2002年05月12日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類


会が開かれた。礼拝では、教会学校創設時、当時18歳で教会学校教師を担当していた、
現 活けるキリスト一麦西宮教会の下條末紀子先生のご奉仕。


子供向けのメッセージは、マタイ9章から。

 イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。
 私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。(27節)

この人たちは目が見えませんでした。目が見えないということは、このきれいな花も、見えませ
ん。美しい空や海の色も分かりません。そんな人々は、道ばたで乞食のような生活をしていまし
た。ある日、通りが騒がしくなりました。目の見えない人たちも、何か違いに気づきました。そ

ださい。」と叫び始めたのです。

目が見えない彼ら。イエス様がどの辺にいらっしゃるのか、まったく見当もつきません。とにか
く、人混みの方についていきながら、「ダビデの子よ、ダビデの子よ。」と叫び続けたに違いあ
りません。まわりの人は、びっくりしたかもしれませんが、目の見えない人たちは、かまわず、
大声で叫び続けました。「ダビデの子、神様、あわれんでください。」

そして、この人たちは、その信仰の通りに、イエス様によって、目を開かれました。

祈りはきかれます。必ずきかれるんです。いじめられたり、仲間はずれにされたりするかもしれ
ません。そんな時、祈ってください。イエス様がどこにいるか分からないかもしれません。でも、
叫んでください。祈りは、必ずきかれます。


続いて大人のメッセージは、「神の恵みに生きることの大切さ」

 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、

 なく、私にある神の恵みです。 ?コリント15:10 

この箇所には、「恵み」ということばが3回登場。神の恵みを知ることは、自分の罪に目が開か
れることから始まる。「恵み」も「罪」も、頭で分かること、説明できることと、本当に分かる
こととは違う。(先生自身、25歳の頃、突然、示されたとのお証) 
パウロのめざましい働きも、ただ、神の恵みを知ったことが原動力。



 放蕩息子のたとえ話  裕福な家に兄弟がいて、弟が、遺産を先に自分にくれと父に願い、財
 産の半分を手にし、遠い国に旅立ち、そこでさんざん遊びまくり、財産を湯水のように使い果
 たしてしまう。間もなく飢饉がその国を襲い、弟はぶたのえささえ食べようかと思うほど、落
 ちぶれた。その時、ふと、弟は裕福だった家を思いだし、父のところに帰ろうと決意する。
 「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あな
 たの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」しかし、父親は、そ
 んな彼に、よい着物を着せ、指輪をはめさせ、「死んでいたのが生き返り、いなくなっていた
 のが見つかったのだから。」と祝宴を始めた。

 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。『弟
 さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛
 をほふらせなさったのです。』すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、
 父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、
 私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめ
 と言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代
 を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったので
 すか。』 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえの
 ものだ。 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つ
 かったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」


クリスチャンには2種類。
 1、律法主義     別名ネコ信者 「教会行かニャーならん」「聖書読まニャーならん」
            結果  こんなにやっているのに 必死に守ってるのに
                比較 優越感と劣等感 ねたみ 怒り
 2、恵みに生きる   結果  感謝 比較しない 喜んで奉仕

兄の姿は、律法主義そのまま。その兄に対し、父は声をかける。
 「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」
すなわち、「いつも共にいるのに、うれしくなかったのかい。子ヤギ一匹くれなかったっていう
 けど、求めたっことあったかい。欲しいっていえば、なんだってあげたんだよ。財産はすべて、
 お前のものだったんだよ。」

兄の救いはどこにあるのかな、と今まで思っていたが、はっとさせられた。
共にいたのだ。相続人として莫大な財産をもらう権利をもっているのだ。求めればいいのだ。

この兄のような愚かさを犯していないか。
当然いただけるものを、求めずして、くれないと愚痴ってしまうことはないか。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28 : 20)
とおっしゃる主が共にいることは、素晴らしいことなのに、どこかで、きびしく減点する審査員
のように感じ、自分で勝手に窮屈に過ごしていないか。
深く、考えさせられた。


午後の記念会は、さながら同窓会のよう。当時の子供たちは、そろそろ孫ができているような年
代にさしかかっている。思い出話、暴露話、懐かしい写真の披露など、終始、和やかな記念会だ
った。

教会学校は50周年だが、教会自体は11月で30周年。ある家族が教会学校を開始して、その
もと生徒たちが礎となり、のちに教会が建てあげられた。すばらしい主の働きだと感じた。

牧師先生が、最後の挨拶の中で、地域の子供に対するアプローチの必要性を、ビジョンの1つと
して語った。教会メンバーの子弟の教育と、地域の子供への関わりの両立は、難しい面があると
のことらしいが、それは、まさに必要なことと感じている。今、この混迷の時代、教会のみが、
平和と平安を、子供たちに与えられる。競争時代に、子供たち自身の価値を教えてあげられる。
そして、何よりも、今の教会の成り立ちを見せていただき、子供たちに福音を伝え続けることこ
そ、この教会らしい歩みではないかと思わされた。

先月、天に召された片岡先生は、50年後の教会を意識されていた。
はたして、50年後の我が教会は、また教会学校はどのようになっているのだろうか。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2002年05月16日 02時14分38秒
コメント(1) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

プロフィール

ぽん#

ぽん#

お気に入りブログ

栗ヶ沢バプテスト教… New! BETHESDAさん

安青錦はどこへ行く? New! やまひで0207さん

自閉症の僕が、今も… ひいちゃんファミリーさん

たけちゃんのHP たけちゃん510さん
Maro's Poetic World 真路さん

コメント新着

BETHESDA @ Re:ヨルダン5(05/05) ひさしぶり  元気してる???
西畑 智子@ Re:ぶどうの会 ~片岡栄子さんをお迎えして~(05/20) 片岡栄子姉 聖名を崇めます。40年程前、…
ひいちゃんファミリー @ Re:あいづ(04/30) 待ってました――。 もうすぐ完成ですね。 …
ボリス777 @ Re:男2人で帰省 2日目(01/05) はじめてコメントさせていただきます。 …
賛美者@ Re:東京出張 & ワーシップ・タイム(03/18) はじめまして!十字架の上歌詞/向日かおり…

© Rakuten Group, Inc.
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: