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Jun 26, 2006
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #34(舞台)

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ルームルーデンス

身毒丸

6月23日 in→dependent theatre 2nd ソワレ


乗り越えるべき存在


2003年に逝去した劇作家・岸田理生を偲び、試みられてきた「岸田理生作品連続上演」は今年で3年目を迎える。この企画に参加した7団体の内、唯一大阪公演を敢行したのがルームルーデンスである。選んだ演目は『身毒丸』(演出:田辺久弥)。寺山修司原作のこの作品は藤原竜也を世に知らしめた蜷川幸雄演出による傑作舞台が有名で、私もビデオだが観ている。先行する有名作品を、それも国内外で評価を得た作品をこういった機会に公演しようとするこの劇団の心意気をまずは評価したい。常に新作を求められる劇壇において、傑作戯曲を埋もれさせまいとする上演委員会と、それに賛同する多くの演劇人のこのような試は、連綿と続く演劇史を決して無視することはできず、その形成の上に今、我々が演劇を試みようとしているということを再認識させてくれよう。また、私をはじめとする若い世代がこういった機会に演劇史を知ることで、その果てしのない分厚い壁を乗り越えようとする気概が芽生えた時、劇界を活性化する核になる。つまり、演劇の過去と現在を両輪に表現行為を探り、未来へ繋がろうとする今回のような企画は貴重な実験の場なのである。その前提を踏まえた上で、この舞台に関して言えば、粗が目立つ部分が多いように思われた。


劇場へ入ってしばらくするとソフォクレスの『オイディプス王』とラシーヌの『フェードル』の一場面が演じられる。パンフの解説によると、『身毒丸』と相通じる「継母と息子の禁忌の愛を扱った名作」という点が適宜インサートされるという趣向なのだが、この古典2作品の演技がまずい。木台しかない舞台フィールドで演じる俳優には朗々と語る身体状態と技術が備わっていないため、演劇の原点ともいえるギリシャ期と中世期の作品をうまく消化した場合に生じるであろう人間の源泉さが感じ取れないのだ。もしそれが出ていたのならば、舞台は小劇場の枠を通り越し、果てしなく身体を基準にして、一点透視図法よろしく無限の広がりと奥行きを見せたはずだ。そこまで要求せずとも、観客を押し付けるほどのパワーを見せて欲しかった。特にオイディプス(鈴木啓文)、イポトリス(酒井秀行)の両男優は大声で喋る場になると声がひしゃがれてしまう。雨音の音響にすら負けてしまう発声と声量では人間の業と欲を詰め込んだ古典作に説得力を持たすことはできない。


古典2作品が『身毒丸』にどうリンクするのかといえば、父親(金安凌平)に買われた継母の撫子(今野真智子)に関わってくる。この舞台の撫子は喋ることができなく、手話でしかコミュニケーションが取れない人物として演出される。従って、撫子の音声会話はイオカステ(棟方絵夢)、フェードル(青山のぞみ)によって語られる。この演出意図が示す所は、母親の偉大さ、遠大さを連綿と続く母の歴史性と共に作り上げることで、役に深度を持たすことにあるのだが、これもいま一つ成功していないのは、明らかに撫子の演技にある。何千年にも及ぶ母親の歴史性を背負った上に今、存在しているという説得力さを持った人物として浮き上がっていないのだ。母親とは全知全能の大地の母として全てを優しく包み込む存在であると同時に、禁断の同衾や権力闘争に関わり、知力を尽くしてしたたかに上り詰める両義的人物であることを、古典2作品に描かれる母像を投射することで描くはずが、それを少しも感じさせない、しなやかな身のこなしと優しい表情で演じる今野は無害一辺倒の演技しかなく、大きな齟齬が生じていた。撫子が身毒(リアルマッスル泉)を殺害する場面では、身毒=白布を撫子=赤布が制圧するという恐ろしくも美しく、その時の撫子はそれまでと一転した表情を見せる良いシーンなのだが、ここに毒々しい女性の頂点を見せるのだとすれば、それまでを優しいだけの人物造形にするとあざとくなる。良かっただけに悔やまれる所だ。


そもそも、パンフには、これまでの『身毒丸』で試みられた、「家」=「ここ」という「厳然たる規範社会」からの脱出というスタイルを見直し、現代社会はそもそも「厳然たる規範社会」としての「家」が崩壊しているという認識から出発したと示されているが、果たして「厳然たる規範社会」=「家」は崩壊したのだろうか。「家」が強固に存在しているのなら、「フリーター」「ニート」「ヒッキー」が「都市社会のみならず、地方社会にも市民権を得ている現状とそぐわない」という点にそもそも私は反発する。何も彼らは市民権を得ている訳ではない。そうではなく、「フリーター」「ニート」「ヒッキー」という呼称によって市民権を得たと勘違いしている当の彼らに対して大衆は反発しているのが現状ではないだろうか。そして、彼らが拠り所とするのは、「自室」という確固たる「家」である。「家」を成り立たせている親に依存する彼らにとって「家」と「家族」は失うべきものではない。とすれば、撫子と身毒丸がロマン溢れる「あそこ」を目指す「道行」の物語というよりも、改めて「家」と「家族」を批評し、再認識する物語として提示すべきではなかったか。この作品が成功していないと思うのは、以上の点についての認識が間違っているからである。


そうすると、問われるべきは父親と身毒の関係性だろう。開演間もなく、父親はゴミを集めていることを語る。それは例え、作られた寄せ集めの家族関係であろうとも、世間体と父親自身の尊厳のためには父が居て母が居て、子供が居るという家族構成があるかないかは大きな違いであり、父親はそのために欠けた母親を買いに行くのである。様々な人が既に述べているように、戦争を知らない50代以下の父親達は、男として、子供達に誇れる何かを持ち合わせていない。60年代、学生運動に関わって社会変革を夢見た父親はやがて70年代を迎えると共に満員電車に揺られて会社へ通勤する従順な企業戦士へと成り下がった。そして、今後親になろうとする父親予備軍には、バブルの蜜とその後の崩壊でアメを喰らい、必死にリストラされまいとしがみつく30代と、失われた10年に青春時代を過ごし、就職難と不況でシニカルにならざるを得ない生き方を強いられた我々20代が後に続く。20代の「フリーター」「ニート」「ヒッキー」も今はまだ子供だろうが、やがて親となる年齢になり、親となる時代を迎えるだろう。そのために、同様に戦争を知らない自分達の父親とどう関わり、生きる望みを見出すのか。従順に従うのではなく、社会を生きる一つの試練としての関わり。父を乗り越えるというのはそういうことなのである。


「家」という「厳然たる規範社会」をさらに微分した特定の「自室」に篭もり、最小単位の「家」を家族個々がバラバラに守っているのが現代の家族である。その中で父親は必死に一つにつなげようとしてもがいているのだ。その解決作が、撫子を買う父親の行動である。現在の個人ならぬ孤人による「厳然たる規範社会」を溶解し、母がゴミ=異分子だとしても、バラバラになった部品を再び一つに組合わせることを期待する苦心しているのである。必死に取り繕うその父親の様を傍から覗く私たち子供達は、それを将来の自分達の問題として感じ取らなければならない。


そうでなければ、例えば『身毒丸』と同じ構図をなす16歳の長男が父の恨みを晴らすため、家を放火し、継母と幼い兄弟を殺害した奈良県の事件がアクチュアルに迫ってくることはないだろう。この舞台を観ながら同時にその事件を思い起こしながらも、ではこの舞台がどう家族と対峙し、解決しようとしているのかがはっきりと見えてこなかった。おそらく、演出家が冒頭このような父親のシーンを提示した時点で、父親と息子の関係の重要性は気づいていたのだろうが、岸田理生のテクストに描かれている継母と子の愛情、すなわち蜷川演出で強烈だった白石佳世子と藤原竜也のすさまじい演技の前例をどう回避しようかに捕らわれた結果として、先述した母=撫子の人物造形への介入といったことが本来目指すべき演出の主眼を拡散させているため、父と子の関係がいま一つ観客に迫ってこなかった。親としてある先人の作品をどう乗り越えるか、親と子の関係は演劇の問題でもある。


しかし、いま一度強調しておくと、実験の場として岸田理生のテクストに挑み、そこにギリシャ劇と中世劇を組み込んだことに、私は演劇史を踏まえて演劇を思考するこの劇団の気概を感じ取った。そのことは正当に評価に値する点だろう。





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Last updated  Apr 12, 2009 11:34:50 PM


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