現在形の批評

現在形の批評

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

現在形の批評

現在形の批評

Category

Comments

コメントに書き込みはありません。
Aug 27, 2008
XML
カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #86(舞台)

庭劇団ペニノ

8月20日 ザ・スズナリ マチネ


子供の登場した理由と効果


小劇場の舞台に子供が役者として登場することは珍しいのではないか。ラヴェルヌ拓海という7歳ほどの子供は、「二年前にフランスから日本に来ました。読み書きはまだ勉強中です。全く舞台経験の無い男の子」であるという。そして、「役者達が拓海君の教育プログラムのために『擬似家族』を演じます。(略)これは拓海君のための公演です。」との前置きが、事前に配られた「あいさつと観劇の手引き」には記載されている。そのような子供に台詞を覚えさせ、舞台の段取りを身体化させ、最終的に衆目の前に立たせようとすることは容易ではない。なにしろ、子供は熱し易くまた冷め易いという意味で、物事の面白い/面白くないを残酷なまでに素直に察知する非情な正直さを持ち合わせているからである。


私は舞台を観ながら演劇上のテクニック云々よりもまず、どうしたらこの子供が飽きることなく、集団的力動による作品の高次の完成を目指し、ひたすら同じことを繰り返す稽古に根気強く耐えることができるのかが問題だったのではないかと思わされた。なにしろ直前で投げ出したりすればその時点で本番が無事に迎えられない。その綱渡りをタニノクロウはじめ、出演者の側がその点で試されているのだ。つまり、子供を舞台に上げることが表層的な新奇さのためだけに彼を育成するのではなく、演劇人として舞台に臨むことの倫理的規範をその行為を通じて今一度、手元に刺し返される自らの問題として捉えようとする一つの方法だということである。舞台経験のない子供を役者として起用することの意味が、その当人だけでない波及力が帯び始めた時、教育者自身が教育されるという回路が出現するのだ。加えて我々観客にとっても、うまく事が運ぶように半ばハラハラしながら注視することになり、舞台における身体というものをより前景化させるような観方もまた要請されてくる。一個の身体を媒介にして、舞台を創ること、あるいはそれを観ることの特異性というものの覚醒が、子供を登場に孕む要素ではないかと私は考える。


私が観た千秋楽、ラヴェルヌ拓海はうまくやり通した。台詞は相手役の受けを主体とし、長台詞を排すことでとちりがないように配慮されており、子供の無邪気さを引き出すことに費やされている。作品は、まるで子供を舞台に惹きつけ続ける手管で溢れている。マメ山田演じるウインナーマンという、何でも願いを叶えられる奇異なキャラクターと共に、家へ侵入した不信人物を追い出したり、愛人の方へと関心を移した父親の心を取り戻すための活動、そのために以前から欲しがっていた犬に仕立て上げられた母親の存在等、作品内に溢れる突拍子もない展開は、そんな子供の一時の夢で経験する一種の冒険活劇、あるいは夏休みの自由研究のように読み取ることが出来る。大人達の方はその物語に付き合う内に家族関係を再確認するという訳である。従って、大人-子供の主従関係の境界がゆるやかに融解する様がほんわかした安息感すら味合わせてくれるのだ。その最たるものは舞台ラスト近く、酒に酔った父親が、子供が欠かさず水遣りしていた家庭菜園を滅茶苦茶にした後、犬となり首輪を付けた母親と三人で花火をするシーンに漂う、ただならぬ状況であるにもかかわらずに流れるゆったりとした時間の美しさに結実している。


「役者達が拓海君の教育プログラムのために『擬似家族』を演じ」る。なるほど、確かにそのように見える。「1限目社会のじかん」「2限目家庭科のじかん」「3限目体育のじかん」「4限目道徳のじかん」と、4つの授業が学校のチャイムの鐘と共に字幕表示されることからも、ラヴェルヌ拓海への教育劇という側面は確かにあるだろう。しかし、そのために大人が教育を施して何かを教えるため、「擬似家族」を演じていると捉える構図はいささか傲慢ではないか。それほど大人の権威というものは失墜したものとして今あるからだ。擬似的に役柄を演じる者同士によって虚構の共同体をでっち上げるという、つかこうへいの劇世界に登場する演戯人間という人間の在り様は、それを可能とする基底自己がたとえ偽りであるにせよ確立されていなければならない。そのことによる落差が出てはじめて、人間を社会性にまで拡大する客観的視座からの悪意ある批評性が成立するからだ。それを最後に共有できた80年代までは、現段階のつまらない基底自己と懸隔した、狂騒的で躁状態への浪漫飛行幻想があったからこそ、換言すれば現実と虚構との境界線がまだ見えた時代だからこそ、「擬似」や「擬態」といった方法が有効性を持ちえた。だが、情報の網が身体の実感し得るレベル以上の飛翔性を見せる当今では、その情報の網に一旦放たれ自己増殖を繰り返す擬似自己は遠隔操作であるが故に起点が消失してしまい情報それ自体で完結する記号となっていしまっている。同じ「擬似」「擬態」でも、その内実に潜人間性の有無の点で、その意味は千里の径庭があるのだ。


大人の権威の失墜、演戯人間の無効性の2点は、誰もが抱く確かな善なるものの幻想が成り立たなくなっていることを示すものである為、この舞台が単なる子供の教育プログラム劇と見るのは瑣末なものでしかないと私は思うのだ。事実、舞台が始まってしばらくの、茶の間での食卓風景と後半部分の花火のシーンとでは、明らかに後半部分の方が家族の在り様としては異様である。にも関わらずこのシーンに家族の本質があるように感じられるのは、家族の雛型と呼べるものがどこにもなく(むしろ前半部の幸福な図こそ擬似家族的であろう)、その時々の関係のとり方を模索することしか方策がないことを、この件のシーンが示し、一つの達成が描かれているからだ。共同体の雛型、人間存在の雛型と呼べるものはどこにもない。無垢で無邪気な子供が実はそのことに一番敏感であり、家族としての実感を得るために子供は冒険を始めたのだ。だからこそ、大人-子供の主従は融解されて然るべきであり、またそのようなフレキシブルな関係性を逐一模索することが今を生きるための方策でしかないことを、決して声高に何事かを主張することのない、受けの立場のラヴェルヌ拓海の存在感が発揮していることにこの舞台の良さがある。教育プログラムの側面があるとすれば、ラヴェルヌ拓海を集団力として支え、創ろうとした、この公演に関わる者達、はたまた観客の方である。ラヴェルヌ拓海の起用の重要性はそこにある。


ウインナーマンが荒れ果てた家庭菜園に沢山の種を塗した後、舞台上方へ高々と伸びる太いツル。それに登るラヴェルヌ拓海を父親同様に見る私は、今後この「俳優」を見る機会はあるのだろうかと思った。この雄姿が一時の夢で終わるには若干、侘しい。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  Apr 30, 2009 10:38:03 PM


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: