2004年01月07日
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今朝のはじまりは、聖歌295番から。


  成したまえ 汝が旨(むね) 陶つくり(すえつくり=陶器師) わが主よ
  我はただ 汝が手の 内にある土くれ

  降る雪のごとくに わが内を白くし
  汝が旨のまにまに 練りたまえ わが主よ

  天くだる火をもて わが内を清くし


  汝が旨のなる時 他の人は見るべし
  わがうちに ますきみ キリストの姿を


大好きな聖歌の一つ。これまでも、歌詞もメロディもすてきだって思っていたけど、もう一度、歌詞をじっくり味わったら、涙が出てくるくらいすてきだった。

主が陶器師で、自分は、ただの土の固まり。
主ご自身の御手によって、白くされ、コネコネと練られ、聖霊の火を通され、清められていく。
そして4節。自分の内に形づくられていくのは、キリストの姿・・・。
なんて、すばらしい約束、いや、実際に今、工事中の事実だろう。

あなたご自身が、内に住んで下さり、形づくられて下さるんですね。

神さま、ただあなたを畏れつつ、感謝します。



今日の一日一章聖書日課はサムエル記第一18章。


  ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。
  ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。(1節)



宿敵ペリシテ人の巨人ゴリアテを倒し、その首をとり、サウル王に報告するダビデの姿を見て、王子ヨナタンの心は、ダビデにひかれた。


  「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。
   たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、
   小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」


     (14章6節)


このように、ヨナタンもまた、神さまと共に歩んだ人物であった。
だから、ダビデの言動を見て、大いに共感するものを覚えたに違いない。

聖書の中には、これ以前に、ダビデとヨナタンが遭遇する場面が描かれていない(はず)。実際に、彼らが初対面であったかは分からないけど、ヨナタンはダビデのうちに、自分が信じているのと同じ神と、同じ信仰とを見て取った。

初対面なのに、相手のうちに、生きるキリストの姿を感じる時、それは、この世のものとは、比べられない不思議な一致を感じ、親しさを生み出す。時に、外国の人であっても、同じように、言葉を超えて、同じ神さまをほめたたえられる不思議。


相手のうちに神さまを感じる時・・・

自らも神さまと共に親しく歩む者は、人知を超えた親近感を覚える。
しかし、神さまから離れていく者が感じるのは、恐れ・不安・脅威・敵意。

まず、この鮮やかな対比を思わされた。


  ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちは
  イスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴を
  もって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。

  女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。
  「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」

  サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。
  「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」

  その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。(6~9節)



油注がれ、神の守りと導きのあった者でありながら、肝心なところで、自分の力でどうにかしようとする、どうにかできると考えた王サウル。ある程度までは、信仰者っぽい振る舞いをしているが、目の前の状況、特に人心を恐れ、神さまに従うことをせず、妥協すること数回・・・。それゆえ、神さまに、王位を退けると宣告されたにも関わらず、王位にしがみつく生活が始まった。その結果、神の霊はサウルから離れ・・・


  その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。
  ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。(10節)



神なしに、王位に就き続けるサウルは、いつ、どのように取り去られるか、または、どうすれば、王位に就き続けられるか、つねに恐れと不安の中にあった。


  ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいた


つねに神さまと共に歩むダビデの手には、つねに「琴」があった。「琴」の音は、周りにも流れ出て、自らをも、聞く者の心をも平安で潤す。


  サウルの手には槍があった。


つねに恐れと不安のうちにあるサウルの手に握られていたのは「槍」。そして、サウルの恐れと不安が絶頂に達した時・・・


  サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思った (11節)



同じように、神さまが油注がれた2人。

方や「琴」を、方や「槍」を手にしていた。
方や「勝利」と「平安」をもたらし、方や「嫉妬」と「殺意」を露わにした。


今朝は、この10節の 「琴」 「槍」 ということばが、だんだん浮き出て見えてきた。
これが、2つ目の対比。

人間関係で、守りに入る、防衛的になることがある。責められていると感じる時や、取り去られると感じてしまう時、心の中の、とげとげした「槍」に手を出すことのなんと多いものだろう。

時に、「自分が傷ついた」という「ことばの槍」で相手に向け投げつけ、責めることさえ・・・。


ああ、神さま。あなたに、全く寄り従うことで、わたしの手に、つねに「琴」があり続けるよう、お導き下さい。そして、不必要な「槍」を手にすることがありませんように。


このサウルの槍を、ダビデが避けた直後の箇所、12節からの、ある人の分かち合い。

  サウルはダビデを恐れた。
  主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。(12節)



槍を投げたのはサウル、槍で命を狙われたのはダビデ。
普通なら「ダビデはサウルをおそれた」と記述されてしかるべき。
しかし、「サウルはダビデをおそれた」

神の霊が去ったサウルの「おそれ」が、いかに大きかったかを示しているのでは・・・。
なるほど、なるほど~。ダビデの恐れより、サウルの恐れの方が大きかったんだ。


別の人の分かち合いは、サウルが、「他人越し」に聞いた情報によってダビデを判断(7~9節)したり、「他人」を介して、ダビデに指示を出すようになっていった(25節)との指摘。直接、真偽を確かめたり、ことばを交わさないことで、ダビデに対する不信感が増幅していった面もあるのでは。

う~ん、確かに伝聞情報って、ただでさえ、間違いや誤解が潜むこともあり得るのだから、決して、うそや間違いではないにせよ、ニュアンスや強調点が変わってしまうことは、さらによくありがち。

本当にそうだなぁ。以前、ある人が、「伝聞情報は、一切信じない、必要があるなら当事者に直接、確かめる」って言ってたっけ。そういうことって、大事な時ってあるんだよね。もう一度、肝に銘じよっと。



神さま、今日もすばらしい、命のことば、霊の糧をありがとうございます!






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最終更新日  2004年01月26日 01時31分53秒
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