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Oct 17, 2009
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #100(舞台)

青年団リンク ままごと  『わが星』

10月11日 三鷹市芸術文化センター 星のホール  ソワレ

わが星


メルヘンに差し挟まれる沈黙


「この世の、与えられた時代の中で生まれ、一〇〇年に満たない年月を生き、それを生涯として死んでいくわたしたち、つまり、偶然によって生まれ、生の根拠が不明確で有限な、生命存在としてのわたしたち。そこに、なにかの意味を見出したい。」と著書『なにもかもなくしてみる』で綴ったのは太田省吾であった。私は時々この言葉を思い出す度に、自身の不確かな生の根拠に思い至る。太田が語るような不確かさはいつの時代、いつの人にも等しく与えられた命題であろう。それについて嘆き懊悩し続け、結局明瞭な答えを見つけ出すことができないまま生を終えるしかない。今このように書き記していることも見出せない答えを巡る思考の一つでしかなく、そうやって考えながら死んでいくしかないのだ。翻って言えば、それらについて考えていられる間のことを「生きている」と言うのだろう。


当たり前のことだが、「私の不幸」が語られるのは私性から出発するからである。だが、この私の脳天からぐっとどこまでも果てしなく視点を引き上げてゆくとどうなるか。私という主観の他に、そこには様々な物言わぬながらも粛々と生の転換を繰り返してきた物や自然の姿を認めることができるだろう。それら物言わぬものの存在の大きさに口をつぐまされる思いをした太田は、そこからフィードバックされた視点で改めて自身の主観性を省みて沈黙という方法に至った。太田とは反対に、柴幸男は宇宙を戯れながら保持された冷めた視線で我々を見返す舞台を描いたのである。


この舞台は、壮大な宇宙の摂理と、とある団地に住む一家の日常とが同時並行的に描かれる。四畳半的日常に汲々とする私性を変奏曲的に垂れ流し続ける小劇場の舞台と最大に違うのは、この宇宙的視点があるが故である。だが、太田の舞台とは違い、ラップ調で台詞を語る饒舌さ、手を取り足並みを揃えて舞台を周回する享楽さがある。それに、何度も同じシーンを繰り返して時間を容易に想像力で進めたり戻したりする演劇的趣向にも事欠かず、目まぐるしい展開が溢れている。八〇年代の小劇場ブームの頃流行した、無垢な少年少女が一時の酔夢で見た冒険譚とはおそらくこういうものだったのだろうと思わせるに十分であった。ただ、決して果てしない宇宙と極小の日常がダイレクトに繋がって広がる物語世界へ観客を幻惑し、ただとっぷりと浸らせるカタルシス劇ではない。円形に組まれた客席と舞台空間そのものが宇宙のような広がりを持ち、操られる時間を登場人物は自由に往来するが、4秒間の休憩と称される真っ暗闇の休憩や、時報の音が我々の現実世界に流れる時間を意識さる。我々が物語に没入することを忌避し覚醒させる第3の要素が加わることで現実世界と舞台そのものがダイレクトに繋がることこそが重要なのだ。


劇中の時間の操りを見るために例えば、一家団欒の席でちぃちゃんと呼ばれる次女がプレゼントをねだるシーンを挙げてみよう。あと7日後の誕生日になったらプレゼントをあげると母親から告げられたちぃちゃんは、自らがクルクル回転して時制を瞬時に早める。その回転する姿に地球の自転解説が入る。そのやりとりを、会話の内容を少しずつ変えながら繰り返し、挙句には1年後の誕生日を引き寄せるためにちぃちゃんは舞台中央、丸くフチ取られた団欒の席の周りを一周する。地球が月を一周すると一年が経過するという解説がここにも入る。あるいは、100億光年離れた星からずっとちぃちゃんを見つめる少年が地球に近づく過程を挙げてもいいだろう。舞台の端と端で教授と称する男に、惑星間にはとてつもない距離があること、少年が今いる惑星とここから見える星との間には、その距離に等しい時間のズレがあることなどを教えられる。そのやり取りの後、舞台中央の円を地球に見たてて登場人物たちが1人また1人とそこから直線で立ち並ぶことで惑星間が表される。そして、照明と音響でカットインのように時制のワープが行われて時間と距離が自在に伸び縮みする。


だが、先述したようにこの壮大で詩的でさえある物語世界に観客を酔わせることだけがこの舞台の目的ではない。宇宙の途方もな距離や複雑さを、今ここにいる我々にパラフレーズさせる時報と暗闇の仕掛けを見落としてはならない。なぜなら、惑星間の距離や宇宙の成り立ちの複雑さがそのまま人と人との心的なそれと人間存在に相当するということへ思いを至らせる効果があるからだ。一家の両親がぞれぞれの一日の単調な生活を逐一リズムに乗せて繰り返し語るシーンでは、団地の明かりをわが家、わが星であると述べる。また、地球と月は毎年3.8センチずつ離れているという台詞は、同じ団地に住む月子とちぃちゃんの終生の関係(それぞれ仕事や家庭を持って生活環境が変化することで生まれる距離)に相当する。


すぐ隣にいる家族や恋人だからこそ、その人の心情を正確に把握し汲み取ることは困難だ。距離は開いてゆき、何億光年も離れた過去のような存在に相当してやがて消滅する。その距離を縮めるための苦悩が人の生の大きな部分を占めているとも言える。それは宇宙の真理を解明するくらいに困難なことである。


舞台は、地球の破滅を描いて終わる。登場人物が手を取り合って周回する人類の和解のようなシーン。そこに、地球に到着した少年が加わると、一人ずつその場から離れやがてちぃちゃんと2人きりになる。織姫と彦星よろしくようやく出会えた二人だが、彼らの周囲は次第に真っ赤に燃え上がる。少年の時空を越えた移動によって時間は、地球が燃え上がって消滅するという40億年後に進んでしまったのだろうか。彼らは手を取り合ったままそのまま立ち尽くす。惑星が燃え上がって消滅する中、2人の束の間の逢瀬が実現するこのシーンは悲劇的で美しい。だが、ここでも人と人との出会いの奇跡と、出会った瞬間から別れや離別というものが内在せざるを得ないということが含まれている。


そのように考えさせられるのは、時空間を飛び越えて辿りついた先ほどのシーンが、再び差し挟まれるたった4秒間という意識すれば異様に長く感じられる時間によってあっけなく打ち消されて、観客に自己内省を促すからである。


太田省吾は宇宙的視座に直面して、所詮卑小でしかない人間が身勝手な主観的営為によって自然を蹂躙していることに直面した。その結果、極度に抑制され失語症的に沈黙する登場人物を舞台に上げ、自然とシンクロする人間存在を探求する方向へ向かう。それは、消費社会が到来する直前の日本社会には許容する態度があったろうし、その後到来した初期消費社会にとっても大きな批評的性を持ち得たかもしれない。しかし、今舞台を創造する者を含めた我々の立つ地平は、消費社会が常態化して何もかも消費し尽くされた灰燼の地である。そして、身体は尚も消費するものを求めて自身の身体すら消費せんとする脆弱なものとなっている。そのような中で現実を見返すためには、慰撫的にならないように事実をただ描写することを前提に、かつて流行したメルヘン劇のような枠組みで我々を癒すことがまずは必要なのかもしれない。そのような方法が、太田が至った思考を敷衍することに繋がればと思う。





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Last updated  Oct 17, 2009 12:10:14 PM


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