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ウルトラマンの生みの親、故成田亨さんのウルトラ怪獣からブルーシートが外されました。遺族の了解が得られたようです。ウルトラマンの案内標識“解禁”http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2006/20060903130527.asp東奥の記事はイメージ図ですが、青森国道維持出張所の9月6日のブログを見るとhttp://www.thr.mlit.go.jp/aomori/syutu/aokoku/patodiary/diary/200609/200609.html? 道路標識としては微妙。やっぱり部屋の壁に飾っておきたい。
2006/09/06
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東北の夏祭りの代表格は青森ねぶた。ねぶたが灯篭行列をする起源にはいくつかの説があります。1.坂上田村麿が敵(津軽の荒夷)を大灯籠でおびき寄せて騙まし討ちにしたというもの。 根拠の全く無い唯の伝説です。史実に合わないということで田村麻呂賞の名称もなくなりました。2.弘前藩初代為信が京雀を驚かしてやろうと1593年の盂蘭盆会に大灯篭を作って京都市中を練り歩いたとするもの。 「津軽偏覧日記」が根拠ですが、この文書は1793年編纂のもので前200年間に他の記録がありません。噂好きの京雀ならば日記にでも書いているはずです。3.弘前藩5代信寿の時代に弘前に移住した京都の職人が盆灯籠を飾っていたものを城下で真似たというもの。 弘前藩の「津軽秘鑑」に、1713年(正徳年間)に弘前で「ねふた」を出したとあるらしく、また、「御国日記」には、1722年(享保年間)信寿の指示で「祢ふた」を出させ見物したとあり、このときねぷた流しからねぷたが独立したと思われます。ねぶたそのものは古来からの七夕、眠り流し行事で、ねぶた、ねぷたの語源が「眠たい」というもの。方言ならば青森、下北が「ねぶた」で弘前中心の津軽が「ねぷた」という理由付けもしっくりします。また、お隣秋田の竿灯祭りも1881年以前は「ねぶり流し」と呼ばれていたそうです。七夕に灯篭行列をするのは京都祇園祭りのが全国に伝播していったものと思われ、特に、北廻りには珠洲のキリコ、魚津のたてもん、秋田の竿灯、能代のねぶながしと類似の祭りがあります。享保年間には油川(青森市)で弘前を真似て提灯を持って踊ったという記録がありますので、早い時期に津軽領内へ広まったのでしょう。祭りの提灯も複雑化、大型化していきましたが、弘前は扇型が主流に、青森、五所川原は人形型が主流でした。五所川原は長らく途絶えていましたが、青森の人形型も五所川原の立侫武多のようにノッポだったようです。電線など運行上の規制のため現在のように平べったくなっていきます。青森ねぶたhttp://www.nebuta.or.jp/弘前ねぷたまつりhttp://www.city.hirosaki.aomori.jp/kankou/shiki/natsu1.html
2006/08/05
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青森県立美術館が開館しました。全国で最後の都道府県立美術館だそうです。三内丸山遺跡の隣に出来た青木淳氏設計の素敵な建物。白、白、白で冬は雪に埋もれそう。目玉はシャガールのバレエ「アレコ」の背景画4点のうちの3点、奈良美智氏のあおもり犬。成田亨氏のウルトラ怪獣の道路標識はブルーシートで覆われたままです。他にユニークな点は現職知事が館長。また、教育委員会ではなく商工労働部が主管部というのも変わってます。オープニングは、シャガール 『アレコ』とアメリカ亡命時代 企画展(~2006年9月24日)次は、縄文と現代 2つの時代をつなぐ『かたち』と『こころ』企画展(2006年10月7日~12月10日)有力学芸員がいなくなった県美で次は何を企画するのかな?【追記】県立美術館:開館1カ月 順風満帆?前途多難? 入場5万人突破、苦情の声も /青森 ◇5万人突破も「常設展、別料金とは」「総花的、軸足どこに」 ◇手さぐり 県立美術館(青森市安田近野)が開館して、13日で1カ月を迎える。9日までの有料入場者数は5万1000人にのぼり、青森ねぶた祭と重なった今月6日には、開館以来最高の4332人が入場するなど、滑り出しは好調だ。一方で、「料金が高い」「交通の便が悪い」など、開館前から予想された苦情の声も、案の定、多く上がっている。県美が真に県民に受け入れられるための課題などを探った。【野宮珠里】 ◇県外PR奏功 県は、首都圏、宮城、北海道など県外でも積極的にPRを展開してきた。山谷清人・同美術館事務局長は「学校が夏休みに入った7月下旬から、県外からの来館者が急増しているようだ」と話す。 ◇高い料金 開館記念展の「シャガール展」(9月24日まで)の当日入場料は、一般1500円▽大学・高校生1000円▽中・小学生500円。「通常は700~900円」という福島県立美術館の倍も高い。開館5年目の岩手県立美術館も「平均800円で、過去最高は1200円のモネ展」という。 さらに入場者に不評なのは、別途料金を払わないと常設展を鑑賞できないという点だ。全国の多くの美術・博物館は、企画展の入場券で常設展も鑑賞できる。この点について、山谷事務局長は「企画展は独立採算制なので別料金にしたが、入場客の皆様に迷惑をかけてしまい、深く反省している。(シャガール展に続く)次の企画展からは、常設展も見られるようにする」としている。 ◇バスがない 市中心部から県美をつなぐ公共の交通機関はバスだけ。最寄り市営バス停の「総合運動公園前」や「三内丸山遺跡前」から県美へは、徒歩10分程度。高齢者らには遠い距離だ。 また、シャガール展の期間中は県美とJR青森駅などを結ぶシャトルバスが走っているが、県美発の最終発車時間は開館当初、閉館より2時間も早い午後4時だった。県美がJRバス側と折衝した結果、今では同5時発が最終となったが、閉館までゆっくり鑑賞した人は、遠い市営バス停まで歩かなければならない。 この点は県美も頭を痛めており、「『美術館前』のバス停を欲しいと市営バスに働きかけている。ただ、路線バスが(県美に隣接する)県総合運動公園の敷地内を通るには、いくつも課題がある」(山谷事務局長)と話す。 ◇意見の場 県美は美術だけではなく、音楽や舞台芸術など対象分野が多岐にわたる。全体と各分野をどう位置付け、関連付けるのか。他の美術館や芸術関連施設と、どのように差別化し、どう連携していくのか--。こうした諸課題に対応するため、県美は今後、有識者らの意見を聞くための組織を設ける方針だ。 ある美術館関係者は「対象分野を限定せず、多角的に芸術情報を発信するという県美の方針は、今の社会のニーズに合っているのかもしれない。ただ、軸足をどこに置くのかを考えなければ、すべてが中途半端になってしまう恐れがある」と指摘する。 財政難を理由に文化関連予算を削減する自治体も少なくない中、県美の06年度当初予算は3億8000万円にのぼる。ただ、この待遇が、いつまで続くかは、わからない。「宴(うたげ)の後」の県美のあり方が、早くも問われている。毎日新聞 2006年8月11日http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/aomori/news/20060811ddlk02040297000c.html東奥日報の特集http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/chagall/index.html
2006/07/13
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昭和24年6月21日、東北町の石文地区の赤川上流で千曵地区に住む川村種吉氏によって壺の石文が発見されました。壺の石文については、「陸奥の奥に有り。日本の東の果てと云り。但し田村将軍征夷の時、弓筈にて石の面に日本中央(ひのもとちゅうおう)の由を書付たれば石文と云ふ。石の面長さ四、五丈計りなるに文をゑり付けたり。その所とはつぼと云也。それをつもと云也。」と言われてきました。都母(つも。上、下北郡)の地名は、爾薩体(二戸、三戸、九戸郡)、幣伊(上、下閉伊郡)の名とともに日本後記に文室綿麻呂の征夷行軍の前後に記述されています。この発見で多賀城と坪とでどちらが本物の壺の石文か?ロマンが膨らみます。日本中央の碑歴史公園http://www.thk.net.pref.aomori.jp/sights/course_03.htmlhttp://hello.net.pref.aomori.jp/tohoku/culture/chuou.htmlまた、そばには千曳神社があります。「千曳」、「千曳岩」は伊耶那岐命が黄泉国から脱出した際に黄泉国への道を塞いだという「千引石」にも通じます。実はこの千曳神社を明治の元勲、木戸孝允みずから発掘調査に来ているんです。千曳神社http://www.aomori-jinjacho.or.jp/jinja/kamitousan/jinja/37.htm千曳の伝説 3話 千曳付近の奥州路に壺の碑がありました。その里の小壺(さつほ)という娘はとても美しく、その瞳は菫のように紫に輝いていました。小壺は碑の上に現れる若者と恋仲になりました。天帝が地上の守りになるように田村麻呂に命じて残させたのが碑の若者でした。天帝は碑の若者の恋を許さず、天から火矢を打ち、若者を燃やしてしまいました。若者の燃えかすは雨にとけて碑の中に消えました。それ以来、碑から声が聞こえたり、炎に焼かれる若者の姿が見えたりという怪異が起こるようになりました。 路を通る人がいなくなるのを心配した村人達は巫女(いたこ)の教えに従って、大勢で石を引いて捨てることにしましたが、石は少しも動きませんでした。ところが、小壺が協力すると石は少しずつ動き出し、山の麓に移して埋めることができました。その上には小壺の願いで社が建てられ、千人の人に引かれたので千引明神と名付けられました。小壺はそこに堂守として仕えました。 小壺が死んだ翌年、そのあたりに見たことのない菫が一面に花を咲かせました。その菫の葉や花には壺の形がくっきりと浮き出ていました。村人達は小壺の霊が菫になって碑を守ろうとしているのだと思い、その花を壺すみれと呼ぶようになりました。千引の宮がなくなったあとも春になると壺すみれの花は咲き続けているそうです。http://members.jcom.home.ne.jp/tink/botan/flower1/hana3tagyou.htm 陸奥の壷の碑というところに千引き石という巨石があった。これに魂があり、人を捕って困る。その地を治める甲斐のなにがしと言う人がこれを捨てんとして、各戸から人夫を召集した。村に若くて貧しい女がいたが男手がなかった。男の中に女一人混じって人夫に出る事を悲しみ、村を出る決心をした。この女に以前から契りを結んだ男がをり、この夜も通ってきた。女の憂いを聞き、自分が千引の石の精である事をあかす。喩え千人に引かれても動かぬがそなたが引いたら簡単に引かれよう。こんな約束をした。その日石の精が云ったように、千人が引いても石は動かなかったが、女一人で引くと巨石は軽々と動いた。 俚俗伝曰明神ハ石ノ精ニテ美男ニナル 壷子トイヘル女ニ通フ。壷ハ父母モナク独住ノ女ナリ。或夜男来暇乞也トテ落涙ス。依テ壷子何故ト問ヘハ我は石ノ精ナリ。明日土中へ埋候ヨシ。タトヘハ数人ニテ引共動ク事ニ非ス。其方出テ引ナラハ心ノ侭に引ヘシト云。翌日大勢ニテ彼石ヲ引ケレ共不動。村中出テ引ケ共猶不動。其村ニ不出者壷子許也。村ノ者壷子ヲ呼出シ引セケルニ心ノ侭ニ引依テ壷ノ石ト云。明神ニ祝堂ノ下七尺許掘。右ノ石ヲ埋ト云。女ノ居所ヲ壷村ト云。此村天満館村ノ小名也。千曳明神アリ野辺地ト七戸ノ堺ナリ。千曳明神ハ甲地村ノ内ノ小名ナリ。(青森県の地名(平凡社))http://www7.plala.or.jp/t-aterui/aomori/a-tibikijinnjya2.htm
2006/06/21
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昭和23年6月13日 太宰治は愛人と玉川上水で入水自殺しました。遺体が発見された6月19日は桜桃忌とされています。一方、太宰の生家のある五所川原市金木では6月19日を生誕祭としています。太宰の生家である津島家は大地主で貴族院議員も勤めていました。太宰治の娘婿は津島雄二。自民党津島派(旧橋本派)の会長です。斜陽館(太宰治記念館)http://www.goshogawara.net.pref.aomori.jp/16_kanko/dazai/syayoukan.html
2006/06/19
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卓球といえば青森山田の愛ちゃん。愛ちゃんは青森県生まれではありませんが、「卓球王国あおもり」という言葉を聴いたことがある気がします。戦後、日本人初の世界卓球選手権チャンピオンは青森市の佐藤博治。佐藤さんは2000年6月4日に亡くなっています。個人的には世界チャンピオンといえば十和田市の河野満。小学校のとき(恐らく郡内)の卓球大会が「河野満杯」だったので記憶に残っています。
2006/06/04
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雪国の冬は閉じこもりがちで、雪かきなどにも時間を取られ、余暇などに裂く時間がありません。そこで夜長に酒を交わしながら法螺談義でどっちが大法螺を吹くかなどといったことが楽しみになったりします。その成果を発表する場所が毎年旧暦の4月8日に開催される万国ホラふき大会です。http://www.town.owani.aomori.jp/event/horafuki_game.htmlほかにも百石町の「新春うそ八百ホラ吹き大会」、大船渡市の「初笑いホラふき大会」、雄物川町の「銀河宇宙ほら吹き大会」があります。
2006/06/03
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弘前は桜で有名な城下町。弘前城のほかに禅林街が城下町風情を残しています。また、1978年5月31日には武家屋敷のある仲町地区が重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。サワラの生垣は雪に強く、軍事的な防衛も考えてのことでした。軍都でもあった弘前には洋館もよく保存されています。弘前城周辺に・日本キリスト教団弘前教会 ・カトリック弘前教会 ・青森銀行記念館(旧五十九銀行) ・藤田記念庭園・旧弘前市立図書館 ・旧東奥義塾外人教師館 ちょっと離れて・日本聖公会弘前昇天教会 かなり離れて、・旧制弘前高校外国人教師館・弘前女子厚生学院(旧陸軍 偕行社) ・弘前学院外人宣教師館http://www.hirosaki.co.jp/htcb/histroy/index.html
2006/05/31
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1868年5月29日、日本におけるステンドグラスの先駆者、小川三知が静岡で生れました。氏は慶応大学図書館(復元)、国立博物館のステンドグラスを製作していますが、十三湖のそば、中泊町の宮越邸にもあります。美の巨人たちhttp://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/040925.htmステンドグラスの歴史研究家 田辺千代http://www.stained.co.jp/tanabe/v003_1.html
2006/05/29
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1968年5月16日、午前9時50分、東北地方と北海道南部にM7.9の十勝沖地震が発生。被害は、死者行方不明者52人、重軽傷者1269人、家屋の全半壊3677戸、津波による浸水529戸。私が経験した最大の災害です。http://www.bousai.pref.aomori.jp/jisinsouran/tokachi/select_menu.htm当時幼稚園児だった私を叔父が幼稚園まで迎えに来てくれて、肩車されて帰りました。途中通った東北本線の土手はグニャグニャに崩れてしまい、2週間不通となったそうです。家へ帰っても揺れが強く、家での寝泊りが出来ないありさまで、近所こぞって空き地へ集まり、共同で煮炊きしたものです。子供心にはまさにオートキャンプ気分で楽しい日々でした。再び幼稚園へ通うころには通園途中の崩壊した家屋をお化け屋敷と呼び、幼稚園裏の土砂崩れや地割れ痕はトーチカのようで鬼ごっこや銀玉鉄砲をして遊んだものですが、子供は残酷ですね。以来、この日は学校で防災訓練が行われる日となりました。青森県の揺れは最大震度6でしたが後で訂正されました。当時の震度は担当官の経験で決めていましたので、そんなに強いわけはないだろうと上から言われたのでしょう。1994年三陸はるか沖地震と同じく震源が三陸沖なのに気象庁の手違いで地震名を十勝沖とされ、しかも北海道十勝よりも青森県南の八戸、三沢の被害が大きかった。にもかかわらず十勝沖という地震名のために救援物資は北海道中心に行われたのではと噂されました。それゆえ地震が起きると我が方も被害が甚大だと政治家が動き回り、地震名を変えさせようとするようになったのです。ところが、鳥取・島根の県境で起きた鳥取県西部地震のときは島根県もかなりの被害がありましたが、島根県は島根の名前をつけることを拒否しました。理由は風評被害で観光客が減少することを危惧したためのようです。今はテレビの時代ですので、地震名が何であろうとカメラは最大の被害を受けたところを見つけだし、衝撃映像に群がります。そして募金やボランティアも集中するのです。震災直後を自力で乗り切れるのであれば地元の名前が地震名となるのは後々邪魔なだけ。国の激甚災害の指定・予算は気象庁が命名する地震名に関係なく、災害の程度を調査したのち市町村単位で行われるのです。
2006/05/16
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昭和50年5月10日、津軽塗が伝統的工芸品に指定されました。津軽塗りは弘前藩の殿様が塗り師を召抱えて弘前で育成した伝統工品。型や芥子粒などで下塗りの漆に凹凸をつけ、その上に異なる色の漆を幾重にも重ね塗りし、それを研ぎ出すことで模様を浮かび出させた漆器です。 漆の層が厚く堅牢なため馬鹿塗りとも言われ、日常的な汁椀や箸に使われ、客間には津軽塗りのテーブルがあったものです。今、普段使いするには漆器は扱いに手間がかかるため食卓では本物は使われなくなってきました。津軽塗 青森県漆器協同組合連合会http://www11.ocn.ne.jp/~sikkiren/
2006/05/10
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