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Apr 18, 2009
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #94(舞台)

「精華演劇祭vol.12」 DIVE演劇祭―円型劇場への挑戦

2月15日~4月12日 精華小劇場

精華演劇祭vol.12 DIVE演劇祭


「精華演劇祭vol.12 DIVE演劇祭」を思考する(その1)


「精華演劇祭vol.12 DIVE演劇祭」の全プログラムが終了した。今回は、 DIVE (NPO法人 大阪現代舞台芸術協会)が主導した公演ラインナップが組まれた。テーマに「中島陸郎没後10年に捧ぐ」を据え、参加団体には中島氏が生前構想していた「円形劇場」での公演を課した。


00年代前半の関西、こと大阪の演劇状況で今も記憶に新しいのは、相次ぐ劇場の廃館・新設による浮遊感覚にさらされたことである。ただ、この時の浮遊感覚とは、老舗劇場の廃館による関西演劇人の拠り所の喪失はもちろんだが、新設される劇場を再び文化土壌に定着させんがため心血を注がねばならぬという熱情も混在した妙な興奮状態であったわけで、今から思えば目の前に目指すべき方策があった分だけ幸福だったのではないだろうか。


そう回想せざるを得ないのは、昨年府知事に就任した橋下行政によって再び劇場問題が浮上したからである。橋下行政は劇場のみならず、府や市が運営に関わる様々な公共文化施設(大阪府立青少年会館や大阪府立国際児童文学館等)の相次ぐ廃止決定という行政権力側の文化切り捨てを著しく進行させている。当演劇祭を主催する精華小劇場も管轄する市の意向で存続が危ぶまれている状況である。その一方で、自治体破綻が現実になった今、2007度末で4兆9930億円もの府債を抱える財政正常化は喫緊で取り組まねばならない事案であることは誰しもが痛感していることである。医療福祉にまで手を付けてそれを達成しようとする方法個々への批判があるにせよ、目指すべきゴールに住民の生活基盤の安定へ、という誰しもが共有可能な事項が掲げられている中では、たとえ演劇人がいくら芸術の意義を声高に叫んだとしても聞き入れ難くかき消されることは想像できる。


私が演劇に関わるようになった時は既に中島陸郎(1930~1999)は故人であったが、もし現在生きていたとしたらこれら演劇と社会の問題にどう取り組むのだろうか、と思ってしまう。なぜなら氏は、「70年後半、阪急ファイブ・オレンジルームの創設」、プロデューサーとして「10年間にわたり多くの企画を手掛け、80年代演劇ブームとなった学生劇団中心の演劇祭<オレンジ演劇祭>の仕掛け人」となり、現在まで活動する様々な劇団・演劇人を排出したことに端を発し、その後も扇町ミュージアムスクエア、ウイングフィールドといった大阪の小劇場文化の中心となる民間劇場の立ち上げに参加して環境整備に尽力したからである。のみならず晩年は、「大阪市に働きかけ」て「公設民営稽古場(芸術創造館)創設プロジェクトに民間(専門)側の座長格として参画し、2000年1月運用開始の成果を得る」(以上『中島陸郎を演劇する』パンフレットより適宜抜粋)という、行政から場の獲得を引き出す運動に関わった経歴があるからだ。このような氏の業績と、昨今の大阪の演劇状況とを鑑みた場合、今演劇祭は時宜に適ったものだと言えよう。DIVE自身も、親会社の方針によって廃館となった近鉄劇場・小劇場、扇町ミュージアムスクエア廃館後に新設されたウルトラマーケット、精華小劇場の開館を実現させた経緯がある。


今演劇祭参加団体の中で、直接中島陸郎に触れたのはDIVEプロデュース『中島陸郎を演劇する』(3月17~22日)、dracom『broiler's song』(4月3~5日)、劇団太陽族『足跡の中から明日を』(4月9~12日)の3団体である。それぞれの作品は比重の違いこそあれ、中島氏が書き継いだ戯曲や詩、評論をテクストにして構成演出し、オマージュを捧げる。戯曲『ブロイラーは飛んだ』を中心に、氏の劇世界を詩情豊かに表出しようとしたdracomの舞台空間に見られた、いくつか天井から吊り下げられた鳥肉と、その後、糸伝いにローションが垂れ落ちて鳥肉を経由して地面にボトボト溜まる光景は、アントワーヌが設立した自由劇場の伝説を想起させる。4人の劇作家(内藤裕敬・深津篤史・樋口美友喜・棚瀬美幸)の短編連作の間に氏の作品を朗読の形で差し込み、字義通り関西演劇界の総力を挙げて望んだDIVEプロデュース。劇団太陽族は、氏の辿った人生の軌跡を追いながら作・演出の岩崎正裕と思しき者が氏へ出せなかった手紙としてその想いを告白する。単純に3作品を比べて出来を云々するべきではないし、もちろん個々に中島氏への距離の取り方に差異はあるべきである。肝心なのは、中島陸郎という人物が果たした役割を今一度見据え、そしてその意志をどう受け取るか、そして後世の関西演劇界へ向けて自分達に何が出来るのかを整理することであろう。今この時、変節する状況だからこそ氏の足跡を把握し且つ、積極的に乗り越えてゆく必要が要請されているのだ。それは、「私たちは中島さんの残した<場>に立たせていただいていることを知らされ」、その上で「私たちは何を成すべきなのか。私たちに何ができるのか。問いかけたい。問いかけられたい。」(前掲パンフ キタモトマサヤ<演出者より>抜粋)というような言葉で表されるように、度々この演劇祭で見聞きす、。しかし、その観点に即した実際の出来はどうだったかの私見を先取りすれば、玉虫色で危うかったのではないかというものであった。


例えば、演劇コラムニスト中西理はブログで以下のように記している。
この作品だけではなくて、この前に上演されたDIVEプロデュース「中島陸郎を演劇する」も含めてのことなのだが、中島陸郎氏に捧げるというオマージュの気持ちはわかるのだけれど、どうしても違和感のようなものを感じてしまった。というのは、見られなかったけれど作品のリーディングをはじめ、この岩崎作品でも作品の一部を引用していたが、その紹介のされ方が劇作家・演出家としての中島氏の業績に偏っていて、「本当に彼の業績を顕彰するとしたら、それはプロデューサーとしての仕事であって、作家としてのそれじゃないだろう」と思ってしまったからだ。 『中西理の大阪日記』
「違和感のようなものを感じた」のは私も同じである。が、中西の抱いたものとは異なっている。中西の視点は、「劇作家・演出家」へのオマージュが過ぎていることにあるが、当演劇祭は、中島氏が何を関西の地へ齎し、自分たちは氏から何を吸収したのかを内省するほとんど初めての場であり、それを舞台上演という形で行おうとするからには、「劇作家・演出家」として中島氏の書き綴ったものをテクストにすること自体は演劇人として真摯な取り組みであろう。また、氏のプロデューサーとしての側面しか知らなかった者にとっては深く氏を理解する機会にもなるため、むしろ自然な流れではないだろうかと思うのだ。別段、この場合は劇場獲得運動といった環境整備ではないのだから、舞台創作なら氏と同じ土俵に立つべきだ。中西は、顕彰すべき「中島氏のプロデューサーとしての最大の功績で、今回の精華演劇祭が中島氏の「没後10年に捧ぐ」というのであればそういうところを顕彰するような企画にすべきではないかと思うのだが」と記す。私は参加しなかったが、中島氏にゆかりのある演劇人を呼んで、氏が生きた時代別に3度の シンポジウム を催したり、経歴や人柄をフォローする 展示や前夜祭 も用意周到に用意されている。そこでは、中西も触れるプロデューサーの側面はもちろんのこと、最初期に月光会という前衛集団を率いて実験的な舞台活動をしていたことも含め、中西が要請するオマージュを多面的に語る場が用意されている。繰り返すが、その上で、氏への理解や検証に留まらず、いかに中島陸郎という男を乗り越えるかという挑戦の意志がたとえ萌芽としてでもいい、あったのかどうかを問うべきであろう。私の関心はソフトパッケージ云々よりもその内実において、中島氏の手の内から飛翔しようとしたかどうかにあるのだ。玉虫色の危うさはこの文脈での問題である。そのことを、『中島陸郎を演劇する』のラストシーンと劇団太陽族の『足跡から明日を』のある場面に絞って見てみたい。 (その2) へ続く





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Last updated  Apr 25, 2009 02:34:32 PM


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