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Apr 16, 2016
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #106(舞台)

TPAM2016  ホー・ルイ・アン『Solar: A Meltdown』


2016年2月7日ソワレ KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ 

レクチャーパフォーマンスという方法


 2011年より開催都市が東京から横浜へと移行したTPAM(国際舞台芸術ミーティング in 横浜 )。東京時代は舞台の見本市としてささやかに行われていたが、横浜での開催にともなって、制作者、プロデューサー、ドラマトゥルクなどがセレクションした作品を上演するようになった。今年はタン・フクエン(シンガポール/バンコク)、コ・ジュヨン(ソウル)、加藤弓奈(横浜)、中島那奈子(大阪/東京 /ベルリン)、恩田晃(ニューヨーク)の面々が、それぞれの視点からディレクションした。他に、舞台制作者たちが出会い討議するTPAM ミーティングや、TPAM開催期間中に横浜・東京エリアで上演される舞台を紹介するTPAMショーケースがある。さらに近年はアジアにフォーカスを当てており、 今年は国際共同制作(ピチェ・クランチェン『Dancing with Death』、マーク・テ『Baling』)も行った。アジアを中心とした舞台芸術の関係者が出会うプラットフォームとして、TPAMは焦点を定めつつ規模を拡大しつつある。

 バンコクを拠点にアジアとヨーロッパで活動を行うドラマトゥルク、キュレーター、プロデューサーのタン・フクエンがセレクションしたホー・ルイ・アン(シンガポール)の『Solar: A Meltdown』は、いくつか観た今年のTPAM作品の中で、最も刺激的な作品であった。本作はマイクを手にしたホー・ルイ・アン自身が語り、適宜スライドや映像資料を使用しながら進行する。レクチャーパフォーマンスと呼ばれる形式だ。舞台上手には、アムステルダムの熱帯博物館で目にしたというCharles le Rouxのマネキンを撮影したパネルがある。こちらに背を向け、原住民がカヤックで川を渡っている絵を見ているCharles le Roux。その背中にはびっしょりと汗が滲んでいる。ホー・ルイ・アンのレクチャーはこの汗を手がかりとして、植民地に入植した先進国の横暴さを語ることから始まった。続いて、白人男性が現地女性に入れ込むことで植民地支配の効率が下がらないように、白人女性を呼び込んだことを語る。彼女たちは、入植した白人男性の妻たちだ。白人家族が現地に住み込むことは、文字通り西欧国家の拡張を意味するだろう。そのことに関連した様々な映画が引用される。特に『王様と私』 (1956年)の独自の分析はユニークだ。そこから英国女王・エリザベス2世に触れて、蔓延したグローバリズムの精神を解き明かす。最後に、グローバリズムの欺瞞性から脱却するために、Charles le Rouxのパネルに立ち返り、太陽という大自然によって、人間皆が格差なく等しく汗をかくことの重要性を語ってレクチャーは終わる。

 ホー・ルイ・アンのレクチャーパフォーマンスの重要な点は、切り口の独自性とユーモラスさである。そしてそれらが、明晰な論理に支えられていることだ。舞台下手に据えられた巨大なスクリーンの上部には、喋るホー・ルイ・アンの言葉を同時通訳した字幕が打ち出される。その下部には、語りの内容に沿った写真、映画を編集した映像が流れる。体裁は完全にレクチャーとして整えられている。単なるレクチャーとしてこの舞台を考えてみても、これほど聴衆を惹きつける講演にはなかなか出会えない。時にユーモラスさを交えながら、グローバル社会を独自な視点で解説するレクチャーに、私は何度も頷かされた。だからこそ聴衆を意識し、いかに興味を持続させるかが念頭に置かれた本作は、単なるレクチャーではなくパフォーマンスたらしめているのである。パフォーマンスに仕立て上げるための独自な視点と工夫を、もう少し詳しく見ていこう。

 先進国が入植地へと赴き調査する。その行為は、入植地への暴力である。だが、その白人男性にとっては、近代設備のない未開の地で調査することは苦行である。なぜなら、太陽という名の大自然が、彼らを容赦なく照り出すからである。彼らには汗が大量に滲む。だから白い服をまとって太陽を跳ね返そうとする。 彼らは人種的な意味だけでなく、外見そのものを「白人」にすることで、自然の驚異に戦おうとした。また見た目が真っ白な白人の姿は、入植地の人間との明確な差異を際立たせることになろう。やがて、性の捌け口として、白人たちは現地の女性と寝るようになる。そのことを語る時、ハリウッド映画を資料映像として流しながら、汗まみれになってセックスに耽る男優(太陽の汗に侵犯される白人男性)や、女優によって水中に引きずり込まれシーンを見せながら、白人男性は現地女性を支配しているように見えながら、実は生の危機を迎えていた、とホー・ルイ・アンは独自の見方をする。こういった論の展開の度に、観客は笑いでもって大きく反応した。生の危機に直面した白人男性たちは、家から妻を呼び寄せて、「家」を植民地まで拡張させることで対応しようとしたのである。ここまでがレクチャーの第一段階である。

 第二段階は、白人女性にフォーカスを当てた内容だ。そこで重要となるのは2つの要素である。『王様と私』の主人公アンナ・レオノーウェンズと、英国のエリザベス2世である。タイ国王ラーマ4世の王宮に招かれ、王子・王女の家庭教師となったアンナが、文化の違いを乗り越えて異国を理解し、王と引かれ合うまでを描いた映画。マーガレット・ランドン『アンナとシャム王』を原作としたこの物語は、いくども映画化、舞台化されている。2015年には渡辺謙が王様を演じて、第69回トニー賞のミュージカル部門の主演男優賞に、日本人初のノミネートになったことが話題となった。本作では、1956年版の映画が使用される。引用される部分は、王の子供たちに人種を越えて世界はひとつであるとアンナが歌を交えて伝える場面。アンナは裾が長く広がったスカートを履いている。アンナの歌に呼応して、子供たちは彼女のスカートを真似て一緒に踊る。子供を手玉に取ったアンナの姿から、ホー・ルイ・アンは白人女性が裾の中に全世界を取り込み、大いなる母になったと語る。ここから、現在まで続く「グローバル」という問題に接続される。今度は、その母なる存在の中心として、エリザベス2世がフィーチャーされる。『王様と私』が公開された1956年、エリザベス女王が植民地に入った時、アンアと全く同じく可憐な雰囲気で現地の人間と接した。その時、女王はまったく汗をかいていなかった。白人男性が植民地へ入植した際、太陽による汗に辟易として白い服を着たこととは対照的だ。ここに、ホー・ルイ・アンはエリザベス2世の偉大さを見る。その秘密の答えを、偶然ニューヨークの店で売られていたエリザベス2世の小型のソーラー電池に見出す。なぜなら、エリザベス2世の鞄にソーラー電池が付いていたからだ。エリザベス2世が汗をかかないのは、太陽の熱を鞄に付いた電池に吸収して、さらにエネルギーに変えていたからだというのだ。この理由は飛躍に富んだからかいであるが、むしろこのレクチャーがあくまでもパフォーマンスであることを強調し、その魅力を際立たせていた。

 そして最終の第3段階目。ホー・ルイ・アンの見立てでは、アンナ=エリザベス女王のスカートは、全世界を包摂しその中であらゆるものを行き来させる空間だ。グローバル社会とは、母なる大地が世界をひとつに支配する社会である。しかし、それだけではまだ説明が不十分である。アンナ=エリザベス女王による支配構造を成り立たせるべく、裏で奮闘する者の存在がいる。punkahwallah(手でうちわをあおぐ人)の存在がそれだ。彼らは、植民地の家の空調を手動で操作する底辺労働者として紹介される。灼熱の植民地を快適にしつらえるのは、こういった汗をかく底辺労働者の存在が必要なのだ。しかも、彼らは動く空調の外にいる。つまり、内と外の間、境界にいる人間である。その存在は、現代では家政婦 (Housekeeper)に代表される底辺労働者として存在している。人・モノ・金が自由に動き回るグローバル社会では、あらゆる物事が障壁なくコミュニケーションすることが生命線となる。だがそこで交わされるコミュニケーションとは一体何なのか。グローバルという名の下で交わされるコミュニケーションを支えるために、見えないところで底辺労働者が奮闘している。ならば、グローバル社会に加われない労働者を打ち捨てた上で交わされるコミュニケーションは上っ面のものでしかないだろう。見せかけの自由な社会が進行すればするほど、その裏で人種的な格差がますます開いてゆくことの欺瞞性。ホー・ルイ・アンはそこを突く。スカートの中=地球内に空調の風が吹き、人・モノ・金が舞っているイメージは白眉だ。そこには、底辺労働者が手動で空調の風を生み出して絶え間なく送風している過酷な現実を想起させる。着眼点が非常に独特だ。

 現代の大きな問題のひとつである地球温暖化にしてもそうだ。人類は地球温暖化を克服しなければいけないと叫ぶ。しかしそれはあくまでもグローバル社会を成り立たせるためのものであり、所詮は人間の都合でしかない。地球全体を植民地化しようとするのが近代以降の人間であるならば、温暖化に賛成しようが反対しようが、人間優位を維持しようとする点では同じではないか。このようにホー・ルイ・アンの論は展開する。

  そして最後に、2012年に即位60年を迎えたエリザベス2世の顔を見るために写真を撮ろうとしたホー・ルイ・アン自身が語られる。そこで見たエリザベス 2世の背中は汗でびっしょりだったと報告される。グローバル社会の象徴であったエリザベス2世が汗をかいていた。そのことで、もはやグローバル社会は自壊を始めていることが示唆される。そんな状況を打開するためにはどうすれば良いのか。ホー・ルイ・アンの結論は、やはり冒頭の絵に立ち返ることにある。人間が等しく太陽に晒されること。暑さを克服したり快適な生活を送るためにあくせくするよりも、汗をちゃんとかいて自然に向き合う重要性を語る。それが、行くところまで行ったグローバル社会を脱し、人類が皆平等な社会を築くための方策なのだ。エリザベス2世がかきはじめた汗は、グローバル社会の崩壊であると同時に、我々が転回するためのかすかな希望でもある。

 以上見てきたように、本作はレクチャーパフォーマンスの形式であるがゆえに、素材をいかに扱うかというクリエイターの手つきそのものが提示されている。Charles le Rouxに始まり、『王様と私』やエリザベス2世といった素材を独自に導入しながら、グローバル社会というテーマへと展開しつつ焦点が絞られてゆく道筋。 観客はそれを共に巡ることで、テーマにいかに接近し独自の切り口を入れたのかという、創作者のアプローチにダイレクトに触れることが可能になる。ここによりフィクショナルな加工を施し、登場人物の台詞として対話に仕立て上げることで、一般的な演劇作品は創作されるのだろう。そういう意味では、レクチャーパフォーマンスの形式は、明確な物語を持つ演劇作品の手前の状態、プロットとも言える。だからこそ、本作は演劇が演劇として成り立つ骨子が剥き出しになっている。演劇創造の手の内を開示したような趣があるのだ。ホー・ルイ・アンはまだ25歳だという。しっかりとした声で語り、笑いが起こる場面ではそれが収まるまでしばらく待つといった、余裕のある堂々とした立ち振る舞いを見せた。語り手としても十分な魅力を持ったクリエイターであることを示した。段階的に論理が展開してゆく独特の筋道を、ユーモラスに語るホー・ルイ・アンは、確かに日本の若手演劇人には見られないタイプだ。日本人にはできない作風、とまでは言うまい。本作のユニークさは、今世界で起こっている問題をどのように扱うか、その手つきを模索した結果に生まれたものである。日本の演劇人も、同様の試行を行えば、ユニークな表現形態が出来するはずだ。

 私個人としては、このレクチャーパフォーマンスを、一級の論考や論文としても受け取った。そして、文章を面白く書くとはどういうことなのかを考えさせられた。読者を突き動かし、社会を変革する可能性を帯びたパフォーマティブな文章のあり方というものを。そして創作物はそれだけで完結することなく、受け取った者によって多様な思考が涵養される。本作は、創作物の生まれる秘密だけでなく、受け手との有機的な関係がいかにして生まれるかについても踏み込んでいる。それは、創作物を共有する「場」を巡る問題である。『Solar: A Meltdown』間違いなく、今年の収穫となった作品である。

 ひとつ気になったのは、客席に多数見受けられた外国人の笑いである。白人である彼らは、我々日本人とは違った見方をしたのだろう。白人が植民地を支配した歴史と傲慢さに気付いているからこそ、アジア人であるホー・ルイ・アンの ユーモラスな皮肉に笑う。彼らもまた、痛いところを突くホー・ルイ・アンの手つきの妙に関心したことだろう。しかし、過剰とも言える笑いは、その痛さを慰撫し批評性を回収しようとする態度のように聞こえなくもない。アンナやエリザベス2世がスカートの裾に全世界を掌握したように、ホー・ルイ・アンの独自のアプローチそのものを柔らかく包摂しようとする態度のようにも感じたからだ。そのことは、このユニークなグローバル批判の作品も、消費という問題と無縁ではないということである。強靭さとしなやかさを併せ持った本作す らも、それ以上の柔軟さで取り込もうとするグローバリズムの根は、相当な根の深さを持っているのである。





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Last updated  Apr 16, 2016 06:01:28 PM


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