「ひっ」
思わず体がのけ反る。さっき声をかけてくれたおばさんは、それを見逃さなかった。
「あなた、本当に大丈夫?」
「あ、あの」
助けを乞うような気持ちでおばさんに顔を向けると、
「あのな、騒がん方がええ。お前のためや。騒ぐとややこしいことになるで」
おっさんがドスのきいた低い声で言った。
「お前にはワシが見えとるらしいが、このおばはんには見えてない。恐らく、このバスの中で、ワシの姿が見えとるのはお前だけや」
確かに、おっさんがここにいるのに、ここで喋っているのに、おばさんの心配そうな視線は、真っ直ぐ私に向けられている。
他の誰にも見えていない、二十センチくらいの小さなおっさん。って、え、何? 何なの? これは・・・夢? 幻覚? それとも心霊的な何かとか、妖怪の類? 頭の中は相当パニクっていた。
「あの、ちょっとお聞きしますが」
引きつった顔でどうにか絞り出した声はか細く、妙にうわずってしまった。
「何?」
おばさんが身を乗り出してくる。
「えっと、ここに、私の隣の席に、何かいませんか?」
「ちっ」
おっさんは面倒くさそうな顔で舌打ちをした。
「そこに何かいたの? 何もいないようだけど」
おばさんは、私の隣の席を覗き込んだ。
「せやから言うたやろ。ワシのこと言うても無駄や。このおばはんには、見えてないんやって」
おっさんは吐き捨てるようにそう言った。
「さぁ、どするんや。ここにダンデイな小さな男性がいます、とでも言うてみぃ。人間は目に見えんもんはなかなか信じようとせんからな。お前、気味悪いやっちゃなぁとか思われるだけや。かかかか」
面白そうに笑うおっさんは、見た目、決してダンディではなかった。いや、そんなことはこの際どうでもいい。おばさんにはおっさんの姿が見えていないだけではなく、声も聞こえないらしい。
「しっかしおばはんには見えてないとは言え、こうもジロジロ視線を向けられるちゅうのも気色のええもんやないなぁ。おい、お前、大丈夫や言うとき。さっき虫がいたような気がしたんですけどぉ、とか何とか言うて適当に誤魔化しておけ。言うとくけど、ワシ、怪しいもんやないで。結構、ええ奴やで」
どうしたらいいのか、頭の中も気持ちも全く整理がつかない。でも見ず知らずの私を心配してくれているこの親切なおばさんに何か言わなきゃ、このまま心配させたままじゃ申し訳ない。それにこれ以上おばさんに何か聞かれても、私にも訳が分からないのだから答えようもない。
「はよう、せえや。おばはん、椅子の下まで覗いてはるぞ」
もうどうしたらいいのか自分の頭では考えられなかった私は、とりあえずおっさんの言った通りにすることにした。
「あのぉ、さっき、ここに虫か何かいたように見えて、それで、あの、びっくりしたんですけど、よく見たら何もいないみたいだし、きっと、影か何かを見間違えたんだと思います。すみません」
「そやそや、その調子や。おばはん、探すの諦めたみたいやな」
おばさんはゆっくりと顔をあげた。
「だから、あの、もう大丈夫です。あ、あと、ちょっと寝不足なんで、顔色が悪いのは多分そのせいなので、大丈夫です」
親切なおばさんに嘘をついてしまって、なんだか心苦しかった。
「そう? 何かを見間違えたのかしらね。でもあなた、本当に顔色良くないから、今日は早目に休んでね」
「はい。あ、ありがとうございます」
おばさんはにっこり笑って、何事もなかったように前に向き直った。
「優しいおばはんやなぁ。お前も見習え」
三つ目のバス停で、そのおばさんは私に軽く会釈をしてバスを降りた。さっきまでおばさんがいた席にサラリーマン風の男の人が座ったが、やっぱりおっさんには全く気が付かない様子で、すぐに鞄から取り出した本を読み始めた。いくつかのバス停で数人の乗客がおっさんのそばを行き来したが、誰一人として緑色のジャージを着た小さなおっさんの存在に気付く人はいなかった。
「そう怖がらんでもええがな。さっきも言うたが、ワシは怪しいもんやない。詳しいことは、まぁ、おいおい話したるわ」
その姿が見えているのも、声が聞こえているのも、私だけだった。 (続く) ※この作品はフィクションです。
登場人物や団体等、実在するものとは一切関係はありません。
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