世紀のスキタイ時代の凍結クルガン(盛土大墓)が発掘され調査の結果、この文化の担い手がスキタイ人と同じ生活様式であったことが証明されました。出土した遺物から見ると、西アジアの西方のスキタイや中国との関係を保っていたユーロペオイド(白人・コーカソイド)であることが確認されました。このパズィルィク古墳群がスキタイの古墳と違うところは、骨角器、金属製品に留まらずあらゆる遺物をいまに伝えたその永久凍結にあります。織物・羊毛・皮革製品・木製品・馬のみならず被葬者の遺体も残され、遺骸の側にはチーズも発見され、その味はまだ失われていなかったそうです。諸墳墓からは、遠隔地域からもたらされた種々の贅沢品を含む財宝が発見されました。中国産の刺繍のある絹布、BC4世紀の中国青銅鏡BC550~330年のアケメネス朝ペルシアのコブラン織り、豹の皮革青銅鏡入れ西アジア産のコエンドロの種子、さらにはインド洋産の貝殻また背の低いモンゴル馬、オリエント産の栗毛のアーリア馬が陪葬されていました。興味深いのは被葬者に文身(刺青)がほどこされていて、衣服・装身具のなかには容器そのほかの貴金属製品に描かれたスキタイ・アケメネス朝ペルシアの浮き彫りに見られるサカ人などのそれと一致するものが多いということです。これはこの頃にアルタイ地方に勢力をおよぼしてきた匈奴によって移動させられた月氏の残したものという説があります。チュルク族は月氏を主とするウラルトゥと同盟し、後にキンメリと合体して匈奴になりました。山地アルタイ出土のスフィンクス像とエルミタージュ博物館のウラルトゥ出土の「青銅グリフィン」の類似は歴然と明らかで、この類似はパズィルィク古墳の人々が【匈奴に合したチュルク族とウラルトゥ人の末裔】であった可能性が高い。パズィルィク古墳出土の動物像の表現法にはひとつの特殊な様式があってこれらはアケメネスペルシアの芸術によく似ているといいます。BC5~6世紀になるとウラルトゥ王国は、匈奴に連合するものとペリシアに従属するものに二分します。BC4~5世紀の中央アジアにペルシア風の文化が波及したことがアムダリア流域から出土したオクサス遺宝から解かってきました。その中には鞘の身の部分には騎射によるライオン狩りの図を打ち出したアキナケス型の金製鉄鞘のデザインがオリエントそれもアキメネス・ペルシア風とスキタイ風文様のみごとな融合を示しているといわれます。これらの文化は、匈奴の一部族となって身につけたスキタイ(キンメリ)風とバクトリアに亡命したウラルトゥ人の文化であったと考えられます。
2009/04/01
日本人のルーツはシュメール人を率いるアーリア人という図式が浮かびます。ユダヤ人との同祖がいわれますが、古代は日ユに限らず、いろいろな民族が混血し世界に散っていったので人類はみな兄弟。BC12万年頃、ネグロイド(黒人)から分離して旧モンゴロイドが誕生しました。BC7万年頃、ビュルム氷河期が始まったことにより旧モンゴロイドからコーカソイド(白人)が誕生したと考えられます。 BC3万5000年頃、バイカル湖周辺で旧石器文化が起こりました。BC2万3000年頃、モンゴリアンがベーリング海峡を越えてシベリアから北アメリカ北部へ移動。BC1万8000年頃、ヨ-ロッパの氷河期の最盛期に当たり、寒冷から逃れて南下し中東地域に最初に現れたのがケバラン人。中東、パレスチナに現れその後の文明の主流となりました。BC1万5000年頃、地球温暖化が始まり、不毛の砂漠だったシリアの北部に草原や森林が広がり豊富な食糧を供給し、周辺の狩猟採取民族が、ハルーラという場所で定着生活に入ります。 BC1万1000年頃、地球的規模の寒気の揺り戻しがあり、旧モンゴロイドから新モンゴロイド誕生。 シリア北部の自然環境も、もはやかっての生産性豊かなものではなくなり定着生活で人口の増加をもたらした人々へ突如襲った環境の激変と、それに伴う食糧の減少は窮地に陥いりましたが彼らは、困難に敢然と立ち向かい、ありとあらゆる可能性を探り、野性種の小麦から栽培することを発見します。BC1万年より少し下がった頃、ケバラン人系譜のナトウフ人が、カルメル山の山麓からパレスチナのエリコの町にやって来ます。ここは天然のオアシスで、エリシャの泉は、遊牧民たちの水飲み場で人が集まりやすい場所だったのです。世界最初の農業を始めたナトウフの人々は、共存共栄の元に平等に暮らし、通常の採取経済に比べて50倍もの生産性を高めましたから幼児死亡率を減らし2000人ほどにも人口を増やしました。エリコの最初の文明は約1000年続きましたが農業が安定し、穀物を貯蔵し、エリコが繁栄し豊かになると外敵が出現し、城壁を造らなくては、ならなくなったと思われます。ナトウフの人々は、アナトリアへ、武器を探しにいったようです。黒曜石です。その時に、農業技術の情報もアナトリアへ、流れたと考えられます。肥沃な三日月地帯(イラン・イラク・トルコの高原地帯)で野生種からの【小麦栽培】が始まり、それが東西へ伝播していきました。BC9500年頃、遊牧民のウラル・アルタイ語族【ツラン族】が、西シベリアのオビ河とイエニセイ河の上流域に発生し、後に、ツングース、蒙古、サモエード、フィノウグリア、チュルクの五族が生まれました。BC6000年頃、オクサス河とインダス河上流バタフシャン(今のトルクメニア地方)に牧羊民族によって、ナマヅカ文化という彩陶文化が起こりました。BC4000年頃、ナマヅカ彩文土器の熟成期を迎えた頃、アムダリヤ上流のバタフシャン産ラピスラズリを商う羊トーテムのサカ族と牛トーテムの月氏の遂商が馬や船などによってバビロンのスサからウルに入り、イラン高原の【原エラム文化】に影響を与えました。ナマヅカ文化はサカ族やドラヴィダ人によって運ばれ、彼らがインダス文化の原型を造っていたことが解ってきました。ナマヅカ文化は、やがて黄河流域の仰韶(ヤンシャオ)文化あるいはカラスク文化となりました。BC3700年頃、バビロンのジクラットにいた、シュメール系エジプト族、インドに南下したシュメール系ドラヴィダ人、チュルク族が移動を始めこの4氏族の長である苗族とナーガ族が真っ先に移動を開始。彼ら苗族&ナーガ族は高地、コーカサス山脈に行き、そこから北上して極北の地に臨みました。雪や氷に覆われUターンして南下しコーカサス山脈の西側に至ったところで二派に分かれ苗族は草原地帯を東に進んで中国へ移動し、さらにコラート高原へと移動を続けました。一方、ナーガ族は南下してアフガニスタン東部のカイバー峠を越え、インダス河谷に流入しました。彼らはダナヴァ族やダイユ族とともにアスラ族と呼ばれ、ドラヴィダ族とともに古代インダス文明の担い手となりました。この地に滞在中、【壇君教】を奉じる集団となったナーガ族は、その後インド・デカン高原からタイのバンチェンに入り、そこで苗族と再び合流し黒陶文化を展開し、彼らがシュメールに上陸して、さらにエジプト古王朝に参加したマヤ人(植民者)であったといいます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この時、彼らを待ち受けていたのが地中海人種のエラモ・ドラヴィダ語族でエジプト第一王朝の古フツリ人であり、中国の【史記】では伏犠氏と記された人々です。両者の抗争については、テキストでは【バールとモートの争い】として述べ、モートまたは盤古神は、元来焼畑文化の再来神だったことから照葉樹林帯に於ける農耕民の主神だったことが窺われます。エラム族は、インドのドラヴィダ族と共に、地中海からインダスに至る広範囲な地域を移動し、その一部はアルメノイドと混じりながらシュメール人となってBC3500年頃、古代ウバイド人(苗族)を征服し、バビロンの地に侵入しました。【史記】の伏犠氏は、この人々です。シュメールの【ウル第一王朝】始まります。アルメノイドとは、アナトリア東部のヴァン湖の北岸地帯にいた人々です。。シュメール人には二系あり、中国の【史記】では伏儀(ふぎ)氏と女女咼(じょか)氏と記します。伏儀氏が初期のシュメールなら洪水後の女女咼(じょか)氏は、後期のシュメールのナーガ族とオーストロ・アジア語族のカーシー族です。ニギハヤヒに率いられたナーガ族は倭人の王族で、後の朴氏です。昔氏はインドのシャキイ族、金氏はアユダ国の王女が首露王の王妃になったことでも分かるように、元々アユダ国の植民地が沖縄から九州の豊日国に移り、さらに朝鮮半島に於いて駕洛国となったものです。すなわち、新羅三姓といわれる朴・昔・金の王族たちは倭人であり、統一新羅は倭人が建てた国だったのです。中国の史書では犬戎とありますが、実際には扶余・辰国・箕子国の遺民を示し扶余が昔氏、辰国が朴氏、箕子国が金氏です。高句麗王が辰王の地位を得ると後に分国して九州に邪馬壱国を建てましたが辰国系の狗奴国に追われ、半島南部で百済となり、狗奴国は伽耶となり、伽耶がまた新羅と倭に二分しました。高句麗時代のケイ須(神武)が公孫氏と一旦、山東半島を支配し、後、ケイ須(神武)の兄、五瀬命(発岐)を沖縄王に任命したため朴・昔・金の王族は抵抗して狗奴国をたてて北上し、日向の邪馬壱国を攻撃したとあります。さらに、この人々は、後に新羅王家を建てます。狗奴国・伽耶の倭王は扶余系の蘇我氏で昔姓の王で国史の天日矛または安日彦王朝この王家が古墳文化を残したのです。白村江の大戦まえ、百済の王子豊が蘇我王家を簒奪するときまで、日本列島を支配していたのが蘇我王家でした。BC3100年頃、イエニセイ河上流とアルタイ地方に、青銅器文明のアフナシュヴァ文化が起こりました。この文化の担い手は、パレオ・ユーロペオイド(白人)であることから最初のインド・ヨーロッパ族であるクルガン人と考えられています。クルガン人は、、かつ最初のギリシャ人だと考えられています。また彼らは、チュルク族の丁零です。シベリアにいた丁零と西域のトルコ人を包括するチュルク族ゆえ、西方から東方へと時代を経て大きく移動していったものと考えられます。
2009/03/28
おめでとう侍JAPAN野球に詳しくない私も、昨日はテレビに釘付け。9回裏で、まさかの同点、ドキドキして見ていられなくて席を立ってしまった。なンと 戻った時には、5対3で勝っているではないか。しまった! 大事なシーンを見逃してしまった。イチローがヒットを打ったという。まるでドラマのような展開。感動しました。さすが日本のサムライ。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」 葉隠の記述の中で特に有名な一節ですが死を美化したわけではなく、心構えを述べたものと理解しています。命を懸け本気で勝負する気構えは、一心岩をも通す勢いで奇跡を起こすと信じています。 明治維新で夜が明けて、訪日した外国人の残した見聞録には日本人の美しい魂を賛美する書物が少なくありません。暮らし方も生き方もシンプルで一本気、そのような精神性は古代から続いているようです。倭人の中心になって渡来してきた国史のニギハヤヒノ命である穢人について中国の「通典」穢伝は穢人はその性質が慎み深く誠実で、貪欲なところが少なく、恥というものを知っている。と記しています。ニギハヤヒ軍団は王族がクシャトリアで従属する倭人はチュルク人です。 クシャトリアであるニギハヤヒの命はヤードゥ族の子孫であるサカ族の王で、インドに残留したその一族から釈迦如来が生まれました。またニギハヤヒの穢族は、ウルのカルデア人のことです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーBC1530年、ヒッタイトがハムラビ王朝を倒した後、カッシート人王朝ができたため、バビロニアを 【カルドウニアシス】と呼び後世【カルデア】と呼びました。ウンマ王ルーガルザグギシとグート人の王シャルラクに始まり、バビロニアのカッシート王朝となり、さらにそのカッシート人がバンヂャップに入って後期ヴェーダ時代に、インド十六王朝のなかのクル国になった後、カルデア人の子孫のプール族と合体してガンガ流域に移り、ベトナムの文郎国を経て中国大陸の河南省に移民したのがニギハヤヒの穢人です。BC1000年紀のインドは、ガンジス流域を中心にして十六王朝があってカッシート人を中心とする月神王朝とアラビア海の海商を中心とする日神王朝系に分かれていました。月神王統は、カッシート人の亡命者が主流なので中国史の大月氏と同じルーツから二分したものです。月神王統の諸国からマガダ国が次第に頭角を表して、ついにインドに統一王朝を建てましたがマガダ国力を支えたのは、この地のインド最大の製鉄地域でした。マガダの製鉄はヴォラテイアという漂白の民によってなされていたといいますが彼らは、サカ族系であったといいます。また東の方、メナム河の流域に、ドバラヴァティというモン族の国家があり吐火羅あるいは堕羅と書かれ、モン族は自らタラインと称していました。この吐火羅人は、月氏系ですが、この月氏は、中国史の月氏ではなくインドから入った月神王朝、すなわちカッシート人の子孫のクル族のことです。インドネシアで発見された銅鼓には月氏の絵があって、これはインドの月氏であったようです。すなわち、インドに入ったカッシート人とサカ族は、それぞれクル国とプール国をたてて合流し、のちにメナム流域のモン族を支配した吐火羅国をたてさらにベトナムで文郎国をたてた後、阿南省の南陽に植民して製鉄基地をたてたということです。マガダの都は、ガヤで、中国では、これを伽耶と書き、これが朝鮮の駕洛諸国の語源になったらしい。十六王朝の時代に、サカ族は、アショカ国をたて、コーサラ国では釈迦を生みさらに、マガダ国の製鉄部族になりました。このサカ族がニギハヤヒのことです。インドで釈迦が出現したのは、純血アーリアンのバラモン教に対して混血アーリアンのための宗教が必要だったからですが、やがてカースト差別の復活という潮流に呑み込まれて釈迦の理想はバラモン教の復活によって滅びたといいます。ニギハヤヒ系月氏はインドに入ってカルデア人と混血した海ルートのカッシート。チベット系月氏は、シルクロードを経由した陸ルートの同じくカッシート。同族です。この辺を解明すると古代の歴史が面白くなります。カッシート、月氏とは何者ぞ。とても心魅かれます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーサカ族は、おそらく、スキタイ族のアルギッパイオイ人であり、アッカドの末裔です。ポンティコンの実を食用とする根の国(ウラルトゥ)一族といわれます。この民族は神聖視されているので彼らに危害を加える者は誰もなく武器の類は一切所有しない。近隣の住民の争いを調停するのも彼らであるし、彼らを頼って避難してきたものは何人によっても危害を加えられることはない。と、ヘロドトスも記しました。彼らニギハヤヒの軍団は、アラビア海の時代はシュメール人の一派のヤードゥやマラ族で、インドでシャカ族になって雲南へやって来ました。そしてワ族やナーガ族を引き連れて満州でウラルトゥ+月氏の扶余前期王朝と合体し、その庶子 が王位を奪って扶余後期王朝をたて東明王と称し日本に来てニギハヤヒになったということです。扶余は前期も後期も共に製鉄部族で同盟していたのでした。中国史料【通典】扶余伝には扶余王の埋葬には金鏤玉衣を用いている。中略・・扶余人の性質は勇敢にして慎み深く人情に厚い。ほかの種族の地への侵略などはしない。・・・と、記します。扶余国家は、初め【伯族(ウラルトゥ)】によって建国され後に【穢国(ニギハヤヒ)】と合体しましたが、ともにその一部は九州に渡来して【ウラルトゥ】から【ウガヤ王朝】、【穢国】からニギハヤヒ王朝が成立したのです。やがてウガヤ王朝後裔の神武はニギハヤヒ一族を破って吸収し邪馬壱国をたて最後まで神武と戦った狗奴国のナガスネ彦も東北に逃れ、荒吐族、後の阿部一族の祖になります。【三国史記】によれば新羅の朴氏の祖はナガスネ彦の祖と一致しています。それはアッサム高地からマレー海峡に散在するシナ・チベット語族のナーガ族です。そのナーガ族を率いてきたのが、ニギハヤヒです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー最後に日本にやって来たニギハヤヒの一族は青い目の人々もいたらしい。平安時代から村はずれに天部、余部という部落があって、後の被差別部落のルーツといわれますが、元来は天の王朝の人々の部落でした。新羅人の奈良王朝を破って百済人が平安王朝を建てた時、その圧制のもとで家を捨てた人々がこの地に次々と入っていったといいます。山形県の余目も最果ての余部と考えられ、ここには青い目の人が多いそうです。あらゆる文化が辺境にと逃れるように、天部の純粋の形態は東北地方に残ったのではないか。天の王朝一族は、ニギハヤヒ族の他、東表国・金官国の中臣族、公孫氏邪馬壱国の大伴氏などもありますが、このなかにも青い目の人々がいたと考えられます。10世紀中期、突如として、律令制を揺るがすような大騒動が持ち上がります。クシャトリアであった平将門の一族が下総北部を地盤として935年以来、同じクシャトリアのマラ族である平国香・平貞盛・平良兼・平良正らと領土を奪い合う合戦を繰り返していましたが、自ら【親皇】と称し新しい国家を造るべく関東地方独立を図り武力による【関東国家】の建設を目指したといいます。また時を同じくして、瀬戸内海でクシャトリアのヤードゥ族、藤原純友が1000艘を越える蛋民水軍を率いて反乱を起こしました。この2つの反乱は貴族たちに大きな衝撃を与え平安朝の天皇制も危うくしました。結局、将門勢力はクシャトリア・マラ族(アーリア人とドラヴィダ人の混血)の平貞盛と結んだツングース北倭武士団(アイヌ人)の藤原秀郷によって滅び、そのため純友は京都に突入する寸前で兵を引き返しました。敗戦の結果、将門に従っていたカッシート人らは関東平野や近畿地方に逃れて散居し、純友に従ってしたヤードゥ族は蛋民(水上生活者)となって瀬戸内海一帯に散居し、各地に津(港)を作りました。やがて、鎌倉時代にこの武士たちの群れから足利氏の勢力が成長し、南北時代になると執権北条氏の鎌倉幕府を滅ぼすことになります。後醍醐天皇による【建武の中興】のとき足利尊氏は、南朝方の百済武士団の後裔・楠正成・新田義貞を滅ぼして北朝系の室町幕府を樹立するのです。
2009/03/25
日本の天皇家は世界最古の輝かしい歴史を持つ王朝です。オリエントでアッシリア帝国と覇を争い、キンメリ人と連合してシルクロードを東遷したウラルトゥ王朝の末裔であり、後に扶余王となって満州の地に君臨しソロモンとシバの女王の子、メネリケの子孫である大物主一族(公孫氏)と同盟して邪馬壱国を建て、さらに百済国を建てました。この陸・南海シルクロードを駆けた壮大な歴史は、【記紀】によって抹殺され、忘却されてしまったのは残念なことです。扶余には、月氏+ウラルトゥ王朝、シルクロード系の前期王朝とインド経由の穢国、南海系の後期王朝がありました。共に製鉄部族です。箕子朝鮮が滅亡した後、南海系穢族の王アグリイサトは扶余前期王朝に合流しやがて強力になり扶余後期王朝になり、東明王と称しました。そのため、月氏+ウラルトゥ王朝、シルクロード系の前期王朝は、・エゾの地へ移動し東扶余を建て、その子孫に仇台が出て九州に渡来して神武天皇になりました。残念ですが天皇家は万世一系とは言い難く、幾つもの民族の歴史をつないできたものでした。 天の王朝(東表国・豊日国・金官加羅国) BC800年頃、タルシシ船でコーサラ国を経て九州に東表国を建てた日本最古の王朝。エビス王クルタシロス(首露王)のエビス王朝ですがクルタはタルシシ船支配者の意味。エビスはエレサレムのエブス人です。エブス人もオッフル人も紅海とアラビア海の海人でした。のち邪馬壱国に敗れるまで、九州全域を1000年間支配し、譲った後、朝鮮半島の弁辰地域の金海を飛地として支配し駕洛国・金官加羅といわれ、その王家は金氏と中臣氏になりました。この王家は【記紀】では孝昭、孝安、孝霊、孝元、開花とつづき、後の倭の五王に至ります。この王家から金氏が分離して【新羅】をたてます。ニギハヤヒの多羅王朝この一族は、かつてディルムンを本拠としたシュメール人とカルデラ人の子孫でした。後にソロモンのタルシシ船に参加したヒッタイトの製鉄カーストをも吸収し、アラビア海のヤードゥ族を従えてプール国をたて、ガンジス河口のコーサラ、マガダ両国のシャキイ族となってマレー半島を越え、モン族の地を支配し、ベトナムに文郎国をたて、後に河南省の宛に製鉄コロニーをつくって魏と韓に属していましたが後に、秦に追われて奇子朝鮮をたより、穢国をたてました。穢国王アグリナロシは奇子朝鮮を滅ぼした衛氏朝鮮に復讐するため漢に協力しましたが漢は衛氏を滅ぼすと奇子朝鮮を再興させず、楽浪、玄メンの二群にしてしまい欺かれたアグリナロシは自刃したため、その子アグリイサシは遼東太守を殺害して北扶余前期王朝と合体し、その庶子が王位を奪って北扶余後期王朝をたて東明王と称しました。穢国の王族はシャカ族で国民はチュルク族でした。ニギハヤヒの姓、余の「アグリ」はドラヴィダ族の一派というゴードン族のなかのサブカーストのアガリアという鉄工部族をさします。そして、この一族後期王朝の陝父(ニギハヤヒ)が南下して熊本に多婆羅国をたて後に、神武・卑弥呼の邪馬壱国に吸収されました。 【ウラルトゥの歴史】 カッシート人がウラルトゥ地方に侵入する前から、アナトリアには原ヒッタイト族、カルトヴェリ族ハヤシャ族などが住んでいました。フツリ人はエジプトやカナンから、この地に拡散してきたのですが、ヒッタイト資料は、この地方を【フツリ人の国】と記しています。フツリ人は、BC2000年紀半ばには、ミタンニ王国に従事し、ヒッタイト王シュビルリウマシュ以降はヒッタイト王国に従属していました。ヒッタイト崩壊後、いくつかの少国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、重要都市のカルケミシュはハッティ国、オロンテスはハッテナ国となりました。そこに、ヒッタイトのムシュ族やカスカイ族が入ってきたのです。このようにウラルトゥは、当初からミタンニやヒッタイトのフツリ人、カッシート人チュルク人などからなる、いくつかの部族の連合体でありました。カッシート人は月氏になりインドに移ってクル国のなかにも混在しました。従ってウラルトゥとクル国は同族であり従属した同盟者といえるでしょう。約3000年前に、フェニキア人とヒッタイト人の混血によって、ウラルトゥ人が生まれました。この時、ウラルトゥ人によって小アジア(トルコ)のヴァン湖周辺に建国されたのがウラルトゥ王国であり、その初代王となったのが、アマテラス(男神)です。BC1013年、イシンの末期に、フェニキア人のマカン(海の国)がウラルトゥと共にアッシリアと戦いました。その結果、アッシリア王の攻撃でイシン(殷の本国)が滅んだため、番韓のヤードゥは海に浮かんでインドに逃れ、ウラルトゥは、北方ヴァン湖に退き、シャキイ族は、南下して後の穢国になりました。この時、カルデア人は、アッシリア軍に捕らえられていたイシン王族の子叔箕しゃ(ししゅきしゃ)を奪い返し、遥々航海して渤海湾に至り、遼東半島に上陸してその地に国を建て、【奇子朝鮮】と名付けました。BC781年、ウラルトゥ王アルギシュティシュ1世=ウガヤ王朝初代・衰子餘よ(すいしよ)または申侯が、アッシリア王を破ります。同じ頃、ドーソン(銅鼓)文化の拡散始まります。インド太陽王朝のマラ族と月神王朝の連合軍が銅鼓文化を持ってジャワ島、バリー島セレベス島などに入りました。アッシリアを滅ぼしてから300余年を経てBC6、5世紀になるとウラルトゥは二分して匈奴(キンメリ)と連合するものと、ペルシア(秦)に従属するものとになりました。秦は、この後、益々強くなり燕(フェニキア)も強化されたので、奇子朝鮮は、ついに満州に移って大凌河を国境とし河西の地を譲って東遷しました。神武以下の扶余の百済王朝朱蒙は東扶余(北扶余前期王朝)に追われて、北扶余後期王朝(穢国)の陜父らと共に卒本に逃れて高句麗をたて、北扶余を奪って高句麗国をたてました。このために陜父らは九州に亡命し多婆羅国をたてるのです。扶余王家は、167年頃、夫台が高句麗と戦い、その子仇台は、高句麗と和解し高句麗の養子になりその王族と化してケイ須といいました。後に自立し、公孫氏と同盟して、その宗女を娶り、公孫度は逆に扶余の王女を娶りました。公孫氏が南下して帯方郡をたてるとケイ須もその地に至って伯済国をたてた後に百済王仇首といいました。この仇首が伊都国王イワレヒコ・神武であり、その妃、卑弥呼は公孫度の宗女で日向にいました。高句麗は新大王の長子、発岐が公孫氏と同盟し涓奴部を率いて遼東に都したため、三子、延優らは輯安に移って新国をたてました。後に魏によって公孫氏が滅亡した時、発岐一族の旧国は新国に合流しました。扶余王家は仇台、位居、麻余と続き、依慮はその末王であり、百済の近肖古王になって鮮卑の慕容カイに討たれて亡命南下し、伊都国の王、祟神になりました。
2009/03/21
九州にあった邪馬壱国、伊勢国(秦王国)伊勢国(秦王国)奈良県の飛鳥時代の不思議な石造物や文化財、石人男女像、猿石、二面石、亀石益田の岩船、酒船石、須弥山石など大和朝廷の史跡に指定していますが、これらは大和朝廷のものではなく、すべてイ妥国(秦王国・古代日本ユダヤ王朝)の文化遺産でした。紀元前一世紀、奈良盆地にユダヤ人のコロニーがつくられ、やがて三世紀に秦王国となりました。この【秦王国】は、中国の始皇帝の秦がBC206年に滅びた後、その子孫たちが海を渡って日本へやって来て築いた国です。始皇帝は実は古代ユダヤ民族のシメオン族の血を汲んで、バクトリア知事であったディオドトスというのがその正体で彼は碧眼で鷲鼻をもつ男性でした。その西域人の流れを汲んだ人々が日本へ渡来し、シメオン族という古代ユダヤ人の一部族、その族長が国史でいう大国主命で、彼が九州に上陸して造ったのが委奴国というクニでした。この委奴国の前に北九州の地にいたのが、ガド族の猿田彦命を中心としたグループの伊勢国でした。その伊勢国を攻め滅ぼして樹立したのが委奴国でした。委奴国にいたユダヤ人(シメオン族・レビ族・ルペン族)および苗族らの人々は急遽、博多から乗船して瀬戸内海を東遷しましたが、その途中、一行のうち500人は周芳国・徳山湾(旧近江ノ海)に滞留します。そして別行動の本隊、約300人は摂津(大阪湾)に上陸し、先住していたガド族との間で激しい戦いとなりました。一時は、ガド族を撃退しており、このことは記紀の神武東征神話にも【ヤタ烏の物語】として投影されています。この後、豊ノ国(大分県)から宇佐八幡宮の神霊を奉じ亡命してきた東表国の人々も合流して【遠石八幡宮】・・・宇佐八幡の分霊を祀る石清水八幡宮・・・を建てました。最後にはシメオン族が勝利して奈良に入り、秦氏の一行に参入して【秦王国】が建てられました。ところで、熊野山中には100キロメートルにも及ぶ石垣が存在しますが、これはガド族がシメオン族との戦いに備えて築いたものです。やがて秦王国の人々と東表国の人々は相協力して古周芳国および古周芳の石上神社(楊井水道)の領域を占領し、秦王国の分国【周芳国】を作りました。この時、古周芳の元宮・周芳神社(柳井市日積・諏訪神社)の【たたえ祭り】神事が猿田彦の亡命と共に、縄文人(オロッコ人)たちの故郷・信濃の諏訪神社へと伝承されています。それが今日まで伝わる長野県諏訪神社の【たたえ祭り】のルーツになります。邪馬壱国 その後、扶余・百済系のイワレヒコ(神武天皇=扶余王仇台・高句麗王子ケイ須)が遼東半島にいた公孫氏(古代ユダヤ系イッサカル族)と協力して、同盟軍、猿田彦のリベンジします。210年~213年、大国主命の委奴国を滅ぼして建てた国が【魏志】倭人伝に出てくる伊都国です。一方、公孫氏は宮崎県西都原を中心にして安羅国を建てました。公孫氏はユダヤ系イッサカル族系統の人々で、その族長は大物主命とか事代主命と呼ばれていますが、イッサカル族というのはドイツのヒトラーの母方と同じ種族で、マルクスも同じ流れの人です。そして、日本にやって来たイッサカル族公孫氏の子孫が卑弥呼でありました。3世紀初頭、イッサカル族は、アンガ系のチャム人(北倭人)を率いて狗奴人=南倭人の領域に渡来し、安羅国(日向・西都原)を建て、女王・卑弥呼の邪馬壱国となりました。248年、卑弥呼が亡くなると、卑弥呼と季父(亡夫神武の先妻との息子)の間の宗女壱与が後を継ぎ、狗奴国=沖縄(南倭人)水軍との戦いを続けていました。やがて、壱与は卑弥呼と神武との間の子、綏靖(すいぜい)の王妃となっていましたが286年、対馬の祭祀センターへ移動して、倭人系諸国を統括する【倭の大王】になりました。邪馬壱国女王・壱与は綏靖の王妃となって、安寧をもうけていましたが、壱与は安寧を連れて任那(対馬)へ移動したのです。その後、西都原に残留していたイッサカル族は狗奴国水軍によって滅ぼされたといいます。さらに4世紀中頃、ウガヤ王朝の後裔扶余王依羅が邪馬壱国と狗奴国(東表国)を合併して百済国を建て、弁辰諸国と九州を支配する【倭の大王】(祟神天皇)となりました。倭奴国(大国主命のクニ)の遺民たちが神武勢力に敗れて東遷・亡命していったとき先住民ガド族(鉄鐸・銅鐸文化)の【旧伊勢社】神殿が平原王墓遺跡と同じようにシメオン族によって徹底的に破壊されていきましたが、今に残るその遺跡は香川県~大阪府~奈良盆地の三輪山に至り、纏向日代宮(山全体を巻剥いて造った太陽神殿)を建て、人々の【バアル神】信仰のメッカとして栄えるようになりました。白村江の大戦では倭国・秦王国・荒吐五王国の三国連合水軍3万人が 唐40万人・新羅5万人の連合軍に敗北しました。その結果日本の三大勢力圏はすべて唐・新羅連合軍に占領されました。続いて672年【壬申の乱】が起こりました。【日本書紀】は、大海人皇子、大友皇子を近江に滅ぼす。と、記しますが、その実態は、秦王国(イ妥国)に於ける【壬申の乱】のことでした。大友皇子ではなく実は、東漢氏(レビ族)出身の秦王国最期の天子の指揮を受けた秦王国軍は、侵入してきた新羅軍と一ヶ月も勇敢に戦い、この時、大王家に忠誠心が強かった蘇我氏の一族はこの王と最期まで運命を共にしましたが、秦氏およびユダヤ・シメオン族らの諸部族が新羅の花郎軍団の統率力を見て、戦いの無意味さを悟り、一斉に寝返って新羅軍に降伏したため、王家の軍は孤立して総崩れになったといいます。これより以降、秦王国の豪族たちは新羅側の軍政に協力していくようになりました。そのため、機織部の秦氏のグループは敗北し、雪崩を打って秦王国の分国地・関東地方へ逃亡し、やがて彼等は鹿島神宮や静神社の機織部領域付近、蘇我、行徳および秦野付近などに散居して逼塞したのでした。こうして、2王朝が連合して機内に侵攻し、大和盆地の秦王国(秦始皇帝の後裔・秦氏らユダヤ人の王国)と共存する勢力となり、国史にいう三輪氏・凡河内氏となりました。継体以下の邪馬壱国または安羅王朝継体・安閑・宣花は、安羅王(卑弥呼・邪馬壱国の分国)で、日本史の上では大物主命の子孫の大伴氏でもあります。実は、新羅が金官加羅を滅ぼすことができたのは安羅が新羅と通じていたからで、この後、新羅、安羅・百済の三国は、しばらくは同盟して共通の敵高句麗に対していたのです。後の白村江の戦いに於ける倭国(安羅)滅亡の原因は金官加羅王家の子孫で新羅の重臣となっていた金ユ信が亡国金官加羅の怨みをはらさんとして王子、金春秋と組んで唐の力を借りて安羅打倒を計ったのです。皇極(斉明)以下の新羅王朝そして金官加羅から分裂してできた新羅の金姓王朝が皇帝と書かれ、皇極、斉明・・天武、文武と、続く王朝になりました。即ち、白村江の後、成立した天武以降の新羅王朝はこの王朝の続きです。
2009/03/21
百済系の道鏡・光仁・桓武の王朝。白村江の戦い以前は新羅史を書き換えたものであり、【乙巳の変】は、新羅史の【ヒ曇の乱】を模したもので日本でなく朝鮮半島で起こった事件でした。【664年五月大紫蘇我連大臣薨ず】と【紀】の天智三年に条にあるので、これが暗殺された蘇我入鹿のことではないかと考えられます。唐・新羅の占領軍によって、この年に暗殺された事実を暗に伝えているのではないか?【日本書記】の記録は、白村江の戦い後の八月から約半年間が欠史になっていて この間に無条件降伏が行われたことを物語っています。クシャトリアの(ヤードゥ族源氏) (マラ族平氏)7世紀に百済・倭国・高句麗と続けざまに滅ぼして、東アジアの覇権を確立するほどまでに統一新羅が強くなったのは、王族金氏が優れていたこともありますが、インドからやってきた傭兵軍団のおかげでした。この傭兵たちは、もともとクシャトリアのヤードゥ族(アーリア人とチュルク族の混血)でインド・グブダ王朝の騎士団でしたが、606年にグプタ王朝がハルシア王によって滅ぼされたため、移動を開始し、満州を経て新羅の外人部隊=花郎軍団になりました。その花郎軍団の長官(源花)・金ユ信は、【ヒ曇の乱】の時、新羅王子・金春秋を援けて成功するとその縁で彼の妹が金春秋に嫁いだため、金春秋と金ユ信の2人は義兄弟になり、やがて、太宗武烈王になった金春秋は、「捨て身の外交」によって唐の高宗に取り入ることに成功し、かくして唐・新羅の連合軍は白村江の戦いで勝利するとその余勢を駆って九州へ侵入し、倭国を占領したのです。その時、日本占領の新羅軍元帥としてやってきたのが、花郎の長官・金ユ信でした。その金ユ信が、源氏の頭領の家系となりその兵士が一族郎党となるのですが、この時はまだ源氏一族と呼べるような集団にはなっていませんでした。その後、延暦年間(782年~805年)の古代南北朝の戦いで白村江以後日本へ亡命していた百済人の勢力=百済王・桓武らの南朝方が勝利して平安王朝を建てました。平安王朝の前の奈良王朝は、花郎たちの雇い主であった新羅系の王朝であったため平安王朝に代わることにより、新羅系の貴族や花郎から源氏となった武士などは東国へ逃れて逼塞しました。935年に中国の唐が滅び、その連鎖反応によって統一新羅が滅んだため、朝鮮にいた花郎たちは日本の【ゲットー】(囲い地、散所、院地)にいた同族を頼って渡来することになり、ともに協力し合って貴族の荘園管理をつとめる源氏一族となりました。これが、やがて源氏の頭領=源義朝・源頼朝らに繋がっていくのです。日本の平家は、クシャトリアのマラ族であり、東に移動してきたジプシーです。8世紀以降インドから東へ移動して、百済系平安王朝の外人部隊(傭兵)となりました。ジプシーは美人が多いことで知られていて、平家にも美人が多く、東欧のジプシーのように踊り子などになって、しだいに百済系の平安王朝に入り込み、力をつけていったと思われます。その平家は源平合戦で敗れ、代わって源氏の源頼朝が征夷大将軍となって鎌倉幕府を建てましたが、源氏の政権は三代で終わっています。執権となって実質的に武家政治の幕府体制を確立した北条氏は、実は平家だったのです。元寇の時に、執権・北条時宗や水軍の河野通有らが大活躍しますが彼らは平家の末裔です。源氏の白旗や平家の赤旗をはじめ、源平武士たちの家紋はすべてインドの騎士団の紋章ですが、それは彼らがインド時代のものをそのまま用いていたからです。源氏も平氏も、新羅王家とも百済王家とも何ら血統のつながりはありません。足利時代【清和源氏】や【桓武平氏】という武士たちの系譜は、藤原氏から大金で買った【偽系図】が始まりであり、日本の武士と日本の皇室とは、血縁上も系譜上も関係は、ないのです。しかし、武士が皇室に限りなく近づき、我が子を天皇にすり替えたという説があります。室町幕府2代将軍・足利義詮の長子・足利義満は、3代将軍となった後、従一位から内大臣、左大臣と昇りつめ武家で初めての准三宮を与えられました。義満は、後醍醐天皇以来4代に亘って皇位の正統を唱えてきた南朝に和平を申し入れ南朝の後亀山天皇は護国の儀をもって神器を北朝の後小松天皇に渡し、今後は、大覚寺統(南朝)・持明院統(北朝)が交互に就くという条が約され、57年におよんだ南北朝分裂の歴史の幕は閉じました。その後、義満は将軍職を長子・義持に譲って、出家し北山に金閣寺を建て、公武貴族の社交の場となり、義満の【公武を統一する支配者】として法王並みの格式で内外の儀式に臨み始め、【天皇家と一体化】の道を推し進めました。それが我が子を天皇にすり替えることでした。すり替えられた後祟光院・・・後花園天皇の血統は、南北朝が統一された後の北朝系の天皇として、幕末の孝明天皇まで続くことになりました。南朝革命 明治以降から現在の南朝系百済王朝孝明天皇は、強硬な攘夷主義と公武合体を政治的な立場としていたために日米修好通商条約に勅許を与えず、幕府が独断で条約に調印するや、朝幕の対立は頂点に達し、それが桜田門外の変となりました。その後、尊撰派を京都から追放し、一橋慶喜を信任して攘夷に期待をかけましたが、明治維新を2年後に控えた慶応2年に孝明天皇は急死。孝明天皇後の明治天皇は、慶応3年正月に即位したは北朝系孝明天皇の子・睦仁親王でしたが、同年7月以降の明治天皇は、睦仁親王に成り代わった薩長同盟擁立の南朝系・大室天皇だったという説があります。その南朝の天皇を代々匿ってきたのが長州藩であったといいます。その核となった吉田松陰の理念は、三つあります。一つ、南朝正系論一つ、民族主義と侵略思想・・・富国強兵し、蝦夷(北海道)を耕し満州を奪い、朝鮮に来たり南地(台湾)を併せ、然る米(アメリカ)を拉き(両手で持って折り)欧(ヨーロッパ)を折らば・・」これは、明治以降、途中までは実現できたこと、明治新政府は富国強兵に励み、蝦夷地を耕し満州国を建てて実質的には支配し、朝鮮と台湾を併合しました。その後、米を折るべし・・・というのは上手くいきませんでした。もう一つ、部落解放(これを全アジアに広めようとしたのが大東亜共栄圏)この点に関しては【長州の騎兵隊は、部落解放の夢に燃える若者が中核をなしていた】と、いいます。奇兵隊のなかでも、特に力士隊、伊藤博文は、この力士隊の隊長だったのです。この時代の力士というのは弾体制(同和)に従属していて、部落と密接に関係しているかあるいは部落そのものでした。尊皇攘夷の真の意味は、南朝革命と吉田松陰にとっては即ち【奇兵隊の天皇】を再興することにほかならず、それは部落を解放することをも意味しました。そして明治維新によって、これらのことは実現されたのです。さらに【解放】を全アジアに広めようとしたのが大東亜共栄圏であり、その精神が八拡一宇です。
2009/03/21
狗邪韓国(東表国)が邪馬壱国との戦いの結果、天の王朝(九州の東表国・エビス王)から朝鮮半島の南部、辰韓の地に飛地(分国)を作って金官加羅を建てたのは3世紀中頃だったと考えられます。金官加羅の初代王は首露王です。そして王妃はインド16王朝時代のアユダ国、別名コーサラ国の王女でした。コーサラ国は古代フェニキア人のインドに於ける植民地でした。4世紀中頃、首露王の曾孫、末仇と奈勿父子の時代に、辰韓12国中の自分たちの分家領地・斯盧国を独立させて【新羅国】を建て、奈勿尼師今(なこつにしこん)が第17代新羅王として即位しました。【三国遺事】によれば金官加羅は弁辰12国のうち最大の国家でしたが、10代仇衝王の時に新羅と争って敗れ、王族は降伏して新羅の重臣となりました。即ち、562年9月、新羅真興王の軍が攻めてきたとき、安羅国(金官加羅の本国、九州)の軍勢が駕洛国(金官加羅)の背後を襲ったといいます。つまり金官加羅は、新羅と安羅に挟み撃ちされて滅んだのです。新羅は第23代、法興王の頃から征服王朝の性格を備えはじめ、次の真興王の時代には全盛期を迎えていました。さらにインド伝来の固有信仰から発達した【花郎集団】がその宗教的な団結心を基盤にして、新羅軍事力の中核をなすようになるのもこの王代からです。奈勿王4世の孫、異斯夫は兵部令として新羅全軍を指揮するようになると、さらに領土拡張に努め、常に第一線の武将として活躍しました。彼は各地の交通の要衝を眼下に見下ろす高台の地に見事な【朝鮮式山城】を築城して戦いを有利に進めたといわれています。この【朝鮮式山城】は、中世のモンゴル侵入や近世の豊臣秀吉侵入に際し、その地方・地方の農民軍が立てこもり、時の王朝軍が戦う意欲を失った後も、自立した義兵闘争をこの山城によって展開した城です。南朝鮮には現在なお百を越える山城があって、見事な城壁(石垣)や遺跡を残しています。日本でも同じく、7世紀の白村江の戦い以後につくられたと思われる【非常の祭の逃げ城】としての【朝鮮山城】が西日本各地に21ヵ所も存在しており、新羅および百済文化の名残を留めています
2009/03/20
NHKスペシャル 【法隆寺再建の謎】が放映されました。飛鳥時代に聖徳太子が創建した法隆寺は現存する世界最古の木造寺院建築とされています。昨年、その中心となる伽藍・金堂で大規模な修復工事が行われました。 仏像を乗せる須弥壇に深い亀裂が入っていることが解り、このままでは、崩れ落ちる危険があって、金堂内の仏像群を堂外に移動することになりました。飛鳥時代、日本に仏教が根付いていった過程に何があったのか解き明かす鍵となる金堂の内陣普段は間近に見ることのできない国宝、金堂の秘密に触れるまたとない機会が訪れました。 日本書紀によれば、聖徳太子の死後、法隆寺は一度火災に遭い、現在の伽藍はその後再建されたものだとされています。しかし、寺に火災の記録が残されていないことから信憑性を疑う声もありました。しかし、寺の一角から決定的な証拠が見つかります。寺院の遺構がみつかったのです。出土したのは、解けて固まった瓦。普通は一般人の見ることの出来ない釈迦三尊像の光背に刻まれている銘に書かれている文を番組では、太子の死に際し、身近の人々は、その姿を敢えて釈迦の姿に写したと解釈します。そして火災をまぬがれたもう一体の仏像紹介しました。国宝、夢殿に長い間、人々の目に触れなかった救世観音です。この仏像もまた、聖徳太子の在世中にその姿を写した御影だといいます。約180センチの等身大の仏像です。聖徳太子を写した仏像が二体あったことになります。なぜ、これらの仏像は、焼けなかったのか?なぜ場所を移して再建されたのか?科学の力で解明しようとします。金堂天井板の樹皮を剥いだ後の面皮の年輪を調べます。木材の伐採された年代を割り出します。668年のものでした。焼失したのが670年。現存している法隆寺の方が古いことになります。番組では、現在の金堂は、火災前に独立した形で建てられ仏像も移されていたのだろうと 語ります。当時、唐王朝が脅威的になって、白村江の戦いへ向かう時代背景、こうした時代に法隆寺の釈迦三尊像を祭ったということは、天智天皇が唐が攻めてくる時世にバラバラになっている豪族を統一するために聖徳太子の権威によって国をまとめたいとの願いからと番組は進行していきます。動乱のなかで、太子信仰のもとに人々の心を一つにし平安が訪れたと謎でも何でもなく、今や教科書にも載っていない聖徳太子によって番組はしめくくられました。実は、聖徳太子と云われている人物の実体は、この上宮法皇の阿毎多利思北孤(あめたりしひこ)のことでした。明治17年の夏、古都の美術調査をしていたアメリカ人学者フェノロサと東洋美術の先駆者である岡倉天心によって、救世観音のヴェールが剥がされました。救世観音は夢殿の中に、からだを木綿のさらしでぐるぐる巻きにされて納められていました。仏像は、本来礼拝するものであるのに、なぜ白布でぐるぐる巻きにし、人目に触れないようにされていたのか。さらに頭と胸に太い釘が打ち込まれていたのはなぜか?乾漆作りで、胴は空胴になっています。この仏像は秘仏とされ、1200年間、一度も人目に曝されたことがありませんでした。両手は太子の骨を入れたと思われる骨壷を抱えています。フェノロサが仏像の白布を解き始めると、寺院の僧たちは一斉に外に逃げ出したといいます。この仏像を見るものは眼がつぶれるとか天変地異が起きるとか言い伝えられてきたからです。有名な「日出づる処の天子書を日没する処の天子に致す。恙無きや。・・・」この【日出ずる国の書】は、聖徳太子とは、まったく関係なく、秦王国の国王アメタリシヒコが出したものであり、これが秦始皇帝の子孫がつくった奈良盆地の秦王国の実態を知らない中国文帝開王の怒りを買ったのです。釈迦三尊像の光背に刻まれている銘も聖徳太子ではなく阿毎多利思北孤に関する記述です。倭王・阿毎多利思比孤アマタリシヒコというのは、実は大和にやって来た秦王国王のことでユダヤ人シメオン族の族長でした。即ち3世紀初頭、神武らの扶余族(北倭)に敗れた倭奴国の王・大国主命(世襲名)の子孫たちが東遷して近畿地方に秦王国を建て、その秦王国の王がアメタリシヒコでありました。このシメオン族系の最後の王が66歳で病死した時、この王には3人の女子しかいなかったため、5世紀後半、【倭の五王時代】に朝鮮の高句麗から渡来していたレビ族系の東漢(やまとのあや)氏一族が、その実力を買われて秦王国の王位を継承しました。その王族が上宮聖徳に連なるのです。 上宮聖徳は、東漢氏(ユダヤ系レビ族秦王国王家)の長男に生まれましたが、シメオン族系秦氏のバックアップを受けた弟の勢力との王権争いに敗れて、623年11月22日に妻と二人、自害(心中)したため、急遽、レビ族によって藤ノ木古墳に埋葬されたのです。京都太秦にある広隆寺では、毎年、聖徳太子のための法要が行なわれていますが、その法要の日は、実は上宮聖徳夫妻の命日なのです。【日本書記】の脩史官は、アメタリシヒコを聖徳太子に置き換えるとともに、歴史的実在の人物である上宮聖徳を聖徳太子に仕立て上げることにより聖徳太子の物語をより一層完全なものにしたのです。いわゆる大和朝廷の天皇が大和に成立しておらず、まだ皇太子の制度・慣習もない時代の人物に、後の世に権威づけがなされた【日本書記】は、上宮聖徳を百済・威徳王昌に比定し、百済の歴史と大和の秦王国の歴史を混合して聖徳太子の伝説を創作したようです。その後、上宮聖徳夫妻を死に追いやった罪滅ぼしと、その祟りを恐れた実力者の秦河勝(東儀秀樹氏の祖)は、太秦に広隆寺を建立して2人の霊を弔うことにしました。毎年、広隆寺の伽藍寺である大酒神社で【太秦の牛祭】として有名な奇祭が執り行われます。現在の法隆寺を斑鳩宮とする【記紀】の記録は、おそらく意識的になされた誤記であるようです。現在の法隆寺周辺から発掘発見された遺跡は若草伽藍といわれていたもので、法隆寺とは全く関係なく、それらは、すべて斑鳩寺のもので、671年3月9日に落電によって焼落ちています。最初の法隆寺は現在地でなく、上宮聖徳によって阿毎多利思北孤の遺体が葬られている鳥ノ山稜の西側に建てられたのです。それも672年に落電にて焼失。現在の法隆寺は733年に再建しました。【日本書記】は、669年入鹿が斑鳩宮を焼いたとありますが、【斑鳩宮】は落電によって焼失しました。 【蘇我入鹿暗殺】も新羅の【ひ曇の乱】をモデルにしたものであり、また日本に於ける律令制の施行は、藤原仲麻呂による大宝律令完成701年なので、【大化の改新】の詔が出されてから55年も経った後に律令制が施行されたことになり、【大宝律令】の存在も疑問視されます。【日本書記】の修史官は、かなり無理をしたようです。645年に【入鹿暗殺】により蘇我氏が滅亡し翌646年、正月に【大化の改新の詔が出された】としたわけですが、それは、あくまで新羅の歴史なのでした。
2009/03/18
以前、エヴァンゲリオンのようにヒットした【鋼の錬金術師】は、私も好きなアニメでした。シェイクスピアは言葉の錬金術師と云われます。【錬金術】とは、字の通り金を練成する術です。「金は、一番不純物が無いの。古くなっても、拭くとすぐピカピカになるでしょ」と、理科系の友人が言いました。なるほど。 古い雛人形の着物の金糸が今もキラキラ輝いていたことを思い出します。 金は、とにかく変化しにくい物質だということが分かりました。すべての元素の中でもっともイオン化傾向が低く、空気にさらしていても錆びることは無いし、酸につけても溶けることは無い。ゆえに変化しない物質だということです。そういう物質が天然で金属のまま産出されるのだそうです。それは完全なもの、永遠なものを意味し、古代の人々は、それを創り出す自然に神の偉大さを重ね合わせたようです。錬金術では、地上の原理はすべて宇宙の原理とシンクロしていると考えます。宇宙を一つのシステムだとすると、そこに存在する全てのものは相互に関わりあっていると。人間は一つの宇宙であり、細胞はミクロの宇宙であると、したがって地球である大宇宙と小宇宙である人体は相似形であると考えました。頭部と四肢を持つ人体。全体の約70%が水分の人体。中央が高い五本の指を持ち、五臓で生命を維持しています。宇宙の崩壊を実際に見なくても、古代人の感性は死という人間の崩壊を見て、それをイメージし宇宙の発生を見なくても、誕生という人間の発生を見てそれを拡大解釈することができたと考えられます。昼と夜が巡ると風景が変わり、生き物は成長し年老いて崩壊してゆく。それらの要素を古代人の柔軟な想像力は、自由自在に拡大・縮小し、誇張や比喩を積み重ねて原子サイズから漠とした宇宙までを破綻なく見立てる理論を構築して文字に記し残しました。知恵と気の流れ、天の巡り、陰陽が溶け合った部分が全てのものが発生する聖地とし古代の人々は遺跡を残しました。ストーンヘンジ・ピラミッド・前方後円墳・鹿島神宮も。錬金術では、卑金属から黄金を産み出すという作業を通して内的な魂の変容のプロセスを歩みます。 黄金とは、不変で完全で祝福された状態の魂のシンボルであり黄金の獲得を目指すことは同時に悟りの境地のように意識が根源的に変革されて高次の認識水準に達することをも意味しました。【金】は新しく生まれ変わった再生の象徴ともされました。金属を作り出す神がなぜ一つ目や片目とされてきたのかという点に関しては金属精錬のタタラ作業で火の色を長年見つめるために片目がつぶれたという説などがあります。中世ヨーロッパでは、錬金術師が、鉛などの卑金属を金に変える際の触媒となると考えた霊薬が賢者の石とされました。また【賢者の石】は卑金属から黄金に変える赤くて重い石を液化すると延命長寿の薬となりあらゆる病気に効く万能薬といわれました。秘教的錬金術、錬金術師がめざした黄金は金属(物質)ではなく魂の浄化を象徴した霊的黄金である意識の至高状態をいいます。錬金術師は自然になりかわって自然の作業を成就し卑金属を黄金に変成させて自然を完全なものとし、時間にとってかわる修験道永遠の生命の探求をめざした煉丹術(錬金術)と同じ金を採集するための苦難が、苦難そのものが、目的のようになり変形しています。本来は、修験の服装や持ち物も、前人未踏の地に金や水銀を探すためのものでした。人類が利用し始めた最初の金属は、銅でした。銅を高温で加工する技術を発見した過程で偶然、僅かな金を発見したと考えられます。銅は、自然の形で発見されることが多かったのです。金は、銅や銀と、元素で同族の関係にあり、多くの銅鉱石は、少量の金や銀を伴っています。したがって銅を大量に使っている間に、金が少しづつ蓄積していったようです。金は、王権と密接に結び付いていたと考えられます。古代の農民社会は、王と戦士階級と農民、三つの要素で構成されていました。興味深いのは、かなり時代は下がりますが、古代のミトラ信仰にこの三つの要素が濃厚に反映されていることです。ミトラが王の神格、インドラ(帝釈天)が戦士階級の長の神格そして農民階級を現すその他大勢の神・・・。ミトラ信仰はゾロアスター教信仰以前の古代イラン人の宗教といわれています。しかしその古代イラン人はどこから来たのでしょう。北方起源説が有力なアーリア系のイラン人が、その信仰の農民的性格から実はメソポタミア起源である可能性があるといわれます。農民社会は、遊牧民族から発展したのです。遊牧民の生活は、絶えず外部の状況が変化し、絶えず未知のリスクに曝されそのなかで選ばれるとしたら血筋よりは、個人の能力、とくに判断力と決断力に優れていることが、リーダー選定の基準になっていたことでしょう。激しい闘争を勝ち抜き、王となった人間にとって最大の課題は、潜在的な競争相手から自分だけは超越した存在であることを誇示することであったでしょう。この目的で、金はラピスラズリとともに理想的な材料でした。簡単に手に入らないことが、好まれたのです。とくに、どんな環境にも光りを失わない金は、太陽光線の下であれ夜の篝火の横であれ、見る者に畏敬の念を抱かせたでしょう。金は、王権を確立するための小道具として、必要欠くべからざるものでした。銅には遅れましたが金もまた、世界でもっとも早く農業社会が発展したメソポタミアでもっとも強い需要があったと思われます。かくてほとんどの金の生産地は、メソポタミアの王のために開発された可能性が高いのです。やがて分業がはじまり、農耕をせずに採鉱と交易をする遊牧民はアラビア半島を数百年かかって迂回し、シナイ半島の銅鉱山を開発したようです。さらにスエズを渡ってエジプトの山を探鉱して回りそしてナイル河の砂金を発見しました。東ではインド、バクトリア、ソグディアナ、これらの地域も、シナイの鉱山と同様、これらの鉱山師によって開発されたと考えられます。そして、北シリアから地中海岸をイベリア半島まで、またメソポタミアからイラン、パキスタンを経てアフガニスタンからソ連中央アジアまで、銅や金を運ぶルートが出来ていったと考えられます。中央アジアのシルク・ロードは、古くはゴールド・ロードあるいはカッパー・ロード(銅の道)でした。インダス河流域、モヘンジョ・ダロのBC2500年頃に遡った頃に設計された都市もメソポタミアへ金や銅を運ぶ基地として、メソポタミア系の人によって建設されたと考えられます。
2009/03/12
何年か前、NHKで放映されたシルクロードの番組【楼蘭の美女】の発掘は、記憶に新しい。ミイラとして保存が完全で、卵型の顔かたち、まっすぐ伸びた鼻、濃い眉、薄く引き締まった唇は、4000年間、楼蘭の砂埃に埋もれながらも原形をとどめていたのでした。長い睫毛が印象的な美女、彼女が白人だったことが発掘した人々に衝撃をあたえました。新疆地区に白人種がいたことの証となりました。彼女は、南シベリア、カザフスタン、ボルガ河原草原およびアラル海沿岸地帯の青銅器時代のアンドロノヴォ文化タイプの住民の特徴とほぼ同じと判明しました。新疆地区とは、人類の歴史に於いて実に興味深く、絶え間ない変化と発展のなかにありました。地図を広げてみると一目瞭然なのですが、新疆の北、西、西南側を取り囲んでいるのはロシア、カザフスタン、キルギスタン、ウズベクスタン、タジキスタン、パキスタン、インドです。ヨーロッパ大陸、西域、西アジア、南アジア、アジア東部地区との交通を結ぶ拠り所として民族の大移動の波を何回も経験し、白色人種も黄色人種も居て、お互いに同居し溶け合い、共同で開発していったと考えられます。新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシェバ文化が栄えました。この文化の担い手は周囲のモンゴロイドと異なり、パレオ・ユーロペオイド的(白人)でした。このアフナシェバ文化が、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化の青銅文化につながります。さらにアンドロノヴォ文化は、BC2000年紀末南シベリアのカラスク文化と中央アジア北部のダザバギャプ文化に代わりました。カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化の東方流入によって発達したといわれます。カラスク人に続くタガール人は西シベリアの古いユーロペオイド(白人)に属し中国史の丁零です。 この中国北部で【丁零】と呼ばれた人々が、殷の住民から借用した様々な文化的要素、とくに青銅鋳造の技術を南シベリアに持ち込んだとおもわれます。 【丁零】は、チュルク族の一派ですが、カラスク文化の担い手が【丁零】ならば、その祖型にあたるアンドロノヴォ文化、さらに、その祖型にあたるアナシェヴァ文化も、同じくチュルク族の文化と考えられます。学者の今岡十一郎氏は、シベリアにいた丁零と、西はトルコ人と広大な範囲を包括するチュルク族は、ウラル・アルタイ語族=ツラン族といいこの内、ツングース、蒙古、サモエード、フィノウグリア、チュルクの五族があるといいます。また「ツラン族は、BC8000年頃、シュメールの地にいたが、BC3000年以降アフリカ民族がセム族を滅ぼして自らセム族となり、BC2200~2000年頃シュメール帝国を滅ぼしてしまった。この状況のもとで、ツラン族はBC3000年頃からインド、中央アジア、東アジア方面に移動した」と述べて、そしてチュルク族については、「往昔その原郷のアルタイ山脈から出発し、ほぼ北東と西に広がって、主としてアジアに限局する地域を占めた。・・・西に進んだ一部はイデル・ウラルとクリミア地方からバルカン南東隅まで・・・また他の一部はドナウ盆地にまで進出した。彼らの支配は、名目的にはメソポタミア、シリア、パレスチナ、北アラビアに及び、またかつて一時的に、イラン、アフガニスタ、インドまで伸張し、さらにアルジェリア、全バルカン半島全ハンガリー平野を領有していた時代があった」と述べています。彼らはシルクロード全域に亘って分布し、アレキサンダー大王が洛陽に侵入するまで中原の支配者だったのです。のちの高句麗・百済・天皇家につながります。この人々は後に分裂して【丁零】、【殷庶の高令】、【匈奴高令部】、【高句麗】などになりました。
2009/03/09
全336件 (336件中 1-50件目)