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Sep 28, 2009
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #98(舞台)

こゆび侍  『はちみつ』

9月26日 王子小劇場 ソワレ

こゆび侍『はちみつ』


共依存する関係


一匹のはたらき蜂が一生に摘むはちみつは、スプーン一杯でしかない。それを女王蜂に全て献上する。劇中、はちみつ屋の店長・園部有紀子(佐藤みゆき)がアルバイト店員・山岡朔太郎(安藤理樹)に語った台詞である。女王蜂とはたらき蜂の関係には絶大なるヒエラルキー構造がある。それはまた、生命維持としての本能が働いているためとも言える。もちろん、蜂の気持ちなど知りえるわけはないが、ただそうなっている、そうせずにはいられない宿命というものを感じさせる。


この、献上する者とされる者という構図が提示する共依存、あるいはサドマゾ関係を男女間の愛憎になぞらえたのがこの舞台である。恋愛を巡るあれこれは所詮、当人同士の問題であり、第三者らすればくだらなく、どうでもいいことである。なぜなら恋愛とは幻想を見るものだからだろう。恋愛真っ最中の当人たちと、その他の人間とは世界位相を異にしているからこそ、恋愛中は今まで何とも思っていなかった事柄までが素敵に思え、世界全体が自分達を祝福している、なんてことを平気で言い放てるのだ。だが、それもどちらか一方が幻想から目を覚ますまで。第三者的冷めた視線を持つことを全うだとするならば、いまだ幻想を見るもう一方は途端に滑稽に思えてくる。この時、明らかなヒエラルキーが生じる。主導権を得た前者は、以前のように幻想を見、維持できた日を取り戻そうと愚かな努力をする後者をいい様に扱うことができる。女王蜂とはたらき蜂のアナロジーとはこのことだろう。その関係から派生する愚かなまでのファナティックな感情はまた、子孫を残すために備わった悲しい性である。また、冷静にそれをそれとして把握していたとしても、いざ渦中の身になるといてもたってもいられなくなるのが、恋愛の割り切れない不可思議さでもある。


霧島ニーナ(ハマカワフミエ)を想う朔太郎と、櫻田つよし(NARU)を想う有紀子は、愛に依存しそのことで自身の存在証明を保っている。あらゆるものをかなぐり捨てて尽くす、それこそが喜びであり活力と言わんばかりに。サドマゾ関係にも似た、半径5メートルの世界で汲々とする人間を、作・演出の成島秀和は肯定的に描いている。


愚かな被害者にしかフォーカスが当てられていないことが、この舞台の弱点ともなっている。確かに、ニーナ、つよしは女王蜂的存在であるが、ニーナは小松邦雄(板橋駿谷)というちゃらいダメ男に貢ぎ、つよしは妻のすみれ(根岸絵美)を第一義に愛しているという様に、相手が変われば彼らもはたらき蜂の存在でしかかない。人は所と相手によって両方の立場を往還する存在であり、またそうならざるを得ない。その点を強調すればより深みのあるドラマになるのだが、朔太郎と有紀子の心情を描きすぎているために、主観が過ぎるメロドラマになってしまった。


原色のパネルがいくつも吊り下げられた鮮やかな舞台美術。段を上げた上手奥にはちみつ屋が設えられている。はちみつ屋の床がカーブして上手手前まで伸びている。ここは、メイド喫茶や朔太郎や櫻田家の自室のテーブルとして使われ、下手手前の本棚と四角柱の箱のあるスペースがキッチンや飲み屋になる。自由に場所がその都度変わるスペースだ。下手奥には櫻田家が営む花屋の一部が見えている。抽象性とリアルさが程よく合わさった舞台空間で物語は展開される。


映画監督を夢見て仲間と自主映画を撮っている大学生の朔太郎は、他に男ができてフラれたニーナにそれでも運命の人だと言って憚らず未練たらたら。他ならぬニーナを主役にした自信作をコンクールに出品し、入選することで認められ寄りを戻そうとしている。当のニーナも既に朔太郎への気持ちはないが、新しい男も映画を撮っているため、技術を教えてやってほしいなどという都合の良い理由でちょくちょく会っては朔太郎を翻弄する。朔太郎は知ってか知らずかニーナの願いに答える。ある日、働きもしない小松のために映画の製作資金を工面するため風俗で働くと朔太郎に告げるニーナ。朔太郎は、所有する映画のDVDを全て売って金を作り、次の映画を撮るための資金と入賞した暁に得られる賞金を全て渡すことを条件に説得する。愛するニーナをいかに美しく撮るかに苦心した末に完成した映画は、ニーナのものだとまで告げる。全てを捧げて尽くすことがニーナを誤った道に行かせない方法であり、もっと言えば酷い男とは別れて寄りを戻すことこそが幸せなのだと朔太郎は信じて疑わない。そこには尽くす者の思い上がった気持ちが透けて見える。だから案の定、一夜を共にして最高潮の朔太郎を突き落とすのは、金とパソコンを盗んでニーナが逃げたという事実である。ニーナの家へ駆け込んで返却を求めても、「私の物だと言ったでしょ」と言い放たれる。挙句には小松に押し倒され、顔面をニーナに踏まれる始末。ここでようやく朔太郎は現実を知る。


一方、有紀子は30歳独身、男なし。大層な夢はないが日々の仕事に邁進する女性…… と朔太郎に思われていたが、ある日渋谷の路上でつよしと不倫する現場を見られてしまう。金を貢ぐだけの報われない不倫を詰問され、「真剣に不倫している」と答えるしかない有紀子。そのことは、良妻賢母のさゆりも知っていた。言葉ではなく証拠を示して欲しいとつよしに囁くさゆりからは、女の隠された執念強さと怖さが見て取れる。


この舞台で最も見ごたえのあるシーンは、櫻田夫婦が朔太郎だけに告げて突然引っ越しただけでも有紀子に十分ダメージを与えることになるにもかかわらず、店に忍び込んで二人がめちゃくちゃに破壊するシーンである。貢がせ、持て遊ばれた有紀子と、夫を奪われた妻。その間に立つつよしは、妻の一言によって有紀子の全てを破壊するのだ。つよしとすみれが共依存関係だからこそここまでのことができるのだろう。良くも悪くも人は人を操作できる。男女間が齎す関係性はいびつさと不合理さで溢れている。それは三角関係だからこそ良く顕れたのだ。こういった点をもっと掘り下げてもらいたかったと私は思う。


だからラストは再びメロドラマで終始するしかない。傷心した有紀子の店に朔太郎がやって来る。ガレージの閉まった花屋に怒りをぶつけた後、嘘で良いから「愛してると言って下さい」と言う朔太郎に、有紀子もまた同じことを要求し、何度もその台詞を言い合う。すると、荒れ果てた店にミツバチが高く舞い上がる音が聞こえて、幕。有紀子と朔太郎との新たな関係、あるいははたらき蜂であるという生き方の肯定かもしれないが、とにかく希望のような余韻を残す。


このように舞台の動脈を追ってみて了解されるように、先述した愛する側の心情があまりにもストレートに描かれている舞台である。愛の形はどうあれ、純粋無垢な想いをこれほど徹底的に描く種類の舞台は今どき珍しいと言って良い。恋愛に付き物の幻想を維持するためにいじましい努力をする人間の純粋さが全面に展開されている。もしかしたら恋愛にまつわる生命体の本能に根ざした幻想は、国家を代表する共同体を繋ぎとめる幻想が失効した後の、最後の砦なのかもしれない。しかし、それを絶対化することが不可能なのは、相手は自分とは違う生物だからだ。そこに過度に移入することはやはり危険ではないだろうか。有紀子と朔太郎と、ニーナ・つよしを対にするという単純な構図で前者を美化するのではなく、容易に立場は入れ替わるという人間真理のいい加減さや、恋愛の身勝手さをつくような視点が必要であろう。


俳優の演技も直情的な絶叫型スタイルである。私は、舞台を観ながら小劇場演劇のあるべき理想の姿をこの集団は体現しようとしてるのではないかとさえ思った。確かに、鼻白む台詞やシーンを支える俳優の演技力は高い。だが、舞台に観客がのめり込み涙を流すという作品受容はまた、恋愛と同様依存ではないかとあえて言っておきたい。それは幸福な関係かもしれないが、それでは小さな共同体からいささかも出ることができない。依存で全てを丸く収めるのではなく、そこからどのように自立するのか、そのことが重要ではないかと考えるのだ。





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Last updated  Sep 29, 2009 10:16:17 AM


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