三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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『北からの蒙古襲来』の子守唄資料『日本わらべ歌全集2上』青森のわらべ歌 http://www.komoriuta.jp/ar/A05072517.html より。採集地:北海道寿都郡寿都町作品名:ねんねこや ねんねこや ねんねこや そったらに泣くと もっこくるぞ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.2KByte 解説 寝させ歌 楽譜登録番号:SC2005072105 登録年:2005年7月22日 採譜: 松本達雄 松本良一 採集地:青森市諏訪沢作品名:諏訪沢の 子守歌 寝ろじゃ 寝〜ろじゃ 寝〜ろじゃ 寝ねば 山がら もッこァくらァね 寝れば 海がら ジョジョくらァねぇ 寝ろじゃ 寝〜ろじゃ ♪ 寝ろじゃ 寝〜ろじゃ 寝〜ろじゃ 早ぐ寝ねば もこァ来らァね 早ぐ寝れば 母 乳コ呉らね 寝ろじゃ ヤイ ヤイ ヤイ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.5KByte 解説 寝させ歌 楽譜登録番号:SC2005072508 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県 作品名:泣けば山から 泣けば 山から 蒙古来る ヤーイヤーイ ヤーイヤーイヤーイ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 解説 寝させ唄 楽譜登録番号:SC2007091505 登録年:2007年9月15日 採譜: 日本子守唄協会採集地: 青森県西津軽郡深浦町岩崎作品名:岩崎の子守歌 泣げば山がら もっこァ来るじゃ 泣がねば海がら じょうじょ来るじゃ あんまり泣げば かましコ下げで 袋下げで もっこァ来らァ したはで 泣ぐな 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.8KByte 解説 寝させ歌 楽譜登録番号:SC2005072509 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県東津軽郡今別町大川平 作品名:大川平の子守歌 俺の太郎は 寝ろじゃよ 寝ねば山がら もこァ来らァね 寝ろじゃ ヤイ ヤイ ヤイ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.4KByte 解説 寝させ歌 楽譜登録番号:SC2005072510 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県下北郡佐井村作品名:佐井の子守歌 ねんねこヤーエ ねんねこヤーエ ねんねこせじゃ ねんねこよ ねんねばヨーエ 山コがら おっかねもこァ 来るじゃよ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.6KByte 解説 寝させ歌楽譜登録番号:SC2005072517 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県南津軽郡尾上町金屋作品名:金屋の子守歌 俺のハナコ 寝たこへ 寝れば山がら もこァ来るァね ヤーエノ ヤエ ヤエ ヤエ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.4KByte 解説 寝させ歌 楽譜登録番号:SC2005072511 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県下北郡佐井村 作品名:佐井の子守歌 ねんねこヤーエ ねんねこヤーエ ねんねこせじゃ ねんねこよ ねんねばヨーエ 山コがら おっかねもこァ 来るじゃよ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.6KByte 解説 寝させ歌楽譜登録番号:SC2005072517 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県むつ市川内町作品名:川内の子守歌 ねろじゃ ねろ ねろ 泣がねで 寝こせ 泣げば山コがら もっこ来て取て食う ねんねろや ヤーエ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 21.1KByte 解説 寝させ歌楽譜登録番号:SC2005072515 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県つがる市木造町作品名:木造の子守歌 ねんねんころりよ おころりよ 泣げば山がら もこぁ 来ろぁね 泣がねで 泣がねで こんこせぇ 山の奥(おぐ )の白犬 (しろいの )こぁ 一匹吠えれば みな吠える ねんねこ ねんねこ ねんねこせぇ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 21.1KByte 解説「もこぁ」は「お化け、こわいもの」、「こんこせ」は「眠りなさいよ」の意。 「いい子にして寝ないと、山からおばけがくるよ」という、おどし型の子守唄。 楽譜登録番号:SC2005072507 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.06.11
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逆 修 碑 ところで何故マモーなどの言葉が福島県でも語り伝えられてきたのであろうか? 考えられることは、この地方からも蒙古軍と戦うための兵士たちが連れて行かれたのではないかということである。平安時代、すでに防人としてこの周辺の人たちが九州などに派遣されていたことを考えれば、あり得ることだと思われる。そして戻って来た兵士たちがそのような残虐な戦いを故郷に伝えたとも・・・。 この地方にも、少なくない数の逆修碑が残されている。逆修供養とは、『死後に修すべき仏事を修す』ことを言い、戦いに出て行くときなど自分たちを祀り、祈った上で出陣したときの碑である。これらの碑は、平和な時代に作られたとは思えないから、この時代のものは蒙古襲来と関係があると考えてもよいのではあるまいか。 関根供養塔 弘安元(1278)年 郡山市西田町 上舞木供養塔銘 弘安六(1283)年 三春町 弘安六(1283)年 郡山市安積町 浮彫三尊来迎像 弘安八(1285)年 郡山市富田町 逆修碑・逆修供養 弘安八(1285)年 泉崎村 正和二(1313)年、須賀川市 国立療養所近く。 年代不詳 須賀川市岩瀬 こうなると上にあるような年代の逆修碑は、三度目の蒙古襲来を恐れて九州防衛のため出兵した人か、はたまた『北日本の蒙古襲来』に対応する兵士として召集された人のものなのかのどちらかに該当するものと思われる。 安東一族と『北日本の蒙古襲来』に関して、東日流外三郡誌大要の七六六頁に次の記述があるという。 これぞの真心、神に通じ、神風起こりて国難を除きける は、人をして上下を造らず睦ぶ心に神ぞ救済すと曰ふ。こ の年東日流にては、元船十二艘漂着し、『元兵、山にこもれ る』も、安東一族に誅され、また救われたり。・…中略・・… 注 『 』 筆者 これは九州の蒙古襲来の際、安東水軍が出撃した証拠とされる文言であるが、東日流外三郡誌自体が贋作ではないかと疑われていることから、そのまま鵜呑みにする訳にはいくまい。骨嵬軍つまり安東氏のシベリア出兵と混同しているようにも思えるからである。しかし津軽には『対馬』『津島』『若狭』『加賀』『能登』『越前』『越後』『輪島』などの姓が多くみられるというのも興味深い。またこの記述の中で、『元兵、山にこもれる』の部分が子守唄の内容と合っていることから言うと、東日流外三郡誌の記述は本当である可能性も捨て切れない。 また時代は下がるが、土佐光信(永享6・1434年?〜大永5・1525年)による清水寺縁起の蝦夷の絵は、耳までさけた口と尖った耳をもつ邪鬼=仏敵として描かれている。土佐光信は、二回目の元寇、弘安の役(1281年)より一五三年後に生まれている。ということは、土佐光信は当然、世上の噂などを元にして描いたものと思われる。この絵は、蒙古襲来絵詞を思わせる蒙古的な弓や盾、海上の大船から小舟に乗り移って攻める構図である。たしかに三春町史にいう、魔蒙(まもう)を思わせる絵である。 ところでこのマモー、この単語を聞いたことのない若い方でも、モンキー・パンチのルパン三世と言ったら気づかれる方もおられるのではないだろうか。銭形警部、不二子ちゃんのルパン三世である。ここでマモーは、一万年も前から自己を複製し続けてきた複製人間(クローン)として、さらに永遠の命を得た『神』を自称した常識を超えた魔物として描かれている。この作者のモンキー・パンチの本名は加藤一彦氏、北海道厚岸郡浜中町出身である。浜中町は根室半島の南、北海道の東端にある。この地にも蒙古襲来の古い記憶があったことから、彼は霧多布岬の荒々しい奇岩の風景とを組み合わせ、この魔物の名『マモー』を思いついたのかも知れない。 このことについては、出版社を通じて加藤一彦氏に問い合わせをしたが、残念ながら返事を頂くことはできなかった。 終ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.05.21
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蒙 古 襲 来 2 この『弘安の役』に関して、『当時蝦夷地や大陸の沿岸部との交易を通じて財を成した安東氏によって編成され、日本最強と言われた安東水軍が十三湊から出撃するが、蒙古軍と本格的海戦に入る前に台風にやられ、大損害を被ってしまった。このため安東氏はこの復興に、多大な負担を抱えることになった』という説がある。そしてこの戦いにおいて、蒙古軍と戦った松浦党の所領地が直接蒙古軍に侵略された時、彼らは一所懸命とばかり命をかけてその所領を守ったのであるが、松浦党の数百人が討たれ、あるいは生け捕りにされて壱岐や対馬同様、蒙古軍に蹂躙された。 史書にも『肥前松浦党数百人、或いは戦死し或いは俘となり、里民害にあうこと二島(対馬、壱岐)の如し』とありこの松浦党に、安倍宗任の系統が松浦に移住して参加していたとされることから、安東水軍出撃の話になったのではなかろうか。ともかくその頃頼れるのは神様仏様の時代であったから、朝廷は全国の神社仏閣に戦勝を祈願させ、朝廷も自らが敵国降伏のお祈りをしていた。それであるから台風を神風と思ったのも無理からぬことであろう。 弘安五(1282)年、降伏を勧める使節・杜世忠らが来日すると、時宗は鎌倉で引見し、彼らを処刑してしまった。 その後、時宗は再び高麗出兵を考えていたようであるが、これもまた中止となった。時宗は蒙古襲来という国難を回避はしたが、戦後になって、今度は御家人などに対する恩賞問題などが発生し、また三度目の蒙古軍襲来に備えて改めて国防を強化せねばならないなど、難題がいくつも積み重なっていた。蒙古による二度にわたる日本侵攻は鎌倉幕府の弱体化をもたらし、その権威は地方、特に九州をはじめとする西国には及ばなくなってしまった。 経済的拠点を失った西国の武士や、貧窮化した農・漁民などの下層民は集団を組んで朝鮮沿岸を荒し回った。彼らは八幡大菩薩の旗を掲げて朝鮮や中国の沿岸部を荒らし回ったため、『八幡船』と言われて恐れられた。倭寇である。 1283年、蒙古は骨嵬や吉烈迷より、日本を討つための軍賦 の徴収をやめ造船を中止し、集まっていた商船をみな帰ら せた。 (元史 巻十二) これは日本の北部を含めた日本攻撃を、あきらめたということなのであろうか。 ところが蒙古軍は、弘安七(1284)年、弘安八(1285)年、弘安九(1286)年と三年続けて蝦夷を攻撃している。 (元史 巻十三・十四)。 文永元(1264)年十一月、蒙古が樺太を攻撃してから二十年間のブランクがあった。このブランクの間に文永と弘安の役があったのであるから、これらの攻撃の間になんらかの因果関係があった可能性は否定できない。この三年続いた『北日本の蒙古襲来』とは、北の住民にとってどのようなものであろうか。ちなみに東北大学にある『蒙古の碑』の一基は、弘安十(1287)年のものである。 永仁三(1295)年、幕府は蒙古襲来の戦いでの恩賞を打ち切った。本来なら戦後に分けてやるべき恩賞としての領地の拡大がなかったのである。 永仁四(1296)年、蒙古軍は南宋に近い沖縄本島を襲撃したらしい。日本に対する脅しと警告と思われるこの襲撃も日本の歴史では無視されているが、蒙古ではなく別の勢力であるとの説もある。 永仁五(1297)年、骨嵬軍は逆に大陸まで攻め込んだ。この防衛戦で、蒙古は一万以上の兵力を投入したという。 1297年三月、吉烈迷の百戸長カンツキらが東征元帥府を訪れたので扇と漁猟用の網を与えてねぎらい、カンウジャに吉烈迷万戸府(集落)を移させた。 五月、骨嵬は吉烈迷の作った黄児船を奪って渡海し、チリマの先 で略奪などを行った。 また瓦英・玉不廉古らが指揮する骨嵬軍が再び反攻、海を 渡り黒竜江下流域のキジ湖付近で蒙古軍と衝突した。 六月、蒙古軍は、骨嵬をスチホトンで破った。 七月、骨嵬のユブレンクはクオフォオより渡海しフリガに入った ので、蒙古軍はこれを破った。八月になって、「今年、海が 結氷する頃にクオフォオを過ぎて打鷹人(ダッタン人?) を捕まえようとしているので、討ってほしい」と言われた (元文類 巻四十一)。ちなみに東北大にある『蒙古の碑』 の一基は正安四(1302)年の年号が付されている。 延慶元(1308)年、蒙古軍は、吉烈迷の百戸長コシュナイより骨嵬のワンセヌが降伏したいと言っているのを聞き、タイホナを使者とし奴児干に知らせた。また吉烈迷のトウシンヌは骨嵬が降伏を願い、武装を解いて首長のピンシュエキツに持たせ、降伏の条件として毎年珍奇な皮を納めることであると述べた。 (元分類巻四十一) 骨嵬は三度大陸に反攻したが、結局、蒙古軍に降伏したことになる。降伏した年は、樺太に住む骨嵬を三〇〇〇人の蒙古軍が攻撃したときから約四〇年後にもなる。当時蒙古側は、北海道や樺太が日本とは別の国と想像していたのではあるまいか。九州への攻撃が行われた時期に北日本への攻撃が行われていないのは、あくまでも兵力の分散を避けるという蒙古側の事情によるものと考えられる。 こう見てくると、鎌倉幕府が亡びたそもそものきっかけは、その幕府がその領地ではないとして無視してきた北日本が原因の一つであったとも考えられる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.05.08
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蒙 古 襲 来 1 文永五(1268)年、蝦夷管領の安東五郎が殺害された。幕府は蝦夷の反乱と決めつけた。しかしこのことは、蝦夷地にいる者はたとえ蒙古人といえどもすべて蝦夷人と解釈していたと想像することができる。この年、蒙古使の杜世忠ら五人が来日したが、時宗がこれを龍ノ口で斬った。幕府は再度の九州への蒙古襲来に備えて警護を厳重にし、九州探題を設置し、異国警護番役をおいた。 文永十一(1274)年十月三日、高麗の合浦を出港した九百隻、約四万人の蒙古・高麗軍は、十月五日対馬の小茂田浜を襲って守護代平景隆を討ち、十月十七日、その一部が有浦、星賀、呼子方面の沿岸に上陸、十月二十日には筥崎・赤坂・麁原(そばら)・百道原(ももじばる)・今津あたりに分散して上陸を開始した。 勇猛果敢な鎌倉武士がなぜ蒙古軍に歯が立たなかったのか。まず蒙古軍の弓は全長が170センチと短いため発射までの時間が短くて済み、蒙古軍の弓で三本の矢を放つ間に日本の弓では一本しか放つことができなかった。また蒙古軍の弓は鯨のひげを張り合わせて作られており、竹でできた日本の弓よりも弾力性に優れ、矢の威力を大きくすることができたという。 さてこの際の陸上戦であるが、日本と蒙古では戦いの流儀が違っていた。日本側は戦いに入る前に先ず鏑矢を放ち、代表がただ一騎で出てきて、「やあやあ遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそは何々が家臣何の誰兵衛でござる。我と思わん者は尋常に勝負勝負・・・」などとやる訳である。蒙古側にしてみれば、言葉の意味も分からず、また分かったにしても、「何の見世物をやっているか」というものであろう。「そんなのやっちまえ」とばかり船から矢を射かけて倒すとまた次のが出てきて「卑怯なり。我こそは何々が家臣何の誰兵衛でござる。いざ見参見参・・・」などとやっているうちに銅鑼や太鼓の合図で団体戦に持ち込まれてしまったのである。 その上この鏑矢の儀式を行っているうちに見たこともない回々砲(大砲)・震天雷(ロケット砲)等の新型兵器を使っていきなり襲いかかり、それらの兵器の破壊力と味方の戦死者を見て「何だ、何だ」と思っているうちに、おっかなそうな顔が見たこともない武器を持って攻めてくるのであるから簡単に破られてしまう。それでも逃げて様子を見ていると、夕方になると攻めとった地域から撤収、全員が船に戻ってしまうのである。 蒙古側は船で休息をとっていたのを知らなかったから、それを見て「勝った、勝った」と喜んでいた。このように蒙古・高麗軍が大量に上陸し,一方的に優勢な戦いをすすめていた次の日の朝、信じられない出来事が起こった。前日ひどい目にあわされた日本の武士や博多の市民の目の前には、湾内を埋め尽くしていた船が一艘も見あたらず、静まりかえった博多湾が広がっていたのである。このことは、フビライが最初から『おどし』のために派兵をおこなったもので,日本を本格的に侵略するつもりはなかったと説明されている。 日本側の記録・八幡愚童記(はちまんぐどうき)にも嵐のことは一行も触れていないばかりか『朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた』とある。ところが高麗の歴史書『東国通鑑』には夜半に大風雨があったこと,多くの船が海岸のがけや岩にあたって傷んだことが書かれている.一説によると日本と本気で戦う気の無かった高麗軍が、言い訳のために書いたのだとも言われている。また『日蓮註画讃』に次の記録がある。 壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を 一カ所に集め、手をとおして船に結わえ付ける。一人も助か る者なし。 これに関して高麗史節要には、『帰還した高麗軍の将軍が、二〇〇人の男女や子供を高麗王とその妻に献上した』と記されているという。 また捕らえた女の手に穴をあけて紐を通したことの記述であるが、『日本書紀天智帝二年紀』に、『百済王豊璋は、鬼室福信に謀反心があるとして、手のひらに穴を穿って革紐をとおして縛った』とあるという。これは、これらの人びとを船縁にならべることで、日本軍からの弓矢攻撃を避けるための生きた盾にしたものと言われる。 蒙古はヨーロッパにまで兵を進めた世界最強の陸軍国である。それ迄、渡海作戦の経験は無かった。つまり、日本征服作戦は蒙古軍にとっても、かつて経験したことの無い『未知の戦争』であったと言えよう。 この文永の役を教訓として、幕府は異国警固番役(御家人に課した沿岸警備の軍役)などを新たに設置して国防を強化し、博多湾岸に石塁を構築した。 建治二(1276)年、博多海岸に石塁を築いて警備を厳重にする一方で、高麗征伐の計画が立案された。しかしこれが実施に移されることはなかった。 1277年、蒙古軍はビルマに遠征して大勝を博した。 1278年九月、蒙古は征東元帥府を以て、東方の安定を図っ た。 (元史 巻十)。 弘安二(1279)年、蒙古は南宋を完全に滅ぼした。同年、 蒙古使・周福ら来日したが、博多で斬殺された。 弘安三(1280)年、北条兼時を長門国守護とし異国警護を 強化した。 弘安四(1281)年、蒙古軍は再び対馬へ侵攻、志賀島(福 岡県)、長門(山口県)にも来襲した。いわゆる『弘安 の役』である。 この『弘安の役』の際にも高麗は軍船九〇〇隻、兵士二万五千人、水夫一万五千人、戦費の全額と兵糧を提供したとされる。 この蒙古の侵攻軍は、高麗人の金方慶を将とする東路軍・四万の人員をもって編成され、さらに蒙古によって征服されたばかりの南宋の残存艦隊により編成された江南軍・十万の兵と共に、再び日本へ軍事侵攻したのである。つまり蒙古による日本遠征軍の主力は、事実上、蒙古軍ではなかったということである。当然のことながら高麗軍の士気は高いものとは言えなかった。このことは南宋軍にも当てはまる。 南宋軍も仕方なく蒙古の命令に従って日本に攻めて来たのであるからこれまた士気は低い。蒙古の施政から逃れて亡命し、日本にやってきた少なからぬ南宋人は、むしろ日本の味方であった。 例えば、北条時宗の禅の師である夢想国師などはその代表である。蒙古への敵意に燃える彼は、迷える時宗に叱咤激励を与えたと言われる。この二度目の侵攻は、台風(神風)による蒙古軍の壊滅によって終結した。高麗の作った員数合わせだけの粗製濫造の軍船が、蒙古側の被害を大きくしたとも考えられている。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.04.21
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蒙 古 の 世 界 進 出 このような時代、大陸では蒙古帝国が勃興、ジンギスカンはアジアからヨーロッパへ広がる大帝国の建設、世界制覇へと乗り出した。 1219年、ジンギスカンは高麗と同盟を結んだが、蒙古が高 麗に貢納の要求などをしたことで両国の関係が悪 化した。 1227年、ジンギスカンは西夏を落とした八月十八日、甘粛 省清水県西江にて死去した。その死因については 俗説が多い。 1231年、サルタイの指揮する蒙古軍が、高麗に侵入した。 1232年、高麗は、より安全な江華島へ遷都した。以後、高 麗は約三十年にわたり、六次十一回に及ぶ蒙古の 襲撃と戦うことになる。 1234年、金(中国中部一帯・後の満州族・女真人)第二代 ・オゴタイによって滅ぼされ、シベリアが蒙古の 支配下に入った。1250年頃には、蒙古は黒龍 江の河口の奴児干に東征元帥府を置き、河口から 樺太にかけて住んでいた吉烈迷を支配下に置いた。 蒙古の樺太進出により、蝦夷地は北と西からの影 響を直接受けるようになった。 1257年、フビライ、ベトナム陳朝の首都・昇竜(ハノイ) を攻略。 1258年、蒙古はベトナム、ジャワ(いまのジャワ島からイ ンドシナ半島)を従え、ヨーロッパではバクダッ トを攻略した。 この蒙古帝国がシベリアからジャワ島、そしてヨーロッパに至る最大版図を築き上げたのはジンギスカンの孫で五代目となるフビライカンの時であった。現在のポーランドやハンガリーでは、今でもモンゴロと言う言葉が残り、蒙古軍撃退の様子がキリスト教に取り込まれながらも、祭りの踊りとして残されている。北日本に伝えられてきたマモーという言葉と似た伝承である。 1259年、第四代・モンケの下で、フビライは高麗を屈服さ せた。一方でモンケは、南宋(中国太平洋沿岸の 江蘇省より広東省、西部・四川省、雲南省にかけ ての地域)を攻略中に釣魚山で陣没した。 しかしこの間、私兵を擁していた高麗の崔忠献は、自己の私兵組織である騎馬部隊(馬別抄)と夜間の巡察警戒部隊(夜別抄)を組織した。『別抄』とは精鋭部隊を意味したが、のちには蒙古の捕虜となった。しかしそこから脱出した兵士たちで編成した『神義軍』を加えて三別抄となった。彼等はその抵抗拠点を最初は珍島、続いて済州島に撤退しながら、しばしば鎌倉幕府に共闘を呼びかけた。だが海外事情に疎い鎌倉幕府は元の怖さについては国書を貰っても理解できず、極めて無関心であった。 1260年、フビライは上都(北京)で第五代・大カンに即位 を宣言した。しかしシリアでの戦いで、蒙古軍が 破れた。 この当時、高麗に趙彝(チョウイ)という男がいた。彼は蒙古の首都でもあった燕京(現在の北京)に赴いて進士試験(科挙)に合格し、遂にはフビライカンの知遇を得る迄にのし上がった。その彼がフビライカンに吹き込んだことが「黄金の国・ジパング」の征服計画であったとも言われている。 ジパングは東方、大陸から1500マイルの海にある島ある。 住民は色白で慇懃、優雅である。独立国で君主をいただき、 どの国からも掣肘(干渉)を受けていない。 莫大な黄金がある。君主はすべて純金でおおわれた非常に大 きな宮殿を持っている。われわれが家や教会の屋根を鉛板で 葺くように、この国では宮殿の屋根を全部純金で葺いている。 その価値はとても数量で計り得ない。さらに、たくさんある 部屋はこれまた床を指二本の厚みのある純金で敷きつめてい る。広間や窓もことごとく金で飾り立てられている。実際、 この宮殿のはかり知れぬ豪華さは、いかに説明しても想像の 域を脱したものである。 真珠も美しいバラ色のしかも円くて大きな真珠がたくさん採 れる。 この島では人が死に土葬するときは、死んだ人の口の中に真 珠をひとつ入れる。真珠のほかにもいろいろな宝石を豊富に 産出する。まことに豊かな島である。この莫大な財宝につい て耳にした大汗すなわち皇帝フビライは、この島を征服しよ う思いたった。 (マルコ・ポーロ東方見聞録) しかしこの内容に一つの異論がある。上智大学アンコール遺跡国際調査団団長・石澤良昭上智大学教授は、次のような説を立てられている。 1275年、マルコポーロ十七才のとき、ベネチアからエル サレムまでは船で、その後は陸路で中国の大都(北京)へ到 着した。フビライはマルコを温かく迎えて登用した。 若いマルコはその期待に応えてモンゴル語も習得し、モンゴ ル帝国内外を広く旅行し、帰ってはフビライにその道中での 出来事を鋭い観察力で、各地の風俗習慣、商業事情、行事な どを報告した。その観察眼の鋭さにはフビライは彼を重用す るようになった。 しかもその旅行中に、マルコはカンボジアのアンコールワッ トやアンコールトムの巨大な建築物すべてが金で飾られてい たことを知り、ジャワ(カンボジア)攻撃に踏み切った。し かしカンボジア側の反撃で断念、日本(黄金の国・ジパング) 攻撃に変更したのではないか。なお地名の近似性からジャワ がジパングになまったのではないかとも説明されている。 それはともかく、『黄金の国・ジパング』という表現は、奈良や鎌倉の大仏、中尊寺の金色堂についての話を伝え聞いたからではなかろうか。それらは金箔を貼ったものに過ぎなかったのであったが、話が伝わるうちに純金で作られているという風に誇張され変わっていったものと思われる。事実、当時の日本は世界有数の金産出国であった。中尊寺を建立した奥州藤原氏もまた、十三湊を介した対中国交易を行っていた。このため、このような情報が中国でも一般に流布されていたのかも知れない。 ちなみに東方見聞録を通じた日本の情報は、1400年代末に行われたコロンブスの四回の航海にも決定的な影響を与えている。その最初の航海の記録によると、1492年8月3日、三隻の船を導いてパロス港を出航、陸地の見えない長い船旅で船員の不満が爆発しそうになるのを抑えながら、日本を目指した。十月十二日に現在のバハマ諸島のグアナニー島に到着したときのことをこう記録している。 この島には、彼らが鼻にぶらさげている黄金も産出しますが、 私はここに暇取っていないで、ともかくジパングの島に到着 したい。 (コロンブス航海誌) コロンブスはなぜ日本に行きたかったのか。もちろん黄金を獲得するためである。これほど左様に、日本は黄金の国であると思われていたのである。 一般的にこれらの情報から、フビライカンが裕福な国と思っていた日本への征服計画に入ったと説明されているが、どうもそればかりではないようである。『元史巻五』の至元元(1264)年十一月の条に、蒙古に服属していた吉烈迷が、骨嵬が毎年侵入してくることを蒙古に訴えたため、3千人の蒙古軍が骨嵬を攻撃し、樺太を占領した。敗れた骨嵬は蒙古への朝貢を約束したとある。このことは北の産物と南の産物の中継貿易で利益を上げていた十三湊の安東氏にとって、大きな悪影響があったと思われる。 1265年、吉烈迷が骨嵬に襲撃されるとの救援要請があり、 フビライカンの命令によって武器と食料が与えら れた(元史巻六)。この年フビライカンは、大都 (北京)の建設を開始した。 1268年、フビライカンは、高麗を介して日本に使者を送っ た。 南宋攻略の体制に入っていたフビライカンは、友好関係にあった日本と南宋が連帯して抵抗するのではないかと危惧し、日本を攻撃して恐怖を与えることで優位に立つことを目的にしたと考えられている。 当時、蒙古側の地理認識では、日本は実際より南にあると思われていた、陶宗儀の随筆『南村輟耕録』には、江浙行省(現在の長江以南の浙江省及び福建省全域、江蘇省の大部分、安徽省及び江西省の一部を管轄)の中心である杭州から東方に四〇九里で海に出、さらに七夜で日本に達する(アイヌの歴史と文化2)、とあることからも南宋と日本の連帯を避けると同時に、逆に日本水軍を南宋その他の作戦に利用する積もりだったとの説もある(東南アジアの歴史)。 1271年、蒙古は国号を元とした。 1273年、長く抵抗を続けていた高麗の三別抄軍は、ついに 蒙古に敗れた。北方においては、征東招討使アラ リが、「昨年、奴児干に兵を進めた。そこの歌人・ イムシュに骨嵬征討の方法を尋ねると、『冬に兵を 集め、結氷した賽哥小海(間宮海峡か?)を渡っ て上陸し、先ずウィルタ族と吉烈迷族を押さえれ ば、骨嵬のいる所へ行ける』と言った」と報告した。 (元文類 巻四十一)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.04.11
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ア イ ヌ の 事 情 その昔、蝦夷人の居住範囲は広く、北は樺太および千島列島、北海道を中心に北東北に及んでいた。そのためこれら各地のアイヌの人々は言語だけでなく、生活習慣なども環境によって差違を生じ、多様な文化内容をもっていた。エゾという言葉は、本来『神』に対する『人間一般』を意味していたと考えられている。しかし現在蝦夷人は絶滅したとされている。ただしアイヌ人は蝦夷人とは別人種とされているが、蝦夷地(北海道以北、千島列島)に住んでいたことからアイヌ人は蝦夷人と混同されることが多い。当時は北方の人たち一切を一括りにして蝦夷人と呼んでいた。 このような社会に和人が侵入したのはいつの頃かはっきりしないが、いずれ相当古いことは確かである。658年の安倍比羅夫の蝦夷地侵攻は例外としても、はじめは漂流した者や戦乱や凶作に追われた者、さらには重犯罪人として流された者たちであった。彼らは渡党と呼ばれた。彼らは新しい土地で土着のアイヌ人を見下した結果、日本人全体に彼らに対しての不信感を醸成することになってしまった。 建保五(1217)年、安東太郎堯秀は蝦夷管領に任命されたが、彼の役目は流人達の送致、監視が主なものであり、その管轄範囲はアイヌ人の居住地と重なる広大な土地であった。安東氏は、そこでの生産物、動物や海獣の毛皮、昆布などの海産物などを本州やシベリアとの交易品にしていたと推定されている。ただしこの毛皮の類はより北方の寒冷なシベリアや中国北部に輸出されていた。黒竜江水系を軸とする北方地域との交易ルートは、当然、中国本土につながり、代わりに輸入された厚手の衣服は蝦夷錦と言われて、本州で珍重された。 またこの頃には、義経生存伝説が生まれるなど民俗的そして経済的に密接な関係になっていた。しかし武力としては鎌倉幕府よりアイヌ側が弱かったが、アイヌ人は広大な土地に獲物を求めて北海道北部から樺太へ北上し、経済力を蓄えることになった。安東氏はこの交易ルートを直接自己の支配下におこうとしてアイヌと抗争し、そのために樺太などでの戦いが長期にわたって散発したと推定できるのではなかろうか。 和人に追われ樺太へ北上したアイヌ人たちは、大陸側からは骨嵬(くい)と呼ばれていた。しかしその樺太とシベリアには、吉烈迷(ぎれみ)が住んでいたことから、骨嵬との間で対立関係が生まれた。つまり和人に追われた骨嵬は樺太に住む吉烈迷を襲い、略奪し、暴行を加えたのである。追い込まれた吉烈迷は仲間の住むシベリアに逃れ、黒龍江の河口の奴児干(ぬるがん)にあった蒙古の東征元帥府にその苦衷を訴えたのである。骨嵬が戦っていたのは、和人とだけではなかった。 1265年、吉烈迷の人たちが骨嵬に殺されるという事件を聞いたフビライカンの命令で、武器と食料が吉烈迷側に与えられた(元史巻六)。この辺りの状況は、蒙古襲来というより骨嵬と吉烈迷の戦いであったと言えよう。しかも日本列島に対する蒙古側からの戦いのすべては、蒙古人のみの編成ではなかった。指揮官を除いたその編成の大部分は、周辺国家の兵士たちであった。それは吉烈迷であり、高麗人であり、南宋人であったのである。吉烈迷の要請を受けて樺太に攻め入った蒙古の参謀本部は東征元帥府であり、指揮官もまた蒙古人であった。蒙古側とすれば敵対する所へより、救援を求める所への出兵の方が楽である。そこには味方になる人びとがいるということであったからである。 これに対抗して蝦夷管領の安東氏が動いたと考えられる。後述するが、骨嵬と蒙古の戦いは、毎日ではなかったが、約四十年にわたって続けられていた。このことは骨嵬の側にも兵士たちを統率し、命令を下す者がいたことになる。はたしてそういう指導者が骨嵬の内部にいたであろうか? 水軍をもってこれに戦いを挑んだ安東氏が、その指導者、指揮官であったのではないかと考えられる。少なくとも安東氏は、鎌倉幕府からは蝦夷人と見られていた。水軍は団体戦をもってその本分としていた。それだからこそ、安東氏は骨嵬のリーダーとして適任者であったと考えられる。もちろん骨嵬と吉烈迷との間に戦いが起こったことについて、蝦夷管領の安東氏に任せていた鎌倉幕府としてはあずかり知らぬことであったが、蒙古側としては、安東氏に蝦夷管領を命じた鎌倉幕府との戦いであったという認識であろう。北海道せたな町の南川には瀬田内チャシがあった。チャシとはアイヌの城をも意味したから、位置から言っても、最初は蒙古による襲来からの防衛のためのものだったのかも知れない。a 文永五(1268)年、津軽でアイヌが蜂起したので、蝦夷管領の安東五郎がこれを制圧しようとしたが戦死した。蒙古が日本に通交を求めていた時期である。アイヌが蜂起した原因については、得宗権力の拡大で収奪が激化したことや北方への仏教布教が指摘されているが、蒙古が骨嵬征討を行っていたことと無縁ではないと考えられる。つまりこれこそが、『北日本の蒙古襲来』であったのではなかろうか。日本北部の内実を知らない幕府は、骨嵬も吉烈迷もアイヌ人も、そして蒙古人も一緒くたにしていたことから、『北日本への蒙古襲来』を『蝦夷大乱』と理解したのではないかと考えられる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.03.21
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北 条 執 権 文治五(1189)年、奥州平泉の藤原氏が滅んだ後、鎌倉のご家人が奥州に所領を得て大挙してやってきた。奥州は鎌倉武士に分割されて統治されるようになったのであるが、その奥州の中でもそれを免れたところがただ一カ所あった。それは最北端の津軽にあって、そこを中心に勢力を張っていたのが安倍貞任に連なる安東一族の所領地である。 建暦三(1213)年、鎌倉幕府内で起こった有力御家人・和田義盛の反乱である和田合戦において北条泰時は父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡(宮城県)の地頭職に任じられた。ここは鎌倉幕府の最北の地と考えられる多賀城と、近接した地域である。 日本人は北辺の異人を蝦夷と総称していた。天明初(1781)年頃でさえロシア人を赤蝦夷と呼んでいたのである。建保五(1217)年、十三湊(青森県五所川原市)の安東太郎堯秀は北に住む蝦夷人の押さえとして蝦夷管領に任命された。蝦夷と呼ばれる人々を支配する権限(蝦夷沙汰権)を鎌倉幕府から与えられたのである。これにより、安東氏は若狭、越前から十三湊を結ぶ日本海交易の海運権(関東御免津軽船)を握り、その勢力は津軽、秋田、糠部(青森県東部)ばかりでなく、渡嶋(北海道)、日本海沿岸、そして三陸海岸など広範囲に拡がっていった。しかし幕府はこの安東氏を蝦夷人と見ていたようである。いわば北方諸民族の総大将と認識していたらしいのである。幕府をして『東夷を守護して津軽に住す』と言わしめ、さらに彼らを『俘囚(陸奥・出羽の蝦夷人のうち、朝廷の支配に属するようになったもの)』とさえ表現していた。幕府が安東氏を蝦夷管領に任じたということは、『毒を以て毒を制す』つまり蝦夷人を以て蝦夷人を制しようとしたということにあったと想像される。そしてこの頃、安東氏による中国黒竜江の中・下流域や樺太支配を中心とする山丹人(シベリアの民族)との交易がはじまり、交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納する仕組みが確立していった。 またこの頃書かれたといわれる諏訪大明神絵詞に『松前、函館の蝦夷が、津軽外ヶ浜と公益菅家(意味不明)にあった』とあり、『我が国の東北の大海中にある「蝦夷が千島」には日ノ本(ひのもと)、唐子(からこ)、渡党(わたりとう)の三種の蝦夷が住んでいる』と記されている。また同時代の唐書には『倭が日本を征服し、その国号(日本)を奪った』と記されているという。それから考えれば、もともとこの日本を自称していた『日ノ本』族こそが日本人の元祖であったのかも知れない。この『日ノ本』族は北海道の東側に住む蝦夷人のことで言葉が通じなかったという。これに関連するかまたそういう意味であるかは不明であるが、昭和二十四(1949)年、青森県東北町の石文集落で自然石に『日本中央』と刻まれた碑が発見されている。津軽の安東氏も日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。また、豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現した例がある。この場合の読みは『ひのもと』であるという。 『唐子』は北海道の西から樺太にかけて住む蝦夷人のことで、大陸の影響を受けたという。この唐子は『唐』の文字が表すように中国系の民族であったのかも知れない。中国の資料によると、吉烈迷(ぎれみ)と言われるギリヤーク(ニヴフ)は樺太からシベリア黒龍江にかけて、骨嵬(くい)と言われる樺太アイヌは樺太南部から北海道北部に住んでいたとされている。 注・吉烈迷=ニヴフ・Nivkh (ロシア語での複数形はニヴヒ (Nivkhi)樺太中部以北及び一部黒竜江下流地域に住む 少数民族。古くはギリヤーク・Gilyak (ロシア語での複 数形は Gilyaki)と呼ばれた。アイヌやウィルタと隣り 合って居住していたがウィルタ語の属するツングース諸 語ともアイヌ語とも系統を異にする固有の言語・ニヴフ 語を持つ。樺太の他の先住民と同じく、古くは狩猟・漁 猟をしていた。オホーツク文化の担い手であったという 説もある。また、古来の日本や中国大陸の文献に記載さ れている 注・粛慎(しゅくしん、みしはせ)はニヴフではないかと指 摘されている。近世には日本と 清の貿易の仲介もして いた。 注・骨嵬=クイ アイヌ民族の形成が十三、四世紀とされて いるので、クイとアイヌは同一とはとらえがたい。しか しアイヌ民族を形成した人びとの集団にあったと考えら れるので、ここでは骨嵬をアイヌと表現する。 注・黒竜江=アムール川 モンゴル高原東部のロシアと中国 との国境にあるシルカ川とアルグン川の合流点から生じ、 中流部は中国・黒竜江省とロシアのシベリア地方との間 の境界となっている。ロシアのハバロフスク付近で北東 に流れを変えてロシア領内に入り、オホーツク海に注ぐ。 『渡党』は、本州から津軽海峡を渡って交易に従事していた和人らしいから、その領域は安東氏のものと重複する。このことにより、『渡党』は安東氏の管理下にあった蝦夷人、あるいは本州から流されたり逃れて来た和人を指すものとされている。現在函館のある半島は渡島と言われているが、この名は『渡党』の住む土地という意味で付けられたと言われている。これらのうち骨嵬と唐子は同じ地域に住んでいたこともあって、同じ民族ではないかとも考えられている。この二民族の形体は夜叉のごとくで変化無窮であり、禽獣魚肉を常食として農耕を知らず、言語も通じがたいという。 鎌倉幕府は、承久三(1221)年の『承久の乱』、貞応三(1224)年の『伊賀氏の変』、寛元四(1246)年の『宮騒動』、宝治元(1247)年の『宝治合戦』を経て建長四(1252)年、宗尊親王を新将軍として迎えることに成功した。これ以後、親王将軍(宮将軍)が代々迎えられたが、親王将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となった。こうして、親王将軍の下で独裁体制を強めていった北条氏は、権力を北条宗家へ集中させていった。北条時頼は病のため執権職を北条氏支流の北条長時に譲ったが、それでも実権を握り続けた。これらにより、当時の政治体制を得宗専制と称した。 しかし混乱は畿内が中心であったから胆沢や平泉周辺はともかく、距離が遠い外が浜(青森県津軽半島)や蝦夷地などについて、幕府は強盗や海賊などの罪人の流刑地くらいにしか考えていなかった。しかしこの頃、安東氏の支配する十三湊は西の博多に匹敵する北海交易の中心となり、アイヌの交易舟や京からの交易船などが多数往来していた。室町時代の末に成立した日本最古の海洋法規集である廻船式目によれば、十三湊は三津七湊の一つに数えられ、『夷船京船群集し、舳先を並べ舳を調え、湊市をなす』などの賑わいを見せていた。三津七湊とは、廻船式目に日本の十大港湾として記されている港湾都市の総称である。三津は伊勢・安濃津(津市)、筑前・博多津(福岡市)、和泉・堺津(堺市)で、七湊は越前・三国湊(坂井市)、加賀・本吉湊(白山市)、能登・輪島湊(輪島市)、越中・岩瀬湊(富山市)、越後・今町湊(直江津市)、出羽・土崎湊(秋田市)、津軽・十三湊(五所川原市)である。 第六代執権・北条長時の時代の弘長三(1263)年、高麗使が来航し、日本国辺民による侵攻の禁止を要請してきた。五島列島の北部に小値賀島という小島がある。藤原定家の日記『明月記』の嘉禄二(1226)年十月十七日条には、ここの住民が数十艘の兵船を仕立てて高麗の島々を襲撃し、住民を殺害して財物を略奪したことが記されている。この襲撃をしたとされる松浦党は、その勢力の範囲を肥前国松浦四郡(佐賀県)を基盤として、隣接地の杵島(佐賀県)、東彼杵、壱岐(以上長崎県)、筑前怡土(福岡県)、志摩(三重県)の諸郡に広がっていた武士の集団であった。高麗や中国の沿岸を松浦党が荒らし回っていたのである。なお沖縄からも海賊が出撃していたと言われるが、これが倭寇と言われた松浦党と連絡がとれていたかどうかは不明である。 文永四(1267)年、蒙古帝国第五代のフビライカンの書を奉じて高麗使が来朝した。弘長三年のときとは違い、フビライカンの後ろ盾を得たものであろう、さらに強硬な申し入れとなっていた。 北条氏の一門の北条政村は、幼少の得宗家・北条時宗の代理として第七代執権(1264〜1268年在職)に就任していたが、文永五(1268)年一月、高麗の使節が蒙古への服属を求める内容のフビライカンの国書を持って大宰府に来訪、その国書が鎌倉へ送られて間もない同年三月に、執権職を北条時宗に譲ってしまった。しかし朝廷はフビライカンの国書への対応を幕府へ一任したため時宗はそれには回答しないことを決定し、代わりに西国の防御を固めることにした。 たまたまこの年に起きた『蝦夷蜂起』により、蝦夷管領の安東五郎が戦死した。このときの蝦夷蜂起は、『北日本の蒙古襲来』の可能性が高い。 文永六(1269)年とその翌年にも蒙古使・黒的らが対馬で返書を求める一方で、島民を襲って略奪した。朝廷は返書送付を提案したが、時宗は政村らに補佐されて蒙古の国書に対する返牒など対外問題を協議したが結局は返答せず、異国警固体制の強化を図り、敵国降伏の祈祷などを行わせた。 文永八(1271)年、再び蒙古使・趙良弼が来日して武力侵攻を警告した。これに対し、幕府は西国の御家人に戦争準備を整えさせた。幕府は当初の方針どおり蒙古の申し入れを黙殺することを選んだのである。 文永九(1272)年、蒙古使・趙良弼の使いが再来日した。 文永十(1273)年、蒙古使・趙良弼が三度来日した。もとより幕府側としては、攻撃されることがあるかも知れないと考えてはいたが、単に脅しのみで、よもや現実のものになろうとは思いもしなかったのであろう。しかし蒙古使たちに冷たく対応した時宗の時代、二度にわたる蒙古襲来を受けることになる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.03.17
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『ね ぶ た』 と 『ね む っ た 流 し』 ある日私は新聞紙上で、郡山女子大教授の民俗学者の野沢謙治氏の書かれた『みんゆう随想』を目にした。それには次のように記されていた。 (前略)この『ねむった流し』は青森や弘前で盛大に行われ るネブタやネプタと同じものであり、観光化しているネブタ やネプタも、本来は地域の子どもたちが担うケガレを川に流 す行事であった。(中略)ネムタ流しの眠りが悪いのは、起き ていなければならないときにねむってしまい、目覚めぬまま に寝込んでしまうからである。(中略)一方「豆葉つっかかれ」 は、豆の葉が流れないで川岸にとどまることである。(後略) これを読んだ私は、『北日本の蒙古襲来』と関係があるのではないかという想像に襲われ、その確認のため、早速、学校に野沢先生をお訪ねした。先生は、「郡山市田村町守山の西河原地区に、平成十五年より毎年旧暦の七月六日、つまり『七夕祭り』の前日の六日に、その名も『ねむった流し』という行事が復活した」と言われた。この行事は、川の上手と下手に一間四方、高さ一メートルほどの台を作り、その四方にネムの枝を立てる。夕方、浴衣姿の小学五・六年生の男女十人ほどが二組に分かれてこれらの台に上がり、太鼓やブリキ缶を竹の棒で叩く。しばらくしてその台に再び上がった子どもたちはネムの葉と豆の葉を持ち、「ネムッパ流れろ、マメッパつっかかれ」と唱えながら交互に川に投げる行事であるという。 私はその行事を見に行ってみた。主催した田村町史談会長の吉川貞司氏によると、山形県、秋田県、青森県にも同じ行事があり、弘前市史には「ねぶた祭りは『ねむり流し』から始まったのだから、古い呼び名は『ねむた流し』または『ねぶた流し』であったという。この話は地域的に見ても、越、出羽、陸奥、つまりは前述した『ナゴメハギ(秋田県能代市)』『アマハゲ(山形県遊佐町)』『アマメハギ(新潟県~福井県)』と重なるものがある。このように『ねぶた祭り』は各地にあり、ねぶたの語源は一般に『眠た』が語源とされているが、ねぶた祭りには『ねぶた流れろ』『まめの葉残れ』という囃子(はやし)がある。守山の囃子と全く同じである。ねぶたとは『賊・土着人』を表し、豆の葉とは『忠義な味方』だとする説が有力である。 この守山と同根ではないかとされる青森の『ねぶた祭り』は、奈良時代に中国から伝わった『七夕祭』や夏に死者の霊を迎える『お盆』、さらには秋の収穫を迎える前に農作業の邪魔になる眠気をはらう『眠り流し』、などの行事の影響を受け、青森独自の変化を遂げていった祭りとされている。 青森では藩政時代以前から七月になると子供たちが二メートルから三メートルくらいの竿に灯篭を吊して,『七夕祭』と書き,上に小ザサやススキを束ねて、「ねむたコ流れろ,豆の葉さとっつぱれ」とはやしたてながら村を練り歩く行事があるという。これは『眠気よ流れてしまえ,豆の葉は流れないで川岸に留まれ』という意味で,大人たちが笛や太鼓ではやすのである。こうしてこの時期にありがちな仕事中の眠気を払い、豆は『マメに働く』という意味で、津軽弁で『眠い』ということを『ねんぶて』と言うが,これが訛って『ねぶた』というようになったのではという説もある」と言われている。このかけ声と意味は、守山のものとまったく同じである。 歴史フィクション作家の八切止夫氏は次のような説を提示している。 かつて東北に追われた原住民であった蝦夷を組織化し、征東 大将軍・紀古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ田 子の浦まで攻め込んだ阿弖流為という王が東北にいた。その 後、坂上田村麻呂らと十二年に渡って戦ったが最後には制圧 された。 阿弖流為は今の大阪府の杜山まで連行され斬首されたが、東 北に残っていた妻子や残党は大きな穴を掘らされ生きながら に埋められたとされている。その上に土をかけ、降伏し奴隷 となった者らに踏みつけさせた。 これが今の東北三大奇祭の『ねぶた(根蓋)』の起こりである。 つまり『根』(死)の国へ追いやるための土かぶせの『蓋』と いうことである。踏んづける恰好をする踊りに坂上田村麻呂 の山車を担ぎ踊る様は、その時のエピソードを表現している。 しかし田村麻呂が『ねぶた』の題材として登場することは稀 である。ただし『ねぶた』の起源の一つに田村麻呂伝説があ るが、これは一般に田村麻呂が知られるようになってから登 場するようになったと考えられる。 ところが昔から日本海側の各地では、七月七日の夜に七夕祭りやけがれを川や海に流す禊(みそぎ)の行事があった。『ねぶた祭り』と同様に七日の夜に、『ねぶた人形』を川や海へ流す習慣があったという。 禊の行事が、能登半島から北の日本海沿岸に多いという事実に着目すると、海流との関係が考えられる。日本海には、沿海州寒流と北鮮寒流が極東ロシアの日本海沿岸から北朝鮮沿岸を下って対馬暖流に接続し、そこから日本海を反時計回りに流れるリマン海流がある。対馬暖流を利用すれば比較的小さい船でもウルルン島(鬱陵島・韓国領)から竹島(日本領)と島伝いに若狭湾へ、さらには能登半島以北の、いわゆる越の国(石川、富山、新潟県)以北の沿岸に漂着する可能性が高いという。海流に乗った形での渡海は予想外に容易であったとされる。すでに六世紀半ば以降には東日本特有の牧馬畑作農耕文化が各地に定着していたという事実が、このルートを使用した証拠になると考えられている。 舟で日本へ海を渡って来た渡来人たち(なぜ日本に渡ろうとしたかは不明)が、能登半島までは何とか眠らないで海を見張り、能登半島を過ぎたらどこかに『つっかかって』つまり引っかかって上陸することができるという意味が、各地の唱えごとになったのではあるまいか。すると『ねむった流し』の終着地は津軽であり、『ねぶた』であるということになる。 二〇一一年九月十三日、北朝鮮から長さ八メートル程度の舟で子ども三人を含む脱北者たちが、北朝鮮の北部、漁大津(オアチン)から出航、韓国を目指したが舳倉島と能登半島の中間25キロで発見された。それは耕耘機のエンジンを積んだ長さ八メートルほどのボートで、とても大洋に漕ぎ出せるようなものではなかったという。リーダーは人民軍兵士で、自分の家族と親戚である説明した。これなどは対馬暖流に乗って日本に着けるという実例であり、古い時代でも韓国南部から対馬暖流に乗れば、もっと楽に着いたと考えられる。 この『ねむった流し』の習慣は土地土地で型を変え独自の祭りになったようであるが共通点も多く、昔、京都の文化が日本海を北上して津軽へ運ばれたのではないかという説が有力となっている。これらのことが記録として表れたのは明治五年であって,それまでは『ねふた』『弥むた』『ねぷた』『ねむった流し』など、呼び方が二十三種類もあったというから、守山の『ねむった流し』は、日本海側から伝わってきたものであったのかも知れない。ともかく日本海側の各地の唱え方と守山や青森とのそれとは、まったく同じなのである。 この『ねぶた』と『ねむった流し』の間に想像される不思議なことがある。青森の『ねぶた祭り』は、七夕の灯籠流しの変形であろうという民俗学的な見方があるが、その上で、『青森ねぶた』は田村麻呂の蝦夷征討伝説に基づいていると伝えられているのである。ただし田村麻呂が青森まで遠征したという史実はない。ところが守山にも、数多くの田村麻呂伝説が伝えられているのであるが、ここにも田村麻呂が来たという史実がない。それなのにこの双方に、『青森ねぶた』と『守山ねむった流し』の行事が残されているのである。ただし田村麻呂が大武丸討伐を祝う祭りであったとすれば、征服された人々が侵略者の勝利を祝うという悲惨な祭りということになるが、江戸時代の藩主が景気づけに考案した祭りだとのことなので、特に深い意味はなさそうである。 『ねむった流し』と『ねぶた祭り』、そして『なまはげ』と『お人形様』、さらにその双方の背後に見え隠れする田村麻呂伝説は、何を意味するのであろうか。例えば田村麻呂を描いたお伽草紙『田村三代記の四段目』には『七ッ森』という地名があり、前述した『屋形のお人形様』の案内板には『七里ヶ沢』とある。二つを結びつける確証はないが『七ッ森』と『七里ヶ沢』の名は似ている。想像を重ねることになるが、『ねぶた』と『ねむった』の語呂上の類似を思えば、『なまはげ』と『お人形様』の間に何らかの関連が・・・、とつい思ってしまうのである。 ではこれら想像の集積の原因である北日本への蒙古襲来とは、どのようなものであったのであろうか。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.02.21
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『なまはげ』と『お人形様』 国の重要無形民俗文化財として指定されている『男鹿のなまはげ』は、秋田県の男鹿市と山本郡三種町、潟上市の一部の集落で行われる伝統的な民俗行事で、本来は小正月の行事であった。大晦日の夜に、身の毛もよだつような丹塗の面を被り箕を着て小箱を背負い、包丁などの刃物を手にした男衆が家々を回る。家庭に押し入って子どもを脅しながら『よい子に育つように』という祈りの行事である。しかしこの恐ろしい姿から、マモーなどの恐ろしいものを具体的な姿として表現したのが『なまはげ』であったのではあるまいかと思えるのである。ちなみにこの なまはげ、他の地方でも同様の行事が「ナゴメハギ(秋田県能代市)」「アマハゲ(山形県遊佐町)」「アマメハギ(新潟県~福井県)」などと呼ばれ、いまも伝えられているという。 ところでこのあまりにも『なまはげ』にムードが似ていて、しかもそれを連想させる『お人形様』という行事が、現在も磐城街道(三春=いわき)沿いの田村市船引町の三つの集落(朴橋・ほうのきばし・屋形・堀越)で、守り神として伝承されている。以前はこの他にも、芦沢光大寺、大越町牧野の田村市に二ヶ所、さらには田村郡三春町芹ヶ沢横台道の津島神社などにあったといわれているが、不思議とこの『お人形様』は大滝根山から北西にほぼ一直線で三春に向かって並んでいる。これの正確な起源は不明であるが高さはおよそ四メートル、各地区によって表情が違うが、この『お人形様』は大きさ風貌から言ってもなかなか迫力のあるものである。 この『お人形様』は、久延毘古(くえひこ)を祀ったとされるが、この神はかかしを神格化したものであり、 田の神、農業の神、土地の神である。かかしはその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、収獲祭や 小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。また、かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになった。依代 、憑り代、憑代(よりしろ)とは、神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことで、神体や場合によっては神域を示している。『屋形のお人形様』には、次の案内文が掲げられている。 田村市指定民俗文化財 屋形のお人形様 所在 田村市船引町芦沢字屋形 指定年月日 平成十七年四月十八日 「磐城街道の五人形」または「『七里ヶ沢』の五人形」と いわれ、旧磐城街道沿いに立てられていた五つの大人形 の一つで「天由布都々神」を祭神としています。 毎年、旧暦三月十五日に衣替えと祭が行われ、この行事 には屋形の三十六戸の人々がたずさわります。人形の高さ は約四米で、古い面には文化五年(一八〇八)の銘があり、 江戸時代から続いている習俗です。 悪疫が入るのを防いでくれます。 田村市教育委員会 注 『七里ヶ沢』の『 』は筆者記入。七里ヶ沢は、 屋形の『お人形様』の存在する地域の古名である。 ではこのようなものを村境に置いた本当の理由はなんであったのか。 たしかに悪疫が入るのを防ぐという主旨については分からないではないが、この地方に伝わる玄関先にある災いを避ける目刺しの頭と重複するものがある。とは言ってもたかが『こそ泥』や乞食の類の侵入を拒むのには大げさ過ぎる。するとこれは、なにか組織的なものの侵入に対してのものであったのではなかろうか。その組織的な集団とは、大滝根山に住み田村麻呂に滅ぼされたという伝説にある大武丸とその一派に対してのものであったのかも知れない。しかし面と向かって『対大武丸』と言えないことから、『対疾病』を全面に押し出し、その部分が誇張されたとも思える。 このことを聞き回っていると意外にも「他人に言うほどのことではないので胸の中に仕舞っていたが、『お人形様』と『なまはげ』は同じ根っこかと思っていた」と言う人に何人か出会ったのである。 ところで津島神社のある芦沢集落に住む西山忠則氏は、「芦沢に最初に入ったのは秋田から来た自分たちの先祖であるとの伝承がある。また昭和の初期にこの神社に隠れ住んでいた乞食の失火により、『お人形様』が焼ける事件があり、ここでの行事は中断してしまった」と教えてくれた。そう言われてみれば、三春は磐城街道の始点であり、くどいようだが三春から大滝根山まで、ほぼ一直線上にあるのである。やはり『お人形様』は、『大武丸』の伝承と何か関係があったのであろうか。 私は気になっていたことを笹森氏に尋ねてみた。秋田県に残されている『なまはげ』は、蒙古軍の恐ろしい姿の引き写しの具現であったのではないかと考えたからである。「そうですか。私は子どもの頃から理由はないのですが、『なまはげ』は赤ら顔をした白系ロシア人の姿を模したものと思っていました。幕末、日本人はロシア人を赤人と呼んだようですし、『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)(江戸時代中期の医師・経世家である工藤平助が著したロシア研究書)』などというものもありましたからね。なるほど、なまはげは来襲した蒙古人の姿というのも説得力がありますね」ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.02.11
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北 の 子 守 唄 しばらく考え込んでいた感じの笹森氏は、心細げに小さな声で歌を歌い出した、 ねんねご、ねんねご、ねんねご、え〜 寝ねば山がら、モッコ来らね〜 姉さまそだでだ、このめごっこ、え〜 子どもの頃歌ったことのある子守唄であるという。 この唄に出てくるモッコという単語に気を良くした私は、笹森氏夫妻に『北に蒙古襲来』があったということについて聞いたことがあるかどうか尋ねてみたが、残念ながら二人ともそれについては知らないと言う。ただ『マモー』『蒙古の碑』などが、『北日本への蒙古襲来』に関係しているのではないかという私の推論は、彼の気持ちを大きく揺さぶったようであった。ともかく九州からこんなにも離れた東北地方で語り継がれ、子守唄にまでなったのはなぜなのかと考えたとき、「やはり北日本から樺太にかけて『蒙古襲来』があったと考えることができれば、説得力があるように思える」と話したとき、彼はこんな疑問を口にした。「もしそうだとすると、蒙古は日本海を渡って攻めてきたはず、ところがこの子守唄では蒙古は『山から来た』となっている。変ですね」「そうですね。蒙古軍が攻めて来るとすれば、確かに日本海からのはずですよね。これは咄嗟の思いですが、この子守唄は、蒙古の碑とも関連するかどうか分かりませんが、北の方にも蒙古襲来があったという証拠かも知れませんね」 その後この子守唄の調査について、HPのお世話になった。そのうちの一つ、青森市諏訪沢で唄い継がれている唄は、Web上ではあるが、そのメロディを聞くことができた。歌詞は次のようなものであった。 寝ろじゃ 寝〜ろじゃ 寝〜ろじゃ 寝ねば 山がらもっこァくらァね 寝れば 海がら ジョジョくらァねぇ 寝ろじゃ 寝〜ろじゃ 共通語に訳してみると、次のようになる。 寝なさい 寝〜なさい 寝〜なさい 寝ないと 山から 『もっこ』が来るぞ 寝れば 海から 魚が来るよ 寝なさい 寝〜なさい この子守唄であるが、泣く子を黙らせるため、「寝なければ山からモッコが来る」というものである。ここでもモッコは山から来ているが、ジョジョとは津軽地方の幼児言葉で魚のことである。親の言いつけに従って早く寝るような素直な子供には、海から幸がもたらされるように良いことがあるから早く寝なさいということである。美味しい魚というアメ(利益誘導)と、怖い「モッコ」というムチ(恐怖)を巧妙に使い分けた非常に分かりやすい子守り唄であると言える。 この蒙古に関する単語の入っている子守唄は、詩の内容としてはまったく同じであるが、私の知る限りにおいて北海道に一つ、青森県に十あると思われる。メロディについては、私の聞いた弘前や諏訪沢のものと似たようなものかどうか確認はできていないが、少なくともこの二曲に似たようなメロディであろうと私には思えた。 歌詞の詳細は『資料』を参考にして頂くとして、次ぎにそのさわりだけを挙げてみよう。泣げば山がら もっこァ来るじゃ 袋下げで もっこァ来らァ (青森県 西津軽郡 深浦町)寝ねば山がら もこァ来らァね (青森県 東津軽郡 今別町大川平)寝れば山がら もこァ来るァね (青森県 南津軽郡 尾上町金屋)おっかねもこァ 来るじゃよ (青森県 下北郡 佐井村)おっかねもこァ 来るじゃよ (青森県 東津軽郡 今別町)泣げば山コがら もっこ来て取て食う (青森県 むつ市 川内町)泣げば山がら もこぁ 来ろぁね (青森県 つがる市 木造町)泣けば 山から 蒙古来る (青森県)そったらに泣くと もっこくるぞ (北海道 寿都郡 寿都町) ところでこれらの子守唄の中で後ろから二番目(青森県)にある単語は、間違いなく蒙古とある。これから推察されるのは、これらの唄すべてに類似する単語は、蒙古を表していると断言してもよいのではあるまいか。そしてこれら、蒙古と関係すると思われる単語のすべてが、恐ろしいものとして使われている。私たちの子どもの頃のマモーとまったく同じ意味である。すると三春町史の考え方もまた正しいと言えるのかも知れない。それと最後の唄であるが、ただ一つとは言え、北海道のものである。この他にもあったのかも知れないが、これらの唄から、青森県から北海道西海岸への広がりが感じられる。 しかしそれでもまた、不思議なことがある。 笹森氏が気にしたように、これらの歌詞の中の蒙古(人)は、すべて海からではなく山から来ているのである。西から攻めてくる蒙古(人)は、必ず日本海を渡らなければならない。つまり蒙古が攻めて来るルートは海路でなければならない。それであるから、マモーたる蒙古人は海を渡って攻めて来ていなければならないはずなのに、子守唄では山から来ているのである。これはどういうことなのであろうか。私は偽書と言われてはいるが、東日流外三郡誌の中にあるという『元兵、山にこもれる』という記述が気になった。 私は漠然と地図を開いてみた。そうしたら、秋田県田沢湖町と岩手県雫石町との境界線上にモッコ岳という山を見つけ出したのである。岩手県の知り合いに問い合わせてみると、その近くには、田沢湖町の志度内(しどない)畚(もっこ)(標高1290メートル)と田沢湖町と角館町境界線の二ツ沢畚(1190メートル)、さらには田沢湖町と岩手県松尾村との境界には畚岳(標高1578メートル)があると教えてくれた。これはどういうことなのであろうか。これらモッコの山は奥深く、古代からこの周辺では山の神の鎮座ましますところと考えられ、江戸時代には山姥などの怪が住むところと考えられていたという。それを聞いていて『もっこ』という道具があるのを思いついた。これは蒙古と関係のある単語なのであろうか? 三省堂の大辞林を見てみると次のように書かれていた。 もっこ=(畚・持籠)の転。縄を網のように四角に編み、石 や土を入れて四隅をまとめるようにしてかついで運ぶ道具。 蒙古とは直接関係がないようである。しかし語呂は似ている。 それはともかく、子守唄にある『山からモッコが来る』という意味とこれらのモッコ山とが関連しているように思えた。ただし、もともとモッコはモウコという言葉が転じたもので、モッコリと丸みを帯びた山を指すと同時に、それに積んだ土の塊に似た形の山も昔の人はモッコと呼んだという説もある。しかし蒙古軍が来襲した際怪我をしたか、何らかの理由で置き去りにされた兵士たちが、敵地である青森県などに取り残され、山奥に逃れ住んで時折里に下りて食料を奪ったということもあったのではと考えれば、何となく分かるような気がする。しかしこれは、子守唄に関連させての私の想像である。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.01.21
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蒙 古 の 碑 山川出版社の『宮城県の歴史散歩』を目にしたのはこの頃であった。その中で、仙台市の善応寺にある『蒙古の碑』が、写真入りで説明されていた。しかし私は、このような碑が仙台にあるのは不思議なことだと思った。仙台は戦国時代に伊達政宗が作った町である。それ以前の鎌倉時代、たしかに多賀城という中心地はあったが仙台という町はなかったはずである。それに蒙古は北九州を襲い、樺太や青森にも来襲したらしいが、太平洋側から攻めたという記録は残されていない。もし蒙古が仙台まで攻めたとしたら、仙台は多賀城の南であるから幕府は自己の領分と考えて捨てておけなかったはずである。だからもし仙台に攻めてきたのであれば、必ず日本の歴史に記述されていなければならないことになるが、それもない。私は仙台に行ってみる必要を感じた。行く準備としてそれを調べていて驚いたのは、『蒙古の碑』は一つだけではなかったということである。 1 善応寺(宮城野区燕沢二丁目3〜1)に一基。 これは『宮城県の歴史散歩』で紹介されていた碑であ る。この善応寺の碑は鎌倉時代の弘安五(1282) 年の建立と言われ、もと燕沢地内の塩釜街道(県道8号 線利府街道)沿いの廃寺・安養寺跡の門前に建立された ものであるが、半ば地面に埋まった状態のものが昭和 に入ってからこの地に移された。上部に大きく梵字が 刻まれ、その下に二十八字の本文が四行にわたって刻 まれているが、省書が多く文意不明である。 五行目の最後の行は、『弘安第五天(=1282)』と ありこれは2回目の元寇の翌年にあたる。その下に製 作者『清俊』の名が刻まれている。 この蒙古の碑は、弘安二(1279)年、北条時宗に よって招聘された南宋の帰化僧・無学祖元(鎌倉円覚 寺開山)が、弘安五(1282)年、弟子の清俊に命 じて戦没した元軍兵士を追善させた供養碑として伝え られている。 2 牧島観音堂(宮城野区燕沢東一丁目3)に一基。 これは『蒙古の碑』が、ここから善応寺へ移したこと の記念碑であるから、『蒙古の碑』そのものとは言え ない。 【蒙古之碑跡】 昭和十六年二月廿六日蒙古主席徳王仙台来訪親しく 蒙古之碑を訪ねた際善応寺に遷す 3 東北大学植物園(仙台市青葉区川内12〜2)に二基。 東北大学植物園のパンフレットでは、次ぎのように紹介 されている。 【蒙古の碑と正安の碑】 弘安十(1287)年と正安四(1302)年に建てら れた板碑(供養碑)で、『もくりこくりの碑』とも呼ばれ ています。またその碑の案内板には、次のようにありま した。 【蒙古の碑と青葉山の碑】 これらの板碑は鎌倉時代のもので、左は弘安十年 (1287)に陸奥守と号した人の供養のため、右は 正安四年(1302)に四十余人の講衆が、それぞれの 縁者の霊を弔うために建立したものである。これらが 建立された年代が元寇「文永十一年(1274)及び 弘安四年(1281)の蒙古襲来」にすぐ続いているの で「蒙古高句麗の碑」と呼ばれてきた。蒙古来襲は、 当時の日本では最も恐ろしい出来事で、恐ろしいことの 代名詞にされてきた。そうした事に因んでか、これらの 板碑は子供の百日咳を直す霊験があると言われ、永く信 仰されてきた。 4 来迎寺(青葉区八幡五丁目1〜8)に二基。 【モクリコクリの碑】 モクリコクリの碑と称されている板碑(供養碑)があり ました。弘安十年(1287)と延元二年(1337) のもので、現在は前者が所在不明になっています。もと もとこの付近にありましたが、道路拡幅工事で移動され、 現在は来迎寺境内に建っています。 モクリコクリとは蒙古・高麗のこととも言われ、市内に ある蒙古の碑と称されるものの一つです。弘安の板碑は 表面が風化し、またこの碑の粉が百日咳に効くという言 い伝えがあったことから、長年にわたって削られ、碑文 は不明瞭です。 『延元二年板碑』 モクリコクリの碑の一つ、碑文は次の通りである。 苦人求佛惠 右志者為過去悲母 通達菩提心 大歳 梵字(ア) 延元二年 八月二日 父母所生身 丁丑 速證大覚位 亡霊乃至法界平等利益 仙台市教育委員会 5 三宝荒神社(若林区南鍛冶町41)に一基。 蒙古の兵の弔いの石とされるものがある。ただし銘はな い。 6 仙台神宮(青葉区片平一丁目3〜6)。 ここには、蒙古の碑ではないと否定された経緯のある碑 が一基残されている。 ともかく、これらのすべてを見て回ったが、せいぜい案内板にある説明程度のことのみで蒙古との関係や詳細を知ることはできなかったが、『蒙古の碑』については次のように想像されている。 1 当時、北の守りとして陸奥国府の多賀城(多賀城市)が あり、仙台市内若林区に陸奥国分寺・国分尼寺があってこ の地がそれらの中間地点になること。 2 松島が霊場として発展していて、鎌倉とも交流があった。 3 蒙古軍の一員として戦に参加した南宋の兵士の慰霊の碑 であるが、社会情勢を考慮し、当時僻地とされていた陸奥 に、しかも省字(判読できない字)を彫ってカモフラージュ をした。 しかしこれ以外の寺の碑にも『蒙古』とか『モクリコクリ』と明示されていることは、やはり『蒙古』と関連づけるべきであるということになるのであろうか。帰りがけに、私は弘前出身で現在仙台に住んでおられる笹森伸児氏宅に寄ってみた。彼が何かの情報を持っているかも知れないと思ったからである。 彼は私の撮ってきた『蒙古の碑』の写真を見ながら「仙台に住んでいながら、これについてはまったく知らなかった」と驚いていた。次いで『マモー』に類する単語について、「弘前では聞いたことがなかった」と言って仙台出身の陽子夫人に聞いたところ、彼女もまた、「仙台では聞いたことがない」と言う。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.01.11
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北 か ら の 蒙 古 襲 来 マ モ ー 2004年のある日、私は東京へ向かう新幹線の車中で、前の椅子の背もたれにあった冊子・トランヴェールに手を伸ばした。単に時間つぶしが目的であったが、めくっているうちに『十三湊を旅する』という特集が目についた。そこには次のような一節があったのである。 鎌倉時代の文永十一(1274)年と弘安四(1281) 年、日本列島は元朝による「蒙古襲来」におびやかされた。 西日本ばかりでなく北方にも元によるサハリン方面への侵攻 が続き、それに連動する形で起こる蝦夷人の反乱に幕府は悩 まされた。 ─何と! 北から蒙古襲来? 『蒙古襲来とは北九州』、という常識? を持っていた私は驚いた。日本の歴史に登場する蒙古襲来は、北九州であったはずである。 ──樺太や北海道にも蒙古襲来があったとは・・・、これは一体どういうこと? そう思うと私は空(くう)を見据えた。脳裏には幼いときの情景と、子ども同士で恐怖の象徴として使われていたマモーという言葉を思い出していた。 夕方薄暗くなって、遊び疲れた子どもたちの一団が一カ所に集まると、よく年上の子が怪談? などを話して小さな子どもをおびえさせた。その上で「マモーが来るぞ!」と脅すと、小さな子どもたちは「わーっ」と言って立ち上がり、逃げ腰になって恐れたものである。丁度その頃になると、「○○ちゃん。晩餉(ばんげ)(夕飯)だよー」と母親が家の窓から顔を出したり、兄弟姉妹たちの誰かが迎えに来て一人減り二人減りして寂しくなっていったものである。そして家に戻り就寝の時間になっても兄弟などと遊んでいると、よく祖母に言われたものである。「ほらほら、早く寝ねーどマモー来っつお。九時(口)に食われっから」 それらの幼いときの美しい記憶は、真っ赤な夕日と自分たちの体の長い影とともに思い出された。 家に戻ってから、私は1982年に出版された『三春町史 第一巻』を開いてみた。元寇に関しての記述があることを思い出したからである。確認してみると、間違いなく三〇一ページに、次の記述があった。 当時、広大なユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国蒙古 は元と国号を改め、高麗を征服したあとたびたび日本に服属 を迫ったが、執権北条時宗はこれを退けたため、元の大軍が 文永十一(1274)年と弘安四(1281)年の二度にわ たって九州北部を襲った。幸いにも防ぎ得たが、国内上下に 与えた恐怖感は、現在でも、子どもに恐ろしいことを 『マモー』と言うように、『魔蒙』として恐れられていた言葉 である と言われるほどに脅威であった。 マモーが蒙古であることを知ったのは、勿論この『三春町史』が出版されてからのことであるから、大分以前のことになる。三春町史を読んだ当時、幼い頃に刺した小さな疑問のトゲのうずきが取れたような気はしたが、それ以上のものにはならなかった。大体興味がなかったのである。 トランヴェールを読んだ後、私は友人知人にあのマモーという単語に記憶があるかどうかを片っ端から聞いて回った。するとマモーは郡山市安積町や日和田町、三春町などで使われているのが分かった。しかしこの単語を知っているのは、ほぼ七十歳代が限度であった。それも聞いてみると「うーん。そんなことがあったかな〜」と言うのが大部分で、話し込んでいるうちに淡い記憶が少しずつ鮮明になってくるのか、「そう言えば・・」と言う人がほとんどであった。勿論すぐに分かる人もいたが、その多くが『化けもの』、または『オッカナイモノ』『怖いもの』との認識であった。このほかにも似た表現としてマモケが郡山市三穂田町や須賀川市で使われていた。さらに聞き当たっていると、マモーとかマモケなどに類する単語は、同じ意味として東北各地や北海道渡島半島にまで広く語り継がれてきたのを知った。アモッコ,アンモー,アモコ,アンゴー,マンモー,マモッケー,マモー,モッケ,モッコ,モコ,モクヲ,モーコなどがそれである。そして岩手県一関市でもここと同じくマモーと言うのを知った。これらは、普通、十三世紀に北九州を襲った蒙古襲来の恐怖を伝えたものと説明されているが、いかに恐ろしかったとは言え、九州での恐怖が北海道にまで伝わって長い期間残ってきたということは考えにくく、やはりトランヴェールにあったように北からも蒙古襲来があったのではないかと想像させられた。もしそれが事実であれば、東北・北海道に伝わっている恐怖の象徴マモーが九州から来たのではなく地元・東北でのこととなるから、東北地方にそのような恐怖の単語が残るのはむしろ当然とも思えたからである。 これに関連して、柳田國男著『妖怪談義』に、次のような記述があった。 多くの動物の名がその鳴き声からつけられているごとく、 オバケもモーと鳴く地方では、たいていは又それに近い語を 以て呼ばれている。例えば秋田ではモコ、外南部ではアモコ、 岩手県も中央部ではモンコ、それから海岸の方に向かうと モッコ又はモーコであるいは昔蒙古人を怖れていた時代に、 そう言い始めたのであろうという説さえある。しかし人間の 言葉はそんな学者くさい意見などには頓着なしに、土地が変 わればどしどしと変化して行っている。今日私たちの知って いるだけでも、まず福島県の南の方ではマモウ、越後の吉田 ではモッカ、出雲崎ではモモッコ、越中の入善でもモモッコ、 加賀の金沢ではモーカ、能登にはモンモだのモウだのという 呼び方がある。 信州でも伊那は普通にモンモであるが南安曇の豊科では モッカといい、松本市ではモモカといっている。 これを読んで知ったのは、これらの単語が東北地方に限らず、新潟、富山、石川、長野の各県にも広がっていたということである。このように広い範囲に広がっていたということは、何を意味するのであろうか。『妖怪談義』のなかにある『昔蒙古人を怖れていた時代に、そういい始めたのであろうという説さえある』という記述を、むしろ事実とすべきなのかも知れない。これら単語としての表現の差違はともかく、もし北日本への蒙古襲来が事実であるとすれば、これは一考を要する事項と思われた。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.12.22
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