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Jun 25, 2007
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #65(舞台)

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桃園会  『a tide of classics』
兵庫県立ピッコロ劇団 『場所と思い出』

6月16日 ウイングフィールド マチネ
6月17日 ピッコロシアター マチネ


記憶のある風景


生きている限り我々は日々誰かと接し、何かを見聞きし、物の質感を肌で感じ続ける。それらの堆積が記憶となる。それは準拠枠として耽溺することで保証される、現時点での私性の一助であり、未来のあり得べき自己への視座を見定める里程標でもある。同じ根から出る異なったベクトルが人間を支えている。


言うまでもなく、その日その時に起こった出来事を逐一ストックできるわけではない。主に睡眠時に行われる大脳での取捨選択を経て、重要度の低いものは葬り去られることになるのだ。だが、外界から与えられるふとしたきっかけによって、葬り去られたはずの記憶が潜在意識下の無意識領域へ引っ張りだされ、それを契機に芋づる式に過去遡及の時間旅行を送ることを私達はしばし体験する。対人はもとより、記憶誘引作用をもたらすのは物や景観によっても成されるから、それらも固有の意志を孕んでいると言えるかもしれない。もしくはそれらに、「今ここ」に生きているという同時代性を得るための恣意的な自己鏡像を投影しているのかもしれない。いずれにせよ、良くも悪くも種々様々に渦巻く記憶を拠り所にしながら私達は有機的生命を前駆させている。


そういった意味では身体の奥深くから同心円状に広がるように、記憶というものが我々の生殺与奪を握らんばかりに支配的に君臨することの不幸がある。しかし、それが基となって派生する種々の行動こそがドラマ=対話を立ち上がらせる原初的なものでもあるのだ。


記憶を巡る二つの舞台について触れていきたい。岸田國士戯曲の上演に挑戦した桃園会『a tide of classics』と別役実戯曲を松本修の演出で上演した兵庫県立ピッコロ劇団『場所と思い出』である。


未見であるが、深津篤史の岸田戯曲演出については、評価を得た05年新国立劇場公演の『動員挿話』(読売演劇賞 演出賞・作品賞)が先行しており、『紙風船』『驟雨』『留守』『可児君の面会日』の四本をまとめた今作は、それを踏まえた上での試みであろう。日替わり上演のため、私は『驟雨』以外の作品を観劇できた。


結論から言ってしまえば時代風俗は異なるが、日常世界に住まう市民のちょっとした内面の襞やニュアンスを丁寧に掬い取って心象風景として立ち上がらせる、岸田戯曲の完全なる「文学的世界」に心地よく浸ることが出来た。確かに「静か」系と称される、日常の淡々とした一コマを切り取った作品の洗礼を浴びせかけられた90年代演劇を通過したからこそ、こういった作品を受容する素地が形成されているとは言える。いや、「静か」系の特徴である、円卓を囲んで繰り広げられる、平穏な日常を一歩外に出れば、我々の想像だに出来ない悲惨で無意味な権力闘争が世界史レベルで勃発しているのだという、ふり幅を対比させるという政治的効果は少なくとも今作でセレクトされた岸田戯曲にはない。あるのはただ徹底した小市民の戯言にも近い卑近な日常現実世界なのである。


日曜日の午後、ささやかでとりとめもない会話を交わす夫婦(『紙風船』)、主人の居ぬ間に近所の噂話に花を咲かせる女中(『留守』)、月に一度の面会日に面会客が殺到してしまい、右往左往する小説家(『可児君の面会日』)といった具合に、日本の歴史においてエアポケットのように泰平だった大正期をそのまま表した、足元の暮らしをゆるやかに送る登場人物達の振る舞いや生活感は、限りなく日常であることで限りなくしあわせで、限りなく明るい。『紙風船』で描かれる夫婦の妄想会話にしたって、退屈を持て余した暇つぶしには違いないが、そういったことが時折顔を出すことも含めてしあわせな日常なのであって、決して内向的でなければ孤独感や絶望感も感じさせない。したがって、言葉や振る舞いは全て外部=他者へとやさしく投げかけられる。


私は舞台を観ながら、岸田國士はベケット的世界の真裏に位置する作家ではないかと思った。つまり、『紙風船』の夫婦は『ゴドーを待ちながら』のウラジミールとエストラゴンである。両者は退屈を過ごすという共有項目を境にしながら、絶望的状況の中で自己内省的に苦心惨憺やり過ごさねばならないベケット戯曲とは陰陽の位置に岸田戯曲がある。ただ、以上の現出に寄与しているのは、戯曲はもちろんのことだが、桃園会の舞台に常に張り付く観客の心理を宙吊りにする奇妙な空白を排した演出があってこそである。それに加え、『紙風船』で見せた江口恵美の上品でしなやかな演技と『可児君の面会日』で橋本健司の演じたコメディセンスの良さといった、役者陣の巧みさも抜きにはできない。


この舞台が見る者に触発するのは、かつてあった安穏でのんびりとしたしあわせな日々である。それに呼応して我々は同様の記憶を奥底から再び引き起これるのだ。岸田戯曲に描かれる対話が現代性を持っているとすれば、幼児の記憶、あるいは時代回顧・追憶の喚起という過去耽溺が一つにあるのかもしれない。しかし、とどのつまり記憶は記憶でしかない。個人の記憶とない交ぜとなった既視感を抱きつつも、劇場を一歩出れば殺伐とした飼い殺しの社会が猛スピードで目の前を走り抜ける。この落差を改めて明瞭に突きつけられた我々には、現実との格闘の日々が待つ。


潜在下に仕舞われていた記憶が外部作用によって誘引されて、自身の記憶と混濁した結果既視感を抱かせるのが桃園会の舞台であった。それが、何者かによる意図的な操作だとしたらどうか。ピッコロ劇団『場所と思い出』は、記憶の耽溺に浸らせようと人のいい顔をしてひたひたと忍び寄る外部作用の恐怖を描く。ここでは、既見感という共有風景を個々に喚起させてある効果を齎すことが、心優しさを装った管理する側の思惑でしかないことを示す。記憶というものが、自分の記憶、思い出だと言い切ってしまえばそれを受け取った他者は客観的に証明の仕様もない。バスを待つセールスマンにとってなんの思い入れも滞在する理由もない場所。バスが待てども待てども来ないばかりにその場所に住んでいると思しき人々の思い出に翻弄されてゆく。


会話のささいな齟齬から蟻地獄のように神経症なまでの追求を展開する論理的なドラマツルギーが別役劇の特徴であり、その表出はたいてい、確たる自己基盤を形成している一人の男が召抱えている記憶=アイデンティティに他の人物が揺さぶりをかけるというものである。見えない大衆の無意識の暴力という管理性に翻弄され、骨抜きにされる小市民という、一対他の構図を現代社会の映し鏡として提示する。言葉巧みにセールスマンの身包みが剥がされる過程はまさにそれを可視化したものだ。あるかないか定かでない、その場で共有されている思い出(記憶)に、ふいに付き合ってしまったばかりに破壊される自己像が滑稽に描かれる。松本修の演出も注目に値するもので、ダリの絵を想起させかのような、せりあがった後景に電信柱とポストが埋まった砂地(白いシーツで処理)は、ぐにゃりと時と場所が捻じ曲がったまま滞留した、不定位な濃霧空間のようだ。その中を関西弁を操り、妙な生活感を出す登場人物が置かれることでより不気味さが引き立っていた。


現在、ネットでは1000万IDを突破した「mixi」が驚異的な人気である。かつての掲示板やチャットよりも匿名性を配して参加できることが特徴で、そこでは一見貌を突き合わせたコミュニケーションが行え得ると錯覚してしまう。もはや極小とはいえなくなったこのサイバー空間で氾濫する個人性とはしかし、自由に脚色された仮想自己というデータ記憶で溢れる虚構空間でしかない。現実と虚構の隔たりがどんどん薄くなる中、演劇の果たせる役割についてもっと意識的になる必要があるだろう。今年、虚構空間にこれ以上なく耽溺可能な『セカンドライフ』が米国から上陸してくる。





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Last updated  Aug 25, 2009 09:58:20 PM


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