『福島の歴史物語」

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2013.04.21
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カテゴリ: 北からの蒙古襲来


 文永五(1268)年、蝦夷管領の安東五郎が殺害された。幕府は蝦夷の反乱と決めつけた。しかしこのことは、蝦夷地にいる者はたとえ蒙古人といえどもすべて蝦夷人と解釈していたと想像することができる。この年、蒙古使の杜世忠ら五人が来日したが、時宗がこれを龍ノ口で斬った。幕府は再度の九州への蒙古襲来に備えて警護を厳重にし、九州探題を設置し、異国警護番役をおいた。

 文永十一(1274)年十月三日、高麗の合浦を出港した九百隻、約四万人の蒙古・高麗軍は、十月五日対馬の小茂田浜を襲って守護代平景隆を討ち、十月十七日、その一部が有浦、星賀、呼子方面の沿岸に上陸、十月二十日には筥崎・赤坂・麁原(そばら)・百道原(ももじばる)・今津あたりに分散して上陸を開始した。

 勇猛果敢な鎌倉武士がなぜ蒙古軍に歯が立たなかったのか。まず蒙古軍の弓は全長が170センチと短いため発射までの時間が短くて済み、蒙古軍の弓で三本の矢を放つ間に日本の弓では一本しか放つことができなかった。また蒙古軍の弓は鯨のひげを張り合わせて作られており、竹でできた日本の弓よりも弾力性に優れ、矢の威力を大きくすることができたという。

 さてこの際の陸上戦であるが、日本と蒙古では戦いの流儀が違っていた。日本側は戦いに入る前に先ず鏑矢を放ち、代表がただ一騎で出てきて、「やあやあ遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそは何々が家臣何の誰兵衛でござる。我と思わん者は尋常に勝負勝負・・・」などとやる訳である。蒙古側にしてみれば、言葉の意味も分からず、また分かったにしても、「何の見世物をやっているか」というものであろう。「そんなのやっちまえ」とばかり船から矢を射かけて倒すとまた次のが出てきて「卑怯なり。我こそは何々が家臣何の誰兵衛でござる。いざ見参見参・・・」などとやっているうちに銅鑼や太鼓の合図で団体戦に持ち込まれてしまったのである。

 その上この鏑矢の儀式を行っているうちに見たこともない回々砲(大砲)・震天雷(ロケット砲)等の新型兵器を使っていきなり襲いかかり、それらの兵器の破壊力と味方の戦死者を見て「何だ、何だ」と思っているうちに、おっかなそうな顔が見たこともない武器を持って攻めてくるのであるから簡単に破られてしまう。それでも逃げて様子を見ていると、夕方になると攻めとった地域から撤収、全員が船に戻ってしまうのである。

 蒙古側は船で休息をとっていたのを知らなかったから、それを見て「勝った、勝った」と喜んでいた。このように蒙古・高麗軍が大量に上陸し,一方的に優勢な戦いをすすめていた次の日の朝、信じられない出来事が起こった。前日ひどい目にあわされた日本の武士や博多の市民の目の前には、湾内を埋め尽くしていた船が一艘も見あたらず、静まりかえった博多湾が広がっていたのである。このことは、フビライが最初から『おどし』のために派兵をおこなったもので,日本を本格的に侵略するつもりはなかったと説明されている。

 日本側の記録・八幡愚童記(はちまんぐどうき)にも嵐のことは一行も触れていないばかりか『朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた』とある。ところが高麗の歴史書『東国通鑑』には夜半に大風雨があったこと,多くの船が海岸のがけや岩にあたって傷んだことが書かれている.一説によると日本と本気で戦う気の無かった高麗軍が、言い訳のために書いたのだとも言われている。また『日蓮註画讃』に次の記録がある。

  壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を
  一カ所に集め、手をとおして船に結わえ付ける。一人も助か
  る者なし。

 これに関して高麗史節要には、『帰還した高麗軍の将軍が、二〇〇人の男女や子供を高麗王とその妻に献上した』と記されているという。

 また捕らえた女の手に穴をあけて紐を通したことの記述であるが、『日本書紀天智帝二年紀』に、『百済王豊璋は、鬼室福信に謀反心があるとして、手のひらに穴を穿って革紐をとおして縛った』とあるという。これは、これらの人びとを船縁にならべることで、日本軍からの弓矢攻撃を避けるための生きた盾にしたものと言われる。

 蒙古はヨーロッパにまで兵を進めた世界最強の陸軍国である。それ迄、渡海作戦の経験は無かった。つまり、日本征服作戦は蒙古軍にとっても、かつて経験したことの無い『未知の戦争』であったと言えよう。

 この文永の役を教訓として、幕府は異国警固番役(御家人に課した沿岸警備の軍役)などを新たに設置して国防を強化し、博多湾岸に石塁を構築した。

 建治二(1276)年、博多海岸に石塁を築いて警備を厳重にする一方で、高麗征伐の計画が立案された。しかしこれが実施に移されることはなかった。

 1277年、蒙古軍はビルマに遠征して大勝を博した。

 1278年九月、蒙古は征東元帥府を以て、東方の安定を図っ
     た。               (元史 巻十)。

 弘安二(1279)年、蒙古は南宋を完全に滅ぼした。同年、
     蒙古使・周福ら来日したが、博多で斬殺された。

 弘安三(1280)年、北条兼時を長門国守護とし異国警護を
     強化した。

 弘安四(1281)年、蒙古軍は再び対馬へ侵攻、志賀島(福
     岡県)、長門(山口県)にも来襲した。いわゆる『弘安
     の役』である。

 この『弘安の役』の際にも高麗は軍船九〇〇隻、兵士二万五千人、水夫一万五千人、戦費の全額と兵糧を提供したとされる。

 この蒙古の侵攻軍は、高麗人の金方慶を将とする東路軍・四万の人員をもって編成され、さらに蒙古によって征服されたばかりの南宋の残存艦隊により編成された江南軍・十万の兵と共に、再び日本へ軍事侵攻したのである。つまり蒙古による日本遠征軍の主力は、事実上、蒙古軍ではなかったということである。当然のことながら高麗軍の士気は高いものとは言えなかった。このことは南宋軍にも当てはまる。

 南宋軍も仕方なく蒙古の命令に従って日本に攻めて来たのであるからこれまた士気は低い。蒙古の施政から逃れて亡命し、日本にやってきた少なからぬ南宋人は、むしろ日本の味方であった。

 例えば、北条時宗の禅の師である夢想国師などはその代表である。蒙古への敵意に燃える彼は、迷える時宗に叱咤激励を与えたと言われる。この二度目の侵攻は、台風(神風)による蒙古軍の壊滅によって終結した。高麗の作った員数合わせだけの粗製濫造の軍船が、蒙古側の被害を大きくしたとも考えられている。





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最終更新日  2013.04.21 07:14:30
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