現在形の批評

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Apr 27, 2007
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カテゴリ: 演劇評論
現在形の批評 #61(舞台)

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「すきま」を合わせて「共有空間」へとせしめるために


「演劇もすきま産業に入っている」という考えがかねてより私の頭を支配している。仄聞したように、2500年の世界演劇史を俯瞰してみれば、バロック的全体芸術という盛り上がりから20世紀以降の近代的自我の追求という純ドラマの隘路を迎えた末、半ば揺り戻し的に前近代の手法の批評的引用を試みる復路の途上が現代であならば、それはそっくりそのまま日本の現代演劇にも当てはまってくる。冒頭の書き出しはそれを踏まえた上でのものである。


日本の演劇シーンを支えるのは数千の劇団の栄枯盛衰が繰り広げられる東京に拠る所大だが、観劇人口において引けをとる関西においてもかなりの数の劇団が存在し、其処此処の空間で上演を繰り返している。と同時に、かつてより少なくなったとはいえ日々東京や他県の演劇が紹介される関西演劇は、紛れもなく日本における演劇マーケット第2位の位置を占めている。その第2位の座が危ぶまれる自体が進行しているという認識が、とりわけ大阪の地に身を置いて観劇を続けてきた私の実感としてあるのだ。見えてくる劇状況を二つ抽出することができる。一つは圧倒的にエンターテイメント寄りの作品が目に付くこと。そして、周到にその分野を避けたとしても「静か」系の会話劇を生業とする劇団に行き着いてしまうのが二つ目。具体的に名前を挙げることはしないが、野外劇が独自の形態として独自の道を進んでいる他は、大阪の演劇状況はほぼこの二極によって成り立っていると言えよう。前者は所謂プロデュースユニット型の上演形態によって観客動員の見込みを第一義とする信条から成り立っている。千人規模の動員を果たす若手、あるいは中堅劇団がほぼ皆無の状況が続いている現状からの半ば対処療法として、劇団間の垣根をとっぱらった顔合わせ公演が頻繁に上演されている。大抵は商業演劇かと思うような時代活劇モノや冒険活劇モノであり、スクリーンに投影される題字とキャストテロップ、ポスターには役者の姿態が踊っていればさながら映画のそれと見紛うばかりである。


この手の公演はどれも似たり寄ったりの内容であることがチラシを見るだけで了見されてしまう上に出演者がある程度固定されているとあれば、狙いは個々役者の活躍を追いかけるファンの囲い込みにしかならず、プロデュースユニット型の公演の量産が示すものとは互いのファンを合計して得られる観客動員の割増しと華やかさの演出にしか貢献しない。そして悲しいことに、エンタメを志向する結成数年の若手劇団の目指す先にあるのがこういったプロデュースユニット型の公演への客演、あるいは作.演出のポジションが据えられているからで、事実、出来栄えに目を見張る新規なアイデアも方法論も編み出していないある劇団の主宰者は今確実にその道を突き進んでいる。それを純粋に出世、あるいは名を売るということに私はためらいを覚えるのは、あまりにもパイの少ない極小の世界で成立する演劇のさらに小さな所で粛々と居丈高にメジャー感を演出している様に一種薄気味悪いものを感じずにはいられないからである。そして、その状況を無自覚に支える観客のあまりにも心やさしい支えこそが、演者の意識を「小劇場人事」という昇進コースの「すきま」に滑り込むための策謀を巡らすことに向けさせた結果が齎すのは、倫理や批評の欠如を度外視して東京の「小劇場すごろく」とはまた別種の小さな芸能界を成立させる構図なのである。


もう一極、日常のある一点を切り取った所謂「静か」系の会話劇はどうか。舞台上で描かれるのは、作家が日常生活を送る上で体験し、感得した人間や状況の考察を巡る登場人物同士の些細な会話の機微という一断面を描きつつ、潜在意識下をも含めて我々の身の回りを周到に包囲しているどうしようもなく身動きの取れない普遍的隘路を暴露するというものである。地表からは決して見えない、堆積する厚い層から断層面が形成されていることを透視させるのがこの手の劇スタイルとなる。この完全に戯曲先行型の文学形式はしかし、背伸びしない作家の身の回りの感性から出発する点において卑近さと一体である。同世代が抱く問題意識が個別具体的になればなるほど既知なるものの繰り返しにしかならなく、戯曲の精度を高めれば高めるほど今度は演劇であることの意味が失効するというアイロニーを抱え続ける。それ故に若手劇団による会話主体劇もまたこの陥穽の中で「すきま」を見つけて模索するという苦戦を強いられる。


例えば、その実践の一つに劇場以外での公演を打つ劇団やユニットも多いが、果たしてそこにどれほどの意味があるのか首肯できかねばい場合がある。先日観たユニットの公演場所はビジネス街の裏中にひっそりと佇む、情緒ある喫茶店に併設されたスペースであった。なるほど、蔵を改装したというだけあって、石畳と木柱がやわらかさを演出している。そこで上演されたのは、終戦直後を舞台にしたある四姉妹が直面する問題―女性の新たな生き方の模索と戦争が残した痛ましい傷跡との相克を描くものであった。まず内容の巧緻を抜きに、問題にしたいのはそのスペースで上演することの必要性なり新味さが感じられないという事にある。小劇場の空間に移行させたとしてもなんら変わることなく成立する作品であったためだ。劇場という制度の中では「お芝居」という凡庸な枠に収まりきってしまう懸念は確かにあって、この作品も扱うテーマからしてそれに当てはまるだろう。であるならば、「なんら変わることなく成立」してしまった時点で内容の雰囲気に合わせた場所選びという、新鮮さを安易に求めた付加価値的判断以上のの効果が認められない、結果として小手先の処理が露呈したことを証明してしまっているのだ。


こういったことを含め、劇が上演される公共・私設劇場を取り出してみれば、その用途は単に貸し小屋的に利用されているのが実状である。大阪の劇場で劇現場へと積極的に介入し、演劇状況を作らんがためにオルグする「活きた」劇場を挙げるとなればウルトラマーケット、精華小劇場、ウイングフールドくらいしかない。OMS(扇町ミュージアムスクエア)、近鉄(小)劇場の閉館と入れ替わるようにして誕生したウルトラマーケットは、南河内万歳一座の内藤裕敬らによってコンサートホールの巨大な倉庫を劇場へと変貌せしめた。小学校を改装した精華小劇場も同時期に創設された劇場で、貸し館を行わなずに組織された実行委員会がセレクトしたラインナップによる年四回の「精華演劇祭」による活動が主である。15年の歴史を持つウイングフールドは収容人数100人ほどの本当に小さな空間から数多くの劇団を育て上げた老舗劇場である。この三つの劇場をしても、個別に独自のカラーを出しつつも決定的に欠けているのが、すきまをぬって活動せざるを得ないこの現状打破への連帯する意思である。結局オルグするのは自分達の手の届く範囲内にとどまってしまっているのだ。そもそも隘路に陥っているという前提に対して無自覚である中ではそういった発想も出てくるはずはない。


ただ、文字通り「すきま」を押し広げるための全体運動というものが劇団側にも劇場側にも欠けている、そのことが大阪の演劇の貧しく長い沈黙状況を引き起こしているように私は思えてならない。さらに一方でそういった「真面目」な問題を横目に見ながらしたたかに「小さな芸能界」を形成する者達がその貧しさを逆証しているという構造を剔抉する手立てとして何があるだろうか。その可能性として一つの舞台をここに召喚してみたい。


仙台の劇団 三角フラスコ がウイングフィールドで公演した『約束はできない』(4月21・22)である。大雨の降りしきる中、川の氾濫から避難の為コミュニティーセンターに集った四人の男女の一夜を描いたこの舞台が特徴的なのは登場人物がほとんど動かないことにある。センターのロビー、ソファに座ったきりで交わされる会話が劇を駆動してゆく。ありふれた会話劇に観客を惹きつけるのはこの動かないことによる身体制約が齎す巧みな言葉のイメージ浮遊である。人物それぞれの頭上にゆっくりと投げ出された言葉は、あたかも無風状態で吐き出される紫煙の、勢いよく真っ直ぐ向かった煙の塊がやがて四方八方に拡散して上空へと滞留するそのさまに「動かない行動」という形の現状打破の一つのモデルを見たいのだ。もちろん滞留する言葉が見せるこのケミストリーの技巧それ自体の美しさを実現するのは俳優が言葉=声に行動する意志を託して表情を作りせしめた力にあるのは言うまでもない。





なぜなら同じ関西であっても京都の演劇が独自のユニークな特色を出しているのはまさに上記の実践が取り行われているように思われるからだ。差異の消費的論理であくせく動き回るほど非効率的になるばかりで、大阪の劇状況は地盤沈下に歯止めがかかることはない。





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Last updated  Apr 28, 2007 09:39:25 PM


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