『福島の歴史物語」

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2024.07.10
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カテゴリ: いろいろのこと
     在来馬と民話

 昔から日本にいた馬のことを、在来馬と言います。日本の在来馬は、古墳時代にモンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された小形の馬とされています。古墳時代は、モンゴル文化の影響から、馬が魂を運ぶ動物と考えられていたため、古墳上には舟形埴輪と共に馬形埴輪も置かれるようになりました。こうした馬形埴輪の近くからは、俗に踊る埴輪と呼ばれるタイプの、馬飼の人物埴輪も出土します。これに付随して、馬の骨や馬の歯、それに馬具が遺跡から出土していますから、古くから馬が存在していたことの確認ができます。

 現在、在来馬としては、北海道の北海道和種、長野県の木曽馬、愛媛県の野間馬、長崎県対馬の対州馬、鹿児島県トカラ列島のトカラ馬、宮崎県の御崎馬、沖縄県宮古島の宮古馬、それと与那国島の与那国馬の8種類がいますが、その数は減少してしまいました。しかしこれらの8種類は、日本の在来馬として保護されています。北海道和種は、道産子の俗称で親しまれており、その頭数はおよそ1800頭で、在来馬の約75パーセントを占めています。しかしほかの7種は数十から百数十頭しかいないそうです。一番少ない対州馬となるとさらに少なく、30頭以下とされています。また新潟県の粟島には、粟島馬がいました。この粟島には、昭和初期まで生息していました。江戸時代の記録によればその数5・60頭がいたとされるのですが、明治期になると捕獲や事故などで数が段々減りはじめ、昭和七年には最後の一頭が死んで島の在来馬は絶滅してしまいました。ところがこれ以外にも、三春駒がありました。今は無くなりましたが、福島競馬場において、三春駒の名のレースが行われていたのです。

 西洋の馬が輸入されるまでの三春駒は、南部駒とともに有名な馬でした。これら在来馬の特徴は体高が低く体重も軽いのですが、辛抱強く雑食性であるという特徴がありました。宮古馬は、体高はおよそ120センチと小型で、ポニーに分類されます。宮古馬は、サトウキビ畑などでの農耕馬として利用されてきましたが、現在は45頭にまでにまでなってしまったそうです。なお宮古馬は、大野正平の『日本縦断こころ旅』で放映されましたので、ご覧になられた方も多いのではないでしょうか。日本馬事協会は、先ほどの8種類を日本在来馬と認定して保護にあたっています。

 戦国時代の馬は、その小柄な体型から甲冑武者を乗せるとよたよたとしか走れないと誤解されていますが、約3・5キロメートルをノンストップで速歩、駈歩で問題なく走り続けられることが確かめられています。そこで、それぞれの馬の走りをスローで見てみると、木曽馬は現在のサラブレッドよりも、上下の揺れが少なかったそうです。サラブレッドは足が長く、大きな歩幅で飛び跳ねるように走るため、上下の揺れが大きいのだそうです。そう言われてみれば、競馬の騎手の乗る姿からも想像できます。つまり、在来馬は走る際の揺れが小さく、馬上での戦いにも優れていたと言われます。

 延宝七年(1679年)、三春藩主三代目の秋田輝季は、領内で産した7歳馬を4代将軍・徳川家綱へ献上して以来、参勤交代の度に三春駒を献上して全国に知られるようになりました。その後、三春藩では、仙台や南部藩から良馬を買い付けてかけ合わせることで馬の名産地となったのです。江戸時代の後期から近代にかけて、田村地方産の馬は名馬も多く、三春駒と呼ばれるようになっていきました。

 さて民話です。456年から479年の間の雄略天皇期の話の中に、270年から310年の間の応神天皇の陵の馬形埴輪が赤い馬に化け、人を乗せて早く走ったといった話があり、古代から馬に関する多くの怪異話が語られています。仏教説話集の『因果物語』などにも、馬の怪異が語られています。その多くは、馬を粗末に扱った者が馬の霊に取り憑かれて馬のように行動し、最後には精神に異常をきたして死ぬというものです。日本ではかつて仏教国として、獣を殺したり獣の肉を口にすることは五戒、つまり仏教徒が守るべき基本となる不殺生戒(ふせっしょうかい)、不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、不邪淫戒(ふじゃいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不飲酒戒(ふおんじゅかい)の5つの戒めに触れ、殺生を行なった者は地獄に堕ちると言われた迷信が、これらの憑き物の伝承の背景にあるとの説があります。
 江戸時代になると、在来馬に関連した妖怪話も盛んとなります。死んだ馬の霊が人に取り憑いて苦しめるという『馬憑き』、馬の足が木の枝にぶら下がっていて、不用意に近づくと蹴り飛ばされるという『馬の足』、首のない馬が路上に出没し、人に襲いかかって噛みつく『首切れ馬』などは、馬の妖怪です。このような怪異話は、福島県にもありました。例えば、昔、ある男が娘と一緒に住んでいました。ある日、男が狩りに出かけて、何日たっても帰ってこなかったので、娘は自分の家の馬に、父を探してきてくれたら嫁になってやると言ったというのです。するとその馬はどこかに走って行ったのですが、夕方になってから男を背に乗せて帰ってきました。それから馬は変な『いななき声』をたてるようになったので娘に聞くと、娘は今までのことを話しました。男は怒って娘を島流しにしてしまったのです。それを知った馬は、娘のあとを追って行方不明になっていたのですが、やがてすごすごと帰ってきました。それが駒帰り、今の会津駒ヶ嶺となった、というものです。

 ところで田村郡にも在来馬の妖怪話がありました。三浦左近国清という人が今の西田町太田に住んでいました。結婚できないことを憂い、滝桜近くにある滝不動に、美しい妻が得られるようにと祈願したのです。すると夢に不動明王が現れ、現世には嫁がせるべき女がいないので、五台山の奥の池で天女が水浴びをしているので、その羽衣を取れと言ったのです。国清はその通り山に登り天女の羽衣を取って家に帰りました。やがて天女は羽衣のないのに気付き、国清の家に行って羽衣を返して欲しいと願ったのですが返されず、ついには夫婦になってしまいました。二男一女をもうけたのですが、やがて子供たちが大きくなったから別れても立派に育つと言い残し、天女は羽衣を着て天に昇って行ったのです。国清は悲しんだのですが娘はそれにもまして悲しみ、ついには池に身投げして死んでしまいました。中太田に姫塚と呼ぶ塚がありますが、この姫を祀ったものといわれます。それにしてもこの話、天女が田村郡に遊びに来ていたとは、荒唐無稽ではありますが、面白いと思いました。

 ところで明治初期に日本を訪れた欧米人たちは、日本の在来馬が世界で最も進化していない馬であるということで、本国に持ち帰ったという逸話もあります。しかし明治政府が、「富国強兵政策」の一環として軍馬や農耕馬を強くするために外来種を輸入し、品種の改良を行ったことも在来馬の数を激減させた理由の一つでした。それでもかろうじて残った在来馬は、離島や岬の先端など交通が不便な所に、前述した8種類だけが残ったのです。






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最終更新日  2024.07.10 08:30:09
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