三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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あ と が き この作品は、「日通文学」2001年1~3月号に、「落日」として分割連載されたものである。年代的には、主人公・田村清顕の子供時代からその死に至る天正十四(一五八六)年までの、ほぼ数十年の間がその題材である。 歴史上、三春田村氏は、顕の一字を通字として使用してから、直顕ー盛顕ー義顕ー隆顕ー清顕と五代続いていることが知られているが、特にそのうち、義顕ー隆顕ー清顕の三代は、「戦国田村氏三代」として、この地で親しまれている。しかし最後の清顕には男子の後継者がなく、唯一の女子・愛姫を東北の覇者・伊達政宗に嫁がせ、結果的に伊達領に組み込まれたこともあって、とかくその影は薄い。 田村氏が版図としていた三春を中心とする田村郡は、阿武隈高地の中にあり、山間高冷地の由もあって、農作物にも恵まれなかった。むしろこのような土地柄であったがために、田村氏は域外に目を向けたとも思われる。 戦いに次ぐ戦い。常に命を的にして得たこれら豊穣の地。そしてこれを託すべき男子を持ち得なかった清顕・・・。田村氏としては、決して侵略を意図した戦いではなかったろうが、結果的に、他の領主との間での争奪戦となり、その領地を拡大していったということは、疑いのない事実である。 この田村氏とその周辺の領主たちを現代に置きなおしてみると、まるで中小企業の経営者たちのように見える。たまたま小さな商店の子に生まれ、好むと好まざるとに拘わらず親の後を継いで店主となっていく。そして一生を賭けた、際限もない商戦に挑んでいく。その生活の中で、さらに次代を嗣ぐべき子が生まれ、育てていく。ところがある日、その子が新しい価値観を主張して、親の元を去っていく。つまり、店を嗣がないのである。親は今までやって来たことに疑問を感じ、子と店の将来を憂えるが、もはやどうにもならない。親は種々のしがらみと老齢化もあって自から店を閉められず、ジリ貧を待つだけになる。 田村清顕は、嗣ぐ子がいなかったということではあるが、内容としては似ていよう。この意味において私は、田村清顕の死が極めて現代的な要素を含んでいると思える。そんな構図をここから読みとって頂ければ私としては、望外の喜びである。 なおこれの発表後、私の学兄・山口篤二氏より種々のご指摘を頂いた。それらについて、殆どを取り入れたが、難しいことが一つあった。それは文中、「『彼の長男の清顕は五才、次男の氏顕は三才になっていた。(三頁)』は、あり得ない記述です。例えば『彼の長男太郎丸(後の清顕)は五才、次男次郎丸(後の氏顕}は三才になっていた。』が、正しい表現です」とのご指摘である。 なるほどと思い、三春町史を見、三春資料館にあたったが、幼名は確認できなかった。そこで幼名を創出しようかとも思ったが、彼らは実在の人物である。もし誰かがこの名を正確と思い、一人歩きしても困ると思い、これを修正せず、そのままにした。 ここに言い訳と、お礼と、お詫びを兼ねて、説明をさせて頂いた次第である。 (了) 参 考 文 献 一九一五 仙道田村荘史 青山正・やそ・操 一九七二 山形県史 山川出版社 一九七九 仙道軍記・岩磐軍記集 歴史図書社 一九八〇 戦国武将の攻めと守り 産業能率大学出版部 藤公房 一九八五 三春町史 三春町 一九九二 日本史・戦国 総覧信人物往来社 一九九三 戦国武将の妻たち PHP研究所 百瀬明治 一九九六戦国史を見る目 校倉書房 藤木久志
2007.11.25
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あの戦いの後、清顕は、もの思いに沈む日が多くなっていた。それは、自分の年齢に対する思いもあった。「うむ疲れた・・・。『勝負は時の運』と言うが、こたびの戦いは運だけで掴んだようなもの。それにしても、仙道の全部を得てしまったであるから、思いもかけぬ大戦果であった」 思わず独り言が口をついた。そしてそっと立つと仏間に入り、仏壇の位牌たちに話しかけた。「じじ様、父上、そして弟たち。この長い間の合従連衡は、いったい何のためだったのでございましょうか? 『面白かった』と申せばそれまででございまするが、今を見た時、どの合従がどの連衡とが、どう生かされたのか、さっぱり分かりませぬ。勝っては負け、負けては勝つ。そして現在(いま)がある。これから現在は、どういう形の将来に、続くのでございましょうか。」 そして考えつくところは、いつも———先が、読めぬ。ということであった。 この頃、清顕は、ようやく———生を受け、そして老に至るまでの間こそが、まさしく生きるということであろう。と思っていた。しかし———単に生き続けるということだけが、生きるということではあるまい。悠久の大義に、そして次の世代の踏み台になることこそが、本当の意味での生ではないのか。という疑問が、また生まれていた。 この戦いの激しさを知った豊臣秀吉は、清顕・常陸佐竹氏・会津芦名氏それぞれに使者を立て、和をはかろうとした。 それでも各地で、小競合が続いていた。舞鶴城にも秀吉の使者が来たが、清顕は病に倒れていた。そして愛姫より男子出産の知らせは・・・、未だ来なかった。 十月、周囲の山々も、そして舞鶴城も、秋の気配が濃くなっていた。風に吹かれた枯れ落ち葉が、乾いた音を立てて庭を舞っていた。———生とは何ぞや・・・。戦いとは何ぞや・・・。死とは何ぞや・・・。結局何も、分からなかった。父上は、よく言っておられました。『面倒なことは、考えるな』と。しかしそれは、『わし』という跡継ぎが居たから、言えたことなのではないでしょうか? 父上はどう考えながら、亡くなって行かれたのですか? すでに、何も言えなくなっていた死の時の、なにかを語りかけたい、というような父上の目つきを、今になって思い出しまする。 今日も清顕は、仏前で父に問うていた。「私には、跡を継ぐべき子がおりませぬ。いったい、何を頼りにしたら、よいのでごさいましょう」 やがて病床に伏せた清顕は、次第に気力の減退して行くのを感じていた。そして間もなく目がかすみ、耳鳴りと同時に、人の声が、ぼそぼそと聞こえるような感じがするようになってきた。 清顕は、朦朧とした感覚の中で、考えていた。———どうした? 何故皆が集まっておる? 何故わしの名を呼ぶのかな? 豊臣秀吉殿の使者が、何か難題を申して来たか? 今日の夕日は、赤いようじゃな。部屋の中まで真っ赤じゃ。どうした、皆の目は、困ったような目付きじゃな。 清顕は、目をうっすらと開けて思っていた。脳裏の中を、いろいろな想いが駆け回っていた。 ———ん・・・、これは火じゃ。大火じゃ。赤々と燃え上がった集落の家々から、転がり出るように逃げ出してきた者たち。男たちは、敵の兵士かも知れぬ。危険じゃ。その場で皆殺しにせい! その死体にとりすがり、わしを見上げる、女や子どもたち。おっ、これは百姓たちであったのか? その恨めしそうな目。———うーん。かか様と手をつないで、とと様やじじ様とで、満開の「滝の桜」の見物じゃ。かか様の手は、優しいなー。とと様、かか様! 桜もきれいじゃが、この水も旨うございまするな。かかさまの優しい目。———「滝の桜」の花びらが風に舞い、散って小川を流れて行った。おお、きれいじゃのう。あれっ、なんだ。それがみるみる大きくなって、美しい衣装を着た多くの女となって、阿武隈川を流れて行ったぞ。あの女たちの恐怖の目。———あれっ、今の女たちが、何故男たちの姿に変わったか? その男たちが、赤い血と一緒に阿武隈川を流れて行くわ。なんだ? 「ああ輝宗殿か。今、お助け致しまする」輝宗の苦悶の目。———多くの死体が転がっている戦いの跡。裸足の子どもたちが、走り回り、金目のものを盗って行く。「こらっ! 何をしている!」と怒鳴られ、逃げ出した子どもたちの、おののきの目。———ああっ、愛(めご)! 愛! 孫はどうした! 男の孫はまだか! 愛の子を貰えなければ田村家がどうなるのか分かっていように! 愛! 愛! 愛の目。———何んだなんだ、あの多くの目は? あの青白く、燃えるような目は・・・、何故わしを見つめておる?———目、眼、目が、眼が見えぬ・・・。 清顕は、目を閉じたまま呻いた。「この領地を・・・この家系と先祖の眠る菩提寺を、誰が・・・誰が守るというのか・・・」 清顕のあせりを知る誰もが、枕元でうなだれていた。 三春・舞鶴臥牛城の周囲の、畳(たた)なわり起き伏す山に、その日最後の光芒を射終えた日が、今まさに落ちなん、としていた。 (了)
2007.11.24
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挽 歌 政宗は、二本松を攻めた。会津勢が逃げ去り、二本松城にとり残された畠山義継は、ひたすら投降を願い出た。 ようやく許された義継は、自からが降和の礼に宮森城を訪問した。宮森城は義継の投降の訪問を受け入れ、一刻の、平穏の中にあった。それなのにあろうことか、その陣中で義継は、「輝宗が畠山を殺す」との噂を小耳にはさんでしまった。それも、本当にそう言ったかどうか、分からないことであった。しかし、自分自身の行為におびえていた義継は、驚顎してしまった。そのため義継は、宮森城を辞去するにあたり、何も知らずに門の外まで見送りに出た輝宗を捕らえると、輝宗を兵の中に取り込み、楯として逃げ出してしまったのである。 伊達の兵は、救う手だてもなく、ただ群がり、跡を追うのみであった。下手に手を出せば、輝宗の命が危ないのである。 清顕と鷹狩に出ていた政宗は、その報告を聞くとすぐさま追跡に転じた。その時の政宗の勢いはすざましく、後に続いた清顕は、追うのがようやく、という状態であった。———義継め! いったい何を考えているのか! 清顕は馬に鞭を当てながら、必死で考えていた。———輝宗殿! とにかくご無事で! いま我らがお救い致しますによって。 彼らはようやく、阿武隈川畔の粟ノ須にて追いすがった。 逃げるための舟を回す隙に、義継の眼前に飛び込んだ政宗の一団。 川を背に、後ろから輝宗の首に腕を回し、もう片方の手で短刀を疑した畠山義継。 その父の眼前に立ちすくむ伊達政宗。 そして叫ぶ父の伊達輝宗。「政宗! 畠山を逃すな。二本松城に逃げられると後が面倒。その弓でわしの身体ともども畠山を射て!」 清顕は、この異常事態への対応にまごついていた。しかし政宗の反応は早かった。持っていた弓をキリキリと引くと父に的を絞った。距離は目前。そのまま射れば、輝宗の身体を通して義継の身体に達っするかと思われた。「政宗! 矢を射てみよ! 親父殿の命は無いぞ!」 義継が叫んだ。風に鳴る木樹の葉音と強い緊張が、その場の空気を支配していた。しばらくの時が、凍りついた。その氷が割れたのは、義継の手が輝宗の首をかき切った時であった。一瞬、輝宗の血が、噴水のように吹き出した。「おのれー義継! 父上! ご免!」 政宗は大音声を発した。そして彼の矢が、父に飛んだ。それは一瞬の遅れでしかなかった。串刺しになった二人の身体が、どう と倒れた。「おう・・・」 そこに居た誰もが、一瞬のうめき声と静寂に飲み込まれた。そしてその静寂の中で、畠山義継は、己の首に刃を立てた。 その静寂を破って、伊達の控えの兵は、畠山の家臣たちに一斉に鉄砲を放った。射撃の音が、周囲の山々を圧した。射ち残された者たちも、次々と己の首をかき切った。周囲には血が溢れ、阿武隈川を赤く染めていった。その血の中を、いくつかの死体が、ゆっくりと流れ出て行った。 清顕は、身体が宙に浮く思いであった。身の毛がよだつ思いの中で、心は別のことを考えていた。———恐ろしや! この婿殿の決断力は! しかしこの強い婿殿の子が我が家を継げば、我が田村家は安泰じゃ。 政宗は、二本松城を攻めた。この事件のこともあって、その勢いは尋常ではなかった。俄然恐れた畠山義継の子・国王は、必死の覚悟で抵抗した。戦いは、苛烈を極めた。 常陸、会津、磐城、石川、白河の大連合軍が、この二本松城の救援を口実にして、北上して来た。しかしこれらの大連合軍は、伊達と田村の勢力が仙道に確立するのを恐れ、これを叩こうとしたのが本当の理由であった。 本宮に集結したものの、伊達・田村の連軍は、兵力的には劣勢であった。そのために、二本松城攻防戦の前哨戦となった安達庄の人取橋の戦いに、勝機は考えらなかった。一時、総大将の伊達政宗を戦場に見失うほどの大激戦となったのである。だがこの連軍は、これらの大連合軍と互角に戦った。しかしついに勝敗がつかず、伊達勢は小浜に、田村勢は三春に兵を引いた。当然、大軍勢である敵の逆襲を予期していた伊達と田村は、阿武隈川を楯に、戦おうと準備していたのである。 三春に退いた清顕は、もはや背水の陣であった。本拠の三春が敗れれば、東の船引城か小野新町城に篭もるしかなかった。その小野新町城は敵の磐城に近く、船引城は敵の石川や白河の北上を誘う位置にあった。 清顕の命をかけた覚悟が、固まった。 ところが不思議なことに、敵の主力であった常陸と会津の兵が、早々と引き揚げてしまったのである。戦いは、清顕の意志に拘りなく、突如終わってしまった。一か八かの覚悟を決めていただけに釈然とはしなかったが、大連合軍の撤退により、結局は、大勝利となってしまったのである。 後日、その事情が分かった。 豊臣秀吉により、小田原の北条氏政攻めの動きがあった。北条氏政としては関東を固めなおす必要があり、そのために常陸攻めの動きを見せていた。常陸の佐竹としては、その小田原の北条氏政に備えるため、やむを得ず二本松から撤収したのである。
2007.11.23
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伊達家では、政宗が十八才で家督を継いだ。小浜城の大内氏は自ら米沢に伊達氏を訪れると、慶祝の意を表した。 しかし大内氏は既に田村氏に叛し、常陸佐竹氏、会津芦名氏の庇護を受けながらの祝賀の意であり、つまりは伊達氏への背信行為であった。 弱小の大内氏にしてみれば、それらを知っていながらも、会津や常陸の庇護を受けられなくなった時は、伊達氏の傘下を希望しての行動であった。二股をかけていたのである。それであるから、常陸佐竹氏と会津芦名氏との結束が固まるとみるや、今度は伊達氏を避けようとした。 そしてそれらの思いが、伊達氏に知られるのではないかという焦りと恐れが、大内氏に小浜城を捨てさせ、塩松城に逃がれさせることになったのである。 そしてその時に、大内氏が伊達氏を評して言ったという、「俗に『瓜の蔓には瓜がなり、夕顔の蔓には夕顔がなる』と言うわ。あの臆病者の伊達の家系に、勇者の生まれる訳がない。当家征伐など出来る筈がない」という暴言が政宗を怒らせた。 天正十三年、羽柴秀吉が関白となった。 同年八月、清顕は、政宗と伊達庄の笑平(蕨平)にて、大内攻めの軍議を練った。政宗と相馬義胤との対面も実現した。ようやく、伊達と相馬の和解が、連盟へと発展したのである。 その陣中に、米沢からの使者が入った。「愛姫様、無事に女子ご安産」 政宗は、清顕の顔を見ると笑っていた。「おう、それはそれは・・・。おめでとうござる。それに相馬の方も決着がついて、ようござった」 清顕はそう言ったが、心中は複雑であった。「しかし、あの子に、子が生まれたとはのう・・・」 そう言いながら、目子姫が生まれた時を思い返し、遠くを見る目つきとなっていた。「それにしても、田村家は女っ腹でござるかな?」 今度はそう言って、精いっぱい照れながら政宗を見た。外孫しかできないことが分かってはいても、初孫が生まれたのである。「いや、そんなことはございますまい。舅殿も、男の兄弟がおられるではござらぬか。まだわしも、若うござるからの。これからでござるわ」「さようでござるのう。昔より『一姫二太郎』とも申すしのう」 そう言いながらも清顕は、愛姫の生まれる前に交わされた、父・隆顕とのやりとりを思い出し、ついニヤリとした。 政宗はそれらを知らずに、清顕が喜んだと思ったのか、そのまま「舅殿の言われるように、女っ腹では困りまするな。しからば次は男子が生まれますよう、威勢の良い名を付けましょうぞ」 そう言って、政宗はしばらく考えていたが、「よし決めた! 五郎八(ごろはち)と致す」と言った。「えっ、五郎八(ごろはち)・・・姫でございまするか? それは確かに威勢はようござるが、女の子でござるぞ!」「いやいや舅殿。そう目を剥きなさるな。五・郎・八(い・ろ・は)、いろは姫にござる。初めての子でござるからの、『い』の字から始めようと思うての」「・・・いやはや驚き申した・・・。本当に五郎八(ごろはち)姫とするかと思うて、肝を潰しましたぞ」 そう言うと清顕は、政宗の冗談に久しぶりで大笑いをした。しかしそれ以上に、喜び半分失望感半分に襲われていた。———女子では、跡取りに貰う訳にもいかぬ。男子が生まれたとしても二人目以後、これは先が長いわい。少しはわしの年も考え、田村家の行く末も考えて貰わねば・・・。 次いで、思ったままの言葉が、するっと口をついた。「ところで婿殿。次は必ず男子を頼みまするぞ!」 清顕の心の中を知らず、今度は政宗が大笑いをしながら言った。「いや、おまかせあれ」 田村・伊達の連軍は、安達庄の小手森城を落とした。これを見て驚いた樵館と伊達庄の築館城は、戦わずに逃走した。 その後連軍は、田村氏の属地・黒龍に陣を置くと、安達庄の大場内、白岩、塩ケ崎、岩角山を陥とした。臆病風に吹かれた会津勢は、小浜に逃げていた大内氏を強制すると、畠山氏の依る二本松城に退散した。このために政宗は、小浜城に無血で入城出来ことになった。「父上が言われていたように、生きるとは何か? などと面倒な考えは止めにして、先ず生き残ることじゃ。これを機に、もう一度田村を立て直さねば」 清顕は、そう思った。「ここで強い田村に戻せば、あとのことはどうにでもなろう。愛姫も若くして子をもうけたということは、いづれ男の子も生まれてくるということであろう」 弟たちを失い、相談相手をなくした清顕は、いつの間にか、独り言を言う癖が、ついていた。独り言を言うことで、自分を納得させていたのである。「もし伊達から男の子が貰えなくても、宗顕(氏顕の息)が居るわ。それに嗣がせても、問題は起こるまい」 そうは思ったが、思わず吐息を漏らした。「自分自身の名を田村家の歴史に埋め込み、後世に残したいと思うのに、残される者がいないということは、何とむなしいことか! 誰に何をどう残すかが分からないということは、何と淋しいことか!」 天正十四年、羽柴秀吉が太政大臣となり、豊臣姓を賜った。
2007.11.22
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天正十年、本能寺の変が起こり、織田信長が死んだ。その弔い合戦で、羽柴秀吉は明智光秀を破った。光秀の三日天下である。翌年、秀吉は大阪城を築くことになる。 この年、前年の雪辱を晴らすために、氏顕は、五百余騎の兵を率えて岩瀬庄に出撃した。須賀川二階堂勢は奈目川(滑川)に布陣したが、氏顕は一部の兵を二階堂勢の背後に回し、挟撃してこれを破り、須賀川目前の下宿(しもじゅく)に迫った。 この戦いに、御代田の甚日寺、須賀川の千用寺、長録寺、普応寺、妙林寺の僧侶たちが、氏顕の陣を訪れ、「岩瀬地方は、連年の戦争で作物が思うように作れず、人心が荒れて安定しませぬ。何とか戦いを止めて人民を救っていただきたく・・・」との嘆願に訪れた。 清顕は、「下宿までを田村家の領分とし、以後田村領に侵入せず」との和議の条件を提示した。何度か田村氏に侵略されていた二階堂氏は、田村の勢力を恐れ、清顕と和を結んだ。 当時の僧侶や神官は、戦いのように大きなことから、家庭内のいざこざの仲介などにも、積極的に手を染めていたのである。 この氏顕と須賀川二階堂勢の戦いの間に二本松の畠山氏が兵を動かし、安積、安達の諸城を、田村氏より奪還した。さらに畠山氏は、田村庄の木村城主・木村越中守の叛心をうながし、常陸の佐竹氏や会津の芦名氏の同盟に加担させようとした。木村城は、三春より西へ二里ほどしか離れていなかった。ここを取られることは、首に匕口を突きつけられたようなものである。清顕は、「木村越中守ともあろう者が、畠山ごときの口車に乗り、常陸や会津に転ずるとは、何事ぞ!」と烈火の如く怒り、自ら出陣してこれを討った。しかし清顕の怒りは留まるところを知らず、城中に攻め入ると、越中守とその息子・信光を討ち果たした。 越中守の父は、須賀川二階堂勢と岩瀬庄の江持で戦った時、敵將二名の首級を取った勇将であり、越中守も小平城攻めの時、敵將親子を討ち取った名将であった。 その間に城を逃げ出した信光の妹の鶴女と侍女たちを、清顕は追った。阿武隈川の断崖の上に追い詰められた女たちに、清顕は叫んだ。「鶴女! 我が田村に刃向かうとは、何事ぞ! 越中守と信光は討ち取ったり! 女と言えども、逃げると容赦はせぬ! そこへなおれ!」 長刀(なぎなた)を持ち、短刀を抜き、鶴女を守っていた侍女の一人が、恐怖に耐えきれず、悲鳴とともに断崖から身を投げた。それが合図だったかのように、女たちは次々と身を躍らせた。色とりどりの花びらを散らしたかのようにして、川面は悠然と流れて行った。そして、鶴女もまた、その中にあった。「木村家もこれで、断絶か・・・。自からが掘った墓穴とはいい、木村にとってこの反乱は、いったい何んだったのか? いったいこのわし以上の、何が約束されておったのか? 大したものでは、なかったろうに・・・」 (注:いまでもその地は、鶴ケ淵と呼ばれている) この時清顕は磐城勢とも対陣中であったが、大内の家臣と田村の家臣の間に紛争が持ち上がった。大内は、「自分の家来の言い分が正しい。田村の家臣の成敗を願いたい」と言って来た。清顕は、「一方の話だけで、ことを決める訳にはいかぬ。それに今は戦いの最中、これが終ってからの吟味と致そう」と拒絶した。大内氏は、それを田村氏から離れる口実とすると、常陸佐竹氏、会津芦名氏と盟を結び、田村領である百目木城を攻めてきた。 このように、田村氏の周囲が、皆敵になって行く状況の中で、少ない味方である伊達と相馬が戦っていることは、何としても止めさせなければならなかった。 清顕は自ら相馬に行くと、伊達氏より奪取した諸城の返還を条件として、和議を成立させた。少なくともこれで、北部の安定はかち取った。———氏顕に言うと、目を剥かれるから言えぬが、いったい戦いとは何なのか? 伊達と相馬のように、和議をして戦いを無しにして、という訳には参らぬのか。負けるということは、淋しいことじゃ。 清顕は、心底そう思った。 天正十二年、清顕は、自から出陣して小浜の大内氏の属城・唐矢を攻め安達庄の糠沢に転戦し、さらに安達庄の西新殿を攻め取った。しかし勝ち戦さもここまでで、小浜勢との千石畑の戦いで、ついに破られた。この時田村勢の首、五~六十を討ち取られた。 清顕を安全圏に逃し、殿軍として敵を押さえながら逃げる途中の氏顕は、繁みに隠れ、待ち伏せをしていた小浜の町人・喜萬新右衛門に、討ち取られた。「そうか、氏顕も死んだか! 済まぬ。わしの身代わりになったようなものじゃ」 清顕は、ひしひしとその孤立を知った。内部の頼みとした弟や將士が、次々と戦死し、次々と領地が奪われて行った。 こうした田村の情勢を見た磐城勢は、小浜での動きに策応して小野庄に侵入し、小野の赤沼に陣を構えると、小野新町城を攻めてきた。しかし梅雪斉は、磐城勢の虚をつき、これを撃ち破った。 清顕は遠くにいる叔父の梅雪斉に、心の中で話しかけた。「この苦しいときに、よくやってくれ申した。しかし勝ち戦はともかく、負け戦は身体にこたえまする。まるで自分が、地の底に引きずり込まれるような寂寥感は、どうしようもございませぬ」 そう独り言を言う清顕の目に、梅雪斉の癖の、困った時に見せた人の良さそうな笑顔が、見えたような気がした。
2007.11.21
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夕 映 え 天正八年、会津の芦名盛氏が病死した。その子・芦名盛興すでに亡くなっていたため、須賀川の二階堂氏より養子を迎え跡を継がせていた。このため会津と岩瀬の同盟が更に固まり、二階堂氏伝統の策であった常陸佐竹氏とも結んだ。会津・岩瀬・常陸の同盟である。当然田村氏との間に、争いが起こった。 清顕の弟・重顕は岩瀬庄に兵を出し、洞樫(位置不詳)に陣を敷いた。会津・須賀川二階堂の連軍がこれに応じて戦いとなった。しかしこの戦いで田村勢は破られ、重顕を討ち取られてしまった。大きな痛手であった。「田村重顕殿ご戦死」との報告は、清顕を驚かせた。田村氏の力は、急速に衰えていたのである。その上、さらに驚かせたのは、「会津・岩瀬の勢が、三春より七里の御代田城と六里ほどの大善寺城を攻め取り、舞鶴城に迫って来ておりまする」という報告であった。「なんと! ここまで退いていたのか! しかし今泉城は盤石! 今の内に二階堂を揉み潰せ!」 そう言うと、清顕は自ら飛び出した。「重顕が弔い合戦ぞ! 押し潰してくれるは!」 一方、老練な月斉は、今泉城で二階堂氏の居る須賀川城を睨んでいた。両者とも互いに王手をかけながら、動けなかった。二階堂氏の本当の目的は、その今泉城の奪還であった。二階堂氏はなんとしてもこれを陥とそうとして、常陸佐竹氏に援軍を乞うた。 この戦乱に驚いた白河の小峰氏は、使者を伊達と相馬に派遣して田村氏を、自らは江戸彦五郎を水戸に派遣して常陸佐竹氏を説得した。 この時、伊達は相馬と戦いの中にあったが田村の急を聞いて停戦し、中島宗末を会津芦名氏と須賀川二階堂氏に派遣し、清顕には今泉城を返還させることで説得して和を結ばせようとしたが清顕はこれを拒否し、和平交渉は成らなかった。 ついに常陸勢も出陣、会津・須賀川二階堂の兵とともに田村領の大平城を攻め陥としてしまった。この城は、三春よりたった五里の距離であった。このような状況の中で、再び伊達氏より清顕に和睦の打診がなされた。「このままでは、三春が危ない。もはや今泉城は常陸・会津・岩瀬勢の中で孤立寸前、御代田の城と今泉城を交換してはどうか?」「それについては、以前にも申し入れを受けたが、断った筈」 清顕は、強硬であった。負け戦を、糊塗する意味もあった。「しかしあの時とは、状況も変化した。御代田、大善寺、そして今度は大平の落城となれば、田村家としても厳しかろう。この三城と今泉一城の交換となれば、『やはり田村は強い』と周囲は見よう。このあたりが、潮期ぞ」「しかし、月斉叔父が今泉城で頑張っておる。ここの確保は、田村の力量の具現じゃ。ここさえ抑えておけば、周囲とて田村に一目置く筈」「それは分かる。しかしこのような面目が立つ上、三春の舞鶴城が安泰となれば、これ以上の策はござるまい」 ついに、清顕は折れた。そしてこの伊達氏の労により、須賀川二階堂氏は今泉城を回復し、清顕は危急を免れた。 清顕は新田美作守を伊達氏に派遣し、その労を謝した。これが、清顕の本心であった。 ところが余勢をかった須賀川二階堂氏は、この時とばかりに和を破り、白岩城を攻めてきた。白岩城もまた、三春より二里半ほどの近距離にあった。しかし、白岩城主の久我主善は、よくこれを守り切った。 次いで二階堂勢は、御代田城近くの守山城に迫まったが、これまた田村勢に押し戻され、田畑を荒らすにとどまった。「孫はまだか? 愛はいったい、いつまで待たせる気か!」いささかの退勢に気をもみ、清顕は氏顕に言った。「兄上、まあそう気にかけずに。孫が全てではございますまい」「いや、それに近い。明日をも知れぬこの世、現に重顕が戦死したではないか。この周囲の攻勢をかわし領地を守るに、何んの意義があると申すか?」 あの清顕の疑問が、時折首をもたげていた。しかしそれを知っている氏顕は、明るくそれを押さえようとしていた。「またそれを言われる。愛姫も政宗殿もまだ若い。もう子が出来ぬと、決まった訳でもありますまいに」「愛を政宗殿に嫁がせたこと、それはそれで良かった。しかし跡継ぎが誰か、はっきりしないことには、わしも命をかける意味がない。ここのところの負け戦さ、関係ないとは言い切れぬ。どうも戦いに、気合いが入らぬわ」「何を言われる。もしもの場合、私にも子がおりまする。家督を乗っとるなどど誤解されては困りまするが、家系を続けるためには、そういうことも有り得まする」「たしかに宗顕はお前の子、世にそういう例がない訳でもない。いっそのこと、宗顕に家督を取らせ、わしは、隠居でもするか」 それを聞いた氏顕は、目の玉が飛び出しそうな顔をして怒った。「兄上! 何を申される! 物事には、言って良いことと悪いことがござる! 隠居などとは、飛んでもない!」「おお、済まぬ! 気弱なことを云うてしもうた。ともかく先ず、重顕の仇を取らねばならぬわ」「やっ、それでこそ兄者! 負け戦さのままに、してはおけませぬ」「そうじゃな、氏顕。長い人生じゃ。いつも勝ち続ける訳には、参るまい。負けた時にどう盛り返すか。それこそが、真の人間じゃな。まあ見ておれ」
2007.11.20
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———これは容易ならざる事態になったな。それに南郷での戦乱は、まだまだ続くであろうし。 清顕はそう思った。 清顕は、母の出里である伊達氏と結んでいた。しかし、彼の妻の出は相馬氏である。そしてこの両者は、犬猿の間柄であった。この両者を多年の宿怨から解き放つには、清顕は格好の立場にあった。———いづれ、両者の和の仲介をする時がこよう。それに和を仲介することは、常に両家に恩を売ることになる。田村が優位に立つ、いい機会じゃ。 清顕は、そう思っていた。 天正三年、織田信長と徳川家康の連合軍が、武田勝頼を長篠の戦いに破った。この時、始めて鉄砲隊が活躍した。 清顕は、氏顕に言った。「あの勇猛音に聞こえた武田の騎馬軍団が、長篠の戦いで織田信長の鉄砲隊に討ち果たされ、壊滅したそうじゃ」 氏顕も聞いた話しとして、「織田信長はあの戦いで、三千丁の鉄砲を揃えたそうにございます。それを千丁づつ三段構えとし、第一段が射った後第三段の後ろに回り、第二段が射っている間に火薬を装填し、第三段が射っている間に玉を込め、第一段が前面に出た時は第二段が玉を込めるというふうにして、間断なく射ち続けたそうにございます」と答えた。「なるほど、織田信長という男、凄い戦略じゃ。あの商人が言うていたように、これからは、鉄砲の時代が来るやも知れぬ」「それにしても兄上、鉄砲は高価なもの、千丁はおろか百丁でも大変でございます。さすが天下取りを狙う織田信長、経済力も凄うございますな」「ところで氏顕。当家には、鉄砲は一丁もない。周辺の諸家ではどうかの?」「いや入っているとは、まだ聞き及びませぬ。経済力を比ぶれば、いづれ五十歩百歩、でございますれば」 氏顕は、苦笑いをしながら言った。「いやいや、しかしこれだけ威力があるものならば、そう安心ばかりもしておれぬぞ」と清顕は、腕を組んだ。「少しは鉄砲も、買い揃えねばなるまいて」 翌年、清顕は、輩下となった小浜の大内氏の將士を先陣として、片平城を攻めた。片平城は、大槻城の北、約二里ばかりの所である。この大内氏の父子が勇戦して、これを破った。城を支えられなかった安積・伊東氏は、敗残兵の二十余騎を一団として片平城から切り出たが大内勢に阻まれ、ここに討死した。文治の役以来の名門の安積伊東氏は、ついにここに滅んだのである。「そうか、伊東が死んだか」 思わず口には出したが、戦っている間は、まさか伊東が死ぬ、とは思ってもいなかった。伊東氏は、安積の領主であった。何となく、領主というものは死なぬもの、と思いこんでいたのである。 しかし負けたら伊東と同じ、全てを失う。そう実感した。「こうなれば安積は無主の地、草狩場なるぞ!」 そう言うと清顕は、片平城を小浜の大内氏に与え、守りを固めさせた。———領地は生まれも消えもせぬ、ただ移動があるだけじゃ。 そういう思いがあったのである。 安積、安達を失った会津芦名氏は、岩城氏に田村庄を背後から突かせるいう助勢を求めた。そうしておいて、会津・須賀川二階堂の連軍が安積庄に打って出た。しかし氏顕は、安積庄の郡山、小原田、日出の山で大いにこれを破った。 ここにきて磐城勢が、小野庄に攻め寄せて来た。田村梅雪斉の子・小野清通が小野六郷の軍をもってこれに当たり、清顕が千騎の兵を率いてこれを援けた。会津、磐城の勢は、田村庄を両面から攻めたてたが、結局惨敗した。「田村の武威盛んなり」 周囲が恐れる中、清顕は蓬田城攻めのため、鹿の蔵に陣を敷いた。蓬田城は、小平城の北二里半の所にあった。しかし、「会津勢が、再び田村攻めを行う」との情報が入り、清顕は兵を守山に引いた。 しかし、会津勢の来攻はなかった。この長年の争いで、清顕の仙道における地位は確実に固っていった。 清顕は思っていた。———我ながら、よくこれまでになった。さすがにこれまでになると、周囲の奴ばらのわしに対する目付きも違うわ。 しかしいづれ、どんな形か分からぬが、終わりの時が来よう。気は許せぬな。
2007.11.19
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その翌年、正月にも拘らず、中畑、小平に敗れた常陸の佐竹氏は、再び大軍を北に向けた。奪還戦を目論だのである。久慈川を遡行し、その源流である阿武隈山脈に入ったが、そこは積雪が深く行軍は困難であった。しかしその雪の中を、常陸佐竹勢が北上するにつれてその威勢を恐れた多くの武将たちが、これに味方したたため、兵力が増大した。それらの兵力をもって、三ツ目(現:西白河郡矢吹町三城目)に迫っていた。三ツ目は、前年に敗れた中畑のさらに北に一里、須賀川に二里と迫っていた。 清顕は月斉に中畑救援の先鋒を命じると、自らが三ツ目方面へ出陣をした。月斉には、「敵は大軍なれど中畑にて分断し、その各個を撃破する」との伝令を放っていたのである。「我に勝算あり。臆するな、敵を南北に分断せよ」 そう命ずると、月斉は西から敵の大軍に突っ込んだ。敵の懐に飛び込んで行くような戦い振りであった。敵は逆に、北、東、南から月斉勢を包み込む体勢となった。死にもの狂いの陽動作戦の中で、敵に乱れが表れた。分断した北部の敵に、清顕の本隊が襲いかかったのである。勢いに乗じた田村勢は、北部の敵を蹴散らすと、浮き足立った南の敵をも、追い落とした。大勝利であった。 常陸の佐竹を敵としていた小田原の北条氏照は、その使者を三春に送り、田村氏の勝利を祝した。 ところが、これで安心はしていられなかった。八丁目城主の堀越氏が、二本松畠山氏の援助の下に、伊達氏に反抗したのである。八丁目城は信夫の庄にあり、伊達氏の領分内にあった。現在の福島市と、二本松市の中間に位置している。その時すでに、その二本松畠山氏は、会津芦名氏の傘下となっていたのである。 田村勢とともに常陸佐竹勢と対陣していた会津芦名氏は、清顕に伊達氏と二本松畠山氏の仲裁を依頼してきた。「全く芦名も勝手なものじゃ。『伊達との仲を取り持ってくれ』とは、身勝手もはなはだしいわ」 清顕は、杉の目城の伊達輝宗の所への使者とする橋本刑部を呼ぶと、そう言った。刑部は、舞鶴城の西の出城、刑部館の主でもあった。「殿。どうも今度のお使い、いささか気が重うございまするな。芦名とて、本心から輝宗と和合が出来ると思うておるのでございましょうか?」「うむ、そこのところよ。芦名は、『二本松はもとより、八丁目も芦名の傘下として認めよ』というのであるから、先ず和合は成るまい」「これはしたり。殿はそれを知った上で、身共に『行け』と?」「うむ。これは誰が行っても成らぬ相談。成らぬものを成らぬままにまとめるには、誰でもいい、という訳には参らぬ」「ということは、身共には、それが出来ると?」「そうよ。これはお主にしか、出来ぬ。先ず芦名には、お主という大人物を、輝宗のところへ使者として遺わしたことを、見せ付けねばならぬ」 そう言われて、刑部は照れた。「そして使者であるお主が行けば、輝宗は和合の条件として、二本松と八丁目の返還を要請しよう」「つまり和合は、成りませぬな?」「さよう。それで田村が、どちらにも動けぬと見て、常陸の佐竹が動こう。奴らは、田村と会津の間に楔を打つ積もりで、寺山城を打って出て、北上してくるに違いない」「・・・」 清顕は、南郷(福島県南部)に出陣した。しかしこの時、隆顕は病魔に犯されていた。後ろ髪を引かれる思いであったが、寺山城を出てきた常陸勢を、その北で補足して殲滅すると、逆に寺山城を攻め取った。作戦は、清顕の予測通りに進行していた。しかしその間にも、「殿の病状、芳しくなく」との報告が届いていた。 清顕は、父の病気も気になっていたが、寺山城一つでは、いつまた常陸の佐竹勢が盛り返してくるか分からなかった。これを、今、殲滅しておかないと、先が危ぶまれた。清顕は、敵が逃げ込んだ南の羽黒城を攻め陥とし、さらに立ち直る隙を与えず南進した。敵は、常陸まで逃げ去った。 会津の芦名氏は喜んで、その臣・佐瀬大和守を清顕の陣に派遣して、感謝した。 しかし田村と会津の蜜月も、やはり長くは続かなかった。強力な会津の隣人である越後の上杉謙信の強い要請を受けた会津芦名氏は、抗する術もなく岩瀬、白河、常陸との連合を成立させたのである。田村は厳しい立場に立たされた。 「実に、不愉快である。先年の常陸勢の仙道への進出の際、安積・岩瀬を譲ってまで会津芦名と講和したのは、南郷への手順であった。現に会津と協力し、常陸を追い払ったばかりではないか。いかに上杉謙信からの要請とはいえ、ここで会津芦名と常陸の佐竹が結べば、安積・岩瀬を失った上に、我が田村の行く手は、遮られたようなものではないか」 清顕は、怒っていた。「さようでございまする。また伊達は二本松との境界の争いから、その背後の会津との仲は、すこぶる良くございませぬ。かくなる上は、まずじっくりと伊達と談合を致し、しかる後、会津から安達、安積、岩瀬を切り取るのが、手だてでございましょう」 隆顕は、病気なのである。このような中で、刑部も戦略を、立て直そうとしていた。 清顕は、伊達氏より講和の印として贈られた駿馬に跨ると、阿武隈川東岸の御代田城を出発し、岩瀬庄の小作田、前田川、そして石川庄の龍崎、岩峰寺を席巻し、さらに須賀川城を攻めて五十余人を討ち取った。 清顕は、会津芦名氏のやり方を憤っていた。清顕に伊達と二本松の仲裁を依頼しておきながら、裏で越後の上杉謙信に頭を下げていたのである。その怒りが、会津勢の押さえていた岩瀬庄の保土原、木の崎、越久、安積庄の成田、川田、大槻での攻城戦で、爆発した。これらの地は、常陸勢の仙道への進出の際、協力の保証として芦名氏に譲った土地である。かくなる上は、是が非でも取り返さなければならなかった。この戦いでの大敗北に驚いた会津芦名氏は、田村氏に和を請うてきた。しかし、怒れる清顕はこれを受け入れず、さらに安積庄の富田を攻め福原に転戦した。彼は、「福原は元々田村の領分。以後の見せしめに、撫で切りに致せ」と命じ、会津勢八百余人を撃ち殺した。 この戦いで、若干十五才の石井豊前は会津勢の本陣に乗り入れ、兜首五つ、さらに五つの首と三人を生け捕った。この敗報に、会津勢は震い上がった。 この最中、清顕は父・隆顕の病状悪化の報告を受けた。彼は若干の手勢を引き連れて、戦場を離れ三春に引き返した。 病室に走り入った清顕の目にも、隆顕の病状は容易ならざる状況にあった。すでに危篤の病状であったのである。 隆顕の手は、空をさまよっていた。 清顕はその手を取ると、「父上。こたびの戦い、大戦果でございました。父上の病状も、このように良くなりましょうに」と大きく声をかけた。すでに父の意識は、薄くなっていた。清顕に握られたその手も、熱で熱かった。その隆顕が、苦しい息の下から言った。「そうか、それは良かった。清顕。わしはお主を、誇りに思うぞ・・・」 その言葉を聞いて、清顕の肩が思わず震えていた。しかし隆顕の命は、すでに時間の問題であった。———ついに、一人になってしまうのか。 そう思った。涙が滲み、そして流れた。———指揮官になるということは、いままでとは大いに違う。この責任の重さから、指揮官を辞める訳にはいかないし、もし、逃れようとすれば、それは自分を信頼する者を捨てることになる。それでは、これら部下の行く末に、目を覆うことになろう。今までは父の権威の下で動いていたが、これからは、そうはいかぬ。 清顕は、たちまち過去に、のめり込んだ。———一人っ子の愛姫はまだ三才。それにしても、父上に文句を言われていたことが、懐かしい。 しかし清顕は、悲嘆にくれている余裕のないことを、十分に承知していた。 父の仮の弔いを終えて、急ぎ戦場に戻った清顕は、会津勢を安積から一掃した。驚いた会津芦名氏は援軍を送ったが、これも討ち破った。今は、家の中の状況ははともかくとして、戦わなければならなかった。今は、敵に勝たねばならなかった。そしてその目的は、達成した。 この年、室町幕府が滅亡した。
2007.11.18
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内 憂 外 患 中央の情勢も、流動的であった。上杉謙信と小田原の北条氏康の連合は、那須・白河と組んで常陸に攻勢をかけようとしていた。逆に武田信玄は、関東での覇権を握ろうとして常陸の佐竹氏と結んだ。もともと常陸佐竹氏と小田原の北条氏は、宿敵の間柄でもあった。 武田信玄は、田村・会津の連合と、常陸の間の融和を謀り、もって小田原の北条氏を討たせようと目論だ。 武蔵国岩槻城(埼玉県岩槻市)主の太田三楽斉が、この武田信玄の意向を受けた使者として、舞鶴城を訪れた。「隆顕殿。ここはいろいろあろうが、常陸の佐竹と和を結んで頂けぬか。田村と会津と常陸の連合で、白河、那須(栃木県那須町)、そして小田原を討ってもらいたい、そうすれば武田信玄殿は、上杉謙信と心置きなく戦える、というのが本心でござれば・・・」「なるほど、三楽斉殿、中央の情勢は承知致した。しかし、常陸の佐竹は、我々とは長年の敵。だいたい佐竹は常陸に留まり、奥羽に仇をなすべきではあるまい。会津の芦名とも相談はするが、佐竹勢の仙道からの撤退が、条件となろう。さもなければ、芦名とて簡単には了承を致すまい」「いや、武田信玄殿とて、そのあたりはとくとご承知。それもあって、貴殿には、充分なる報償をご考慮になっておられる」 三楽斉は、「充分なる報償をご考慮」というところを、強調して言った。「主旨は、相分かり申した。ご希望の通り、芦名に話しは致してはみよう。しかし中央の思惑がどうあろうとも、我らの敵は、この地を侵略しておる常陸の佐竹でござる。我らの目的は、父祖伝来の土地の回復。ここのところを、とくと御考慮召されい」「と申さるるは、どうしても、常陸佐竹勢の撤退が条件でござるか?」「条件と申すより、至極当然のことでござろう」 使者の三楽斉が帰った後、隆顕は清顕に言った。「先日、会津から使いが来てのう。すでに芦名は、常陸の佐竹を打ち倒するために、越後の上杉謙信に武田信玄を討つよう、要請したそうじゃ」「なるほど。それで父上は、三楽斉にああいう返事をしたのでございますな」「そうよ。敵の敵は味方、と申すからのう」 そう言って隆顕は、大きな声で笑った。 ダーン。 武器商人は、皆の前で撃って見せた。「おうおう。種子島とは、なかなか大きな音のするものじゃの?」「はい。火薬を筒の底に詰めて火を付け、その爆発力で玉を押し出すものでごさりますれば。それはそうとして、的をご覧になって下さいまし」と武器商人が言った。「なるほど、見事に的の中心を射抜いておるのう。しかしこれほどの大きな音では、物陰に隠れて射っても、すぐ敵に居場所が分かってしまいまするな」 氏顕は首を横に軽く振りながら、清顕に振り返って言った。「しかし距離は弓矢より遠く飛び、音もこのようにすざましいもの故、それだけでも敵は恐れて、近づけませぬ」 武器商人は、説明した。「じゃが次の玉込めに時間がかかりすぎるのう。その間に敵が攻め込んで来たら、どう対応するかじゃろうて? 準備をしていての一発討ちならばともかく、戦場での団体戦には役に立つまい」「殿! その前に、先ずご試射を!」 武器商人は、懸命に薦めていた。「うーむ。氏顕! 射てみい!」 ダーン。「おっ おっ。これは反動も強いのう」 氏顕は思わず、一歩下がった。商人は続けた。「以前のものは、もっと反動がございました。改良を加えましたので、慣れれば大丈夫にございます。その反動を堪えれば、命中の精度は高まりまする。もう一度ご試射を」 ダーン。「なるほど、今度は良いな。それに命中率もよさそうじゃ。これは面白いものじゃ」「さようでございましょう? いづれこれが、新しい時代の武器になりましょう」「ふーむ」「なお重すぎて、今回は持って来れませんでしたが、フランキ砲というのもございまする」 武器商人は、得意そうな顔をした。「フランキ砲? それはどんなものじゃ」「はい。これは、この種子島より数段大きく、重いものにございますれば・・・」「ほお・・・」 清顕の驚きが、武器商人の声を遮った。「・・・玉も大きいため、うまく当たりますれば一発で数十人を倒し、建物なら一~二軒を破壊する威力がございまする」「ふーむ。そのようなものであれば、動かすのも大変じゃろうの?」「はい。それでございまするから、戦場への持ち込みより、城に置いての防御戦の方に向くものと思いまする」「防御用? うーむ・・・。しかし、攻撃は最大の防御、とも言うからのう」「はい。その点この種子島なら、どこへでも持ち込めまする」商人は、ここぞと押して来た。「先年の今川領・村木の攻城戦で、織田信長殿はこの種子島を使い、勝っておりまする」「なるほど、じゃが武器としては、少々未熟じゃの」 この清顕の言葉が、商談の不成立を表した。 この頃、織田信長は、比叡山焼き討ちという大荒業を断行していた。
2007.11.17
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愛 姫 誕 生 舞鶴城の廊下に後ろ手をして立っていた隆顕は、後ろに控えている清顕を振り返りもせず言った。「もはや花も散って、葉桜になってしもうた。あれから二十年にもなるのう」 その言葉を聞くと、清顕は嫌な予感がした。しかし黙っていた。「そちは『側室はいらぬ』と言うから捨て置いたが、戦いに勝っても跡継ぎがのうてはのう・・・」———そら来た! そう思うと、清顕はなおさらだんまりを決め込んだ。隆顕は、振り返ると言った。「返事もせずに、どうした清顕! お主はいったい、子を成さぬ気か?」清顕は、いささか、むっとした。「いえ、成さぬのではございませぬ。出来ぬのでございまする」 隆顕の語気が、少し荒くなった。「何を威張っておる。成さぬも出来ぬも同じこと。『子がいない』ということには、間違いあるまい」———まずい! 逆らうのではなかった、確かにわしも四十才! そう思うと清顕は、またも黙んまりをきめこんだ。「じじ様が亡くなられてもう五年、わしも、もういい年じゃ。早く孫の顔を見せて貰わぬことには、安心が出来ぬわ。だいたい我が家は、坂上田村麻呂公以来の名家、この名家の血統を代々続けて行くのが、我らの務めででもあろう。それが『子が出来ませぬ』、だけでは済まされまい。いったい、どう考えているのじゃ。前にも申した通り、出来ぬなら出来ぬで、若い元気な側室を置くのも一法であろうが・・・」———しもうた、しもうた。こうなると父上、先の話しが長いぞ。「・・・美形もおるぞ。話しはどうとも、つけてやる・・・」 後は清顕、父の話しの落ち着くのを、待つ以外になかった。「・・・わしは、もし『力量不足』と言われたとしても、じじ様とそちの中継ぎはきっちりやった。今度はそちが、わしと孫の間の中を継ぐ番であろうが。家を守るということは、そういうことであろう? また武将として家を続けるということは、我が田村が、未来永劫に、生きる手段でもある」「父上の申すこと、清顕、否やはございませぬ。とにかく、今夜からまた励みますによって・・・」「何! それでは今までは励まなかった、と申すのか!」「いや、そのー・・・」と清顕が口ごもると、二人は思わず顔を見合わせ、「クククククッ」と声にならない声で笑った。 清顕が四十一才の時、ようやく一子を得た。しかし、「女の子のご誕生」という報告は、清顕を少しがっかりさせていた。———また父上に嫌みを言われるなと思ったからである。とは言っても、子どもが生まれたことは嬉しかった。ましてや、遅くに生まれた子である。 清顕は、寝室へ急いだ。「女の、お子でございました」 手をついて言うお付の女の顔に、陰が走っていた。———もう言わずと、知れて居るわ。 そう思いながらも、照れ隠しにあえて仏頂面をすると、清顕は妻の枕元にドッカと腰を下ろして、赤子の顔をのぞき込んだ。「おおー。これがわが子か・・・」しばらく黙って見ていたが、だんだん顔がほころんできた。思わず、「めんごい(可愛いい)のう・・・。でかしたぞ」と言った。———これでようやく、わしも人の親か・・・。 そう思っていると、「誠に申し訳ござりませぬ。女の・・・」と妻が言いかけた。そこへ清顕は、一挙にかぶせるように「女の子で良かったではないか。女の子なれば婿が継ぐ。婿はどこぞで、既に大きくなっておろう。何年か前に遡って、男の子が生まれたようなものじゃ。儲けもんじゃ。婿はどこからがよいかのう?」と言った。彼女は泣いていた。「そんな顔をして、どうする。これでもう、やや(赤ん坊)が出来なくなった訳でもあるまい?」 彼女は、涙の顔を清顕に見せまいとして、横を向いた。年を経てようやく生まれた子のこともあったが、むしろ彼の優しさに涙したのである。彼が、父の隆顕や叔父の月斉に、側室を置くようにとしつこく攻められていたことを、知っていたのである。「名をどうしたものかの?」 清顕は、話題を変えようとして、畳み掛けるようにそう言った。しかしそうは言ったものの、とっさに思いつかなかった。だいたい、男の子の名前ばかり考えていたのだから無理はなかった。「はい。良き名を是非に」という妻の声を聞きながら、赤子を見ていた。赤子は、小さな拳を握って眠っていた。そして部屋には、乳の甘い臭いが漂っていた。———赤ん坊は猿のようだとは言うが、なるほど、赤い顔をしておるものじゃのう。赤子とは、 良く言ったものよ。それにしてもわが子は別だ。めんごい。めんごいな。 そう思いながら見ていた清顕は、「めご ではどうじゃ?」と声をかけた。「めご でございますか?」 妻の顔は、思わずこわばっていた。なにか女の子らしくない、語感を感じた。もう少し可愛い名を、期待していたのである。「うむ・・・。めんごいから、めご じゃ」「はい。しかし父上は・・・、舅殿はどう思われましょうか?」 思わず舅の名を出して、柔らかに抵抗を試みた。「いや、それは気にするな。お前さえ気に入れば、わしが何とでも説得しように」「はい、私はそれで、ようございますが・・・。それにしても、文字はどのようになされます?」 今度は、文字で抵抗の意志を表した。清顕も、さすがに、それを感じた。しかしここまできて、今さら引く訳にもいかなかった。「さて文字・・・?」 そう反覆すると、清顕は思わず唸った。「むうー・・・。文字のう・・・?」 ようやく付けた名に、文字までは考えが及んでいなかった。 しばらくして、唸っていた清顕が言った。「俗に、わが子は、目の中に入れても痛くないほどめんごい、と言うからのう・・・」「はい」 妻は、涼やかに返事をした。清顕が、別の名に変えると思ったのである。しかし、「うーん、めご・・・。、目子ではどうじゃ?」 そう言われて、妻は驚いた。「目子でございますか?」 思わず言葉が、きつくなった。「うむ・・・。嫌か・・・?」 清顕が、少し当惑した顔を見せた。「いいえ。めんごくて、良き名でございます」 妻はそう言った。ここまで言う清顕に、折れたのである。「そうか・・・」 清顕はホッとした。もし強く反対されれば、引き下がるしかないと思ったからである。———しかしそれでは、男の沽券にかかわる。 そう思っていた。 しばらくの時が、静かさの中に流れた。やがてその目子が、小さな口を開けてると、大きな欠伸をした。二人は、びっくりした顔を見合わせた。「目子や、目子。とと様が、めんごい名を付けて下された。よかったね」 そう言いながら、頬を突っついてあやすのを見て、清顕は思わず微笑んだ。 その目子という字が、時を経る内に愛という字が当てられるようになっていった。後の愛姫(めごひめ)である。
2007.11.16
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世の中は動乱の中にあり、他国の情勢も緊迫していた。それらの報告も繁く届けられていた。「斉藤道三と織田信秀が講和し、道三の娘が、信秀の子・信長と結婚した」「フランシスコ ザビエルという南蛮人が、鹿児島に入った」「斉藤義龍が、父の道三を殺した」「織田信長が、今川義元を田楽狭間に破った」「南蛮交易により、平戸 堺 長崎の港が栄えている」「武田信玄と上杉謙信が川中島に戦い、信玄が負傷した」 翌年、月斉は大槻の西の山口館を奪った。これで大槻城は、西南東を田村勢に囲まれたことになった。大槻城主・伊東高行は、北方を迂回して会津に逃れた。「月斉叔父も、暴れておるのう。これで会津に対して、山口より今泉まで、強力な防衛線が出来たことになるのう。それにしても、安積をしっかり押さえんとな」「はい父上。山口館と大槻城を押さえたことで、我が家の地盤はより強固となり申した。それに岩瀬庄に進出していた輝宗殿もまた、長沼城をも陥としたそうにございまする。この戦いで会津勢は、猪苗代湖南の地まで駆逐されたそうにございまする」「ほほう、伊達の輝宗がのう。それでは会津勢は、勢至堂峠に追い上げられたことになるのう。すでに我が方は、会津勢を中山峠に追い上げておる。これで会津は、身動きがならぬのう。目出たいことじゃ。しかし西はそれでよかろうが、南も注意せねばならぬのう」「南と申しますと、常陸の佐竹でございまするか?」「さよう、石川はすでに常陸佐竹の傘下。ここで須賀川の二階堂が常陸を恐れ、苦しまぎれに組まれると、何かと患わしいのでのう」「それではそうなる前に、我が軍を、須賀川へ進駐させるようになりましょうや?」「うむ。ただここで、先にこちらから手を出すべきか、どうかじゃが・・・。先に手を出せば、佐竹に攻撃の言質を与えることにもなろうしの?」「しかし父上、じっとしていても、佐竹は手を出してくるかも知れませぬ」「・・・じゃが考えてもみよ。佐竹は、石川と二階堂には声をかけながら、何故我が家には、声をかけぬ?」「・・・恐らく、我が家がなびかぬのを、知っているのでございましょう。田村家がここに存在すること自体が、彼らにとって脅威なのでありますまいか?」「なるほど、そう思うか?」「さすれば、田村家がここに在ること自体が、我らの生きる意義になるのではありますまいか?」「さよう清顕。勝っても自分、負けても自分じゃ。かくなる上は、勝たねばならぬ。その相手が常陸の佐竹であろうが、会津の芦名であろうが、それは問題ではない」 そう言うと、ニヤリとした。 その翌年、隆顕の予想通り、常陸佐竹氏は、石川氏と須賀川の二階堂氏と結んだ。「やはり須賀川の二階堂め、田村を離れたわ。それにしても岩瀬の二階堂は、伊達輝宗と田村についているのじゃから、ややこしい話しになるのう。それはそれとしても、月斉叔父の守る今泉方面が騒々しくなるのう」「はい。会津芦名は伊達の晴宗と結託して、伊達の輝宗殿に取られていた長沼に、逆に攻め込んで来ました。大いに怒った輝宗殿は、岩瀬の二階堂と月斉叔父と組み、伊達の晴宗と会津の連軍に戦いを挑んでおりまする。そうしておいて輝宗殿は、磐梯山南麓の桧原口にまで兵を進め、会津勢の背後を攻めたそうでございまする」「またも伊達の騒動よのう。全く周囲に迷惑なことじゃ。何故晴宗は、一族の中でも協調出来ぬのかのう」「それにしても、常陸佐竹・石川・須賀川二階堂勢の連軍と、田村・伊達輝宗・岩瀬二階堂の連軍、さらに会津芦名・伊達晴宗勢の連軍が対立するという、訳の分からぬ三ツ巴の妙な構図になりましたな。伊達も伊達なら二階堂も二階堂というところでございましょうが?」「じゃが、常陸の佐竹も苦しいからのう。奴らは、先年より関東南部を小田原の北条氏康に侵食されており、それに押し出されるように北の仙道に向い、白河領の寺山城を陥としておる」 寺山城は、白河の南東に四里ほどのところにあった。現在の茨城県境からも、十五キロほどのところであるから、常陸佐竹氏の白河小峰氏に対する圧力は、相当に強力であったと思われる。「いやはや父上、それにしても、佐竹の勝手な論法だけで攻めて来られては、こちらは、たまりませぬな」「うむ、それでじゃ。圧迫された白河の小峰は、会津の芦名と談合すると小田原の北条氏康に願い、常陸佐竹を攻めてその軍勢の進撃を止どめようとした。しかし越後の上杉謙信が上州より関東を窺っているため、小田原の北条氏康は動けなかった」「なるほど。そんな大きなことがあったのでございますか。でも、これまた良く考えぬと、訳の分からぬ動きでございまするな?」「うむ。そこで白河の小峰は、会津芦名の協力を得て寺山城の奪還を謀ったが、これを取り戻すことは出来なかった。その上、常陸佐竹勢は、更に白河と会津の勢力圏に侵入してきた。会津芦名は、岩瀬庄に有力な根拠地を持っていない。岩瀬の地を我が田村と伊達輝宗に阻まれて、会津の芦名も辛いところよ」 翌年、会津と伊達晴宗勢は、再び長沼を攻めて来た。伊達輝宗は岩瀬二階堂と月斉と共に、ここを守っていた。しかし伊達輝宗は、相馬とも戦闘中であったので、両面作戦の不利を感じて岩城氏の仲裁を得ると、長沼城を会津芦名氏に与えて和を結び、相馬との戦いに兵を集約してしまった。「全く伊達にも、困ったものよ。我が方に相談もなく、勝手に長沼より兵を引いてしもうたわ」「月斉叔父の今泉城が、会津との最前線になってしまいました」「うむ・・・。まあ、今のところ、それはそれとしても、常陸佐竹・石川・須賀川二階堂の連軍が、岩瀬庄を全面的に確保しようとしてきておる。厳しい状況となってきたのう」「やはり父上。常陸佐竹は、伊達勢の引き揚げに伴う、軍事的空白を突こうとしているのでございましょうか」「うむ。それに間違いあるまい。現に会津の芦名は、この連軍に対処するため、わしに助勢を要請してきおった」「会津が・・・? 今まで安積、岩瀬を巡り、あげくに伊達の晴宗派となって我が家と反目していた、会津の芦名がでございまするか?」「さよう。確かにこれはおかしいことじゃが、今は我が家も、常陸佐竹勢を抑え込むのが、焦眉の急であろう。強力な大軍が、目前におるのじゃからのう」「すると父上。会津の芦名と手を結ぶのでございまするか?」「うむ。とにかく常陸佐竹勢の攻勢を避けるには、それしか手だてはあるまい。これが次善の策、というものよ。それも、芦名からの依頼となれば、やりやすかろう」「しかし父上。もし、それがうまく行って、常陸の佐竹を駆逐したとして、その後の会津芦名との関係は、如何が相なりましょうや?」「うむ。もし、この機会に会津芦名との和が成れば、たしかに西は安定するが、芦名とて、そうばかりは考えてはいまい」「さようでございますな。安積、岩瀬は仙道のかかる土地。会津の芦名としても、垂涎の地。我が家としても妥協し兼ねる土地。いづれ気は、許せませぬな」「そうじゃ。いづれにしても、この地の確保が我が家安泰の生命線なれば、是が非でも、常陸の佐竹を駆逐せねばならぬ。そのための和合じゃ。ここは目をつぶってでも、会津と手を組む他はあるまい」 やがて、田村氏と会津芦名氏との同盟が成立した。この連軍は、常陸佐竹勢の前衛であった石川に攻め入った。この時の威力凄しく、常陸佐竹・石川の連軍は、策の施す手だてがないという状況であった。 月斉はこの時、月斉陣場に本営を置いて戦った。月斉陣場は、寺山城よりさらに北、四里のところにあった。 清顕がこれらの戦いを終えて戻ったのは、春も終わりの頃であった。 少しは平穏になったかと思える時期であったが、今また、「織田信長が美濃を攻略し、上洛を果たした」とか「武田信玄が、子の義信を殺した」などという血生臭い様子も報告されていた。
2007.11.15
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ところがその夜半、「敵じゃ! 敵の夜襲じゃ!」の声に、大槻城の城門を見据えていると、突如、「背後じゃ! 背後の敵に備えよ!」との声が交錯し、田村勢は混乱に陥った。「我らの背後に会津の援軍が迫っておりまする。大槻の城兵も打って出て参りましよう。我らは、前後を挟まれまする」 その報告を聞いた一瞬、----やはり会津が出てきたか。これこそがわしの、思う壷よ! そう思った隆顕は、大音声で命令した。「引け! 引けい! 大槻城を捨て、わしについて参れ!」隆顕は、馬に跨ると南に向かった。清顕も月斉の兵も一団となると、二里程の駒屋館を席巻して西に道をとった。「清顕。この先は富岡ぞ。親父殿は、富岡本郷館を取る積もりじゃな」「富岡本郷館でございまするか? それにしても叔父上、この館はいかにも小そうござる。我らの大軍の敵ではございますますまい」「ははは、清顕。親父殿は、恐らくその先まで参ろうぞ」「その先と言われますると?」「知れたことよ、今泉じゃ、今泉城じゃ。もっとも、富岡本郷館を落としてからじゃが」 富岡本郷館も、水田の中の館であった。ただ大槻城と違うのは、規模が小さいことと、少しだけ高台であったことである。その上、ここの兵の多くは、大槻城の援軍に回っていたのである。田村勢は、難なく富岡本郷館を奪った。そこで隆顕は兵を二手に分け、月斉の勢を今泉城北方の尾根伝えに攻勢をかけ、清顕の兵を南、柱田方面に迂回させて挟み討ちにしようとしたのである。 今泉城は、会津領の長沼城に最も近く、田村氏としては、その喉もとを抑える位置にあった。そして小さいながら、北方の尾根を除けば独立峰に近く、その尾根も、空壕で堅固に防御されていた。しかしここは、その位置と地形からいって、田村が取ろうが会津が取ろうが、その維持には兵站線の確保が必要な地であった。今泉城に対峠している長沼城を背にした西方には、勢至堂峠を飲んだ奥羽山脈の峰々が屏風のように立ちはだかり、会津領を守っていた。「良いか! 北が今泉城の弱点。ここから月斉が攻めれば、敵はこの弱い北を防ぐため、城外に出てこよう。そこを清顕は、南から攻め登るのじゃ。今度は、大槻、富岡本郷の戦いとは勝手が違うぞ。心して戦え」 隆顕は、そう二人に命じた。 その攻撃の準備中、清顕と月斉の二人が、隆顕の本陣に駆け込んできた。「父上! 土着の百姓が一人、父上にお目通りを願っておりまする」「この大層な時に、何事じゃ!」「はあっ! その者の話しでは、今泉城から大槻城の援軍に回ったため、今泉城は『裳抜けの殻』、と申しておりまする」「なに! 裳抜けの殻じゃと! 調略ではあるまいな!」「物見の者が連れてきた百姓を、我ら二人で聞き取りましたところ、地付の百姓で名は弥惣と申し、年は六十五才と申しておりました」「うむ、それで・・・?」「その者によりますると、『須賀川の二階堂様は、この近在の百姓の全てに武器を持たせて、大槻城の救援に向かったために、ここに男どもは、全く居りませぬ』、と申しておりまする。いつの間にか二階堂は、会津と組んでおったようでございまする」「うむそうか。で肝心の今泉城の防衛体勢はどうじゃ?」「はあっ! それがまた、『武者は一人もおらぬ』、とのことでございまする」「なに? 一人もおらぬ? それは、おかしいではないか?」 月斉が言った。「それは我らも、確認致した。『一人もおらぬ』は誇張としても、富岡本郷館の例もあること。手薄であるには違いなかろう」「そうか、それでは作戦の変更じゃ。北の尾根から、全軍で攻勢をかけよ! しかしそれが敵の調略の場合は、清顕が南に回る方策も考慮に入れておけ! 気を許すな!・・・。それからその百姓じゃが、陣中に留め置き、事実と判明したれば、応分の褒美を、下げわたせ。調略とあらば、首を取れ!」 北の尾根から攻勢をかけた二人は、百姓の言葉が嘘でなかったことを知った。今泉城は、戦わずして、手にいれた。田村勢は、二階堂勢追撃戦に移った。 二階堂勢は玉木に逃れ、そこも追われると、須賀川に近い大久保の集落に逃れた。月斉は、「敵がどこに隠れているか分からぬ。火を掛けい! いぶし攻めにせい!」と命じた。 大久保の暁の空に、火が赤々と燃え上がった。火に追われた女や子ども、そして老人たちが、『ばった』のように飛び出し、震えながら平伏し、うずくまり、子どもを抱きしめながら、「二階堂様は、須賀川の方に逃げました。ここに武士は、一人もおりませぬ。ここに居るのは老人と女、そして子どもばかり、命ばかりはお助けを・・・」と嘆願した。虚ろになったそれらの目を見ながら、----百姓とは、可愛そうなものじゃ。 清顕は、そう思った。----武士とは勝手なもの、と思っていようの。 そうも思った。 一方、大槻城の戦いで田村勢が逃げたと思った会津勢は、北東に進んで日和田にまで進出した。日和田は、大槻より四里ほどの距離にあり、田村領の安積庄・福原城にも近かった。しかし、富岡本郷館や今泉城、そして大久保での大敗戦を知った会津勢は、その孤立を知り、慌てて大槻城に逃げ込んだ。「清顕! こたびの戦い、うまく行ったからよかったようなものじゃが、戦いに情は禁物ぞ!」 隆顕はそう言った。「まこと父上、大槻での戦いは私の失態。恥ずかしゅうございまする。以後、心致しまする。ところで父上、もしあの時、我が方が大槻城を攻め取っていたら、如何相なっていたでしょうか?」「うむ、・・・。大槻城一つしか取れず、逆に会津勢に囲まれ、篭城戦になって長引いておったかも知れぬ」「えっ・・・?」「ははは。変な顔をするな。苦労をしていたかも知れぬ、ということじゃ。戦いに最善の策はない。状況を把握しながら、常に次善の策を考えるのよ。だからお主の失敗が、こたびの戦いの成功に通じた、ということであろう」父の回答に、清顕はキョトンとしていた。「清顕。今は学ぶことが一番大事。今は、現実よりひたすら学べ。戦いとは何か、生きるとは何か? などと面倒なことは考えずに、とことん習え」「ははっ」 そう返事をしながらも、清顕は考えていた。田村氏に寝返った佐柄勘解由と大河原弥平太らが、大槻城撤退作戦の殿軍を勤め、富岡本郷館攻撃の田村勢を守り、大槻で戦死していたのである。「父上。佐柄や大河原は・・・?」「それそれ、それがお主の欠点ぞ。いま申したばかりであろう。も一度申そう。この戦いから学ぶことは、『自分より弱い者を吸収しても、優勢な者と同盟してはならぬ』ということじゃ。いづれ弱い者は将棋の歩、王を守るために利用されるだけじゃ」「それでは、もし周囲が自分より優勢な者だけの場合は、潰されまするか?」「その場合は、一番都合の良い相手の懐に飛び込み、組み込まれても一体化せよ。そうせねば、歩とさせられるじゃろう」「では佐柄らは、歩であったと・・・?」「さよう。彼らには、歩を裏に返す時間がなかった。彼らには殿軍を命じたが、殿軍必ず死ぬものでもない。それを務め上げられれば、我が田村との一体化も、可能であったろうに。俗に『鶏口となるも牛後となるなかれ』と言われ、また『時の天下に従うべし』とも言われるが、どちらも本当よ。相手が大なる時、相手が小なる時、臨機応変の対応が大事じゃ。」「・・・」「しかし彼らとて生き残ったにしても、田村家存続のためには、小の虫として殺さざるを得ない時もあり得よう。つまり全ては、やるか、やらぬかじゃ。恐らくという、結論はない。よく思い返せ清顕。大槻城攻めの際、田の水の干上がりと、敵の兵糧切れと、それによる仲間割れを待つ」というお主の意見をとったは、先を見越したわしの策略。結果を見れば、分かるであろう?」 その父の言葉に、清顕は返事が出来なかった。「謀は密なるを貴ぶ」という格言を思ったからである。 その後月斉は、隆顕より「叔父上! 今泉城は岩瀬庄の要、会津よりの防御壁なれば是非に!」との要請を受けると、自らが今泉城の城主となった。「兵站線を、しっかり作ってくれよ」 それが、唯一の彼の条件であった。三春とのつながりが、絶対に必要であったのである。 永録四年、祖父の田村義顕が、死去した。「それでもじじ様は、安積や岩瀬を回復したのを見届けてからで、ようござった」 そう言う隆顕に「はい。もしも負けたところで亡くなられたら、会わせる顔がございませんでした」と清顕は答えた。「これ! 負ける、などということは、口が裂けても言うものではない! しかし兄が亡くなるということは、寂しいことじゃのう」 月斉はそう応じた。「何の叔父上、そう寂しがられては困りまする。我らも、まだまだ力を貸して貰わねばなりませぬ。それにしても清顕。子はまだかのう。もはや室を貰おうてから、十三年にもなる。じじ様も亡くなられたことでもある。どうしても出来ぬなら、若い側室でもおかれたらどうじゃ?」「さよう、さよう。わしとてこのように、隆顕にうまいことおだてられても、跡継ぎがないのでは、戦い目が見えぬではないか。じじ様は、身体は弱かったが子どもはちゃんとこしらえたぞ。三十四にもなって子が出来ぬとは、下手なのではござらぬか」いささか羽目を外して来た雰囲気に、清顕は思わず目を反らせながら、言った。「いや、これは参りました。どうかご容赦を」それが精一杯であった。月斉は、笑いながら言った。「いや! 容赦はならぬは」「はっ。ごもっともで」 清顕は、おどけて平伏した。彼自体が、跡取りに恵まれぬことに、苦悩していたのである。
2007.11.14
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動 乱 清顕は、祖父の病室に呼びつけられた。そこには父が、いつになく難しい顔をして座っていた。その父がせき込むようにして、清顕を祖父の布団の側に座らせると、「清顕、お主も二十才じゃ。そろそろ我が田村家のために嫁を迎えんとな」と切り出した。祖父がそれをとりなすかのように、続けた。「まあまあ、そう決めつけずとも・・・。実は、伊達のじじ様が縁談を持ってきてくれてのう」「・・・」「相手はなんと、お主もよく知っておる、相馬顕胤殿が娘御じゃった」「先年、伊達のじじ様にご一緒にお味方なされた相馬の・・・?」「さよう、それで隆顕とも考えたがのう。畠山、伊東、二階堂、石川では格が下、と思うておった。そこへ丁度、伊達のじじ様からの縁談じゃ。もっとも格としては、相馬、岩城、小峰あたりと、考えてはおった」「じじ様とも相談しておったが、小峰よりは岩城、と思うておった。しかし、岩城は、こたびの伊達との騒動で、敵になってしもうた。それらを考えれば、相馬殿なら似合い、と思うてのう。」「・・・」「伊達のじじ様の話じゃと、相馬殿は戦場でお主を見て、気に入られたご様子じゃ。年格好も丁度なれば、わしもじじ様も依存はない」「伊達と相馬は、もともと不穏な間柄。しかし我が清顕と相馬殿との縁組みが出来れば、田村家を中にして三家の和を謀れよう。さすれば三家は、軍事的にも強力な同盟が組めることになる」「もっとも伊達のじじ様も、それも考えているようじゃが。相馬殿も『是非に』と、伊達のじじ様に依頼してきたそうじゃ。どうじゃ、異存はあるまい?」「・・・」「清顕! 何故黙っておる。いくら戦いで名を挙げはじめてはおるとはいっても、嫁がおらんことには、周囲は一人前の武将とは認めてくれん!」「隆顕。まあそう大きな声を出さずともよい。よく考えれば、清顕も納得出来る縁談。のう清顕。縁組みとは大事なもの。これ一つで戦わずとも済み、これ一つで版図を広げることも出来る」「しかし、ばば様の出先の、岩城の例もあるがのう」そう言われて、一瞬義顕は嫌な顔をした。隆顕は--しまった。と思ったが、すぐに言い直した。「いやいや、冗談なればお気になさらずに」そうは言っても、隆顕は伊達の義兄弟と戦っていたのであるから、義顕のことを言えた義理ではなかった。「じじ様、父上。お二人が気に入られたこの縁談。清顕に異存は、ございませぬ。あとの手順、よしなに願いまする」 それを聞いた義顕は嬉しそうに言った。「そうかそうか。隆顕、さっそく伊達の舅殿に、『委細承知』のご返答を申し上げよ」それを聞いた隆顕は、ほっとしていた。 天文十八(一五四九)年、清顕と、相馬顕胤の娘との縁組みが行われた。輿入の行列は、相馬氏の本拠である小高城を出ると、室原川をさか登って阿武隈山系に入り、相馬庄の津島、葛尾、そして田村庄の岩井沢を経て三春に迎え入れられた。その際顕胤は娘の化粧料として、その通り道であった南津島(双葉郡浪江町)、葛尾(双葉郡)、古道(田村市)の間の、一帯の地を贈った。 (注:粧田として譲られた領地の権利は実家にあり、その女一代限りとして、実家に返された。) この相馬氏の拠っていた小高城は、現在の福島県の海岸沿いにあり、南北朝時代には激戦のあった城である。そして相馬氏自体、幕末に至るまで領地の移動がなかった数少ない名家の一つであった。 しかしその一方で、会津芦名氏は、白河の小峰氏に娘を嫁がせ、政略的な結びつきを深めていた。 ところで、伊達父子が和合したとはいえ、時折起こる小競り合いによる混乱を心配した将軍の足利義輝は、聖護院門跡の道増を使者として再び晴宗に、父子融合の内書を下した。道増は、この戦いで中立の立場にあった白河小峰氏に、会津と田村の仲介を依頼してきた。 しかし、その仲介を受けた隆顕は、「会津とは、安達、安積、岩瀬を巡って、古くから争っていたもの。今回の伊達の問題で、それぞれが父と子に分かれて付いたのも、これと無関係とは言い切れぬ。我が方ばかりが、折れる訳には参りますまい」と父の義顕に主張した。「うむ、しかし隆顕。会津は、我らが田村の地を出て戦っている以上、『会津とて同じ』と主張しよう。いづれにしても、会津が先に手を引かぬ限り、難かしかろう」「そうするにしても、国堺を今のままで固定するのであれば、我が家としては不足ではあっても妥協の出来ぬことでもない、と思いまする。ただ問題は、会津の出方次第でございましょう」「しかし、先だっての我らの仲介により、伊達父子の和睦が一応成ったのであるから、今のところは、我が方に戦う理由が希薄になったと思われる。ここは白河小峰氏の顔を立てるのも、悪くはあるまい」「全く、伊達の父子さえしっくり行っていれば、このようなことには、ならぬものを。あげくに、仲介者が白河の小峰。その仲介者の白河と会津は、『一つ穴の狢』。戦いとあらば別じゃが、談合となれば二対一。力及ばず、でございまするな」 隆顕が嘆くのに対し、清顕が言った。「さようでございますな。白河の仲介案によりますれば、田村庄の六十六郷、小野庄の六郷は当然としても、安積庄には元々の福原などを確保したのみでございまする。足利将軍の命とあらば、やむを得ないのかも知れませぬが・・・」「全く・・・。伊達の内紛は、当家にとって大きな痛手じゃった。じゃが隆顕。今後は、お主ら親子の時代。晴宗は頑なで難しいが、甥の輝宗(伊達晴宗の子)と親交を厚くして、いずれまた会津との戦いに備えねばなるまい」「かか様のご実家にも、困ったものでござりまするな。叔父上にも少しは考えて貰わぬことには、先が思いやられまする」 清顕がそう言うのを、隆顕は苦笑しながら聞いていた。 大槻城の城主・大槻太郎左衛門行綱の部下である佐柄勘解由、大河原弥平太らが、会津芦名氏に叛して、隆顕に内通してきた。安積庄の大槻は、現在の郡山市の中央部より西にあるが、さらに西は長沼、そして勢至堂峠を経て会津に至り、南北にも通じた要衝の地である。「今、和睦しているとはいっても、形だけじゃ。いづれ会津は宿敵。先年も白河と組んで、いいように計られてしもうたわ。清顕! 安積という失地の回復に、よき機会到来ぞ!」そう言うと、隆顕は自らが千騎、さらに月斉の七百騎をもって出陣した。 大槻城は、平野の、しかも水田の中にあった。隆顕は、水田への水路を絶って水を川に落とさせた。田を干して、攻撃の足がかりにしようとしたのである。 これという防御の地形のない大槻城内は、城門を閉じたものの、混乱に陥っていた。そこを、田村勢が取り囲んだ。「戦いは、すでに決したようなもの。このまま一押しすれば、揉み潰せよう」そう言う隆顕に清顕は、「城中は、兵ばかりではございませぬ。我が方の進軍が早かったため、多くの町人が城内に留まっておりまする。力で押せば、これらにも犠牲者が出ましょう。佐柄勘解由、大河原弥平太を使者とし、城主と主だった者の切腹を条件に、兵と町人を解放しては如何がでございましょうか?」「いや、佐柄や大河原は内通者。これを使者として送れば、また裏切るやも知れぬ。それは、出来ぬ」「裏切りの裏切りでございまするか?」「さよう。口には出せぬが、将たる者。そういうことまで考えておかねばならぬ、ということじゃ」 そこへ、「月斉殿が参られました」との報告が入った。隆顕は、言った。「お通しせよ! 早速の軍議を始める」 そして小半刻後、全軍に下知が出された。「しばらく休息と致す。見張りをしっかり立てい! 城中に不穏な動きあらば、すぐに知らせい! ことによりては、変更のことあり。気を抜くな!」 田の水の干上がりと、敵の兵糧切れと、それによる仲間割れを待つ、という清顕の意見が、通ったのである。
2007.11.13
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戦いは長引いていただけに、西山城のみの戦いだけでは済まなかった。各地に、いろんな形で波及していた。隆顕は、稙宗派である二本松の畠山氏、塩松の石橋氏と連合すると、再び安積庄に攻め入った。会津芦名氏の助勢を受けた安積伊東氏が、自己の領地の回復を謀り、少しづつ田村の確保した領分を、蚕食していたのである。しかし田村勢が、福原城を足がかりして、十ヶ所ほどの城を落とすと、安積庄のあらかたが降伏し和を請うてきた。領地が、また元に戻ったことになる。福原城は、安積庄の阿武隈川の畔にあったが、古くから田村領となっていたものである。 この戦いの日々、清顕は考えていた。———人を殺さねば、城は取れぬ。城を取るということは、人を殺すということと、同じことなのであろうか・・・。 しかしこの疑問は、さすがに父には言いかねた。それを知ってか知らずにか、隆顕が清顕に諭した。「いいか清顕。昔より家が滅ぶるには、家中に不満のある者がおり、それが敵に内通することによることが多い。災いは、外からばかり来るものではなく、内から生ずることの方が厳しい。外の勝ちだけに、奢りてはならぬ、内部を常に固めねばならぬ。分かったな」 一方この連軍は、安達庄でも、本宮と二本松の中間にあった玉井城を攻め落とした。玉井の城主もまた、磐城に逃がれた。この戦いが終わってから、田村勢はようやく三春へ引き上げた。「清顕。この度の戦い、長かったのう。先ずは目出たい。隆顕からも聞いたが、戦いの駆け引きなども覚えたようじゃの」 そう言って義顕は、孫の清顕を労った。「いや、覚えたというほどではございませぬが、私の方の考えが及ばず、『さすがは父上』ということが、何度もございました。特に二本松より北の西山へ行かず、南の安積へとって返した軍略には、言葉もございませんでした」 義顕は、孫の清顕がそう言うのを聞きながら満足そうに笑うと、「史記にも『成敗は決断にあり』とある。成功するか否かは、一にかかって決断による。その機を逃してはならぬの意じゃ」と言った。 清顕は、黙ってうなずいた。 その翌年、白石城に逃げ、形勢が悪化していた晴宗は、岩城氏に田村庄の東部攻撃を要請した。田村氏の力の分散を諮ったのである。 磐城勢は、磐城街道を小野庄に向けて進軍した。それを知った小野新町の城主・梅雪斉は、自らが東に流れる夏井川の深い谷の続く五味沢に陣を構え、これを迎え撃った。狭い谷あいの道を蟻が並ぶようにして進んでくる敵は、梅雪斉にとって絶好の餌食でもあった。 舞鶴城でその報告を受けた隆顕は、「さすがは我が弟、千尋の谷と峻険な山を、うまく利用したのう」と独り言のように言いながら、清顕に言った。「どうも晴宗は、岩城氏に仙道への出馬を要請したらしい。じゃが岩城氏は怖じ気づいたのか、軍勢は出さず、石川氏や岩瀬の諸豪に手を回しているやにも聞き及んでおる」「うーん父上。石川はともかく、岩瀬の諸豪とは気になりまするな。これは、『耳目を属す』(耳をそばだて、目をみはって、正しい情報を人より早くつかむこと)ということでございまするか?」「ほほう、お主も言うようになったのう」 そう言って笑った。「恐らく岩城氏は、須賀川二階堂に対して我が家への離反を勧めておるのであろう。ところで清顕。戦いの場においては、敵か味方しかいない。といって、戦いだからと敵ばかり作っては危険じゃ」 このようなとき、清顕は良く話を聞こうと、意識していた。それであるから、父の話の先を促すために、黙っていた。「そこでじゃ。味方になってくれそうもないと思われる者に対しては、自分に敵対させぬようにすることが大事。つまりそういう者には中立を勧め、我が方に仇をなさせぬことじゃ」「・・・すると岩城氏は、その手を使って来たのでございましょうか」「うむ。恐らくそうであろう。ここでの問題は、それに応じて、我が家に攻めてくるかどうかじゃ」「しかし父上。須賀川の二階堂は我が家の輩下ではございませぬか?」「よく考えよ清顕。本来、須賀川の二階堂は独立の領主ぞ。今のところ力で抑え込んでおるが、決して田村家の子飼いではない」「なるほど。しかし父上。それでは石川氏や岩瀬の諸豪は、磐城の味方にもならぬ、ということにはなりませぬか?」「うむ、そこのところよ。しょせん田村と二階堂は他人の関係、ということをしっかり捕らえねばならぬ。それは磐城とて同じこと。、時に力で押すこともあろうが、遠慮も必要となろう、ということよ」 その後、磐城・石川の連軍に対し、田村・須賀川二階堂の連軍は、よくこれを押さえていた。そして今日もまた、二人は、義顕の部屋にいた。「もともと石川氏は、我が家とは領域を争って反目しておった。岩城氏もまた同じ。ただ今度の戦いは、晴宗が拘っているため目が反らさせられるが、本質的には、目新しい戦いではない。清顕、本質はよく見極めねばならぬ」「はい。それは分かりまするが、その岩城氏が、我が大越城や常葉の朝日城に手を回し、調略をかけておりました」「うむ。朝日城も大越城も、ともに三春より二~三里の所。重要な場所じゃ。しかし両城ともこれを蹴った。それに須賀川の二階堂をも、離反させられなかったことになる。これで岩城も、田村の結束力を思い知ったであろう」「しかしどうも父上。周辺の情勢が、厳しゅうございまする。会津勢が、岩瀬の横田に進出する一方、晴宗救援のために、土湯峠(福島市)から伊達の領分に攻め込んだとも聞きまする。下手をすれば我が田村は、北東の伊達領との接点を除き、北西と西の会津、南の石川、東の磐城と、全面を敵に囲まれてしまうことになりまする」「まあ清顕。そう慌てるな。いづれ土湯峠の敵は伊達勢が、横田の敵は月斉叔父が、駆逐してくれようぞ」「すると我が田村は、石川と磐城に備えねばならぬことになりまするか?」「なーに、石川には須賀川二階堂が、磐城には田村勢が当たればよい。いづれ遅くない時期に、転機が訪れようぞ。ところで、じじ様」 そう言って隆顕は、義顕の方に向きを変えた。「この度の戦いは、伊達の父子の抗争分裂が原因でござりましょう。さすれば、これの和睦をとりもつことが、我が領土の安泰につながるものと思われますが?」「そうじゃな隆顕。それに間違いはあるまい。このままに捨ておけば、いかに強力な伊達と申しても、その力は内部分裂のため減殺されよう。それと同時に我が家も含め、伊達父子それぞれに第三勢力がついておる。どちらが勝っても、勝った方の第三勢力が、自分の都合に合わせて、口を出すようになろう。さすれば伊達は、いずれ消滅するのみ。それを避けるためには、どうしても和合が必要となろう。ただ問題は、誰がその仲介に立つかじゃが、恐らくこの我が家が最適任じゃろう。伊達と相馬とは干戈を交えた間柄ゆえ、瘤(しこり)もあろうからのう。ここは一番、隆顕、お主の仕事じゃな」「そうかも知れませぬな。しかしながら、この仕事、どういう手だてで進めましょうや?」 隆顕は、自信はあったが義顕を立てた。「うむ。結論だけを先に言えば、稙宗の隠居と晴宗の相続。そうしておいて晴宗と我が家との融和であろう。そのために晴宗には、いささか折れて貰わねばなるまいて」「さようでございますな。ところでこの談合には、清顕も連れて参ろうと思いまする。清顕は、伊達の岳父殿に可愛がられていることもございまするが、何よりも、談合の教えごとになりましょう」「それもよかろう。しかし隆顕。清顕を連れて行くとは、随分と自信があるのう」「いやいや、自信などござらぬ。ただ精一杯、やるだけでござる。清顕、西山へ行く件、良いな?」 隆顕は、心中を見透かされたと思い、慌てて清顕に話を振った。 ところでこの時、将軍の足利義晴がこの戦乱を憂い、内書を晴宗に下して融和を謀っていた。隆顕の仲介には、このことも幸いした。その秋、稙宗が丸森城(宮城県丸森町)に引退することで、ようやく伊達父子の和睦が成立したのである。 この余勢をかって、隆顕は、伊達晴宗、会津との三者間の和睦を図った。特に晴宗には、安積を逐われた苦い経験がある。そのためもあって隆顕は、この戦いで得た多くの領地の確定を交渉の目的としたため、和睦は成らなかった。三すくみの状態が続く・・・。
2007.11.12
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初 陣 清顕は、十五才で元服をした。いよいよ一人前である。「斉藤道三という男、もともと油売りを業とした商人であった。それが武士を志し、美濃守護代・斉藤利休の臣、西村三郎の跡をついだ。ところがこの斉藤道三、斉藤利休を滅ぼすと自ら斉藤秀龍(道三)を名乗り、ついに美濃守護の土岐氏を攻め滅ぼして美濃の実権を握ったという。恐ろしいことよのう。恐ろしいことついでに、豊後国(大分県)にポルトガルとかいう異国の船が、嵐で難破して漂着したそうな。それには鬼のような顔をした大男が乗っていたそうじゃ。全く、何が起こるか分からぬ世の中じゃ」と父は、清顕に教えた。そしてこの、何が起こるか分からぬ世の中の言葉通り、伊達家ではついに稙宗と晴宗父子が分裂し、内戦が始まった。「清顕! 初陣が決まったぞ! 我が田村は、伊達稙宗殿の側に立つ! 稙宗殿は、お前の母の父上じゃ。心して当たれ」 父がそう言ったのは、それから間もなくのことであった。「稙宗殿が鷹狩をしているところを、子の晴宗が襲ったそうじゃ。稙宗殿は危うく逃げて、家臣の守っている懸田城に逃げ込んだそうじゃ。その稙宗殿から、救援の依頼が参った。それにしても、子として父に弓を引くとは、人倫にももとる。先年の我が軍の安積の庄からの撤退は、稙宗殿の言うことを聞かなかった、子の晴宗の横車によるもの。こうなればわしの義理の兄弟とは言えども、容赦は出来ぬ」 父はそう言った。清顕は思わず、「初陣の相手先が、母上のご実家でございまするか・・・?」と言って絶句した。当時の婚姻は、錯綜していた。清顕とて、晴宗とは従兄弟にあたる。子どものときには、一緒に遊んだ間柄でもある。———その晴宗との戦いとは・・・。 しばらく黙っていたが、気を取り直すと尋ねた。「して、ご両所の陣立ては?」「うむ。稙宗殿方は、葛西氏(稙宗の子で、晴宗の弟)・懸田氏・相馬氏、それに我が田村。晴宗方は、山形・会津・磐城・岩瀬をはじめとして、同ずる者また多しという。厳しい戦いとなろう」 磐城の岩城重隆は、晴宗の岳父でもある。それらを話す父の顔は、すでに武者のそれに変貌していた。 清顕は、父とともに出陣した。 さすがに昨夜は、眠れなかった。病床にあった祖父も起き出して来ると、古式に則って初陣の弥栄を祝し、祝宴を張ってくれた。今、攻勢をかける二本松城への馬上にありながら、この二~三日を走馬燈のように思い返していた。 この安達庄も、いまだ統一されてはいなかった。二本松を本拠とする畠山氏の他に、本宮城の本宮氏、小浜城の大内氏、塩松城の石橋氏などが、分立していたのである。 二本松は、城主の畠山義氏が稙宗派、その臣の堀越能登守宗範や遊佐美作守が晴宗派と分裂し、藩論が決まらずにいた。今回の戦いは、その二本松城を稙宗派として確保するのが、目的であった。「田村勢迫る」の知らせは、二本松城の晴宗派を恐怖に陥れた。 彼らは城を脱出すると、会津を目指して逃走した。これを追った田村勢と畠山勢は、二本松城の西、安達太良山の麓の永田に、これを打ち破った。 清顕の緒戦は、勝利で飾られた。これにより二本松畠山氏は、稙宗派として安定した。「よかったのう清顕! こたびの初陣の勝ち戦さ、先ずは目出たいのう。三春に帰ったらじじ様も、さぞ喜ぶじゃろう。二本松はこれで、平定した。すぐに兵を、南の安積庄に向けるぞ!」と言った。「安積へ? 父上、晴宗の居る北の西山城を攻めるのではありませぬか?」 北と南では逆である。清顕は、驚いて尋ねた。「むろん西山へは参る。しかし安積庄には、伊達家の内紛で晴宗勢が引き揚げた後、会津勢がに入ってきておる。それを蹴散らし、いまの内に田村家の力を扶植しておくのよ」「しかしそれでは、懸田城で我らを待っている、伊達のじじ様に対する背信行為になるのではありませぬか?」 清顕は、納得できなかった。思わず口調が、強くなった。 「甘いことを言うでない。それに会津芦名は、晴宗方ぞ。晴宗方を討つに、伊達のじじ様に遠慮はいるまい。晴宗方を討ち、ついで田村の地を確保する、これこそ一石二鳥、一挙両得の軍略よ。もしこの戦いで、子の晴宗が勝ったら何んとする。今ここで安積を確保しておかねば、あとの方策が立たぬわ」「とは申しても、磐城勢が晴宗を助勢するため、西山城に向かっているとの情報も入っておりまする」「なに、それは形ばかりの少数の兵とも聞いておる。その程度なら、相馬氏も懸田城に出陣しておる、心配はあるまい。それに美濃の斉藤道三の例もある。策を篭してでも、勝てる戦いは勝っておかねばならぬ。勝ってさえおれば、後はどうとも出来るもの。分かったな」 清顕は納得できぬまま、父とともに急遽南下した。 安積に攻め入った田村勢は、安積庄の北辺の前田沢館を攻撃した。この館は、要害の地ではなかった。ここを一挙に殲滅すると、西の下飯津(下伊豆)の館に向かった。しかし下飯津館には、すでに敵の一兵もいなかった。「逃げたな! しかし安積勢はともかく、会津勢は会津領に逃げる筈。西に追え!」 そう下知された田村勢は、逃げまどう会津勢を追って楊枝峠(郡山市と猪苗代町の堺)まで攻め登った。会津勢は、田村勢が二本松から西山へ向かうものと思い込み、気を緩めていたのである。中山峠は、会津領と安達庄との堺の峠であった。そこへ彼らを釘付けにした田村勢は、取って返すと、手薄となっていた郡山、小荒田(小原田)、名倉、荒井などの阿武隈川に沿った城砦と、二十七郷を奪い取った。 その勢いは、急であった。「父上、安積庄の大部分をもぎ取れましたな」嬉しそうにそう笑う清顕を、父は厳しく言い放った。「間違えるな清顕! もぎ取ったのではない、失地を回復しただけじゃ! それに岩瀬への物見からの報告によると、会津の芦名がわしと盟約した国境の横田や松山を越えて、東進してきておる。これも西の領域外に追わねばならぬ」 田村勢は、安積のさらに南の岩瀬庄に、兵を進めた。須賀川の二階堂氏は、晴宗派であったのである。「見よ清顕! これこそが機ぞ! 安積での敗戦に驚き、ここの会津勢も、戦わずに逃げてしもうたわ」 隆顕は、須賀川城に入ると、二階堂氏を自己の傘下とする和議を結んだ。そうしておいて隆顕は、反転して北上、相馬勢とともに西山城を取り囲んだ。しかしここでの戦いは、いままでの電光石火の動きとは対称的に、一年に及ぶ持久戦となってしまった。この一連の戦いで、清顕は父の武将としての厳しい姿を、隙間見ていた。 この持久戦の中で、晴宗は西山城を脱出し、磐城に逃れようとした。ところが周囲の通路は皆稙宗派に押さえられていたため果たせず、逆に北の白石城(宮城県白石市)に逃れた。このため稙宗は、ようやく西山城を回復した。 一方、二本松の畠山氏は、本宮城を攻め落とした。本宮城主の本宮宗頼が、晴宗に応じたためである。敗れた本宮宗頼も、磐城に逃がれた。 ところが外部ばかりではなく、田村の領内でも争乱が起きた。「御館城の城主・下枝治郎小輔殿は、晴宗派の岩城氏に内通されました。しかしこの御館城を、御代田城の城主・御代田伊豆守殿が攻め落とされました。下枝治郎小輔殿は、磐城に逃亡なされましたる由」 戦場でこれらの報告を聞きながら、隆顕は言った。「なあ清顕、御館城は三春より南へ二里、岩城もうまい所に目をつけたものよ」「はい父上。御代田城はさらに南に二里ほどの所。我が領内に、穴を開けられるところでございました」「うむ。ともかく内部のもめごとが、一番困る。しかし田村の地の主要な邑は、全てわしが兄弟で固めてある。それに叔父の田村頼顕、これは強いぞ」そう言うと、清顕に変な節回しで、歌を詠じて聞かせてくれた。「畠に地縛(ぢんば)り 田に藻(ひるも) 田村に月斉 なけりゃよい」 (注:田村頼顕、月斉とも言ったが、またの名を橋本庄七郎とも言っていた。 地縛り 藻 農作業の邪魔になる害虫雑草の類)「月斉叔父もこんな歌を周囲で詠じられるとは、大したものよ。それにしても御代田は忠臣。今後とも下枝の如き叛徒が、したり顔をして取り入ることもあろう。人を見る目は、しっかり作っておかねばのう」 そう言って大きな声で笑った。「安積庄は、我らが何年も駐留していた地じゃ。地理については調べ尽くし、手に取るように知っておる。思うさまに戦おうぞ」隆顕は、清顕にそう言った。
2007.11.11
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やがて隆顕は、岩瀬の松山を国境に、会津芦名との妥協を成立させた。「じじ様。やはり松山は、会津とのいい妥協点でございました。ただ折角確保した土地であっただけに、ちょっと心残りではございましたが」 義顕は、笑いながら言った。「まあそう欲を出すな隆顕。『無欲は大欲に似たり』とも申すからのう。松山をくれた無欲で、岩瀬の大半をとりたい大欲を隠したようなもの、会津と戦わずして得たということは、立派であった」「いやあ、じじ様にそう褒められると、隆顕も嬉しゅうございまする。ところでこうなれば、須賀川の二階堂は、我が旗下も同然。今の内に、この岩瀬と田村を地続きにしたいと思いまするが、それには、安積の庄への駐留を周囲の領主に対して、既成事実として認めさせねばなりませぬ」「ほほう、これはこれは。いよいよ、欲の皮が突っ張ってきたな? ふむふむ、それで?」「じじ様。冷やかしは困りまする。隆顕とて、本気でござりますれば」「いや、済まぬ、済まぬ。ところでどうしたいのかの?」 隆顕は、真面目な顔に戻って言った。「はい。まず安積の庄は、阿武隈川を挟んだだけで田村の庄の隣りにあり、三春にも近こうございまする。岩瀬の庄の半分を得た今、安積庄を田村の生命線として、何とか確保したいと思うておりまする。安積とて岩瀬と同じような状況、『安積における伊東』とは申してはいても、安積庄の全部を領有している訳ではござりませぬ。取るなら今が、潮期でございましょう」 隆顕は、無言のうちに義顕の同意を求めた。「うむ・・・。そもそも伊東家は、昔の奥州平泉の戦功で、この地に領地を得た伊豆出身の名家ではあるが、その力はとみに衰えておる。確かに今が、潮時であろう。それに今なら、戦わずして得られるやも知れぬ」「さように、隆顕も思いまする」「うむ・・・。さすれば問題は、伊達殿じゃな。すでに会津芦名が我が方の安積、岩瀬、白河への進駐を認めている今、伊達殿さえ納得させられれば、周囲の奴ばらは、黙していよう。幸い伊達の稙宗殿はその方の舅殿ゆえ、出来ぬ相談でもあるまい。しかし、この談合は隆顕! 使者は立てずに、その方が直接すべきじゃな」 隆顕は、稙宗の外孫にあたる清顕を連れると、伊達庄の西山城を訪れた。稙宗は喜んで迎えてくれた。伊達庄は、伊達氏創生の地であった。「おう、清顕。しばらく見ぬうちに、大きゅうなられたのう。幾つになられた?」「はい、十二才になりました」「ほお・・・。十二才か。背の高さも、もう少しで親父殿と同じになるのう」「身体ばかりは大きゅうなり申しましたが、まだまだ子どもでございまする。しかし一寸先になりまするが、十五才になりましたら、元服をと考えておりまする」「そうか、元服か。それは楽しみじゃ。その時はわしも祝いに駆けつけねばなるまいて」 そう言うと皆が笑った。 清顕は、神妙な顔をして聞いていた。「ところで安積の件でお願いの儀が・・・」そう隆顕が切り出すと、笑いながら稙宗が尋ねた。「わしもそれかと思うておった。ところで婿殿はどう考えておるのかの?」「はい。安積庄は、三春の喉もとでございまする。そのためここを、田村の生命線として是非押さえておきたいと考えておりまする」「うむ・・・。理由はそれだけか?」「いや、それもありまするが・・・。ご存知の通り、我が田村は、すでに岩瀬より白河までの仙道を確保しておりまする。ここで田村が安積庄を得ますれば、安積から白河までの仙道が確保出来ることになりまする。さすれば、すでに舅殿が、陸奥の黒川(宮城県)より安積の北の安達まで確保なされておられますので、舅殿と我らの力で、黒川より白河までが安定いたすことになりまする」 隆顕は、懸命に説得した。「そうじゃな。伊達家にとっての安積庄は、田村家との中間地帯。婿殿が押さえてくれるなら、かえって安心。なお息子の晴宗とも相談の上、ご返事を致そう」 稙宗の返事は、心地良いものであった。 一方、隆顕の帰った後の西山城では、伊達晴宗が父の稙宗とが口論をしていた。「父上。何も田村の隆顕ごときが安積に手を伸ばすのを、黙って見ている手はありますまい。父上が隆顕に、『安積の庄は、伊達の領分とする』と申さば、それだけで引っ込みましょうに」「晴宗。そう自分の力を、過信してはならぬ。誰がどう動くか分からぬのが今の世の中。それには、まず我が方の力を蓄えておかねばならぬ。隆顕が『安積の庄を、田村の領分としたい』と言うなら、それはそれでも、良いではないか。田村は伊達に仇をなさぬから、我が伊達の領土と同じではないか。必死で守ろうとする田村に安積をまかせれば、確実に確保しよう。その間に伊達は、会津との対応を考えればよい。隆顕のあの意気込みなれば、勝つは必定・・・」「いや父上! 父上がいづれ会津攻めまで考えるならば、なおさらのこと。、伊達や安達庄より、戦略的には、安積庄の方が優位でござる。それ故にこそ、なおさら我が手で、押さえるべきでござろう」 晴宗は、頑として引かなかった。「待て待て晴宗。その理屈、わしにも分からぬ訳でもない。しかし強敵を前に、田村との内輪もめをすべきでない。それに我が伊達勢が安積の庄に撃って出れば、それだけで会津の芦名は身構えようぞ。芦名と和を結んでいる田村に安積の庄を任せておけば、芦名とて、そこまでは動くまい」「しかし父上。安積の伊東が私の元に使いをよこし、田村の安積駐留軍退去の援助要請をしてきておりまする」「何と! わしはそれを、聞いてはおらぬ!」 稙宗の声が、荒くなった。 「安積の領主、伊東の依頼による派兵とあらば、義が我にあることは、明白。それに戦っても、相手は田村。会津の芦名といいども、干渉は出来ますまい。安積に出兵し、我が伊達の領分と致しまする」 晴宗の声も、大きくなった。「待て晴宗。『会津は干渉すまい』と言うが、それはお主の勝手な推論。そうされたら、会津の芦名はどう出る。わしの言葉を楯にして、安積に派兵している隆顕とて、このままおとなしくしているかどうか、分かるまい。それに肝心の安積の伊東が、田村をうとましく思ったように、伊達についても、そう思うようになるかも知れぬ。その辺も考えぬと、難しいことになろう」 稙宗は、諭すかのように声を和らげた。「そんなことを申しておったら、折角の機会を失いまする。今こそが安積庄に入る絶好の機会。そんなことは、入ってしまってから考えても、ようござらぬか」「それが浅知恵と申すもの。わしは、許さん」 稙宗の声が、また大きくなった。「許すも許さぬもござらぬ! これは、私が伊東とも約束をしてしまったもの。伊達の信義としても、出兵を致しまする」「信義を申さば、わしと隆顕との約束はどうなる! わしの信義は、どうなる!」「そうは言っても、父上とて隆顕に確約した訳でもありますまい! 私は、伊達家を思うての行動にござる。」「何を言うか! わしが、伊達を思わぬ、とでも言うのか!」 それらの騒ぎを知らずに三春に戻った隆顕は、稙宗との話し合いに沿って、安積庄への駐留を続けた。これにより田村氏は、安積と岩瀬の庄の半分を確保したことになった。 しかしこのことは、伊東氏にとっては、不満であった。だいたい自分の領地に他人が入って指示するのだから、当然であった。しかし領分に入っている田村勢を、追い返すほどの力量もなく、さりとてそれを認めることは、自己の勢力の喪失を周囲に見せることになる。伊東氏としては、何らかの対応策を打ち出す、必要があった。 ついに晴宗勢が、この伊東氏の意に沿い、父の意に反して安積庄に入った。そのため田村の安積駐留軍は、義兄弟に当たる晴宗の派兵に困り果て、戦闘もならず、不本意ながら三春へ引き上げた。「伊達の親子の不仲にも、困ったものですな」隆顕は、義顕にこぼした。「全く・・・、伊達の岳父殿がああ言っていたにも拘らず、こんなことになるとは、夢にも思わなんだ」 田村氏は、せっかくの安積を失ってしまったのである。しかしこうなっても、会津の芦名氏は、すぐには反応しなかった。伊達氏の出方を窺っていたのである。
2007.11.10
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策 戦 父の隆顕は、戦いのため城を空けることが多くなっていた。お城下も、戦死者の供養そして戦傷者の介護と、慌ただしさを増していた。 その後も祖父の義顕は、子どもたちの教師となって、その都度町の様子や現下の情勢を、教えていた。「今度の戦さは、古河公方の足利政氏に乞われた白河・磐城・常陸の連軍が、宇都宮を攻めたのが始まりじゃ。そこを父の政氏に反旗を翻した足利高基の依頼に応じて、伊達と会津の勢が、この連軍と戦っておる。田村家は、この伊達・会津の側に味方をした。磐城がまた昔のように、我が領土の小野新町を窺うておるしのう。主旨はともかく、この岩城氏の横暴を、そのままにしておく訳には参らぬ。白河の小峰氏は、我が家と遠戚ではあるが、今、とと様は、白河で小峰氏と戦うておる。岩城氏が主力を、白河から宇都宮に向けておるので、その背後から討っておるのじゃ」「昨年の戦いが今年にもつれ込んでおったが、とと様は白河を陥としたぞ! その上で白河領の二十一郷、白河の東にある石川領の六十六郷を奪った上で、和議血誓を結んだ。さらにとと様は、安積庄(現在の郡山市全域)とその南の岩瀬庄に、お味方でもある会津の芦名氏と約を結び、田村勢を進駐させた。安積と岩瀬、そして石川、白河まで我が旗下に入ったことになる」 その翌年、「今度は会津・伊達・田村の勢が須賀川の二階堂氏を助けて、磐城・白河・常陸の連軍を、白河庄の新城に破った。隆顕もやるのう。わしも一安心、これで田村家も、万々才じゃ」 そう言うと義顕は、相好をくずした。 天文初年、もともと身体の弱かった義顕は、卜西(ぼくさい)を号すると政務から手を引いた。そして、病いのため、床に臥せる日が多くなった。 祖父の長男であった隆顕は田村家の本家を継いで三春の舞鶴城を、次男の憲顕(起雲斉)は船引城に、三男の顕基(梅雪斉)は小野新町城に入った。船引城は、三春より東へ二里ほどの距離があり、田村庄のほぼ中央部に位置していた。 清顕が、九才の時であった。 そのように兄弟で内部を固めた隆顕は、すでに駐留していた地に目を向けた。連軍を組んだため、会津・伊達はもとより、須賀川の二階堂氏とその領地が錯綜していたのである。———この領地に線を敷き、互いの所領を明確にせねば、また新たな紛争の火種になりかねぬ。 そう思った隆顕は、清顕と一緒に病床にあった義顕を見舞いながら、相談をかけた。「じじ様。我が軍が白河の庄まで攻め入って、戦いの終わった今、会津の芦名より、安積、岩瀬、白河の庄にある我が駐留軍に、撤退の要請があるやも知れませぬ。さすれば今のうちに使者を会津に差し向け、これらを我が家の領分として、認知させたく思いまする」「それは結構。されど須賀川には、二階堂氏もいる。二階堂にしてみれば、我らに自分の領分を分割されることにもなる。この抵抗は、大きかろう」 隆顕は腕を組むと、上目使いに父の顔を見た。 義顕が言った。「なにぶんにも会津の芦名は大身。その上、芦名は、田村との国境が西に押されて行くのを、気まずく思うておろう。いま強く出れば、戦いともなる。さすれば、『虻蜂取らず』ともなり得よう」「うーん。二階堂は芦名との談合さえ整えば、黙するものと思いましたが・・・」「うむ。そうかも知れぬが、そうとばかりは決めつけられまい? 先の新城館での戦いでは、二階堂は味方であったからのう」 しばらく、沈黙が続いた。「ここのところは、中庸を探るべきじゃの」 ぽつりと、義顕が言った。「中庸・・・でございまするか? 中庸と申さば、会津との境として、岩瀬庄の松山あたりに線を引くのは如何がでございましょう。岩瀬庄を半分以上西に入りまするが、丁度この辺りがよいかと思われまするが」「うーむ。芦名の出方にもよろうが、須賀川の二階堂はどうする」「しかしじじ様。岩瀬庄は、須賀川の二階堂に、統一されている訳ではございませぬ。現に岩瀬庄の長沼はすでに会津の傘下、松山、横田あたりに須賀川の二階堂の力は、及んでおりませぬ。あとは会津芦名の動き次第でございましょう」「そうじゃな。会津と田村に頭越しで領地が決められる訳じゃから、二階堂とすれば不満もあろう。しかし須賀川周辺を田村と会津で保証致さば、まず反抗には至るまい」 義顕は、大きく頷きながら続けた。「長沼は、会津と岩瀬との国境の勢至堂峠を下った所じゃ。勢至堂峠は山岳が重塁と起伏して、攻撃するには容易でない峠。さすれば会津も、その前面に位置する岩瀬の庄の長沼を、手放すことは難しかろう。いずれ松山は、その長沼を過ぎてやや暫く東に来た所、仙道にも近い。戦中とはいえ、会津芦名は我が軍勢の進駐を認めた、という事実もある。ここまで譲れば、妥協が成るやも知れぬ。ここらあたりが、まあいいところかも知れぬな」(注:仙道。現在の福島県中通り地方の旧称。この地を、関東から奥羽への幹線道路が通っていた)「さようでございましょうな。松山は、会津より仙道に至る要衝でございますれば、会津芦名はこの地に、執着すると思われまする。従って松山を芦名に渡すということが、落とし所かも知れませぬ」 清顕は、黙って祖父と父の話を聞きながら考えていた。祖父と父は、こういう話を教育の場として、利用していた。以後清顕は、重要な話には必ず参加させられた。———力が弱いということは、切ないことなんだ・・・。 清顕は世の厳しさを、つくづく思っていた。
2007.11.09
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「そうじゃ。今から四十年も前、ひいじいの時代じゃった。我が領地の小野新町城と蚊又(神俣)城が、東の磐城勢に奪われてしまったことがあった。小野新町城は、三春から六里ほど南東に行った所にあり、蚊又城はその手前に一里ほど戻った所にあったのじゃ。その上、勢いづいた磐城勢は、木目沢館と大越城を攻めてきたのじゃ。木目沢館も大越城も、三春から、たった三里ほどしか離れておらぬ所じゃった」「うわぁ 大変じゃぁ・・・」 二人は拳を作ると、身を乗り出した。「このさし迫った情勢に、ひいじいは白河に援軍を求めた。白河の結城家は、ひいじいの妹の嫁ぎ先だったのじゃ。白河の結城勢は木目沢館に兵を入れて、小野新町城を狙った。そこで、ひいじいは大越城に兵を集めると、蚊又城を奪い返し、白河結城勢ともども小野新町城を攻めたてた。敵は、かなわんと磐城に逃げ帰った」「うーん。良かった」「それから、これは、ずーっと昔のことじゃ。もっともこれは、今も続いておるが」 義顕は、話を続けた。「その昔、、関東公方であった足利持氏が、永享の乱に敗れて自殺してしまった。そのため、関東公方家はなくなってしもうた。しかしその後、足利持氏の末子の足利成氏が迎えられて関東公方家を再興したのじゃ。 ところが新公方になった足利成氏は、上杉憲忠を自分の父の足利持氏を殺した上杉憲実の子であることを理由にして謀殺した。このため足利成氏は、幕府に追われて鎌倉を逃れ、下総の古河(茨城県)を根拠地となした。つまり、古河公方となったのじゃ」「・・・」。「そこで幕府は、成氏と縁のつながる足利政知を伊豆の堀越に派遣して堀越公方とし、関東の諸将をして、古河公方の足利成氏に対抗させたのじゃ。つまり関東公方は、二つに分立したことになるのう。 ところがその後、古河公方・足利成氏は、幕府と和解したが間もなく亡くなってしまい、その子政氏が後をついだ。一方、堀越公方の足利政知は、伊勢長氏に攻め滅ぼされて殺されてしもうた。つまり、古河公方だけが残ったことになるのう。 ところで、その古河公方を継いだ政氏が、今度はあろうことか上杉氏と組んだため、自分の子の足利高基や義明と不和になり、対立と分離を重ねていたのじゃ。そのために足利高基が、相模の北条氏と同盟を結んだ。こんなことから、今も、足利政氏と足利高基の親子が、相争うておる・・・。分かるかの?」「はい・・・。わ・・分かりまする」「分かりまする・・・」氏顕は、兄の目を窺いながら、小さな声で答えた。「こらっ、氏顕! 何でわしの真似ばかりする! 本当に分かるか!」「これこれ、清顕。大きな声を、出さずともよい。二人とも難しかろうがもう少し聞け、ここが大事なところじゃ。この対立した足利政氏側には磐城・白河が、また足利高基と義明の側には伊達・会津がついて、今やこの地も戦いの寸前じゃ」「それでは、とと様も、戦さに行かれるのでございますか?」 二人は、神妙な顔をしていた。「まあ、慌てるな。ここでもう一つ難しい問題があってのう。 何があったか白河の結城政朝が、一族の有力者の小峰朝脩を攻め殺してしまった。このため結城と小峰の両家は、対立してしもうた。 朝脩の父の小峰直常は、その報復として、政朝を攻め破ってしまった。白河を逃げ出した政朝は、自分の息子の那須資永(栃木県那須町)の下に逃れたがここで死んでしもうた。どちらがどう悪かったかは分からぬが、結城氏を破って小峰氏に乗っ取られた白河は、もはや我が家と、親戚とは言い難くなった。その上に、幕府は伊達稙宗を、陸奥守護職として任じた。ここが思案のしどころよ」「・・・」「ははは。お前たちには、少し難しかったかのう。まあその内に、分かるようになろう」舞鶴城二の丸跡 「じじ様。ありがとうございました」 いささか難しい話に飽いてきた清顕は、ピョコンと頭を下げると、「氏顕! 行くぞ!」と声をかけた。「おう!」 右腕を突き上げて応じた氏顕と清顕の二人は、母が用意してくれていた菓子をむんずと掴むと、外へ飛び出して行った。義顕は、「これこれ・・・」と声をかけたが、———家の中を、走るな。という後の言葉を、思わず飲み込んだ。外ではまた、子どもたちの歓声と走り回る音が、していた。———子どもとは、元気なものじゃ。もはやわしでは、身体の方がいうことを聞いてくれぬわ。 義顕は、思わず苦笑した。
2007.11.08
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三 春 挽 歌 ~ 舞鶴城落日 2001年8月刊行 石橋印刷 売切れ 昔 話 午後の物憂いような時間、舞鶴城の庭に子どもたちの歓声が上がり、走り回る音がしていた。なにやら、祖父の田村義顕(よしあき)の声も聞こえる。「元気がいいのう。また戦さごっこでもしているのか。じじ様も、疲れを起こさねば良いが」 父の田村隆顕(たかあき)は思わず書きかけの書簡の筆を止めると、傍らで幼い三男の重顕(しげあき)をあやしていた妻を見ながら、そうつぶやいた。「そうでございますね。何かおやつでも用意してあげましょう」 そう言うと、妻は重顕を抱き、部屋の外へ静かに出て行った。 彼の長男の清顕(きよあき)は五才、次男の氏顕(うじあき)は三才になっていた。時代は、戦国時代の後期である。この戦国時代の初期の永正元(一五〇四)年、曾祖父の田村盛顕(もりあき)は三春に城を構え、臥牛舞鶴城と称していた。平地の守山城から、防御に有利なこの山地に、居を変えたのである。 田村義顕は、過ぐる日の戦いで重傷を負い、それが原因で病弱であった。そのため早くからこの地方での戦いには子の隆顕がたずさわり、義顕は城にあって策を謀り、孫たちを可愛がっていた。 外では、子どもたちがしばらく遊び回っていたような音がしていたが、やがて静かになってきた。———今度は、じじ様の部屋に行ったか。 隆顕はそう思った。 その清顕と氏顕は、祖父の前に神妙に座っていた。「今日はのう、じじが面白い話を聞かせてやろう」 二人は、目を輝かせた。「ところでお前たちは、この城の名を知っておるか?」子どもたちは、間髪を入れずに答えた。「舞鶴城!」「そうじゃ、舞鶴城じゃ。この名は昔、お前たちのひいじいの盛顕様が楼内にある四十八館を絵図面に落としたところ、鶴の舞う形となったことからそう付けたのじゃ。いい名であろうが」「うん」「うん」ではない、「はい」と申せ。いつも教えているではないか」「はい」「我が家系は、坂上田村麻呂公がご先祖じゃ。その田村麻呂公が、悪者退治のため京の都よりこの地に入られた」「じじ様、その折り田村麻呂公が、この近くの大滝根山に住んで悪さをしていた鬼共を退治した話、知っておりまする」 清顕が言うと、「氏顕も知っておりまする」と口を尖らせた。「そうか、二人とも知っておったか。ところで阿武隈川は知っておるのう?」「はい。知っておりまする」「あの川は、その昔、大熊川と言った」「・・・」「あの川を大きな熊に乗って、坂上苅田麻呂という方が(郡山市田村町)徳定に渡って来られたので、その名がついた。そこで苅田麻呂公は、阿口陀媛(あくたひめ)と契りを交わされた。 ところが苅田麻呂公が京の都に帰られて間もなく、阿口陀媛が徳定の室家山童生寺で男の子を生んだのじゃ。そのためこの女の母は困ってしまって、赤子を田の畦に捨てさせたのじゃ。するとそこへ鶴が飛んで来て赤子を拾い、自分の巣に連れて帰って育てたのじゃ。それを知った村の人々は驚き、阿口陀媛に赤子を戻して育てさせたのじゃ。その子は、鶴子丸と名付けられた。鶴子丸は十才の頃母に父のことを尋ね、しるしの品を携えて、京都に上った。 鶴子丸が苅田麻呂公の邸前に至った時、外れ矢が飛んできた。鶴子丸は、持っていた自分の矢を投げ返すと、矢音高く飛び上がり、邸内にいた苅田麻呂公の前に突き刺さった。怪しんで表を尋ねさせ、そこにいた小童を見て訳を問うて、はじめて自分のお子であることを知った。それからは、生地にちなんで田村麻呂と名付けられ、父のもとで育った。 やがて成人した田村麻呂公は、征夷大将軍として、この地に戻って来られた。ところで、お前たちは知っておるかのう。この三春のずーと南に、鶴石山という山があるのを」「それは・・・・、知りませぬ」 清顕が言うと、「氏顕も知りませぬ」と兄の言葉に安心したかのように、繰り返した。「そうか。その山は下枝村の久保館の近くにある。赤子を拾った鶴は、その山の頂上に逃げて行った。やがてその鶴は、石になってしまったのじゃ。そのために、その山には鶴石山という名が付き、頂上には、鶴石という石が残っておる。それゆえ三春居住の面々は、誰も鶴の包丁(料理)をすることは出来ぬ。もし恐れずこれを行えば、必ず崇りがあると言われている。二人とも注意致せ」「はい」「くどいようじゃが、田村麻呂公はわが家のご先祖様じゃ。ひいじいは、この話からここを舞鶴城と名付けられた。我が家にはこの舞鶴城の他に、田村、安積、安達の庄に、多くの城や館がある。俗に、田村四十八館と申してのう。それらはこの舞鶴城の守り、この舞鶴城の出城じゃ。田村の家名を、城の名を大事に、心がけよ!」「はい」「いずれ清顕は、舞鶴城の城主となる身。氏顕は兄者の家来となって、田村家をもり立てるのじゃ。分かったな」「はい」 今度は、氏顕が答えた。さらに義顕は、話を続けた。
2007.11.02
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