三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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石田三成の首 天正十三年(1585年)以来、豊臣秀吉に従うことを迫られていた伊達政宗が、再三の勧誘に応じないばかりか会津を攻略していたのです。戦いが終わってから小田原に着いた政宗は、いまの小田原市早川にあった石垣山城において、死を覚悟の上で白の死装束を身にまとい、豊臣秀吉との会見に臨みました。政宗が秀吉の惣無事令に反して、会津や須賀川を戦い取ったことは、『関東惣無事』を宣言していた秀吉の意に反することであったからです。それでも千利休のとりなしで死を免れることはできたのですが、そのとき政宗は、小田原より三春の田村の臣である橋本刑部に、次の文書の飛脚を立てたようです。 『関白様が田村八万七千六百八十二石八斗七升と申されたは、小野六郷は田村領に含まるるの意である』 この文意は、小野六郷も田村の領であることを、秀吉が確認したということでしょう。ともあれこの政宗の小田原参陣が遅かったこともあって、田村を含む会津、須賀川、安積が政宗から没収されてしまったのです。しかしこの間に、当時の三春の領主・田村宗顕は、秀吉の小田原参陣に応じようとしたのですが、政宗に拒否されて行けずにいたのです。 ところで。平成十年一月に、三春町歴史民俗資料館の学芸員の藤井康さんが『三春の歴史こぼれ話3』に次の記事を載せていました。 先日、たまたま『茨城県史料』に収録されている「秋田藩家蔵文書」という史料を見ていたところ、その中に次の書状が含まれていることに気づきました。 我等事、今日ミはるまて参候、明日ハミさかへ可参候、明後日十日ニハ かならす其地へ可参候(中略) 治少 佐藤大すミ殿 最後の『治少』とは石田治部少輔三成のことで、意味は今日三春までやって来ており、明日は三坂(今のいわき市)まで行き、あさってには『佐藤大すみ』のところまで行く、というものです。この書状の出された年月は、おそらく天正十八年(1590年)のことと思われます。そして、三成が三春にやって来たのは、この年の豊臣秀吉による奥羽仕置きに際して、岩城氏の処置をするために経由しただけと思われ、三春で具体的になにをしたかは分かりません。今後さらに調査を進めていきますが、新たな発見があればみなさんにお知らせしたいと思います。なお、この史料については、『三春城と城下町』(平成十年度特別展図録)に収録してありますが、この図録につきましては、品切れとなっております。館内のみであれば閲覧可能です。カウンターでお申し出ください。 そこで彼に問い合わせると、『一関田村家本』の『田村系譜』には、三春藩の橋本刑部顕徳が大阪に上り、石田三成に田村改易取り消しのことを訴えたが、その甲斐がなかったと記述されているそうです。なにかこのことと、関係があったのでしょうか。そこで私は、この前後の石田三成の動きをチェックしてみました。天正十七年、 美濃(岐阜県)を検地していました。天正十八年三月、豊臣秀吉の小田原攻めに従っています。 五月、常陸の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋。 閏五月、佐竹義宣、および越前敦賀城主大谷吉継らと館林城を攻撃。 六月、越前敦賀城主の大谷吉継・近江国水口岡山城主の長束正家らと 忍城(埼玉県行田市)を攻撃。 七月、豊臣秀次、大谷吉継らとともに奥州仕置を命じられ南部領に赴 く。 十月、奥州で一揆が起き、浅野長政とともに一揆鎮定の軍監を命じら れ、再度奥州へ赴く。天正十九年四月、南部九戸の乱鎮定に軍監として赴く。年号が変わった文禄元年二月、 朝鮮出兵の準備のため、肥前の名護屋へ行く。 六月、越前敦賀城主の大谷吉継らとともに朝鮮出兵軍の奉行を命じら れ渡海。 これらから石田三成の動きをみると、天正十八年の七月か十月、もしくは天正十九年四月に三春に回ったのではないかと想像できるのですが、なぜ三成が三春を回って『佐藤大すミ』の所へ行こうとしたのか、そして彼がどういう人なのかは、これらの資料からは分かりませんでした。 ところで『街こおりやま』誌の平成二十六年七月号に、郡山市文化・学び振興公社文化財調査研究センターの押山雄三氏が、『三成の首塚』という一文を載せておりました。『関ヶ原の戦いの敗戦の将の西軍の石田三成は、二週間後の十月一日、京の三条河原で斬首されたと伝えられているが、その首が郡山まで運ばれていたとの異聞が『前田慶次道中日記』あるので紹介したい。これを書き残したのは、加賀藩主・前田利家の義理の甥の前田慶次である。 慶次は、初冬の十一月十五日に郡山を訪ねている。浅香の沼や浅香山の旧跡に親しんだ後、彼は「格好が尋常でない大きな塚」を見て驚いている。不審に思った慶次に対し村人は、『石田治部少三成』とかいう人の首が、今年の秋の初めより都から送られてきた。それを他所へ転送しない所では、物憑きになる人が多く、悩みの種だというので、国々では武装した二、三千人ほどの人数を繰り出して、地蔵送りのようにして次々と送り、そして最後に送りつけられた所で塚を築いた。今年の天候不順は、三成のたたりです」と説明している。『兎にもかくにも笑いの種、ただの人ではない』との一文を残して、慶次は郡山を旅立ってしまった。 さて慶次を驚かせた「三成の首塚はどこにあり、その正体は?」、日記から、その場所は、日和田町高倉にあったようだ。『大きな塚』は、古墳だったのかも知れない。疑問を解くため、宇野先輩をリーダーとする同好の13名と一緒に高倉を訪ねてみた。最初に地元で蝦夷穴と呼ぶ高倉古墳群を見学したが、街道筋から離れすぎていた。次に源六林塚群を訪ねた。旧国道『にごり池バス停』そばの高台にあるため、この脇を慶次が旅し、見上げた可能性がある。そしてこの中に、もしかして・・・』 これが押山雄三氏の記述です。押山氏は「もしかして・・・」と感慨を述べていますが、私もまた「う〜ん」です。これらのことについて、「何か新たに分かることがあればいいな」と思っています。
2024.10.10
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旗本・三春秋田氏五千石 慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦い後、水戸藩は奥羽諸藩の反乱に備えるため、北関東の拠点として作られたもので、慶長十四年(一六〇九)、徳川家康の十一男の徳川頼房が常陸水戸二十五万石を領したことから、水戸徳川家初代藩主とされました。 この関ヶ原の戦いで,常陸の佐竹氏が、東西両軍に対し明確な態度を示さなかったため,徳川家康の命により出羽国秋田へ国替えとなりました。とは言え、それまで常陸国を治めてきた佐竹家の表高は約二十万石、実高は約40万石でしたから、この大藩の転封先の秋田には、そのような空き地はありませんでした。つまり、いまの秋田県秋田郡には秋田氏、秋田県仙北市角館町には戸沢氏、秋田県美郷町六郷には六郷氏、秋田県千畑村本堂には本堂氏、秋田県横手市増田町平鹿には小野寺氏が治めていたのです。しかし幕府は、なんとしてもこれらの地を空け、佐竹家に与えなければなりませんでした。そこで幕府は小野寺氏を改易とし、秋田氏を茨城県笠間市の宍戸へ五万五千石で、戸沢氏を山形県新庄市へ六万石で、六郷氏を秋田県由利本荘市へ二万石で、本堂氏を茨城県かすみがうら市中志筑へ八千五百石で安堵したのです。さあここで、『秋田美人』です。秋田に転封された佐竹氏が、腹いせに領内の美人を全員秋田に連れて行ったので、それに対し、水戸に入府した徳川頼房が佐竹氏に抗議したところ、秋田藩領内の美しくない女性を全員水戸に送りつけたというのです。そのため、秋田の女性は皆美人で、水戸の女性はそうでない人ばかりだというのです。実はこの話、水戸に住む学生時代の友人に聞いたことなのですが、笑いながら教えてくれたので、冗談の一種だと思っています。 さて、秋田から宍戸・五万石へ来た秋田実季でしたが、寛永七年(一六三〇年)九月、罪を得て伊勢国朝熊に流され、家督は子の俊季が継ぎました。そして正保二年(一六四五年)七月、俊季は五万五千石に加増された上で三春転封となり、その後の宍戸は、水戸藩領となったのです。これは俊季が、大坂冬の陣、および夏の陣に父の秋田実季とともに徳川勢として出陣したこと、さらに実季の妻、つまり俊季の母が、二代将軍・徳川秀忠の正室・崇源院の従姉妹にあたることも幸いしての加増転封であったといわれます。年度は不明ですが、俊季は弟の熊之氶季久に五千石を分知しました。そのため三春藩は五万石となり、季久は五千石の旗本になったのです。 旗本とは、戦場で大将の旗のある場所から転じて、旗の下を固める役目を果たす直属の武士を称し、老中の支配下にありました。徳川幕府は、これらの武士で知行高一万石以下の者のうち御目見得を許され、しかも騎乗を許された者を旗本、御目見得を許されずしかも騎乗も許されなかった者を御家人と称しました。旗本が領有する領地には陣屋が置かれました。これら旗本・御家人の数は、一七〇四年から一七一〇年の宝永年間には総数二万二千五百六十九家でしたから、旗本八万騎という表現は、いささかの誇張と思われます。ちなみに、一六四八年頃に発せられた慶安軍役令では、五千石クラスの旗本は総勢で百二名あり、一隊をなす程度になっていました。季久の収入となる五千石領は、(田村市)大倉村、新舘村、荒和田村、実沢村、石森村、洪田村、仁井田村となっており、その代官所は、三春の御免町にありました。今は代官所そのものの建物は残されていませんが、付属の土蔵が一つ、残されています、旗本は江戸常在がきまりでしたから、季久にも江戸に屋敷が与えられ、生涯江戸で暮らしたのです。なお、村田マサさんの旧居が、ここでした。 旗本秋田氏七代の季穀(すえつぐ)は、文化四年(一八〇七年)に駿府城加番となりました。加番とは、城主に代わって諸事を統轄した家臣の長の城番を補佐し、城の警備に任じたもので、大坂城加番と駿府城加番があり、ともに老中の支配に属していました。そして天保二年(一八三一年)、季穀(すいつぐ)は浦賀奉行に任じられています。浦賀にペリーがやってきた時でしたが、江戸城勤務であったので、難しい交渉には晒されませんでした。それでも自領の村からの収入でこれらの業務をこなし、さらに百名かそれ以上の家臣を、それも武器や軍馬とともに維持するというのは、大変なことであったと思われます。旗本たちには、それぞれの領地からの収入の他、幕府からの支給金が合計で四百万石が与えられたとされますが、旗本総数での平均値をみると、それぞれが約百七十石に過ぎないことになります。それでも戊辰戦争後になると、従来の家臣を扶持することができなくなった徳川家は、支給金を七十万石に減らしたといわれますから、平均値はたったの三十一石になります。なお一石は一年間に一人が食べるお米の量でしたが、一日で三合食べる計算でしたから、江戸時代の人はお米を沢山食べていたことになります。その上で徳川家は旧旗本に対し、新政府の職員となるか、農商に帰するかを迫りました。 旗本たちは、失業状態となりました 受ける俸禄も有名無実となり、旗本に与えられた債権を、売却する者もいたようです。つまり藩主と違って旗本は、あっさりと解雇されてしまったのです。しかも間もなく、これらすべての経済的諸問題が、新たに発足した明治政府に移管され、金禄公債で保障されたことで、各藩主は経済的恐怖から解放されることになりました。金禄公債とは、徳川幕府の家禄制度を廃止する代償として、旧士族に交付された退職金のようなものでした。それを元手に商売したが失敗して『武士の商法』侮られる者、そして北海道行って屯田兵になる者などがありました。その一方で、明治政府の主力となった旧薩摩・長州の藩士あるいは旧幕府の旗本・御家人の一部は政府の役人とし、中には警察官吏として任用された者も多くいたのです。このような旗本に対する馘首などの処遇は、トカゲの尻尾切りのようにみえる現代の世相そのもののような気がするのですが、どうでしょうか。 ところで、旗本には外国人もいました。徳川家康の外交顧問として仕えたイングランド人の航海士、水先案内人、貿易家で、日本名は三浦按針、つまりウィリアム・アダムスです。ウィリアム・アダムズは、サムライの称号を得た最初のヨーロッパ人であり、いまの横須賀市西逸見町に二百五十石の領地を与えられ、妻は日本橋大伝馬町の名主の娘でした。 元和六年(一六二〇年)、按針は平戸で病死し、五十五年の生涯を閉じました。アダムズの領地であった逸見町にある塚山公園には、按針の遺言によってこの地に建てたと伝えられる二基の供養塔が残されており、この『三浦安針の墓』は、国の史跡に指定されています。なお、その子のジョセフ・アダムズは、父の持つ旗本の地位と領地と朱印状を継いだが、その後の消息は不明。死後は領地の三浦に埋葬されたとも言わます。
2024.08.10
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細川ガラシャ、そしてマリー・アントワネット 平成二十四年春、三春歴史民俗資料館で開かれた特別展で頒布された、『愛姫と三春の姫君』というパンフレットの説明に、『細川京兆家・細川昭元の子孫は、秋田家に仕えることとなった。家中に二家ある細川家のうち、桜谷を代々の屋敷地とした桜谷細川家には多くの資料が残されており、三春の細川家こそが京兆家といわれた細川氏の嫡流です』とあったのですが、なぜこのように、由緒ある細川京兆家が、中央から離れた奥州の一角、この三春へ来たのでしょうか。まず、細川京兆家について調べてみました。 細川京兆家は、室町幕府の屋台骨として絶大な権力を誇った家で、『京兆』とは右京大夫の唐名の『京兆尹(けいちょういん)』のことであり、当主が代々右京大夫の官位に任ぜられたことに由来します。これは、有名な徳川光圀が中納言であったので、その唐風の呼び名の『黄門』と呼ばれたように、唐名で京兆家と呼ばれたものです。なお京兆尹とは、古代中国の官職名で、首都の近郊を管轄する行政長官の官名として使用されたものです。 細川京兆家十九代当主の細川昭元は、室町幕府十五代将軍の足利義昭から昭の諱を受けて織田信長と戦いましたが、後に投降して信長の妹・お犬と結婚し、さらに信長からも諱を授かり信良と名を改めています。豊臣秀吉の時代になると、聚楽第に秀吉の悪口が落書きされた事件で捕縛され、まもなく病死してしまいます。この昭元とお犬の間の長女が、三春藩初代の秋田実季の正室『円光院』となります。一方、信長のもう一人の妹の『お市』の娘の『お江』が、二代将軍・徳川秀忠と結ばれたことから、その子の三代将軍・徳川家光と秋田実季の子の俊季は、又従兄弟の関係となったのです。秋田氏は、この由緒により外様大名から譜代並の大名へ格上げされ、さらに、この良縁をもたらしたということで、細川京兆家二十一代当主の細川義元は、秋田家に迎えられたのです。そして、いわゆる家老である年寄衆より上席で別格の家として、元勝 義元 宣元 忠元 孚元 昌元と代々城代あるいは大老として三春藩に勤めていました。いまの三春町桜谷にある三春歴史民俗資料館の場所に屋敷を構えたことから、桜谷細川氏と呼ばれました。また、義元の二男の元明は分家を興し、本家と並んで重職についています。ところで時代の下がった戊辰戦争の時、三春藩の細川可柳という名が出てきます。そして現在、七軒ほどの細川さんが三春に住んでおられます。これらの方々は、細川京兆家の末裔なのでしょうか。秋田家や細川京兆家の菩提寺は三春の高乾院にあり、ここには細川義元や元明の立派な墓もあります。いずれ名門である細川京兆家は、三春で代を重ねたことになります、 ところで、この細川京兆家の分家とされるのが『肥後細川家』です。ただし近年の研究では、肥後細川家の祖は宇多源氏佐々木大原氏の流れとも云われていて、要するにまだよくわかってないというのです。この肥後細川家の祖とされる細川藤孝は、三淵晴員の次男として京都東山に生を受けています。そもそも三淵家と細川家では、養子が出たり入ったりしていて諸説がある上に、細川藤孝は、熊本で暮らしたことはないとされます。しかし、系譜的には細川藤孝から始まるので、肥後細川家の初代として扱われているのですが、実際に熊本藩主になったのは孫の細川忠利からです。平成五年八月九日より平成六年四月二十八日まで内閣総理大臣を務めた細川護熙氏の先祖は、この忠利ですから、護熙氏は細川京兆家の分家ということになります。つまり三春の細川家こそが、細川京兆家といわれた細川氏の嫡流なのです。 この分家という関係ではありますが、肥後細川家の細川忠興は、明智光秀の娘の『玉』と結ばれました。ところが天正十年(1582年)、本能寺、いまの京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町において、明智光秀は主君の信長を討ったのです。しかし、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れました。玉は『逆臣の娘』として、生まれたばかりの子供とも離され、いまの京丹後市の山中に幽閉されたのです。やがて侍女である『清原いと』が受洗してマリアと称していたことから、その手引きで玉も受洗、ガラシャの洗礼名を受けたのです。 慶長五年(1600年)、関ケ原合戦が勃発する直前、徳川家康に従って山形の上杉征伐に向かっていた細川忠興らの妻子を人質としようと、豊臣方の石田三成が動きました。三成は、細川家にも豊臣方に従うようが申し入たのですが、留守を預かる玉はこれを拒みました。翌日、三成は兵を送って細川屋敷を囲ませ、力づくでも従わせようとしたのですが、玉は捕らえられて恥を晒すよりもと、死を選びました。しかし、キリスト教では自殺を許さないため、玉は家臣の小笠原少斎に命じて、部屋の障子の外から槍で胸を突かせたと言われます。辞世の句は、「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」でした。享年、38歳という若さでした。 このガラシャの最期は、日本で布教活動を行っていたイエズス会の宣教師によってヨーロッパに伝えられ、印刷物などを通じて広く知れ渡ることとなりました。そして、それからおよそ100年後の1698年、新作戯曲『気丈な貴婦人〜丹後王国の女王』が、オーストリアのハプスブルク家宮殿内のホールでオペラとして上演されました。その戯曲のモデルは、イエズス会の宣教師たちが伝えた細川ガラシャの生涯でした。玉の運命はハプスブルク家の女性たちに共感をもって迎えられ、『貴婦人の鑑』と呼ばれて、マリー アントワネットにも影響を与えたといわれます。 悲劇のヒロインの東西両横綱といえば、東の細川ガラシャ、西のマリー・アントワネットではないかと思われます。実はこの二人の女性、生きた時代も国も異なりますが、不思議な共通点があったのです。どちらも政略結婚で嫁がされ、時代の大激変に巻き込まれて、奇しくも同じ37歳で非業の最期を遂げたのです。すなわちガラシャの悲劇は、遠くヨーロッパにまで伝えられていたのです。マリー・アントワネットが断頭台に行く前、義理の妹に宛てた手紙に、『私はガラシャのように潔く最期を迎えたい』と書いていたそうですが、情報の出所は、どうやら、ガラシャの子孫でもある細川家の関係者から出てきた話のようです。マリー アントワネットはフランス革命でギロチンにかけられる際も、落ち着いた態度だったと言われます。 果たしてマリー アントワネットは、細川ガラシャのことをどこまで知っていたのか、またその生き方に本当に憧れていたのかは、謎として残ったままです。ところが、中村勝郎著『なぜ日本はJapan と呼ばれたか』によりますと、マリー アントワネットは、日本の漆器の愛好者であったそうです。と言うことは、マリー アントワネットが持っていたガラシャへの憧憬が、漆器と重ね合わされたのではないかとも想像できます。それでも、時代の激変に翻弄されながら、死の間際まで決然とした態度を貫いた二人の生き様には、時空を超えた運命的なつながりがあるように思えてなりません。 このオペラの台本は、初演から約300年を経て、ウィーン国立図書館に所蔵されているのが見つかりました。ガラシャ生誕450年を迎えた平成二十五年には、上智大学創立100周年記念事業として、日本でも復活上演されています。
2024.08.01
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三春駒 三春駒は、現在、郷土玩具の『子育て木馬』として、西田町高柴のデコ屋敷や三春町内で作られています。その発祥の伝説は、京都東山の音羽山清水寺に庵をむすんでいた僧の延鎮が、坂上田村麻呂の出兵にあたって、仏像を刻んだ残りの木切れで100体の小さな木馬を作って贈ったというのです。延暦14年(795年)、田村麻呂はこの木馬をお守りとして、奥羽の『まつろわぬ民』を討つため京を出発しました。そしてその途中となる、田村の郷の大滝根山の洞窟に、大多鬼丸という悪人どもの巣窟のあるのを知り、これを攻めたのです。ところが意外に強敵であった大多鬼丸を相手にして、田村麻呂率いる兵士が苦戦を強いられていたのです。そのようなとき、どこからか馬が100頭、田村麻呂の陣営に走り込んできたのです。 兵士たちはその馬に乗って大滝根山に攻め登り、大多鬼丸を滅ぼしました。 ところが戦いが終わってみると、いつのまにか、あの馬100頭の行方はわからなくなっていたのです。 翌日、村の杵阿弥(きねあみ)という人が、汗びっしょりの木彫りの小さな駒を一体見つけて家に持ち帰り、それと同じに99体を作って100体としたのですが、高柴村が三春藩の領内であったので『三春駒』と名付け、100体の三春駒を子孫に残したのです。後に、杵阿弥の子孫が、この木馬を里の子供たちに与えたところ、これで遊ぶ子供は健やかに育ったので、誰ともなしのにこの三春駒を『子育木馬』と呼ぶようになったというのです。 三春藩の奥地には、もともと野生の馬が多く生息していました。それらを飼い慣らして農耕馬とし、軍馬として使われるなかで『三春駒』と言うようになったのです。江戸時代になると、藩を豊かにするための産業として馬を改良し、多くの良馬を生み出して全国へ広がっていったのです。 それもあって人々は、飼馬の安らかな成長を祈って、神社や馬頭観音に絵馬や高柴村で作られた木の三春駒を刻んで奉納するようになり、また子供の玩具に用いたりするようになったのです。木製の三春駒は、現在郷土玩具として、西田町高柴のデコ屋敷や三春町内で作られるようになりました。いまの三春駒の原型は大正期に出来たとされ、直線と面を活かした巧みな馬体と洗練された描彩は、日本三大駒の随一との定評があります。馬産地として日々の生活の中で出来た人と馬との絆が、この木馬を生み出したのかもしれません。『三春黒駒』は子宝・安産・子育てのお守りとして、また『三春白駒』は老後の安泰、そして長寿のお守りとして作られています。『三春駒』は、青森県八戸の八幡馬、仙台の木下駒と並んで日本三駒とも呼ばれています。大小さまざまあるが,シュロのたてがみと尾をつけ,直線を生かした逞しい馬体につくられ,馬産地にふさわしいできばえを示していると言われます。 生きた三春駒は絶滅してしまったので、どのような特徴のある馬であったかは分かりませんが、現在の日本経済新聞の前身となる中外商業新報の大正4年5月1日の記事に、『三春藩時代に於ては日暮、花月等の名馬を産し、明治時代に在ては夫の御料乗馬たりし友鶴、旭日等のごとき・・・』とあります。三春駒の友鶴、旭日の二頭が明治天皇の、また繰糸号が明治天皇の后の昭憲皇太后の、さらに第二関本号が大正天皇の御料馬であったということに驚かされます。これは田村郡から献上された三春駒の在来馬であったといわれていますが、いずれにせよこれらの馬の調教師は、いまの本宮市白沢の佐藤庄助さんであったそうです。 ところでデコ屋敷の『デコ』は、『木偶(でく)』で木彫りの人形を表し、人形屋敷という意味になります。現在、高柴地区は郡山市に属しますが、江戸時代は三春藩領の高柴村であったため、その名残で三春駒や三春人形と呼ばれるようになったのです。大小のダルマや各種のお面、恵比寿・大黒や干支の動物などの縁起物をはじめ、雛人形や歌舞伎・浮世絵に題材をとる人形まで多くの種類を手掛けています。デコ屋敷周辺の狭い範囲には神社が点在し、約100基の朱の鳥居の立ち並ぶ『高屋敷稲荷神社』や、パワースポットの大岩のある日枝神社などがあり、ここには代々ご長寿の方が多いことなどから、そのご利益であるとの信仰を深めています。日本の三大駒として、青森県の八幡馬、宮城県の木ノ下駒と並んで三春駒が挙げられていますが、三春駒は、木ノ下駒の影響を受けていると考えられています。デコ屋敷にある郷土人形館では、江戸時代に制作された三春駒を見ることができ、福島県の重要有形民俗文化財に指定されている各工房の木型や、江戸時代の人形が展示されています。 私は子どもの頃から、三春大神宮の境内に等身大の白馬の像のあることを知っていましたので、これは明治天皇に献納した三春駒の記念の像かと思っていました。しかし調べてみると、三春藩駒奉行徳田研山の指導で、石森村の仏師伊東光運が制作したものと分かり、時代も古く、明治の天皇家に献納した馬とは無関係なようでした。 第二次大戦後は軍馬の需要は無くなり、また農業の機械化によって馬そのものの需要が激減しました。しかしその後も、田村郡では競走馬の生産が続けられ、小野町今泉牧場のトウコウエルザや、桑折町で生まれて北海道新冠の早田牧場新冠支場で調教を受けた天皇賞・宝塚記念・菊花賞を制したビワハヤヒデがいます。現在、東京電力福島第一原発よる放射能事故に追われ、全村避難となっていた旧三春藩領の双葉郡葛尾村でも、多くの馬が育てられていましたが、古代以来の馬作りの伝統が、福島産の馬の活躍にもつながったと思われます。なお、トウコウエルザは、昭和49年度優駿賞の最優秀4歳牝馬を受賞しています。またビワハヤヒデは平成4年、中央競馬でデビューし、翌年のクラシック三冠路線では、ナリタタイシン、ウイニングチケットの、それぞれの頭文字から『BNW』と呼ばれたのですが、それらライバルを制して三冠のうち最終戦の菊花賞を取得しています。 令和元年5月3日のTBSで、大正天皇と貞明皇后のお二人の最側近として仕えた、元高等女官『椿の局』こと坂東登女子さんが、世にも稀な経験の数々を雅やかな御所言葉で語る、貴重な記録が放映されました。およそ100年前に宮中で仕えた女官の肉声を収めたカセットテープの内容でした。そして大正天皇と貞明皇后の人となりの話の中に、馬の話がちょっとだけ出ました。 「陛下のお毒見しますでしょ。魚ならこんなひと切れとか」 「趣味は御乗馬ですね。お馬さんですね」 私はひょっとして、このお馬さんは三春駒ではなかったかという思いと、大正の時代までツボネという敬称が使われていたことに驚かされました。 三春駒は、日本で最初の年賀切手に採用された民芸品です。工芸品とだけなって、生きた馬の姿は見ることができなくなってしまいましたが、新幹線郡山駅のコンコースに、その姿が描かれています。
2024.07.20
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在来馬と民話 昔から日本にいた馬のことを、在来馬と言います。日本の在来馬は、古墳時代にモンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された小形の馬とされています。古墳時代は、モンゴル文化の影響から、馬が魂を運ぶ動物と考えられていたため、古墳上には舟形埴輪と共に馬形埴輪も置かれるようになりました。こうした馬形埴輪の近くからは、俗に踊る埴輪と呼ばれるタイプの、馬飼の人物埴輪も出土します。これに付随して、馬の骨や馬の歯、それに馬具が遺跡から出土していますから、古くから馬が存在していたことの確認ができます。 現在、在来馬としては、北海道の北海道和種、長野県の木曽馬、愛媛県の野間馬、長崎県対馬の対州馬、鹿児島県トカラ列島のトカラ馬、宮崎県の御崎馬、沖縄県宮古島の宮古馬、それと与那国島の与那国馬の8種類がいますが、その数は減少してしまいました。しかしこれらの8種類は、日本の在来馬として保護されています。北海道和種は、道産子の俗称で親しまれており、その頭数はおよそ1800頭で、在来馬の約75パーセントを占めています。しかしほかの7種は数十から百数十頭しかいないそうです。一番少ない対州馬となるとさらに少なく、30頭以下とされています。また新潟県の粟島には、粟島馬がいました。この粟島には、昭和初期まで生息していました。江戸時代の記録によればその数5・60頭がいたとされるのですが、明治期になると捕獲や事故などで数が段々減りはじめ、昭和七年には最後の一頭が死んで島の在来馬は絶滅してしまいました。ところがこれ以外にも、三春駒がありました。今は無くなりましたが、福島競馬場において、三春駒の名のレースが行われていたのです。 西洋の馬が輸入されるまでの三春駒は、南部駒とともに有名な馬でした。これら在来馬の特徴は体高が低く体重も軽いのですが、辛抱強く雑食性であるという特徴がありました。宮古馬は、体高はおよそ120センチと小型で、ポニーに分類されます。宮古馬は、サトウキビ畑などでの農耕馬として利用されてきましたが、現在は45頭にまでにまでなってしまったそうです。なお宮古馬は、大野正平の『日本縦断こころ旅』で放映されましたので、ご覧になられた方も多いのではないでしょうか。日本馬事協会は、先ほどの8種類を日本在来馬と認定して保護にあたっています。 戦国時代の馬は、その小柄な体型から甲冑武者を乗せるとよたよたとしか走れないと誤解されていますが、約3・5キロメートルをノンストップで速歩、駈歩で問題なく走り続けられることが確かめられています。そこで、それぞれの馬の走りをスローで見てみると、木曽馬は現在のサラブレッドよりも、上下の揺れが少なかったそうです。サラブレッドは足が長く、大きな歩幅で飛び跳ねるように走るため、上下の揺れが大きいのだそうです。そう言われてみれば、競馬の騎手の乗る姿からも想像できます。つまり、在来馬は走る際の揺れが小さく、馬上での戦いにも優れていたと言われます。 延宝七年(1679年)、三春藩主三代目の秋田輝季は、領内で産した7歳馬を4代将軍・徳川家綱へ献上して以来、参勤交代の度に三春駒を献上して全国に知られるようになりました。その後、三春藩では、仙台や南部藩から良馬を買い付けてかけ合わせることで馬の名産地となったのです。江戸時代の後期から近代にかけて、田村地方産の馬は名馬も多く、三春駒と呼ばれるようになっていきました。 さて民話です。456年から479年の間の雄略天皇期の話の中に、270年から310年の間の応神天皇の陵の馬形埴輪が赤い馬に化け、人を乗せて早く走ったといった話があり、古代から馬に関する多くの怪異話が語られています。仏教説話集の『因果物語』などにも、馬の怪異が語られています。その多くは、馬を粗末に扱った者が馬の霊に取り憑かれて馬のように行動し、最後には精神に異常をきたして死ぬというものです。日本ではかつて仏教国として、獣を殺したり獣の肉を口にすることは五戒、つまり仏教徒が守るべき基本となる不殺生戒(ふせっしょうかい)、不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、不邪淫戒(ふじゃいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不飲酒戒(ふおんじゅかい)の5つの戒めに触れ、殺生を行なった者は地獄に堕ちると言われた迷信が、これらの憑き物の伝承の背景にあるとの説があります。 江戸時代になると、在来馬に関連した妖怪話も盛んとなります。死んだ馬の霊が人に取り憑いて苦しめるという『馬憑き』、馬の足が木の枝にぶら下がっていて、不用意に近づくと蹴り飛ばされるという『馬の足』、首のない馬が路上に出没し、人に襲いかかって噛みつく『首切れ馬』などは、馬の妖怪です。このような怪異話は、福島県にもありました。例えば、昔、ある男が娘と一緒に住んでいました。ある日、男が狩りに出かけて、何日たっても帰ってこなかったので、娘は自分の家の馬に、父を探してきてくれたら嫁になってやると言ったというのです。するとその馬はどこかに走って行ったのですが、夕方になってから男を背に乗せて帰ってきました。それから馬は変な『いななき声』をたてるようになったので娘に聞くと、娘は今までのことを話しました。男は怒って娘を島流しにしてしまったのです。それを知った馬は、娘のあとを追って行方不明になっていたのですが、やがてすごすごと帰ってきました。それが駒帰り、今の会津駒ヶ嶺となった、というものです。 ところで田村郡にも在来馬の妖怪話がありました。三浦左近国清という人が今の西田町太田に住んでいました。結婚できないことを憂い、滝桜近くにある滝不動に、美しい妻が得られるようにと祈願したのです。すると夢に不動明王が現れ、現世には嫁がせるべき女がいないので、五台山の奥の池で天女が水浴びをしているので、その羽衣を取れと言ったのです。国清はその通り山に登り天女の羽衣を取って家に帰りました。やがて天女は羽衣のないのに気付き、国清の家に行って羽衣を返して欲しいと願ったのですが返されず、ついには夫婦になってしまいました。二男一女をもうけたのですが、やがて子供たちが大きくなったから別れても立派に育つと言い残し、天女は羽衣を着て天に昇って行ったのです。国清は悲しんだのですが娘はそれにもまして悲しみ、ついには池に身投げして死んでしまいました。中太田に姫塚と呼ぶ塚がありますが、この姫を祀ったものといわれます。それにしてもこの話、天女が田村郡に遊びに来ていたとは、荒唐無稽ではありますが、面白いと思いました。 ところで明治初期に日本を訪れた欧米人たちは、日本の在来馬が世界で最も進化していない馬であるということで、本国に持ち帰ったという逸話もあります。しかし明治政府が、「富国強兵政策」の一環として軍馬や農耕馬を強くするために外来種を輸入し、品種の改良を行ったことも在来馬の数を激減させた理由の一つでした。それでもかろうじて残った在来馬は、離島や岬の先端など交通が不便な所に、前述した8種類だけが残ったのです。
2024.07.10
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生家の取り壊し今からほぼ18年前の平成4(1992)年、「三春町方資料館」にしたいという三春町の依頼で手放しましたがバブル崩壊で計画が頓挫していました。ところがこのほど計画が縮小されてようやく再開、白壁の土蔵のみを残して母屋が解体されました。 ちょうど体をこわして休んでいましたが、三春での隣の川又暉之さん(左側・なまこ壁の家)がこの写真を撮影してメールで送ってくださいました。 「ああ、しばらく見ない間に随分荒れたな・・」という感慨に襲われました。この写真を見た日の夜、生家への思いがつのって、さすがに眠れませんでした。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2010.10.17
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