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Apr 30, 2008
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #81(舞台)


ピッコロ劇団

4月27日 ピッコロシアター中ホール マチネ


図らずも描出した共同幻想の不可能性


1980年に竹内銃一郎の作・演出によって秘法零番館で上演され、第25回岸田國士戯曲賞を受賞した『あの大鴉、さえも』を文学座・松本祐子の演出で、ピッコロ劇団が上演した(配役Aのみの観劇)。私はこの作品を、茂山正邦、茂山宗彦、茂山逸平が出演し、竹内自身が演出したものを観ている(03、近鉄小劇場)。両者をつき合わせてまず顕著な違いを感じさせるのは、俳優の演技の点である。何と言っても舞台の要は不可視の重いガラスをいかに「見えるものにするか」ということであり、その出来の差が作品全体の行方を正反対なものにさせたと私は考える。


三人の独身者が共同でガラスを運び、山田家へ届けようとするこの作品は、中腰の姿勢を維持したまま動き、喋るシーンが多い。それも三人が歩調と手の置き所を一致させねばならない。茂山兄弟は伝統芸能で培った様式性を強みに、重心をしっかりと落とし安定した下半身が舞台を支え、各々のガラスを持つ両手の開き具合も均等が保たれていた。トライアングルの中で場所を入れ替える際も、ガラスの角が分かるくらい意識的に動かされる手の動き、それが三人に共有されているために、手の位置を結べばしっかりと一枚ガラスが浮上し主張してくる。実際の兄弟という息の合ったアンサンブルの良さは、戯曲世界の役柄の関係性と見事に合致し強固な連帯性を生み出す。それが念頭にあったため、ピッコロバージョンの、孫高宏を中心とした身体から迸るエネルギー量の暑苦しさに関心するものの、肝心のガラスを持つ左右の開き方の不同率が、ガラスの存在を非常に脆いものにしてしまい、見えないガラスの可視化が十分達成されなかったのだ。

舞台の精度に関して一歩を許した感はあるがしかし、不安定なガラスはかえって戯曲の立体化に奉仕し舞台機構に収まってしまうことから開放しアクチュアルな響きを私は感得もした。どういうことか。ガラスとは何なのかは観客それぞれが思い描くものでしかないが、誰一人も欠けることの許されないギリギリの範囲で成立する重要物であることには変わりない。つまり、三人が揃ってはじめて現出する共同幻想なのだろう。ガラスはない。ないものをあるように振舞うことにこの舞台のシアトリカル性が孕まれている。目的地近くだと思しき「三条」の表札が掲げられた白壁で途方に暮れ、独身者1が親方へ道を聞くために電話をかけに行き、残された二人が玄関口を探すためにガラスを運んで行く。何もない空間に戻ってきた独身者1は、二人が逃げたと思って一人で大気合を入れてガラスを高々と持ち上げた所に独身者2(奇異保)と3(橘義)の帰りが鉢合わせ、ガラスが2枚になるシーンは白眉である。ガラスはどこにでもあると思い込めばそこにあるという三人の共同の思い込みが成立させる。それは連帯するための個人を超えた目的や主義へと変換することもできるだろう。山田家へとガラスを運ぶという目的の階層下に位置するのがこのガラスであり、また、三人の独身者達の人間関係がガラス自体にまつわるあらゆるメタファーへと湧出してもいる。しかし、今現在ではその共通理念は成立し難い状況に私達は生きざるを得ない。それは戯曲に既に示されているだろう。山田家と思しき家は三条家であり、しかもポルノ女優の三条ルミと童謡歌手の三条はるみ、二人の三条さんが候補者として上げられ、山田さんと三条さんの像は一向に焦点を結ぶことなく、目的が虚構化されている。ピッコロバージョンの不安定なガラスは、共同幻想の支柱が外部に存在せず、それ故に個人で内化し完結され且つ個々に分断されたものをギクシャクしつつ、なんとか互いに接木してやり過ごそうとする人間のメンタリティーの謂いなのだ。

ラストシーンに着目すると、両バージョンのガラスが齎す意味の変化がはっきり了解できる。三人の人間関係の破綻に沿うように、砕け散ってしまったガラス。しかし前述したように想像力で再びガラスを復活させ持ち上げた途端、三条家の勝手口が開く。茂山バージョンでは、その勝手口に合うように三人はいとも簡単にガラスを縮めてしまう。そして白壁全体が大きく開口し草原が出現した中へ三人が楽しそうに突入するという、楽観的な大団円を迎える。対し、ピッコロバージョンでは、大ガラスがぴたりと嵌るスペースしか白壁は開口せず、想像力で以ってガラスを変化させることもなく重々しく運んで入っていく。その際、バックライトを浴びた三人は、祝祭とはまるで無関係で、寂しさと苦痛を我々に与える。この差が示すものはつまるところ、共同幻想の創出度と昇華度の時代相におけるそれであろう。ガラス=共同幻想を自由に変化させることができるのは、強固な連帯性を
持ち得るという前提が必要条件であるが、あらゆる意味で社会通念という、個人を覆い包んで馴致させる制度、そしてその限りにおいて安住していればとりあえず自己承認を獲得できるものが表層から霧消し、個人的内化へとベクトルが移動した。それは人間を繋ぎ止める倫理規範が空中分解したということである。茂山バージョンのガラスの変化が、三人の男の積極的意志の介在であれば、、共同幻想が当たり前のように成立していることが感得できる。ミニマルな共同幻想を成立させるには、それに先立つ共通理念がなければならないのだ。ピッコロバージョンのガラスの不安定さは、その理念の失効に伴った個人の孤人化状況を示すだろう。この幻想の不可能性の描出に私は現代相を射た要素を見出す。従って、この舞台の彼らは、山田さん家という絶対的な母なる子宮へ入って終わりではなく、引き寄せられる力に任せるまま取り込まれ、無限円環的にまたガラスを運んでいく迷走を繰り返すだろうと用意に想像できる。目的が次々に先送りにされ、行動はどこまでもそれを追い続けるという受動的人間がこの舞台で強烈な印象を残した。

以上のことに関連して、今回の観劇で改めて気付かされたのは、この作品の性的メタファーの側面である。勝手口の隣に取り付いた二つの蛇口から滴り落ちる水、ラストシーンで勝手口へと突入する際の「ああ あそこから 入れるんだ」という台詞等、女に挑む男のいじましい試みを喚起さる。そもそも目的地の山田さんを巡る不確定な憶測によって、絶対的母性の大きな表皮は剥ぎ取られ、男達の迷走を加速させるカオティックな吸引力を山田家は放っている。独身者達のトライアングルをぐるぐる回る関係性の息詰まりから生じるバイアスを下げるための母性的指向が、非対称的な存在であっては、逃げ場すらどこにもない。舞台機構内で終始することのないアクチュアル性を持ちうるというのは、大団円を迎えることなくどうど巡りを繰り返すだろう独身者達の姿を観る者の差し迫る問題として示したということである。

扇田明彦が「実体がなく、もろく壊れやすく、共有すると信じられないほど重いこの大ガラス=幻想を共有することでしか、人間の共同作業も『持続する志』もありえない」(『日本の現代演劇』 岩波新書)と評したが、強固な連帯を築くことの不可能性と不信という真逆の自体を表出したことが今この舞台の意義である。また、この戯曲の射程距離の広さに驚きもしたのだ。だから、もっと演出としてこの点を担うべきではなかったかと私は思う。

日常をアイロニカルに凝縮抽象することが不条理の喜劇性であり、それだけにまた悲劇さも十二分に孕んでしまうのだ。





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Last updated  Apr 30, 2009 10:58:46 PM


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