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Jul 20, 2007
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #67(舞台)

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デス電所

7月15日 HEP HALL ソワレ

デス電所


眼の置きどころ


ニュートラルな視点で舞台を感得することは可能か。


演劇が成立する場で最も激しく強烈な訴求力を放つのは、舞台上での行為一切であることに間違いないにしても、関係する諸々の要素がたとえ気づくことはないにしろ、ひっくるめ投影されたものが演劇の場であるという認識も必要となる。野外やテントといった明らかな特異性が外化した劇場空間は、場に集う者を劇世界の虚構へと誘うには格好のマテリアルである。観劇行為が非日常への能動的な投企であるとすれば、異空間であればあるほど陶酔度が励起する、御誂え向きな祝祭空間への変貌が最も効果的に設えることが可能となるからだ。


しかし、それがサブリミナルのようにある方向への作意に働くとすればどうだろう。そういった非日常空間の居心地の良さに安寧とすることは、舞台から情報をただ享受するだけの思考停止状態に身を置くことを示す。特色・傾向(カラー)といったあらかじめ了解済みの先入観によって、取りこぼしてしまうものが意外に多いことにも蓋をしてしまうのではないか。


日常生活を「正当」に営むこととは、常識・制度に馴致され思考停止になることを意味する。であれば、ニュートラルというフレキシビリティな視点、もっと言えば演劇の本来の存在価値とは、思考停止状態からの峻拒する意志にこそある。すなわち「日常=非日常=馴致への没入」という生産性のない日常の単なる並行移動ではなく、「日常≠非日常→思考回路」の再始動を。ただ所詮、制度側に組している我々のこと、ちょっとした制度側の影響からも自由ではない。ニュートラルな視点を持つことの困難はそこにあるのであり、真の能動的観客が生まれるのはこの闘いに自覚的である限りにおいてでしかない。


例えばデス電所『輪廻は斬りつける(再)』の場合、ニュートラルな視点を崩さんとするのは私の隣に座った観客であった。しかし、終始私の集中を途切れさせるリアクションを取るこの男性と公演内容とを照合させることもあながち無理なことではないかもしれない。男性は過剰に笑う。まるで自分がこの劇団の最も濃いファンであること、ひいては年季の入った演劇ウォッチャーを主張するかのように。舞台のはじまりは意表を突いたものだ。客演の俳優達が「今からこの舞台を○○(所属劇団名)の稽古場として占領する」と宣言しながら現れ、彼らだけで「デス電所のテーマ」をさっさと歌い踊ってしまう。その後、満を持して劇団員達が登場、全員でのパフォーマンスへと連なるオープニングの見ごたえ十分な畳み掛けは、キャリアを積んだ劇団だからこそ獲得できる確かな勢いが結実したショーである。この部分の観る者を一気に劇世界へと引き込むに余り有るセルフプロデュース力は憎らしいほどだ。男性に私が驚かされたのも、この間の過剰なまでの笑いと逐一挟まれる合いの手によって「らしく」振舞う様だったのであり、それに辟易とすることで自然、集中力は拡散されることになる。以後、私は彼のリアクションと共にこの舞台と接することを余儀なくされた。


興味深かったのは、男性があまりにも自分に正直な観客であったことで、あれほど意気揚々とリアクションしていたにもかかわらず、その気配が消えたと思って見ると、ドラマ部が展開しはじめると途端に眠りに陥っていたのである。男性の明瞭すぎる正直さがかえって、この作品の評価と観客像を考える上の指標となるのだ。一人のヒロインに物語の全てが収斂してゆくというこれまでのメロドラマ形式からの転換が、近年のデス電所の特徴だが、その点だけを取り上げれば今作にも表れている。ただ、五年前の作品を再演したものである点、はたしてどこに改訂が加えられているのかは定かではない。


タイトルにあるように今回は「輪廻」を断ち切ることに意識が働いている。現在進行形の歴史、その最前線に在る我々を支えるのは、想像だにすることのできない万物の誕生と人類によるここまでの有史時代の過程である。しかし所詮、記述された歴史が示すのは、僅かな差異を含みつつ繰り返されてきた業と欲のための懊悩・煩悶・迷妄の悲劇である。断ち切られるべきは、瑣末な欲望による悲劇の輪廻と誰しもが思い至りながら、決して達成することのできない諦念という共通了解事項に基づく壮大な問題である。そのことが直截語られることはない。舞台上では一直線に流れる物語という制度を拒否するかのようにバラバラに進行する三つのパラグラフシーンが展開される。





一旦メロドラマ的終末を迎えるかと思わせ、現実世界への踏み込みへと移行する劇構造の巧みさは目を見張るものがある。しかし、もう一つ私の胸に突き刺さる何かがないように思われた。それはやはり批評性の欠如とまではいかないものの、現状認識への甘さが感じられるからではある。小さな諍いもテロ・戦争も全ては根を同じくするクズ人間の性根と
いう病巣を撃つ切っ先が、ギャグと笑いを前提とした容器にうまく当てはまる形で加工され放り込まれている限り、作家の想像力に留まり続ける。バラバラに進行するシーンがうまく束ねられてゆくあたり、それの端的な表われである。方法のための方法の模索は、安寧とした位置である日常=非日常=馴致への没入と変わらない。少女がほうれん草に生まれ変わったら云々が辿り付く落し所が、輪廻の断ち切りとは正反対の幻想・願望への逃避でしかないように私には感じれれた。


以前、『夕景殺伐メロウ』の劇評で、「オタク世代のナイーブな人間性を直接テーマにしてはどうかと思う」と書いた。今作はそういう意味では、オタク世代自身のメロドラマであると言える。しかしどうも私自身は、現実原則への切実な問題意識を持って立ち向かうことへの希薄さが、取り巻く世界をあたりの良い世界(スタイル)へ都合良く切り貼りし、その中で遊びきる感覚に同調できない為に乗りきれない、あるいは乗ってしまってはいけないと思う部分がある。それは、演劇の商業化への抵抗とも換言されるものかもしれない。


役者連は総じて良かったことは記しておかなければならない。適材適所に役設定が与えられており、俳優の持ち味が遺憾なく発揮されている。特に、ツッコミの役どころを中心に担う丸山英彦が良い。笑いながら人を殺すシーンに見られる狂気具合との落差が光っていた。


さて、隣の男性客である。彼の感想はもちろん知る由もないしやはり邪推すべきではない。内容の是非と個人のリアクションをあげつらうよりも、商業ベースに則ったものに対する受容の仕方と大差ないことに照準を合わせるべきだろう。ショー部分に異様に興奮し、ふと気づけば居眠する姿からは、安定する制度へいささかも楔を打ち付けない作品に則った観客が補完することで完成をみる、岩盤な安定構造の典型がある。思考停止状態で満ちた空間に他ならない。


男性は私の注意を舞台と等価に引き続けたと言ってもいい。それは注意の散漫に繋がったことは冒頭に書き付けたが、それが舞台への過度な集中の外から客観的位相へと身を置き、男性客を介して舞台と観客の間に生成する想像力をつぶさに観察しようとすることは、ニュートラルな視点獲得への手がかりとなるだろう。


行動する能動的観客は座りながら実験をする者のことである。





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Last updated  Jul 20, 2007 03:19:03 PM


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