後半といって良いのか分からないが、舞台空間はそれまでとは明らかに異なり賑やかになる。ミラーボールが回り、照明が派手になり、BGMとして『We are the world』が流れる。だが、誰も登場しないし、「立ち上がってください」とった指示も依然として投影される点は変わらない。むしろ指示はエスカレートし、矢継ぎ早に投影され、文字がどんどん重なってゆくくらいだ。そこに、再度重要な文言が投影される。「これはみんなの問題です」といった内容がそれだ。それが含意する意図は、この舞台の成功は観客一人一人の参加(指示に従う)次第であるという意味と、『We are the world』という音楽が孕むメッセージとの両方の意味が込められている。さらに、「歌ってください」「リズムをとってください」といった新たな指示も加わる。空疎な空間に、色とりどりの照明と音楽で満たされてゆく様に居心地が悪くなるのは、「みんなの問題です」と訴えることで、観客の自由意志に任ているように見せながらその実、彼岸の位置に立つ当の作り手が観客を先導しようとしているからである。飢餓と貧困を救うキャンペーンソングとして、全米の有名歌手が一堂に会して大ヒットした『We are the world』のように、この空間に集った者皆が参加して実りのある一時にしようぜ、というわけだ。これが煽動でなくて何だろう。そして、戯曲→俳優→観客と意味内容が伝達される「普通の演劇」とどこが違っているのかと問いたくもなる。このノリと雰囲気に付いてくるかどうかはお前ら次第だよ、だけどノッた方が楽しいし意義のある時間になるぜ、冷めてる奴がいることくらいこっちはあらかじめ想定してるしね、とクラブカルチャー=イベント的な展開が充溢する空間。これは物凄く姑息なやり方ではないだろうか。ショーケースというパッケージングがこの公演全体のコンセプトだとは既に記した。それを最も体現しているのが、これまで見てきたCASTAYA Projectの公演なのである。そして私はイベント≠演劇だと考える。だから、「いろんな人がいる。その違いを認めよう」「サンキュー」と文字が投影されて終わるこの公演に欺瞞を感じる。作り手は、こうあってほしい道筋へ観客を煽動するようにプログラムを組み、そして、それに反発する観客すら「自己責任」で突き放すのだ。そして最後に「みんな認め合おう」の文言によって肯定・否定派を丸ごと回収し、前衛っぽいものに仕立て上げる。そこには観客不在と、とことん自らを高みに置く思想が基底となっている。そのことへの欺瞞だ。