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Mar 19, 2007
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #58(舞台)

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烏丸ストロークロック  『漂白の家~白波荘を巡る半年~』

3月11日 アトリエ劇研 ソワレ


夢=回想から、夢=変革の図式


人間や社会の在り様を描いたテクストが据える主眼とは、詩的求心性を孕んだ美文体の台詞を上位道具にして、登場人物間の対話の積み重ねが齎す葛藤を通した問題の解決である。所謂、リアリズム演劇と呼ばれるこのようなものにはテクストというよりも文学のニュアンスに近接的な「戯曲」という語こそ相応しい。現代演劇史における「死せる芸術」(菅孝行)=新劇と「アングラ」の闘争を紐解くことは今更な感があるが、依然として観劇を通じて観客を教育し啓蒙する戯曲が舞台の俎上に上げられ続けている。なぜか。それは理解し易いからに他ならない。日々の生活上で起こり得る人間関係や取り巻く社会環境を取り上げているが故、舞台上で交わされる台詞を最上位とした様々な行動がそのまま我々が切迫する問題系にコミットし、捕えるからである。劇場から一歩外へ出た観客にとって明日への生きる知恵や活力を与える娯楽。しかし、留保しておかねばならないのは全員が全員コミットできる訳ではないという当たり前の事実である。目の前で繰り広げられていることや人物に己を仮託できる者とそうでない者は、取り扱う問題如何によって不可避的に峻別されてしまう。それは上意下達式に意味内容を伝える性格を戯曲に内包させる限り逃れることはできない。揺り戻しのように再度戯曲文学が台頭した時代を迎えつつある今日、我々は演劇性を奪還しながら且つ、戯曲文学を別次元で現出させる方策を練らなければならない。文字記号だけに終止しない、感性を開かんとする多様な刺激剤を。


そういった意味では今作が初見だった烏丸ストロークロックの三年振りの新作(三部から成る第一作)も戯曲文学に十分相当する。しかし、メンタリティの発露という文学的主題を前面に出しながらも、そこに劇団独自の味付けを施して一線を画そうという意思が感じられる。目に付くのは映像の使用・映画的手法である。過去の場面が連続してなだれ込むカットイン。他に、舞台美術の四角く切り取られたスクリーンを隔てた奥に仰向けに両手を挙げた状態のリョウコ(阪本麻紀)に、悲壮感漂う姿でケン(小池貴史)がその手前に覆い被さる(つまりスクリーンを介して前後に位置する形になる)シーン。そこでは、死んでしまったと思わしき女と心の空洞を抱え込む男の交わることのない抱擁が美しく、最も情感的なものとして表現されていた。とりわけ、セックスという語と抱擁・キスといった肉感的な接触が頻出する割にはそれ以上の何ものをも示さず、それだけにむしろ淡白な性の消費が氾濫する今日のメディア環境の中では一際印象的である。


舞台は、事故で子供を亡くし、妻にも去られ、逃げるかのように辿り着いた南島の秘境、白波荘で寮長という役割を担うケンが、他人同士でありながらも濃密でかけがえのない関係性を築こうと希求した三月から九月までの半年間が描かれる。「大事な誰かに対して大事な誰かを投げかけようとすると、決まってどこかに行ってしまう……。」(チラシより)、そんな反省の上に立った、変革の実践場が白波荘なのである。ケンを長として左右均一に四組のカップルが広がり、シンメトリーのような均衡のネットワークが形成され保たれているかに見える。シンメトリーは人間関係だけではない。劇場へ入ってまず目に付くのも舞台美術のシンメトリー性である。城壁のような、エメラルドグリーンの照明によって美しく照らし出された真ん中を頂点として山形に据えられた壁が目を惹く。木目状の床、その床と平行に壁の前面に並べられた三台のテーブルは机のようである。加えて壁に据えられた黒板を目にした時、私は学校の教室のような、あるいは寺子屋式の昔ながらの珠算塾を想像した。つまり、舞台空間は抽象的でありながら、どこか懐かしいノスタルジックな風景を観客個々の意識裡に喚起させるのである。上手下手端の柱がこのシンメトリーを完成形へと導く。登場人物の背後にそり立つこの城壁のような舞台美術は、壁の全面に固定されたテーブルの向きから自然に観客に対し真正面を向いて演じることになる俳優を背後から覆い尽くす壁のような大きな存在感を醸し出す。隔絶された秘境は、絶対的不動性が故に、不気味な魔力の磁場によって支配されているカフカの『城』のような地と言えよう。


舞台は一直線の時間が流れることなく、壁の真ん中にぽっかり口を開けたようなスクリーンに投射される日付の出来事が展開される。映画のカットインの手法に似た劇構成であるが、それも私はシンメトリーが創り出しているように思われた。それを前にしては、たとえ登場人物が形成するカップルが対という意味でシンメトリーであるにしろ、時間の経過という絶対的な存在に比べれば、小粒な生物がうろちょろしているように取るに足りない存在でしかない。この舞台でそれを最も理解しているのがケンである。ケンは過去の反省を踏まえ、一からやり直すために、家族のように血の繋がらない人間と擬似家族を築こう/築けるはずだという想いを持っている。それは現時点では達成されつつある。その理由は、自身の思いを他者もまた理解してくれているからだという手応えを掴んでいるからである。しかし、その実感の諸々は、理想・夢が生んだまやかしでしかない。つまり、白波荘を支配する手触りのない不気味なシンメトリーの力の根源は、長としてのケン自身であるというアイロニーがここにはある。バラバラの日付が細切れのように次々と切り替わってゆくのも、妻と別れ話をした時のシーンが挟み込まれるのも、全てはケンの恣意的な回想が引き起こしているのだ。


過去と峻別された新たな生き方を望みながらも、その地点からいささかも移動することのできないケンが、リョウコと恋人関係であるのは、漸次的な記憶の喪失を強いられる解離性遁走というリョウコの状況(限定された生を懸命に生かざるを得ないが故に、誰よりもまして未来に対する明るい予見を見なければならない)に、ケンは夢=回想の図式という隘路から変革の夢=将来の図式というドラスティックな変革を託したからに他ならない。冒頭に記したリョウコとの擬似抱擁(セックス)が美しくもさえあるのは、今居る世界を支配する力=舞台美術のシンメトリーが両者の間にはじめて有機的に関与することで実現する、超越的次元への昇華という上記に記した変革が可視的に認められるからだ。この時、舞台美術は物質ではなく生きものの役割を果たしたもう一人の登場人物となった。


一際印象的だったスクリーンを含む舞台美術・カットインといった手法はあくまでも戯曲の世界を高次元へ導かせる従順なものであるのだが、ハンス=ティース・レーマンいうところの「場の力学」に相応するそれ自体何事かを十分伝播し得る衝迫力を持っている。劇的想像力をドラマ=戯曲の受け渡によるイメージに拠るのではなく、知覚開陳の道具をどれだけ多義的に用意できるか、それ如何に戯曲の表象化がかかっていると捉えるならば、その実験精神を散見することはこれまで見てきたようにこの舞台でも可能である。





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Last updated  Aug 11, 2009 12:38:18 AM


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