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伊勢神宮は来年は式年遷宮の年。内宮・外宮の正宮などでは、着々とその準備が進んでいます。上の画像は現在の外宮・外玉垣南御門です。下の画像は建設中の外宮の新しい外玉垣南御門、そして内宮の新しい外玉垣南御門。 前回の式年遷宮は平成5年。その時の行程を見ると、遷宮は「1、2の3」で行われるのではないようです。様々な神事を経て、内宮・外宮の御神体を旧殿から新殿へ遷す遷御(せんぎょ)は10月初旬に行われたそうです。正宮の遷御に続き、それぞれの御神体の荒魂を祀る荒祭宮、多賀宮の遷御が行われその他の別宮の遷御は翌年に行われたようです。昨年は全く手つかずの状態でしたが、内宮宮域内にある荒祭宮(あらまつりのみや)、外宮宮域内の多賀宮では新御敷地で建替えの工事が行われていました。それぞれ正宮の荒魂を祀る別宮です。その他の別宮では、まだ工事は始まっていませんでした。画像は上から順に、現在の荒祭宮、建設中の荒祭宮、多賀宮(右側に建設中の白いテント)そして内宮・正宮の裏手に建てられた鳥居です。 以前にもご紹介したことがありますが、既に建替えが完了している施設もあります。それは2009年に架け替えられた宇治橋と皇大神宮(内宮)所管社・饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)です。本来は昔から、式年遷宮の年に宇治橋の造り替えも行われたそうです。しかし第59回神宮式年遷宮は第二次大戦後の混乱期だったため、昭和天皇のご指示により無期延期とされ、宇治橋の架け替えのみ行われたそうです。その4年後に式年遷宮が行われました。そして建替え・架け替えの混乱が軽減できること、そして大工や業者の人員確保なのどの理由から以降そのまま、遷宮と宇治橋の架け替えは4年のずれがあるのだそうです。饗土橋姫神社が他の所管社に先駆けて建替えられるのは宇治橋の守り神を祀る神社だからです。画像は上から順に、昨年の宇治橋、先日撮影した饗土橋姫神社です。饗土橋姫神社は宇治橋前にある駐車場裏の杜にあります。 .
2012.12.07
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早いもので今年も残すところ、あと1ヶ月となりました。ここのところ、仕事が休みの日に雨が降るという不運が続き神社巡りも紅葉狩りもできず、欲求不満気味でした。そんな折、たまたま目にした「伊勢は紅葉のピークを迎えた」というNEWS。神宮参拝と紅葉の撮影。一石二鳥のグッドアイディアに飛びつく形で、少々無理をして伊勢に行ってまいりました。ここ数年、「無人の内宮・外宮を撮る」ことにこだわっていたり全ての別宮に参拝するため1~2泊の日程で伊勢に行っていました。しかし今年は家内とのスケジュールが合わず、こだわりを捨てて日帰りでの参拝。撮影よりも内宮・外宮の参拝と、紅葉を楽しむことにしました。しかし皮肉なもので、変なこだわりを捨てた結果日帰り旅行であったにもかかわらず今までで最も伊勢を堪能出来たのではないかと思います。「一石二鳥」を狙ったのですが、さすがは伊勢。京都や奈良の寺社と違って、神宮の杜はほとんどが常緑樹でした。「紅葉のピーク」ではあっても、紅葉の名所とは言えなかったようです。一番期待していた瀧原宮では、色づいた木々は数本しか見かけませんでした。 それでも内宮の神苑や五十鈴川では、神々しく色づいた紅葉が見られました。見応えのある紅葉ではないにしても、「伊勢」と言うだけでありがたい光景に見えるから不思議です。宇治橋からの眺めも最高だったのですが、ここでご紹介出来るレベルの写真が撮れていませんでしたorz最近の若い子のマネをして「ここ、めちゃヤバイ!」と叫びながら撮ったほど素敵な光景だったのですが・・・。 最も紅葉が美しかったのは、内宮の神苑。とは言え参道から外れた、たった数十メートルほどの小径。ここまで足を踏み入れる人はなく、神苑の紅葉を独り占めさせていただきました。モミジの葉をアップで撮ると、神宮の神苑でも近所の公園でも同じなのですがやはり「伊勢のもみじ」というだけでありがたく感じるのです(笑) 内宮の宮域で最も好きな場所がここ。風日祈宮(かざひのみのみや)の参道と、風日祈宮橋。派手さはないものの、しっとりと晩秋を感じさせる雰囲気が素敵でした。上の画像は風日祈宮橋の上から見た眺め。下の画像は風日祈宮から見た参道と風日祈宮橋です。 内宮に到着したのは午前9時前。今回は初めての平日参拝となりました(11月30日・金曜日)。紅葉は期待したほどではありませんでしたが、けっこういつもと違った伊勢を楽しむことが出来ました。平日とあって、この時間でも参拝者の数は思ったより少なかったです。まさかこんな写真が撮れるとは思ってもみませんでした。もちろん無人の状態になるシャッターチャンスを待っての撮影でしたがそれほど苦労することはありませんでした。上の画像は外宮の第二鳥居付近。外宮に入ったのは午後3時頃だったと思います。ここの写真は、今までは早朝でも(無人で)まともに撮れたことがありません。 こちらは月讀宮の紅葉。神宮は来年、式年遷宮。宮域では着々とその準備が進められていました。遷宮は「1、2の3」で行われるわけではなく、125の所管社が1年くらいかけて順番に建替えられて行くようです。現在の状況など、次回以降にご紹介できたらと思っています。 .
2012.12.03
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桜の木の紅葉が好きです。春に咲く、麗らかな満開の花とは対照的に秋の風にたよりなさげに揺れる黄昏れた葉。黄色だったり橙だったり朱だったり、同じ枝でも色とりどりの葉・・・。完璧な形よりも虫食いの穴が似合う、いぶし銀のような美しさは華やかさだけではなく、桜にだって人知れず苦労があるような意外な一面を垣間見せてくれるのです。 近所の一角に立つ桜の木。屋根と電線の間に、何とか立ち位置を確保した孤独な木ですが春の花も、秋の黄昏れた紅葉も桜の名所にあるものより美しいのです。出勤の時も、遊びに出かける時も、買い物に出る時も必ずコイツの前を通って出かけます。秋の紅葉と言えば、もみじなんでしょうが私は桜がけっこう好きだったりします。和紙に描いた禅画のような素朴さが好きです。今年はいつもより、紅が鮮やかな気がします。箕面のモミジたちも、今年はいつもより紅く染まるのでしょうか。週末に、確かめに行こうと思います。 .
2012.11.12
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風が少しずつ爽やかに感じられる今日この頃。みなさま、いかがお過ごしでしょうか?私は少々お疲れ気味ではありますが、なんとか生きております。 先日、久しぶりに三輪山方面に行ってまいりました。朝靄に浮かぶ三輪山や、早朝の大神神社などを撮りたかったのですが体調がすぐれず、出発が2時間も遅れてしまいました。実はとてもお出かけするような気分ではなかったのです。駅のスロープではシルバーカーを押したおばあちゃんに追い越され、電車の中ではカメラバッグを網棚に載せられなかったという醜態をさらしてしまいました。そこまでして出かけたのは、箸墓古墳の近くにある「日本一たい焼」のためなのです。 2年ほど前にも、ここの「天然ものたい焼」をご紹介させていただきました。福岡が発祥らしいのですが、私は奈良に行くたびによく見るお店なのです。奈良には3店舗しかないのですが、その3店舗というのがこの箸墓古墳の近くにある桜井店、御所店、奈良斑鳩法隆寺店と私の出没地にドンぴしゃにハマっているんですね。てなわけで、「そうだ たい焼食べに行こう!」と、なったのでした。 近鉄桜井駅からレンタサイクルを利用して、まずは大神神社へ。出発が予定より遅れたとは言え、桜井駅に到着したのは9時過ぎでした。ひょっとしたら、まだ参拝者は少ないかも知れないとかすかな期待を持っていましたがさすがは大神神社。既に駐車場に列が出来るほどの参拝者が・・・。しかも、崇敬会の催事もあったようで拝殿前は大勢の参拝者であふれていました。 大神神社のあとは、狭井神社で薬井戸の「霊泉」をいただき大美和の杜展望台から、大和三山(画像上)や二上山の眺めを楽しみそして、箸墓古墳へと向かったのです。 三輪山に祀られる大物主命の妻となった倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)が眠る墓所。日本書紀・崇神天皇紀には、この「箸墓」について「昼は人が造り、夜は神が造った」と記されています。ただし古墳研究の第一人者、森浩一先生は「崇神天皇陵」だとおっしゃっていますが・・・。 さて、このたい焼他のたい焼とどこが違うかと言えば、その焼き方です。よくある屋台のたい焼は、一度に4~5匹焼きますがここのたい焼は1匹ずつの型で丁寧に焼くんです。1匹ずつ焼くものを「天然もの」一度に数匹焼くものを「養殖もの」と言うそうです。この「天然もの」は、絶対に一度お試しいただきたいです。私が知っている限りでは、この「天然もの」が食べられるのはここと「鳴門鯛焼本舗」というお店です。「日本一たい焼」と「鳴門鯛焼本舗」のHPを下にリンクしておきますのでお近く、あるいはお出かけ先に店舗がないかご確認ください。「日本一たい焼」「鳴門鯛焼本舗」 .
2012.10.01
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やっと待ちに待った新緑の季節がやってまいりました。カメラを買い換えた昨夏以降、週末になると天気が崩れるというパターンが続いていました。新緑の季節になり、週末に崩れる天気にやきもきしていましたがGW初日のこの日は、いい天気になってくれました。私にとって大切な場所。箕面・滝道。8年前、ここのすばらしさを伝えるためにブログを始めました。15年ほど前から、特に馴染みの木には名前を付けて呼びかけます。 いつものように瀧安寺を回ってから滝道に戻ります。本当はもっと早い時間に来たかったのですが、少々寝坊してしまいました。 滝道の「King of Maple」に挨拶したらここからが滝道の緑が一段と濃くなります。馴染みの木も、渓谷も岩も水ももう何年も何回も、同じ立ち位置から同じ場所をカメラで狙います。今年の彼らの春ものは、昨年のものより鮮やかな黄緑で仲良しのモミジたちも誇らしげな表情をしていました。秋の紅葉は木によって色も時期もバラバラですが、春ものの一張羅は、みんな一斉に衣替えをするようです。 この日はGW初日。しかも少々寝坊してしまったので、滝道はそこそこの人出。こんな場所でも、無人の風景を撮るというやっかいなこだわり・・・。(けっこう粘りました) 訪れた人は皆、この滝に見とれています。でも、ここの魅力はその上の岩。神様が降臨した磐坐のような気を発しています。いつ見ても美しい色をした岩です。毎年のことですが、滝道の「オトモダ木」をご紹介します。「今年は、なかなかええ色してるやんかぁ」「ごたごた言わんと、男前に撮ってくれよ」周囲には気を付けていたつもりですが、カメラを構えたままブツブツ言ったり、ニタニタしたり誰かに見られていたら「変なおじさん」に思われたことでしょう。申し上げておきますが、私は女性は撮りません。えっちなおじさんではありません。 滝道で最も優美な「瀧樹(りゅうじゅ)」下を向いて歩いていても、近くに来ればわかるほどこの子のオーラは違います。 一番の親友は「pow-pow」「龍樹」と並んで最も古いオトモダ木です。今年の「pow-pow」は、今までで一番元気そうに見えました。 最も男前は「つばきくん」命名の由来は、この子の彼女が椿だから。 数年ぶりに会った「おちゃめなマイケル」必ず彼の前を通るのですが、いつも気づかずに通り過ぎてしまっていたのです。「俺にも名前を付けてくれや」と話しかけて来た頃の存在感がなくなったか・・・。「おめぇ、ちっと線が細くなったんとちゃうか?」するとすかさず「おまえもダイエットしろ、ばーか」と、言い返されてしまいました。ここまで書いて、ちょっと恥ずかしくなってきましたがこの陽気のせいで頭がおかしくなったわけではありません。滝道の私は、いつだってこうなのです。 .
2012.05.01
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あの震災から1年になります。今もって、何の役にも立てないもどかしさを感じています。今もって、あの日の映像すら直視出来ないことを申し訳なく思っています。今日行われた追悼式典に、天皇皇后両陛下がご参席されたことに感動しました。一昨年、心臓の手術を受けた私には陛下にとってあのご参席がどれだけたいへんなことであったかわかります。しかも喪服を着ていらっしゃいました。Never forgetwhat happenedon March 11th,2011だけど、絶対に忘れてはいけないし自分に出来ることはやって行こうと思っています。悲惨な状況の中、復興に向けて立ち向かっている方々に敬意を表します。1年前、次々に報道される被災地の状況や原発事故の報道に誰もが浮き足立っていました。そんな中、復興と支援に向けて日本中の人々の心がひとつになったきっかけは素人集団かと思われるようなアホな政府の呼びかけではなく3月16日に放映された天皇陛下のお言葉だったと思います。あの震災のこと、そして全国の人々が 「がんばろう日本!!」 と拳を掲げたあの日のことをあらためて思い出すためにも僭越ながら、あの日の陛下のお言葉を掲載させていただきます。 * * *この度の東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9・0という例を見ない規模の巨大地震であり、被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し、犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。 また、現在、原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ、関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。 現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、多くの人々が、食糧、飲料水、燃料などの不足により、極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより、被災者の状況が少しでも好転し、人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。 そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内のさまざまな救援組織に属する人々が、余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。今回、世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き、その多くに各国国民の気持ちが被災者とともにあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。 海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が、取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。 被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、からだを大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。 * * *私たちは、もう一度あの日のこと日本中がひとつにまとまった日のことを思い出さなくてはいけません。「がんばろう日本!」と叫び、「絆」という文字を掲げているだけではただの無責任な自己満足の世界ですね。放射能が心配なら、検査する方法を確立すればいい。ガレキの処理は全国で分かち合うべきです。「絆」という文字をウソの代名詞にしないよう、今こそ私たちは変わるべきだと思います。反動もあるでしょうが、今が変わるチャンスでもあると思います。何十年先かわかりませんが、このままでは私たちは東北の復興が成し遂げられた時に後悔すると思います。痛みも分かち合い、いつの日か復興の喜びをも東北の人達と分かち合いたい。二言目には「放射能が心配だ」もっと身近な問題として心配している人たちがいることを忘れてはいけません。放射能に汚染されたガレキを受け入れようと言っているのではありません。「放射能の恐怖」を理由に、汚染されていないガレキの受け入れをも拒むようなそんなことでいいのでしょうか。 関西では、梅がそろそろ見頃を迎えます。まだまだ寒い日が続くようですが、春はもうすぐそこまで来ていますね。被災された方々にも、少しでも明るく暖かい春がやって来ることを願っています。 .
2012.03.11
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人混みを好まず、並ぶ事が大嫌いでしかも待つことは死ぬほど苦痛・・・加えて、「神社の撮影=無人」のこだわりを持つ私は「祭り」「神事」には縁がありません。年に1回、近くの「えべっさん」に行くくらいですが、私の病気や家内の怪我もあって、ここ2年はそれさえもパス。そんな私が昨日、明日香村の飛鳥坐神社(あすかにますじんじゃ)の「おんだ祭」に行きました。私がこのお祭りのことを知って30年。家内が「一度見てみたい」と言い出して10年。ブログでこの神社の「陰陽石」をおもしろおかしく紹介したばかりに・・・もしくは日頃の行い(エロおやじ)からか、友人たちから「飛鳥坐神社に行くとpleを思い出す」と、言われ続けて6~7年。初めて「おんだ祭」を見に行きました。 御神事開始予定の1時間半前に境内に入りましたが、既に見晴らしのよい拝殿前は満員状態でした。何とか舞台前のいい場所を陣取りましたが、境内はこんな状態だったのです。待っている途中、気分が悪くなる人もいて救急車で運ばれた人もいました。私のすぐ後ろに立っていたお年寄りも気分が悪くなり、一時騒然となりました。幸い手を貸して座っていただいたら、すぐに回復されたのでよかったです。 「おんだ祭」の「おんだ」とは「御田」のこと。御神事の第一部は、「お田植え」神事が行われます。翁や牛の面をつけた男衆によって、ユーモラスな農作業が演じられ宮司によって、松を稲の苗に見立てた「田植え」が行われます。 雅楽奉納「浦安の舞」これは昭和天皇御製「天地の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」が歌詞に取り入れられた昭和になって作られた雅楽です。正式には4人舞ですが、一人舞、二人舞もよく見られます。前半と最後の扇舞と、後半の鈴舞から成ります。私は巫女舞が大好きなので、この数分間はうっとりとしておりました。と、まあ。ここまではよくある「お田植え神事」全国の多くの神社で行われる、五穀豊穣を願う御神事ですね。しかし古来、農村では「五穀豊穣」と来れば「子孫繁栄」がセットになっていたようです。飛鳥坐神社の「おんだ祭」では、その「子孫繁栄」を願う神事が「第二部」として執り行われます。「子宝に恵まれる神事」としても知られています。それでは「第二部」行きます。 先ずは神前結婚式の様子。学芸会の劇を見ているようでもありますが、大柄な花嫁(お多福)がなんともユーモラスでした。仲人役の翁の目を盗んで、こっそりキスする天狗とお多福。 初夜の前、妻を娶った悦びを(喜びじゃなくて・・・)全身で(あるいは一部で)表現する天狗。隣にいた若い女性が「あんな(デカイ)人、ホントにいるのかなぁ」とつぶやいてました。思わず手を挙げようと思いましたが、隣にいる家内から回し蹴りが飛んで来そうなので自重しました。神様の前でウソはいけません。 新婚初夜の床で、恥じらいを見せるお多福。直前、妻を娶った悦びを「体で」表現していた天狗は待ちきれないと行った雰囲気。さらなる笑いを誘うのですが、ここで演じられる夫婦の和合は「秘め事」とか「禁断」とか、「タブー」や「猥褻」といった言葉とは全く無縁のものだと感じました。 さていよいよ、みんな大好き夫婦の和合。仲人役の翁が、夫婦の営みを観客から隠そうとするしぐさがおかしかったです。これは天狗とお多福の行為をさらしものにしたくないと言うよりは、もっとよく見たがる観客へのユーモラスな意地悪といった感じでした。天狗が疲れて動きが止まると、翁が腰の動きを手伝う場面もありました。写真だけ見ると、まな板ショーみたいですが実際はとてもおおらかで、ほほえましいのです。 夫婦の「行為」のあと、幻の紙と言われる「福の紙」でお多福のアソコを拭きます。つまり「拭く紙」→「福の紙」→「福の神」という語呂合わせです。その「福の紙」は観客に向けて投げまかれます。神社の解説によれば「その紙を持ち帰って、それなりの用途で使用すれば子宝に恵まれるでしょう」とのこと。70を過ぎたと思われる女性が「ちょーだーい!」と言ってたのには驚きました。でも横を見ると、家内も両手を差し出していました。やめてくれ。子宝はいらんちゅーねん。 幸か不幸か、「福の紙」はGET出来ませんでしたが「御供撒」はけっこういい成果が上がりました。今年はいいことありそうです。画像は私がつかんだ、お田植え神事で使われた苗(松)と紅い餅。家内も紅白のお餅を1つずつGETしていました。この御神事は、昔のおおらかな夫婦和合を演じるだけではなく何か不思議な「気」に包まれる感覚がありました。大和の祭ならではの、「大いなる和み」といった感じでしょうか。ここに参列した参拝者たちは、みんな来たときよりも少しだけ笑顔になって帰って行くのです。細部をご覧になりたいあなたのためにいつもより大きいサイズの写真を載せました^^なんだかいつもの日記よりも生き生きした文章になっているような・・・。「飛鳥坐神社=ple」のイメージが、さらに定着しそうな予感ですorz .
2012.02.07
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とうとうワイドショーにまで取り上げられた、アホなトラブルについて。以下、変人オヤジpleのぼやきとご承知おきください。少々、毒を含む可能性があります。裏を取らない曖昧な記憶と、独断と偏見に満ちた特異な戯言であります。画像は2005年当時の晴明神社です。その京都の晴明神社と、隣接する土産物屋のトラブルが、裁判沙汰に発展する可能性があるのだとか。陰陽師グッズを売る店が、晴明神社から「ご神徳を冒とくする」として商品の販売中止を求められ、店側は営業妨害と反発しているのだとか。詳しくは下記をご覧ください。http://www.j-cast.com/tv/2012/01/30120386.htmlそもそもこの土産物屋さん、元々は西陣織の会社でおよそ10年前に御神紋「五芒星(ごぼうせい)」使用の了承を晴明神社から得て陰陽師グッズの販売を始めたのだそうです。「陰陽師」がSMAPの伊達男主演でTVドラマ化され、野村萬斎主演で映画化されて晴明公ブームとなった頃のこと。祭事では寄進もしていたそうで、両者は持ちつ持たれつの関係であったと言えるでしょう。そもそも門前町あるいは参道の商店と寺社、お祭りや縁日での露天商と寺社は昔から持ちつ持たれつの関係だったはず。ブーム以前はどちらかと言えばマイナーだった晴明神社。他にさして名所も見所もない堀川今出川の裏通りで、陰陽師グッズの販売に踏み切ったかの店は先見の明があったと言えますし、経営者としては大きな決断でもあったでしょう。なにせあの場所でしか売れない、オリジナル商品を開発したのですから。ただし時代ですね。ネット販売も行われているようです。このネットショップの占い、けっこう楽しいです。http://www.onmyojigoods.co.jp/しかしブームの影響が思いのほか大きいと感じたのでしょうか、神社の考えか氏子さんの思惑かは不明ですが後に「桔梗庵」というグッズ店を、神社でも始めることになりました。堀川通側の境内に、現場事務所みたいなお店を建てたのです。晴明神社HPでは桔梗庵を「神社公認はここだけ。御祭神をちゃかすようなものはない」 と宣伝しています。http://www.seimeijinja.jp/それらの競争意識も働いたのかも知れません。例えば、土産物屋で商品を買った参拝者が神社の御利益があるものだと勘違いするケースが多発していたのかも知れません。ブームが去れば、たいした問題もなかったかも知れません。しかし、陰陽師ブームと入れ替わりにスピリチュアルブームが続きました。パワースポットへの関心が高まったことや御祭神の特異性から、京のパワースポットとして頻繁に晴明神社は取り上げられました。陰陽師ブームのピーク時ほどではないにしても、参拝者がとぎれることはなかったのです。今回の騒動の発端は、神社側からの販売中止要求だったようです。神社の言い分は「御祭神の名を呼び捨てにした商品」「御祭神の3頭身のキャラ」などが「神への冒涜である」として、(このキャラ、よく出来ています。ゆるキャラにすればいい)同店販売のグッズの持ち込みをしないよう、参拝者に求める看板を神社境内と店の近くに設置。結果、売り上げが3割減った店側が、営業権の妨害排除を求める仮処分申し立てを京都地裁に起こしたのだそうです。全くばかばかしい話です。参拝者の立場で言わせていただければ、「神社さん、あなたはどうなの?」と問いたい。晴明神社は御祭神やブームを利用して、「商売」をして来たというイメージがあります。私の個人的な意見ですが「どっちもどっち」って感じがします。神社を維持・運営して行く上で、そういう方法が悪いとは決して思いません。むしろ、そういう神社も楽しくていいと思います。しかし、土産物屋さんの営業を妨害する(またはそう思われてしまう)行為はいかがなものでしょう。お互いに得をする、そういう解決策があったはず。今回の騒動は、たとえ神社側に法律の軍配が上がったとしてもイメージとしては神社の負けだと思います。懐の深さが神道の良さだと思っています。近隣の方々と、ブームと御神徳を分かち合う方法は考えつかなかったのでしょうか?宮司さん主導のものとは思いたくないですね。神社側の主張は、一部の氏子さんの入れ知恵か何かだと思いたいです。「氏子のどなたかと、そこの社長さん、飲み屋で喧嘩でもしたんちゃうの?」そんなゲスの勘ぐりもしたくなるような低レベルの騒動だと思います。毒を吐いたついでに申し上げます。私は神社巡りを始めた当時から、晴明さまとのご縁を感じておりました。こちらにアップした画像でも、おわかりいただけると思いますが晴明神社には数え切れないくらい、参拝に訪れています。しかし私は、ここが「パワースポット」だと思ったことは一度もありません。昨今のパワスポブームでの定義は知りませんが、私の物差しで計れば、かすりもしないのです。私がパワースポットという言葉と場所を知り、興味を持ったのは1991年。以来、そういった場所を求めて歩いてまいりましたがパワースポットと言うからには、せめてそこにいるだけでα波が出るそんな場所であって欲しいのです。では、なぜ何度も晴明神社に行くのか。それは、晴明さまにご挨拶するには晴明神社の本殿前が最も象徴的な場所だからです。画像は2004年から現在までの、神社の様子です。陰陽師とパワースポットブームの恩恵と、それに乗ろうとした神社の姿勢の一端が伺えます。 2006年以降拝殿前に順次作られた晴明公座像と厄除の桃桃が先に作られ、晴明公像は元々桃があった場所に建てられました。TOPの画像のように、2005年にはどちらもありませんでした。 最近になって固められた地面と描かれた星座。スピ系参拝者向けハグ台。私は御神木にハグしたり手で触れることに反対はしませんがやり方が問題です。木からパワーをもらおうと言うのなら、せめてその木を言祝ぐなり先に感謝の意を伝えるなり、何かを「与える」方が先でしょう。ほとんどの人は、ただの「Taker(奪う人)」になっています。我先に御神木に触れようとするから、こんな足場が必要になるんです。少しでも高い位置に触れよう、少しでも木と密着しようとして木の根の部分をズルズルと踏みつけている人などは愚かとしか言いようがありません。 そして晴明神社を訪れるたびに出来ていた新しいものたち。晴明さまファンとしては喜ばしいことではあるのですが・・・。左から順に手水の屋根・境内入り口の扉・堀川通沿い鳥居の五芒星の額束。ちなみにこれらに、上の晴明公座像、厄除の桃、地面や台などが加わります。こういった神社の姿勢に反対ではありません。好きか嫌いかは別として、これはこれでいいと思うのです。こういった姿勢が「神を冒涜」しているわけでもありませんし。しかし、御祭神のおかげで「商売」している点においてかの土産物屋さんと「どっちもどっち」だとも思うのです。どうか、看板などは撤去して心の広い、歩み寄りの解決策をご両人にお考えいただくことを望みます。 .
2012.02.04
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明けまして おめでとうございます。本年も よろしくお願いいたします。
2011.12.31
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とあるサイトで、デジタル一眼愛好者の初心者から超ベテランまでが集まったお気楽コミュに参加しています。それぞれのブログで「紅葉の写真をUPしよう」ということになったのですが何とか目立ちたい一心で、「腕がダメなら場所で勝負」とばかりに嵐山に行ってまいりました。本当は先週の予定だったのですが、体調を崩してダウン・・・orz1週間ずれてしまって、紅葉は終わってしまいました(笑)と、いうことで天龍寺はあきらめて大河内山荘に向かいます。 前日から始まった「花灯路」というイベントのため竹の道には小さな灯籠が並んでいました。午後5時になると、灯籠だけでなく竹林や渡月橋もライトアップされます。 何度か嵯峨野を歩きましたが、実はここは初めてです。野宮神社手前の竹の道を見て、嵯峨野の竹の道を歩いたつもりになっていましたが、こっちが「本命」ですね。デートコースとしては、インクラインや琵琶湖疏水より恋が成就しそうです。30年ほど早くここのことを知っていたかった・・・orz 竹の道を抜けた先にある「大河内山荘」昭和初期の時代劇スター大河内傳次郎が作った庭園で現在は国指定文化財になっています。(iPhoneで撮影) 入山料は1000円で、お抹茶券が付いています。庭園の美しさもさることながら、眺望もなかなかでここは意外とおすすめかも。彼女の分も含めて2000円は痛い出費になりますが恋が実るのなら安いもの。それに、恋が実ってからはもっともっとたくさんの出費が待っているのです。(そんな話題じゃなかった) ここも紅葉のピークは過ぎていましたが、ピーク時なら庭園中が真っ赤に染まっていたことでしょう。正直言って、こんなにいい所だとは思いませんでした。30年ほど早く知っていたら、ここでデートしたのに・・・(しつこい) ここは百人一首にも詠まれた小倉山の南斜面に造られていて起伏に富み、手入れが行き届いた木々、遠く比叡山も望む眺望と、飽きの来ない庭園になっています。年中無休で開園時間は9~17時。人と車でごった返す渡月橋あたりより、何倍もオススメしたい場所です。30年ほど早くここを知っていたら・・・(3回目).
2011.12.11
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京都御苑、通称・御所。御所一般公開など、特別なイベントでもない限りここを「目的地」にすることはめったにありません。だけど、ここはいつ立ち寄っても「来てよかったぁ」と、思える癒しの場所です。 特にこの「建礼門前大通り」は一番好きな場所。御所に来ると、必ずここのど真ん中を歩くことにしています。しかも、優雅にゆっくりと。きっと私の前世は、平安貴族だったのだと思います。間違いないでおじゃる。(誰じゃ、ここを往来してた牛車の牛ちゃうかって言うのは!)しかも安倍晴明と関わっていたという、確信もあるのでおじゃる。 ここの木々は、たっぷりとスペースが奢られていて銀杏も松も、楠も桜もみんなお高くとまった洒落者ばかり。みんな「自分が一番美しい」と主張しながら立っています。ここが落ち着く理由がもうひとつ。私は弁財天さまにご縁があるのです。御所内に鎮座する神社が3社あるのですが、その全てに市杵嶋姫命(=弁財天)が祀られているのです。 遠くから来た老夫婦の写真を撮ってさしあげながら、いつものコースを歩きました。一眼をぶら下げていると、写真が上手いと思われるのでしょうか。あちこちで写真を頼まれます。きっと私が、優しそうでいい人に見えるからでしょう。見えるだけでなく、実際そうなのでおじゃるよ。 朝一番に訪れた南禅寺もそして名所中の名所と言われる永観堂や、岩倉実相院もうんざりするほどの人出でした。こうやって葉っぱばかりアップで撮るのなら、なにも京都まで出かける必要もないんちゃうのって話です。 だけどほら。やっぱ、京都と近所の小学校の校庭とじゃテンションが違いますって。もの言わぬ無機質な電子の箱で撮る、2進数のデジタルな写真なのですがきっと心が反映されるのだと思いたいのです。 朝一番で行った南禅寺。数年前に見た「銀杏の絨毯」は見られませんでしたが、やはりここの紅葉はなかなか素敵なのです。広い境内には京都ならではの光景はもちろん、有名な琵琶湖疏水と水路閣。すこし足をのばせばインクラインなど、バラエティーに富んだシーンが楽しめるのです。 東山から朝日が射し込む境内を見たくて、日の出前に自宅を出発。気合い十分で撮影に臨みましたが、やはり紅葉の撮影は難しいです。撮影後すぐにディスプレイで出来栄えを確認して、設定を変えたりするのですが、どうもまだカメラが手に馴染んでいないようです。 ディスプレイで見た画像はすごく満足していたのに帰ってからPCに落としてみると、思っていたものと違っています。ほぼ同じ性能の家内のカメラとも色合いが違いますしそのカメラ特有の「クセ」のようなものがあるのかも知れません。 今回は南禅寺、御霊神社、岩倉実相院、御所に行きました。フリーチケットで回るので、訪問地はその時の気分次第。今回も南禅寺以外は目的地は決めていませんでした。「バスが混んでいるから降りにくい」という理由で目的地を乗り過ごし、別の場所に変更するというズボラな散策。 画像はすべて先週の土曜日のもの。今週末も、京都の紅葉は楽しめそうです。とくにこの日、嵐山に行っていた知人からは「まだまだ、色づき始め」との情報も。 ならば、もう1回、紅葉の撮影にチャレンジしたいです。それは奥さんの財布次第なので、機嫌が良さそうなときに頼んでみようと思います。「もう1回、いこーよー」 .
2011.12.02
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昨年、一昨年と、紅葉のピークを見逃しました。今年は先月の終わり頃から、待ち遠しい気持ちでそわそわしています。17日、まだ早いとは思いつつ、気の早い木がいないかと万博公園に偵察に行ってまいりました。 モミジはもちろんのこと、大好きなプラタナス並木もまだまだ緑のまんまでした。ここの四季の移ろいを追って行こうと思っているのでこういう場面もいいのかなぁと思います。今日(22日)は、ぼちぼち見頃を迎えているのではないでしょうか。 そんな中、見逃されがちですが見頃を迎えた木もありました。私は桜の渋い紅葉がけっこう好きだったりします。華麗な春の花とは対照的な、地味な美しさだと思うのです。 こちらは一昨日の箕面。こちらも見頃は月末あたりでしょうか。去年は一番いい時期に入院してしまったので、今年は仲良しの木々たちの晴れ姿を見てやりたいと思います。 まだまだ緑が多い状態でしたが、滝道のモミジは気の早いやつもいるのです。箕面川が夕陽のように染まる頃、またここを歩いてみようと思います。 文字通りモミジは紅葉の紅の代名詞。しかしこの10年、仲良しのpow-powや龍樹の紅を見たことがありません。奴らはモミジのくせに、黄色のまま散って行きます。今年こそは彼らの紅い一張羅を見てみたいものです。(※pow-pow・龍樹=勝手に名付けたお気に入りのモミジ) 明日の祝日は、残念ながら雨の予報。本番は週末か。今年はしっかりとこの目と相棒のレンズで美しい紅葉を楽しみたいと思います。 .
2011.11.22
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街を歩けば、いつも怒っている自分に気づく。電車のホームで並ばない人を見て。幼い子そっちのけで井戸端会議に夢中になっているお母さんたちを見て。車内で携帯を使う(通話)人を見て。。。街を1kmほど歩く間に私はいったい何回 腹を立てるだろう何百メートルも後ろで通り過ぎた人のことをいつまでも怒っている時もあってふと思う。「私の怒りは いったい何を生み出すのだろう」と。うつつに見えるものが心の鏡だと言うのなら怒りや毒を吐き続ける私の内面は見えない何かに汚染されているのだろうか。 だから禊を受けるように 私は水辺に行く 安穏と癒しを求めて杜を歩き 木々との会話を楽しむ。 疲れたときは若狭に行って 竜宮の海を眺め、雲と話す。 ギラギラと陽が照りつける夏よりも 秋の海がいい。 空の蒼と海の青が溶け合って 竜雲や朱雀の雲が天高く泳ぎ、羽ばたくさまがいい。 若狭の里には 水と森も。 ゆらゆら揺れる秋の風の中で思い出す。 遠い昔に あの子と同じ銀色の夢を見たことを・・・ 「いつまで そんなことをやっているんだ!」 ふと見上げた阿形の石像が 私を叱りつけた。 「心は穏やかですか?」 苔むした石仏に そう問いかけられて 「はい 多分・・・」 と、私は嘘をついた。 でも・・・ こんな場所で穏やかな気持ちにならなきゃ 私はかなりの重傷かも。 さいわい 感謝の気持ちがわきあがる 無駄に年を重ねてきたけれど 「ありがとう」くらいは素直に言えるようになった。 「心は穏やかですか?」 「ええ。もちろん」 そしてたくさんの人が 穏やかな光に包まれますように。 「私の怒りも愚痴も 何も生み出さない・・・」 大いなる流れではなくとも涸れることなく 人が潤い 癒され 清められる この山の水のような人に 私はなりたい。 .
2011.11.05
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無性にクワイが食べたくなることがあります。・・・・・・・・・冗談です。だけどクワイって、笑いもとれないほどマイナー。この野菜、ご存知ない方も多いのではないでしょうか。知っていても、めったに食べないって方がほとんどだと思います。でもですね。このクワイ → 詳しくはコチラ「なにわ野菜」のひとつに数えられているんです。「京野菜」なら聞いたことありますが、実を言えば「なにわ野菜」なんて知りませんでした。 しかし、「なにわ」と言えば「太閤さん」ではなくて昔は「天下の台所」と言われていたのです。その天下の台所の名産なのですから、クワイ(吹田クワイ)はスゴイのですよ。なにせ、天王寺蕪とか泉州の水茄子と肩を並べているのですから。 私たちは、おせち料理で見るくらいですが太閤さんは、たんとお食べになったかも知れません。だからクワイはスゴイのです。なぜ、こんなマイナーな野菜のことを書くかと言えば私はこの「吹田クワイ」を宣伝する必要性を感じているからです。吹田市民として、クワイをアピールしたいのです。でないと、恥ずかしいのです。先日、駅前で見てしまいました。「なんで今頃?」・・・の感は否めませんが我が吹田市にも、どうやらやっと「ゆるキャラ」が出来たようなのです。あの彦根市の「ひこにゃん」に始まった「ゆるキャラ」ブーム。あの悪趣味な「せ○ん○とくん」がゆるキャラかどうかは別としてひこにゃんはもちろん、あのせ○ん○とくんだって立派に地元の広報役として成功しました。我が吹田市は、1970年の万博以来あまり脚光を浴びておりません。でもいい街なのです。全国の人に知ってもらいたいのです。吹田市と言えば、ほら前述の万博の「太陽の塔」ですやんか。吹田市のマンホールのデザインだって太陽の塔ですし。 だから吹田市のゆるキャラは、「たいようくん」と、思いきや。これは天国の岡本太郎先生に爆発的に叱られそうです。ゆるキャラではなくゆるされないキャラ。では、日本初のビール工場はどうでしょう。今やビールのシェア日本一になった会社があります。 名付けて「すぅーぱーどらいくん」しかし、これじゃぁ吹田市の宣伝ではなくてアサヒビールの宣伝になってしまうか・・・。と。お役人さんたちの間で、そんな検討がされたどうかは不明ですがなんと、吹田市のゆるキャラはこれでっせ。 名前はどうやら「すいたん」というみたいです。で、何のデザインかと思えば「吹田クワイ」ですよ。もう一度 言います。すいたん です。 → 吹田市観光ウェブひいき目に見るわけではなく、なかなか良くできたデザインだとは思います。しかし何度も言いますが、クワイですよ。.
2011.10.20
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万博記念公園「花の丘」より 都会の空も捨てたもんじゃない。かねがねそう思ってきました。確かに田舎みたいに星は見えないけれどそれはきっと街の明かりのせいであって、空が汚れているわけではないと。私が子供の頃の高度成長期には都会の空は車の排気ガスや工場の排煙で汚れ光化学スモッグなどの公害がNEWSになっていました。あの頃と比べると、空気も水もずいぶんきれいになったと思います。都会の四角い空だって、今ではとても青いです。ただ、私たちが空を見上げることを忘れているだけ。 堂島・渡辺橋より 都会の空だって、よく見れば季節を感じさせてくれるし秋には高く、冬には澄んだ青なのです。ここ渡辺橋から見る秋の夕陽や、榎木橋あたりからの冬の夕焼けが好きです。環状線の車窓から見る雲も、時には幻想的でさえあったりするのです。 外回りから疲れた体をひきずって会社に戻る途中、こういった光景に出会うと得した気分になるのです。オフィスにいる連中も、既に帰宅した女の子たちもこんな都会の夕陽の美しさを知らないだろうから。都会の公園のコスモスだってどこの花にも負けないくらい色鮮やかだと思います。でも、郊外のそれと比べたら可哀想かな・・・奈良斑鳩・法起寺 東大寺上空に、肥満体の龍神さまを発見。街の空も、古都の蒼は格が違うようです。 .
2011.10.10
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秋は夕暮れ夕日のさして、山の端いと近うなりたるに烏の寝所へ行くとて 三つ四つ 二つ三つなど飛び急ぐさへ あわれなり (清少納言 「枕草子」)本格的に秋です。私は相変わらず半袖1枚ですが街をゆく人々の装いもみんな秋になりました。カメラを持ち歩くようになってから秋がいちばん楽しみかも知れません。早く帰ってビールを飲みたいから、京都あたりに出かけても、いつも3時過ぎには帰路につきます。でも昨日は暗くなるまで京都にいました。清水寺の境内から、西山に沈む夕陽を撮りたかったからです。 秋は彼岸花に始まって、澄んだ空、コスモス、やわらかな陽射しにそして晩秋の紅葉。そんな「秋」を求めて、あちこちに出かけたくなります。 10月1日から秋期の発売が開始された「いい古都チケット」を使ってさっそく京都中を回ってきました。先日 彼岸花を撮りながら「もうすぐ街中に金木犀が香る季節・・・」などと思っていたら仁和寺、白峯神宮、そしてたっぷりと御所。京都の街は金木犀の香りでいっぱいでした。 私にとって御所という所は不思議な場所。わざわざ行こうと思うことは少ないのですが、ふと立ち寄っても決して後悔しないどころかいつでも 「来てよかった」 と思える癒しの場所です。自然の中で競い合い、あるいは助け合って生きる木々と違いたっぷりとスペースを奢られた御所の特別な木々たち。どの木も美しく、みんな「私が一番美しい」というちょっとお高くとまった気品があります。 遠く東に望む大文字山は、秋の色づきが始まろうとしていました。不自由な足を引きずりながらもまだ帰りたくなさそうな顔の妻を見て「夕陽でも撮りに行こうか」と言ってみたのです。 「WBを曇りに変えてみるといい」私は妻にも決して「AUTO」で撮らせないので、設定の指示をします。でも最近は、露出補正は自分でやるようになった妻。新しいカメラが相当気に入ったようです。 まいて雁などの列ねたるが いと小さく見ゆるはいとをかし日入り果てて 風の音 虫の音など はた言ふべきにあらず 枕草子いつもなら家でビールを飲んでる時間まで二人でシャッターを切り続けていました。清水坂を下りながら、これも爽やかな秋の風のおかげかなぁと枕草子の一節を想いながら歩いた私。生八つ橋など、おみやげもの屋で食べ物を見るたびに「お腹すいたー!」と叫ぶ妻。
2011.10.02
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花の名を知らずそれどころか そもそも花を愛でる風流を持ち合わせず春の桜にさえ目を向けなかった私が、最近はこうして花の写真なんぞ撮ったりしています。それは年齢のせいではなく、きっと6年ほど前に始めたデジカメのおかげなのでしょう。 先の連休初日の朝、突然、彼岸花を撮りたいと思い立ちました。デジカメを始めて以来、毎年のように「明日香村に彼岸花を撮りに行きたい」と思いながらずっと実現出来ていません。うっかり時期を逃してしまったりお墓参りのために若狭に行っていたりお天気に恵まれなかったり・・・。 「彼岸花を撮りに行こう」今年はお彼岸の連休初日に思い立ち、カメラを買い換えたばかりで「やる気満々」のはずでしかも台風一過の晴天。一番最初に思いついたのは、もちろん明日香。でも、結局のところ撮影場所に選んだのは・・・ なんと万博記念公園でした。ここを選択するにあたって、私は自分自身にいろいろ言い訳をしました。「起きるのがあと2時間早かったら・・・」「まだ家内の足では、あそこは無理やろう」(ヒザの怪我でリハビリ中)「三脚を買ってから行こう」etcそしてさらに・・・「彼岸花を撮るなら場所なんて関係ないやん」「アップで花を撮れば、明日香でもどこでも同じ」などなどwww明日香は無理だったとしても以前の私なら、ネットで検索した彼岸花の名所に向かったかも知れません。万博記念公園は自転車で行ったこともある、いわば「ご近所」です。今回は家内のヒザが悪いので、JRとバスを使いました。家内のことがあるとは言え、なんだか行動力の面で「歳とったかなぁ」と思ったのであります。それにしてもですね、ここはよく出来た公園だと思うのです。 1970年の大阪万博終了後、会場は自然文化園として整備されました。広大な公園内には、季節の花が咲く丘や茶畑、ケヤキの並木道。プラタナスの大通りに桜並木や梅園。メタセコイヤの水辺に竹林。多彩な「自然」が楽しめるのです。 園内には滝や川もあります。流れる川はおそらくは全て人の手で管理されていて流れる方向も流れる水の量も決まっているのでしょう。明日香村の彼岸花は、また来年ということで・・・。それにしても彼岸花という花は実に律義な花で冷夏でも猛暑でも、雨が多くても少なくても気候の変動に左右されることなく必ずその名の通り「お彼岸」前後に咲くのです。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、めっきり涼しくなってまいりました。ここに載せた写真を撮影してから1週間。万博記念公園ではコスモスが咲き始めたそうです。もうすぐ街には金木犀が香り始めそして私はまた歳を1つ重ねるのです。 ※わたくし、11月生まれなもので・・・ .
2011.09.29
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猛暑の中、箕面・滝道を歩きました。例年ならこの時期に行くことはないのですが、家内のリハビリと、新しいカメラの試し撮りを兼ねて慣れた滝道を歩くことにしたのです。 夫婦ともカメラを買い換えました。従来と同じメーカーのものとは言え、手に馴染むまでにはしばらくかかりそうです。いろいろ設定を変えて試し、ディスプレイで確認しては一喜一憂。どこでどんな写真が撮れるか熟知している滝道ですが、私も今回はけっこう戸惑いました。 せっかくの緑を楽しむ余裕もなく、夫婦ともファインダーを覗き、悪戦苦闘しながらの散策。それでも、確かな手応えは感じられたので少しずつイメージ通りのものが撮れるようにがんばります^^。AUTO(全自動)で撮れば楽なのでしょうが、今までいろいろとやってきたプライドがそれを許しません(笑)家内は「風景モード」を使っていたようですが、私は自分のスタイルにこだわりました。 しかし、あまり上手く行っていないようなのでどんなこだわりか、恥ずかしくて言えませんが・・・。それにしても暑かったです。私は往路の途中で既に、帰ってからのが頭にちらつきました。 家内はやっと松葉杖を手放したばかりなので、ここまでたどり着くのに1時間半ほどかかりました。5ヶ月前の私といい勝負。これから徐々に夫婦共々体力をつけながら腕の方も磨いて行きたいと思っています。 箕面に着いてすぐ、今まで使っていたカメラを持って「今まで、本当にありがとう」そう言って2枚ほどいつもの場所を撮りました。しかしファインダーから見える景色は、従来とは違っていました。それを見ながら、もう後戻りは出来ないんだと感じたのです。滝道は、やはりいつでも私に何かを教えてくれるそんな場所のようです。 .
2011.08.30
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本文中には「弟子に下見をさせた」とありますが、実はマリアさんのブログを見て、居ても立ってもいられなくなったのです。新緑のすばらしさに惹かれたのですが、神護寺は和気清麻呂公ゆかりの寺。吉備国出身の私としては、是非とも行っておかなければなりません。 こちらではお知らせしていませんでしたが、先月下旬から今度は妻が入院しています。交通事故で足に大怪我を負い、来月末まで入院の予定です。そのため神社・仏閣巡りも中断していましたがとうとう我慢が出来なくなって、妻に内緒で京都へ行ったのです。 ★ ★ ★高雄にある神護寺(じんごじ)に行ってきました。先日、弟子に下見をさせてみたところなかなかいいお寺のようなので行ってみることにしたんです。→ マリアさんのブログ弟子の報告によると、新緑が美しい寺ということでとても楽しみにしていたんです。私はモミジの紅葉よりも新緑が大好きなんです。しかし、こんな坂道のことは聞いていませんでした。 体調の方はかなりいいのですが、まだまだ上り坂はキツイですし、走ることも出来ません。だいたいここまでも、周山街道の高雄バス停から相当な高低差。つづら折りの坂道を清滝川まで下って来たのです。帰りのことを考えると憂鬱な気分になるような道を下って来たのにまた再び上り坂とは納得が出来ません。ここから境内までの途中から、ちょっと振返って見ました。 向こうの方に見る建物のあたりから、私は坂道を下りそしてここまで上ってきたというわけです。帰りはまたあそこまで歩かねばならないのです。 確かに楼門に着いた時は「来てよかったなぁ」とは思った。しかしその楼門から振返るとまたゾッとしたのですよ。1年を通じて多くの参詣者が訪れるそうですが、全員が私と同様に坂道を下り、そしてこの坂を上って来るのです。この寺には車で乗り付けることは出来ないようです。 マリアさんが健脚だということを忘れていました。彼女はこのくらいの道は何ともないのです。10kmや15kmを平気であるく人だから。ちなみに私は1.0リットルや1.5リットルのビールは平気です。 今回この神護寺には新緑に引かれて来たのですが、以前から気になっていたお寺でもありました。神護寺は和気清麻呂公(わけのきよまろ)ゆかりの寺でその墓もあるお寺なのです。私たち吉備国出身の者にとって、和気清麻呂と吉備真備は郷土の誇りなんです。 この写真は境内に入ってすぐの場所にある「和気公霊廟」これは遙拝所、またはお仏壇のようなものでこの後方の山の上に清麻呂公の墓があります。おそらくこの霊廟が護王神社の元なのでしょう。現在、清麻呂公は奈良時代終盤に天皇家を救った人物としてまた、平安京造営に功績があった人物として御所のすぐ隣、烏丸通りに面した場所にある護王神社の御祭神として祀られています。→ 護王神社と和気清麻呂 和気清麻呂公墓への参道は、金堂の右裏手にあります。ここから先はお線香の香りはなく、神聖な雰囲気が漂っていました。拝観受付の30分くらい前に入山させていただきました。金堂はまだ扉が開けられていなかったので、先に清麿公墓に向かうことにしました。 金堂や多宝塔などもすばらしかったのですが私はこの道に入った時、本当にここまで来てよかったと思いました。周山街道(国道162号線)から下り、上った疲れも吹き飛んだのです。お寺の境内という雰囲気ではなく、また山岳密教の寺社といった気でもありません。 多くの参詣者が訪れる寺なのだそうですが、ここまで足を伸ばす人は少ないのでしょう。苔むした場所もありました。 ここが和気清麻呂公墓。山深い場所のようですが、金堂からは10分足らずで着きます。側面に石垣が組まれていて盛り土がなされた墳丘のようにも見えます。しかし古墳のように石室があるかどうかは不明。てっぺんに墓石がありますが、後の時代に設置されたものかも知れません。 この神護寺の開基は清麻呂公です。その境内にある墓にもかかわらず、仏教の墓のような感じではありませんでした。お線香や花が手向けられた様子もなかったどころか、墓石の前には榊のようなものが見えました。このあと、高雄から京都市街に戻ったのですがさすがに 酔って 疲れてしまい護王神社まで行くことが出来ませんでした。この次ぎ京都を訪れた際は、必ず護王神社に参拝しようと思います。高雄は京都市右京区にあるのですが、ご覧のようにかなりの山の中。なかなか行く機会はないのですが、近くにある名刹・西明寺や高山寺への参詣は断念しました。まだまだ体力不足のようです。早朝だったにもかかわらず、バスを下りた途端に汗ばむ陽気。加えてあの坂道を上り下りしたわけですから、私はすっかり汗だくになってしまいました。私は大汗をかくと、お茶や水では喉が潤わない体質です。おまけになぜか、横綱ラーメンが食べたくなってしまいました。ただし、私が神護寺だけで高雄をあとにしたのは体を案じてのこと。決して横綱ラーメンとがちらついたからではありません。 「ラーメン党」と呼ばれる人が、世の中にはたくさんいるそうです。しかし私はそれほどラーメンが好きというわけではありません。むしろお店でラーメンを食べることなどほとんどありませんでした。しかし数年前、和歌山ラーメンと出逢ってからはすっかり豚骨醤油味の虜になってしまいました。横綱ラーメンは京都の屋台が発祥で、和歌山ラーメンではありません。しかしそのスープは豚骨醤油味で、和歌山ラーメンに似ているんです。画像の右上に見えるのは、私のお薬です。からだがすごくお薬を欲していましたが、1杯だけでやめました。そんな自分を自分で褒めてあげました。神護寺の金堂など、境内については龍水の方でご紹介します。 .
2011.05.22
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箕面にある明治の森国定公園。そこの滝道は、私にとって特別な場所です。2004年の夏、滝道のすばらしさを多くの人に伝えたい。そういう思いから、あるサイトでブログを始めました。初めてここにお越しくださった方、そして私と滝道との関わりをご存知ない方々に念のため前もってお断りしておきます。滝道の木々とは20年近い付合いになります。「オトモダ木」と称し、特に親しい木には名前も付けています。 待ちに待った新緑の季節がやって来ました。紅葉の名所と言われる箕面ですが、私はここの緑を愛しています。毎年、何度もここのことをご紹介しています。同じ様な写真、同じ様な文章ですがご容赦ください。 阪急箕面駅の改札を出てすぐ正面の坂道を行くと温泉やプールで知られるスパーガーデンがあります。そこを越えて滝までの約3kmの遊歩道が「滝道」です。「もみじの天ぷら」などを売るお店が途切れたあたりでまず迎えてくれる「不思議ちゃん」は、何度見ても、どこが根っこでどこが先っぽなのか不明の木。 昆虫館を越えてすぐ、右側に立つ鳥居から滝道本道を逸れて瀧安寺の境内の方に行きます。上の画像は、観音堂の裏手にある鳥居です。私はいつもここから石段を上って弁天堂に向かいます。 この上に、瀧安寺の本来の本堂・弁天堂があります。役小角(えんのおづぬ=役行者)が開祖と言われ、あまり知られていませんが、この寺は日本最古の弁天堂。弁才天さまは、箕面の滝に初めて顕現されたと伝えられています。弁天堂(本堂)の横を抜けると、再び滝道本道に戻れます。弁天堂に参詣後、いつもは姫岩方面の道を歩きますが今回はまっすぐ滝を目指して本道を歩くことにしました。 瀧安寺を越えると、滝道は緑一色。晴れた日は、眼下の川も道も全てが薄黄緑色に染まります。画像は滝道で最も堂々とした楓。箕面・滝道の「King of maple」と、私は勝手に思ってます。滝道ではほとんど直射日光に当たることはありません。「雨が降っても傘がいらないのでは?」と思うような緑のアーケードが滝の手前まで続いています。(※実際は、雨が降ったら傘がいります) 滝道の本道は、全線このように舗装されています。脇道は歩きにくい場所や石段もありますが、本道は急な坂道もなく、危険な場所もありません。舗装も柵も、自然道らしく配慮された色やデザイン。この柵は木製のようですが、コンクリート製の擬木です。現在、電線や電柱をなくす工事が進められているようです。 滝道のすばらしさは木々の新緑だけではありません。時には足元を、時には深い渓谷を流れる清流。何年もここでカメラを構え、滝道で数千枚の写真を撮っていると思います。しかし、ここのすばらしさを見たままの深い渓谷を撮ることが出来ません。 私が「緑の大聖堂」と呼ぶこの場所は「釣鐘淵」と名付けられています。写真でも言葉でも表現できない神聖さ、雄大さなのです。上の画像は、デジカメの「PhotoStitch」という機能を使って4枚の画像をつなぎ合わせたものです。 では、少しだけ仲良しの木々をご紹介します。滝の少し下にある茶屋の川向かいが、私が一番よく通う場所です。夏にはこのあたりで蛍の乱舞を見ました。 その場所にいる、最も新しい友人の「つばきくん」なかなか男前の木です。この辺りの3月の様子や、「つばきくん」命名の理由などは→「こちら」の記事をご覧ください。 まだ雪が降ってた頃に出逢ったのですが、彼とは新緑の季節に写真を撮る約束をしていました。この「つばきくん」新緑の彼を初めてじっくり拝見しましたが、なかなかの木です。根元あたりから見上げた姿が最も自信ありげ^^ 一番世話になってる「pow-pow」は、モミジのくせに紅くならない偏屈者(笑)彼の一張羅は新緑の黄緑なのですが、今年の色は元気不足かも。それはきっと、3月にたくさんエネルギーを使ったから。「あの場所」に、真っ先に駆けつけて見えない雨を降らせてくれたから。 気品高い姿が自慢の「龍樹(りゅうじゅ)」右腕の傷も、だいぶ目立たなくなりました。でも、ちょっと痛々しさは残っています。この「龍樹」と「pow-pow」が、最も古い友人です。滝道を歩いた時は、滝まで行かないことはあっても彼らに会わずに帰ることはありません。 滝道の終点は、もちろんこの箕面滝。日本の滝百選の一つにも数えられた名瀑。落差は33mだそうです。昨年の秋、熊野で見た那智大滝は落差133m。日本一と比べちゃかわいそうですが、この滝とこの森が、梅田からたった1時間ほどの場所にある。なんだか信じられません。箕面の新緑は今が見頃。5月下旬になると、やぶ蚊が出てきます。ここの緑は、10月の終わり頃まで楽しめますが今が最も美しい時期だと思います。
2011.05.07
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今年も桜を見逃したかと思っていましたが、なんとか間に合いました。大阪は既に葉桜で、湖東の草津辺りでも散り始めていましたが甲賀町ではちょうど満開になったところでした。 コンビニどころか、自販機さえないのどかな里で蒼い空と春の風をたっぷりと楽しませてもらいました。今回の訪問地は甲賀市甲賀町の油日という所。 安土町や、野洲の朝鮮人街道の神社を廻りすっかり近江国の神社に魅せられてしまいました。と、いうことでまたもや、湖東の草津辺りから甲賀に向かったのです。 今回もレンタサイクルでのんびり廻りました。最初に向かったのは油日神社。ここも期待に違わぬすばらしい神社でした。安土町の沙沙貴神社楼門もすごかったですが、油日神社の楼門も、なかなか気品がってそれでいて力強さも感じるすばらしい楼門だと思います。 続いて向かったのは櫟野寺(らくやじ)。せっかくここまでやって来たのだから、油日神社だけではもったいない。そんな気分でついでに寄ったようなお寺ですが、気持ちの良い境内でした。この辺りは女性に人気の随筆家、白州正子氏の著書の舞台となった場所。 甲賀と言えば連想するのが忍者。JR草津線・油日駅の駅舎は、忍者屋敷をイメージしたものだそうです。伊賀上野辺りは、けっこう「忍者の里」をアピールしていましたが油日周辺ではイラストひとつ見かけませんでした。駅舎 しかしこの駅舎、甲賀忍者の屋敷をイメージしているためか今でも伊賀者から狙われているのでしょうか?地元の方々は警戒しておられるようです。 「油日駅を守る会」素敵な駅舎なので、しっかり守っていただきたいと思います。そう思った瞬間、目の端でとらえた怪しい影。伊賀者か・・・。 大丈夫。伊賀忍者ではありませんでした。そこにいたのは、とっても雑な(笑) 飛び出し坊やでした。 .
2011.04.20
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さて、真の継体天皇陵と言われている今城塚古墳。最寄り駅はJR摂津富田。徒歩で約30分。または高槻市営バス奈佐原方面行き氷室より徒歩5分。近くにもバス停がありますが、どの路線なのか知りません。以前は「福祉センター前」というバス停でしたが現在は「今城塚古墳前」に名称が変更されていました。詳しくは摂津富田駅前の高槻市営バス案内所でお聞きください。 付近の大きな地図は → こちら(MapFanWeb)隣接の「今城塚 古代歴史館」では、付近の歴史や今城塚古墳から出土した埴輪、復元された石棺などが展示されCG映像で今城塚古墳や遺構、埴輪の解説が常時行われています。しかも常設展会場は無料です。甲冑の試着や、勾玉製作の体験コーナーもあります。古代史ファンなら半日くらいたっぷり遊べるでしょう。さて、この歴史公園で驚いたのは墳丘部です。 内濠だったところは、大部分が芝生広場になっています。今後いろいろと整備されて行くのでしょうが、内堤部は遊歩道になっていて、墳丘部全体を眺めることが出来ます。そして内濠部に下りるだけでなく、墳丘部も開放されていたのです。これには驚きました。鎌倉時代に盗掘にあい、戦国時代にはその名の通り城が築かれ大地震によって崩れたり、石室も石棺も破壊されしかも大量の土砂も無くなってしまっているとは言え天皇陵と推定される古墳なのです。墳丘部前ではさすがに緊張し、一礼してご挨拶を述べてから入らせていただきました。 後円部にあたるこの付近は、石組み遺構が発見された場所です。現在は埋め戻されているようです。古代史ファンとしてはゾクゾクするような体験ではありますが、同時にふと疑問にも思えました。 ここを訪れていたのは、ほとんどが歴史愛好家の方々と思われましたが子供たちの遊び場にもなっているようでしたし、早くもゴミがけっこう落ちていました。天皇陵であったかどうかはともかく、やはり高貴な人のお墓なのですからもう少し見学方法に配慮が欲しかったと思いました。しかし私個人としては、非常にありがたいことだと思いました。畏れ多い気持ちもありましたが、墳丘部に入る興奮の方が勝っていたのです。 前方部付近は、築造当時の様子を再現して内濠に水が張られていました。ただし、あまり深くはないようです。これならフナやブラックバスを放して釣りをしようなんて輩は出ないでしょう。整備前の濠では、けっこう釣り人の姿を見かけた記憶があります。 埴輪のレプリカも今後が心配ですし、墳丘部も荒らされてしまうような気がしないでもありません。古代史ファンで興味のある方は、自由に見学するのは今がチャンスかも。今後は制約や、立ち入り禁止部分が設定される可能性も考えられます。 古墳に隣接して建てられた「今城塚古代歴史館」そんなに大きな博物館ではありませんが、古代史ファンにとっては充分に見学する価値ありの場所です。 .
2011.04.14
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大阪府高槻市にある、今城塚古墳。今世紀に入ってから、日本最大の家型埴輪を含む即位か葬送の儀式を思わせる大量の埴輪の発見や巨大な石室を支える石組み遺構などが見つかっています。2007年3月に行われた石組み遺構の現地説明会には私も参加しました。その時の様子は、下記リンク先の過去記事をご参照ください。 今城塚古墳現地説明会その1 今城塚古墳現地説明会その2あれから4年。今城塚古墳周辺が歴史公園として整備され先日、待ちに待ったオープンの日を迎えました。 墳丘の周辺の遊歩道と、発見された遺物が展示される施設。歴史公園と言っても、その程度のものだと思っていました。しかし、思ったよりもすばらしかったです。歴史に興味のない人にとってはただの緑地公園なのですが、私たち古代史ファンにとってはたまらなく興奮する公園が出来上がりました。 先ずは埴輪群。発見された場所に、発見されたままの配置でレプリカで復元されています。博物館の展示室で見る埴輪と違って、当時の様子がよくわかります。堀の周囲や墳丘部にずらりと並んだ円筒埴輪は6000個ほどあったと言われています。 この埴輪列の先頭は、馬とこの正装した武人。周囲に並んだ円筒埴輪も含め、これらは全て素焼きの焼き物のようです。お好きな方は、早めに見に行きましょう。間違いなく、悪戯や事故ですぐにあちこち壊れると思います。 武人の後に控えしは、力士たち。手前に写っている影は私ではなく、力士の埴輪の影です。念のため。 家型埴輪の周辺で踊っているような埴輪は巫女だそうです。高床式や入母屋造りの家型埴輪や、鶏の埴輪も並んでいますね。 最大の家型埴輪は高床式の祭祀場でしょうか。大王の居住した家かも知れません。これらは隣接の「今城塚古代歴史館」で、実物や復元されたものを見ることができます。また歴史館内ではCG映像で、これらの埴輪の解説が行われています。 申し遅れましたが、この今城塚古墳はただの前方後円墳ではありません。ほぼ間違いなく、真の継体天皇陵だと思います。宮内庁が管理する天皇陵や皇族の墓、そして陵墓参考地は発掘調査はおろか、学者の立ち入りすら原則として認められていません。しかし継体天皇陵は現在、茨木市にある太田茶臼山古墳が比定されているためこの今城塚古墳は長年の発掘調査に加え、こうして一般にも公開されました。 ついつい興奮して、埴輪群にスペースを費やしてしまいました。次回は、この「いましろ大王の杜」でもっとも驚いたことをたっぷりとご紹介したいと思います。 .
2011.04.13
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■3月24日 祈りこの日の箕面駅では雨にも雪にも降られなかった。いつものように瀧安寺・弁天堂から姫岩を通って滝に向かう。 そして、私が「緑の大聖堂」と呼ぶこの場所で祈った。今は葉を落としているが、あと2週間もすればここは一面薄黄緑に染まる。緑に萌えて、山がもくもくと大きく膨らむ季節がやって来る。祈りながらもふと、「こんなことはただの自己満足に過ぎず、自分は偽善者ではないか」そんな思いが心によぎる。サイトを通じて数百円の募金をしただけで、毛布1枚すら寄付していない私は被災地の人々の何の役にも立っていないような・・・。 森の木々が言った。 「俺たちを見てみろ。葉を落としても、足元さえしっかりしていれば何度でも新しく成長することが出来る。さくねんの俺たちを思い出してみろ」2010/11 この画像はその上の画像と同じ場所、昨年11月の紅葉直前の木々。つばきくんやpow-powの元気な姿が見える。 つばきくんの彼女のハルちゃんは、まるで彼の根っこから生えているように見える。 「なぁple。俺たちはな、君らのような恋愛はしないしセックスもしない。でも、こうして寄り添って生きている。そして時には陽や水を求めて競い合う。君たちが『愛』と呼ぶものを、俺たちは『共存』と呼ぶんや」 森を流れる清らかなせせらぎの水。この水は急流や激流にもなり、そして津波にもなる。しかしせせらぎの水がささやく。「私たちに『怒り』はない」そう。私は神にも怒りはないと思っている。神も自然も、常に私たちに与え続けてくれている存在なのだと。ただし私たちは『愛=共存』を忘れてはいけない。 せっかくなので、滝にも挨拶して行こう。まだまだ体力が戻らない私は、ここまで登って来るのにいつもの3倍の時間がかかった。看板にはご丁寧に「 ← 滝 」と書いてくれているが・・・ 言われなくてもさっきからずっと見えてるんですけど・・・。 清々しい風とマイナスイオン。そんな癒しの場所だと思っていたが、ふと滝を見上げて気が付いた。ここは付近一帯が、ひとつの大きな磐坐だったということを。役行者が修行中に顕現した弁才天さまは、きっとこの磐坐に降臨されたのだろう。今回は帰路の弁天堂付近で雨が降り始めた。「もう帰っちゃうのか?」そう言われているような気がした。「ありがとう・・・」そうつぶやいたら、なぜだか涙があふれた。かっこ悪いので、ハンカチで鼻を押さえて花粉症のフリしながら駅まで歩いた。こんなおっさんが、涙を流しながら歩いてるのって周囲の人の目にはどう映るのだろうかと考えるとこんどは笑えてきた。「キモイ・・・」 そうだ。私たちは笑顔で元気でなくちゃ。私たちが元気でなけりゃ、被災地の人々を救えない。再生のための根となり、養分となってガンバロウ。 .
2011.03.27
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今、東北の人たちのためにそして原発被害軽減のために各地でいろいろな人たちが祈りを捧げています。宗教家でも神秘家でもない人たちが心をひとつにして東北の人たちのことを心配しています。なんとか、一人でも多く、一日でも早くと。そして私は、弁才天さまのお膝元で山の神、水の神、森の神、そして森の木々に祈ることにしたのです。そんな「祈り」がいったい何になるのか・・・。箕面まで行く電車賃を、東北の人たちのために寄付した方がよっぽどマシだと言われるかも知れません。寄付はあとからでも出来ますが、私は今は、祈りたいと思ったのです。あれから1週間が経った3月17日、私は再び箕面へ。地震のあった11日、「原点に帰る」と、息巻いて箕面・滝道に乗り込みました。しかし駅に着いた途端、激しい雨に見舞われました。まるで「本気で来る気があるのか?」と、試されていたかのように。滝道に続く坂道には、早春の陽がさしているのに私の回りだけ雨が降っているみたいな気がしました。改札口を出た人たちは、躊躇することなく傘もささずにどんどん街へ出て行く・・・。 「あなたのそばに行かせてください」私としては、かなり殊勝に弁才天さまにお願いしてなんとか山に入ることができたのでした。そして17日は・・・、なんと雪。ふと、帰ろうかとも思いました。でも、東北の被災者のみなさんのことを思えばこんな雪・・・私にはコートも、手袋もあってそして帰る家も暖房もある。私が寒さに耐えたり、少々濡れたからといって被災者の方々が助かるわけではありません。でも、行かなければ。 ■3月17日 原点で祈る 「じたばたするでない」山の神は言う。「いったいどれほどの長きに渡り ここで水を生み、木々を育んできたかわかるか?」そう。人間という存在も、その営みも自然の雄大さや地球の歴史と比べればちっぽけなもの。私たちは、自然も季節も何もかもコントロールできるなんて大きな勘違いをしていたのかも知れない。木々の顔色を見てもう大丈夫かも知れない・・・。ふと、そんな風にも思った。しかし、こんな声も聞こえたような気がした。「ただし、己のケツは己で拭け・・・」原発のことだろうか。箕面の弁才天さまも山の神、水の神も、その日は何も語らなかった。ただ木々たちはささやき合っていた。旧友のpow-powや龍樹は試すような目つきで言葉を濁す。「できるか?心をひとつに・・・」「やってやるとも」仮想空間やディスプレイの中で呑気な顔したアバターたちだがみんな見えないタスキをかけている。そこには「東北ガンバレ」「負けるな」と書いてある。アメーバPiggでピンクや青の義援金Tシャツを着た連中がポカンと口を開けて上を向いている。その先には義援金の赤い風船が飛ぶ。その他のウェブサイト、SNS、そして携帯のゲームサイトにも義援金募金の呼びかけが掲載されている。登録者たちはプロフの欄に、自己紹介の代わりに「被災者の方々頑張ってください」などと書いている。日本で最も忍耐強い人たちが雪の舞う寒空の下で、一生懸命に耐えている。彼らに、「私たちがついているゾ」とみんなで言おう。日本中の人たちが今、心を合わせ優しい気持ちになっている。日本で最も忍耐強い人たちだけど彼らには今、救けが、日本人の救けが必要なのだ。愛国心という言葉が教科書から排され、国歌や国旗に背を向ける一部の教師たち。愛国心や君が代や日の丸が戦争を起こすとでも言うのか。愛国心のない国は滅びるだろう。私はこの国が好きだから、滅ぼしたくはない。私はこの国が好きだから、この国の誰ひとり不幸になって欲しくない。お金を寄付できる人、ボランティアなどの行動を起こす人。だけど何にも出来なくても、東北の復興を願い、祈ることは出来る。現地で奔走するレスキュー隊も、これから活動しようとするボランティアたちも何らかの支援活動に参加する人もお金や支援物資を寄付する人もただTVを見ているしかない私たちもその思いはみんな同じだと思う。日本中がひとつになる。必ず大きな力になるだろう。山の神、水の神、そして森の神々もきっとそれを期待しているのだと思った。 「あのなぁple、お取り込み中わるいんやが・・・」「え?」「オイラ、椿ちゃうねんけど・・・」「お、つばきくん、隣にいるのは椿か?」どうやら「彼女」らしい。「そのカワイ子ちゃんには『ハルちゃん』て命名しよう」「なんで?」「なんでって・・・、その、あの、春やしな(^∇^)」 椿と言えば、脇道でこんな光景をよく見かける。道に落ちた椿の花を柵の上に並べているのだ。最初に見たときは、子供の遊びかと思った。しかし、何度もこういう光景を見る。きっと誰かが始めて、またそれを見た誰かがマネしているのだろう。伝染するのは病気ばかりではなく善意だって愛だって伝わって行くのだろう。こんなちっぽけなことでも、心が和む。誰かのために出来ること、私たちにもきっとある。 3月24日の「祈り」につづく .
2011.03.24
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東北で未曾有の被害が出たあの地震があった日私は自分の原点である、箕面・滝道に向かっていました。大阪でも揺れを感じたというあの時間、私は阪急電車の中にいて気づきませんでした。そして、あの震災のことなど全く知らぬまま山に入っていたのです。 ■3月11日 「原点に帰る」 とある理由から、原点である箕面に行こうと思った。「原点に帰ろう」そう思ったのだ。まずは瀧安寺・弁天堂で弁才天さまにご挨拶。お賽銭はいつもの100倍した(100円だけど)。弁才天さまのお言葉はいつもと同じだった・・・。滝にご挨拶したあとは、いつものように古い友人達に逢いに行く。 一番仲良しの木に会いに行く途中の脇道。この辺りの連中が、いつでも好意的に騒がしい。「俺にも名前をつけてくれないか」そう言ってきたヤツがいた。ちょうど足元に椿の花が落ちていたので「つばきくん」と呼んでやった。「うぐぐ・・・。オイラ、椿の木ちゃうねんけど・・・」 15年ほどの付合いになる、pow-pow。モミジのくせに、紅くならない偏屈者。一張羅は新緑の緑なんだそうだ。「よ。久しぶり」「おう、pleか。お互い、ちょっと歳くったなぁ」「おめぇ、自慢の枝が1本折れてるな」「ああ、生きるためにはなple、 時には身軽になることも必要や。お前も覚えておけ」葉をつけていないpow-powを見るのは久しぶりだった。 その他の友人たちにも挨拶して、その日は何も知らぬまま山を下りた。帰路の滝道は来たときよりも、少しだけ優しい気持ちで歩く。箕面駅が見え始めた頃、弁才天さまの声がした「何度 同じことを言わせるの?」「・・・」「原点に帰るだなんて、ちゃんちゃらおかしい」「・・・」「あなたはまだ、一度もスタートラインに立とうともしていない」「・・・」「わかってるでしょ?」「おっしゃるとーりです」私は都合が悪くなると「・・・」無言になる。この春は、あと2回来なさいと言われたような気がした。 ※3月17日 「祈 り」につづく
2011.03.24
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朝鮮人街道とは近江国に残る脇街道。徳川家康が関ヶ原での勝利後に凱旋した街道で吉道とされ 将軍上洛の際に使用されるのが慣例となっていたそうです。 滋賀県野洲市から近江八幡市、安土、彦根までの街道で参勤交代には使用が認められなかったが、朝鮮通信使には認められていたので朝鮮人街道とよばれるようになったそうです。 先日廻った安土町など、この街道の周辺の神社は見応えがあります。 先ず最初に参拝したのは御上神社(みかみ)。 表参道は国道8号線沿いになるのでしょうが、 私はJR野洲駅方面から、裏手から鎮守の杜を通る参道を歩きました。 表参道にも回りましたが、西側にあるこの参道がすばらしかったです。鎮守の杜は杉や楠の大木が 並んでいます。まっすぐ天に向かって伸びる杉に負けまいと上へ上へと背伸びする楠が印象的でした。 整然と区画された農地が広がっています。 雲雀の声があちこちから聞こえ、 梅の花をつつく、様々な野鳥の姿も見られました。 生和神社などを経て、兵主大社(ひょうず)に参拝。 「大社」と称されるだけあって、参道も社殿もなかなかのスケール。 大鳥居の前で息を飲むようにシャッターを切っていると 、 地元のおばあさんから声をかけられました。 大阪から来たと言うと、驚いておられました。 「あれまぁ、わざわざどうも」 ・・・(笑) この付近の神社を9社廻りましたが、 伊勢ではなく、神武遙拝所が多く見られたのが印象深かったです。 何か理由があるのでしょうか。 それと手水舎の亀。 これらの神社については、神社ブログの方に 順次UPして行こうと思います。 今回もレンタサイクルで、およそ15km走りました。 .
2011.03.14
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前回からの続きですが、今回は応神天皇陵についてではありません。天皇家(古代)の歴史を知るには、やはり天皇陵の調査が最も有効な方法だと思います。しかし先の日記には「調査目的で天皇陵を掘り返すことには反対」と書きました。では、どうすればいいか・・・。私たち一般人でも、「調査のために、あなたのご先祖様の墓を掘り返しますよ」と、言われたらいやなもんです。しかし、天皇陵は古いものだと1700年前のものもあります。文化財としても天皇家の祭祀の場としても、整備・修復を要するものも少なくないはず。宮内庁書陵部によって、それらは行われているのでしょうがもちろん公開はされません。応神天皇陵などは百舌鳥・古市古墳群に属しています。百舌鳥・古市古墳群は世界文化遺産の国内候補の暫定リストに入っており今後は整備・修復の必要性が高まるかも知れません。そういった整備・修復時に、宮内庁監視のもとで学術的な調査をする。そのようなことは可能なのではないかと思います。実は2008年11月、宮内庁管理の古墳の整備が公開されたことがあります。 公開されたのは堺市の御廟山古墳です。陵墓参考地ではありますが、仁徳天皇の妃を葬ったもの あるいは応神天皇初葬地とも言われる古墳です。濠水の浸食によって崩落が進行している墳丘部・裾回りの修復のため、宮内庁と堺市が共同で行った事前調査の実施に伴い公開が実現したのです。 このような公開が実現した理由のひとつは、墳丘部は宮内庁管轄ですが、濠は堺市の管理・管轄だから。公開は堺市管理の周濠に桟橋を作り、墳丘部周辺から見学する形でした。かなり近くから墳丘部を見学することが出来、場所によっては露出した埴輪に手が届きそうなほど。 宮内庁もこの公開には好意的だったようで、見学者向けに説明板が設置されていたり、簡単な解説もありました。こういう場所に学芸員や学者が立ち会うことが出来ればと思います。 このような場所が、周濠上の桟橋から見ることが出来たのです。ここに学者が立ち入ることが出来れば、少なくとも応神天皇陵の立ち入り調査よりはずっと成果が期待できると思います。こういった調査は、以前は別々に行われていたそうです。いわゆる「縦割り行政」ってやつですね。この時の宮内庁と堺市の合同調査は、調査・工事の効率と経費面を考えてのこと。お役所の仕事もすこしずつ進歩しているのですね。 .
2011.03.05
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前回からの続きです。今回の調査で、誉田御廟山古墳が応神陵である証拠が見つかったら例えば、内堤にこんなものが転がっていたりして・・・ 可能性はとても低いですが、もしも、誉田御廟山古墳が応神天皇陵だと判明したらおもしろいことになります。少なくとも、武烈天皇以前の在位期間・年代について「真剣に」再考する必要が出てくるのです。(なぜ「武烈天皇以前」かは後述)前回も書いたように、応神天皇は3世紀から4世紀にかけての天皇。在位期間は西暦270~310年とされています。そして、誉田御廟山古墳の築造年代は5世紀前半と言われています。その食い違いは、約100年。一方、初代神武天皇の即位は紀元前7世紀。神武天皇が実在した天皇だとしたら、誰が考えても「紀元前7世紀」はあり得ませんね。これは天皇家の歴史を古く装うための年代操作だと言われています。中国の讖緯(しんい)説に基づき、「辛酉は天命が改まる年」という考えから神武天皇の即位を紀元前660年に設定したと考えられています。応神天皇が、記紀に記されているより100年ほどあとの天皇だとしてそれ以前の天皇も100年ずらせばいいかと言えば、決してそんな単純なものではないと思っています。天皇家の歴史を古く装うために、古代天皇がものすごく長生きしたことにしているのです。しかも仲哀天皇のあと、応神天皇が即位するまでに神功皇后が70年もの長きに渡って大和を治めたことになっています。古代天皇の年齢がどのくらい不自然なほど長命だったかは、私が以前、ブログに書いた記事をご覧ください。→ 古代天皇の在位そうして、ちゃんと古代史を見直して行けばあの箸墓古墳だって、ちゃんと倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓だと判るはず。ちなみに、上記別ブログをご覧いただけば判るように100歳を越える天皇は初代神武から16代仁徳まで12人。そして応神天皇の前にほぼ100歳の神功皇后も加わります。私が記紀の編者なら、「天皇家の歴史を古く装え」と命じられたら初代神武から3~4人の天皇が200歳から300歳くらい生きていたことにします。そしてその後の天皇については、正しい年代で記すのです。その方がずっと不自然さもなく、歴史書の編纂も楽です。ナント言っても天皇は、高天原の神々の末裔なので200歳であろうが300歳であろうが長命であってもいいのです。その後の天皇が(人間並に)短命になったのはちゃんと古事記に書かれているのですし。(邇邇芸命と木花開耶姫命の婚姻の神話)なぜこのようなややこしい擬装をしたのか。ちゃんと理由があると考えていますがそのことについては、別の機会に書くことにします。さて、では古代天皇の在位年代をどのように修正するか。それは、やはり天皇陵の調査が最も有効な方法だと思います。私は前回の日記に「調査目的で天皇陵を掘り返すことには反対」と書きました。では、どうすればいいか・・・。少し長くなってしまいましたので、そのあたりは次回に書こうと思います。最後にひとつだけ。この日記の最初の方に「少なくとも、武烈天皇以前の在位期間・年代について『真剣に』再考する必要が出てくるのです」と書きましたがその理由は、今城塚古墳の存在です。現在、宮内庁が武烈の次の、継体天皇陵に比定しているのは茨木市にある太田茶臼山古墳です。その比定については、以前から疑問視されていましたが近年の発掘調査により、そこから1kmあまり北東にある今城塚古墳こそが真の継体天皇陵であると言われています。 上の画像は、以前このブログで掲載した2007年3月の写真。今城塚古墳で発掘された横穴式石室の基礎となるコの字型大規模石組み遺構。現地説明会に参加して撮影しました。今城塚古墳では2001年に、日本最大の家型埴輪をはじめ天皇の即位の儀式を表わしたとも思える多数の埴輪が発見されています。間もなく、今城塚古墳は歴史公園となり近々、資料館もオープンする予定です。この今城塚古墳の築造年代は、継体天皇の年代に合致します。従って、少なくとも継体以降については記紀の記述は本来の年代に沿って書かれていると推察できるのです。 つづく .
2011.02.28
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日本考古学協会などの16学会が24日、宮内庁が応神天皇陵に比定している誉田御廟山古墳の調査を始めました。2007年に宮内庁が内規を緩和し、限定的に立ち入り調査が認められるようになりました。過去には神功皇后陵と言われる五社神古墳などの調査が行われました。何度もこのブログでご紹介しているように、皇族の陵墓は調査どころか、長い間立ち入りすら認められていませんでした。エジプトのピラミッドなどと違って、日本の天皇陵などは「無縁仏」ではないのです。歴代天皇陵や箸墓古墳などは、今上天皇のご先祖さまのお墓なのですから。しかし多くの「天皇陵」などは比定が間違っているとも言われています。天皇の祭祀は正しく行って欲しいとも思います。かと言って、やはり調査目的で皇族の陵墓を掘り返すことには反対です。 せっかく許可された立ち入り調査ですが今回の調査に関する報道を見て、ちょっとがっかりしました。各学会の代表16人が調査したというのが「墳丘の周囲を巡る濠の外側にある内堤」とのこと。しかも歩いて回るだけで、掘ることはもちろんのこと何かを取上げる(拾う)ことも禁止されていたそうです。今までのことを考えると、それでも大きな進歩と言えるかも知れませんが・・・。2008年に行われた神功皇后陵(五社神古墳)の調査結果はどうだったのでしょう。専門誌を購読しているわけではありませんが、少なくとも新聞などで報道されるほどの成果はなかったのかも知れません。田母神俊雄氏が先日、「(調査学者の中に)サヨクの学者が入っていないといいですね。彼らはまた天皇陛下を貶めるトンデモ理論を作るかも知れません」と、twitterでつぶやいておられました。私はその心配はまずないだろうと思っています。たとえ日本を代表する優秀な学者が集まったとしても内堤を歩いて回るだけで、大発見があるとは思えません。しかも「サヨク学者」が何かを発表しようと思っても、かなりやっかいな理論展開が必要になるのです。今回調査対象となった誉田御廟山古墳は5世紀前半の古墳。ですが、応神天皇は記紀によれば3世紀後半から4世紀にかけての天皇。100年ほど時代が合わないことになります。誉田御廟山古墳が応神天皇陵ではないと言うのは簡単ですが、古事記や日本書紀に記された応神陵の記載の説明も必要になります。最近話題になった斉牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)の例で言えば、あらたに見つかった大田皇女墓と思われる塚も含め日本書紀の斉明天皇陵に関する記載内容と合致します。古代史を語る上で、やはり日本書紀の記述を無視するわけにはいきません。古事記で「川内の惠賀」と記載された応神陵。日本書紀ではその記述はありませんが、雄略記に「誉田陵」の記載があります。その「誉田陵」が出てくるのは、河内国古市郡での話題です。やはり、誉田御廟山古墳は応神天皇陵である可能性が高いと思います。 可能性は限りなく0%に近いですが、今回の立ち入り調査で、誉田御廟山古墳が応神陵である証拠が見つかってくれたらいいなと思っています。そうすると、たいへん面白いことになるんですが・・・。次回は日本の古代史観が大きく変わるかも知れない、その面白いことについてと陵墓および陵墓参考地の調査がどうあるべきかについて書こうと思います。 つづく .
2011.02.27
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見るに堪えない見出しが踊る中、24日の夕刊に、「応神陵 研究者立ち入り」という見出しがありました。普段ならすぐに食いつくところですが新聞やTVのNEWSを見る気分ではありませんでした。ニュージーランド・クライストチャーチを襲った地震。多くの、しかも若い、日本人行方不明者が出ています。ただでさえ哀しい出来事なのに、負傷者や運良く助かったけれど、連絡が取れない仲間を心配している人や大切な、息子や娘の無事を祈る親御さんたちに顔だけで善人を装って、デリカシーのない質問をぶつけるアホなマスコミに腹が立つ。行方不明になっている日本人もニュージーランドの人もそしてその他の国の人も1人でも多く、1日でも早く救出されることを祈ります。そして、どうかマスコミのみなさん。阪神淡路大震災の時のように、普段は芸能人の浮気などを追いかけているレポーターをニュージーランドに送り込んだりしないようお願いしたいです。応神天皇陵の立ち入り調査について書くつもりでいろいろ資料や画像を準備していたのですがまた次の機会にいたします。
2011.02.25
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玉置浩二の評判がすこぶる悪い。世間が彼のことを何と言おうが、私も彼に「もの申す」ほどの分別を持ち合わせていないのでワイドショーで伝えられる玉置浩二のことは気にしない。だいたい古くからのファンは、とっくの昔に「彼の音楽だけは愛して行こう」と開き直っているのだ。 乾いたリズム音・・・「こいつが流れて来たら、俺たちはみんな彼を許すのさ」「Oh Baby!」 ・・・と、私がDJならここで1曲かけるんだけどブログではそうはいかないのが「じれったい」 沙沙貴神社 私は感動したんですよ、玉置さん。近江の国はすばらしいじゃないですか。播種を待つ田畑の道を、ほのかに漂う蝋梅のかほりに包まれて私はひたすら鎮守の杜を目指したのですよ。 大鳥居をくぐって歩く参道の先には、見たこともないような茅葺きの楼門。近江八幡の安土町と言えば、先ずは織田信長の安土城跡が有名ですが私ならここを一番に勧めます。安土の郷に鎮座する沙沙貴神社は杜も楼門も社殿も、どれをとっても桁違いの壮観さ。 再びのどかな農道をレンタサイクルで走ると、こんもりと茂った森があちこちに。 神社好きは、地図になくてもこういう場所を見つけたら居ても立ってもいられないのですよ。だいたい、「村の鎮守」といった感じの神社が見つかるしそこが奈良だったら、それはたいがい古墳なのです。どちらにしたって、私は駆けつけたくなるのです。そこにはきっと、質素で心地よい空間があるのです。私たち神社好きは、こういう空間にいられることが本当に「好きさ」熊野神社 私は感動したんですよ、玉置さん。近江の国は本当にすばらしいのです。淡海の風は潮の香りはしないけど、西の国から春を呼んできてくれるんです。地図にも載っていない村の鎮守さま。御祭神や境内社の名前もわからないけど、ちゃんと挨拶するんです。見せ物にしたり、よそ者に媚びを売ったりしない正に郷の鎮守さま。 饒石神社(ニギイシ) 安土駅に着く前に、車窓から見えた大きな杜。天孫を祀る神社の出現に てんしょん が上がる(失敗)安土の郷を走る、電動アシストのペダルは軽快です。バッテリー切れを心配して、下り坂でスイッチを切るのがいかにも小市民でしょう。 奥石神社(おいそ) 安土で「森」と言えば、玉置さん。老蘇森(おいそのもり)ですよ。平安の都びとたちも知る老蘇森に鎮座するお社は天児屋根命を祀る奥石神社。境内には細かな砂利が敷きつめられて隅々までくま手で清められてそこをざくざくと歩くだけで穢身が救われるようです。 私は感動したんですよ、玉置さん。「ワインレッドの心」以降の往年の名曲が、2010年バージョンで甦る。蛇行する轍にハンドルを取られながら、ヘッドフォンのあなたの声に合わせて「なぜ なぜ あなたは・・・」と唄ったのです。たった4時間足らずの散策でしたが、近江の国は本当にすばらしいと思いました。古くから朝廷を支えた氏族の本拠地があり、短期間とは言え、都がおかれた(近江京・大津京)歴史ある場所。京都などのように都市化が進まなかった分歴史ある神社が昔のままの形を残しているのかも知れません。また来よう。「これっきりだなんて決して 言わせない・・・」 ※安全地帯 「Hits」を聴きながらの散策&筆随でした興味のない方、すみませんでした。 .
2011.02.24
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時代の最先端を行っているつもりになっていますが「今頃twitterか!」と、バカにされそうです。アホな政治家でもやってるというので、私にも出来るだろうと思いましたが登録だけはしたものの、さっぱり使い方がわからず放置していました。しかし、時代から取り残されているようで気になっていました。今月のはじめ頃、神社ブログ仲間のうら若き乙女であらせられるレオさんのお勧めで再びtwitterにチャレンジしてみました。 私、実生活ではブツブツとウルサイくせに、twitterではあまりつぶやかず、フォローした方々のつぶやきを眺めています。とは言え、フォローしている人は8人、私をフォローしてくれている方が9人。まだまだひよっこですが、ちょっとづつ参加してみようと思っています。神社参拝に関してのサイトで、以前から尊敬していた方々をフォローしまた、ありがたいことにその方々からもフォローしていただきちょっと感激しています。ただし、イメージと違ってけっこうウルサイ人もいたりして・・・(笑)しかしtwitterがきっかけで、少しだけお近づきになれたような気もして喜んでいます。私が提供した情報を、すぐに記事にしていただいたりなんと、ある方のHPには私が投稿した写真を掲載していただいていたことも判明。神社ブロガーとして、ちょっぴり格が上がったかと悦に入ってます(笑) 有名人はあまり興味はないのですが、田母神俊雄氏はフォローしています。アメブロでブログを書いていらっしゃるのには驚きましたが、さすがにアメーバピグはなさっていないようです。宇宙 アメーバPiggは、とうとう宇宙遊泳まで出来るようになりました。新しい仮想空間が出来たり、イベントがあると満員で入れないことがしばしばあります。いったい何人の人が登録しているのでしょうか?先日しばらくアメブロを放置していた知人が、「ランキングが1,000万位を越えてた」と言っていたのでブログをやってる人だけでも1,000万人以上登録しているということ。アメーバの場合、ブログの投稿はまったくせずpiggだけって人(特にガキ)が多いので、Piggで遊んでいる人はもっとスゴイのかも。年齢不詳のアバターが動き回り、チャットもするわけなので世間知らずの子供やマナーの悪い人との間でトラブルも最近は多いとか。そのため、イケナイことをチャットで書き込もうとしても「不適切な表現が含まれて・・・」と表示が出て、送信出来ないようになったみたいです。 悪友を相手に試してみると、確かに卑猥な言葉は表示出来ません。しかし、ちょっと表現を変えると表示されてしまいました。こういう実験は一人の時にしないと、変態呼ばわりされてしまいます。 閑話休題。twitterの話でした。しかし、意外とご年配の方々もtwitterをなさっているのには驚きました。PCでインターネットをするご年配の方は(そう言う私も若くありませんが)どうも「今風」じゃないと言うか、センスが違うという偏見を持っていました。とは言え、最近でも時々見かけますがご年配の方のHPって、たまに安っぽいmidi音で音楽が流れません?しかも、なぜかBeatlesの曲が多いのです。夜中にそういうHPにアクセスしてしまうと、たいへんなことになります。Beatlesならまだいいのですが、迷い込んだサイトから突然、あえぎ声が飛び出してきて慌てたことがあります。 twitterの話でした。なさってる方がいらっしゃいましたら、いっしょにつぶやきませんか?私はどうやってみなさんを探したらいいのかわからないので、どうかみなさんから私を見つけてフォローしていただきたいです。「@tatsumi_ple」と名乗ってます。よろしく♪ .
2011.02.21
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果物はあまり食べない方ですし、食後のデザートをとる習慣はありませんでした。でも、今は毎食後に大量の「デザート」を飲んでいます。さきほど薬局に行って、デザートを買ってきました。2ヶ月分とは言え、うんざりするような量です今夜のご飯の買い物もしたのですが、スーパーの買い物袋より「デザート」の方がデカイって。 .
2011.02.03
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あまり知られていませんが、奈良に不思議な遺跡があります。奈良時代に造られたとされる、「頭塔」と呼ばれる遺跡です。これとよく似た遺跡が他にもあります。只今、そこを訪れた時の写真を探しています。この遺跡の詳細と類似した遺跡については後ほど「龍水御朱印帳」の方でご紹介しようと思います。 .
2011.01.31
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天正10年(1582年)、明智光秀が起こした本能寺の変で自害したとされる織田信長。その廟所や墓所は、主なものだけでも全国に20ヶ所ほどあるそうです。そもそも信長の遺体は本能寺からは見つかっておらず、その墓所の「本命」は特定出来ません。 先ずは本能寺にある信長墓。ある意味「本命」と言えるかも知れませんが、現在の本能寺は移転していて信長が亡くなった場所ではありません。 秀吉によって信長の法要が行われたのが大徳寺。都中から3千人の僧が集められたと伝えられています。そのような盛大な葬儀を行ったのは、秀吉が信長の後継者であることを世間に印象付ける狙いがあったとか。遺体がないため、秀吉は信長の木像を作らせて焼いたそうです。木像は2体作られ、残りの1体は総見院に安置されています。総見院は、信長の位牌所として秀吉が大徳寺山内に建てた寺。常時公開はされていませんが、先日その坐像を運良く拝することが出来ました。 総見院には、信長一族の墓石もあります。手前から順に、秀雄、信雄、信長公、信忠、秀勝、信高、信好の墓碑。 大徳寺の南、船岡山の中腹にある建勲神社(たけいさおじんじゃ)。信長を主祭神とするこの神社の創建は、元々は明治天皇の命によるもの。「けんくんじんじゃ」と呼び親しまれ、近くのバス停も「けんくん神社前」となっています。京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町 京都にある「信長墓所」で、最も気になるのがこの阿弥陀寺境内にあります。ガイドブックにも載らないこの小さな寺は寺町通り北部にひっそりと佇んでいます。 寺はここに信長の墓があることを宣伝するつもりはないようです。「信長で一儲けしよう」などとは考えていないのでしょう。本堂には信長公と信忠の木像が安置されているそうですが、扉が閉ざされていて拝することは出来ませんでした。檀家さんたちのための寺であり、観光地ではないのですね。周辺にも境内にも案内板等は全くなく、山門前にただ「織田信長公本廟」の石碑が立つばかり。 本堂の裏にある墓地に、ひっそりと建てられている墓石。墓石の前には、「織田信長 信忠 討死衆墓所」と書かれた小さな石碑があるだけ。墓地内では特に目立つものではありません。 信長墓の横に並んでいるのは、本能寺の変の頃信長の近習中の近習といった存在だった森蘭丸とその兄弟の墓。崩壊の恐れがあるのか、テープで巻かれてありました。修復までの応急処置だとは思いますが・・・。この墓所が最も気になる理由は以下の通り。NHKの「歴史ヒストリア」で紹介されていた内容ですが阿弥陀寺には「信長公阿弥陀寺由緒之記録」という記録が残っています。それによると、本能寺の変を知った阿弥陀寺の住職、清玉上人は本能寺に駆けつけ信長の遺骨を密かに持ち帰ったそのことを知った秀吉は、自分が喪主となって信長の法要を阿弥陀寺で執り行なうことを申し出たが清玉上人は拒否。そのため秀吉はやむなく上記の創建院を建てることになったようです。また当然ながら怒った秀吉は、阿弥陀寺を移転させその規模も大幅に縮小させたようです。 上の画像は、阿弥陀寺の墓地内にある清玉上人のお墓です。この清玉上人とういう僧は、織田家で育てられたと伝えられています。阿弥陀寺は近江で開創され、信長の入洛にともなって京都に移転し当初は相当な大寺院だったようです。なお、本堂内の信長像などは毎年6月の「信長忌」(本能寺の変の6月2日か)に公開されるようですが正確なことは日時も合わせて未確認です。信長の遺体がらみでは、遠く静岡県富士宮市に(首塚)があるそうです。本能寺の変で信長の首を密かに持ち出し、西山本門寺に葬ったという言い伝えがあるそうです。 私が知っている(訪問した)信長の墓所は、もう1ヶ所あります。上の画像がそれですが、場所は高野山。秀吉をはじめ、数々の武将などと同様奥の院への参道に建てられています。「鳴かぬなら、殺してしまえ ホトトギス」そんなイメージからか、歴女たちにはあまり人気がない織田信長。男性には人気があるようですが、私もその一人。戦国にはあまり詳しくありませんが、革命児的な信長と「これぞ武将!」といった感じの真田幸村に惹かれます。ちなみに歴女に人気ナンバー1は、伊達政宗だそうです。 .
2011.01.27
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本日の朝刊1面と社会面にまたまた纒向遺跡と卑弥呼の文字が躍っています。今回のNEWSは、纒向遺跡の3世紀頃の穴の土壌からタイ・アジなどの魚の骨や歯、シカなどの動物の骨そして穀類や木の実が大量に見つかったというもの。これらを供物と考え、祭祀の跡と推理するのはいいのですが例によってマスコミ各社は「卑弥呼の供物」というタイトルを付けています。 毎回毎回、纒向遺跡で何か見つかると、必ず「卑弥呼の~」という「枕詞」が付くのはいかがなものでしょうか。私たち古代史ファンにとって、纒向遺跡はとても興味深い遺跡です。しかしそれは「邪馬壹国」としての興味ではなく、大和朝廷に繋がる古代王権の遺跡としてロマンを感じるのです。確かに纒向遺跡は、3世紀の遺跡であることは間違いないのでしょう。つまり邪馬壹国があったとされる時代の遺跡なのです。しかし纒向遺跡は、「3世紀に栄えていた場所だ」ということ以外に具体的に邪馬壹国につながる材料がありません。3世紀頃の遺跡なんて、全国にたくさんあると思いますが纒向遺跡が邪馬壹国である可能性は、九州以外の全国にある3世紀頃の遺跡と変わらないと思っています。纒向遺跡のこれまでの発掘調査から判ることは 3世紀の大和(三輪山麓)に、強大な権力を有した「クニ」があった と、いうことでそれ以上のものではないのです。纒向遺跡が邪馬壹国の有力候補地だと騒がれる理由は、どうしても邪馬壹国が大和にあったと思いたい「邪馬壹国畿内説」によるもの。「畿内説」は魏志倭人伝にある邪馬壹国への行程の記述で「南行」と書かれた部分を「南ではなく、東の誤りである」という強引な解釈で成り立っています。魏志倭人伝の記述は曖昧だとも言われますが、百歩譲って「南行」を「東行」と解釈することに目をつぶっても「女王国の東 海を渡ること千余里 また国あり 皆倭種なり」という、魏志倭人伝の1文は畿内説では説明のしようがありません。纒向遺跡(大和)の東には海なないからです。畿内説を説く人は、この1文を完全に無視しているようですが簡単明瞭で重要な1文ではないでしょうか。ちなみに畿内説では「南行」を「東行」と解釈するわけですから、「女王国の東」の海とは、つまり「女王国の北」の海ということ?どっちにしたって、大和の周辺には海はありません。 また、3世紀頃のものだと判明した箸墓古墳を卑弥呼の墓だとする説がもてはやされています。あの古墳が卑弥呼の墓だと推察出来る理由は、「3世紀頃に造られた古墳である」という以外にはありません。現在、箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命墓(やまとととひももそひめ)の墓とされ宮内庁の管理になっています。ただし日本書紀の記述通りに歴史を見れば、倭迹迹日百襲姫命が亡くなって墓を造ったのは崇神天皇10年のこと。西暦で言えば、紀元前88年のことなんです。従って、箸墓古墳造営時期と異なるのですが私は箸墓古墳は九分九厘、倭迹迹日百襲姫命の墓だと思っています。このブログでは何度も書いていますが、古事記や日本書紀は、天皇家の歴史を古く見せるために古代天皇の在位時期に手を加えていると考えています。上記の紀元前1世紀の崇神天皇は第10代の天皇です。初代神武天皇が即位したのは紀元前7世紀という記述ですからどう考えたって事実とは思えません。しかし記紀の記述を読めば、誰がどう考えたってあの箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の墓だと考えるのが妥当でしょう。従って箸墓古墳の調査結果から言えるのは「箸墓古墳は卑弥呼の墓である可能性が高まった」ではなく、 「倭迹迹日百襲姫命は紀元前1世紀の人だと考えられていたが3世紀頃に生きた皇女だった」 と、考えるのが自然ではないでしょうか。マスコミは、そろそろ「畿内説」の呪縛から解かれるべきです。 .
2011.01.22
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なかなか体力が回復いたしません。リハビリの指導を受けてはいるのですが、30~50分歩けと言われてもこのクソ寒い中、目的もなくただ運動のために出かける気になれません。「目標脈拍数84」と言われても、計るのが面倒です。何とか外に出るために、毎日買い物に出かけていますが自宅周辺の坂道は今の私には過酷な試練となっています。 坂のない場所に出かけて、気分転換でも・・・と言うわけで、久しぶりに京都に行きました。「お礼参りをしていない」と、ずっと家内が気にしていたこともあって7年ぶりの鈴虫寺だったのですが、ご覧のような石段・・・。10分くらいかけてゆっくり上りました。ここへは松尾大社から歩いたのですが、突然の大雪でエライ目に遭いました。 「もう坂道や石段はゴメンや」と向かった先は大徳寺。気になることがあっての訪問でしたが、知識&リサーチ不足。大徳寺境内に入ったはずなのに、広い境内には「拝観謝絶」と書かれた塔頭(たっちゅう)ばかり。それらは「○○院」と書かれた看板があって、大徳寺が見当たりません。(上の画像は大徳寺の三門 (金毛閣)です) 「???」のまま、トイレに行きたくなって駆け込んだのは総見院。何やら「特別拝観」とやらで、拝観料はナント600円也。拝観入口では「おとな2人」の前に、「トイレありますか?」と聞いてから中へ。 なんだかんだ言いながら、総見院では秀吉が作らせた信長坐像と上の画像の織田一族の墓を見ることが出来たのですが実はこれらを見ることこそが、大徳寺訪問の目的だったのです。大徳寺に来たのだから、さも当然とばかり思っていたのですがあとで調べてみると「通常は非公開だが、春秋などに特別公開されることがある」とのこと。 (Wikipedia)もしこの日、総見院が公開されていなかったら大徳寺の実態も判らない上に、信長坐像も見ることが出来なかったわけです。普段の私なら、このあと織田信長つながりで建勲神社とかすぐ北にある今宮神社に参拝するところです。しかしこの日の私は、迷わず最寄りのバス停を目指しました。あまりの寒さに、途中でニット帽も買いました。 次に向かったのは晴明神社。シルバーカーを押す老人にも追い越されるような体力でしたが何かとご縁のある晴明さま。そして晴明神社には坂道も石段もないということで、この日最後の訪問地に選んだのでした。2004年秋の初参拝以来、何度も参拝している神社です。さほど広くない境内ですが、晴明神社は来るたびに何か新しいものが増えています。手水の屋根、厄除の桃、五芒星をあしらった鳥居の額、境内周辺の苔、固められた地面に晴明公坐像。そして昨年暮れには地面に描かれた北斗七星とご神木に作られた台など。 「さすがに、もう何も出来ないだろう」と思っていましたが、境内入口に五芒星の立派な門扉が出来ていました。さすがです。そのうちスッポリと屋根に覆われて、「晴明ドーム」と呼ばれるようになるかも知れません。パワースポットブームで、雑誌などの「神社特集」でしばしば紹介されている晴明神社。しかし安倍晴明公を偲ぶなら、嵐山の墓所の方がマシかも知れません。 ところで、晴明神社でいただいたこの御朱印。「晴明社」の文字は「土御門晴雄卿(安倍晴明の子孫)が、安政元年に揮毫されたものを版におこしたもの」なのだそうです。しかし「京一條戻橋」も日付も、全てゴム印でした。なんだか観光地のスタンプみたいです。 退院以来、初めての長時間にわたる外出でしたが、なんだか内容が薄かったようで濃かったようなお出かけとなりました。はっきり言えることは、とっても疲れたということ。まだまだ神社巡りに飛び回る体力じゃないようです。 .
2011.01.17
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この度の件に関しましては、皆様から多くの暖かいメッセージやコメントをいただき本当にありがとうございました。ブログに「手術します」なんて書くことは、同情を買ったり気を引く行為のような気がしてイヤだったのですが、それなりに覚悟もケジメも必要な状態だったということでお許しいただけたらと思います。 病名は「僧帽弁閉鎖不全」で、しかも重傷でした。左心室から全身に送られるべき血液の半分くらいが、心房に逆流している状態で心不全の1歩手前で、立っていられないほどの呼吸困難が何度か起こってもいました。 こんな心臓で那智を歩き、神倉神社の石段を上ったのかと思うとゾッとします。 「今、手術をしなければ、よくて一生救急車の世話になりながら入退院を繰り返すか悪ければ明日にも心不全etc」思ってもみなかった診断結果に茫然自失状態でした。入院や手術の日程は、強引に着いてきた家内と医師がぼーっとしている私を尻目に淡々と決めて行ったのでした。 何がなんだかわからない状態で診察室を出たナサケナイ私でしたがそれでもひとつだけ強く思っていたことがありました。「絶対に年内に退院してみせる」予定より2日手術が遅れてしまいましたが、年内退院の思いに変更はありませんでした。さらに集中治療室においては、「絶対に尿瓶にもおまるにも、紙おむつの世話にもならぬっ」という決意も加わって術後2日目には歩いてトイレに行き、3日目には一般病棟に戻されたのです。 多少強引に申し入れた感は否めませんが、予定より1日早い昨日、自宅に戻ってまいりました。 完全回復にはほど遠い状態ではあります。リハビリ科での体力測定によれば、同年齢平均の半分以下の体力しかなく歩くのは超スローペースで、荷物も持てません。お酒にもすごく弱くなりました(さっそく飲んだかいっ!!) 本調子に戻るにはまだまだ時間がかかりそうですが、とりあえずPCの前に座ることが出来ました。焦らず、ボチボチと皆様との交流を再開させていただきたいと思います。ありがとうございました。 .
2010.12.31
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手術中に死亡する確率が 3%ありますよと医者に言われましたが なんとか無事に終わり、3日目にして、 一般病棟に戻ってまいりました。 体中、管だらけ。 腕は点滴の穴だらけ。 血管が浮きにくい体質らしく 射してる点滴の数より 看護師さんが失敗した穴の方が多いです(泣)
2010.12.18
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牽牛子塚古墳(けんごしづか)が斉明天皇陵ではないか そんなニュースが報じられてからちょうど2ヶ月。 またまた牽牛子塚古墳付近からのビッグNEWSです。 わたくし、手術をひかえて現在入院中ですが 病室に日本書紀やら古事記やら 古代史関連の資料をしこたま持ち込んでおります(笑) 申し遅れましたが、この度の私の入院では 多くの方々から暖かいコメントやメッセージをいただき 誠にありがとうございます。 ついでに書いたような文章で申し訳ありませんが この場をお借りしまして、御礼申し上げ奉ります。 さてさて、今回発見されましたのは 「越塚御門古墳」と名付けられた石室。 斉明天皇陵との関連から 大田皇女(おおたのひめみこ)墓と考えられています。 その根拠とは、日本書紀の記述です。 天智天皇6年春2月27日 斉明天皇と妹の孝徳皇后とを小市岡上陵に合葬した。この日皇孫大田皇女を陵の前の墓に葬った(以下省略)。 この大田皇女という人は斉明天皇の孫、 天智天皇の娘で天武天皇の后です。 上記日本書紀の記述にある天智6年とは西暦667年。 斉明天皇が福岡で崩御されたのは661年。 孝徳皇后(間人皇女)の薨去されたのは665年です。 大田皇女の薨去については 天智6年あたりの記述では見当たりませんでした。 大田皇女はあの大津皇子と大伯皇女の母親です。 7世紀の天皇陵に特有の八角形であること 二つの石室を持つこと そして今回発見された越塚御門古墳の存在。 牽牛子塚古墳が斉明天皇陵である可能性が 益々高まったと言えるのではないでしょうか。 現地説明会は11、12日両日 午前10時~午後4時。 ベッドの上でそわそわしてる私に代わって どなたか参加&レポートしていただけませんでしょうか ねえ、マリアさん!! ちなみに牽牛子塚古墳の発掘については 9月10日の日記をご覧ください。
2010.12.10
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早いもので、今年も最後の月になりました。12月1日の朝、近所にある神社に参拝したのですが早くも来年の干支の絵馬が飾られていました。 片山神社・携帯で撮影 このふざけたブログ「電子の小箱」、神社ブログの「龍水御朱印帳」ともども今年もたいへんお世話になりました。今年参拝した寺社は114ヶ所。神社巡りを始めて以来、最低の参拝数に終わりましたが熊野に2回(1泊&2泊)、伊勢にも2泊3日で行くことが出来ました。今年、印象に残っているのはその熊野、伊勢、そして平等院。ほぼ不可能だと思っていたそれらの寺社の無人の境内写真が撮れたこと。中でも一番の思い出はつい先日のことではありますが、玉置神社(玉置山)への参拝と、雲海を見ることが出来たこと。 今年をふり返ったり、皆様に年末のご挨拶をするのは12月とは言え少し早いとは思いますがそれには少々事情がございまして。 これより年内は、神社巡りもブログの更新などもお休みすることになりました。日頃の不摂生のせいか、急に入院することになったのです。事態は緊急を要するとのことで、心臓の手術をすることになりました。ブログの更新はもちろん、コメントの書き込み等も出来ないかも知れませんが病床から携帯で、皆様のブログは拝見させていただきたいと思います。 こんな私が言うのもナニですが皆様、お元気でよいお年をお迎えください。
2010.12.03
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久しぶりに箕面の滝道を歩きました。昨年の紅葉も、今年の新緑も見逃していました。滝道のすばらしさを伝えたい。それがブログを始めたきっかけだったので、何だかしばらくサボっていたような気分です。 おちゃめなマイケル 龍 樹pow-pow 久しぶりに会った「お友だ木」たち。しばらく見ないうちに元気がなくなっていたり傷ついていたり。私の内側を反映しているようで、ちょっぴり責任を感じてしまいます。思えば出会いから10年以上たつので、お互い歳をとったということでしょうか。 紅葉のピークはもう少し先のようです。お友だ木だけでなく全体的に「元気がないな」と感じたのは滝道が今、お色直しの真っ最中だからかも知れません。それでも一部では鮮やかな彩りを見せていた木々もあり、川面を夕焼けのような色に染めている場所もありました。 まだまだ緑が多いような気がしたのですが、箕面市のHPなどでは「見頃を迎えた」と紹介されています。 こうして紅葉の部分を切り取って見ると、見頃なのかなぁと思います。滝道の紅葉は、12月初旬まで楽しめるようです。大勢の人が紅葉狩りに来るので、早朝の散策がオススメです。今回は8時過ぎに滝道に着いたのですが、帰りの10時頃にはおよそ3kmの滝道が人で埋め尽くされたような状態でした。女性用トイレには順番待ちの行列も出来ていました。 今日の滝道で最も印象に残っているのはこの場所。私がシャッターを切り始めると、カメラマンたちが大勢集まって来ました。こういう光は、新緑の季節には見られない光景です。 .
2010.11.21
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地味な野菜ですが、私も家内もししとうが大好きです。おでかけ先の道の駅や、産地直売所などでししとうを見つけるとあまりかさばらないということもあって、必ず買ってしまいます。フライパンで炒めて、お醤油をぶっかけて食します。先日の熊野で買った手作り醤油と、なかなか相性がよく毎日でも食べたいくらいです。特に伏見甘長というししとうがお気に入りです。 ところがここのところ、ししとうでエライ目にあっています。先月の熊野で買ったものと、先日立ち寄った十津川村の道の駅で買ったもの。「甘いもの」のつもりでバクバク食べていると、強烈な辛さが・・・。「ぎょあぁぁぁ~!!」と叫びながら部屋中走り回ってしまいました。 慌ててご飯をかき込みましたが、その熱さでさらに口の中が燃えました。最初は唐辛子が1本混ざっていたのかと疑いました。私たちが買うししとうは、たいがい10cmほどの大きなもの。そいつをまるごとかみ砕いたわけですから、その辛さと言ったら半端ちゃいます。しかしあの辛さ、口の中だけならわかりますがどうしてくちびるの回りまでヒリヒリするのでしょうか。部屋の中を走り回っているだけでは何の解決にもならないので台所に行って、水道の水でうがいするだけでなく口の周りもゴシゴシと洗わずにはいられませんでした。熊野で買ったししとうは、辛かったものは1本だけでしたが先日の十津川村のものはおよそ半分が超辛のハズレでした。見かけで判別出来ませんし、その辛さも飲み込んだあとにやって来る感じなので対処のしようがありません。好物を食べるために、ロシアンルーレットをしているような気分になります。 種が少ないものが辛いとか、逆に多いものが辛いという説があるそうですがだいたい、ししとうを食べる時に、わざわざ種の量を確かめて食べるのは面倒です。ちょっとだけかじってみて確かめるしかないようですが、そんな食べ方ではおいしくありません。辛いものに当たらない、何かいい方法はないものでしょうか。 .
2010.11.20
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玉置神社 先月は少々変則的な1泊2日で、玉置神社と熊野本宮大社に行きました。来る者を選ぶとも言われる玉置神社。吉野&熊野の山々の結界に阻まれて、散々な目にあってしまい日記にも書いたように、危うく熊野行きを断念するところでした。リベンジするつもりはなかったのですが、様々な幸運が重なってありがたいことに、あれからたった1ヶ月で再訪する機会に恵まれました。先月の経験から、玉置神社まではナビに頼らずに行きました。 玉置神社参道 ところで神社・聖地を巡る旅での宿泊と言えば、ほとんどの方がビジネスホテルなどを利用されていると思います。そういう旅での宿泊場所はベースキャンプのようなもの。神社参拝や山登りのために早朝に出発したり、翌朝に備えて早々と就寝したり。温泉地でまったりとお湯につかり、豪華な食事を楽しむ旅館ではもったいないです。しかし私はビジネスホテルのユニットバスが苦手です。家内がシャワーを使っているときに、急に腹痛に襲われても○ンコするわけにいきませんし、またその逆はもっといやです。 大柄の私は、シャワーの時にベタベタとカーテンが身体にくっつきます。洗面所だって歯ブラシとカミソリを置くのが精一杯でブラシや整髪料などを持ち込むスペースもなく、ドライヤーも使えません。部屋も狭いし、テレビだってちっちゃいし・・・。猛暑日が続いていた9月の伊勢で泊ったホテルには、冷蔵庫すらありませんでした。今回、2日目に泊った新宮のホテルではエアコンを使う気になれませんでした。エアコンの風がすごく煙草臭かったからです。 しかし聞くところによると、どこの町にも田舎でもなかなか便利なベースキャンプがあるそうです。広いバスルームにゆったりとした湯船。独立した部屋のトイレ(しかもウォシュレット)と広い洗面台。ゆったりとした部屋に広いテーブル、そして大画面テレビ。持ち込みの食品や飲み物を入れる冷蔵庫はもちろんのこと、電子レンジも備え付けられている。そんな夢のような宿泊施設が、ビジネスホテル並かそれ以下の料金で利用できるとか。難点はただひとつ。部屋が少々ケバイことくらい。 ベースキャンプとした、奈良県五條市にある「とある場所」を土曜日の5時半頃に出発しました。今回はナビを無視して168号線をまっしぐら。およそ2時間後に玉置神社に到着し、念願の雲海を見ることが出来ました。少々雲の量は少なめですが、大満足の幸先のよい旅のスタートとなりました。雲海が見られるのは8時半頃までだそうです。今回は貸し切り状態の境内を歩き、感謝の参拝を終えた8時40分頃でも充分この雲海を見ることができました。 玉置神社のあとは熊野三山と神倉神社などを廻り、3日目には熊野古道もちょっぴり体験しました。2泊3日とは言え、ちょっとハードな旅となりました。神倉神社、熊野那智大社、飛龍神社(那智大滝)に熊野古道。しばらく石段は見たくありません。 .
2010.11.16
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紅葉の季節には少し早いのですが、紅葉や桜の季節に私がよく行く京都をご紹介します。地下鉄東西線の蹴上駅からおよそ15分。蹴上で降りた人はほとんどが南禅寺方面に向かいますが、へそ曲がりの私は逆方向へ。蹴上取水場の煉瓦造りの建物を見ながら坂道を上った先に紅葉や桜の穴場的名所と言われる日向大神宮があります。 紅葉の見ごろは11月中旬あたりだそうです。境内のモミジも、まだ緑のままで色づく気配すらありませんでした。ちょっと「ベタ」なコースではありますが、ここから私のお気に入りの京都散歩がスタートします。蹴上取水場の煉瓦の建物も大好きなのですが、この日はフェンス工事中のため、カメラを向けることが出来ませんでした。 日向大神宮からの坂道を下りるとインクライン。若い頃ならロマンチックなデートコースになるのでしょうが、中年夫婦にはただの歩きにくい、やっかいな坂道でしかありません(笑) 片方は琵琶湖疏水の早い流れ、片方は林に隠れてはいますが崖です。狭い水路の早い流れを見ていると軽い目眩を感じますが、高所恐怖症の私には、反対側を見るのはもっと苦痛です。通路は狭いので、デートでも並んで歩くと危険がアブナイ。 水路閣の上にいた1羽のアオサギ。ここでは獲物はとれないと思いますが、水の流れを見ていると落ち着くのでしょうか。絵になる光景なので、トイカメラ風に加工してみました。 南禅寺境内にある煉瓦造りの水路閣。ここでサスペンスドラマの撮影がよく行われるのだそうですが私はそういうシーンを見たことはありません。ドラマではラストシーンでよく、東尋坊のような崖っぷちで事件が解決しますね。ここではどんなシーンが撮られるのでしょうか? 京都には桜や紅葉の名所がたくさんありますが、私は南禅寺の桜と紅葉が一番のお気に入りです。見ごろの時期になると、境内には大勢の観光客がやって来ます。普段でも人気のスポットですし、近くの湯豆腐のお店には早い時間から行列が出来ているのですがこの日はなぜか、わりと静かな境内でした。 歌舞伎での石川五右衛門の名ぜりふ「絶景かな絶景かな」その「絶景」とはこの三門の上からとされます。ただしこの三門、石川五右衛門の死後に造られたそうです。 この日は「京洛東那智」と称す熊野若王子神社まで足を伸しました。来週また熊野に行く予定なので、そのご挨拶。ここは都人たちの熊野詣での起点となっていたそうです。 銀閣寺へと通じる「哲学の道」の起点でもあります。 このあと私たちは河原町でランチ&そして京都の台所と言われる錦市場(錦小路)を歩いてみました。昼食後だったにもかかわらず、ついついお餅屋さんのみたらし団子や揚げたてのてんぷらを食べてしまいました。狭い道に京野菜やお漬物や鮮魚のお店、そして京番茶のいい香り。神社・仏閣や嵐山などの景勝地も魅力の京都ですがけっこうこういう場所も楽しいものです。
2010.11.04
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玉置神社は来る人を選ぶ??? 熊野に焼肉屋さんが出来たわけではありません(関西限定ネタかな)。「でん」とは大阪弁で「タッチ」すること。鬼ごっこで、鬼がタッチするときに大阪では「でんっ!」と言うのです。転じてちょっとだけ覗いて来たようなことを「ちょっと『でん』して帰ってきただけ」などと言ったりします。 この3連休では、日曜日にどこかに出かけようとは思っていました。家内といろいろ相談しましたが、二人ともわくわくするような場所が思いつかず「やっぱ、ここか」と言える場所に、お金を出来るだけ使わずに出来るだけ無理をせずに行こうということに。「わくわくする場所」としては、玉置神社で意見が一致。大阪からはちょっと行ってくるという場所ではないので、以前から企んでいた、とんでもなくトリッキーかつ大胆な方法で行くことに。 しかし遠かったです。秘境です。地図上では1号線や新御堂筋と同じく、赤い太線で描かれている国道168号線。しかし実際は対向車とすれ違うことが困難な場所も多々あり、男の闘争心を掻き立てるようなカーブの連続。数え切れないほどあったトンネル内はワイパーが必要なくらい山の水がしたたり落ちていました。十津川(新宮川)の対岸の山にはたくさんの滝があり、山側にも小さな滝が流れ落ち、多くの場所で湧水があふれていました。しかも、十津川村に入るまでにも考えられないようなアクシデントがありました。早朝の五條市で「玉置神社」に設定したナビが推奨したルートは国道169号線。なんと吉野山の東、川上村を通るルートでした。疑問に思ったものの、玉置神社周辺のルートしかリサーチしていなかったので私はナビに従うしかありませんでした。前日から降りしきる雨の中、どう考えても遠回りなルートを走り山のガスに囲まれながら一抹の不安が・・・。川上村に入る前、突然聞こえたナビのアナウンス。「30km先に、雨のため通行止めの箇所があります」ナビのこのようなアナウンスは初めてだったので戸惑いました。実際、川上村の国道上の電光掲示板に「この先県境まで降雨通行止め」の表示が出ていました。とりあえず、丹生川上神社上社に参拝。境内に着くと同時に雨は止みましたが、ガスのため視界は50mほど。上社に参拝しながら、私たちの頭にある言葉がよぎりました。それは玉置神社のことを調べていた時、あちこちのサイトで見た「玉置神社は来る人を選ぶ」というもの。「呼ばれていない人」は、当日に急用が出来たり体調を崩したりナビが狂ったり、道に迷ってしまうというのです。しかし、国道の電光掲示板の情報は疑う余地はなくやむなくルート変更を試みました。本来の最短コースからは、30kmも離れた場所にいましたが・・・。 途中の十津川温泉に目的地設定を変えてみると、今度は国道309号線を通るルートを推奨されました。「つまりは熊野に行く前に、吉野のご縁ある神様にご挨拶しろということか」国道309号線は、丹生川上神社下社や天河神社を通るルートなのです。 ところが、下市町に入ったあたりでまたまたナビのアナウンス。「60km先、通行止めの箇所があります」とにかく天河神社まで行くことも考えましたが、ナビの目的地を「熊野本宮大社」に変更してみました。ナビに従って走ると、あきれたことに早朝の五條市の出発地点あたりに戻っていました。そこでやっと私は、いつもやっている 「ナビを無視する」 という得意技を使うことにしたのです。で、本来の最短ルートである、国道168号線に向かうことにしました。ナビからはまたもや不穏なアナウンス。「架橋工事のため通行止めの箇所があります」しかし168号線に入った途端、胸のもやもやが晴れました。ナビ情報に翻弄されたとは言い訳ですが私は2時間も吉野と紀ノ国の山のバリアに阻まれていました。とにかくはおそまきながら、直感に従って168号線を進むことにしました。 ナビが示した「通行止め」の箇所には、迂回路がありました。十津川村からは、玉置神社HPにあったアクセス通り「折立」という所から玉置山に向かう村道に入りました。しかしそこでもすんなりとはいきませんでした。その村道は狭く、アスファルト舗装はされていましたがその両端は苔むしていました。いたる所に落石がころがっており、かなり太い木の枝も落ちていました。選択の余地がない一本道に「玉置神社」の案内板はあるのですが、分かれ道には案内板のない所もありました。頼みのナビと言えば、折立で「玉置神社へ10km」の案内板があったのに画面上には玉置神社まで100kmを越える表示。村道上に現在地を示すマークはあるものの、「探索中」の表示が点滅していました。つまりナビは、私が採用したルートに困惑していたようです。 朝まで降り続いていた雨と、到着時間が遅くなったため雲海を見ることはあきらめていました。しかし到着時には晴れていたにもかかわらず、参道では神秘的な霧に包まれて歩きました。 神社ブログを始めて5年。神社や神話に関するウンチクをたれ、昨今のブームで押し寄せる不作法な訪問者に苦言を呈しながらここまで来るまでに相当に試された私は一体「何様」なのかと思うと少々哀しくもなりました。 国道169号線の「降雨通行止め」の情報は正しく、そのルートを断念した私の判断も正しかったと思います。しかしナビが「架橋工事による通行止め」のため採用しなかった168号線ではちゃんと「迂回路」が準備されていました。玉置神社でナビが困惑した理由も、おそらくは同様の情報によるもの。私が通った村道は、日時によって通行止めや通行制限があったのです。最新の道路情報を察知するナビは便利ではありますが同時に迂回路の存在や制限解除の条件までは繁栄されないおせっかいで中途半端な機能でもあるようです。 落石などが不安になるほどの道を、心細さに折れそうになりながら孤独なドライブをして登った山なのに駐車場には全国各地から来た車が数多くありました。境内には初老のグループが下品な大声で叫んでいるし、拝殿前にはデタラメな方法で参拝している若者もいました。息を揃えて参拝する私たちの後では「どういうタイミングで拍手するのかわかんないのよねぇ」などと笑い声で話す若い女性たち。十字架の前で懺悔でもしているようなポーズの男性。根元をズルズルと滑らせて踏みつけながら大木にハグするアホ女。「どいつもこいつもバカヤロー!!」と叫びたかったですがやっとの思いでヘロヘロになってたどり着けた自身のことを思うといつもの元気はありませんでしたが・・・。 今月初めから屋根の修復工事が始まった熊野本宮大社。とりあえずは初参拝のご挨拶です。神社マニアを自称し、「年に200社ほど回ります」と名刺代わりの挨拶で豪語する私ですが、熊野三山は未訪問でした(笑)三社とも参拝したわけではありませんがこれでやっと「熊野も行ったよ」と言えるキャリアが加わったわけです。玉置神社の雲海も、熊野の神様とのちゃんとした御挨拶もまた次の機会に、ということですね。 .
2010.10.11
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やっと秋らしくなりました。画像は先週の洛北の空です。今年は考えられないほどの猛暑が続きました。紅葉がいつ頃になるのかわかりませんが、昨年はぼやぼやしているうちに12月になってしまいました。今年は見逃さないようにしたいと思います。 久しぶりにやって来たのは誰でも知ってる金閣寺。正式名は鹿苑寺。訪れるのは8年ぶりくらいでしょうか。ゆっくりと境内を回りましたが、この光景以外は何も覚えていませんでした。いつでも大勢の観光客でごった返す金閣寺ですが、拝観できるのは午前9時からです。もう少し早く開けていただくと、私たち近郊の者は助かるのですが。ちなみに清水寺は午前6時から拝観出来ます。 久しぶりと言えば、広隆寺。こちらも8年ぶりくらいの弥勒菩薩半跏像(みろくぼさつはんかしいぞう)。広隆寺にはよく行くのですが、弥勒菩薩半跏像が安置されている霊宝殿は久しぶりです。国宝第1号で知られる弥勒菩薩半跏像は、私が最も好きな仏像のひとつです。しばらくお会いしなかった理由は拝観料(笑)すばらしい仏像を拝観出来るとは言え、700円はちょっと・・・。たいした金額ではないのですが、うちの場合お金を「円」ではなくてビール換算で判断します。この日の昼食は、またもや横綱ラーメンだったのですが横綱では生ビールが350円。つまり、広隆寺霊宝殿の拝観料は「生ビール2杯分」ということになります。我家で「ビール2杯分」は、かなり高額な部類に入ります(笑) 広隆寺のあとは、家内のリクエストで蚕ノ社へ行きました。正式な神社名は木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたま)。広隆寺と同じく、秦河勝ゆかりの神社です。有名なわりには参拝者が少なく、いつも静かな境内です。 三柱鳥居が有名ですが、この日の元糺の池には水がありませんでした。昔は清らかな湧水があふれていたそうです。神事が行われる時には水がたたえられるようです。池の横に給水用と思われる太いパイプが設置されています。 以前よりは目立ちませんが、やはりこのパイプは興醒めな感じがします。池の水が涸れてしまったのは仕方ないことなのです。しかし人工的に水を貯めることは、もう少し目立たなくして欲しいと思います。 蚕ノ社は不思議な神社です。三柱鳥居だけでなく、境内全体が不思議な空間なのです。神聖な感じではありますが、一言で言えば「排他的」か。そう言えば手水舎もありません。今回、御朱印をいただこうと思って気づいたのですが、これだけの神社でありながら御守りなどを授与する場所がありません。社務所玄関のインターフォンを押してみましたが返事はありませんでした。 ここは境内にある稲荷社。いくつかの稲荷社が並んでいますが、少し寂れた感じがする場です。1度だけ参拝しましたが、ちょっと違和感を感じました。2度と足を踏み入れる気になれません。さて、これからお出かけには絶好の季節。こと遊びとなると、俄然はりきりますがどこに行こうか「粛々と」計画中。どこかの国の政治家さんたちも、口だけでなくちゃんと「粛々」と事を進めて欲しいものです。 .
2010.09.26
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SNSやブログで、ついついおちゃらけてしまう悪癖があります。それでも神社や聖地訪問の記事は、マジメに書いていました。しかしそれらの訪問記録記事を、露悪やオヤジギャグ満載の日記と同じブログに掲載するわけにもいかずずっと使っていた「ple」というHNも「龍水」に替えて同じく楽天ブログで「龍水御朱印帳」というブログを始めたのが、4年前。ブログタイトルは、語呂の良さと「訪問記録」という意味で「御朱印帳」という言葉を使いました。しかし、実はずっと御朱印帳を持っていませんでした。なんでも集めたがる男の習性と、私の性格から御朱印帳を持つと神社訪問が参拝ではなく「御朱印収集」が目的になってしまいそうだったからです。神社巡りを始めて、早いもので7年目になります。そろそろ御朱印帳を持ってみようかと、京都の鳩居堂で御朱印帳を買ったのが7月18日。 その御朱印帳を初めて使ったのが、9月11日。御朱印帳を買ってから約2ヶ月、上賀茂神社や城南宮などいくつもの神社に参拝していましたが御朱印はいただきませんでした。せっかく買った初めての御朱印帳です。「スタートは伊勢にしよう」と決めていたからです。 9月11日、12日のお伊勢さん巡り(伊勢到着は10日夜)。行程の都合でスタートは外宮から。外宮神楽殿で御朱印をいただくとき「お初です」と申し出たところ、「内宮さん用に空けておきますね」と2頁目に御朱印を押してくれました。気品のある文字とともに、外宮の方の温かいご配慮に感動いたしました。IMG_2793 posted by (C)ple.
2010.09.20
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いつも行くスーパーの「とあるコーナー」には、少し前から「秋 味」なんていう商品が並んでいます。「9月になった途端、世の中が少しだけ涼しくなりました」などと毎年のようにブログに書いてきましたが、今年はいまだに猛暑が続いています。そんな9月の「真夏日」に、大汗をかきながら伊勢を回ってまいりました。夏が続いている分、神宮の森も緑が元気でした。 外宮・宮域内宮・宮域 毎年1月、昨年は1月と9月にあった3連休を利用して伊勢に行っていました。今回は普通の週末。金曜日の夕方に職場から直行で、上本町駅で家内と待ち合わせて行きました。その分スケジュール的にはタイトだったのですが、うれしい誤算もありました。 外宮・参道 昨年9月は、外宮には夜明け前に参拝したのですが(6時前)既に大勢の参拝者が訪れていました。今回は、前夜に飲み過ぎたせいもあって外宮に到着したのは6時半頃でした。 ところが参道も、御正宮前でもご覧の通りです。もちろん参拝者がいなかったわけではないのですが、撮影に苦労するほどの数ではなかったのです。 多賀宮参道の石段 3連休と普通の週末では、こうも違うものかと驚きました。お昼頃に到着した瀧原宮では、私たちが境内に着いたと同時に参拝者がいなくなり、一時貸し切り状態に。神宮参拝も回数を重ねると、ちょっとしたご褒美がいただけるようです。(私たちにとってはこの上ないご褒美でしたが) 内宮・参道内宮・御正宮前 翌日曜の内宮は無理かと思いきや、6時すぎの参拝でも参拝者の数はまばらでした。まさか神宮の宮域で、無人の写真が撮れるとは思いませんでした。ホテルで家内と飲み過ぎなければ、二日とももう少し早く参拝出来たと思います。今回参拝したのは外宮、月夜見宮、須原大社、世木神社、天の岩戸、伊雑宮猿田彦神社、瀧原宮、月讀宮、御塩殿神社、二見興玉神社倭姫宮、内宮、饗土橋姫神社、津長神社(参拝順)今回は多くの神社で、御朱印をいただきました。その一部は、順次「龍水御朱印帳」でご紹介するつもりです。 ところで今回はいろいろあって、宿では朝食も夕食もコンビニで買い出し。最終のおはらい町でその反動が来ました。宿での宴会で予定より遅くなったとは言え、内宮とその所管社などを廻り終えたのは午前8時過ぎ。しかし早朝4時に軽い朝食しか摂っていない私たちは既に腹ぺこ状態&暑さでのどがカラカラ状態。吉野家もファミレスもないおはらい町で、朝から食事など無理・・・。と、思ったらそうでもありませんでした。朝5時からの神宮参拝時間に合わせてか、8時過ぎには開店しているお店がけっこうあったのです。実際、「赤福・本店」は、5時に開店するそうです。 世間では、朝食もまだという人もいらっしゃるであろう休日の午前9時。私たち夫婦は、この日2回目の食事(昼食のつもり)。2日続いたコンビニ食材の反動で、注文したのはステーキ重と生ビール。 もう一度言いますが、午前9時の「昼食」でした。 .
2010.09.12
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