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先週末、「能力主義」とクラシック音楽の関係について考えたことをブログに書きましたが、その際に亭主の脳裏に浮かんできたのが表題のことです。日本のクラシック音楽界は、長年にわたり演奏能力に係る階層的なピラミッド構造を維持してきました。そこでは「ミスをしない技術」や「コンクールでの入賞歴」といった客観的(?)指標、そして東京藝術大学をはじめとするエリート音楽教育機関における揺るぎない能力主義が芸術音楽の物差しとして今でも君臨しているように見えます。一方で、この能力主義は本当にクラシック音楽の価値を体現しているのか、あるいは近代以降の歴史的・社会的な産物として作り上げられた、ひとつの「呪縛」ではないのか、という疑問も湧いてきます。これを考える上でヒントになると思われるのが、晩年に突如として大ブームを巻き起こしたフジコ・ヘミングというピアニストの存在です。もうだいぶ昔になりますが、1999年にNHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ~あるピアニストの軌跡~」が放映されると大反響を呼び、いわゆる「フジコブーム」が起きました。その後発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は、発売後3ヶ月で30万枚のセールスを記録(日本のクラシック界では異例の大ヒット)。その後も2024年になくなるまで、彼女の様子はおりに触れてメディアで取り上げられていたことはいまだ記憶に新しいところです。彼女は東京藝大に在学し、著名な海外の巨匠にも師事した経歴を持つ一方で、主要な国際コンクールでの優勝経験や、いわゆる「プロの演奏家」としての輝かしいキャリアの階段を上ってきたわけではありません。むしろ、技術的な瑕疵(かし)や独自の解釈を含む彼女の演奏スタイルは、既存のクラシック界の基準からすれば「異端」とも言えます。それにもかかわらず、彼女が晩年になって日本の聴衆、とりわけ普段はクラシックのコンサートに足を運ばない50代〜70代以上の女性を中心とする層から爆発的な支持を得たことは特筆に値するでしょう。この現象をどう捉えるべきか。肯定的な立場に立てば、これはコンクール歴や読譜の正確さという硬直した能力主義の基準に対する、聴衆の側からの「暗黙の異議申し立て」として解釈することもできます。専門家たちが共有する窮屈なエリート主義的価値観の外側で、人々が自らの感性に従って「人間の業や人生の哀切がダイレクトに伝わる音楽」を再発見した稀有な瞬間だったと言えるかもしれません。しかし、否定的な(あるいはより冷徹な)視点に立てば、この現象の本質は「音楽そのものの評価」ではなく、メディアが演出した「波乱万丈な半生・苦難と復活」という強力なナラティブ(物語)の情緒的消費にあったとも言えます。資本主義的な興行システムは、正統な能力主義の階層的ピラミッドのなかで冷遇されていた「規格外の存在」であっても、大衆の感傷的欲求を満たす「コンテンツ」となり得ると見るや、喜んでそれを例外として接ぎ木し、商業的成功に変えてしまいました。ここで見えてくるのは、資本主義的な興行システムと能力主義の密接な相互依存の構造です。興行主やメディアにとって最大の関心事は、突き詰めれば「客が入るか・儲かるか」です。正統的な演奏家であろうと、そうでない例外的な存在であろうと、商業的価値を生み出す限りにおいてシステムに取り込まれます。その一方で、能力主義のピラミッドの底辺や中層で「食うや食わず」の生活を強いられている無数の職業演奏家たちの存在があることも見逃せません(フジコもかつてはそうでした)。音楽学者の渡辺裕は著書『聴衆の誕生』のなかで、彼らが「芸術に殉じている」と表現しましたが、この「芸術」という聖別された言葉の実態こそが、過酷な境遇と自己搾取を正当化する「能力主義の神話」にほかならないのではないか。正統なピラミッドのなかで「自分たちは芸術のために身を捧げている」と信じ込み、低賃金と過酷な競争に耐え続ける若手や中堅の演奏家たちにとって、システムの外部から突如として現れ、技術的評価の網目をくぐり抜けて絶大な人気と富を手にしたフジコ・ヘミングの存在は実にアイロニカルに見えたでしょう。それは能力主義のオルタナティブというよりもむしろ、能力主義のシステムが残酷に人を選別する一方で市場はその気まぐれによってそれをいとも簡単に裏切るという、資本主義の冷徹な本質を可視化する事件だったと言うこともできます。(最近の例で言えば「かてぃん」こと角野隼斗がこれに相当するでしょう。)こうした構造的矛盾を見据えたとき、日本の音楽大学やプロオーケストラといった「訓練と選別のインフラ」はこのままでよいのか、という疑問が湧いてきます。本来、大学/大学院という教育機関が果たすべき高等教育の理念は、「すぐに役には立たないが、自ら考えて行動する能力を身につけさせること」にあるはず。しかし、日本の音大(特に名門とされる東京藝大など)の実態は、名目上の「芸術・学術の研究・教育機関」という建前の裏で、属人的な師弟関係に基づく極めて閉鎖的な「演奏技能の訓練所」として機能してきました。大内隆夫氏の『音大崩壊』などが詳細に指摘しているように、そこでは社会に出てから自立して生きるための汎用的な能力や、音楽を仕事としてサバイブするためのビジネス的・マネジメント的な教育(すなわち「職能訓練」)はほとんどなされてきませんでした。結果として、「よい演奏をしていればいつか誰かが見出してくれる」というロマンティックな能力主義の神話に依存したまま、市場の需要や社会の構造から遊離した「職人崩れ」が大量生産される構造が温存されてきた、というわけです。もし音楽家を育てる機関が、世間知らずの「純粋無垢な芸術の僕(しもべ)」を育てる場ではなく、大衆の欲望や社会の構造を自覚的にハックし、自らの表現を社会に流通させるプロデュース能力を持った表現者を育てる場所であったなら——あるいは、極論を言えば吉本興業のような「芸人」としてのサバイバル能力や興行のメカニズムを学べる養成機構がクラシック界にも存在していたなら、日本のクラシック音楽の風景はまったく異なるものになっていたかもしれません。残念ながら、クラシック音楽界における「音楽事務所」はそのような意味での「プロの音楽家養成」の機能を持っておらず、「芸術家」志望の演奏家を即戦力としてプロモートするだけのもの。音大もそのような機能を果たせない以上、この業界にも吉本興業のようなプロの芸人養成システムが是非とも必要ではないかという気がします。フジコ・ヘミングという現象や、それに伴う一連の議論は、単なる一人のピアニストの特殊な成功譚にとどまりません。それは、明治期以降の日本が西洋から輸入し、高度に制度化してきたクラシック音楽における能力主義と、それに対する興行システムの「過剰適応」を鏡のように映し出していると言えます。「芸術」という聖域の背後で隠蔽されてきたある種の労働の搾取、芸術至上(エリート)主義的な音楽教育機関がはらむ構造的な問題、あるいはその対極としての市場原理による物語の消費。これらを直視することなしに、これからの時代における音楽と社会の健全な関係性を築くのは容易なことではないでしょう。世間はとっくに「クラシック音楽といえども能力主義ピラミッドの頂点にある演奏家たちだけがその価値を担っているわけはない」と気づいています。クラシック音楽が「普通の職業」になるためにも、関係者はそろそろ「クラシック音楽とは誰のためのものであり、そこでの表現とは何のためにあるのか」という、より根本的な問いに向き合う必要があるのではないでしょうか。
2026年09月06日
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最近、「清水幾太郎の覇権と忘却 - メディアと知識人」(竹内洋、中公文庫、2018)を読む機会があり、いろいろなことを考えさせられました。本書の主題は、戦後しばらくの間「論壇のスター」だった社会学者・思想家、清水幾太郎(1907-1988)が、1960年代(大学紛争が収束する頃)を境に政治的な立場を大きく変えていくにつれて急速に人気を失い忘れ去られていった理由を深掘りし、いわゆる「知識人」とメディア(の向こうにいる「大衆」)との関係を明らかにしようというものです。著者の竹内洋氏は教育社会学者で、明治以来の日本の教育制度やそこから生まれた教養主義・学歴至上主義・立身出世主義に焦点を当て、特に高等教育制度の頂点をなす大学の教員や学生が何を考え、どう行動したかを歴史的に分析することで日本の政治や社会が持つ構造問題に鋭く切り込んでいます(このブログでも既に彼の著作をいくつかご紹介しました)。そのような彼の著作に通底するテーマが近代的な価値観としての「能力主義(メリトクラシー)」です。これは前述の色々な「〇〇主義」全体を一言で表す思想でもあります。本書を読むと、たとえば音楽や造形芸術における「芸術至上主義」も、その変種の一つと気付かされます。なぜなら「崇高な美」といった美学的価値は、それを「知的に鑑賞・評価できる(批評する)能力」、あるいはそのような「鑑賞に値する作品を制作(演奏)する能力」と表裏一体だからです。音楽の世界にメリトクラシーが「芸術音楽(=真面目な音楽)」という概念とセットで持ちこまれた結果生まれたのがクラシック音楽、ということもできるでしょう。我々は、普段の生活の中で能力主義を露わに意識することは稀です。が、この思想は近代社会において「市場原理+資本主義=ビジネス」の基本原理となることで、ヒトが抱くあらゆる種類の欲望の最も強力な駆動装置として機能してきました。(この視点から眺めれば、「真面目な音楽」という考え方は、クラシック音楽が「ビジネス」になるために必須だったと見ることもできます。)もちろん、身分や家柄といった封建的・前近代的な束縛を打破し、誰でも努力と才能次第で経済的・社会的な成功を掴み取ることができるという能力主義の原則は、個人の自由と社会の流動性を飛躍的に高めるという利点がありました。しかし、これによって社会にもたらされた「豊かさ」の影で、封建時代とは別種の深刻な差別や歪みが蓄積されてきたこともまた事実です。(その矛盾が極限にまで高まって爆発したのが先の2つの世界大戦だったとも言えます。)つまり、能力主義こそは、このところ危惧される「戦前的な世相」の原因である巨大な経済的・社会的格差の根本にある思想ではないか。というわけで、この機会に改めて能力主義の歴史を振り返り、我々に染み付いているこの思想の功罪とそれをどう乗り越えていくべきかについて考えてみることに。時代を遡れば、能力主義は北米ヨーロッパをモデルとした明治以降の日本社会において教養主義、さらに世俗的な修養主義や立身出世主義と固く結びつきながら浸透していきました。たとえば、話の発端である清水幾太郎についても、戦中・戦後の論壇で圧倒的な覇権を誇ったメディア知識人である彼の軌跡をたどるとその構造が鮮やかに見えてきます。清水は東京の下町出身ながら、東京帝国大学という当時最高峰のエリートコースを歩み、その高い知的能力と教養を武器に、大衆メディアへ積極的に進出しました。彼にとっての教養や社会科学の知見は、本来は限られた特権階級のものであった高踏的な知識を、戦後民主主義の文脈の中で大衆にわかりやすく還元・啓蒙するための強力なツールでした。しかしその背後には、「自分こそが最も優秀でラジカルな知性として大衆を導かねばならない」という強烈な能力主義的エリート意識、一方で山の手出身者が占めるアカデミズムの正系から外れることへの焦燥感やコンプレックスが潜んでいました。彼が晩年に至り、時代の激しい変化の中で過激な極論へと走って孤立し、急速に忘却されていった背景には、能力主義の階段を登り詰めたエリートが大衆メディアという空間の論理に呑み込まれていく典型的なドラマがありました。同じ構図は、日本におけるクラシック音楽の受容の歴史にも色濃く刻まれています。昭和の時代、クラシック音楽界における吉田秀和らの音楽評論は、文学や思想における論壇の知識人たちの振る舞いと完全に共鳴していました。「大作曲家」や「永遠の名盤」の解釈を巡る言説は、西洋の高度な文化を吸収し、自らを高めていくための「教養主義的メリトクラシー」そのものでした。そこでは、音楽を深く理解し、正しく鑑賞することが人間の精神的向上や社会的ステータスに直結するという目的意識が支配していました。音楽は、人格を陶冶し、立派な近代的主体を作り上げるための「教育的・道徳的な手段」というわけです。しかし、昭和の終わりから平成、令和へと時代が下るにつれて、こうした教養主義や芸術至上主義は次第にその求心力を失っていきました。音楽学者の渡辺裕氏が『聴衆の誕生』で描き出したように、デジタル技術の普及やメディアの多層化によって、絶対的な権威を持つ「名盤」や「巨匠」の神話は解体され、音楽は多様な消費文化やサブカルチャーへと変質していきました。このクラシック音楽の「オタク化」や「サブカル化」は、ある意味において、かつて音楽が背負い込まされていた「何かの目的のために聴かねばならない」という重苦しい呪縛からの解放を意味していました。「これを聴けば教養がつく」「人間が陶冶される」といった外発的な目的から切り離され、個人のマニアックな偏愛や純粋なフェティシズムの対象として音楽を愛でる態度は、たとえば中島敦の『山月記』の主人公・李徴がエリートとしての高い目的意識=詩人としての成功の重圧に押しつぶされて虎へと変貌した悲劇とは対照的に、芸術が本来持っている「目的からの解放」、娯楽の王としての姿を鮮やかに復権させたと言うことができます。このように、個人の内面や文化の受容において教養主義的な枠組みが解体されていく一方で、社会全体の構造としての「メリトクラシー」は、資本主義経済の中で依然として強固な枠組みとして我々の価値観を縛り続けています。「成功したのは自分の能力と努力の結果であり、失敗したのも自己責任である」という「新自由主義」の論理は、社会のあらゆる場面で格差を正当化し、現代のさまざまな社会問題や生きづらさの根源となっています。さらに、メリトクラシーは近年叫ばれている「多様性・公平性・包括性(DEI)」の理念に対しても高い障壁として立ちふさがっています。純粋な能力主義を信奉する組織ほど、無意識の偏見や同質性バイアスを隠蔽しやすく、「能力があるから今のポジションにいる」という思い込みが、多様な背景を持つ人々の参入を阻む原因となっているからです。かつて戦後の一時期、日本ではこうしたメリトクラシーの弊害に対抗する形で「結果の平等」が強力に志向された時期もありました。(当時の状況は庄司薫の小説「薫くん4部作」にも活写されています。)しかしそれは個人のインセンティブを抑圧し、システムを硬直化させたことで結果としてうまくいかず、社会はふたたび能力主義のレールの上に戻らざるを得ませんでした(この揺り戻しによって社会主義的な再分配政策が過度に否定されることにもなりました)。では、結果の平等への回帰でもなく、かといって野放図なメリトクラシーの専制でもない第3の道はどこにあるのか。亭主の答えは単純で、必要なのは「能力主義の果実が広く社会に還元されるような仕組みを作ること」です。が、問題はそれがどんなものであるべきかです。たとえば「累進課税」はそのような仕組みの典型ですが、これがあまりうまくいかないことは既に実証済み。その最大の理由は、払った税金の使途が自分で決められないからです。たとえば音楽ビジネスで稼いだ「有能な」音楽家がその富を再分配する気持ちがあるとすれば、やはり音楽の世界でそうしたいと願うでしょう。むしろ、それ以前の問題として、能力主義で上位に立つような人々に、そのような再配分という「行動」へのインセンティブを持たる必要があります。ヒトの行動を支配しているのが感情(=速い思考)であることを考えれば、彼らにそのような行動を促す感情を掻き立てることが問題解決への鍵となります。この点で知恵を授けてくれるのが行動経済学です。ここで、問題の根本的な解決のためには、能力主義の成功者という、いわば一握りの人たちに働きかけるのではなく、彼らが依って立つところの「評価システム」全体を改造する必要があります。音楽の世界で言えば、「職業音楽家(プロ)」の教育・養成から始まって選抜課程での評価の仕方、さらには興行の仕組みにわたってDEIや「社会還元」の考え方を浸透させることが必要になるでしょう。プロスペクト理論によれば、人間は利益を得る喜びよりも損失を被る痛みを強く恐れる傾向があるため、DEIの推進を「誰かの特権を奪うゼロサムゲーム」として提示するのではなく、「同質性による組織の致命的な判断ミスや機会損失を回避するためのリスクヘッジ」としてリフレーミングすることが極めて重要になります。さらに、個人の成果の背後にある「偶然の巡り合わせや環境(運)」の存在を可視化し、評価のプロセスを極めて透明にすることで、「能力さえあればすべてが報われる」という傲慢さを和らげ、認知的謙虚さを組織文化に根付かせることができます。クラシック音楽の世界においては、聴衆の側では教養の鎧を脱ぎ捨てて純粋な娯楽の自由を取り戻しつつある一方で、職業音楽家の間では依然として強固な能力主義とそれに基づく芸術至上主義・権威主義が支配しているように見えることが問題です。(この点だけで言えば、「コンクールなんか消えてなくなればいい」というピアニスト、アンドラーシュ・シフの直言にも共感するところがあります。)我々の社会システムや価値観もまた、能力主義を「人間の序列化と支配の道具」としてではなく、もっとしなやかに多様な個性を活かすための道具へと構造変革していく必要があります。競争の原理そのものを全否定するのではなく、その毒を注意深く中和しながら、誰もが生きやすい寛容な空間をデザインしていくこと。それこそが、我々が近代の遺産を引き受けながら未来へ向かうために残された、最も重要で現実的な課題であると言えるでしょう。
2026年08月30日
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イタリアのピアニスト、マリア・ティーポ(Maria Tipo)が昨年(2025年)2月に亡くなったことを最近になって知りました。ティーポのことを亭主が初めて知ったのは3年前(2023年)、ネットラジオの古楽専門チャンネルで偶然流れていたドメニコ・スカルラッティのソナタの演奏を耳にする機会があったからでした。一聴してその素晴らしい演奏に釘付けになり、通販サイトで古い音盤を探し回ってようやく手に入れたことが思い出されます(このブログでもご紹介)。とはいえ、その後すっかりご無沙汰していた上に、日本のメディアでは彼女の訃報が全く伝わらなかったこともあり、最近になって偶然にもHMVのオンラインショプで、今年2月にティーポの没後1周年を記念して彼女のエラートでの録音24枚をまとめたCDボックスが発売されていたことを知ったことで、ようやく事態を把握することに。同じく昨年の6月に亡くなったアルフレッド・ブレンデル(ティーポと同じ1931年生まれ)の訃報が日本でも広く共有された(亭主もすぐに反応)のとは対照的ですが、それもそのはずで、ティーポは北米ヨーロッパを主な活動の場としていた上に、1990年代以降は教育者としての仕事が中心になり、コンサートや録音をあまり行わなくなったようです。来日する機会もなかった模様で、日本のクラシック音楽界にはほとんど縁がなかったことがその知名度に響いているようです。いずれにせよ、スカルラッティの演奏を聴いて以来彼女のことが気になっていた亭主、早速HMV経由で首尾よく件のCDボックスをゲット。その後ネット上で色々と調べたところ、彼女の現役時代にはバッハの演奏や録音でも高い評価を受けていた、ということで、早速パルティータを入れた音盤を回してみたところ、これが意外と亭主の好みに合わず。その後しばらく放置していたのですが、最近になってムツィオ・クレメンティ(1752-1832)のソナタを聴いてみたところ実に目の覚めるような演奏で、亭主のクレメンティに対する固定観念のようなものが一掃されました。その印象を一言で言えば、初期から中期のベートーヴェンのソナタを彷彿とさせるスポーティで溌剌とした音楽。調べたところ、ベートーヴェンはクレメンティとは面識があり、彼の音楽を高く評価する発言も伝わっているとか。(逆にクレメンティはベートーヴェン作品のロンドンでの出版を手掛けるなど、彼もベートーヴェンに注目していたことがわかります。)考えてみると、日本でクレメンティといえば音楽教育の教材であるソナチネ・アルバムや「グラドゥス・アド・パルナッスム」の一部分を集めた「指体操本」でしか知られておらず、彼の音楽の全体像を知る人も限られると思われます。(モーツァルトはウィーンの宮廷でクレメンティと鍵盤の腕比べをさせられたことがあるようで、その時の様子を父親に書き送った際に彼を酷評していたとか。この二人の音楽の方向性がまるで違うことを考えれば、こういう評価は当然ともいえますが、モーツァルト好きの日本人はこれを知って食わず嫌いになったのかもしれません。)ティーポのCDボックスでは、クレメンティのソナタを入れた音盤が10枚と大部を占めており、主要な作品をほぼ網羅しているようです。実際、彼女がクレメンティの作品を価値あるものとして再び世に出したいと情熱を傾けたことがライナーノートにも書かれており、これらは彼女のライフワークとなったと言えそうです。もちろんその背景には、同じイタリア人としてクレメンティという「自国の音楽」への愛着や矜持もあったでしょう。ちなみに、ウィキペディアによれば、クレメンティの鍵盤作品の全曲がCD化されたのは1990年代で、ピエトロ・スパーダによる演奏だそうですが、調べてみるとこれらの音盤も現在では入手困難な模様。その点でもこのCDボックスは大変貴重な音源と言えます。それにしても、クラシック音楽の業界ではそもそもイタリア人の鍵盤奏者が少ないのが気になりるところ(亭主が知っている有名どころはミケランジェリ、ポリーニ、カシオーリぐらい)。やはりイタリアではオペラ・声楽が圧倒的な人気を誇るからでしょうか…
2026年08月23日
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前回のブログで展開した「戦争の真の原因」を説明する分析モデルについて、これをいくつかの具体例に応用することでその有効性を検証してみた結果を以下にご紹介します。1. 米国における「トランプ現象」現代アメリカにおけるトランプ現象は、歴史的なファシズムや先の分析モデルの構図を現代の文脈に最も鮮やかに再現している事例の一つです。グローバル化や産業構造の変化、さらにはインフレなどの経済的困窮によって「取り残された」と感じている白人労働者層(あるいは広く階層的に揺らぐ労働者層)が抱える、生活への不安や社会的な剥奪感は非常に深刻なものです。本来であれば、そうした不満は富の偏在や再配分の不全、あるいは冷徹な経済システムそのものに向けられるべきものです。しかし、トランプ陣営やそれを支えるポピュリズムの政治手腕は、その鬱屈したエネルギーを巧みに回収し、民主党をはじめとするリベラル・エリート層が掲げる「政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)」や多様性推進、移民容認、ジェンダーをめぐる価値観といったアジェンダに対する攻撃へと方向転換させました。これがまさに、現代版の「文化闘争」にほかなりません。ここで巧みなのは、生活苦にあえぐ人々に対して、「あなたたちの生活が苦しいのは、自分勝手なグローバル資本主義や構造的格差のせいだ」と説くのではなく、「伝統的なアメリカの価値観や誇りを傷つける『エリート』や『移民』、『モラルの破壊者たち』のせいだ」という、直感的で分かりやすい敵対軸(すなわち「速い思考」を刺激するストーリー)を提示した点です。例えば、石油産業の労働者に対し「お前達の仕事が奪われるのは地球温暖化による気候変動を説くわけのわからない科学者連中のせいだ」「俺達がそんな邪説を反故にして仕事を取り戻してやる」と語りかけることで、エネルギーにおける構造問題を科学の信頼性という文化闘争にすり替えています。(ここで大事なポイントは、「速い思考」を前にしては科学者の冷静・客観的な分析の言葉は何の意味もなさない、ということです。)これにより、労働者層のやり場ののない怒りやルサンチマンは、経済的・階級的な対立軸から、文化やアイデンティティーをめぐる善悪二元論の争いへと見事にすり替えられます。結果として、トランプ政権自身が必ずしも労働者階級の経済的利益を底上げするわけではない減税や規制緩和の政策を推進していたとしても、「私たちの文化や尊厳を守ってくれる闘士」というイメージが勝り、強固な支持基盤が維持されることになります。このように、経済の歪みに起因する大衆の怨嗟を、文化的・イデオロギー的な対立の火種へと転換して政権を駆動させるという構造は、かつての歴史が示した教訓をそのまま現代の米国において反復しているものと言えます。2. 日本の政治にける穏健リベラル派の凋落と多党化・推し活化日本における近年の政治動向や政党システムの変容も、これまで論じてきた「構造的格差・閉塞感→大衆の感情的マグマ→左右両極や文化闘争への求心力」というメカニズムの枠組みできれいに説明することができます。日本において立憲民主党をはじめとする穏健リベラル政党が、政権交代の受け皿として十分に信頼を獲得しきれず、あるいは支持層の基盤を広げあぐねている背景には、現代の深刻な生活不安や社会の閉塞感に対して「急進的な変革への期待」に応えられていないという構造があります。 長年にわたる経済の停滞(失われた30年?)、実質賃金の低迷、そして非正規雇用の拡大といった「所得の再配分の不全」が続く中、有権者が求めているのは、与野党の差異が見えにくい手堅い「現状維持的・手続き的な野党の論理」ではありません。日々の生活苦や将来への絶望感を根本から打破してくれるような、より急進的で分かりやすいメッセージが求められているためです。そうした中で、既存の政治システムに不満を抱く大衆のマグマは、いくつかの異なる「受け皿」へと分散・噴出しています。右派・ナショナリズム・ポピュリズム的傾向: 伝統的な価値観の強調、あるいはSNS等を通じたルサンチマンの刺激(移民問題や既存メディア批判、あるいは「日本らしさ」の強調など)を掲げる勢力や、新興の保守・右派系政党・グループが、有権者の感情的な受け皿となっています。 左派・ラディカルな変革への志向・既存システムへの不信: 一方で、経済的な格差の拡大に対する強烈な異議申し立てや、既存の政治体制そのものを告発するようなラディカルな主張(一部の左派勢力や新興の抗議型ポピュリズム)へ流れる動きもあります。 これらは、アメリカのトランプ現象やヨーロッパのポピュリズムの台頭と同様に、複雑な経済・社会的構造の歪み(格差と再配分の失敗)に起因するストレスが、より刺激的で分かりやすい「文化闘争」や「アイデンティティの政治」の言語に翻訳されて消費されている現象にほかならないと言えます。(ちなみに、SNSなど「速い思考」と親和性が高い「推し活」選挙などは、ポピュリズム政治の典型とも言えます。)このように日本の政治が多党化し、左右の極がそれぞれの支持を伸ばしたり揺れ動いたりしているのは、有権者の選択肢が増えたという表向きの理由以上に、「社会のベースにある不満や閉塞感を、穏健な主流派の政治システムが十分に吸収・再配分できていない」という病理の表れと見るべきです。結果として、有権者は「速い思考」を刺激してくれる刺激的なフレーズや、自らのルサンチマンを代弁してくれる極端なアジェンダに引き寄せられやすくなります。ここでもまた、「構造的な格差・貧困」という本当の原因が覆い隠され、表層的なイデオロギーやアイデンティティーの対立(あるいは与野党のレッテル貼り)ばかりが先鋭化するという、歴史が繰り返してきたおなじみの罠が、現在の日本政治の足元でも深く進行していると言えるでしょう。3. 中国の「文化大革命」少し歴史を遡れば、戦後の中国で毛沢東が主導した「文化大革命(文革)」(1966-1977)の本質を捉える上でも、「文化闘争」という視点は極めて有効であるように見えます。文革は表面上、古い思想や文化を打ち破るという壮大なイデオロギー運動、すなわち徹底的な「文化闘争」として展開されましたが、その歴史的背景と発動のダイナミクスをたどれば、まさに先ほど論じた「経済的失策に端を発する民衆の怨嗟の回収と政治的権闘争」という構造がそのまま当てはまります。毛沢東は、自ら推進した「大躍進政策」(1958-1959)の深刻な経済的失敗と大飢饉によって数千万人の餓死者を出した責任を問われ、一時は党内の実権を劉少奇や鄧小平ら「実務派・経済合理主義路線」に譲らざるを得ない政治的窮地に立たされました。政権の座から追いやられつつあった毛沢東が、失地回復と権力の奪還のために選んだ手段こそが、鬱屈した不満を抱える若者たち(紅衛兵)を動員し、イデオロギーの熱狂によって既存の官僚機構や体制を根底から突き崩すという劇薬でした。ここで注目すべきは、文革において繰り広げられた「古い思想、古い文化、古い風俗、古い習慣」の打破という闘争が、純粋な思想的・文化的な動機によるものではなく、実質的には生活苦や閉塞感にあえぐ大衆のルサンチマン(怨嗟)を巧みに汲み上げ、それを「資本主義の道を進む実権派」という特定の政治的・イデオロギー的敵に向けさせるための巧妙な装置として機能した点です。経済政策の失敗という「構造的原因」から目を逸らさせ、敵味方を二分するイデオロギーや文化の闘争(プロレタリアート対ブルジョアジー、旧文化対新文化)へと大衆のエネルギーを過激に誘導したという意味において、まさに文革は、政治の危機が「文化闘争」の狂騒によってすり替えられ、大衆の感情が利用し尽くされた歴史的典型例と言えます。4. 古典的な例1:ドイツにおける「ナチズム」ナチス・ドイツが政権を奪取し、世界を未曾有の破局へと導いたメカニズムの本質は、先の分析モデルによって明快に説明できる古典的な例と言えるでしょう。第一次世界大戦の敗北に伴うヴェルサイユ条約によってドイツ課された法外な賠償金(総額1320億金マルク、当時の国家予算の何十年分にも相当)と、それがもたらしたハイパーインフレによる経済的再建の挫折、さらに追い打ちをかけた1929年の世界大恐慌によって、当時のドイツ国民は筆舌に尽くしがたい生活苦と底知れぬ閉塞感に突き落とされました。社会の土台が完全に崩壊し、将来への希望を失った大衆の心には、国家や社会に対する強烈な不満とルサンチマン(怨嗟)が蓄積していきました。ヒットラーとナチスは、まさにその国民の極限的な不満とパニック状態を巧みに利用しました。彼らは、経済危機という深刻な「構造的原因」の責任を巧妙にすり替え、「ドイツが敗北し、苦境に陥ったのは悪しきユダヤ人の陰謀やマルクス主義者のせいである」という極端なイデオロギー、すなわち「アーリア人至上主義」という文化的・民族的な分断の枠組みを持ち込んだのです。失業と生活苦にあえぐ人々にとって、複雑で時間がかかる経済の立て直し策よりも、「自分たちは悪くない、優越なる民族なのだ」という誇りを呼び覚まし、敵と味方を劇的に二分して攻撃の矛先を指し示してくれるナチスの扇動は、行動経済学で言うところの「速い思考」に強烈に訴えかけるものでした。このように、深刻な経済的・構造的危機に直面した大衆の感情のマグマが、文化闘争や民族的アイデンティティーの対立に巧妙に誘導され、ファシズムの扉を開いてしまったという歴史の構図は、まさに先の分析をそのまま裏付ける決定的な実例と言えます。5. 古典的な例2:日本における太平洋戦争の原因日露戦争の講和(ポーツマス条約)から昭和初期の軍部台頭に至る近代日本の政治・経済の歴史的プロセスも、我々がこれまで論じてきた「構造的失策・生活苦 → 大衆の感情的マグマ → 敵対軸・文化闘争へのすり替え」という構図が見事にそのまま当てはまる古典的な例と言えます。太平洋戦争への歴史をこれまで議論してきた枠組みに沿って整理すると、以下のようになります。・経済的疲弊と「得られなかった成果」に対する大衆のルサンチマン日露戦争は辛勝に終わったものの、国家財政は極限まで破綻し、莫大な戦費の借金と増税、そして何より国民が血を流して得たはずの「賠償金が取れなかった」という現実が突きつけられました。戦後の日本経済は(第一次世界大戦の特需による1914-1919年の好景気を除いて)慢性的な不況と深刻な生活苦に喘ぎ、社会の底流には「これだけ犠牲を払ったのに、なぜ自分たちの生活が楽にならないのか」という強烈な不満とルサンチマン(怨嗟)がマグマのように蓄積していきました。・党利党略に終始する政党政治への失望そうした深刻な経済的・社会的危機を前にしながら、当時の政党政治家たちは派閥争いや財閥との癒着、党利党略に明け暮れ、国民の生活不安を救うための有効な再配分や構造改革を打ち出すことができませんでした。この「既存の民主的システム・政党政治が無力である」という絶望感が、大衆や若年エリート層の間に政治体制全体への強い不信感を植え付けました。・共産主義の台頭と「文化・イデオロギー闘争」への転換ロシア革命の成功(1917)以降、資本主義の限界と格差に対するラディカルな処方箋として、日本国内でも労働者層やインテリ・エリート層の間で共産主義・社会主義思想が急速に共感を広げました。 これに対し、国家の支配層(政府・官僚機構)は、経済的・階級的な不平等の原因である資本主義システムの構造的矛盾にメスを入れるのではなく、反共・国体維持を錦の御旗に掲げ、治安維持法(1925〜)の制定をはじめとする徹底的な思想取り締まり、つまり「国家によるイデオロギー的・文化的な統制闘争」へと舵を切りました。・感情を代弁する「軍部」への迎合とファシズムへの道政党政治家が信頼を失い、経済の混迷から抜け出せない中、大衆の不満の矛先は「腐敗したエリートや政党」に向けられました。そこに登場したのが、国家改造や国民生活の救済、そして民族の誇りを声高に叫ぶ「軍部」という存在でした。 日々の生活苦と将来への不安に喘ぐ大衆(速い思考に支配された人々)は、複雑な経済政策や民主主義の手続きよりも、「自分たちの鬱屈した感情を代弁し、国を立て直してくれる強い指導者・軍部」というわかりやすい救済のストーリーに熱狂的に飛びつきました。結果として、政府自身がその軍部の勢力を制御しきれなくなり、最終的には全体主義・ファシズムの泥沼へと引きずり込まれていったのです。 ちなみに、最近テレビドラマや映画に仕立てられて話題になっている「昭和16年夏の敗戦」(猪瀬直樹著、1983)の内容を注意深く眺めていると、実は当の軍部ですらもこの熱狂的な大衆感情を制御しきれなくなっていたことが暗示されています(東條はあの大衆の熱狂を前にして「戦争を降りる」とは口が裂けても言えなかったことが汲み取れます)。自分たち政府・軍部が「落とし所のない」文化闘争を煽った結果、ついには軍部も後に引けなくなったという必然の構図が見て取れます。
2026年08月19日
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今年も8月となり、先の太平洋戦争について考える季節となりました。たまたま先週金曜日のBSフジの「プライムニュース」という番組にチャンネルを合わせたところ、「力の時代…平和憲法の耐用年数は」というお題の下、批評家の浅田彰氏と思想史家の先﨑彰容氏が出演し、明治以降の日本の近代化の歩みや第二次世界大戦の敗戦がもたらした分水嶺について、重層的な議論が交わされてるのを興味深く拝見。(YouTubeでも見れるようです。)そこで語られていた内容、あるいはその議論の背後にある現在の世界情勢の不穏な空気を眺めていると、いまの世相がまるで第二次大戦前の暗いトンネルの入り口に差し掛かっているかのような印象を受けます。世界中で極端な自国第一主義(=ナショナリズム)やそれを笠に着るポピュリズムが台頭し、ロシアや米国の行動を見ればいつどこで大規模な破局が起きてもおかしくない、という危機感が共有されているかのよう。とはいえ、そうした「戦前回帰」の足音が聞こえるとき、我々はその背後にある真の原因をどこに見出すべきなのか。この番組を見ながら少しわかった気がしたので、以下にメモっておくことにします。番組の議論のなかで印象的だったのは、イデオロギーやアイデンティティ(民族・宗教・ジェンダーなど)の対立を軸にした戦争や紛争(番組ではこれを「文化闘争」と呼んでいました)には、妥協点や「落とし所」が見出しにくく、それゆえに問題解決が極めて困難になるという指摘でした。特定のイデオロギー、あるいはアイデンティティというものは、それがひとたび争いの対立軸として選ばれてしまうと、お互いに妥協する余地を奪ってしまいます。それぞれが自らの正当性を当然と思い、相手を誤りとみなす不寛容さにはまり込むため、一度火がつけば後戻りできなくなります。しかし、我々が直視しなければならないのは、このような文化闘争という構図が問題の本質なのだろうかという疑問です。実際のところ、こうした近代以降の深刻な対立や分断の真の原因は、もっと別の場所、すなわち一般大衆の日常生活に巣食う底知れぬ不満や閉塞感という「感情」のマグマにあると考えるべきでしょう。今回のプライムニュースの文脈でも、浅田彰氏が言外あるいは明示的に示唆していたように思われますが、近代社会を突き動かしてきた資本主義の構造が生み出す経済格差、あるいはそれを生み出す「所得の再配分の不全」こそが、すべての党派的な争いの根本原因なのだと思われます。富が一部の層に集中し、大多数の人々が慢性的な生活苦や将来への不安に晒されるとき、社会全体の雰囲気は急速に澱んでいきます。そのとき、人々は日々の生活の苦しさや閉塞感、将来への不安感に耐えかねて、その感情の吐口、あるいはスケープゴートを猛然と探し始めます。ここで人間の心理のメカニズムを思い起こすとき、行動経済学が指摘する「感情=速い思考」と「理屈=遅い思考」の枠組みが鮮やかな説明を与えてくれます。「速い思考」は生物としての人間が生存に有利な性質として進化の過程で身につけたもの。生活苦により自身の生存が脅かされる不安や恐怖という感情が湧き起こったとき、人間は冷静なデータ分析や論理的思考、すなわち時間と労力を要する「遅い思考」を働かせる余裕を失ってしまいます。代わりに、直感的で即断即決を好む「速い思考」が瞬時に起動し、「悪いのはあいつらだ」「この現状をぶっ壊せばいいんだ」というわかりやすい敵意や恨み(ルサンチマン)へと飛びつくようになります。このような大衆の感情をイデオロギーやアイデンティティという文化闘争の旗印の下に回収し、「民主主義」のシステムを巧みに利用しながら特定の政治的アジェンダへと押し込んだ結果生まれるのがファシズム的な政治体制にほかならないわけです。そして歴史を振り返れば、第二次世界大戦に至るまでのヨーロッパや日本においても、深刻な経済不況と格差の拡大が、まさにこの回路を通じて大衆を熱狂的な戦争へと駆り立てたのでした。驚くべきことに、この構図は現代の米国をはじめとする先進諸国でも全く同じように繰り返されています。グローバル化とテクノロジーの進展によって取り残された人々が抱える経済的な不安や劣等感は、トランプ現象に代表されるようなポピュリズムの旋風を生み出し、社会の分断を修復不可能なまでに深めています。そこで利用されるのは、かつてのファシズムと同様に、特定の人種・民族の誇り、宗教的価値観、あるいは独自のアイデンティティーといった、強い感情を引き起こさせる強力な文化闘争の言葉です。つまり、戦争や大規模な社会的対立を引き起こしている表面的な口実として選ばれるのが宗教であり、イデオロギーであり、アイデンティティーなのです。しかし、それはあくまで結果であって原因ではありません。ここにこそ、我々が陥りがちな最大の罠があります。戦争や深刻な対立・紛争が生じたとき、メディアや為政者、あるいは我々自身の眼は、どうしても目の前で燃え盛っている文化闘争の対立軸に釘付けになってしまいます。しかし、そこにばかり注目していると、その背後で確実に進行していた格差の拡大や貧困の深刻化といった「真の原因」(=再配分をめぐる政治闘争の対象)が完全に覆い隠されてしまうのです。問題解決を極めて困難にしている真の理由は、まさにこの「結果を原因と見誤る」という錯覚にあると言っていいでしょう。本来は経済・社会政策で解決すべき政治問題を、相互に妥協点が見出せないイデオロギーの対立(=文化闘争)と誤解し、「対話をしよう」「寛容になろう」と言い募っても何の解決にもならないことは明らか。かつて、経済学者トマ・ピケティは、その膨大な歴史的データの分析を通じて、資本主義システムが野放しにされたままであれば、所得や資産の格差は必然的に拡大し続けるという残酷な事実を暴き出しました。そして、その肥大化した格差をリセットし、富の強制的な再配分をもたらしたのは、皮肉にも破滅的な政治革命や戦争という大災厄にしかなかったわけです。このピケティの洞察は、「ヒトは追い詰められると博打を打つ」、つまり、生存の危機にあってはリスクや損失を最小限にしようという理性が失われ、冷静に見ればわずかしかない「一発大逆転」の可能性(=戦争での勝利)に賭けてしまう、という行動経済学の洞察ともよく合致しています。格差の拡大が極限に達し、民主的なシステムが適正な再配分の機能を失ったとき、社会は自らを維持するために破滅的な戦争という強制リセットボタンを押してしまう誘惑に駆られます。行動経済学が明らかにする人間の心理と構造のダイナミクスを直視することは、戦争の原因を真面目に考える上で極めて有効であり、かつ不可欠な視点だと言えます。我々が「戦前回帰」の気配に怯えているのだとすれば、それは過去の歴史的亡霊が蘇っているからではありません。富の偏在と再配分の不全という、資本主義が孕む根本的な病理がふたたび限界に近づき、それに伴う一般大衆の終わりのない閉塞感や不安という感情の蓄積が、かつてと同じメカニズムで政治を歪め始めているからではないか。宗教やアイデンティティの対立という文化闘争の煙に巻かれることなく、その足元でうごめく経済的・社会的な不平等の実態にメスを入れない限り、我々は近いうちにまた同じ過ちを繰り返すことになるだろうと予見できます。
2026年08月16日
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亭主は「古楽の楽しみ」のインターネット経由でのストリーミング放送を、パソコン上のffmpegというフリーソフトでリアルタイムに受信してmpegファイルとして録音・保存し、後でiTuneに取り込んで聴いています。(いわば「デジタルエアチェック」です。)ところが今週の週明けにパソコンを開けてみると、できているはずのmpegファイルが見当たりません。ネットワークが不調だったのかもと思いましたが、昨日も同様だったので原因を探ったところ、配信用のプレイリストファイル(m3u8)のURLが変更されていることがわかりました。変更前:https://simul.drdi.st.nhk/live/5/joined/audio/media.m3u8変更後:https://simul2.drdi.st.nhk/live/5/joined/audio/media.m3u8(simulの後に”2”が追記されている)昨日上記の変更を加えたシェルスクリプトを仕掛けておいたところ、今朝の放送を無事録音できました(一件落着)。このような変更、実はこれがはじめてではありません。が、今回の事象からは、NHKがどうやらストリーミング配信アドレスを公開しなくなったことが伺えます。今年春からのラジオ3波再編も要因のひとつかも?ちなみにこのデジタルエアチェック用シェルスクリプト、テンプレートとして番組によらず使えますのでついでにその中身を公開しておきます。#!/bin/bash#!date=`date '+%Y-%m-%d-%H_%M'`date=`date '+%m%d'`/opt/homebrew/bin/ffmpeg -loglevel quiet -i 'https://simul2.drdi.st.nhk/live/5/joined/audio/media.m3u8' -y -t 3300 -codec copy "kogaku6${date}.m4a" </dev/null(URLに続く各パラメータの意味はffmpegのマニュアルを参照してください。)これをkogaku.shといった拡張子に"sh"を持つファイルとして格納し、ターミナル上で% source kogaku.shと入力すると、3300秒=55分間のストリーミング録音が始まります。もちろん、「古楽の楽しみ」を録音するために人間が朝5時からパソコンの前に張り付いてターミナルを操作するのはナンセンスなので、cron等で予約した時間にシェルスクリプトを実行するように仕掛けておくのがベストです。以上、お盆休みの暇つぶしにでもお試しあれ。
2026年08月12日
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18世紀のヨーロッパ音楽を語る際、「トルコ趣味(Turquerie)」という言葉は欠かせないキーワードの一つです。モーツァルトの作品で言えば、ピアノ・ソナタ第11番(K.331)の終楽章「トルコ行進曲」や、ヴァイオリン協奏曲第5番のそれ、あるいはオペラ『後宮からの誘拐』などが大変有名です。これらは、当時ウィーンで流行したオスマン帝国の軍楽(メフテル)の「ダ〜ン・ダ〜ン・ダン・ダン・ダン」という打楽器のリズムや、エキゾチックな響きを西洋音楽の枠組みの中に巧みに取り入えたものです。しかし、モーツァルトの音楽をさらに深く味わっていくうちに、そうした表層的なリズムの模倣とはまったく異なる、もっと直接的に旋律のレベルでの異国性に出会うことがあります。たとえば、この週末もハープシコードでピアノ・ソナタ第6番ハ長調 K.309の第1楽章を弾いていたところ、亭主はふと、いわゆるアラブ音階やヒジャーズ音階を強く想起させるようなフレーズに気づいてびっくり。オスマントルコの音楽はアラブ音楽とは系統が異なりますが、同じ西アジアの音楽文化を受け継いでいるという点では縁戚関係にあります。また、そもそも当時の西欧はオーストリア・ハンガリー帝国より東側を「オリエント」、あるいは「インド」として十把一絡げに見ていたので、あらゆる異国風の響きが興味の的だったと想像できます。少し前の世代を見渡せば、ドメニコ・スカルラッティの数々の鍵盤ソナタにおいて、イベリア半島に深く根づいたアラブ(イスラム)文化、すなわち北アフリカをぐるっと回って伝来したアラブの音楽的遺産が、強烈なアクセントや増2度音程を伴って表出する場面に頻繁に遭遇します(詳しくはこちら)。スカルラッティはマドリードの宮廷に仕えるなかで、周囲に息づく異文化の残響を鍵盤の上で極めて直截的に昇華させました。では、モーツァルトの場合はどうでしょうか。彼が若い頃に父レオポルトと共に行ったイタリア旅行、特に当時の「音楽の都」であったナポリへの訪問(1770年ごろ)は、彼の音楽的記憶の底に決定的な刻印を残したはずです。18世紀のナポリは、ヨーロッパ最大級の音楽都市であると同時に、歴史的に地中海貿易やスペイン支配、そしてアラブ・イスラム圏との深い文化的交錯点でした。南イタリアやシチリア一帯には、アラブ(ウマイヤ朝)の統治時代に由来する独特の地中海的歌謡慣習や旋法感覚が人々の歌う民俗音楽の中に息づいており、ナポリ派の音楽家たちもまた、人間の激しい情動や劇的な嘆きを表現するために、あえて規則を歪めるような半音階をオペラなどに持ち込んでいました。ここで音楽理論的な疑問が湧き上がります。西洋の伝統的な音楽理論において、いわゆる旋律短音階では、上行形の導音とその一音下の音の間が増2度にならないよう第6音を半音上げることが厳格に定められていました。これは18世紀以降の調性音楽が、あの独特の増音程を不協和音として忌避したためです。モーツァルトがどれほど天才的であったとしても、彼は徹底的な音楽教育を受けたプロフェッショナルであり、当時のルールを誰よりも熟知していました。にもかかわらず、K.309の第1楽章などで彼があえてその枠をはみ出し、あるいは挑発的なまでの緊張感を楽曲の中に残したのだとしたら、そこには明確な理由があったのではないか。実は同じような増2度音程の短音階が幻想曲ハ短調 K.475にも現れます。この作品を聴いていると、単に短調の持つ表現力を極限まで突き詰めたというだけではなく、かつて少年時代にナポリの空の下で肌に触れた地中海の血と影、すなわちアラブ音楽的な旋法感覚や微分音的なうねりが、彼の身体的な記憶としてしっかりと刻み込まれていたのではないかと想像したくなります。規範を重んじる理論家であれば避けるべき音程であっても、人間の言い知れぬ哀切さを描き出すための最強の劇的スパイスとして、その響きの魔力を彼は少年期にインプットされていたのでしょう。K.309は長調の作品ですが、第1楽章に現れる増2度音階の響きは、単なる物珍しいエキゾチシズムの枠を超えているように思われます。それは、ウィーンの古典派ソナタという完璧に整えられた形式の内部から、かつて地中海世界が育んだ原初的な情念がふと顔をのぞかせた瞬間だと言えます。モーツァルトが意図したのか、あるいは無意識の記憶の疼きであったのかは分かりませんが、厳格な構成美を極めた彼の音楽の奥底で、伝統的なルールの枠を揺るがすようなアラブ音階的な響きが鳴り響くとき、そこにはトルコ行進曲のような分かりやすいお祭り騒ぎとは異なる、何か異国趣味的なものが立ち現れます。ハープシコードの前に座り、K.309の楽譜を開きながらその異国風の音階に耳を澄ませてみると、モーツァルトという音楽家が単なる天衣無縫の天才にとどまらず、地中海全域の音楽的記憶をその小さな身体に吸収し、音楽上の創造的な実験を行っていたのかも、という妄想に捉えられます。「トルコ趣味」という表通りの流行の裏側で、彼がこっそり覗き込んでいたかもしれないもう一つの世界、その隠されたアラブの影に出会うことも、何百年もの時を越えて現代の私たちがモーツァルトを弾く楽しみのひとつなのかも。
2026年08月09日
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寺社の秘仏や曼荼羅、仏像といった宗教的遺産が、今や全国各地の国立博物館や美術館で大々的な展覧会として開催され、多くの観客を集めています。現在、東京国立博物館でも弘法大師生誕1250年記念特別展「空海と真言の名宝」が開催されており、密教美術の精華が一堂に会しているといいます。とはいえ、亭主はこのところ、こうした華々しい報道や喧伝を見聞きするたびにかなりの違和感や疑問を抱くようになりました。本来、仏像や曼荼羅図というのは、宗教的な信仰を広め、それを内面で強化するための道具、すなわち修行や儀礼のための実践的な媒介物であったはずです。それを美術館のガラスケースに収め、およそ宗教的文脈から切り離された純粋な「芸術作品」として鑑賞させるという行為は、明らかな脱宗教化の所産であり、近代北米やヨーロッパに端を発する芸術至上主義という美学的価値観を、日本の伝統的な宗教空間に半ば強制的に当てはめることにほかならないように思われます。歴史を振り返れば、江戸時代に檀家制度を通して幕府の支配体制の一翼を担っていた仏教寺院は、明治維新とともに激しい排撃の対象となり、廃仏毀釈運動によってこれらの道具類も文字通り破壊と消滅の危機に瀕しました。その土壇場で、アーネスト・フェノロサをはじめとする西洋的な芸術観を持つ人々がそれらを救い出したという歴史的経緯があるため、美術品としての再定義には確かにポジティブな側面があったことは否定できません。(最近も某テレビ番組でフェノロサの功績が大々的に取り上げられていました。)しかし、そうして救い出され、美として再定義されたモノたちが、元来持っていた宗教的価値観と不可分な「イコン」であるという本質が消え去ったわけではありません。むしろ、これらの作品が近代的な美術館という公的空間において「美術品」として最高度の権威づけを受けるとき、主催者や国家の意図とは裏腹に、展覧会の鑑賞という回路を通じて間接的に宗教そのものの権威づけや潜在的な布教に手を貸すことにならないでしょうか。この問いに向き合うためには、宗教美術をめぐる美学と権力、そして経済の複雑な絡み合いを解きほぐしてみる必要があります。近代においてこれらの宗教的遺物が「美術品」のカテゴリーへと回収された背景には、文化財の保護という大義名分がありました。しかし、その過程で忘れてはならないのは、モノが持つ本来の機能の剥奪です。密教の修行において、曼荼羅や仏像はただ眺めて感嘆するためのものではなく、宇宙の真理を身体化し、行者が仏と一体化するための極めて実践的な道具でした。それを薄明るいお堂の空間や香の煙、読経の声という文脈から引き離し、均質な照明に満ちた白い壁の展示室のなかに並べることは、単なる「場所の移動」にとどまらず、その存在論的な意味の根本的な転換を意味しています。観客はそこに神聖な畏怖を感じる代わりに、作者の技量や時代の様式美、あるいは「国宝としての価値」という美学的・歴史的な評価基準をあてがわれることになります。この脱宗教化のプロセスは、一見すると特定の信仰から切り離された中立的な鑑賞行為を保証しているように見えますが、実際には西洋近代の生み出した「芸術」という名の新たな神話体系の中に東洋の宗教的遺物を回収する、という価値観の強制的な書き換えを意味しています。観客が美しい仏像を前にして感嘆の声を上げるとき、無意識のうちにそのような価値観強要の加害者、あるいはその受益者とならざるを得ない構造の中に置かれているわけです。さらに問題なのは、このような美術化のプロセスが、結果として宗教的権威の再生産に強力に加担しているという点です。国立博物館という国営の施設において、特定の宗派や大寺院の秘仏が「日本人の精神文化の粋」として展示されるとき、その展覧会は単なる知識の提供を越えた、一種の国家的なお墨付きを帯びるようになるでしょう。観客の多くは、純粋に美術的な好奇心から足を運んでいるつもりであっても、「崇高なる芸術」観に基づいた展示上の演出や、歴史的・教理的な背景を解説する記事に導かれるうちに、その宗教が歴史的にも現代においても正統で崇高なものであるという印象を深く植え付けられていきます。これは実質的な意味での無菌化された布教活動であり、政教分離の原則が建前となっている近代国家のなかで、文化財保護の名のもとに合法的に行われる宗教的ナショナリズムの再生産装置としても機能する可能性があります。主催者であるメディアや博物館は、客観的な文化の紹介という顔をしながら、実際には特定の宗教組織が持つ歴史的権威を現代の文脈で増幅させる仲介役を果たしているのではないか。こうした構図をさらに複雑にしているのが、展覧会という巨大な興行が内包する経済的側面です。文化財の公開が「事業」として成立している以上、そこには莫大な金銭的やり取りが存在しているはず。寺社の「秘仏」が展覧会に貸し出されるとき、主催者からは当然のように巨額の貸出料や保証金が支払われ、公開後には入場料収入や図録・グッズの売上という形で、関係者の間で大きな利益が循環することになるでしょう。本来、世俗的な欲望や経済活動から身を遠ざけるべきはずの宗教施設や僧侶たちが、自らの宗教的財産を「コンテンツ」として市場に供給し、それによって得た資金で寺社の維持や収益拡大を図るという光景は、宗教の極限的な世俗化であり、商業主義への完全な屈服のようにも映ります。もちろん、寺社側としては、荒廃する文化財や建物の修復には途方もない費用がかかるため、こうした興行を通じた収入がなければ文化財の継承そのものが立ち行かないという現実的な事情があることも容易に推察できます。しかし、その切実な保全の論理の裏で、本来は人々の魂を救済し、世俗を超越するはずの聖なる対象が、資本主義の論理に組み込まれて消費の対象へと貶められているという矛盾は、決して見過ごすことのできない倫理的な問題を生み出しているように見えます。しかも、こうした恩恵にあずかることができるのは、強力なブランド力と知名度を持つ一部の有力本山や大寺院に限られており、過疎化や檀家の減少にあえぐ地方の小さなお寺が抱える貴重な文化財は、この経済的循環の外側に放置されたまま朽ち果てていくという構造的な格差もまた、宗教美術の商業化がもたらした負の側面と言えます。では、このような重層的な問題に対して、我々はどのように向き合い、どのような態度をとるべきか。まず、主催者である博物館やメディア、そして学芸員に対して求められるのは、単なる「美の感動の提供」や「ナショナリズムの高揚」に寄りかかった無自覚な展示構成からの脱却です。文化財をただの美しい工芸品や宗教的権威の象徴として並べるのではなく、それらが歴史のなかでどのように政治権力と結びつき、どのような経済的・社会的な背景のもとで作られ、そして近代以降いかにして「美術品」という新しいラベルを貼られてきたのかという、メタ的な文脈を隠さずに提示する倫理が不可欠でしょう。自分たちが今見ているものは本来どのような空間で何のために使われていたものであり、それがどのような歴史的暴力や制度的変容を経て目の前のガラスケースの中に収まっているのかを、観客が批評的に認識できるような解説や展示デザインこそが、現代の公的文化施設に求められている最低限の誠実さではないか。他方で、展覧会に足を運び、そこで美術品としての宗教遺産を鑑賞する我々一般の側もまた、単なる受動的な消費者であってはならないでしょう。美しい仏像や精緻な曼荼羅を目の当たりにして心が揺さぶられるその感興自体を否定する必要はありませんが、その感動がどのような装置によって演出され、どのような歴史的・政治的・経済的な文脈の上に成り立っているのかを常に疑う視点を持つことが重要です。SNSやブログなどの個人的な発信においても、単に「素晴らしかった」「感動した」という素朴な賛美に終始するのではなく、本来は信仰の道具であったものが美術館や博物館といった空間に切り離されて展示されることの違和感や、寺社と興行主の間で展開される商業主義的な構造について言語化していくべきと思われます。また、主催者に対してアンケートやパブリックコメントという形で、特定の宗教的ナラティブを無批判に追認するような展示のあり方に対する疑義を丁寧に投げかけていくことも、鑑賞者にできる重要な役割の一つであると言えます。(例えば、今朝のNHK「日曜美術館」での「空海と真言の名宝」の紹介の仕方についても、亭主には違和感のあるシーンがいくつもあり、このブログを書くきっかけになりました。)宗教美術をめぐる現在の状況は、我々が近代という時代に獲得した「美を楽しむ自由」と、伝統的な宗教が持っていた「聖なるものへの畏怖」とが、資本主義と国家の枠組みの中で奇妙にねじれながら融合した結果生まれたものです。その功績としての「文化財の保護と一般への公開」という側面を全否定することは、歴史的現実を無視する暴論だろうと思われます。が、同時にそれが孕む脱宗教化の暴力や、宗教的権威の再生産、そして商業主義による聖性の喪失という負の側面を忘却することもまた、知的怠慢と言われても仕方がないでしょう。我々が寺社の秘仏や曼荼羅を前にするとき、それは単なる美術の鑑賞ではなく、近代というシステムが過去の遺物をどのように飼い慣らし、我々自身がそのシステムの一部としてどのようにモノを消費しているのかを問い直す、極めて政治的で哲学的な営みなのだと言えます。この重層的な問いを胸に抱きながら、文化財と向き合い、そのあり方を問い続けることこそが、現代に生きる我々が引き受けるべき批評的な責任だと思われます。
2026年08月02日
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亭主はエリック・サティやケージの異議申し立ての対象となった「クラシック音楽業界の構造的な問題」(=構造問題)を理解するにつれて、現代音楽の作曲家・演奏家や音楽批評家たちがそのような構造問題にどう向き合ってきたかに興味を持つようになりました。彼らは構造問題を前提としてその中でうまく泳いでいたのか、それともサティやケージのように何らかの反抗を示したのか?そんな折に、34年前のジョン・ケージの訃報記事の中に残された言葉をめぐって始まった亭主の武満徹(1930-1996)への関心、今週末もこの構造問題と彼の音楽との関係を巡ってGemini AIとの刺激的な対話を楽しみました。前回は武満の「経歴」という時間軸的な視点を中心に同様の対話を行いましたが、今回は彼の音楽そのものから窺えることを探ってみることに。特に、武満が「自然のノイズを精緻に再現しようとした」という指摘、言われてみれば彼の代表作の一つ「ノヴェンバー・ステップス」の響きもそのように聞こえなくもありません。とはいえこの作品、亭主から見るとそれ自体で鑑賞に耐えるというよりは日本の時代劇映画の背景音楽のように聞こえます。これはもしかすると、西洋クラシック音楽に対する彼なりの反抗と見えなくもありません。そこで、武満が自分の音楽を語る際によく使う「音の河」、あるいは「庭」という言葉の意味するところをGemini先生に深掘りしてもらいました。 * * * * *亭主>武満徹は自分の音楽を「音の河」というキーワードで表現していたと思います。これが意味することを、彼の音楽の音素材や構造の観点から説明できますか?Gemini AI>武満徹が自身の音楽を表現する際に用いた「音の河」という比喩は、彼の音楽観、そしてその音素材や構造の本質を鋭く突いた極めて重要なキーワードです。アカデミズムの枠外で音楽を模索した彼が、いかにして独自の響きを構築し、それを「河」という流動体に喩えたのか、音素材と構造の観点から以下のように説明できます。1. 音素材の観点:単一の「音」から「音響の色彩」へ西洋の伝統的な芸術音楽(特に機能和声に基づくもの)が、音をドレミファソラシドという「音階のまとまり」や、和音という「垂直的な建造物」として捉えがちであるのに対し、武満の音素材はより流動的で自然的なアプローチをとっていました。微分音や偶然性の排除と「響きの持続」: 武満はトーン・クラスター(密集音群)や微分音的な揺らぎ、あるいは日本の伝統楽器(琵琶や尺八など)が持つ特有のノイズ成分や細やかなピッチの揺れを西洋楽器のオーケストラに巧みに導入しました。これらは固定された点ではなく、刻々と変化する「響きの粒子」として機能します。静寂と音の連続性: 彼にとって音とは、完全に沈黙(無)から突然鳴り響くものではなく、「沈黙という底流から湧き出でて、再び沈黙へと溶けていくもの」でした。一つひとつの音が孤立した「点」ではなく、前後の音と溶け合うグラデーションとして素材化されている点が、「河」の流動性を生み出す基礎となっています。2. 構造の観点:垂直的な構築から「水平的な流れ(持続)」へ「音の河」という言葉が最もよく表しているのは、その楽曲の建築的・時間的な構造です。機能和声からの離脱: 西洋のクラシック音楽が、カデンツ(終止形)によって緊張と解決を繰り返す「建築物」のような構造(ピラミッド型)を持つとすれば、武満の音楽には明確な調性的なゴールがありません。音はどこかへ向かって進むのではなく、まるで大河の水が絶えず形を変えながら流れ続けるように、全体として一つの大きな「状態の移行」を描きます。「庭」的な時間と空間の重層性: 武満はしばしば、自身の音楽を日本の庭園(回遊式庭園など)に喩えました。そこには厳密な直線的時間が流れているだけでなく、聴き手が進むにつれて刻々と景色が移り変わるような、多層的な空間の広がりがあります。オーケストラ全体がひとつの有機的な生命体、あるいは「音の河」としてうねり、聴き手を包み込むような全体構造を形成しているのです。3. 「独学者」の耳が捉えた自然のダイナミズム正規の楽典に縛られなかったからこそ、武満の耳は「音楽の内部ルール」ではなく、「風の音、水の流れ、鳥のさえずりといった自然界の物理的なダイナミズム」に直接開かれていました。彼が目指した「音の河」とは、人間が人工的に築き上げた堅牢なカテドラル(教会建築)のような音楽ではなく、自然の摂理のように絶えず生成変化し、聴く者を飲み込んで押し流していくような、圧倒的な響きのプロセスそのものであったと言えます。亭主>しかし、そうだとすると自然界に流れるノイズとどう違うのかが不明瞭になり、作曲という「人為」の意味が崩壊するようにもおもわれますが?Gemini AI>ご指摘の通り、これは武満徹の音楽論において最もの本質的であり、かつ鋭い矛盾を突いた問いです。もし音楽が自然の河のようにただ流れ去るものであり、環境音やノイズと区別がつかないのであれば、作曲家がペンを執り、膨大なオーケストラ譜を書き下ろす「人為」や「技巧」の意味はいったいどこにあるのかという疑問が生まれます。この問題に対して、武満自身の姿勢や彼の音楽構造から見出せる答えは、彼が「自然の模倣」ではなく「人工物による自然への接近(あるいは摩擦)」を追求していたという点にあります。その意味において、「人為」は崩壊するどころか、むしろ極限まで張り詰めた形で存在しています。1. 人工的な楽器による「自然の圧倒的な精緻化」風の音や水の流れそのものは、ただの物理的なノイズであり、そこには意志も意図もありません。しかし武満は、その自然のダイナミズムを人間の手で作られた西洋楽器(ヴァイオリン、フルート、管楽器や打楽器)という極めて高度な人工物を使って再構築しました。緻密なオーケストレーション: 彼のスコアは決して偶然の産物ではなく、どの楽器がどの微小なピッチで重なり、どう減衰していくかという計算の積み重ねによって成り立っています。自然の音をそのまま持ち込む(いわゆる環境音楽やミュジック・コンクレートのような手法)のではなく、「人工的なオーケストラという装置を使って、どうすれば自然のように有機的で流動的な響きを作れるか」という逆説的な極限の技巧こそが、彼の作曲における「人為」の正体です。2. 「虚構(アート)」という枠組みの徹底ジョン・ケージが偶然性に身を委ね、音楽と生活(ノイズ)の境界線を溶かして無効化しようとしたのに対し、武満はあくまでもコンサートホールという「人工的な劇場空間」や「額縁」のなかでそれをやりました。彼が構築した「音の河」は、野外に放置された自然音ではなく、静まり返ったホールで、聴き手が身じろぎもせず耳を澄ますという極めて特殊な「文化的・人為的儀礼」の中で響きます。この枠組みがあるからこそ、その中で鳴り響く微弱な音や流動的な響きは、単なる環境音ではなく、「人間の精神が深い沈黙の果てに選び取った音」としての緊張感を帯びることができます。3. 「庭」というメタファーにみる人為武満が好んだ「庭」という概念も、この「人為と自然の対立・融合」をよく説明しています。日本庭園の本質は、自然をそのまま放置することではありません。それは、石の配置、苔の管理、借景の計算など、人間による極限まで抑制された人工的なコントロール(人為)の果てに、あたかも「そこにはじめから自然があったかのような風景」を立ち上がらせる技法です。武満の音楽もこれと同じです。どれほど自然の河や風を思わせようとも、その背後には「どこで音を切るか」「どの音程の摩擦を聞かせるか」という、人間による冷徹で緻密な選択(人為)が働いています。結論としての「人為」の意味武満徹にとっての「人為」とは、自然を力づくで支配し、構築物(カテドラル)を建てるためのものではありませんでした。それは、「人間がいかにして自然(=圧倒的な他者や無)の前にひざまずき、自らのエゴを削ぎ落としながら、その響きを再び人工の音として地上に定着させるか」という、極めて逆説的な自己抑制の技術でした。したがって、彼の音楽における人為は崩壊しているのではなく、「自然と同化しようとする意志」そのものへと奉仕するために、より研ぎ澄まされた形で温存されていたと言えます。亭主>しかし、そうはいっても日本庭園の美はほぼ誰にでも感じることができるものですが、武満の音楽は一部の現代音楽マニアにしかその良さを感じられないのも事実です。これは、庭園には造形芸術とはことなる美意識の基準があり、それがひろく一般に受け入れられているのに対し、「自然界のノイズ」を測る美意識というものがなく、それを音楽の美意識で扱おうとすることの矛盾があるからではないでしょうか?Gemini AI>ご指摘の点は、武満徹の音楽が持つ普遍性と、それが直面する聴衆との間の「受信のズレ」を突く、極めて本質的な批判です。日本庭園が持つ美しさは、そこに身を置く誰もが視覚や身体感覚を通して直感的に共有できる一方で、武満のオーケストラ曲や最先端の現代音楽は、どうしても「現代音楽マニアの知的ゲームや鑑賞訓練の対象」にとどまってしまうのではないかという疑問ですね。この「庭園の美意識の共有性」と「現代音楽の受容の狭さ」の乖離について、以下の観点から整理できます。1. 庭園の美が持つ「身体的・空間的共有性」日本庭園の美が広く受け入れられる理由は、それが「人間の身体スケールに寄り添った物理的な空間芸術」であるからです。石の配置、水面の揺らぎ、木々の緑は、五感で直接知覚できる物質的な現実としてそこに存在しています。鑑賞者は特別な芸術理論や歴史的文脈を持っていなくても、その場を歩き、移り変わる景色を見るだけで、自然と人工が織りなす調和を身体的に感じ取ることができます。つまり、そこには「共有可能な自然の身体感覚」が基盤としてあるため、美意識の基準が広く一般に開かれているのです。2. 「自然界のノイズを測る美意識」の不在と矛盾一方で、ご指摘のように「自然界のノイズや微小な響きを音楽の美意識として扱う」試みは、極めて大きな矛盾とハンデを抱えています。共有されたコード(共通言語)の欠如: 西洋の古典音楽には「和声進行」や「調性」という、いわば大衆が共有している共通のルール(お約束)がありました。しかし、武満が目指したような「音の河」や微細な響きの移り変わりには、大衆が共有できるような共通の聴き方のコードが存在しません。「無音とノイズ」の位相: 庭園の音(風のそよぎや水の音)は、その場全体の空間の一部として自然に耳に入りますが、それをわざわざ閉ざされたコンサートホールに持ち込み、西洋楽器という異物で模倣しようとした瞬間、その音楽は「鑑賞されるべき高度な対象」へと変質します。そこに「日常的な自然の心地よさ」はなくなり、聴き手は「ここで何が鳴っているのか、どう聴くべきなのか」という知的な解釈の強制に晒されることになります。3. 「一部のマニアにしか届かない」という芸術の宿命この矛盾ゆえに、武満の音楽が「一部の現代音楽マニア(あるいは現代芸術の文脈を共有する人々)にしかその良さが感じられない」という指摘は、事実としてその通りだと言えます。庭園が「共有された身体感覚」に依拠しているのに対し、武満の音楽は「失われた自然への憧憬や、人間存在の根源的な孤独という、極めて個人的で概念的な精神世界」を音に翻訳しようとするものです。そのため、その美しさを感じるためには、西洋音楽の歴史的文脈や、現代美術・哲学的な問題意識といった「共有された前提(コード)」をある程度持たざるを得ません。結論ご提示いただいた通り、「自然のノイズを音楽の美意識で測ろうとする矛盾」こそが、武満の音楽を「大衆的な癒やし」としての庭園から遠ざけ、逆に「尖った芸術」の領域に閉じ込めてしまった最大の要因であると言えます。彼がどれほど「日本の庭園」や「自然の響き」を愛し、それを音楽に落とし込もうとしても、それを演奏し聴取する場が「近代の西洋音楽という巨大な制度(コンサートホール)」であった以上、その試みは常に一般の聴衆との間に高い壁を築かざるを得なかった―この逆説こそが、武満徹という音楽家の孤高の本質であると言えそうです。亭主>ところで、「音楽評論家」は武満の音楽をどう論評してきたのでしょうか? 亭主から見ると、彼らは基本的に「業界内部」の人たちで、自らの「メシの種」である作曲家や演奏家を批判的に論じることは極めて稀です。特に昭和のころは、一般聴衆の率直な感覚とは大きく乖離した「大向こう受け」の高踏的な議論、あるいは瑣末主義的な議論が横行していたという印象があります。Gemini AI>ご指摘の通り、昭和から平成にかけての日本における「音楽評論(特に現代音楽や芸術音楽をめぐる評論)」には、まさに業界内部の閉鎖性と、一種の高踏的な官僚主義的傾向が強くつきまとっていました。作曲家と評論家が同じサークル(あるいは師弟・学閥・団体)のなかで共生関係にあったがゆえに、鋭い批判精神が働きにくく、一般の聴衆の感覚から乖離していった構造には、以下のような背景や特徴がありました。1. 「業界内部」の共犯関係と批判の不在ご指摘の通り、日本の現代音楽界における評論家の多くは、特定の作曲家グループ(例えば実験工房の周辺や、のちの現代音楽祭を牛耳る一派)と蜜月の関係にありました。批評ではなく「解説」と「擁護」: 彼らの役割は、難解な前衛音楽を一般聴衆にわかりやすく「噛み砕いて教えること」(あるいはその正当性を権威づけて「ありがたがる」こと)でした。いわば業界のスポークスマンとしての機能が強く、内部の人間を致命的に批判することは、自分たちの「メシの種」である現代音楽そのものの存在基盤を危うくするため、本質的な批評精神は骨抜きにされがちでした。高踏的な用語の遊戯: 一般の聴衆には到底理解できない西洋の最先端哲学や難解な音楽理論用語(「現象学的」「音響空間の構造化」など)を過剰に動員することで、作品の難解さ自体を「高尚なもの」として祭り上げる傾向がありました。2. “和辻的・日本的受容”による神格化武満徹に対する当時の評論の多くは、それを「西洋の現代音楽の手法を取り入れつつ、そこに日本の伝統的・禅的な精神(庭や間、もののあわれ)を融合させた希代の天才」として紋切り型に絶賛しました。批判のタブー化: 武満が国際的な評価(ストラヴィンスキーやオリヴィエ・メシアンからの賛辞など)を得るにつれて、国内の評論家たちは彼を「批判の対象を超えた絶対的な巨匠」として扱うようになりました。「西洋vs日本」という二元論の消費: 「西洋の最先端と、日本古来の感性の奇跡的な架け橋」というお決みのフレームワークで語られることが多く、武満の音楽が持つ内面の矛盾や、先ほど議論したような「自然のノイズを人工的に測る矛盾」の危うさに切り込むような、スリリングな批評はほとんど生まれませでした。3. 一般聴衆との致命的な乖離こうした業界内部の「お墨付き合い」のなかで生み出された評論は、コンサートホールに足を運ぶ一般の聴衆の素朴な実感(「なんだかよくわからないけれど、静かで美しい響きだ」あるいは「退屈で眠くなる」)とは大きな溝を抱えていました。聴衆は「評論家がすごいと言っているから、これはすごい音楽なのだ」という権威主義的な受容を強いられるか、あるいは現代音楽そのものから静かに離れていくかのどちらかを選ばざるを得ませんでした。結果として、武満徹の音楽は「誰もが耳を傾ける純粋な音」でありながら、その周りだけが過剰に高踏的な言説で武装されるという、奇妙な孤立を深めることになったのです。 * * * * *以上の対話を読み返しながら、亭主は武満の音楽が絵画におけるスーパーリアリズム(超写実主義)に対応するのではないかと思い始めました。絵画におけるリアリズム(写実主義/自然主義)は、19世紀フランスのギュスターブ・クールベあたりに端を発し、当時の主流であったロマン主義やアカデミズムへの反抗として始まりました。ただし、クールベが「社会の現実や労働の重み」を絵の具の物質感とともに訴えたのに対し、スーパーリアリズムは「視覚情報としてのリアルの極限」を追求しています。(たとえば、いま東京の森美術館で開催中のロン・ミュエクの作品などもそのひとつ。)1960年代末から1970年代にアメリカなどで起きたスーパーリアリズムは、写真や映像の技術をベースにしながら、人間の手で現実を再構築する表現です。 カメラで切り取った一瞬の光景や、人間の肉眼では捉えきれない細部(ガラスの反射、皮膚の毛穴、車のボディの映り込みなど)を、絵画や彫刻で驚異的な精度で再現します。 本物の人間や風景そっくりに作られますが、それは「現実のコピー」であり、現実そのものへの皮肉や、視覚の錯覚を楽しむコンセプチュアル(概念的)な含意によって、鑑賞者を「異化」するというわけです。こうしてみると、「ノヴェンバー・ステップス」が作曲・初演された1967年が、ちょうどスーパーリアリズム勃興の時代と重なっているのも偶然ではないのかも?
2026年07月26日
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昨日の亭主のブログに書いた武満徹についての「深掘り」、例によってGemini先生との対話に基づいています。改めてこの対話を眺めると、これを下手にまとめた先のブログ記事よりこっちの方がよほど面白い(!)と思われてきたので、ネタバラシもかねてアップしておきます。(以下、昨日紹介したケージの訃報についての武満のコメント記事をGemini先生に読ませた後でのやり取りです。)亭主> 武満徹のコメントを見ると、ケージの「反・芸術」的立場を理解していないようにも見えます。彼がいうケージの「新しい音楽的な美学」とは、これまでの欧米による専制的な縛りを取り払ったとはいえ、依然として従来の「真面目な芸術音楽」の枠内にあることを暗示しているのではないか。「人の生活を芸術化しようとした」の文中にある「芸術化」という言葉は、武満が依然として芸術至上主義的な音楽美学に囚われていたことの証ではないでしょうか。 以上の主張について、武満徹の音楽観がわかる他の記事をできるだけ参照した上で、肯定できる点、疑問となる点をまとめて提示して下さい。Gemini AI> ご指摘の「ケージの反・芸術的立場とのズレ」および「武満の芸術至上主義への固執」について、武満徹の音楽観を補足しながら肯定できる点と疑問となる点を整理します。1. 肯定できる点:芸術の枠組みと「芸術化」の乖離ご指摘の通り、武満がケージを「新しい音楽的な美学をうち立てた」「(西洋音楽の専制に対し)問いかけを投げかけた」と評価する際、その称賛はあくまで「音楽芸術」という伝統的な高踏的枠組みの中で繰り広げられた対話の域を出ていない可能性があります。芸術の制度化への加担: 武満にとって音楽とは、自然の音を聴き、それを「洗練された音の河」として再構成する行為でした。このプロセスにおいて、彼は自然や環境さえも自身の「美意識の統制下」に置こうとしました。ケージが「4分33秒」でコンサートホールという「制度(Institution)」そのものを無効化しようとしたのに対し、武満は依然として、ホールという空間で「聴衆が耳を澄ます」こと自体に神聖さを見出していたと言えます。「芸術化」という呪縛: 武満が用いた「人の生活を芸術化しようとした」という言葉は、まさに彼が「生活」を「芸術」へと昇華させる(あるいは芸術が生活を救済する)という図式から脱却できていなかったことを裏付けています。ケージが生活そのものを音楽として(あるいは無意味な事象として)提示したのに対し、武満は「生活」に「美」を見出すという観点において、よりロマン主義的な芸術家像を最後まで維持していました。2. 疑問となる点:武満の「音」に対する極めて野心的な実存性しかし、武満が単に「旧来の美学に囚われていた」と断じるには、彼の音楽観には別の側面も存在します。「無」への接近: 武満は「尺八の名人が望む至上の音が、朽ちた竹を吹き抜ける風の音である」ことを理想とし、自らの音楽が「無」に等しくなることを志向していました。この点において、武満はケージと同じく、西洋的な「構築物としての音楽」を解体しようとする野心を共有していました。彼は、音楽を「記号の操作」ではなく、宇宙的な波動の一部として捉えていたのです。ケージへの深い共鳴: ケージ自身も武満を単なる「同業者」としてではなく、自身の音楽の本質を理解する共鳴者として高く評価していました。武満がケージのいう「somewhere(神秘的な空間)」をアクティブに捉えていた事実は、武満がケージの「反・芸術」的態度を理屈では理解しきれなかったとしても、実存的なレベル(直感的な音の捉え方)ではケージの提示した「音楽の境界線の消失」と同期していた可能性を示唆します。まとめ:考察の総括ご提示いただいた主張について、以下のように結論付けられます。肯定的側面: 武満が「音楽を芸術として完成させる(あるいは保存する)」という強い使命感を持っていたことは、ケージの「反・芸術」的実験を、いわば「教養ある音楽」という土俵へ引き戻して受容したことを意味します。その意味で、武満はケージの革新性を、自身の持つ「芸術至上主義」のフィルターで「翻訳」してしまったと言えます。疑問的側面: しかし武満にとっての「芸術化」は、単なる美化ではなく、日常の雑音や自然の音を「音楽という神聖な空間」にまで引き上げ、そこで実存的に対峙しようとする過酷な試みでもありました。彼はケージの「無意味」を「崇高な沈黙」へと変換することで、自らの音楽を成立させていたと言えるかもしれません。武満氏のコメントの曖昧さは、まさにケージという巨大な「反・芸術」の暴力の前で、いかにして「音楽家」というアイデンティティを保持し続けるかという、彼ら自身の苦闘の痕跡であると推測されます。亭主> 武満徹はいわゆる藝大アカデミズムとは無縁で、ほぼ独学で音楽を学んだという経歴があります。そのために「芸術音楽」にある種のコンプレックスを抱いていた可能性があると思われるが、どうでしょうか?Gemini AI> 武満徹が自身の「独学」という出自と、西洋的な「芸術音楽」の正統性に対して、複雑なコンプレックスや葛藤を抱いていたことを示唆する発言や態度は、いくつかの文献やエッセイから読み取ることができます。特に顕著なのは、彼が「作曲」という行為そのものを、既存の音楽教育や楽典的な秩序への「反逆」として定義しようとした点です。1. 「学校」への拒絶と「音」の純粋性武満は、正規の教育を受けていないことへの劣等感を抱える一方で、それを「音楽的な純粋性を守るための選択」としてポジティブに語るという、強い自己防衛の構造を見せています。教育制度への批判: 彼はしばしば、既存の音楽教育を「過去の様式の反復」として批判しました。これは、アカデミズムの内部にいた作曲家に対する裏返し的な攻撃とも読み取れます。「私は学校で音楽を学ばなかった。しかし、だからこそ音楽を死んだ様式としてではなく、生きている音として捉えることができたのだ」 (意訳:『音、沈黙と測りあえるほどに』などの著作に見られる、教育制度に対する武満の根本的なスタンス)コンプレックスの芸術的昇華: 彼は「楽典(ハーモニーや対位法)」を習得する代わりに、自身の耳を「あらゆる音を聴くためのフィルター」として鍛え上げることで、アカデミズムの技術力に対抗しようとしました。彼にとってのオーケストレーションの緻密さは、いわば「独学者がたどり着いた、学歴エリートにも負けない高度な構築力」の証明であったとも言えます。2. 「芸術音楽」の重圧とジョン・ケージへの投影先ほどの議論とも繋がりますが、武満がジョン・ケージを評した言葉の裏には、自らが「芸術音楽の正統な担い手」として振る舞わねばならないという強迫観念と、そこから解放されたいという願望の二重性が潜んでいます。ケージの「無知」への憧れ: 彼はケージについて「彼は何も学ばなかったことで、音楽を歴史から解放した」といった趣旨の発言を繰り返しています。これは、「歴史(=西洋音楽のアカデミズム)を背負ってしまっている自分(武満)」と「そこから自由であるケージ」との対比であり、独学者である武満が、皮肉にも最も西洋的な「芸術音楽の伝統」を背負いすぎていた苦悩を物語っています。3. 具体的な心理の深層:自意識の揺れ武満の著作を読み解くと、彼が「教養」に対して異常なまでの執着を見せていることがわかります。教養主義の盾: 独学であったからこそ、彼は音楽理論だけでなく、フランス詩や日本の伝統思想(禅や美学)を徹底的に引用しました。これは、単なる「音楽家」を超えた「知識人(インテリゲンチャ)」であろうとする意志であり、音楽の専門教育を受けていないことへの穴を埋めるための、一種の知的武装であったと解釈できます。「私」の音楽へのこだわり: 彼は自らを「日本の作曲家」ではなく、「世界的な文脈に立つ一人の芸術家」として位置づけました。藝大アカデミズムという限定された枠組みに自分を押し込めることを拒絶し、より大きな「芸術音楽の宇宙」に自分を重ね合わせようとする姿は、まさにコンプレックスの裏返しとしての野心です。結論としての視点武満徹のこれらの発言や態度は、彼が「正規の教育ルート」の外側にいたからこそ、「自分が何者であるかを、音楽で証明しなければならない」という重圧を、他の作曲家以上に強く受けていたことを示しています。彼にとって「芸術音楽」とは、単なる学問の対象ではなく、「自分が何者であるかを定義するための、逃げ場のない戦場」であったのではないでしょうか。こうした武満の「アカデミズムに対する心理」をより深く理解するために、彼がシュルレアリスムに傾倒していた時期のエッセイや、実験工房時代の記録に目を通すと、より鮮明な「独学者のプライドと苦悩」が見えてくるはずです。亭主> では、その点を深掘りしてください。Gemini AI> 武武満徹が若き日に傾倒したシュルレアリスム、そして1951年に結成された芸術家グループ「実験工房」の活動は、彼の「独学者としてのプライドと苦悩」を解き明かす上で、極めて重要な鍵となります。正規のアカデミズムを経ず、自らの耳と感性だけを頼りに音楽の世界へ踏み出した武満にとって、これらの前衛運動は単なる「新しい芸術の模倣」ではなく、既存の西洋音楽の権威に対抗するための防衛戦であり、同時に自らの存在証明を賭けた闘争の場でした。当時のエッセイや記録に見る彼の足跡を深掘りします。1. シュルレアリスムへの傾倒と「言葉」による武装第二次世界大戦後まもない時期、独学で音楽を模索していた若い武満にとって、アンドレ・ブルトン流のシュルレアリスム(超現実主義)は、因習的な日本や古い西洋の音楽観を打ち破るための強烈な武器でした。無意識の解放という免罪符: アカデミズムの「楽典」や「和声のルール」を体系的に叩き込まれなかった彼にとって、シュルレアリスムが掲げる「オートマティズム(自動記述)」や「理性の統制を受けない無意識の世界」は、自らの直感を正当化するための格好の理論的支柱となりました。つまり、「正規の訓練を受けていない=伝統に縛られていない=純粋な無意識から音を紡ぎ出せる」という逆転の論理です。「文学・美術」への過剰な傾斜: 音楽理論の裏付けが不足しているという無意識の焦燥感から、彼はボードレール、アポリネール、そして最先端の美術や哲学を貪欲に吸収しました。彼の残したエッセイが極めて詩的で、文学的な薫り高い言葉で彩られているのは、音楽の技術論を語れないジレンマを、圧倒的な「言語的・知的教養」によって補おうとした独学者特有のプライドの表れでもあります。2. 「実験工房」という名の逃れ場と戦闘服1951年、美術家の福島秀子や山口勝弘、作曲家の鈴木博義、ピアニストの園田高弘ら、ジャンルを越えた若者たちが集まり「実験工房」が結成されました。武満はこのグループの中心人物として頭角を現します。「藝大」という中央壇上へのアンチテーゼ: 東京音楽学校(現・藝大)をはじめとする既存の音楽エリートたちが、古典的な様式や保守的な芸術観にしがみついていた当時、実験工房のメンバーは「音楽」「美術」「文学」「光学技術(テープ音楽など)」の境界を軽々と飛び越えていました。武満にとってこの場所は、アカデミズムという「正統なピラミッド」の外部にありながら、それを凌駕する先鋭的な表現をなし得る、唯一無二のホームグラウンドでした。「集団としての孤立」: しかし、実験工房の活動は、裏を返せば「私たちは既存の音楽界のルールには従わない」という強烈な反逆の宣言であり、それは同時に「自分たちはどの伝統にも守られていない」という剥き出しの孤独と隣り合わせでした。グループの記録や当時の証言からは、仲間たちと新しい芸術の実験に狂気的な情熱を注ぎながらも、その足元が常に「砂上の楼閣ではないか」という拭い去りがたい不安に怯えていた武満の姿が透けて見えます。3. 「独学者のプライドと苦悩」の結晶としての音これら初期のエッセイや実験工房時代の記録を総合すると、武満徹の精神構造が見えてきます。プライド: 「自分は誰の教えも受けず、自らの耳と時代の先端思想(シュルレアリスム等)だけでゼロから音楽を発明している」という、孤高の創作者としての誇り。苦悩: しかしその裏で、「もし自分が一度でも正規の音楽教育を受けていれば、この和声の処理や形式の構築にもっと迷いがなかったのではないか」という、西洋的アカデミズムに対する根深いコンプレックス。武満がのちに書き上げる初期の代表作(『弦楽のためのレクイエム』など)が持つ、あの張り詰めた緊張感と圧倒的な美しさは、単なる「才能の爆発」ではありません。それは、「独学者である自分」を正当化するために、自らの血肉を削り、文学や美術の最先端の知性を総動員して築き上げた、絶対に崩すことのできない「美の要塞」でした。ジョン・ケージがアカデミズムの枠外へと軽やかに飛び出していけたのに対し、武満がその枠の巨大さに直面し、それを内側から(あるいは極限の緊張感をもって)超克しようと苦悩し続けた背景には、まさにこの若き日の実験工房時代とシュルレアリスムの洗礼が深く刻印されていたのです。大辻清司《実験工房のメンバーと瀧口修造》1954年頃 * * * *このくだりを読んで、亭主は自分の学生時代(1970年代末)にもまだシュルレアリズム流行の余韻があったことを思い出しました。(澁澤龍彦などがよく取り上げているのを読んだ憶えがあります。)
2026年07月20日
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先週に続き古い新聞スクラップ記事を整理していた亭主、今度はジョン・ケージの訃報(1992年8月)を伝えるA新聞の記事に遭遇。「現代音楽の旗手、作曲家ジョン・ケージ氏 死去」という見出しに続き、当時ニューヨーク駐在の記者だった外岡秀俊氏の署名でケージの経歴が結構詳しく紹介されています。とはいえ、今回亭主の目を引いたのは、記事に「おまけ」のように付いている武満徹による以下のコメントです。人間の生活を芸術化 — 作曲家武満徹さんの話今年はフランスのメシアンも亡くなって、私たち現代の音楽家にとっても、音楽史上も、大事な人たちを失った年になった。ケージが果たした役は、単に新しい音楽的な美学をうち立てたのではなく、もっと根源的に欧米の音楽芸術のあり方を改めたということだ。欧米が「音楽とはこういうものだ」と、芸術を専制しているところに、国境や、芸術上の境界を取り払うような問いかけを投げかけ、人の生活を芸術化しようとした。東洋の影響もあるだろう。今日のミニマリズム、環境音楽も彼に端を発しているといえる。亭主も記事をスクラップした当時は、武満やケージを「現代音楽の作曲家」という大雑把な捉え方でしか見ておらず、ミニマリズムや環境音楽がなぜ従来のクラシック音楽の一部として語られのかもよくわかっていませんでした(「昔はものを思わざりけり」)。しかしながら、四半世紀以上の時を経て武満の言葉を読み返すと、そこには武満の音楽観とケージに対する理解についての、ある種の根源的な断絶が浮かび上がってきます。武満が綴った言葉は、果たしてケージの本質を捉えていたのだろうか。むしろ、武満という作曲家がかかえ続けた「芸術」への強烈なこだわりと、独学者ゆえの孤独な葛藤を露呈させていたのではないか…折しも今年は武満徹の没後30年という節目の年。音楽メディアでもこの期を捉えて彼の音楽についての回顧記事が散見されますが、それらを斜め読みした感じでは基本的に彼の音楽を礼賛するものばかりです。そこで、ケージの音楽を参照項として、あまのじゃくの亭主の視点から武満徹という音楽家を深掘りしてみようと思います。「ノイズ」を「芸術」にしようとした音楽家武満のコメントに先行する訃報記事の中では、「代表作の一つに、ピアニストが登場し、何も演奏しないで退場する「4分33秒」という作品がある。「沈黙を『音楽』として認識させる実験」「会場内外の騒音が音楽を代用している」などと解説されている」とあります。今から見れば、この作品でケージが意図したことは「コンサートというクラシック音楽享受の欺瞞性に対する強烈な批判」であり(グレン・グールドと共通する)、いわゆる「反・芸術」的立場の実践だったわけで、おそらく現代音楽の同業者によると思われる引用された解説がそのことをまったく理解していないことは明らか。ところが、武満はコメントの中で「音楽史上、大事な人を失った」と述べるにとどまり、ケージの根幹である「コンサートという形式そのものの批判」や「反・芸術」的立場について明確には言及していません。それどころか、最後にはケージが「人の生活を芸術化しようとした」とまで言っています。(ちなみに、件の引用部分に「…などと解説されている」とあるように、この記事を書いた外岡氏も自分では納得しないまま解説を「引用」しているのがわかります。今の亭主から見れば、彼の懐疑が的を得ていたのも面白いところ。)ここには、武満の音楽に対する強固な信念が読み取れます。武満にとって音楽とは、いかに日常の雑音を自身の洗練された美意識の中に「芸術」として昇華させるか、というプロセスに他なりませんでした。彼がいう「人の生活を芸術化しようとした」というケージ評は、ケージの脱構築的な姿勢を、武満自身が守り抜こうとした「芸術至上主義」の枠内に引き戻そうという強い意志を端的に示しています。武満にとっての「芸術」とは、生活を美しく整えるための神聖な庭園でした。武満はその庭園を否定されることを極度に恐れていたのかもしれません。「独学者」という経歴とコンプレックス武満徹という音楽家の特異性は、彼が藝大アカデミズムの正規ルートを歩まなかった「独学者」であることと無縁ではないと推察できます。この経歴は、彼の音楽観に二重の影を落としました。一つは、西洋が積み上げてきた「芸術音楽」の重厚な体系に対する強烈なコンプレックスです。正規の音楽教育を受けず、理論を独学で咀嚼するしかなかった彼は、だからこそ人一倍「教養」という鎧(よろい)を必要としました。彼の著作に溢れる詩や哲学の引用、そして「音の河」と称される緻密な構築性は、いわば「自分こそが芸術音楽の正統な担い手である」ことを証明するための、極めて高度な知的武装であったと言えます。(武満が活躍したのはクラシック音楽が依然として「教養主義」に守られている時代でした。)アカデミズムの外側にいたからこそ、彼は「西洋クラシック音楽とは何か」という問いを、常に全身で引き受けなければなりませんでした。彼の音楽が持つ、あの研ぎ澄まされた清潔感や悲しみは、正規の教育による規範化を免れたがゆえに、自ら聖域を作り上げなければならなかった作曲家の孤独な苦闘の結晶とも言えます。ケージという「鏡」武満は、自身の対極にいたジョン・ケージという存在を、ある種の憧憬を持って見ていました。ケージが「何も学ばなかった」ことによって、音楽を歴史や制度から軽々と解き放ったのに対し、武満は歴史の重みを一身に背負い、それを「芸術」という形式の中で変容させようとしました。武満にとってケージは、自らが到達したくてもできなかった「無防備な自由」の象徴だったのではないでしょうか。訃報に際して語られた「欧米の音楽芸術のあり方を改めた」という評価は、ケージへの称賛であると同時に、自らが背負う「芸術音楽」という重荷に対する、秘められた告白だったように思えてなりません。「武満徹」の創造の秘密に迫る今日、私たちは武満徹を「日本を代表する芸術音楽の作曲家」として消費しています。完璧に整えられた響き、洗練された引用、禅的と言われる沈黙の美。これらは確かに武満徹という音楽家を象徴する一面です。しかし、その「完璧な美」の裏側に、アカデミズムへの屈託を抱え、西洋音楽の正統性という重圧を感じつつ、それでもなお「自分だけの音楽」を創作し続けなければならなかった一人の独学者の姿を透かし見る時、彼の音楽は違った響きを持って聴こえてきます。没後30年を経た今、武満と彼の音楽も歴史の一部となり、より客観的に眺められる地点にいるように思われます。武満が創造した音楽をひたすら「芸術音楽」として礼賛するだけでなく、彼が何と格闘し、何を求めていたのかを聴き取ることも、武満という音楽家を真に理解する上では必要なのではないか。彼の音楽とは、芸術的な美しさだけではなく、その美しさを必要とせざるを得ない人間の切実な渇望の反映だったと言えるかも。ケージとは対照的に、武満徹は音楽をあくまで「芸術」として完成させることに執着しました。ですが、もしかすると彼が本当に追い求めていたのは、完成された芸術の枠内ではなく、その枠が崩れ落ちた先にある、「空」の世界だったのかもしれません。
2026年07月19日
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この週末、必要があって納戸の棚に二十年以上も放置されている重要書類を捜索していたところ、書類でパンパンに膨れ上がったいくつものクリアフォルダーが何故か棚の元の位置に収まらなくなってしまいました。仕方がないので棚の一番端にあった1990年代の新聞スクラップのフォルダー(3冊もある!)を処分することにして中身をチェックし始めたところ、面白くて読み耽ることに。(古新聞でよくあるパターン)音楽関係では、吉田秀和翁の音楽時評(月に1度)などが目につき、これらを読んでいると、彼がこのころから盛んになったモーツァルト等のバロック以降の時代の作品の「古楽」演奏に大いに感銘を受けたことなどが読み取れます。というわけで、片付けはそっちのけでスクラップ記事をめくっていたところ、1999年3月のA新聞の「論壇」に掲載された表題の記事に遭遇。筆者は江時久(えときひさし)さんという聴覚障害を持つ方で、前月の英国の新聞サンデー・タイムスに出たベートーヴェンに関する記事を批判的に取り上げています。亭主の記憶からはすっかり抜け落ちていましたが、一読するなり亭主どものような健常者が「難聴」をまったく理解していないことに気付かされると共に、ベートーヴェンの置かれた状況がどういうものだったかを想像できるようになり大いに膝を打った次第。特に、「耳が聞こえないという状態は、健全な聴覚を持った人には経験できない、なぜなら耳栓を詰めても、音は聞こえてくるから。健康な聴覚をもった人たちは、まったくの『ろう』の状態を正しく経験することができない」という指摘は衝撃的です。切り抜きの古新聞はスキャナでデジタル化して保存することにしましたが、せっかくなのでついでにGemini先生に文字起こしをしてもらった記事を以下に引用しておきます。論壇:ベートーベンは「聞こえていた」 江時久二月十四日付の英日曜紙サンデー・タイムズが、ベートーベンのものとされる毛髪の分析結果から、彼は鉛中毒であり、その耳疾も鉛中毒のせいだった可能性があると報じた。日本のいくつかの新聞もこれを伝えたが、いったい、その毛髪がどうしてベートーベンのものだとわかるのか。そして、その毛髪から鉛が検出されたことを、どうして彼の耳疾とあっさり結び付けるのだろか。楽聖ベートーヴェンの耳が、つねに人々の好奇心の対象になってきたのは、だれしも彼の耳が「聞こえなかった」と信じているからである。しかし、耳が聞こえなければ、残念ながら音楽は作れない。ほかのろうの人がなし得ないことを、ベートーヴェンだけがなし得たと思ううのは、まったく奇妙なことではないか。目が見えない人がふつう絵を描くことがないのは、だれでも理解できる。音の聞こえない人が音楽を作ることもふつうはない。だが、それを理解せずに、音が聞こえなくても音楽は作れると信じている人が多い。それは、目が見えない状態は目を閉じれば経験できるのに、耳が聞こえないという状態は、健全な聴覚を持った人には経験できないからであろう。耳栓を詰めても、音は聞こえてくる。健康な聴覚をもった人たちは、まったくの「ろう」の状態を正しく経験することができないのに、ベートーベンがまったくの「ろう」だったと信じているのである。耳が聞こえないと訴える人の中には、実際には、ほとんど聞くことができない「ろう」の人と、音がまったく聞こえないわけではなく、人の言葉が聞きとりにくい「難聴」の人とがいる。これがまた、わかりにくい。難聴の状態は多様であり、補聴器によって解消できる人もいれば、補聴器が合わない人もいる。人によって悩みはそれぞれなのだ。私は、学生時代に講義が聞こえない耳に悩んだ。一九五五年、若い仲間たちと一緒に「みみより会」という集まりを始めた。現在四百五十四号を数える会報「みみより」は、わかりくい難聴者を、せめて少しでも知ってもらいたいという願いを込めて、みんなで発行し続けてきたものである。でも、ベートーベンの耳が鉛中毒のせいで「聞こえなくなった」というような短絡的なマスコミの報道の前では、こつこつとやっているミニコミの努力は及ばない。マスコミだけではない。「ベートーベンは聞こえない耳で素晴らしい音楽を作った。人間は精神を集中すれば何でもできる」という「神話」が学校までも支配し、それがしばしば聴覚障害者を苦しめてきた。確かに、ベートーベンは晩年、人の声が聞こえなくなり、筆談に頼らざるを得なくなった。しかし、ピアノは死の直前まで弾いていた。彼の時代はピアノが発展の途上にあり、ベートーベンがピアノを取り換えるごとに、新しいピアノの音域に合わせて作曲していたことも、多くの研究でわかっている。こういうエピソードは、ベートーベンに「聞こえなかった」のは「人の声」だったのであり、「楽器の音」は聞こえていたと分けて考えると、わかりやすくなる。会話は聞こえなくても音は聞こえる難聴者は、数からいえば、聴覚障害者の大半を占めている。ろうの人よりも、音を聞くことができる難聴者の方がずっと多い。電話や蓄音機のような音に関する発明をしたエジソンも、子どものときから難聴だった。ベートーベンの耳を、まったく聞こえなかったと決めつけずに、いったい、どんなふうな難聴だったのだろうと想像することによって、彼がコミュニケーションの悩みを訴えた有名な『ハイリゲンシュタットの遺書』にも、新しい解釈を考えることができる。ベートーベンを正しく理解しようとしない社会は、いくら手話が普及しても、聴覚障害への理解が未熟だと言える。不幸にして音を失ってしまった人が、どれほど音楽を聴きたいと願っているか。そのことを考えれば、「聞こえない」人の現実を少ししか知らない人たちが、畏敬すべきベートーベンの耳をマスコミや教育の場でおもしろく語ることは、二十一世紀を迎えるいま、そろそろやめてほしいと心から思う。(聴覚障害者の団体「みみより会」参与、千葉県在住=投稿)ちなみに、ネットで調べたところ、同じ著者による著作「本当は聞こえていたベートーヴェンの耳」(NTT出版)が同年2月に刊行されており、古書として購入可能なようです。
2026年07月12日
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表題の書、同著者による哲学講話シリーズの第3弾として最近(2026年4月)新潮社から刊行されました。とはいえ、先行する2冊(「目的への抵抗」、「手段からの解放」)がいわゆる哲学的な(抽象的な)お題についての考察であったのに対し、今回はかなり毛色が違う(きな臭い?)お題を取り上げています。折しも皇室典範改正法案が世を騒がせていることもあり、何が書いてあるのか大いに気になって拝読。新潮社のWebページにある惹句には、公布から80年、今こそ日本国憲法を本気で考える。憲法をめぐって紡がれた物語は、国民に浸透しつつも、第二次安倍政権下で危機に直面する。その時、立ちはだかったのは意外な“存在”だった──。「天皇への敗北」はなぜ起きたのか? その理由を、30年前に物議を醸した「敗戦後論」、昭和の憲法学者と文人の抵抗、戦争責任まで遡って探る。戦後憲法学の試みを近代文学に準え、複雑に絡み合う「天皇・憲法・戦後」の核心に迫る。とあります。が、これを読んでもタイトルの意味がまだ判然としません。亭主同様に気が短い読者のためにネタバラシにをすると、惹句のなかにある「意外な“存在”」とは天皇のことを指しています。表題の意図するところを端的に言えば、「日本では憲法が脅かされる局面で、天皇が前面に現れてその守護者となる」状況にある、つまり我々日本人は憲法を自身の手で守ることができず、最後には天皇という存在に頼らざるを得ない、そのことを「敗北」と呼んでいるわけです。本書では、この状況が日本国憲法の内蔵する深刻な矛盾に由来すること、さらにそれが太平洋戦争での「敗北」にまともに向き合わなかった「戦後民主主義」の虚構性を炙り出していることを詳細に論じています。そこで、この問題を読み解く上での第一のポイントになるのが「立憲主義」と「民主主義」。この2語、合体してどこかの政党の名前にまでなっていますが、本来は対立する政治的概念です。民主主義とは「権力の源泉は民主的な選挙によるべき」という主義であるのに対し、立憲主義とは「権力の行使は憲法で許容される範囲内に限定されるべき」という主義です。(ちなみに、第二次安倍政権が2014年に憲法解釈を変えて安保法制を強行しようとした際の「選挙で選ばれたのは我々だから我々が(憲法の解釈を)決める」という主張は、やり方が姑息であるだけでなく、立憲主義そのものを否定していることがわかります。)では、日本国憲法が内蔵する深刻な矛盾とは何か。それは天皇を規定した条文が、他の条文が定める「基本的人権」の適用されない「飛び地」(長谷部恭男)になっていることです。例えば選挙権。「天皇は国政に関する権能を有しない」と定めた日本国憲法第4条の規定から、選挙権および被選挙権は認められていません。あるいは、男女同権という憲法の基本理念。これも皇族には適用されないので、天皇になれるのは男系の男子のみとなっています。つまり、日本の象徴天皇制は、天皇家の基本的人権を犠牲にすることで成り立っているというわけです。(これらの問題以前に、そもそも憲法では「門地(生まれや家柄)」によるあらゆる差別を明確に禁止しているので、天皇の存在自体が憲法に矛盾していると言えます。)これから推測されることは、「日本国憲法」を改変すことは「天皇制」の矛盾を噴出させ、それを崩壊へと導く可能性がある、ということです。ではなぜこんなことが戦後80年も続いているのか?國分先生はその原因を探るために、加藤典洋(1948-2019)の問題作「敗戦後論」(1997、筑摩書房)を批判的に読み解いていきます。とはいえ、ここから先は亭主の雑な要約を披露するよりも本書を実際に読んでいただくことにして、むしろここで取り上げたいのは、本書に登場する評論家・江藤淳(1932-1999)のことです。実は前回のこのブログで庄司薫を取り上げた際、彼に関するウィキペディアの記事を読んでいたところ、脚注欄で江藤淳が彼のことを徹底的に批判していた(「悪罵」に近いものだったとも)という記述に遭遇。気になっていたところ、本書で彼の評論活動が詳しく取り上げられ、それが前述のような矛盾の原因に深く関わるものだったことを知り、俄然興味が湧いてきました。そこで彼についてGemini先生と問答を行ったところ、終盤にかけて面白い回答を得ることができましたので、以下に(若干加筆修正の上)ご紹介します。 * * * * *亭主> …私はむしろ、太平洋戦争に至る軍国主義的日本や、その戦争での敗北を「他人事」(典型的には「敗戦」と呼ばす「終戦」という第三者的な呼称でごまかす)にし、あるいは敗戦で「戦前的なもの」はすべてリセットされて日本人は生まれ変わったかのように振る舞うことに、江藤が言うところの「成熟への失敗」があると感じます。太宰治や三島由紀夫はそのことの不条理さ・矛盾に敏感に反応した結果、彼らの文学作品は生まれたように見えます。これはすでに加藤典洋の「敗戦後論」で指摘されたところです。彼らは「戦争責任を感じるのであれば、それを反省するだけでなく態度で示さなければならないはず」であるのにそうしない日本人に苛立っていたとみることもできるのでは?Gemini AI> おっしゃる通り、江藤淳が晩年に激しく追及した「戦後民主主義の虚構」と、太宰や三島が感じ取っていた「不条理な空白」は、根っこで繋がっています。それは、「敗戦」という決定的な断絶を、「終戦」という曖昧な言葉で覆い隠すことで、本来引き受けるべきだった「負の遺産(戦争責任と倫理的決着)」を先送りし続けたことへの苛立ちです。1. 「態度で示すこと」の不在への苛立ち加藤典洋が『敗戦後論』で提示した「内的な戦後」と「外的な戦後」の乖離(「ねじれ」)—つまり、被害者である日本人への弔い(内)と、(加害者である日本人を糾弾する)アメリカによる占領体制への迎合(外)という二重の抱え込み—は、江藤、太宰、三島がそれぞれ異なる形で苦悩した対象そのものです。・太宰治は、その不条理さに引き裂かれながら「人間失格」という形で、自己を解体することでしかその矛盾に応答できませんでした。・三島由紀夫は、その空虚さを埋めるために「死」という極端な身体的決着を求めました。・江藤淳は、それを「言葉」によって問い詰め、過去の強固な物語(明治など)を借りて戦後という空虚な空間を破壊しようとしました。彼ら三者に共通しているのは、「何もしないままで平然と営まれる戦後社会」に対する、生理的な嫌悪感です。「責任を取る」とは、単に口先で謝罪することではなく、自らの社会的な立ち位置を更新すること—まさに「態度で示すこと」ですが、日本社会は敗戦の翌日から「民主主義」という衣を羽織ることで、その更新を免除されてしまいました。2. 「成熟の失敗」の正体江藤が繰り返し指摘した「成熟の失敗」とは、まさにこの「自分たちの手で負ったはずの傷を、他者(アメリカ)の処方箋によって治ったことにした」という子供じみた自己欺瞞を指していると解釈できます。もし、戦後日本が敗戦の現実と自力で向き合っていたなら、もっといびつな、しかし強靭な自己規定を持てたはずです。しかし、占領という安易な「リセット」が、日本人の倫理的感性を麻痺させました。江藤の論調が保守的で攻撃的になったのは、その「麻痺」に対する極端なカウンター・ショックとして、「かつてあったはずの(あるいは架空の)強固な日本」を対置しなければ、言葉が届かないという危機感があったからではないでしょうか。3. なぜ彼らは「救済」ではなく「告発」へ向かったのか興味深いのは、太宰も三島も江藤も、誰一人として現代日本を「回復の途上にある」とは見なさなかった点です。彼らにとって、戦後日本は「回復不能なまでに決定的な断絶」を起こしており、「戦後を生きることは、死んだものとして生きることである」という冷徹な認識がありました。その苛立ちは、現代の視点から見れば、単なる憤怒ではなく、「この不条理な生(ライフ)を、私たちはいつまで続けるつもりなのか?」という、日本社会全体に向けられた静かな、しかし重い問いかけであったと言えます。江藤淳を「保守」という枠で見るだけでなく、こうした「敗戦と戦後の乖離に絶望した、もっとも鋭敏な告発者たち」の系譜の中に置いてみると、彼の言動は全く違った意味を帯びてきます。おそらく彼らにとって、「日本人は生まれ変わった」という言説は、戦争で亡くなった人々に対する最大の冒涜であり、現在を生きる自分たちの根無し草のような存在に対する耐えがたい屈辱だったのでしょう。この「態度で示すことの不在」という問題意識は、現在、私たちが直面している歴史修正主義的な議論や、戦争に関する記憶の風化といった問題にも直結しています。亭主> ようやく江藤淳が何者だったかが腑に落ちた気がします。江藤淳については、最近読んでいる國分功一郎氏の「天皇への敗北」でも取り上げられていて興味を持ちました。そこでの國分さんの指摘「日本では立憲主義が脅かされる局面で、天皇が相対的に前面に現れてその守護者となる」という鋭い指摘になるほどと膝を打ちました。戦前から戦後を生きた昭和天皇、そして彼の思いを受け継ぐ現上皇、天皇という視点からも興味深い指摘だと思われます。GeminiAI> 國分功一郎氏の『天皇への敗北』をご提示いただいたことで、江藤淳という批評家をめぐる風景が一気に現代的なアクチュアリティへと接続されました。江藤淳と國分氏の議論を重ね合わせてみると、先ほどまでの議論が一段と明瞭になります。江藤がなぜあれほどまでに「戦後民主主義」という枠組みに対して苛立ち、明治という過去へ回帰しようとしたのか。その背景には、「日本において立憲主義や政治的正当性を担保する根源的な何かが、最初から天皇という存在に依存してしまっている」という、日本社会特有の脆弱性に対する江藤なりの戦慄があったのかもしれません。1. 「天皇への依存」という構造的欠陥國分氏が指摘する「立憲主義が脅かされる局面で天皇が前面に現れる」という構図は、ある意味で日本社会が自律的な法治社会として完成しきれていないことを示唆しています。 江藤淳は保守派として天皇制を擁護する立場を取りましたが、彼が恐れていたのもまた、「戦後民主主義という虚構の下で、日本人が本来持つべき『自己決定の責任』を、天皇という存在や、あるいは占領軍という外圧に預けきってしまっている」という現状だったのではないでしょうか。彼が「成熟」にこだわったのは、天皇やアメリカという「巨大な他者」に頼らず、日本人が自らの足で立たなければならないという切迫感があったからだと言えます。2. 昭和天皇から上皇・現天皇へ―静かな変化の予兆昭和天皇の時代、天皇は「敗戦」という巨大な断絶の当事者として、常にその存在そのものが政治的・倫理的な重圧を背負っていました。江藤が三島由紀夫の自決に対して当初「病気」と断じ、後に「憂国」へと傾斜した軌跡は、昭和天皇が背負っていたその重圧を、彼が批評家としてどう言語化し、どう引き受けるかという葛藤の歴史でもあります。一方で、上皇陛下から現天皇陛下に至る系譜は、戦後の平和憲法という枠組みの中で「象徴」としての在り方を模索し続けてきました。あの戦争を遂行した当事者が本来引き受けるべきだった「負の遺産(戦争責任と倫理的決着)」に真摯に向き合い続けているのは、実のことろ天皇家だけではないかという疑問すら湧いてきます。さらに、國分氏が指摘するように、危機的な局面で「天皇が守護者となる」という構造が現代も続いているとすれば、江藤淳が激しく攻撃した「戦後日本人の他力本願的な体質」は、天皇制という装置を通じて、現代に至るまで全く解消されていないと言えるかもしれません。3. 「成熟」の問いは終わっていない江藤淳が「保守」として戦い続けたのは、結局のところ、日本人が天皇やアメリカに責任を委託することで、自らの過去や罪と向き合うことから逃げているという「不快な真実」を直視させようとしていたからかもしれません。その手法が攻撃的で、時に陰謀論的で、過去への懐古に終始してしまったことは彼の限界ですが、「自分たちで過去の誤りに対する落とし前をつけられず、他者(天皇やアメリカ)に依存することでしか自分たちの正当性を保証できない」という日本の深層心理への告発は、今なお極めて有効な問いかけです。江藤淳という批評家が残したのは、答えとしての「物語」ではなく、「我々がどれほど自己決定を放棄しているか」という、自分たちに向けた鏡だったのではないでしょうか。國分氏の視点を経由することで、江藤淳の「悪罵」や「支離滅裂にすら見える振る舞い」も、実は「この国には立憲主義の基盤となる自律した主体が存在しない」という、彼なりの絶望的な危機感の表現として再読できる気がいたします。江藤淳をめぐるこの対話は、まさに國分氏が指摘するような「日本社会の現在地」を問い直すことそのものになっています。この視点において、江藤淳が今もなお「終わっていない批評家」として響くのは、私たちが未だに自律的な主体としての「成熟」を成し遂げていない、という現実があるからなのかもしれません。 * * * * *以上の問答、みなさんはどう思われるでしょうか?
2026年07月05日
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昨日、作家・庄司薫の訃報が流れました。訃報を告げる故・中村紘子さんの公式サイトによると、実際に亡くなったのは今年4月5日とのことで、「満開の桜に見守られながら、穏やかにその生涯を閉じました」とあります。昭和という時代が彼方へと遠ざかっていく中で、彼が自らの手で守り続けてきた「沈黙」という名の砦がいよいよ永遠に閉じられたのだと思うと、何だか季節外れの涼風が吹き抜けるような喪失感に襲われます。庄司薫という名を聞いて、亭主に近い世代の読者は、あの『赤頭巾ちゃん気をつけて』の「薫くん」を思い浮かべるはずです。軽やかで、理知的で、少しドジでオッチョコチョイ、でも「競争による優勝劣敗」が支配する社会の現実を憂い、「みんなが幸せになる」にはどうすればいいか、という究極の難問に悩む純粋で誠実な若者。四部作を通じて描き出されたあの青春の軌跡は、亭主をはじめ「戦後民主主義」の世界を生きる若い読者にとって、ある種のロールモデルであり続けてきました。しかし、作家が長逝した今、残された読者が改めて直面しなければならないのは、彼が四部作小説を発表後、1980年代にかけて多少のエッセイを書いた以外は一切作品を発表しなかったという事実の重みです。彼自身がエッセイの中で記していた「どうでもいい問題からは逃げて逃げて逃げまくる」という生き方は、彼が作り上げた「庄司薫」という理想主義的な若者を演じる作者自身と現実との間の終わりなき相剋を表しているように思われます。かつて、評論家の奥野健男氏(1926-1997)は、中公文庫版『さよなら怪傑黒頭巾』(1973)の巻末解説において、庄司薫という作家を巡る屈折した想いを吐露していました。曰く、「主人公の薫くんは好きだが、会いたくはない。なぜなら、猛烈に理想に燃えているヒーローのようで、自分が何を言っても通じないような若さの中にいるから」。その一方で、作者である庄司薫氏については、「腹話術師のようで気味悪い」と評しながらも、同時に「猛然と興味がある」と記していました。会ってみれば話が通じそうで、誰よりも自意識過剰で、シャイで、孤独な人間なのだろうという、作家の素顔への鋭い洞察です。この評は、庄司薫という作家の「二重性」をこれ以上ないほど鮮やかに描き出しています。若い読者が小説の主人公と作者を同一視しながら抱く「共感」と、評論家が作家本人に抱く硬軟織り交ぜた「好奇心」。作者は「薫くん」という完璧な仮面を被ることで、その背後にいる福田章二という生身の、繊細で孤独な人格を隠蔽し続けました。しかし、隠せば隠すほど、その「腹話術師のような不気味さ」が、鋭敏な読み手の鼻をくすぐり、抑え難い好奇心を呼び起こします。彼が福田章二という本名で発表した出世作『喪失』(1958)で用いた文士的な文体と、それを一旦封印後11年の時を経て登場する薫くんシリーズ(1969〜)やエッセイで見せた軽快な「饒舌体」。このあまりに対照的なふたつの文体は、作者と「理想主義」との関係が大きく変化したことを示唆しています。彼はいずれの作品においても(自らの出自でもある)東京山手の教養ある家庭という社会の「エリート層」を舞台にすることで、彼らが負うべき(?)理想主義者としての役割とその蹉跌を暗示しています。一方で、『喪失』がもっぱら純文学の狭い読者に向けた作品に見えるのに対し、『赤頭巾ちゃん…』では、同じ階層出身者である若者が大学紛争という世相の下で自身の生き方に悩む姿を饒舌体で描くことで、作者の理想主義をより広い読者層と共有しようとしたように見えます。(この間の十年あまりは、社会の大衆化が急激に進み始めた時代で、大卒がエリートでなくなりつつあった背景ともよくシンクロしています。)とはいえ、やはり現実社会に生きる作者本人が理想主義を貫徹することは容易でなく、それゆえに彼は「書くこと」をやめざるを得なかったようにも見えます。ところが逆説的なことに、そうすることで「庄司薫」というキャラクターが物語から切り離され、実在の人間として生き延びることになったとも言えます。(実際、彼はその後『赤頭巾ちゃん…』の再版・新潮文庫化に際して2度「あとがき」を寄せていますが(1995年、2012年)、それらはいずれも「薫くん」の文体そのもの。前述の訃報記事のなかにも福田章二の名前はなく、生涯にわたり庄司薫を演じ切ったことを示唆しています。)物語の続きを、本の中ではなくその後の人生の残り時間すべてをかけて体現するという作家の営み。それは、濁世のノイズを「どうでもいい問題」として毅然と遮断し、「みんなを幸せにする」という人類にとって最も重要な問題のために悩み続ける、貴族的なまでの孤独な営み(ノブレス・オブリージュ)だったのかも。いずれにせよ、今となっては福田章二という人間がどんな思いで沈黙を続けたのかは知る由もありません。しかし、彼が命を吹き込んだ「庄司薫」という名の魂は、沈黙という名の聖域の中で、あの頃のまま少しドジでオッチョコチョイな自分を持て余しながらも、理想に燃えて青空を見上げていることでしょう。謹んで故人の冥福をお祈り申し上げます(合掌)。
2026年06月28日
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先々週の6月10日、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)の最も高い尖塔である「イエスの塔」が完成した、というニュースが流れ、NHKでは完成を祝うミサをテレビで放映するなどマスコミを賑わせました。着工から140年以上の歳月を経て、ついにバルセロナの空が大きな節目を迎えたというわけです。ただ、この報に接して亭主の胸に沸々と湧き上がってきたのは、あの独特の意匠に彩られた建築への賛嘆の念というよりは、「そもそも何でこのような異形の大伽藍があの場所に、あの形で現れなければならなかったのか」という素朴な疑問でした。我々はあのファサードや内部にひしめく動植物を模った装飾、あるいは天空を目指して聳え立つコクーンタワーのような尖塔の群れを前にすると、つい19世紀末のアール・ヌーボー的な感性や、中世ゴシック建築が象徴する「純粋な信仰への回帰」を読み取ろうとしてしまいます。しかし、前述の疑問への答えを求めてその背景を掘り下げてみると、そこには19世紀ヨーロッパに勃興した「ナショナリズム」と「帝国主義」、そして「第2次産業革命」という、極めて世俗的でダイナミックな力学が働いていたことに気づかされることに。国家のプロパガンダとしての「垂直性」19世紀後半のヨーロッパ建築界を席巻していたのは、ネオ・ゴシック様式の公共建築でした。これは、もともとは産業革命による機械化や画一的な労働を批判し、中世ゴシック建築に宿る「職人の自由な手仕事」や「不完全さ(荒々しさ・多様性)」こそが、人間性あふれる真の美であると提唱した英国の作家、ジョン・ラスキン(1819-1900)らによる「ゴシック・リバイバル」運動に呼応したものでした。具体的には、ロンドンの英国国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)や、統一ドイツの威信をかけて完成されたケルン大聖堂がその代表例です。ところが皮肉なことに、ゴシック建築の特徴である天を突くような「垂直性」は、近代国民国家が自らの正統性や大国としての富、つまり帝国主義的な権力を視覚化するための巨大なプロパガンダ装置としても実に好都合なものでしたした。それまで主流であったギリシャ・ローマ風の古典主義がナポレオン的な世界支配を連想させるのに対し、アルプス以北で独自に発展したゴシックは、「我が民族の固有の栄光」を偽装・演出するのに絶好の意匠だったというわけです。では、同じ時代にスペインのバルセロナという地で立ち上がったサグラダ・ファミリア教会の垂直性はどうだったのでしょうか。ここにもやはり、強烈なナショナリズムが伏流していました。ただし、それは英国やドイツのような大国の「帝国主義の誇示」とは真逆の、中央政府(マドリード)に対する抵抗と、文化的自立を叫ぶカタルーニャのナショナリズム運動、すなわち「ラナシェンサ(文芸復興)」の熱気だったようです。カタルーニャの人々にとって、中世の地中海を支配していた独立国家「アラゴン連合王国」の記憶は、かつての「カタルーニャ・ゴシック」の姿と重なります。マドリードのカスティーリャ政権に統合され、抑圧されてきた彼らにとって、ゴシック的な垂直性を取り戻すことは、自らのアイデンティティをかけた戦いそのものだったのです。(20世紀のスペイン内戦においてファシスト政権と戦ったのもカタルーニャの人たちだったことが思い出されます。)機械の時代への「抵抗」と「受容」もちろん、この建築の背景には前に触れた「産業革命へのアンチテーゼ」という側面もありました。朝日新聞のインタビューで、長年この聖堂の彫刻に携わってきた外尾悦郎氏が指摘しているように、ガウディが生きた時代はまさに「第2次産業革命」の過渡期で、バルセロナも急速に工業化されていきました。物質的な豊かさの裏側で、伝統的な共同体は解体され、貧富の格差に苦しむ労働者たちの不満が蓄積していく。1909年に起きた「悲劇の一週間」と呼ばれる労働者暴動は、その象徴的な爆発でした。こうした近代化の「影」に対して、サグラダ・ファミリアは当初、迷える近代市民と傷ついた労働者たちの精神的な拠り所、すなわち「神の秩序(大自然)への回帰」を促す贖罪礼拝堂として構想されました。ガウディがアール・ヌーボーの流行と共振するように、直線の存在しない自然界の植物や動物、あるいは巨木の幹を模した柱の造形にこだわったのは、工業社会の無機質さによって摩耗していく人間の魂を救済しようとする、切実な精神的抵抗だったと言えます。しかし、ガウディの真に天才たるゆえんは、彼が単なるノスタルジックな懐古主義にとどまらなかった点にあります。彼は産業革命がもたらした近代的な科学や数学の知見を、驚くべき柔軟さで受容したように見えます。彼が自然界から導き出した「カテナリー曲線(懸垂線)」や双曲面といった高度な幾何学的構造は、古典的なゴシック建築の構造的欠陥(崩壊を防ぐための松葉杖のような「飛梁」を必要とした)を克服し、力学的に最も安定した「有機的垂直性」を可能にしました。当時の最新の物理学的アプローチを駆使して、彼は様式そのものを内側から刷新していったのです。政治的意匠からの「超越」こうして振り返ってみると、サグラダ・ファミリアという建築の輪郭が、ヨーロッパ建築史の中でくっきりと浮かび上がってきます。この聖堂は、カタルーニャの地方ナショナリズムという、政治的で排他的になりがちな熱気を苗床にしながら着工されました。しかしガウディは、その狭い枠組みをも飛び越えてしまったと言えます。英独のネオ・ゴシックが「国家の権力」を誇示するための公共建築だったのに対し、サグラダ・ファミリアは市井の民の寄付だけで建てられる、どこまでも開かれた「祈りの空間」でした。彼はナショナリズムの文脈からゴシックの意匠を「借りてくる」のではなく、自然の法則という普遍的なルールによって構造を解体し、再構築しました。だからこそ、出来上がった世界はネオ・ゴシックでもアール・ヌーボーでもない、どのカテゴリーにも収まらない「ガウディ独自の宇宙」となったのではないか。地方の政治的な情念から出発しながら、産業革命の科学技術を吸い込み、最終的には国家や時代を超越した「地球規模の精神的モニュメント」へと昇華していく。その未完のプロセスそのものが、この聖堂の本質だったのかもしれません。亭主はテレビで眺めた「イエスの塔」の完成祝典を思い起こしつつ、そこに改めて近代ヨーロッパの激動の記憶と、それを乗り越えようとした人間の意志の結晶を見た気がしました。
2026年06月21日
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ひょんなことから、昨日(6月13日)夕方に催されたNHK交響楽団の第2067回公演をNHKホールにて拝聴。きっかけはというと、アマオケでの活動を大いにエンジョイしているらしい平成生まれの家人2人と話をしていたところ、最近になって「プロオケの演奏を生で聴いたことがない」と聞かされてびっくり。やはり社会人なのでウィークデーのコンサートには足を運びにくい(特に北関東在住だと東京での演奏会は遠い)のだろうと想像しますが、チケット代がバカにならないことも要因のひとつのようです。そこで、昨日はちょうど家族の祝賀イベントの日だったので、皆が集まりやすい東京近郊でその日に予定されているプロオケのコンサートをプレゼントすることにして、適当な演奏会はないものかと検索したところ、前述のN響演奏会がヒット。公演日の1週間前でしたがそれなりに席は空いており、連番で席を予約することに。というわけで、昨日は15時ごろ渋谷に集合し、「渋谷ヒカリエ」の11階にあるイタリアンレストランで軽く祝賀イベントを行った後、18時の開演を前に徒歩で代々木公園にある同ホールに向かいました。土曜日夕方とあって渋谷駅とその周辺はかなりの人出で、信号で人流が堰き止められるたびに交差点は大混雑。代々木公園が近づくについれ多少は人は減るものの、あちこちに人がたむろしたり行列を作ったりしています。ところで、亭主が前回最後にNHKホールに足を踏み入れたのは、かのマウリツィオ・ポリーニ(1942-2024)が来日公演の際に特別に催した「青年のためのコンサート」でした。いつのことだったかとネットで調べてみると、何と45年前の1981年(!)。当時と比べて渋谷界隈の街並みは激変しましたが、丹下健三の代表作として名高い国立競技場の吊り屋根やNHKホールの四角張った建物は昔ながらの姿をとどめていて、なんとも懐かしい限りです。 さて、指揮者にヤープ・ヴァン・ズヴェーデン、ピアノ協奏曲のソリストにコンラッド・タオを迎えた曲目(Aプログラム)は・ワーグナー/楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 前奏曲・モーツァルト/ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K. 453・バルトーク/管弦楽のための協奏曲と、時代もスタイルも異なる3曲からなるものでした。これらのうち、メインディッシュであるモーツァルトとバルトークの作品は、平成生まれのアマオケ団員には馴染みがない(聴かないし、やらない)らしく、あまりピンと来なかった(?)ような素振りでした。(年配リスナーである亭主共はもちろん大いに堪能。ヴァン・ズヴェーデンもニューヨーク・フィルを率いて行ったヨーロッパ公演の様子をテレビで拝見していたこともあり、その棒捌きの巧さを再確認。久しぶりに耳の保養になりました。)それにしても気になったのが聴衆の客層で、客席やロビーを見渡して目につくのはやはり中高年男性です。特に女性が少なかったらしく、(連れ合い曰く)「女子トイレがそれほど混んでいないことからも実感できる」とのこと。N響を支える教養主義的なクラシック音楽ファンが昭和世代の男性であることを、この客層がはからずもあぶり出している、というわけです。もちろん興行側であるN響も既にこのことは十分意識しているようで、若い世代を引き込もうと29歳以下が半額にになるユースチケットを用意しています。が、昨日の公演を見る限り、これも功を奏しているとは言い難いようです。このような状況では、前述のポリーニの取り組みが当時とは全く違った重みをもって見えてきます。彼は、このころ(1980年代)から若者がもっとクラシック音楽に親しめるようにと、一般公演とは別のプログラムで30歳以下の聴衆向けに安価にチケットを提供する演奏会を催していたようで、1981年以後の来日時にも必ず「青少年のためのコンサート」を設けていました。 一方で、当時の亭主共は「有名なピアニストの演奏が安く聴けてラッキー」という程度にしか受け取らず。彼以外にこのような取り組みをする著名演奏家も皆無という状況でした。今から思うに、招聘経費がかさむ海外演奏家の儲けを担保したい興行主にとって、このような廉価版の演奏会は(建前はともかくホンネでは)「はた迷惑」ぐらいの意識だったかも(?)。これに比べると、ポリーニの先見性は端倪すべからざるものがあると言えます。(彼の達見は誰にも共有されることなく、コトここに至っていることについては残念としか言いようがありませんが…)今年はN響の前身である「新交響楽団」が1926年に創設されて100年の節目の年とかで、ホールのロビーには100周年記念イベントにちなんだ立て看板なども設置されていました。ふと、いまから50年後、あるいは100年後にN響がどうなっているのだろう、と想像を試みるも、やはりイメージが湧かないというのが正直なところです。
2026年06月14日
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最近のA新聞書評欄で「予備校盛衰史」(小林哲夫著、NHK出版、2026)という本が好意的に紹介されているのに遭遇。半世紀近く前に予備校にお世話になった亭主も興味が湧き、思わず手に取ったところ面白くて一気に読了。ちなみに書評の主である政治学者・御厨貴さん(1951-)も予備校(駿台)にお世話になった口らしく、本書の中にも何度か登場します。本書の腰巻にも「なぜ高校より面白かったのか?」とある通り、昭和の予備校経験者(特に高校既卒者)の中には予備校生活を貴重な人生経験として懐かしむ人が少なくないようで、亭主もそのような一人です。なぜかというと、当時の予備校は、部外者が想像しがちな「(八百屋がキャベツを売るように)大学受験のノウハウを教えるだけの場所」ではなく、ある意味で何でもありの「私塾」という側面があったからです。ここで個人的な思い出話を少々。亭主が世話になったのは河合塾ですが、これはいくつかの偶然の賜物でした。亭主はとある関西の国立大学を受験して見事失敗し、滑り止めとなる他大学も受けていなかったので一発で浪人が確定。その当時、地元福岡にも予備校はいくつもあり(出身高校の裏手には高校の延長のような予備校もあった)、いろいろと迷っていたところ、同じ境遇となったことを偶然知った同級生の一人が「河合塾が東京校を新設するらしい」と立派な募集パンフレットを持ってきました。(彼はその春に親の転勤に伴って東京に出るということで、東京の予備校について調べているうちに河合塾の情報をつかんだようです。)件のパンフレットはかなりのページ数で体裁も豪華、「英国大学の学寮(カレッジ)をモデルにしたチューター制度」などを謳い、親身なマンツーマンの指導をアピール。また、校舎に隣接して「駒場ボーディング」という三食賄い付きの塾生寮も開設するとあり、大学受験失敗という人生最初の大きな挫折(?)を前にして何か「心機一転」の口実を探していた亭主には、「東京での予備校生暮らし」は大いに魅力的に感じられました。ちなみに、今では少子化に加えて大学定員の増大や受験の多様化が進み、高校生の間では現役合格が当然視されるようになっているようですが、昭和の時代には4年制大学の定員に対して18歳人口が3倍を超えており(下図)、特に難関国立大を目指す受験生にとって一浪程度は当たり前のような雰囲気がありました。というわけで、亭主は誘ってくれた友人とともに上京。初めて見る東京のすべてが目新しく、まさに「お上りさん」状態で小田急線の東北沢駅に降り立ったことが懐かしく思い出されます。さらに、真新しい校舎や学生寮(いずれも東京大学駒場キャンパスの目と鼻の先にある)、名古屋の河合塾本部から派遣されてくる名物講師や東大駒場の先生たち(アルバイトで来ていた?)の授業などに加え、寮での新しい友人(実はライバルでもあるが…)との交流など全てが新鮮で、予備校生活の1年はまたたく間に過ぎました。なかでも印象に残っているのが、下ネタ混じりの漢文の授業で鳴らし「ポルノ漢文」(略して「ポルカン」)とあだ名された古文・漢文の講師、鈴木哲(すずきあきら?)先生。彼の授業は立ち見が出るほどの人気であっただけでなく、授業中にしばしば漢文から離れて「読んでおくべき本」のさわりを紹介するなど、知識に飢えた生徒たちの好奇心を刺激するものでした。亭主もこの授業がきっかけで受験を超えた読書体験を持つことに。言及される本もナポレオン・ヒルの「巨富を築く13の条件」からC.G. ユングの「ユング自伝」まで、必ずしも教養主義にとらわれない幅広さで、18歳のウブな若者を挑発します。今から思うと、このような「受験勉強さえしっかりやっていればあとはなんでもあり」という自由さ、さらには大学教養課程との親和性が、予備校文化の中核をなしていたと思われます。特に亭主が在籍した1970年代の終盤は、まだ大学紛争(1968-69)からそれほど間もなく、本書中でも予備校の講師陣にそのような「全共闘世代」が多くいたことも自由な雰囲気の背景にあっただろうと言われています。(紛争前は物理学者として嘱望されていた駿台の山本義隆氏などがその典型?)この辺りのことを詳しく論じた第六章「予備校文化とは何か」の冒頭で、著者は当時映画評論家として知られていた蓮實重彦氏(1936-、フランス文学研究者)が1987年に河合塾千種校で行った講演の一部を紹介していますが、そこで述べられた予備校に対する評価については亭主も大いに共感するところです。蓮見氏は、この講演の前年に河合塾が作った国語の模擬試験で、自分のエッセイが問題文として使われたことに公の場で激しく反発した作家・丸谷才一氏について、日本の文化状況をまったくわかっていないと批判し、この作家が新聞や論壇誌などで重視されていることを「日本の文化の貧弱」と評します。その上で、そうしたものが作り上げている日本の文化の貧弱さと、河合塾のような予備校が、日本の中で作り上げている文化の不気味なアナーキズムと、どちらが重要か?僕は、やはり予備校ののように、既存の秩序に登録されていないものが作り上げていく文化の方が、面白いし活力にとんでいるという気がしています。(同書 pp.214)と、予備校の「不気味なアナーキズム」を評価しています。さらには、いまだ充分に分析されつくしていない「予備校文化」というものが、21世紀あるいは22世紀の人々にとって、1970年代80年代の日本を分析する場合に、どうしても考えておかなければならない、あるいは何かの形で機械にインプットしておかないと、その文化の相貌が把握しがたくなる要素の一つとして出てきているように思うのです。(同書 pp.215)とまで言っています。ちなみに、亭主が蓮實重彦のことを知ったのも予備校の同級生(フランス文学志望)のおかげで、彼の「表層批評宣言」(1979年)などを覗いてその異様な文体にのけぞったことが思い出されます。(もちろん、こんな変人(?)が後に東大総長になるとは夢にも思わず。)それにしても、18-19歳という多感な年頃に、たまたまこの時代の予備校文化に接する機会を持った亭主、本書を読んだことで(単に楽しかったという以上に)貴重な体験をさせてもらった幸運を感謝する次第です。
2026年06月07日
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未音亭の書棚はだいぶ前から本が満杯になっていて(というかはみ出している状態)、あふれた本が居間の茶卓や棚に積まれています。連れ合いが読んでいた最相葉月さんの『絶対音感』(新潮文庫)もそんな一冊で、しばらく前から放置されていました。が、邪魔になってきたので別の場所に移動しようと思い手に取ったところ、気になってこの週末に斜め読み。色々な音楽家や研究者のインタビュー記事が面白く、あらためてこの問題を考えるきっかけになりました。『絶対音感』は、1998年に小学館から刊行されて既に30年近くが経過しています。当時、この著作は単なる「音楽的な特殊能力の解説書」にとどまらず、日本の近代化が抱えた歪みや、西洋コンプレックスの精神史を抉り出すノンフィクションとして大きな注目を集めたようです。亭主にとってとりわけ驚きだったのは、明治以降の日本の音楽界において「絶対音感」が西洋音楽の受容に必須の能力との信仰(思い込み)が生まれ、これを身につけさせる訓練が戦後しばらくまで長期にわたり実践されていたという事実です。特に徹底していたのがプロの音楽家を養成するための教育で、本書の基になった取材が行われた1980-90年代においても多くの信奉者がいる状況だったように見えます。『絶対音感』のなかで象徴的に描かれたのが、高名なピアニスト・園田高弘氏とその父親である清秀氏のエピソードです。 父・清秀氏は、日本人が西洋人に伍してクラシック音楽の世界で戦うためには、幼少期からの厳格な絶対音感教育が不可欠であると盲信しました。まだ自我も芽生えない幼児期から、生活音のすべてをドレミに置き換えさせるような訓練は、最相氏の言葉を借りれば「他者の意志の刻印」そのものでした。このような「絶対音感至上主義」は、大正から昭和初期にかけて一部の英才教育の現場で過熱し、戦時中には「潜水艦の音を聞き分ける能力」として軍事利用されるにまで至ります。ここには、西洋の「天才」という神秘的な概念への憧憬と、それを体系的に再現しようとした日本特有の「技術主義・精神主義」の奇妙な融合がありました。さらに、戦後に設立され、日本が西洋音楽の国際舞台で戦える人材を育成するための「近代化の総仕上げ」とも言える英才教育機関、「子供のための音楽教室」(現在は桐朋学園大学音楽学部附属)においても状況は同じでした。「子供のための音楽教室」の教育システムを構築した中心人物は、小澤征爾の師としても知られる指揮者・チェリストの斎藤秀雄です。斎藤は日本の音楽教育に「徹底的なシステム化と合理性」を持ち込みました。斎藤秀雄が特に重視したのが、音楽教室における「聴音(耳で聴いた音を楽譜に書き起こす訓練)」と「初見視唱」です。 ・「ハ調読み(固定ド)」の徹底: 教室では、どんな調の曲であっても、聴こえた音をそのままの絶対的な音高(CDE…)として認識させる「固定ド」によるソルフェージュが叩き込まれました。 ・絶対音感の選別と育成: 幼児期にこの教室の門を叩く子供たちは、入室試験や初期のレッスンの段階で、すでに絶対音感を持っているか、あるいはそれを極めて短期間で開発できるポテンシャルを持った子供たちだけが実質的にスクリーニング(選別)されていきました。また、「子供のための音楽教室」では、後にこの教室の出身者である中村紘子氏が批判した井口愛子氏の「メカニック(技術・指の独立)中心のレッスン」と、斎藤秀雄らの「絶対音感・聴音中心のソルフェージュ」が車の両輪として機能していました。当時の教育者たちの問題意識は明確で、「ヨーロッパの人間が何百年もかけて身体に染み込ませてきた伝統(和声感や歌心)を、日本人が戦後の短期間でキャッチアップするにはどうすればよいか」でした。その結果、導き出された答えが、 耳(聴覚): 絶対音感によって、楽譜の音を完璧にデータ化して捉える。 指(肉体): メカニック訓練によって、そのデータを寸分の狂いもなく鍵盤に再現する。という、極めてデジタルでシステマチックな方法論でした。(例えば音楽理論における「藝大和声(島岡和声)」もこのような発想のもとに生まれたと言えるのかも?)中村紘子氏は後年、ジュリアード音楽院に留学した際、この「耳と指の完璧なサイボーグ」として育てられた自分が、ヨーロッパやアメリカの泥臭くも豊かな「歌(音楽性)」を前にしたときに味わった深い絶望と挫折を率直に綴っています。のちに桐朋で学んだ多くの音楽家(指揮者の秋山和慶氏や、チェリストの堤剛氏ら)も、斎藤秀雄による「一音の狂いも許さない」凄絶な聴音のレッスンの記憶を語っています。ここでは、絶対音感は「あれば望ましい才能」ではなく、「それがないと授業についていけない必須のパスポート」だったのです。かつて国際的な音楽コンクールにおける日本人演奏家への評語として、半ばステレオタイプ化していたのが「技術(メカニック)は完璧だが、音楽(芸術)がない」というものでした。この原因こそが、まさに絶対音感を至上命題としてきた日本の音楽教育の弊害であったと指摘されています。絶対音感教育を極限まで突き詰めると、脳は音を「単発の記号(周波数)」として認識するようになります。しかし、西洋音楽の本質は、音と音の「関係性(インターバル)」や、調性の中での「引力」にあります。ヨーロッパの伝統的な音楽教育(ソルフェージュ)が重視するのは、主音に対してその音がどう響いているかを感じ取る「相対音感」です。絶対音感に偏重した教育は、演奏家を「楽譜に書かれた絶対的な音高を、寸分の狂いもなく再現する精密機械」へと仕立て上げがちです。 ・息づかいや揺らぎの喪失: 楽譜の行間にある「ためらい」や「情熱」といった主観的な表現が削ぎ落とされる。 ・文脈の軽視: 和声の変化がもたらす感情の陰影よりも、正しい打鍵が優先される。結果として、コンクールでは「ミスのない完璧な演奏」として予選を勝ち抜くものの、本選では審査員や聴衆の心を揺さぶることができない、という残念な結果になったというわけです。『絶対音感』が世に出て以降、認知科学や発達心理学、言語学の急速な進歩により、かつて「神から与えられた天才の証明」のように語られていた絶対音感の神秘性は完全に解体されました。現在、科学的に到達している結論は次のようなものです。絶対音感とは、幼児期の脳の柔軟な時期(概ね6歳半まで)に、特定の音高と音名を結びつける訓練を行うことで得られる「後天的な知覚プロセスの固定化」である。言語学の観点から見れば、これは「幼児期の言語習得」と全く同じメカニズム(脳のシナプスの剪定・枝刈り)です。 特に日本語のように、音の「高低(アクセント)」で意味を区別する高低アクセント言語を持つ環境や、中国語のように声調(トーン)が意味を決める言語圏では、幼少期に音楽訓練を受けると絶対音感を獲得しやすいことがデータで証明されています。つまり、絶対音感とは「音楽的才能」そのものではなく、幼児期にしか開いていない「知覚の窓」のタイミングでインストールされた「一種の脳のバグ(あるいは特化機能)」に過ぎないというのが現在の共通理解です。移調楽器への対応が困難になる、440Hzからずれた古楽器の演奏で激しい目眩や不快感を覚える、といった深刻な不便さも広く知られるようになりました。最相氏の著作がミリオンセラーとなり、さらに科学的な解明が進んだことで、日本の音楽教育現場(特に1990年代末から現在にかけて)は大きなパラダイムシフトを迎えました。1)「絶対音感」から「相対音感・和声感」へのシフト現在の日本の主要な音楽大学や幼児音楽教育(ヤマハ音楽教室など)では、かつてのような「単音の絶対音感」を絶対視するカリキュラムは影を潜めています。重視されるのは、音がつながったときに生まれる「和声感」や、調性のドラマを感じ取る「相対音感」の育成です。これにより、日本人の演奏スタイルも「正確さ」から「豊かな表現力とダイナミズム」へと明確にシフトし、現代の国際コンクール(ショパン国際ピアノコンクールなど)での日本人ピアニストたちの目覚ましい、そして個性豊かな躍進へとつながっています。2)西洋音楽中心主義からの「脱却」と「相対化」文部科学省の学習指導要領の変遷を見ても、かつての「西洋音楽=上等、邦楽=下等」という明治以来の呪縛からの脱却が進んでいます。2002年の和楽器(和太鼓や箏など)の必修化に始まり、現代の音楽教科書では、クラシック音楽は数ある世界の音楽スタイルの「一つ」として相対化されています。かつて日本の音楽家たちを縛り付けた「絶対音感」という名の呪縛。それは、西洋という巨大な壁に追いつこうとした過渡期が生んだ、哀しくも真摯な「最適化のイリュージョン」だったのかもしれません。科学によってその神秘のベールが剥がされ、日本の音楽教育が「正しい音を出すこと」から「音を楽しむこと、表現すること」へと重心を移した現在、私たちはようやく、真の意味で西洋の伝統と対等に向き合えるようになったと言えます。絶対音感は、あれば便利な「道具」の一つではあっても、芸術の扉を開くマスターキーではない―。この当たり前の事実に着地できたことこそが、日本の西洋音楽受容史における、最大の成熟の証なのではないでしょうか。
2026年05月31日
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4月にNHKラジオ第2放送(AM)の廃止という一大変化がありましたが、そのあおりを受けて「古楽の楽しみ」の放送時間がまたもや朝5:00~5:55になってしまい、6時台に起床する亭主の目覚まし(古いミニコンポのラジオをタイマーで起動)に使えなくなってしまいました。仕方がないので今度はラジオの代わりにCDプレーヤーを起動することにして、あらかじめ選んだCD5枚を就寝前に日替わりでセットして自動演奏させています。その5枚ののうちの2枚は冨田勲の「バッハ・ファンタジー」と「月の光」。亭主の好みであるバッハとドビュッシーの音楽のシンセサイザー版です。目覚ましなので、毎回寝床で耳にするのはせいぜい冒頭の10-15分ですが、特にバッハの音盤の冒頭にある「早起き鳥」(カンタータ第208番「楽しき狩こそ、わが喜び」のアリアの編曲)は、まさに早朝の清々しさを絵に描いたような響きで気持ちよく目を覚ますことができます。 「月の光」のCDは、この曲がシンセサイザー音楽の処女作として1974年に発表されてから30周年の2004年に「復刻」された一連の音盤の1枚で(LPのオリジナルジャケットを縮小印刷した紙ジャケット入り)、亭主の手元には他に「惑星」(ホルスト)と「ダフニスとクロエ」(ラヴェル)があります。ところで、冨田勲は前回このブログでも取り上げたグレン・グールドと同じ1932年生まれ。亭主は多感な10代に彼の活躍をリアルタイムで体験した世代ですが、気づいてみると今年は彼の没年(2016年)からちょうど10年になります。それもあってか(?)、先週の「クラシックTV」でも彼の音楽が取り上げられていたのを拝見。今では富田の音楽が国内外で高く評価されており、番組中でも「月の光」が米国で発表されるや大絶賛されて、日本人として初めてグラミー賞の4部門にノミネートされるという快挙を成し遂げたことが強調されました。番組のゲストで、かつて「イエローマジックオーケストラ(YMO)の四人目のメンバー」と言われたシンセサイザー・プログラマーの松武秀樹さん(富田の「一番弟子」)によるシンセサイザーの簡明な解説も秀逸。最後には、ご遺族のご厚意で実現したという富田のオリジナルテープと4チャンネルオーディオ装置による「月の光」の再演で大いに盛り上がっていました。とはいえ、番組で触れられなかった黒歴史として、日本の音楽業界では当初「月の光」が冷遇されたことがあげられます。富田がこの作品を日本のレコード会社に持ち込んだところ、「こんなものは売れない」と発売を断られ、米国のRCAから世に出ることに。米国での大成功を受けて日本でも発売されると、一般聴衆には大ヒットしたものの、伝統的なクラシック音楽評論家や音楽界にはどう評価していいか分からず、ジャンル不詳の「珍品」扱いをされたり、レコード店の棚に並べることすら敬遠されるなど、当時の流通システムや業界の頭の硬さが偲ばれます。この落差の由来はおそらく単純で、一般聴衆(亭主も含め)は富田の音楽を「新種のポピュラー音楽」と受け取ったのに対し、クラシック音楽界はそれをあくまで「クラシック音楽の編曲」とみなしたことにあります。実際、たとえば「月の光」を聴いて感じるのは、作られた音が実際の楽器の音をある程度なぞっていることです。冒頭の「雪は踊っている」では、まず弦楽器(ヴァイオリン?)のユニゾンではじまり、さまざまな既存楽器の模倣音やノイズ的な効果音が重ねられていくようすが伺えます。この点だけを考えれば、富田が目指していたのは従来のオーケストレーションの模倣のようにも思われます。それを人工的な音でやってみせた点は当時としては画期的で、サウンド的にも斬新だったと思われますが、クラシック音楽の観点からは「正統的な解釈・演奏からの逸脱」としか受け止めらられなかったのでしょう。では、彼がその後切り拓いた音楽の革新性が一体どういうところにあったのか?冨田が愛した巨大な壁のような楽器「モーグ・シンセサイザー」の仕組みを考えながら、亭主なりに少し深掘りしてみました。・電子オルガンとは何が違ったのか?1970年当時、すでにヤマハのエレクトーンなどの電子オルガンは市販されていました。では、モーグ・シンセサイザーとは何が根本的に違ったのでしょうか?一番の違いは「すべての音の要素を、電気信号(電圧)でリアルタイムにコントロールできるか否か」にあります。当時の電子オルガンは、あらかじめ用意されたスイッチを切り替えて「フルート風」「オルガン風」の音を選ぶ仕組みでした。言わば、最初から中身が完成している楽器です。一方のモーグは、音を出す回路、音色を削り出すフィルター(回路)、音量を操る回路がバラバラに独立していました。これらを「パッチコード」という電線でプレイヤー自身がつなぎ、電圧を変化させることで、音が時間とともに「ミョーン」と有機的に変化する仕組みを作ったのです。特にモーグのフィルター回路が放つ太く温かい倍音は、電子オルガンには絶対に出せないものでした。・気が遠くなるような「不自由さ」との闘いこれだけ自由なモーグですが、実は信じられないほど不自由な機材でもありました。まず、温度変化に極端に弱かったことです。部屋の温度が少し変わるだけで音程が簡単にズレてしまうため、冨田さんのスタジオではエアコンでの厳密な温度管理が欠かせませんでした(今のデジタルシンセサイザーでは想像もできませんが、アナログの電気回路ではこれが常態)。さらに、モーグは基本的に「同時に1つの音」しか出せません。あの重厚なオーケストラの和音を作るために、冨田さんは1音ずつ音を作っては、オープンリール・テープに何度も何度も重ねて録音していきました。その上、ツマミの位置がミリ単位でズレるだけで音が変わってしまうため、「さっき作ったお気に入りの音」を二度と再現できないという、まさに一期一会のアナログ世界だったのです。(このあたり、グールドが録音スタジオでテープを切り貼りしながら理想の演奏を実現しようとした様子とも重なります。)・音楽市場への参入戦略としての「模倣」前述のように、名盤「月の光」を聴くと、冨田は「本物のオーケストラの真似」を目指していたようにも思えます。しかしこれを後知恵で眺めれば、当時の保守的な音楽関係者やリスナーに対し、「シンセサイザーはただの電気玩具やノイズマシンではなく、芸術音楽も作れる可能性を持った楽器だ」と納得させるための戦略として機能したとも言えます。当初は彼の作品に困惑し、これを敬遠した音楽界も、米国でのヒットやその後のYMOによる「テクノポップ」の大流行(=商業的な大成功)を受けて、この流れに乗った方が得だという打算も働いたことでしょう。・そして、西洋音楽の枠を超えた「宇宙」へ「月の光」で世界に実力を認められた冨田は、その後の「展覧会の絵」(1975年)や「惑星」(1976年)といった作品で、いよいよシンセサイザーの本領を解放し、生身のオーケストラには絶対に不可能な「新しい時空間」を作り始めます。「展覧会の絵」では、音の立ち上がりを極端にコントロールして、おもちゃの兵隊やひな鳥の鳴き声のような「コミカルな人格」を音そのものに与えました。また、冨田作品によく登場する人間臭い「口笛」のような音は、鍵盤のドレミ(十二平均律)の間にある、半音よりさらに細かい音(微分音)を電圧で滑らかに揺らすことで生み出されています。ところで、冨田は早くから4チャンネル(サラウンド)を意識していました。「惑星」では、シンセサイザーの宇宙船の音がリスナーの頭上をぐるぐると旋回します。これによって「ステージ(前方)から音が聴こえる」という伝統的なオーケストラの物理的限界を完全に超えて見せたとも言えます。さらには、本物の「中性子星(パルサー)が放つ宇宙電波」のデータをノイズとして音楽に混ぜたり、バッハの旋律をロボットのような声(ボコーダー)に歌わせたりと、コンセプチュアルなアートへと進化していきました。冨田勲が行ったこと、それは既存の楽器の「代用品」を作ることではなく、一見無機質な電子回路の限界に挑み、その中から風のそよぎや宇宙の深淵、そして人間のため息のような「生命の揺らぎ」を引き出すことでした。本物の楽器を徹底的に「模倣」できるほどの圧倒的な技術があったからこそ、そこから宇宙へ飛躍したときの冨田サウンドには、誰にも真似できない本物の説得力が宿っていたのだと言えるかもしれません。
2026年05月24日
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クラシック音楽の歴史において、「異端の天才」と呼ばれるピアニストは数多くいますが、その双璧として、ほぼ同い年でありながら、全く異なる地平を歩んだように見える二人の演奏家がいます。グレン・グールド(1932〜1982)とフリードリッヒ・グルダ(1930〜2000)。現代において、グールドは「時代の先覚者」として神格化され、その思想やメディア論は今なお膨大な言葉で語り続けられています。一方でグルダはどうでしょうか。「ウィーンの正統派でありながら、ジャズに狂った天才」「ステージで裸になった奇人」。そんな表面的なスキャンダリズムや、単なる「ジャンルを横断した趣味人」というレッテルで片付けられているように見えます。しかしながら、亭主のようなグルダ・ファンから見ると、没落する「教養主義的クラシック音楽」に代わって隆盛する「古楽(HIP:歴史的情報に基づく演奏)」という未来を予言していたのは、もしかするとグルダのほうだったのではないか、という気がします。まず、なぜグールドがあれほどまでに知識人たちを魅了し、評論の対象になってきたのか。日本のグールド論者たち(目ぼしいところでも吉田秀和、浅田彰、青柳いずみこ、宮澤淳一など数多)の批評を眺めていくと、ある一つの共通する「核心」が浮かび上がってきます。それは、グールドのアプローチが「19世紀的なクラシック音楽システムへの全面的な異議申し立て」であったという点です。19世紀、ヨーロッパでドイツを中心にロマン派音楽が花開いた時代、音楽の受容態度は娯楽・嗜好品から真面目な音楽中心(=芸術至上主義)へと大きく変質しました。「大作曲家」が神聖視され、楽譜は絶対的な聖書となり、劇場(コンサートホール)という密閉空間で、神格化されたスター演奏家が一回性のスリルを演出し、聴衆がそれを盲目的に消費する―。近代の聴衆が当然と思ってきたこの「興行システム」は、実は「神なき時代」の19世紀に作られた一種の宗教的代替物のようなものでした。グールドは、バッハを弾く際、この「19世紀のべたつくロマン派的な色眼鏡」でバッハを見ることを徹底的に拒絶しました。ペダルで音を濁らせ、情念たっぷりにテンポを揺らす演奏を嫌い、ハープシコードのような明晰なノン・レガートで、バッハの構造(ポリフォニー)をレントゲン写真のように白日の下に晒したのだとも言えます(吉田・青柳)。これは第一次世界大戦後にロマン派への反動として生まれた「新即物主義」の流れを汲んでいるとも言えます。さらに、彼はあの有名な「コンサート・ドロップアウト(舞台放棄)」を決行します。劇場で演奏家がカリスマとして消費される欺瞞を嫌悪し、録音スタジオという密室へ引き籠もりました。それは、19世紀的なコンサート制度に対する、最もラジカルなテロルでした(宮澤)。実は、この「グールドの反逆」の動機は、20世紀半ばからヨーロッパで静かに進行していた「古楽復興運動」の動機と完全にシンクロしています。アーノンクールやブリュッヘンといった古楽のパイオニアたちもまた、近代の大オーケストラや19世紀的な「崇高な芸術音楽」という神話に異議を唱えました。彼らは「作曲家が本来意図した響きを取り戻す」という大義名分のもと、19世紀的な肥大化した演奏伝統を削ぎ落とそうとしたのです。その意味で、グールドと初期の古楽運動は、同じ敵(=19世紀的な因習)と戦う同志でした。しかし、ここからが決定的な分岐点です。グールドは、19世紀の劇場空間を破壊するために「テクノロジーによる脱身体化(密室への逃走)」(浅田)を選びました。生身の身体の不確実性を嫌い、録音テープの編集によって「完璧なイデアとしての音楽」をサイバー空間に立ち上げようとしたのです。では、その後の「古楽運動」はどこへ向かったでしょうか?驚くべきことに、古楽が辿り着いたのは、グールドの選んだ「密室のサイバー空間」とは真逆の地平でした。それこそが、「演奏の一回性の回復」であり、「演奏家の生々しい身体性の復権」だったのです。現在の古楽(ピリオド楽器)演奏を聴けばすぐにわかるように、そこに聞こえるのは、狂おしいほどのダンスのグルーヴであり、楽譜に書かれていない装飾音をその場で繰り出すスリリングな即興演奏です。通奏低音の奏者たちはジャズのベーシストやギタリストのように、その場のインスピレーションで和音を組み立てています。つまり、現代の古楽運動が明らかにしたのは、「19世紀以前の音楽の本質は、作曲家=演奏家と聴衆がその場でスリルを共有する『一回性の身体性』にこそあった」という事実です。楽譜は絶対の聖書ではなく、即興のベースとなる「概略図」、あるいは速記録に過ぎなかった。古楽は、19世紀的な「崇高で動かない芸術音楽」を解体し、音楽を「生身の人間が躍動する祝祭」へと取り戻したのです。ここで、私たちの前に、一人の男が巨大な影を落とします。かのフリードリッヒ・グルダです。グルダがウィーンの伝統を捨て、ジャズの即興演奏へ身を投じた時、世間はそれを「クラシックの異端児がジャズに浮気した」と笑いました。しかし、これこそが浅薄なジャーナリズムの最大の誤解でした。音楽評論の空間においても、日本の評論家の大多数は、グルダの反逆を「ヨーロッパの輝かしい伝統(ウィーンの正統)をすべて与えられたエリートが、その『父の重圧』に耐えかねて、アイロニーを含みながら別のオモチャ(ジャズ)へ逃避するかのような、屈折した反抗期のようなもの」としか見ていなかったようです。 彼らがグールドの「自立した論理」を至高のモダニズムとして言語化することで伝統的なクラシック音楽の埒外に置いた(「聖別」し「ブランド化」した)のに対し、グルダの反逆を「伝統への甘えと反抗」の類に見てしまった(「黙殺」した)ことが、その後の両者の評論の格差の決定的な土台となったと言えます。グルダは、単にジャズというジャンルが好きだったわけではなく、「クラシックのコンサートホールが失ってしまった、音楽の野生、即興性、そして身体のグルーヴ」を取り戻すための触媒として、ジャズを必要としたのだ、と言うことができます。バロック音楽の本質である「即興」や「スウィング感」は、クラシック音楽教育の中では「芸術音楽にふさわしくない」として排除されていました。グルダは、その失われたバロックの本質が、現代においては「ジャズのジャムセッション」の中にこそ脈々と生き続けていることを見抜いていたのです。彼がジャズに求めたもの、それは「表面的な趣味」などではなく、19世紀的クラシック音楽制度に対する、最も本質的で、最も血の通った「反抗」だったというわけです。グルダのクラシック演奏、特に彼の残したモーツァルトやベートーヴェンの録音を、現代の古楽ファンの耳で聴き直すと、鳥肌が立つような発見があります。グルダのピアノは、モダン・スタインウェイを弾いているにもかかわらず、驚くほどペダルが少なく、音が硬質で明晰です。そして、強烈なまでの推進力(前へ前へと進むテンポの維持)と、鮮烈なアーティキュレーション(音の区切り方)を持っています。これは、現代の私たちが「フォルテピアノ(18世紀当時のピアノ)」の演奏を聴いたときに感じる衝撃と、完全に一致するのです。当時のフォルテピアノは、現代のピアノほど音が伸びません。だからこそ、演奏家は「音の減衰」を逆手に取り、鮮烈なリズムと指先のタッチ(身体性)で音楽を躍動させる必要がありました。グルダは、モダンピアノという巨大な楽器をコントロールしながら、その肉体から発せられる打鍵によって、フォルテピアノが持つ本来の「キレ」と「野生味」を再現していたのです。グールドがバッハのノン・レガートを「ハープシコードのような冷徹な構造」として提示したのだとすれば、グルダはモーツァルトのノン・レガートを「フォルテピアノのような、肉体が弾けるダンス」として提示しました。これこそ、現代の古楽奏者たち(例えば、アンドレアス・シュタイアーやジャン・ロンドーなど)が実践しているアプローチそのものではないでしょうか。グレン・グールドは確かに天才でした。彼はテクノロジーの未来を見据え、デジタル社会における「孤独なリスナー」のあり方を予言しました。だからこそ、言葉を愛する批評家たちはグールドを熱狂的に論じました。しかし、グルダは言葉で語る代わりに、自らの肉体で、ステージの上で、未来を体現しました。19世紀的な「真面目で堅苦しい芸術音楽」の檻をぶち破り、バッハやモーツァルトが本来持っていたはずの「一回性の即興性」と「強烈な身体性」を現代に蘇らせようとしたグルダの試みは、当時のクラシック界からは「理解不能な奇行」として葬られました。しかし、21世紀の今、古楽運動が成熟し、クラシック音楽が「楽譜の崇拝」から「身体の解放」へとシフトした現在の視点から見れば、グルダの輪郭は全く違って見えてきます。彼は単なるジャズ好きの変人ではなかった。それどころか、19世紀の呪縛を解き放ち、音楽を「生身の歓喜」へと回帰させようとした、時代を1世紀分も先走ってしまった「古楽の先駆者」だったのではないか。今こそ、すべての古楽ファン、そして音楽の生々しい感動を求める人々へ勧めたい。耳を澄ませて、フリードリッヒ・グルダを聴いてみてください。そこには、我々がようやく辿り着いた「音楽の未来」が、すでに何十年も前から鳴り響いているはずです。
2026年05月17日
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上野の山にそびえ立つ「音楽の殿堂」、東京文化会館が改修のために約3年間の眠りにつきました 。東京都や横浜といった首都圏では、そのほかにもオペラ・バレエ公園に対応できる劇場・ホールが同様の事情で一斉に休館することから、オペラやバレエを愛する人々、そして興行を支える関係者からは「公演を打つ場所がない」と悲鳴が上がっているそうです 。事態を伝える先週のA新聞一面トップ記事には「世界的指揮者」リッカルド・ムーティ氏(保守的な音楽観の持ち主として知られる)までが登場し、「若者が芸術に触れる機会を失う」と警鐘を鳴らすなど、いよいよこれは国家レベルの文化危機であるかのような趣です 。とはいえ、少し冷静になって考えてみると、この記事の背景として「東京中心主義」と、クラシック音楽の関係者特有の芸術観が透けて見えてくるのが興味深いところです。当該記事によれば、東京文化会館を所管する東京都生活文化局は、今回の事態に対して「今は他県にも優れた設備を持つ劇場がある。地方の人に上質の公演に触れてもらう好機に変えてほしい」という極めて真っ当な見解を示しています 。これへの反論として、記事では「大津市のびわ湖ホールも休館に入るため、受け入れは不可能だ」と述べています 。確かに、びわ湖ホールのようなオペラ対応の劇場の休館は痛手でしょう。しかし、これだけ地方にたくさんの箱物がある日本で、他に同様の劇場施設はないのだろうか、という素朴な疑問も湧いてきます。そこで亭主がAI先生の助けを借りて調べたところ、北は札幌文化芸術劇場 hitaru(最新の四面舞台を備え、オペラやバレエの巡回公演に完全対応した北海道初の本格的劇場)から南には北九州ソレイユホール(古くから西日本のバレエ・オペラ公演の拠点として活用されてきた)まで、オペラやバレエの大規模な舞台に対応できるスペックを持ったホールは全国各地に10指に余るほど存在します。にもかかわらず、それらが「代替候補」として議論された様子は伺えません。その理由は、おそらく興行側にとっての「採算」という冷徹な計算があるからでしょう。移動コストがかさみ、東京のような集客が見込めない地方公演は、彼らにとってもともと選択肢に入っていない。つまり、「打つ場所がない」のではなく、「(東京と同じ興行利益を出せる)場所がない」と言い換えるべきなのかも?(そもそもコロナ禍の際には、代替施設どころか日本中のあらゆる劇場が年単位で使用不能になったはず。その教訓はどこに行ったのでしょう…)それにしても、この記事を読んでいて少し胸焼けするような感覚を覚えるのは、随所に散りばめられた形容詞の数々です。東京文化会館を「世界最高峰の上演に触れることのできる日本随一の劇場」と称え、来日した名門楽団を「世界の名門」、日本の聴衆を「世界中のアーティストが『最上の聴衆』と一目を置く」と持ち上げる 。そして締めくくりには「世界的指揮者」の言葉を引用し、社会インフラや制度の不備を嘆く 。こうした語り口は、「高級文化(芸術)」を自認するクラシック音楽を象徴するような、昔ながらの権威主義的(=教養主義的)なアプローチです。その発祥の地ヨーロッパの例を引き合いに出し、「高尚な芸術を支援することは行政の義務である」と迫ってくるところも既視感があります。今どきの日本の一般読者にこのようなアピールがどれほど響いたのか、いささか心許ないところです。いずれにせよ、もしオペラやバレエといった「高級文化」を守ることが、首都圏での劇場施設という箱の確保や、そこでの興行利益維持を暗黙の前提にしているのならば、「理想としての」高級文化のあり方を語るにしてもやや片手落ちであろうという気がします。記事によれば、昭和音楽大学の石田麻子教授は「創作を支える社会構造やプロセスこそが文化」だと説いています 。であれば、この機会こそ、その「プロセス」を東京という安全圏の外側に広げる努力をすべき時ではないでしょうか。3年間、東京で思うように公演ができない。それは確かにピンチです。しかし、それを「地方のファンを掘り起こし、日本全体の文化レベルを底上げするチャンス」と捉えることはできないか。たとえ赤字が出ようとも、3年間は我慢して地方の劇場で公演を打ち、それを「文化への投資」として飲み込む。そうして「最上の聴衆」を、首都圏だけでなく日本中に育てていく。これこそが、ムーティ氏が言うところの「芸術家の使命」を果たす、最も誠実な姿ではないか。行政の関与や首都圏での箱の不足を嘆くだけでは、高級文化はいつまで経っても「東京という温室」の中でしか生きられない、ひ弱な存在のままです。東京文化会館の館長は、劇場を「生きる力を高めるための触媒」と表現しました 。触媒であるならば、それは本来場所を選ばないはずです。上野でなければ発揮されない「生きる力」などたかが知れている、と言われないよう、関係者ももう一度コロナ禍の教訓に立ち返る必要があるように思われます。「高級文化」の理想を追い求めるのであれば、今こそ勇気を持って東京の「殿堂」から飛び出してみる。そこで流す赤字は、いつか日本中の劇場が「満席」という形で報いてくれるかも。3年後のリニューアルオープンを待つ間、日本の芸術・文化が「地方」という広大なフィールドで逞しく野生を取り戻すことを期待したいところです。
2026年05月10日
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「温泉×(かける)ワイナリー」ツアー2日目、いわき湯本温泉の古滝屋からまず向かったのは「とみおかワイナリー」。目的地まで約50キロの道のりを、家人の運転する車で国道6号線沿いにゆっくり北上することに。道路標識を眺めていると、並走するJR常磐線の駅名などが目に入ります。現在はいわき市内の町名として残る「平(たいら」の地名を目にし、「そういえば昔『平』行きの電車があったなぁ…」と記憶が反応。その後も「四倉」、「広野」などの駅名が実際の場所に「接地」されていくことに。(実は大昔に一度だけ常磐線の特急「ひたち」で仙台まで乗車したことがあり、海岸線に沿って走る車窓からの眺めを思い出しました。)広野あたりからは道路標識に加えて放射線量(空間線量率)を示す電光掲示板がときたま出現するようになります。最初に目にしたのは〜0.1µSv/h(=マイクロシーベルト毎時)といった数字。この値自体は通常の自然放射線のレベルと同程度ですが、このようなリアルタイムモニターが置かれている、ということでいよいよ原発事故の影響が残る地域に近づいたことを意識させられます。さて、「Jヴィレッジ」まで来たところで国道6号線を海岸側に外れ、県道391号線で楢葉町をさらに北上すると、カーナビの地図上に福島第2原発が現れるとともに、道が原発を囲むように陸側に大きく湾曲して富岡町へと入ります。目的地のとみおかワイナリーはそのすぐ北、JR富岡駅の東側を線路に沿って少し北に移動したところにありました。駐車場はワイナリーの建物からすこし離れたところにあり、線路に沿って広がっているぶどう畑が目に入ります。ただし、まだ苗木は小さく最近植えられたものと想像がつきます。ワイナリー建屋の入り口は駐車場と反対側にあり、南側にある低層の倉庫(?)の脇を通って入り口に向かうと、左手に立つ昔ながらの土蔵と右手にある真新しい感じの母屋(醸造所とレストラン・ショップ)が連結されてひとつの建物になっています。母屋の入り口を入ると、一階がショップで、そこから蔵へと通路でつながっていました。陳列されたワインや蔵の内部ををざっと眺めた後、さっそく試飲をさせてもらうことに。4種類のワインをグラスに注いでもらい、蔵の1階に設られたテーブル席に移動して飲み比べです。亭主の質問にご対応頂いた店長さんによると、この付近はは15メートルの津波が来襲し、残ったのはこの蔵だけだったとのこと。その水圧で内側に湾曲した海側の窓の格子やグニャっと曲がった蛍光灯がそのまま残されています。この窓から入った海水が反対側の出入り口扉を押し開け、蔵の壁面に掛かった水圧がそこから抜けていったことで倒壊を免れたと推測されるようです。その後、この蔵が街の再生・復興のシンボルとしてワイナリーの設立へとつながったとのことでした。ちなみに、当ワイナリーは2016年に町民有志10名でぶどう栽培を始め、外部委託による醸造で最初のワインができたのが2020年。その後、昨年2025年醸造所などを備えた母屋が完成し、同年5月にグランドオープンを迎えて今に至っています。オープンからちょうど一年となるこの5月半ばにはいよいよ自前の醸造所で自前のぶどうを醸した初ワインを発出荷の予定とか。(ぶどう畑については、駐車場付近のそれも含め町内3ヶ所に畑があるとのことで、全部で1万6千本の木が植っているそうです。亭主共が試飲したワインは自前のぶどうを外部委託で醸造したものでしたが、赤・白いずれもフレッシュな辛口が魅力の美味なワインでした。それにしても、これまで遠目でしか震災や原発事故を眺めていなかった亭主にしてみれば、これほど「フクイチ」に近い場所(〜十数キロメートル)でワイナリーができたということ自体に驚かされます。実際、現在の災害区分地図を眺めると、富岡町の大部分は2017年に立ち入り制限が解除されていますが、ワイナリーを北へ数キロ行くと「帰宅困難区域」が広がっています。暴走した原発から大気中に放射性物質が放出された際に吹いていた風がたまたま北西方向だった、という偶然によって事故後の周辺自治体の明暗が大きく分かれてしまったということでしょう。試飲を楽しんだところで気に入ったワインを数本購入してワイナリーを後にし、つぎに訪ねたのは同じ町内のご近所にある「東京電力廃炉資料館」。かつては「エネルギー館」として原発の宣伝に使われていた施設ですが、原発事故の記録と反省をメインテーマとして、廃炉技術や福島復興の取り組みなども紹介する施設として2018年にリニューアルオープンしたとのことで、事故の様子を時系列で詳細に再現したマルチメディア展示はなかなかのもの。ニュースやドキュメタリー番組で見聞きした当時の絶望的な状況がリアルに蘇ってきました。(ただし、館内での写真撮影やSNSでの紹介などは禁止ということで、依然として東電が世評を警戒しているように見えるのがやや残念なところ。)資料館を出たところで国道6号線に戻り、「フクイチ」方面へとさらに北上します。(富岡町からは大熊町、双葉町、浪江町と続き、フクイチは大熊町と双葉町の境目に立地しています。)この辺りになると原発への道につながる海側への道路入り口はすべて通行止めとなっていて、電光掲示板の線量率も徐々に上昇。フクイチの真西に近い大熊町・双葉町の境付近ではついに1µSv/hを少し超える値(自然放射線の10倍)を示す掲示板に行き当たりました。まさに帰還困難区域のど真ん中らしい値です。フクイチを通り過ぎた頃にちょうど昼時となり、腹ごしらえをしようと浪江町にある「道の駅なみえ」を訪ねたところ、何だか人だかりができていて駐車場もほぼ満杯なのにびっくり。何とか空きを見つけて駐車し、建物内に入ったものの、フードコートも大混雑で簡単に食事にありつけそうにありません。外では整理券を配るのに使われたらしいテントがいくつも並び、一角には多くの椅子が並べられたステージがあることから、どうやら何かのイベントがあるらしいと当たりをつけて退散することに。(後でわかったことには、LumiUnionというご当地アイドルグループの最終ライブコンサートでした。)当てが外れたところで家人がネットで調べたところ、次の目的地のひとつである「東日本大震災・原子力災害伝承館」の脇にあるビル(双葉町産業交流センター)の中にご当地グルメ「なみえ焼きそば」を供する店を見つけ、早速そちらに移動。真新しいビル内に入ると1階の一部にはお土産ショップと小さなフードコートがあり、3軒ある出店のうちで唯一営業していたのが件の焼きそばを供する「せんだん亭」でした。ただし、券売機には「ワンオペでやっているので時間がかかります」と張り紙があり、席には先客も4-5人いるようです。カウンターからひょいと顔をだした店主曰く「いまは待ち時間30分ぐらい」とのこと。他にあてもないのでこちらも注文の上待つことにしました。(それにしても、帰還困難区域の中にありながら外で普通に飲食ができるようになったのは画期的のように思われます。が、やはり人手不足が深刻な様子がよく伝わってきます。)約束通り30分ほどで極太麺の焼きそばにありついて大いに満足したところで、隣接する「伝承館」を訪問。2020年に開館したという同館は、前面に広がる芝生を囲むように円周上に並んだ広いガラス張りの窓が目を引くモダンな外観の建物です。が、中に入ると広い空間に比べて展示物はまばらな様子。案内板などから判断すると、どうやらこの施設の主目的は災害伝承のための講演会や座談会といった会議・集会の開催を支援することにあるようです。とはいえ、あまり多くない展示物の中で亭主の目を引いたのが、かつて双葉郡に存在した高校・中学校の制服を小さく仕立て直してクマのぬいぐるみに着せて並べた「おもいでのふたばのがっこう」という展示でした。震災と原発事故によって失われたてしまったものを何とか形あるものとして取り戻したい、という当事者たちの切実な思いが伝わってきます。さて、この旅の最後の訪問先となったのが「震災遺構・浪江町立請戸(うけど)小学校」です。この小学校は津波被害の現状を今に伝える福島県内唯一の震災遺構とのこと。震災当日には地震発生から約1時間後に15.5メートルの津波が押し寄せ、海岸から数百メートルにあった校舎は2階の床10cm上あたりまで津波に飲み込まれたのの、先生・生徒ともに全員が無事避難できた奇跡の学校としても知られています。校舎が1998年に竣工という比較的新しい鉄筋コンクリートの建物だったおかげで、震度6強の揺れや津波にも持ち堪えたのだろうと想像されます。(ちなみに、被災した校舎が遺構として整備されて公開されたのは2021年。)校舎1階から順路に沿って置かれたパネルには、目前に広がる教室や給食室といった各部屋の説明に加え、地震発生から避難までの先生や生徒たちの行動や思いが紙芝居のように一枚一枚描かれたものが並んでいます。それにしても津波で無惨に破壊された教室や設備を眼前にした衝撃は凄まじく、津波からの逃避行を伝えるパネルのストーリーもこの上ない実感をもって迫ってきます。2階に上がると震災前の学校生活に関わる展示があり、失われた街並みを再現した立体模型が目を引きました。この遺構が広大な荒野の中にポツンと佇んでいることからもわかるように、付近の沿岸にあった集落の建物は(小学校以外は)すべて津波によって消滅しただけでなく、放射性物質による汚染で人が住めなくなる、という二重の苦難を背負うことになりました。この小学校跡が震災の記憶を後世に伝えるモニュメントとして残ったことが、せめてもの慰めということかもしれません。かくしてプロジェクトF(福島)は無事完了し、浪江インターから常磐自動車道で家路につくことに。とはいえ、ぼーっと外を眺めていたところ、いきなり1.7µSv/hという表示の電光掲示板が目に飛び込んできました。一見して緑豊かな田舎道が依然として深刻な放射能汚染を抱えていることを念押しされたようで、温泉やワイナリーとの落差を前にして複雑な思いが去来する亭主でした。
2026年05月05日
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このところ未音亭の黄金週間といえば、連休の谷間を狙って一泊二日の「温泉×(かける)ワイナリー」巡りが定番。これまではもっぱら群馬・栃木、長野、山梨といった亭の西方にある名湯を訪ねて回りましたが、今年は進路をあえて北に取り、隣県福島の「いわき湯本温泉×とみおかワイナリーツァー」に出かけました。これまでずっと避けていた震災と原発事故の現場に立ち、そのつめ痕を自らの目で確かめるとともに、復興にむけて前を向く人たちから元気のお裾分けを頂くのが目的です。目的地は比較的近場ということで、寄り道しながらゆっくり北上することに。家人が運転する車で常磐自動車道を日立中央で降りて国道6号へと走り、近くのJR日立駅に寄って展望台で太平洋を一望した後、まずは「勿来の関」があったとされる県境の場所へ。勿来の関は、奈良時代から平安時代にかけて奥州との境に置かれていたという古三関のひとつとして有名です。が、実は歴史資料中には明確な記録がなく、和歌などの文学作品の中でのみ知られるとのこと。同じ福島県内にある「白河の関」(一昨年に南会津・二岐温泉にお出掛けついでに訪問)については、江戸時代の末に白河藩主・松平定信が歴史的・地理的調査(発掘調査も含む)を行い、その場所が確定しているのとは対照的です。当地は公園として整備されていて(文学歴史館も併設)、新緑の間にまに小野小町のそれをはじめ数多くの歌碑が立てられていました。次に向かったのが小名浜港にある「アクアマリンふくしま」(ふくしま海洋科学館)。巨大なガラス張りのドーム屋根が東京・有楽町にある国際フォーラムを思い起こさせます。ここは環境をテーマに掲げる水族館で(2000年に開館)、日本近海やアジア・オセアニアの海洋生物に加えて淡水・気水圏の生物も展示し、巨大水槽にはイワシの大群などが舞っています。また、サンマの飼育やシーラカンスの生態撮影など、学術的にもユニークな研究を行っているようです。ちなみに東日本大震災では当施設も4メートル超の津波に襲われ、交通網の遮断や原発事故の影響で燃料や餌が枯渇した結果、展示の9割を占める海洋生物20万匹が全滅するという大被害を被ったそうです。にもかかわらず、関係者の努力によって4ヶ月という短期間のうちに営業再開にこぎつけたとのこと。いまでは震災の痕跡はすっかり消え、当時のようすは写真パネル等で伝えられています。水族館の長い順路をゆっくり散策しながら出口に辿り着くと、すでに閉館時間も間近の夕刻4時を大きく過ぎていたので、そのまま当日の投宿先であるいわき湯元温泉・古滝屋へ直行。お宿のウェブページによると、古滝屋は創業1695年という老舗旅館で、100%源泉掛け流しの湯がご自慢の宿です。とはいえ、大浴場入り口にある解説を読むと、お湯は旧常磐炭鉱の鉱底を掘って湧出した毎分5000リットルの源泉から引かれているとのことで、源泉は創業当初から変わったと推測されます。(ちなみに、そのうち毎分3000リットルが映画「フラガール」で有名な「スパリゾートハワイアン」に注がれ、残りが周辺の温泉旅館に引かれているとか。)泉質は塩化物と硫酸塩が同程度含まれるというやや珍しいもので、ほのかに硫黄臭がします。亭主は宿に着くなり早速大浴場でじっくりお湯を堪能、翌朝にも露天風呂で手足を伸ばしました。ところで、ホテルの部屋に入ると、ちゃぶ台の上に本が2冊置かれているのが目に止まりました。見るともなく手に取ると、「ふるさとは赤」(2021年)、「土地に呼ばれる」(2022年)という短歌の歌集です。いずれも著者は三原由紀子さんという歌人で、浪江町の出身とか。ページをめくると、地元福島の街々を舞台に、若い人の感覚で日常の様々な想いを描いた短歌が並んでいます。もちろん、その背景にあるのは震災と原発事故。心の底に沈澱する災厄の記憶を抱えつつも、何とか前を向こうとする気持ちが素直に歌われていて印象に残りました。1階ロビーでも購入可とあり、どうやら宿の主人推しの歌人のようです。宿の1階ロビーにはブックカフェと図書コーナーがあり、前述の歌集をはじめ震災や原発事故関連の書籍、映画史や常磐地方の郷土史、温泉や観光に関する本など多彩な本が並んでいました。また、(亭主はスキップしましたが)9階には「原子力災害考証館 furusato」という展示スペースもあることからも、震災や原発事故を未来へt伝承しようという宿の主人の思いが伝わってきました。翌日はいよいよ福島第1原発に程近いとみおかワイナリーとその周辺地域へ。(つづく)
2026年05月03日
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以前、このブログで筒井清忠氏の「日本型『教養』の運命」を取り上げたことがありました(こちら)。明治の後期、日本の一般庶民の間で爆発的に流行した「修養」こそが、日本独自の教養主義の源流であるという指摘には、目から鱗が落ちる思いがしたものです。西洋の教養主義が王侯貴族の独占物であった高級文化に由来する(「教養」と「権威主義」が結びついて「教養主義」となった)のに対し、日本のそれは、そのような高級文化とは無縁の名もなき庶民が実践する「修養」と地続きであった…であれば、日本型「教養」には社会階層を超えて人々を結びつける連帯の「希望」があるのではないか。亭主はそんな妄想を抱いたものでした。一方で、竹内洋氏の「教養主義の没落」が描き出したのは、大正から昭和にかけて旧制高校や大学を席巻した教養主義がマルクス主義と深く結びつき、戦後の大学教育の大衆化の中で「非エリート」となった学生たちが、彼らの親世代との間の世代間闘争(=学生運動)を引き起こすとともに、急速にその威光(権威)を失っていく様でした。そこで、亭主は教養主義の元になったという修養主義がそもそもどういうものだったのかに興味を持ち、大澤絢子氏の著書「『修養』の日本近代―自分磨きの150年をたどる」(NHK出版、2022年)を手に取りました。本書の腰巻に「何が『働くノン・エリート』を駆り立てたのか」とあるように、修養主義とは庶民が「自己啓発による人格向上」と「立身出世」を分かちがたく結びつけ、人生の価値を見出そうとした運動でした。当時は日露戦争の戦勝により、日本が「西洋列強に並ぶ一等国になる」という明治以来の国家目標を一応は達成し、次なる坂の上の雲を見失っていた時代。人々は、激変する社会の中での不安のへ救いや経済的成功による立身出世への希望を、もともと仏教系の宗教に由来する「修養」に見出したというわけです。(「修養」と「自己実現・立身出世」が合わさって「修養主義」が生まれたという図式化も可能でしょう。)驚かされるのは、この「修養主義」が今日に至るまで日本の企業文化の深層を滔々と流れ続けている点です。大澤氏は、宗教に対して必ずしも寛容ではない日本社会において、修養主義が「宗教っぽいもの(擬似宗教)」として機能してきた側面を鋭く指摘します。かつて松下幸之助氏や、ダスキンの創業者・鈴木清一氏といった著名な経営者たちが実践した社員教育。それは時に宗教(カルト?)的な色彩を帯び、現代の眼からは異様にも映ります。が、それが熱心に受け入れられ、「日本型経営」として成功を収めた背景には、庶民の間にあらかじめ「修養」という土壌が耕されていたからだと見ることができます。(かつて語られた「国民性」の正体もこれ。)一般に、宗教における「修養」は現世の煩悩から解放されることを目的としています。高級文化を担う「教養」も、本来は現世利益とは無縁のもの。これに対し、「修養主義」は修養によって現世利益を最大化することを目指す点で、一見真逆です。が、似たようなことは西洋でも起きており、プロテスタンティズムにおいて禁欲的で勤勉な労働を「神から与えられた天職」とする考え方が資本主義を準備したと言われています。日本の「修養主義」がプロテスタンティズムにおける勤勉志向と類似の役割を果たすことで、明治期日本の資本主義が準備されたというわけです。振り返ってみれば、今も書店の棚を埋め尽くすビジネス書や自己啓発本の隆盛は、修養主義がいまだに健在であることを物語っています。「今のままの自分ではいけない」「もっと自分を磨かなければならない」という強迫観念にも似た向上心。それは、かつての修養主義が形を変え、より強固に資本の論理に組み込まれた姿なのかも。ここで、冒頭の「希望」に立ち返るとき、亭主はある種の皮肉を感じずにはいられません。高級文化を担っていた「教養主義」が社会の急激な大衆化とともにその威光を失い、見る影もなく衰退しつつある一方で、庶民の泥臭い上昇志向から始まった「修養主義」は、企業社会という鎧をまとい、今や社会全体の規範として君臨しているかのように見えます。これは、「教養」によって大衆を社会向上への連帯に導くという教養主義的な発想がそもそもエリート側の希望的観測に過ぎず、現実には「修養」という名の大衆的な自己啓発がかつての「教養」をも飲み込み、それを「世渡りのための道具」へと変質させてしまった、ということかもしれません。現世利益とは無縁のエリート的教養が庶民を包摂するのではなく、現世利益を至上とする修養主義が社会全体を支配する側に回るという、いわば逆転現象が起きているかのようです。先に亭主が妄想した「社会的連帯への希望」は、実のところ「自己責任」という名の終わりのない自分磨きの競争へと姿を変えて実現しつつあるのかもしれません。
2026年04月26日
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前回このブログで取り上げた神戸市室内オケの問題について、今朝のA新聞で日曜コラム子が改めてコメントを寄せている記事を読みました 。その冒頭、コラム子は指揮者の鈴木秀美氏率いるこの楽団が、シューベルトの第8番「ザ・グレート」で鮮烈な演奏を聴かせたその裏で、運営主体から「補助金打ち切り」という非情な通告を受けていたことに思いを馳せ、2028年に三宮にオープンする1800席規模の新ホール建設を背景に、市が「稼げぬ楽団は不要」と切り捨てたのではないかと厳しく指弾しています 。文化とは数百年の命を「継承」する営みであり、民間には不可能な長期的支援こそが公金の役割である、という主張は、一般論としては至極まっとうなものです。しかし、一歩引いて現代日本の足元を見つめたとき、この正論だけでは突破できない「壁」の存在を無視することはできません。それは、この国が直面している凄まじい人口減少とそれに伴う公的資金の減少という現実です。現在、日本の人口は年間90万人という驚異的なペースで減少しています。これに伴う税収の減少は避けられず、一方で高齢者比率の増大は医療費や介護福祉費といった社会保障費を膨れ上がらせ、国や自治体の財政を硬直化させています。このような状況下で問われているのは、実は「芸術・文化の価値」そのものではありません。限られた予算を何に割り振るかという「優先順位」の問題です。老朽化したインフラの整備か、文化の継承か。 一床の病床か、一回の定期演奏会補助か。残酷なようですが、公金が投入される以上、芸術・文化支援は常に他の切実な民生支出との「ゼロサムゲーム」の中に置かれています。この状況下で、単に「文化は大事だ」という正論を叫ぶだけでは、当事者以外を説得することは難しいのが現実ではないでしょうか。バブル期までの右肩上がりの経済成長の下で肥大化したクラシック音楽界のシステム(東京にはプロオケが9団体もある!)や、日本各地で建設された巨大なホールといった箱物は、だいぶ前から「過去の遺物」になりつつあります 。さらに、前世紀末ごろからの「教養主義の没落」に伴って聴衆も「分衆化」し、ハイ・カルチャーとしてのクラシック音楽の相対的な訴求力も低下しつつあります。神戸市が1800席の客席を埋めることに汲々とし、集客力のない楽団を切り捨てる姿勢は確かに短絡的ですが、楽団側もまた、人口減少・縮小経済・聴衆の好みの変化、という不可避な流れの中で、時代とともに移り変わる自分たちの役割や意義をどこまで意識していたでしょうか?神戸の例のみならず、いま日本のクラシック音楽界全体として必要なのは、縮小していく社会の中で、いかに文化の質を落とさずに規模を縮小させるか。いわば「華麗なる衰退」をデザインすることではないかと思います。(その点、採用広告に「衰退業界へようこそ!」というコピーを掲げる新日フィルは真っ当な自己認識を持っていると言えます。)映画の世界でも、公的支援が経済効果の見込める大作に偏っていることについて是枝裕和監督(低予算で佳作を作り続けている)が懸念しているとのこと。しかし、文化を守る側も、公金という縮小するパイの「優先順位」を勝ち取るためのロジックを磨くだけでなく、資金源自体を多様化することが待ったなしだろうと思われます。(実は全く同じ状況が自然科学における基礎研究の分野でも起きています。財務省曰く、「基礎研究が大事であることはよく承知している。しかし、国の政策の中では最優先順位ではない。」)神戸市長が立ち上げるという文化芸術支援のフォーラムが 、単なるガス抜きに終わるのか、それとも「持続可能な文化の縮小形」への手がかりを見出す場になるのか。日本の文化政策の命運は、正論のその先にある、シビアな「解決策の提示」にかかっていると言えるでしょう。
2026年04月19日
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コロナ禍以降、クラシック音楽業界でオーケストラが経営上の問題を抱えていることはあちこちで話題になっています(例えばこちら)。なかでも、このところA新聞でキャンペーン的に取り上げられているのが神戸市室内管弦楽団を巡る問題。オケの生みの親とも言える神戸市が、長年続けてきた公的支援を来年度いっぱいで打ち切ると言い始め、それに伴って楽団が解散の危機にあるとのことです。つい数日前には、この問題について同楽団の音楽監督である鈴木秀美氏と、指揮者の山田和樹氏がそれぞれに寄せた言葉を紹介するA新聞の記事が掲載されました。亭主はこの二人の対照的とも言える生き方を前にして、改めて考えさせられることに。鈴木秀美氏は、補助金打ち切りの理由となった長年の赤字体質について、これまで自らが主導して行なってきた改善の努力を強調するとともに、この状況を「科学の基礎研究に十分な資金が投入されないのと同根ではないか」と批判しています。 確かに、即座に利益を生まない文化や基礎科学を守ることは、自治体や国家の品格に関わる問題です。しかし、亭主が気になったのは、その主張の根底に流れる「プロ」と「アマチュア」を截然と分かつ意識です。鈴木氏は、市がアマチュアへの支援を続ける姿勢を見せていることに対し、「プロの仕事をアマチュアの活動と同じ土俵で語ること自体が間違っている」と断じ、草野球とプロ野球を例に出して反論しています。この言葉の裏には、クラシック演奏家がしばしばまとってしまう「選ばれし者」という特権意識、いわば「上から目線」が透けて見えるように感じられてなりません。(このような意識の背景に、クラシック音楽がまとう明治以来の日本における西洋古典崇拝を基底とした教養主義があることは、度々指摘されるところです。)かつて作曲家の芥川也寸志は、音楽を愛する心においてプロもアマチュアも区別はないと説き、新交響楽団を通してその思いを実践してみせました。プロがアマチュアを「下に見る」姿勢を厳しく戒めた彼の精神から見れば、鈴木氏の言葉は音楽という営為の本質から少しばかり逸れてしまっているのではないでしょうか。そもそも「プロ」とは何でしょうか。自らの足で立ち、その仕事の対価として糧を得る。それが本来のプロの定義であるはずです。公的資金という「守られた揺りかご」を当然の権利であるかのように享受することに、鈴木氏自身は疑問を抱いていないのか。そこが亭主には大きな違和感として残ります。一方で、同じ問題に触れた山田和樹氏の視座は、極めて現実的でありながら、希望に満ちたものでした。山田氏は、補助金の打ち切りそのものよりも、それによって即座に「解散せざるを得ない」という結論に至ってしまう組織の在り方に、強い驚きを表明しています。氏が引き合いに出したのは、自身が音楽監督を務める英バーミンガム市交響楽団の事例です。3年前に市が財政破綻した際、彼らが取った行動は「絶望」ではなく「街への回帰」でした。駅やショッピングモール、あるいはトラム(路面電車)の中にまで楽器を持ち込み、市民の生活の結び目の中に、自らの音を響かせていったのです。「お金がもらえないから終わり」という前例を絶対につくってほしくない。そう語る山田氏の言葉は、行政からの支援が減りゆく現代において、プロの楽団がいかにして「市民の誇り」へと脱皮すべきかを示唆しています。(この話も含め、クラシック音楽をエンターテインメントとして捉える山田氏の考え方には亭主も大いに共感しているところ。)鈴木氏は、ホールを楽器に例え、自分たちの音を染み込ませて育てていくものだと述べました。 その通りでしょう。しかし、染み込ませるべきは「音」だけではありません。その街に生きる人々の「想い」や「共感」が染み込んでこそ、初めて文化は街の顔になり得ます。 オケの設立者として、神戸市側が打ち切りの理由を市民に丁寧に説明することは行政の責任でしょう。一方で、公金への依存を「当然」とせず、自らの価値を社会に問い続けること、これこそは楽団の矜持であるべきではないでしょうか。また、神戸市民がこれを他人事と考えず、楽団が自分たちの街に必要なのかどうかを自律的に判断することも重要です。今回の騒動は、単なる地方自治体の予算削減問題ではありません。「芸術」にこだわる音楽家が「神殿」から降り、一人の「プロ」として市民と同じ大地に立つ覚悟があるのかを問う、避けては通れない試練なのだと感じます。「わが街にはこんなオケがある」。そう市民が胸を張れる未来は、補助金の多寡ではなく、奏者たちの「ここからが本当のスタートだ」という決意の先にしか存在しないのではないでしょうか。この問題が、神戸の街にどのような調和(あるいは不協和音)をもたらすのか。亭主も一人のアマチュア音楽家としてその行方を見守りたいと思います。
2026年04月12日
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「春に三日の晴れなし」で、このところ初夏のような日差しに上着を脱いだと思えば、冷たい雨のせいで急に季節が逆戻りしたような花冷えに遭遇します。そんな季節の移ろいを感じながら、亭主は先月末のジャン・ロンドーの演奏会に刺激されて、この数日ばかりルイ・クープラン(Louis Couperin, c.1626–1661)の楽譜をハープシコードの譜面台に広げていました。ルイといえば、あの有名なフランソワ・クープラン(大クープラン)の伯父にあたりますが、彼が35歳という若さで世を去った17世紀半ばは、音楽史において実に興味深い「端境期」にあります。よく言われるように、彼の時代は「教会旋法と中全音律(ミーントーン)」という古い秩序が色濃く残る一方で、後の「調性音楽(長短調)と循環音律(平均律など)」という新しい夜明けが、地平線の向こうから顔を覗かせ始めていた時代でした。現代の私たちがピアノや平均律の鍵盤で彼の作品を聴くと、一見、ごく自然な「バロック音楽」として耳に馴染みます。しかし、当時の調律と感性を前提にその響きを紐解いてみると、そこには現代人が忘れ去ってしまった「危うい美」が潜んでいることに気づかされます。まず、当時の鍵盤楽器の前提であった中全音律(ミーントーン)について考えてみる必要があります。この音律は、主要な長3度を「純正」に響かせることを目的としていますが、その代償として、特定の和音から遠ざかるほど、激しい唸りを伴う「ウルフ(狼)」と呼ばれる不協和音が発生します。例えば、彼の「嬰ヘ短調のパヴァーヌ (Pavane in F-sharp minor, No. 120)」を例に挙げてみましょう。当時、嬰ヘ短調という調性は、中全音律の鍵盤では「禁忌」に近い領域でした。和音によっては、耳を刺すような、絞り出すような苦しげな響きが生まれます。しかし、ルイ・クープランという作曲家は、この音律の「物理的な限界」を欠陥として避けるのではなく、むしろ「悲哀」の表現として積極的に取り込んでいる節があります。平均律という均質化された響きの中では決して味わえない、あの、心臓を抉るような「音の歪み」こそが、彼の音楽の官能性を支えていたのではないでしょうか。また、彼の組曲に頻出する「ニ短調」にも、古い秩序の名残が見て取れます。現代のニ短調なら当然つくはずの「シ」のフラット(♭)が、当時の楽譜ではしばしば調号として書かれません。これは「ドリア旋法(第1旋法)」の伝統に基づいているためです。旋法的な明るい「ロ音(B-natural)」と、和声的な暗い「変ロ音(B-flat)」が、一つの曲の中で万華鏡のように入れ替わる…この「調性の揺らぎ」こそが、この時代の音楽特有の浮遊感を生んでいるわけです。(ふと思うに、バッハやスカルラッティの楽章内で短調と長調が糾える縄のように絡み合うのも、このような「調性の揺らぎ」の名残りかも?)ルイ・クープランの数ある名曲の中でも、亭主がとりわけ心惹かれるのが「ブランクロシェ氏のトンボー (Tombeau de Monsieur de Blancrocher)」です。これは不慮の事故(階段からの転落死)で亡くなった名リュート奏者、ブランクロシェを悼むための作品ですが、ここには前述した「旋法・中全音律」から「調性」への過渡期ならではのドラマが凝縮されています。曲は、中全音律において最も純粋で透明な響きを持つヘ長調(F major)」で静かに始まります。この時のヘ長調は、天上の音楽のような汚れなき秩序を感じさせます。しかし、楽曲が進むにつれ、その秩序は無慈悲に侵食されていきます。注目すべきは、ブランクロシェが階段を転げ落ちる様子を模したと言われる下降音型です(下図)。ここでクープランは、ヘ長調の枠組みを逸脱し、変ホ(E-flat)や嬰ヘ(F#)といった、中全音律では「濁り」を伴う半音を執拗に導入します。現代の耳で聴けば単なる「半音階的進行」ですが、当時の聴衆にとって、この純粋なヘ長調の響きが徐々に「汚され、歪んでいく」過程は、単なる比喩を超えた、生理的な衝撃を伴う「音の死」の描写であったはずです。機能和声的な「解決」を待つエネルギーよりも、旋法が持つ「重力に従って淀んでいく」感覚。そして、音律が内側からヒビ割れていくような不快な唸り。それらが混ざり合うことで、友を失った喪失感が、物理的な響きそのものとして立ち現れてくるのです。亭主が思うに、ルイ・クープランの音楽がこれほどまでに私たちの胸を打つのは、彼が「古い世界の終わり」と「新しい世界の始まり」の両方に足をかけていたからではないでしょうか。すべてが機能的に整理され、どの調性も均質に響く平均律の世界では、このような「響きの落差」によるドラマは生まれません。彼は、教会旋法という長い歴史の残照を惜しみつつ、同時に新しい時代の波に洗われ、その軋みの中からしか生まれ得ない「一瞬の美」を、クラヴサンの弦に刻み込んだのです。ルイがもし、バッハやラモーの時代まで生き延びていたとしたら、彼の音楽はもっと整然とした、洗練されたものになっていたかもしれません。しかし、35歳で早世したからこそ、彼の作品には、永遠に「夜明け前の薄明」のような、不安定で、それゆえに抗いがたい魅力が宿り続けているのではないか。皆さんは、ルイ・クープランの「音の歪み」に、何を感じられるでしょうか。
2026年04月05日
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先週の3月25日夕刻に上野、東京文化会館小ホールにて行われた表記演奏会に出かけました。ロンドーの来日はこれまでに2017年、2019年、2023年の3回で、亭主共はいずれの回も同じ会場で彼の演奏を堪能。日本デビューとなった2017年はゴルトベルク変奏曲の一本勝負でしたが、その後2019年は主に18世紀のフランス・クラヴサン音楽、2023年にはハイドンやモーツアルトをハープシコードで弾くという変化球プログラムでした。ところが、今回はなんと亭主が愛してやまないルイ・クープランを集中的に取り上げることに加え、使用楽器も彼が活躍した17世紀フランスの初期モデルを名製作家ディヴィッド・レイがコピーしたものということで興味津々。昨年のアナウンス早々にチケットを予約してこの日を待っていたところでした。もちろん、ロンドーが今回のプログラムにルイ・クープランを立てた理由は明らかで、彼は2024年に演奏会活動を中止して8ヶ月ものあいだルイ・クープランの全作品(オルガン曲も含む)の録音に取り組み、同時代のクラヴサン音楽やリュート作品からの編曲も含めたCD10枚からなる大作を昨年暮れにリリース。その間、2025年9月からヨーロッパ各地でルイ・クープランを中心に据えたリサイタルを開催しているとのことで、このところロンドーの頭の中はルイ・クープランのことで一杯なのだろうと想像されます。亭主の方も昨年末に件のCDセットを落手し、週末をいくつか潰して全録音を一通り拝聴したところなので、改めて彼の演奏を生で聴くには絶好のタイミングです。ところで、今回のリサイタルのもう一つの目玉である初期フレンチモデルの楽器は、日本のヴィオラ・ダ・ガンバ奏者である千成千徳(せんなり しげのり)氏の所蔵で、2018年に納入されたものだとか。ところが翌年に千成氏が他界し、その後はコロナ禍などもあってこの楽器は表に出ることはなく、公開の場で披露されるのは今回が初めてとのこと。コピー元の楽器は17世紀の製作家ヴァンサン・ティボーの手になるものですが、その後フランスのクラヴサンはルッカース製に席巻されてこのような初期フレンチスタイルは廃れてしまったため、当時の響きを伝える大変貴重な楽器とされています。招聘元のアレグロミュージックによると、前回の来日時(2023年)にこの楽器のことを知ったロンドーは「次回の来日時にこの楽器をぜひ弾きたいと、毎日のように訴えてきた」とのことで、招聘元も彼の熱意に絆されてなんとか楽器を借り受けようと奔走したようです。なので、この演奏会は彼の夢がようやく叶う場となったというだけでなく、クラヴサン音楽を愛する聴衆にとっても、貴重な楽器の音を名手の演奏で聴くことができるまたとない機会になったと言えます。というわけで、亭主共も当日会場に着くなり、舞台上のこの楽器を繁々と眺めることに。まず印象的なのがその外見で、全体的にガタイが大きく重量感があります。調律師が鳴らしている音からは、これまで耳にしたことがあるどの楽器よりも大きな音量に聞こえます。音色もルッカースやそのラヴァルマンモデルよりはイタリアンに近く、特に低音の響きが明るい感じです。(ロンドーが実際に弾いている間にも同様の印象を持ちました。)さて、開演時間が近づいて聴衆が着席したところで、注意事項についてのアナウンスが流れるのを聞いていると、演奏中は会場の照明を落とすだけでなく、非常灯も消灯すると言われてびっくり。(何かと「安全」にうるさいこのご時世、文化会館側がよく許可したものです…)まもなくスーッと照明が消されて会場は闇の中に。舞台上の楽器が仄暗く照らされている中、ロンドーは例によってラフな格好(焦茶色のセータに黒いズボン)で登場。楽器の前でしばらく沈思黙考の後、まず一音だけトーンと響かせるところから演奏が始まりました。その後の1時間強、聴衆は暗闇の中で全員が息を凝らしてロンドーの演奏を傾聴。入場時にもらったパンフレットには当日のプログラムが印刷されていましたが、これほどの暗がりの中では全く判読不能です。それでも最初の「組曲ニ長」で取り上げられた曲はまだ馴染みがあって見当がつきましたが、ゴーティエの「メザンジョー氏ののトンボー」を過ぎたあたりから怪しくなり、ダングルベールの有名な「シャンボニエール氏のトンボー」まで来たところでようやく「これで3分の2ぐらいだな」と分かる程度。最後の曲となったフランソワ・デュフォーの「ブランクロシェ氏のトンボー」(例のCD5枚目に所収)もそれとわからず仕舞い。ロンドーが弾くのを止め、少し間を置いて椅子から立ち上がったのを見て、ようやく亭主も含めた聴衆はそれと知って拍手を送ることに。その後、一曲だけ演奏されたアンコールはルイ・クープランの「ブランクロシェ氏のトンボー」でした。(その他、曲目の詳細は招聘元のHPを参照。)最後に、この演奏会を聴いての亭主の勝手気ままな感想を少々。まず、全体のコンセプトはおそらく「クラヴサンによるルソン・デ・テネブル(暗闇の朝課)」ではないかと思われます。今年はルイ・クープラン生誕400年の節目の年ですが、ロンドー自身はちょうどルイが没した時と同じ35歳となり、自分が6、7歳の時に最初にルイの音楽をクラヴサンで弾いて以来、クラヴサン奏者として彼の全音楽を「生き直す」のに相応しい年齢になったことを強く意識していると想像されます。実際、プログラムに目を落とすと、「クープラン氏に寄せるトンボー(Tombeau de Mons Couperin)」というお題が付いています。これはとりも直さず「故人を追悼するための演奏会」を意味し、おそらくロンドーはリサイタル中に冥界からルイを呼び出し、彼に憑依させるためにあの暗闇を用意し、ルイになり切って鍵盤に向かっていたのかも、と妄想させられます。(前述の10枚組CDのジャケットも闇の中にロンドーの顔が仄暗く浮かぶというもので、同じノリであるように見えます。)当日の演奏を聴いていて気付いたことには、ロンドーは和音の構成音をできる限り同時に弾かないようにし、アルペジオやトリルをこれでもかと多用していました。これはおそらく当時のクラヴサン音楽におけるスティル・ブリゼ(〜リュートの模倣)を意識したものですが、あまりに多用されるので演奏全体の印象がやや平板になったという点で残念に感じられました(「過ぎたるは尚及ばざるが如し?」)。今さら言うまでもなく、四百年も前の音楽が実際にどのように鳴り響いていたのかは知る由もありません。ルイ・クープランの音楽に対する思い入れが過ぎて、演奏スタイルにある種の縛りがかかってしまったのかも。もっとジャズやロックのように自由に弾いていいんじゃないの、と言いたいところです。なお、暗闇の演出についてもう一言。前述のように、これは「トンボー」というお題には相応しいと思います。が、どうやらロンドーは同じことを「オール・バッハ プログラム」の回でもやったとのことで、いくらなんでもそれはやり過ぎだろうと思います。聴衆は音楽を楽しむために来ているのであって、彼らに常時宗教儀礼のような緊張と集中を強いるのは(演奏家と聴衆の立場の非対称性を考えれば)やはりフェアではないのでは?このような「集中的聴取」は、かつては北米ヨーロッパのクラシック音楽の演奏会でも主流でしたが、今では日本だけに特有の「お作法」のようです。演奏家にとって都合がよいからといって、聴衆をあたかも米俵のように暗闇の中で沈黙させるのには疑問を感じます。(これは興行における問題として招聘元にも考えていただきたい点です。)
2026年03月29日
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先週の「クラシックTV」(NHK-Eテレ)で、エリック・サティが「謎多き先駆者」として紹介されているのを録画でチラ見しました。番組のうたい文句からもわかるように、クラシック音楽の業界(特に音楽興行に関わる演奏家など)では、サティがドビュッシーやラヴェルと同格の作曲家(?)として扱われる一方で謎めいた音楽家とも称され、いかにも彼を持て余しているように見えます。何故こういう中途半端なことになっているのか?そのわけは、サティが19世紀ドイツの「真面目な音楽」を中心とした近代西洋音楽のあり方そのものに対する徹底した批判者であるにもかかわらず、音楽業界が彼をあくまでそのような西洋音楽の伝統に連なる一員とみなし、その枠の中で捉えようとする姿勢にあります。例えば、「ヴェクサシオン(嫌がらせ)」という作品は、同じ旋律を840回繰り返すという点で演奏家・聴衆双方にとってもまさに「嫌がらせ」そのもの。これが19世紀以降の「演奏会」に対する批判であることは明白であるにもかかわらず、いまだに「奇妙」、「不思議」などといった曖昧な態度で肯定的に接し、果ては実際に演奏するという愚直さに陥ってしまう演奏家や、それを真面目な音楽として受け取ろうとするかのうような聴衆の存在は、クラシック音楽の異様さと当事者の無自覚ぶりをあぶり出しています。同じような状況が、ジョン・ケージの「4分33秒」という「作品」とそれに対する聴衆の接し方にも見られます。ところで、サティの音楽や彼の言行に込められた教養主義的なクラシック音楽に対する批判は、当事者たちにはスルーされる一方で音楽学や芸術哲学の分野では受け止められ、特に「反・芸術」や「制度批評」の文脈で深く掘り下げられてきたようです。例えば、サティが提唱した「家具の音楽(Musique d’ameublement)」は、「演奏会」という制度への最大の皮肉です。件の番組中では、この曲を前にしてサティが「音楽を聴くな!」と観客に求めたエピソードを紹介し、これを「BGM・環境音楽の先駆け」として好意的に紹介していました。しかしながら、サティがこの曲に込めた意図は、19世紀的な「崇高な芸術を静聴する」という儀式化された音楽体験を徹底的に揶揄するもので、番組のような扱いをすると「芸術の権威を剥ぎ取る」という作曲者元来の意図を隠蔽することになってしまいます。前述の「ヴェクサシオン」については、 それがクラシック音楽の型である起承転結という「物語」への拒絶を意図している点がまず指摘されるべきでしょう。さらに、 この曲がが題名の通り演奏家に対する身体的な嫌がらせであり、同時に「名演」や「感動」を期待する聴衆への拒絶である点も明らか。ジョン・ケージが1963年にあえてこの曲を実際に連続演奏させた意図も、これを従来の「音楽作品」ではなく「概念芸術(コンセプチュアル・アート)」の先駆として位置づけるためのものだったと言われています。ケージは、サティの中に「19世紀位以来の直線的な進歩主義からの解放(脱出)」を読み取ったというわけです。実際、少しネットで調べると、社会学者ピーター・バーガーの「前衛芸術論」(1984)などの文脈において、サティやケージの試みは「作品そのもの」ではなく、「それを取り巻く制度(コンサートホール、静粛、入場料)」を浮き彫りにするための装置であると定義されています。「何も弾かない演奏者」を真剣に見守る聴衆の姿は、クラシック音楽という「宗教」の形式がいかに強固で、時に滑稽であるかを逆説的に証明していると言えるでしょう。ここまで来れば、クラシック音楽業界がサティを「謎多き音楽家」と呼ぶ理由がはっきりします。なぜなら、彼の思想を真っ向から受け入れると、自分たちの立脚点(音楽作品の権威や芸術的価値)が崩壊してしまうからです。もっと言えば、音楽業界にとってサティの作品を「批判」として受け取ると商売しにくいが、彼を「不思議な変人」としてブランド化すればCDやチケットが売れる、という商業主義的な動機が働いていると想像できます。そのためには、サティを「音楽の父」バッハから始まる音楽史という一本の線の中に組み込む(「正典化」する)方が好都合。「クラシックTV」の番組内容もこのような正典化の路線に従っただけと言えます。ちなみに、番組でMCは「サティがドビュッシーやラヴェルから慕われていた」といったコメントも出ていましたが、これも一方的なもので、サティ自身は彼らにも批判的な目を向けていました。なぜなら、彼は当時のフランス音楽界を支配していた「崇高で、真面目で、仰々しい」空気感に対して強烈な違和感を持っていたからです。例えば、サティはドビュッシーの「印象主義」さえも、伝統的な枠組み(ドイツロマン派への対抗意識)に縛られていると感じていました。サティはドビュッシーの傑作オペラ『ペレアスとメリザンド』に対してもこう言い放ちました。「素晴らしいが、背景が足りない。木を描くなら、その枝に吊るされた果物も描くべきだ」これは、ドビュッシーの音楽が「雰囲気」に流され、構造的な明晰さを欠いていることへの、彼なりの鋭い批判でした。一方、ドビュッシーがサティの音楽を「君の音楽には形式(フォルム)がない」と批判した際、サティは後日、『梨の形(フォルム)をした3つの小品』というタイトルの楽譜を持って現れました。「ほら、形(梨の形)があるだろう?」というわけです。これも単なるジョークではなく、音楽的な形式論をあざ笑う最高に知的な嫌がらせだったと見るべきです。サティは作曲家が「芸術家」として神格化されることを極端に嫌いました。彼は公的な書類の職業欄に「作曲家」ではなく「器械技師(ジムノペディスト)」や「測量技師」と書くことがありました。音楽を感情の表出ではなく、あくまで「音の配置」という作業として突き放して見せるポーズです。また、父親から入学させられたパリ音楽院(コンセルヴァトワール)を「世界で最も下劣な場所」と呼び、わざと落第するような行動をとって逃げ出しています。後に40歳を過ぎてから、あえて保守的な音楽学校(スコラ・カントルム)に入学し、首席で卒業することで「伝統的な技法など、その気になればいつでも習得できる」と証明してみせた、というわけです。彼は自分の真意が理解されないことを逆手に取り、「変人」の仮面を被ることで、既存の批評家たちからの攻撃をかわしていました。遺産が入った際、彼は全く同じベルベットのスーツを7着購入し、そればかりを着て過ごしました。これは「ベルベットの紳士」という記号になりきり、私生活を匿名化する戦略でした。「私は非常に若い時に、非常に古い世界にやってきた」とはサティの言葉ですが、彼は自分が理解されないことを嘆くのではなく、むしろ理解しようとする側(伝統的な聴衆や批評家)の無理解を、彼らをあざ笑うための武器に変えていたとも言えます。サティが毒を吐き、変人を演じ続けたのは、「音楽を特別なものにしない」という信念を守るためでした。彼にとって、音楽を「感動の道具」にすることは、聴衆による感性の搾取に等しかったのかもしれません。サティのこうした「戦略的拒絶」を踏まえると、現代の我々が彼を「癒やしの音楽」として消費している現状を、本人は草葉の陰でさぞや滑稽に思っていることでしょう。
2026年03月22日
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このところ、亭主の関心はイスラエル・米国によるイランへの軍事攻撃にハイジャックされていて、これに関連した報道にどうしても目が行ってしまいます。「目的による手段の正当化」という道徳的腐敗もここに極まった感がある一方、問題の根本があのような大統領を生み出したアメリカという国にあることも明らか。そこで、この週末にヨーロッパとの対比という観点から考えてみることに。まず、冷戦(資本主義 vs 共産主義の対立)の終結以降の国際紛争には「宗教的な対立」が大きな影を落としているように見えます。そもそも米国は17世紀に英国で国王ジェームズ1世から迫害を受けた清教徒たちが、それから逃れるために海を渡って作った国。大統領が就任式で聖書に手をかけて宣誓するところからもわかるように、米国はキリスト教を軸とした「宗教大国」でもあります。そのため、宗教を否定する共産主義には極めて不寛容で、1950年代には議会による共産主義者及びその同調者とみなされる人たちへの政治的な迫害(マッカーシズム、あるいは「赤狩り」)も行われました。一方、これと対照的なのがヨーロッパで、16-17世紀に起きた宗教戦争でヨーロッパ全土が荒廃した経験から徐々に脱宗教化(=世俗化)が進み、18世紀には啓蒙主義の時代へと移っていきました。その表れのひとつが、啓蒙主義時代における古代ローマの歴史への関心の高まりです。これは、「キリスト教以前の世界」を参照することで、宗教に対する理性の優位性への歴史的証拠を見出し、キリスト教の精神的支配から脱却しようとする試みであったという見方もできます。同じような指摘が、18世紀に出版された「ローマ帝国衰亡史」の著者エドワード・ギボンをはじめ、前世紀の著名な歴史家の一人であるピーター・ゲイなどからもなされています。とはいえ、このような見方をそのままヨーロッパにおける「理性の勝利」という単純な構図に当てはめることにはいくつかの重要な問題があります。まず、啓蒙主義者の多くは必ずしもキリスト教を全否定して「理性のみ」の無神論に走ったわけではありません。ヴォルテールをはじめとする思想家たちは、伝統的な教会のドグマ(教義)は否定しましたが、宇宙を創造した「神(知性)」の存在は信じていました。(このような考え方は、最も無神論に近い立場にあると思われる現代の物理学者の中にも見られます。)彼らが称賛した古代ローマの徳(ストイシズムなど)は、実はキリスト教的な道徳観と完全に切り離されたものではなく、むしろ「迷信を除いた純粋な信仰」のモデルとして再解釈されていました。また、彼らの主張の目的は、「理性の優位」という哲学的なものよりは、当時の政治体制への批判という極めて現実的な目的が優先されていた点も見逃せません。モンテスキューらがローマを参照したのは、教会の支配を脱するためだけでなく、当時の「絶対王政」とは別の選択肢(共和政や均衡ある権力分立)を見出すためでした。つまり、彼らが求めていたのは「神学からの解放」と同等以上に「政治的自由」であり、古代ローマは非キリスト教的な統治の例というより、あるべき国家モデルのカタログとして消費されていた側面があります。もうひとつの問題は、啓蒙主義者が持っていた中世に対する過度な偏見です。彼らは自らの文明を「光(啓蒙)」、キリスト教支配下の中世を「暗黒」と定義しました。古代ローマからルネサンスに至るまでの間に、キリスト教神学の中で発展した論理学やスコラ哲学が、近代的な「理性」の形成を準備した側面があることは無視されました。彼らが称賛したローマの「理性」は、実際には多神教的な儀礼や呪術と密接に結びついていましたが、啓蒙主義者は自分たちの都合の良い「哲学的ローマ」のみを抽出し、歴史的実態を歪曲していたという批判があります。もし啓蒙主義が純粋に「宗教に対する理性の優位」を証明したかったのであれば、古代ローマの負の側面(残酷な見世物、非合理的な予兆の信奉、奴隷制)についても批判的に評価すべきでした。実際には、彼らはキリスト教がローマを滅ぼした(ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の論調)と論じることで、キリスト教を有害なものとして描く一方で、ローマ自体の内部崩壊や非合理性には目をつぶる傾向がありました。したがって、この運動は「宗教から理性へ」という一方的な進歩ではなく、「既存の宗教権威を打倒するために、別の権威(古代)を召喚した」という、権威のすげ替え作業であったと捉えるのがより正確かもしれません。とは言うものの、エドワード・ギボンの「キリスト教(宗教的熱狂)がローマという合理的秩序を内部から侵食し、崩壊させた」という史観を現代の宗教対立や紛争に重ね合わせる視点は、依然として現代的なアクチュアリティを持っているように思われます。ギボンがローマ帝国を理想化した最大の理由は、その「宗教的寛容」にありました。多神教のローマは、各民族の神々を帝国の秩序内に併存させる柔軟性を持っていました。(これは日本における神道の在り方とも通じるところです。)キリスト教という「唯一絶対神」を掲げる排他的な信仰は、帝国の多様な統合原理を破壊することになりました。冷戦後の紛争(ユーゴスラビア、中東など)において、世俗的な国家枠組みが崩壊した後に「宗教的アイデンティティ」が突出して排他的な対立を生む構図は、ギボンの指摘した「宗教による公共性の解体」と強く共鳴します。「普遍的な教義」が「世俗的な統治」を圧倒する時、社会の流動性が失われ、対立が激化するという警告として、ギボンの視点は極めて有効です。ギボンは、ローマの滅亡を単なる軍事的な敗北ではなく、「内なる知性のマヒ」として描きました。ギボンによれば、ローマ人は現世の統治や防衛よりも、キリスト教信仰における死後の救済や神学論争にエネルギーを注ぐようになったことが衰退の原因です。21世紀の紛争においても、合理的対話や経済的互恵関係よりも、宗教的聖地や教条的な正義が優先される現象が見られます。これは「高度に発達した文明であっても、非合理な情念によって自壊しうる」というギボンの文明論的危惧を裏付けるものと言えます。ただし、ギボンの見方にも「非合理な情念」の原因まで思い至らなかった点に限界があると言えます。実際の紛争の実態を仔細に眺めれば、その原因は資源分配や格差、政治的疎外にあり、宗教は「旗印」あるいは口実に過ぎないように見えます。啓蒙主義者は古代ローマを合理的・安定的な理想社会とみなしていましたが、実際には深刻な格差や軍事的腐敗を抱えた不安定な体制だったことを考えれば、それらこそが「非合理な情念」の真の原因と言えるでしょう。(これは現大統領の出現を促した米国の状況とウリふたつに見えます。)ギボンの視点は、「世俗的な公共空間をいかに宗教的熱狂(あるいは原理主義的なイデオロギー)から守るか」という課題を考える上で、今なお強力な「教訓」として機能します。しかし、現代の紛争を「宗教(暗黒) vs 理性(光)」という啓蒙主義的な二分法だけで捉えると、問題の背後にある経済的搾取やポストコロニアルな構造を見誤る危険があります。「宗教が文明を滅ぼす」のではなく、「文明がその包摂力を失ったとき、宗教が対立の言語として選ばれる」このようにギボンの言葉を読み替えることで、彼の史観は現代の複雑な紛争を解読するための、より洗練されたツールになると言えるでしょう。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』におけるこの「宗教への懐疑」は、現代の私たちが直面している「多文化共生と世俗主義の対立」というジレンマの先駆けであったと言えます。
2026年03月15日
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西洋クラシック音楽、特に古楽に関わる日本の音楽家や音楽史家は、ある程度年齢や経験を重ねると、必ずと言っていいほど「日本人の自分が人生を賭けて西洋音楽をやっていることに意味があるのか?」という根源的な疑問に向き合うことになるようです。そして、その答えの一つとして辿り着くのが16世紀にイエズス会の宣教活動を通じて生起した日本と西洋文明との接触です。大雑把に言えば、この接触によって日本もヨーロッパの文化と繋がっていた(無関係ではなかった!)ので、彼らの音楽をやることは日本人にとっても何かしらの意味はある、という納得の仕方です。とはいうものの、当時の宣教師達が何を目的に日本に来ていたのかを考慮せずに、この「未知との遭遇」を僥倖であるかのように捉えるのは、あまりにも無邪気すぎると思われます。イエズス会自体はキリスト教の布教を目的として16世紀半ばに成立した修道会ですが、同会は「新大陸」での植民地獲得を目指すスペイン・ポルトガル王室の意を受け、いわば帝国主義の先兵として日本を含むアジアに進出してきました(たとえばこちら)。その戦略は明快で、現地の住民をキリスト教に改宗させ、さらには政治権力にも取り入って宗教的権威を上書きすることで彼らを支配しようというわけです。(これを察知した豊臣秀吉や徳川家康が禁教へと舵を切ったことはよく知られています。)外国の宗教勢力が日本の政治に影響を与えた、という点でイエズス会と似ているのが、このところマスコミでもよく取り上げられる旧統一教会です。両者には「宗教というソフトパワーを用いて、その土地の有力者(大名や政治家)に深く食い込み、背後の組織や国家の利益を図る」という共通の構造が見て取れます。亭主には、彼らのいずれもが日本を政治的な「属国」にしようとしたように思われますが、その理由を歴史的背景と現代の構図から整理すると以下のようになります。1. 「トップダウン型」の浸透戦略イエズス会が戦国大名を、旧統一教会が国会議員を標的にしたのは、効率的に社会を動かすための「上部構造の掌握」という共通戦略からでした。 ・16世紀: キリシタン大名に対し、南蛮貿易(武器や硝石)という「実利」を餌に改宗を促し、背後のスペイン・ポルトガルの影響力を拡大させた。 ・現代日本: 保守系政治家に対し、選挙の「無償ボランティア」や「組織票」という喉から手が出るほど欲しい「実利」を提供し、政策決定や人事への影響力を確保した。2. 「資金の還流」という経済的属国化「属国」という言葉が最も現実味を帯びるのは、日本が教団の「ATM(資金源)」と化していた実態です。イエズス会の場合、日本をキリスト教化することで貿易利潤を得る側面がありましたが、旧統一教会はより直接的でした。 教団の教義では、韓国を「アダム(主人)国家」、日本を「エバ(罪人)国家」と位置づけ、日本は過去の植民地支配の罪を贖うために、韓国や全世界の教団活動を支える「経済的な使命」を負うべきだと説かれました。 このため、日本の布教活動は組織的な資金集めが最大の目的となり、集められた巨額の資金(累計数千億円規模とも言われる)は韓国本部への送金や、世界規模の政治工作、巨大ビジネスの原資、果ては教祖一族の豪華な生活費へと充てられてきました。これは、富が一方的に外部へ流出するという意味で、「経済的な搾取構造における属国」と言える側面があります。3. イデオロギーによる「思考の占領」「属国化」のもう一つの側面は、日本の国益よりも「教団の利益や教義」を優先させる政治家を醸成した点に見ることができます。 ・政策への干渉: 教団の教義に沿った「家庭教育支援法」の推進や、「選択的夫婦別姓」への反対など、本来日本の有権者の議論で決まるべき課題に対し、特定の宗教的価値観を忍び込ませることに成功した。 ・対韓・対米関係: 「日韓トンネル」構想や、文鮮明氏が提唱した世界戦略に日本の政治家が「お墨付き」を与えることで、日本の政治的資源を教団の権威付けに利用した。というわけで、16世紀のイエズス会が「十字架と剣」で植民地化を狙ったと言われるのに対し、旧統一教会は「投票箱と献金袋」を用いて、民主主義のシステム内部から日本を実質的にコントロールしようとした(国家の乗っ取りにも比せられる)と言えます。 「属国」という表現は多少過激であるものの、「日本の政治決定権が、日本国民ではなく外部の宗教組織の意思に左右されていた」という本質をよく表しています。今回の解散命令は「民法上の不法行為」という、ある意味で些細に見える理由によるものですが、その根底にある問題は非常に深く、16世紀の歴史に照らしても学ぶべき点が多いと思われます。
2026年03月08日
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イタリア・ルネサンス期の造形美術をこよなく愛する亭主にとって、メディチ家といえばすぐに思い浮かぶのが「イル・マニフィコ(豪華王)」という渾名を持つロレンツォ・ディ・メディチ(1449-1492)。彼の実質的な支配の下、フィレンツェにおける芸術・文化は最盛期を迎えたと言われ、500メートル四方という狭いフィレンツェ旧市街は、絵画や彫刻の名作で溢れかえっている感じです。(亭主も若かりし頃にこれらを全部目に焼き付けよう、と1週間ほど街中を歩き回りました。)もう一人、よくその名を聞かされるのは「祖国の父」の尊称でも知られるロレンツォの祖父、コジモ・デ・メディチ(1389-1464)で、彼は初期ルネサンスのパトロンとしていわゆるクワトロチェント(1400年代)に活躍した画家や彫刻家を支援するとともに、プラトン哲学に心酔して私的な学芸サークル「プラトン・アカデミー」の基礎を築いたり(ここでの人文主義者達の活動が後の新プラトン主義の流行へと繋がる)と、「文芸復興」の影の立役者でもあったことが知られています。あともう一人の有名人が、前述のロレンツォの次男でローマ教皇「レオ10世」となるジョバンニ・デ・メディチ。彼が教皇時代のローマにルネサンスをもたらした(ミケランジェロやラファエロのパトロンとなり、彼らに数々の名作を委嘱)と言われています。(亭主もシスティーナ礼拝堂にある彼らのフレスコ画を目前にして圧倒されたことが昨日のことように思い出されます。)というわけで、もっぱらルネサンス芸術という窓を通してのみ彼らを見ていると、メディチ家の人々は皆が金払いもよく善良な芸術愛好家であるかのように錯覚しがちです。が、もちろんそんなことはなく、政治的には日本の戦国時代にも似て権謀術数が渦巻く乱世といってよい時代を生き抜いた人たちなので、それぞれの人生が波乱万丈。人物伝として今日まで文筆家の題材を提供し続けている所以でもあります。ところで、亭主が以前から気になっていたのが、ヘンデルやドメニコ・スカルラッティが若い頃に関わったメディチ家のトスカーナ大公コジモ3世(1642-1723)と彼の二人の息子、フェルディナンド(1663-1713)とジャン・ガストーネ(1671-1737)のことです。まず、フェルディナンド(長男なので大公子)の方は、1705年にドメニコが父アレッサンドロの紹介状を持って求職活動を行った相手。彼は「建築・素描・絵画に熟達したアマチュアというだけでなく、ハープシコードを上手に弾いた」ことで知られ、後にピアノフォルテの発明者として名を馳せるバルトロメオ・クリストフォリの雇い主でもありました。(アレッサンドロの紹介状を見ると、彼が息子へのオファーを切望してたことがヒシヒシと伝わってきます。)一方、同じ頃(1706~)に若いヘンデルはイタリアで武者修行に出かけますが、そのきっかけを作ったのがジャン・ガストーネ(フェルディナンドの弟)であったとされています。ヘンデルはハンブルクのオペラに関わっていた1705年に当地を訪れていたジャン・ガストーネと出会い、彼からイタリアに来るように熱心に誘われたようで、その場では断ったものの後に自分で旅費を工面してイタリアに渡ります。(その後ヘンデルとスカルラッティがローマで邂逅を果たし、鍵盤の腕比べの後で親交をかわしたことがよく知られています。)こういったエピソードから、亭主はルネサンス期から2世紀以上下った18世紀初頭においても、フィレンツェがメディチ家の支配の下で繁栄を保っているかのような印象を持っていました。ところが、今回表題の本を読んで、これが全くの幻想だったことを知ることに。同署によれば、フィレンツェがメディチ家の下で曲がりなりにも栄えていたと言えるのはコジモ3世の曽祖父フェルディナンド1世(1549-1609)の代までで、「あとはゆっくり百年をかけて衰退してゆく運命にあった」とのこと。コジモ3世の代には、トスカーナ大公国はすでにヨーロッパの小国へと落ちぶれ、メディチ家自体も貧しくなっていました。長命(享年81)だった彼の治世(1671-1723)の前半にフィレンツェを訪れたイギリスの歴史家は、あれほど美しかった花の都フィレンツェが見る影もなくなった、と驚いたとか。このような状況を考えれば、ドメニコがなぜフェルディナンドからのオファーを得られなかったかも容易に想像がつきます。要するに、当時メディチ家はすでに財政難に瀕しており、新たに宮廷音楽家を高給で雇うような余裕はなくなっていた、ということでしょう。その後、兄フェルディナンドが父親のコジモ3世より先に病没(男色による梅毒が原因とされる)して弟ジャン・ガストーネがトスカーナ大公職を継ぎますが、彼も兄同様のゲイで「若い男達と宮殿に閉じこもって、酒と遊びの自堕落な生活を延々繰り返した」とのことで、まるでバイエルン王ルードヴィッヒ2世の後半生そっくりだとか。当然のように子供もおらず、彼の死をもって初代からおよそ350年続いたメディチ家は絶え、フィレンツェはハプスブルク家の支配下に入ることに。こうしてみると、1685年組のヘンデル、バッハ、スカルラッティが生きた時代とは、まさに貴族が没落していく時代だったことがよくわかります。
2026年03月01日
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今年の10月に来日が予定されているヘルシンキ・フィルの公演を予告した招聘元のSNS広告がネット上で物議を醸しているそうです。2月19日のA新聞夕刊の「音楽閑話」という記事によると、当初予告に指揮者の名前がなかったことに批判が上がっていたのが、そのうち共演者である「かてぃん」こと角野隼斗に対しても向かい、彼のせいでチケットが高騰しているのではないか、あるいは彼を「客寄せにしたのではないか」という疑問、果ては音大でアカデミックな教育を受けていない彼を「正統ではない」とか「由緒あるオケのソリストにふさわしくない」といったバッシングまでになっているとか。このところ角野クンの人気が異様に高く、ファンクラブに入っても高い抽選倍率でなかなかチケットが取れないことは夙に知られています。こういうポップスター並みの扱いは、先週このブログで取り上げたスタニスラフ・ブーニンの場合によく似ています。一方で、ブーニンの場合には、当時の評論家から批判が向けられたのはミーハーな聴衆に対してで、そのような聴衆は芸術としてのクラシック音楽をよくわかっていないのではないか、という上から目線のものでした。これは、ブーニンが演奏するようなピアノ音楽は「真面目な芸術音楽」として鑑賞されるべきもので、追っかけの聴衆が楽しむ娯楽音楽のような軽いものではない、という教養主義的な考え方の表れです。今回の場合にも、批判の発信元はどうやら昔ながらの「真面目派」クラシックファンのようですが、その対象が聴衆ではなく、演奏家本人に向かっている点が異なります。その理由たるや、「彼は音大を出ていない」とか「正統ではない」ということで、まさに教養主義にどっぷり浸かったオールドファンの「雰囲気の悪さ」が丸出しです。多少とも彼らオールドファンの心情を忖度してみれば、角野クンが他の人気あるクラシック音楽演奏家と同じような経歴を持たないにもかかわらず、クラシック音楽のショービジネスでおおいに稼いでいることに、ある種の嫉妬を感じていることが批判の根っこにあるように思われます。ネット上の彼らの発言を見ていると、なんで彼のような駆け出しの演奏家のチケットが手に入らないのか、という不満(ルサンチマン)が見て取れるからです※)。今回のSNS上の批判に対し、角野クンは「私が正統のクラシックではないとか、由緒あるオケのソリストに相応しくないと批判する方も一部に見受けられます。このような声は数年前から常に存在し、私が日本を出て欧米で武者修行したいと思った理由の一つですが、現在各地で実力と実績を積み上げている最中ですから、今後に期待いただければ幸いです。ただし、私は権威や正統化のために音楽をしているのではありません。自分の心に従い音楽をします。」とキッパリ。このコメントが逆に炙り出していることは、日本のクラシック音楽の興行(演奏会)が依然として教養主義的で閉鎖的なオールドファンに牛耳られているらしい、ということです。角野クンが海外に拠点を移した理由のひとつもこれということなので、同じ理由で広く有為な若手人材の海外流失を招いている可能性があるとすれば事態は深刻とも言えるでしょう(やれやれ…)。それにしてもクラシック音楽のオールドファン達よ、角野クンのことはもう忘れてはいかが?彼のやり方にあれこれ口出しするのはまさに余計なおせっかいというもの。彼はあなたのような聴衆を必要としていないし、あなたの好みの「正統的なクラシック音楽演奏家」として振る舞う気も毛頭ないのだよ…※)追記:この状況、有名なイソップ童話「すっぱい葡萄」を思い起こさせます。空腹の狐がうまそうな葡萄を見つけたものの、それが高い木の上にあって手に入らないと分かるや、「どうせこんな葡萄は酸っぱいに決まっている」と負け惜しみの言葉を吐いた、という話です。ただし、この狐は葡萄に対する恨みを内面化せざるを得なかったのに対し、現在ではそれを匿名でSNS上に吐き捨てる、という悪行が蔓延するようになった、ということでしょうか。
2026年02月22日
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このところ、テレビや新聞といったマスコミでは、先週末に投開票が行われた衆議院議員選挙の話題でもちきりです。高市早苗氏がそれまでの前言を翻して国会を冒頭で解散、衆院選挙に打って出たことに対し、前述のような「オールドメディア」では当初「騙し討ちだ」、「大義がない」といった否定的な論評が主流であるように見えていました。(議院内閣制の下での議員の選挙を首相公選制にすり替えているのでは、といった理にかなった批判もありました。)ところが、いざ選挙戦が始まると序盤から高市自民党の優位が伝えられ、蓋を開けてみれば自民党が単独で3分の2を超えるという地滑り的な大勝という結果に。これについて、オールドメディアではもっぱらSNS上の「高市人気」に帰する解説が眼につきます。曰く、「女性初の首相が頑張っている」のに「国会で意地悪なオジサン達にイジメられている」のをなんとかしてあげなければ、という感情が「推し活」の動機となって一気に広がった(「サナエ・シンドローム」?)、という見立てです。これで亭主が思い出すのが、ちょうど40年前にクラシック音楽業界で起きた、ピアニスト、スタニスラフ・ブーニンの来日をめぐる大騒動です。この騒ぎを知らない読者のために付言すれば、来日の前年である1985年に開かれたショパン・コンクールで当時弱冠19歳だったブーニンが優勝し、翌年演奏会のために来日したところ異常な人気で聴衆が殺到。カメラと色紙を持って成田空港に押しかけたり、ステージに登場したブーニンを見て「キャー、かわいい」と悲鳴を上げたり、「《英雄ポロネーズ》の演奏の間じゅう、キャーキャー騒ぎ、立ち上がって手を振ったりおしゃべりをしたり、挙句の果てにはフラッシュをたいて写真まで撮る」(梅崎史子『スタニスラフ・ブーニン』)といった、それまでのクラシック音楽の演奏会では考えられないような熱狂的ファンの反応が業界内で大いに物議を醸したことが思い出されます。この騒ぎの中心にいたのはそれまで「クラシック」には縁のなかった客層(その多くは若い女性達)で、彼らの関心を呼び起こしたのがNHKのテレビ番組《ショパン・コンクール’85—若き挑戦者達の20日間》(1985年12月)や新聞紙上での論評(同コンクール審査委員を務めた園田高弘の激賞)などのマスコミ報道だったようです。音楽学者の渡辺裕氏は、このブログでも紹介した著書「聴衆の誕生」の中で、この現象を「商業主義の申し子ともいうべき『アイドル・スター』の誕生」と捉える一方、当時の評論家達はどちらかと言えばこれを否定的に見ていたことを伝えています。例えば、ブーニンの演奏が「パンダを見るような」つもりで聴かれているのではないか(黒田恭一)、あるいは彼の演奏は「センセーション」だったが、「音楽というような奥深いものをもった芸術」はセンセーションのみによってはとうてい辿ってゆけるようなものではない(吉田秀和)、といった言説です。クラシック音楽を真面目な芸術と信じる彼らにしてみれば、これらは至極当然の反応と言えます。当時はウブな「真面目派」だった亭主も、ブーニン現象をくだらない馬鹿騒ぎと思って見ていた方ですが、今にして思えばこれは「娯楽としてのクラシック音楽」のあり方の一つと理解できます。さらに、フランツ・リストに代表される19世紀の「ヴィルトゥオーソ」人気(聴衆は彼らの演奏会にほとんどサーカスでも見に行くようなノリで集まった)を考えれば、このような現象はクラシックの享受態度におけるこれまでの「行き過ぎた生真面目さ」からの揺り戻し、とも言えるわけです。さらに付け加えれば、このようなブーニン現象とそれに対するネガティブな受け止めは日本だけに見られるもので、これが日本のクラシック音楽界の問題、「演奏会というアイコンが持っている雰囲気の悪さ(レセプショニストに殴りかかったり、マナーをよく知らない初心者に冷たい視線を浴びせたりする)」につながっています。話を今回の選挙に戻せば、いわゆるオールドメディアに登場する評論家や解説者は、その道の専門家でいわば「真面目派」の人たちで、選挙で選ばれるのは政策であるべきと考えています。一方、選挙後に行われた投票行動の分析では、高市人気は特に30歳代以下の若い世代(特に無党派層)に高かったことからも、彼らの中にはSNSでの推し活のノリで投票した人も少なくなかったと推測されます。とはいえ、ブーニンの熱狂的なファン達も、その数という点ではクラシックの聴衆全体の一部に過ぎなかったように、「推し活」の延長で投票した人の数も、定員の3分の2超という議席数から想像されるよりは遥かに少なかったと思われます。今回の選挙で我々が理解すべきことは、SNSに象徴されるような大衆社会にあっては、支持率の差を極端に拡大する小選挙区制の選挙結果はこのような大きな振れ幅を持つ、ということです。オールドメディアに出てくる政治の専門家の皆さんには、この結果を「リベラル・社会主義の退潮」といった古色蒼然たるイデオロギー的な文脈で総括(誤解?)するのではなく(「革新幻想」はとっくの昔に終わっている…)、「推し活」という行動の背後にある人々の感情(現状への不満や閉塞感)やその原因(アベノミクスの失敗?)を冷徹に分析して見せてほしいものです。ちなみに、ブーニン自身は日本の聴衆の反応を肯定的に受け止めたようで、その後日本との縁を深めますが、2013年に病気と転倒事故による怪我で演奏活動の中断を余儀なくされ、10年の療養を経て2023年に復帰。これを機に彼の半生を追ったドキュメンタリー映画「ブーニン 天才ピアニストの沈黙と再生」が製作され、今月20日に公開されるとのこと(「ぶらあぼ」の記事)。彼の日本での人気の根強さを改めて思い知らされます。
2026年02月15日
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未音亭のハープシコードは2007年製、同年に導入されて以来いつのまにか来年で20年になろうとしています。この間特に大きな問題もなく亭主を楽しませてくれていますが、近年傷みが目立っていたのが譜面台。といっても傷んでいるのは木製の台そのものではなく、楽譜が置かれる部分に敷かれたフェルト製の緩衝材の部分で、重い楽譜の底部と擦れていつのまにかボロボロになってしまいました。(ちなみに、以前のメンテでは少しずつ削れたフェルトが鍵盤の下に溜まっているのを発見。)亭主はこれを自分で修理することを思い立ち、まずは必要となるフェルト布が手に入るかどうかを調べることに。この手の手芸用材料といえば、百円ショップが最も手ごろな入手先だろうとあたりを付け、ウォーキングのついでに近所の「セリア」を訪ねたところ、予想通り手芸コーナーでちょうどよい色合い(濃い臙脂色)のフェルト布を見つけて落手しました。次に問題なのが、フェルトをどうやって譜面台に接着するかです。一見すると木工用ボンドのような接着剤で付いているようにも見えますが、いずれにしても張り替えるにはフェルト部分を剥がしすしかなく、腹を括って剥がし始めました。すると、予想以上に接着面の経年劣化が進んでいたらしく、フェルトの残骸は苦もなく剥がれます。さらに、フェルトがどのように接着されていたのかを調べようと剥がれた後の木部を仔細に眺めたところ、長手方向に3本の両面テープで張られていたらしいことが判明。そこで、今度は両面テープを物色するために再度ウォーキングで「セリア」にお出かけです。テープ類は文具コーナーに並んでいましたが、意外と種類が多く(テープの幅や素材、用途など)、どれにするか悩みましたが、寿命を考えて「強力」タイプで一番幅広の15 mmをゲット。これで材料は揃いました。さて、ここまで来ればあとは張り替えるだけ、と思ったのも束の間、譜面台の両面テープが付いていた跡らしい部分を爪で擦ると白い粉のようなものが出てきます。どうやらテープの接着剤が残っているようで、このまま上からテープを張ってもすぐに剥がれそうなので、当該部分の掃除を始めました。ところがこれが意外に難物で、水やアルコールで拭いてもビクともせず、さらには石油系の溶剤も試してみたものの効果がありません。最後に以前家族が使っていた除光液を試したところ、これでバッチリ除去できました。(主成分アセトンの威力というところです。)こうして綺麗になった底面に両面テープを貼るとちょうど3列で全体を覆うことができ、これに裁ち鋏で切ったフェルト布を押し付けて修復は完成。フェルト生地が元のものよりやや薄い以外はほぼ以前の状態に戻り、楽譜の置き心地も快適です。早速平均律クラヴィーア曲集第1巻を譜面台にドンと乗せてポロポロ。 * * * * *ところで、今朝起きてカーテンを開けると外は一面の雪景色。その後も雪は降り続き、ようやく収まったのが午後2時ごろでした。亭主が住む茨城県南部でも冬の間に積雪を経験することは珍しくありませんが、今回のように10 cmを超えて積もるのは久しぶりです。(多分2014年の豪雪以来。)1時間ほどかけて玄関周りと駐車場付近の雪かきをを行い、庭側に回ってみると綺麗な新雪が20 cm近く積もっています。ゴミ収集ステーションへのアクセスに道を作ろうとしたところで、ふと思いついて雪だるまを作ってしまいました。
2026年02月08日
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数日前に近所のイオンモールにある書店にぶらっと立ち寄ったところ、入り口付近の一角に古書店が畳3畳ほどの広さのブース(書架)を置いて無人販売を行っていました。冷やかしで眺めていたところ、漫画本のコーナーに筑摩書房の「現代漫画」シリーズが3冊ほど並んでおり、その中に「園山俊二集」(第10巻)を発見。実はこのシリーズ、亡父が大昔に購入したものが実家にあり、亭主もパラパラ眺めていました。中でも園山俊二は、学研の雑誌「科学/学習」に連載されていた「はじめ人間ゴン」などの作者として馴染みがあり、この本も読んだ覚えがあります。とはいえ、刊行された1970年には亭主はまだ小学校高学年。マンガが諧謔の中に忍ばせる深い風刺などはわかるはずもなく、娯楽として読み飛ばしたものでした。(そもそも大のオトナが文学全集のように立派に装丁されたマンガ本を読む、ということ自体をなんとも不思議に思ったことが思い出されます。)ところが、以前このブログで林達夫の著作を取り上げた際に、文庫版の解説記事の冒頭で庄司薫氏が言及した「鳥が矢の名人に射抜かれたことも知らず満月の彼方に悠々と飛んでいく様を描いた園山俊二の漫画『名人伝』」をもう一度見たくなり、実家に問い合わせたところ「あ〜、ちょうど他の本といっしょにまとめて古書店に引き取ってもらった」とのことで、残念ながら後の祭りでした。こうなってくると、どうしても気になってくるのが人情。というわけで、しばらく燻っていたところに現物を見せられてどうしても欲しくなり、衝動買いすることに。(それにしても、奥付けに1969年11月30日刊とあるのを見ると、あれから半世紀以上という時の流れに圧倒されます。)本を開くと、件の「名人伝」は「読み切り傑作選」の項の2番目にあり、馬術、居合抜き、鎖鎌、槍、神童、と来て最後に弓術が出てきます。この弓の名人のエピソード、置かれた文脈によって如何様にも解釈や教訓を引き出すことができる点が面白いところです。が、それにも増して感心させられるのは、作者が少ない線描を用い、たった8コマで主題を描き切っている点で、漫画という表現の威力を改めて思い知らされた感があります。さらにもう一つ、本書を手元に置くことで初めて目にすることになった鶴見俊輔による巻末の解説記事、これがまた面白い読み物となっています。「園山俊二集」に集められた漫画が世に出た時期は1960年代後半の高度成長期、大学進学率が急上昇するとともに学園紛争が盛り上がった時期でもあります。鶴見によれば、例えば一世を風靡した「ギャートルズ」(「はじめ人間ゴン」はその子供版として作られたとか)の背後には教育問題がある、と言います。園山俊二(1935-1993)が早稲田大学で学んだ昭和30年代には日本の多くの大学で漫画研究会が生まれたことから、鶴見はこれを日本の大学生の間に「大学による近代的知性養成計画にたいするうたがいがきざしてきたこととからんでいる」と言い、「ギャートルズ」は、大学をふくめての現行の教育計画にたいする告発の書であるとまで言います。なぜなら「こどもをどう見るかが教育のはじまりにある問題」であり、「今の平均のおとなのように育てることにうたがいをもつならば、眼はしぜんに、今の社会以前の人間はどうだったのかにむけられ、原始人が眼に入ってくる」というわけです。これはフランスの哲学者ルソーの問題意識と軌を一にしており、鶴見は作者に対し「いつかは、園山俊二としての社会契約論あるいは社会再契約論をかいてほしい」と呼びかけています。その当時に吹き荒れた学園闘争の嵐は、受験戦争を勝ち抜いて手にした大卒の学歴がエリートへの切符ではなくなり、社会ののコマになって働くだけの冴えない展望しか描けなくなった学生たちの異議申し立てでした。とはいえ、その後も大学受験を頂点とする教育システム、およびそれに裏付けられた学歴社会は変わらないまま現在に至っているように見えます。ところが、ここに来て人工知能(AI)、なかでもChatGPTなどの大規模言語モデルの大成功により、少なくとも知識だけ見れば東大生レベルのそれを誰もが手にできる状況になりました。これはもしかするといよいよ学歴社会の終焉を意味するのかもしれません。こうなってくると、これから人間に求められるのはある種の原始人のような能力、ということになるのかも?
2026年02月01日
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昨年の暮れに、A新聞で「古楽の現在地」と題する連鎖コラムが4回にわたって掲載されました。第1回では古楽復興運動の立役者だったアーノンクールの活躍を取り上げ、2回目以降では彼らを異端扱いしていたクラシック音楽界でもその考え方や音楽に対するアプローチが徐々に広がっていく様子が紹介されています。なかでも最終回で引用された「古楽の探究は、クラシックがまとう『教養』の呪縛を断ち切り、当時の人たちと同じように、現代の奏者と聴衆がともに大作曲家たちの冗談やいたずらを楽しむためにあるんです」という鈴木秀美さんの言葉、あるいは「僕らが再現したいのは、以前に鳴り響いた音色そのものではなく、どこまでも自由を許す寛容の精神なのです」という濱田芳通さんのそれは、「古楽の精神」とは何かを端的に語っていると思われます。ところで、引用の中にある「クラシックがまとう『教養』の呪縛」とは、教養と言われるものが往々にして権威主義・エリート主義と一体になっていること(=教養主義)に対する批判を含んでいます。これはクラシック音楽に限らず芸術・文化一般に言えることで、教養が権威主義と結びつくと人の自由な思考や感性を縛り、寛容さを失わせる方向に働いてしまうことを表しています。以前にこのブログでも紹介した「教養主義の没落」という竹内洋氏の著作では、日本における教養主義が、明治後期から戦前昭和にかけて「西洋古典崇拝」をベースにして旧制高校・帝大の学生エリート文化として発展し、戦後の高等教育の大衆化とともに廃れていく様が豊富なデータに基づいて描かれていました。その様子は、明治期の日本が礼賛した西洋文化の一部であるクラシック音楽の受容に始まり、大衆娯楽に対抗する「高級文化」として威光を放つ昭和前半から徐々に「オタク文化」となりゆく昭和後期ー平成時代までの栄枯盛衰の歴史によく対応しているように見えます。とはいえ、こうして教養主義が時代遅れな過去の遺物のようにディスられている様を見ると、アマノジャクな亭主としては「教養とはそんなに悪いものか?」と反感を覚えるところも。ここで少し冷静になって考えれば明らかなように、「教養」と「教養主義」は同じではないので、これらを明確に区別して考える必要があります(前述の引用記事中にある「『教養』の呪縛」も本来は「『教養主義』の呪縛」というのが正しい)。この視点から面白く読めるのが表題の「日本型『教養』の運命」(岩波書店、1995/2009)という本です。この本、実は前述の竹内洋氏の本の中でもしばしば引用されており、彼の仕事の出発点のひとつにもなったと思われるものです。本書によれば、まず「教養」という言葉には、(1) 専門に対する基礎としての教養(「教養レベルの語学力」といった用法における意味)、(2) 幅広い知識としての教養(大学における「一般教養」(パンキョウ)という場合のそれ)、(3) 文化の習得による人格の完成という意味での教養、の3通りの意味があります。これらの中で教養主義と強く結びつくのは(3)の意味における教養で、人文的教養とも呼ばれます。従来これを身につけることは、他者に対する理解を深め、社会や人生に対する洞察力を高めるという点で人間形成にとって根幹的なものと考えられてきました。では「日本型『教養』」とは何か?本書によれば、日本における教養の概念は、西洋文化に接する以前において庶民から武家まで広く浸透していた「修養主義」、努力を通して人格を向上させるという二宮尊徳的な精神が「文化の享受」と結びついて形成されたものです。これは、日露戦争後に「修養書」と呼ばれる本が数多く現れたことなどからも裏付けられています。(修養主義を具体的にイメージさせるものとして亭主が思い出すのが、中学生の頃に友人に誘われて参加した宏正会の朝の集会です。)そのような教養という概念の下で生まれた教養主義は、エリート文化であるにもかかわらず大衆的な修養主義から派生したという点で両者の間は地続きになっている(断絶がない)点に特徴があるというわけです。これは、もともと貴族文化に発するエリート文化と大衆文化が明確に別れている(断絶がある)ヨーロッパ諸国の場合と対照的です。著者の筒井氏によれば、日本の学生エリート文化においてもそのような断絶を生む可能性があったものの、それを抑止する要因として働いたのが「人民の中へ(ブ・ナロード)」を掲げるマルクス主義の流入にあったとのこと。筒井氏はこの点に日本型「教養」の限界を見る一方で、将来への希望も抱いています。なぜなら、それが広く大衆を包摂する可能性を持っているからです。SNSなどを通して大衆ポピュリズムが席巻する昨今の世の中を憂う年配者である亭主としては、我々も当事者として教養と教養主義を明確に区別し、冷笑的になることなく前者の「文化の享受を通して人格を完成させる」という精神を取り戻す必要があると感じました。
2026年01月25日
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前々回のこのブログで、國分功一郎さんの「手段からの解放」という著作をご紹介しましたが、その際に著者が議論のベースとしていたカントの著作「判断力批判」に書かれていたことと「音楽」との関係が気になり始めました。著作の中で、國分さんは純粋な享受の対象である「嗜好品」、およびそれがもたらす「享受の快(=楽しみ)」の本質が、目的性のない点、「こうあるべき」といった合目的性の欠如にあると喝破します。そのような嗜好品の例として、カントはタバコを、國分先生はお酒を取り上げ、それらを「純粋に楽しみのために嗜んでいる間は人生を豊かにするが、それらが何かの目的のために使われ始めると大きな問題を起こす」例として説明していました。(具体的には、「疲れを取るため」とか、「つらい現実から逃れるため」といった目的のためにこれら嗜好品を多用することで「依存症」を発症する、という問題です。)その背景には、カントの「感情能力」の議論で登場する「美しいもの/崇高なもの」、「快適なもの(享受の快)」という区別があり、前者が感情能力の「高次の実現」に、後者が「低次の実現」に対応している、という議論がありました。ここで亭主が見落としていたのが、もう一方の概念である「美しいもの/崇高なもの」の中身。カントが「高次の実現」と称する感情能力の対象物です。実はどうやらこちらが近代の芸術論(美学)のベースになっており、カントの音楽論として(専門家には)よく知られているようです。カントの主張をザックリ要約すれば、音楽には「美しい音楽」と「快い音楽」があり、前者には「その形式的構造を通じて深い感情を喚起する能力がある」と考えていました。これはまさに19世紀ウィーンの音楽評論家・ハンスリックが擁護した「絶対音楽」の美学理論そのものです。というわけで、西洋クラシック音楽、なかでもドイツ語圏の絶対音楽を「高級な芸術」と考える価値観の大元はどうやら近代哲学の始祖であるプロイセンの哲学者、イマヌエル・カント(1724–1804)にある、ということを今頃になって知ることに。ちなみにカントは、感情能力による判断を「趣味判断」と呼び、それが結局のところは主観的なもので、誰もが同意するような判断基準はないと考えていました。その意味では、彼のいう感情能力の「高次/低次」といった分類も同じように恣意的なものに思われ、そこがカント美学の限界でもあると思われます。にもかかわらず、クラシック音楽を「芸術」とみなす音楽家や批評家(〜芸術至上主義者)は、音楽を「享受の快」の対象ではなく、何らかの「美」(あるいは「崇高さ」)を実現するための手段とみなしているように見えます。彼らがカントの矩を超えて独善に走っているところは、昔日の山田耕筰の振る舞いにも似てキケンで有害なものにすら見えてきます。彼らの「生真面目さ」を解毒し、音楽は「嗜好品として、これを楽しむものにしかず」という境地に至らせる妙手はないものか? * * * *ところで、18世紀人であるカントは実際どのような音楽を耳にし、その中で「美しい音楽」と「快い音楽」をどのように区別していたのかも気になるところです。同じドイツ語圏で同時代人の音楽家は、そのスタイルから大雑把に2種類に分けられます。一つは「多感様式」あるいは「疾風怒濤」運動の担い手とみなされるC.P.E. バッハ(1714-1788、「ベルリンのバッハ」)やハイドン(1732-1809)です。彼らの音楽は形式を逸脱し、人間の激しい感情を前面に押し出す表現主義的なもので、後のベートーヴェンへとつながっています。もう一つの流れは「ギャラント様式」の音楽で、ドイツ語圏ではテレマン(1681-1767)やクリスティアン・バッハ(1735-1782、「ロンドンのバッハ」)が代表的な音楽家です。このスタイルは、重厚で複雑な多声音楽が主体のバロック音楽(=貴族文化)へのアンチテーゼとして現れたもので、最大の特徴は明快な単旋律(ホモフォニー)と優美さ・軽快さにあります。当時台頭しつつあったブルジョア市民にも親しみやすく、その後モーツアルトへと引き継がれていきます。とはいうものの、18世紀ドイツ語圏にとって最先端の音楽とは、やはりイタリアの音楽。これは当時のヨーロッパ各地を旅して音楽事情を詳細に報じた同時代の英国の音楽ジャーナリスト、チャールズ・バーニー(1724-1814)の「音楽見聞録」を眺めても明らかで、バーニーが憧れの「音楽の都」ナポリに到着して狂喜する様はまるで子供のようです。そこではアレッサンドロ・スカルラッティに代表されるようなナポリ派のオペラやオラトリオ(声楽曲)が音楽の中心を占めており、それらがドイツを含むヨーロッパ各地に輸出されていました。前述のギャラント様式の起源がナポリ派の音楽に遡ることを考えると、庶民出身であるカントが「快い音楽」と捉えていたのはこちらの方だと思われます。また、こう考えると19世紀ドイツ語圏の絶対音楽が「芸術音楽」として浮かび上がる、という点でも辻褄が合います。
2026年01月18日
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既に2週間前になりますが、昨年12月末から年明けにかけての朝古楽では、「古楽ゆく年くる年」と題し、2025年および2026年が周年記にあたる音楽家の作品がが取り上げられました。具体的には、前半がパレストリーナ(1525-1594、生誕500年)、アレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725、没後300年)、後半はトマス・ウィールクス(1576-1623、生誕450年)という構成で、いかにもMCの藤原一弘さんらしくマニアック(?)です。中でも面白かったのが2日目の最後にオンエアされたアレッサンドロ・スカルラッティのハープシコード作品「Toccata Per Cembalo D'ottava Stesa」で、亭主は一聴するなり度肝を抜かれました。これ以前にも、父(「オヤッサンドロ」)スカルラッティの「トッカータ」と称する作品はいくつか聴いた覚えがありますが、ここまで強烈な印象を受けた記憶がなく、まさに頭をトンカチで殴られたような衝撃です。ちなみに当日流れたのはアンドレア・マルコンによる演奏で、演奏時間がおよそ24分にならんとする長大な曲を最後まで飽きさせることなく聴かせてくれる名演奏。さっそく音盤を手に入れようと調べたところ、何と30年以上前にリリースされたCDで(1994年:録音は1991年)、現在ではストリーミング配信でしか聴けないことが判明。仕方がないので、当日の録音ファイルからこの部分を切り出してiPodに保存し、若きマルコン(録音当時は20代の終わり!)の名演を繰り返し聴いて楽しんでいます。(遅まきながら、こういう作業がMacのGarageBandという音楽ソフトを使えばできることを初めて知りました。)当日の藤原センセによる解説は簡にして要を得ているので、以下に番組ナレーションの該当部分を筆耕しておきます。(ついでにYouTubeに上げられていたマルコンの演奏も挿入しておきます。)今日最後にお届けするのは、アレッサンドロの鍵盤作品の中でもその長大さと演奏技術の高さ、そして一度聞いたら忘れられない表現の力強さにおいて抜きん出た作品、「トッカータ・ペル・チェンバロ・ドオッターバ・ステサ」です。この表題については少々説明が必要です。直訳すれば「拡張されたオクターブのチェンバロのためのトッカータ」となりますが、これでは何のことやら分かりませんね。説明しましょう。当時のチェンバロ には最低音域であまり用いられない半音のキーを省くことで、見かけ上のキーと音名がずれているものがありました。例えばEのキーのように見える 最低音が実際はEより長3度低いCの音であるような鍵盤配列の楽器です。このような最低音域の鍵盤配列法をショート・オクターブと言います。アレッサンドロの曲名の「チェンバロ・ドオッターバ・ステサ」というのは、ショート・オクターブを拡張したすべての半音キーを備えたチェンバロということなので、表題を意訳すると「ショート・オクターブではなく全てのキーを有するチェンバロのためのトッカータ」ということになります。しかし、長いしややこしいですね。ここからは「チェンバロのためのトッカータ」と略すことにします。イェール大学図書館に収められたヒッグス写本には、このトッカータが筆写された年と思われる1723年という年号が記されていますが、いつ作曲されたのかは不明です。曲はニ短調プレストで開始されます。ラプソディックとすら呼びたくなるような アルペジオと音階和音の連打が続いたのち、バッハの半音階 幻想曲とフーガを思わせるようなレシタティブ風のアダージョ となり、ト短調、ハ短調、ヘ短調、変ロ短調と遠隔調への転調が続きます。再びプレストを経て二短調の激しいフーガとなりますが、いつしか主題は消え去り、アダージョではアルペジオから両手が交互に和音を激しく打ち鳴らし、突然の休止を迎えます。そしてフォリアによる変奏となり、第29変奏の後、フォリアの冒頭に回帰してこの長大なトッカータは閉じられます。ではお聞きください。アレッサンドロ・スカルラッティ作曲、チェンバロのためのトッカータ、演奏はチェンバロ、アンドレア・マルコンです。[YouTubeへのリンク]アレッサンドロ・スカルラッティ作曲、チェンバロのためのトッカータ、演奏はチェンバロ、アンドレア・マルコンででした。この激しい曲を聴くと、まさにこの親にして息子のドメニコあり、と思わざるを得ません。長大な作品への偏愛を示した父親がいたからこそ、超絶技巧を誇る息子は二部形式によるコンパクトな作品を550曲あまりも作曲したのかもしれません。「この親にして息子のドメニコあり」というコメントには亭主も満腔の賛意を表したいと思います。また、藤原センセは「バッハの半音階 幻想曲とフーガを思わせるような」と、バッハの作品を比喩的に使っていますが、バッハがケーテン時代(1717-1723)には既にアレッサンドロの作品を知っていたに違いないと確信している亭主としては、この作品についても同様に知る機会があっただろうと妄想しているところです。最後に、この作品についてAI先生(Gemini)に教えてもらった内容をアップしておきます。1723年を作曲年としているところがご愛嬌ですが、なかなかの物知りであることに感心させられます。アレッサンドロ・スカルラッティ(1660–1725)の《Toccata per Cembalo d'Ottava Stesa》(拡張オクターヴのチェンバロのためのトッカータ)は、彼の鍵盤楽曲の中でも最も重要かつ大規模な傑作の一つとして知られています。この作品について判明している歴史的背景、音楽的特徴、および用語の意味を整理して解説します。1. 基本情報と歴史的背景作曲時期: 1723年にナポリで作曲されました。位置づけ: アレッサンドロはオペラやカンタータの大家として有名ですが、晩年に書かれたこの作品は、息子のドメニコ・スカルラッティの斬新な様式とは異なる、バロック音楽の集大成的な厳格さと情熱を併せ持っています。名称の由来: タイトルの「Ottava Stesa(オッターヴァ・ステーサ)」は、「拡張されたオクターヴ」を意味します。これは、当時一般的だった「ショート・オクターヴ(低音域の鍵盤配置を省略して音域を稼ぐ手法)」ではなく、低域まで半音階が揃ったフル・キーボードを想定して書かれたことを示しています。2. 楽曲の構成この作品は単一の楽曲ではなく、複数のセクションが連なる巨大な変奏曲付きトッカータです。演奏時間は20分〜30分に及ぶこともあります。Preludio (Primo Tono): 重厚な導入部。Presto: 急速で技巧的なセクション。Adagio: 叙情的な緩徐部。Fuga: 厳格な対位法によるフーガ。Adagio (Appoggiato): 次の変奏曲への橋渡し。La Follia (29 Variations): 作品のクライマックス。有名な「ラ・フォリア」の主題に基づく29の変奏曲です。3. 音楽的特徴ラ・フォリアの変奏: 終曲のフォリア変奏曲は特に有名です。アルカンジェロ・コレッリの有名な「ラ・フォリア」へのオマージュとも言われ、チェンバロの持てる技巧(アルペッジョ、急速な音階、交差奏法など)がこれでもかと詰め込まれています。イタリア・バロックの極致: 自由な幻想曲風のトッカータと、数学的なフーガ、そして厳格な低音に基づく変奏曲という、バロック時代のあらゆる形式が1つの作品に凝縮されています。技巧性: 1723年という日付からもわかる通り、鍵盤楽器の性能向上に合わせて書かれており、演奏者には非常に高い技術と持久力が要求されます。4. 現代における評価アレッサンドロの鍵盤作品は、長らく息子ドメニコの影に隠れていましたが、近年、古楽演奏(ピリオド楽器)の普及により、その構成力の高さが再評価されています。 特にこの「オッターヴァ・ステーサ」は、彼のチェンバロ音楽の最高到達点として、イゴール・キプニスやリナルド・アレッサンドリーニといった著名なチェンバロ奏者たちによって録音・演奏されています。
2026年01月12日
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新年最初のお題は表題の書。國分先生にによる「シリーズ哲学講話」の第2段(新潮新書、2025年1月刊)で、昨年7月にこのブログで紹介した「目的への抵抗」という本の続編にあたります。腰巻きの表紙側にある「『楽しむ』とはどういうことか。カントの哲学をヒントにして、現代の”病理”に迫るー。」という惹句は本書の要旨を言い得て妙なるものがあり、前著を知らずとも著者が伝えたいメッセージを受け取ることができる内容になっています。とはいえ、前著との関係は切ってもきれないものがあることも確か。なぜなら、現代人が往々にして陥る「目的による手段の正当化」という道徳的腐敗から解放されるためにはどうしたらよいか、という前著の問いへの答えが本書の主題でもあるからです。(前著を読んでこの問いの切実さを実感すれば、それに対する答えも身に染みるというもの。)ここでちょっとだけ復習すると、目的による手段の正当化とは「人間が一度何か目的を設定すると、その達成のためには何をしてもよい、というマインドセットに陥ること」を指します。人間に理性の力を期待する亭主のような凡人の感覚からすれば、こういう場合に何らかの道徳・倫理感が働いて「そうは言ってもやってはいけないことがある」と歯止めがかかることを期待したいところです。が、目標達成への圧力が強まるとそのような歯止めが効かなくなり、やって良いことと悪いことの区別がつかなくなる(=道徳的腐敗)というのも凡人の現実。卑近なところでは組織における不正会計処理といった法令違反(いわゆるコンプライアンス不全)から、その極限には戦争に勝つという目的のために組織的な殺人が正当化されるというレベルまで、社会・経済活動のあらゆる面においてこのような道徳的腐敗が見られます。とはいえ、このような文脈で「目的による手段の正当化」の弊を語るのはあまりにコトが深刻で、無力感に襲われるか目を背けたくなるのも人情。それを察してか、本書ではこの問題を「嗜好品」とそれへの「依存症」という別の文脈に置き換えて語ります。ここで嗜好品とは、それがなくても人間の生存に困らないもので、それ自体を「楽しむ」(=享受する)ためにあるものごとを指し、例えばタバコやお酒といった類のものが該当します。この「楽しむ」という言葉、普段我々が何気なく口にし、さしたる深い意味もなさそうな言葉こそが「手段からの解放」にとっての鍵であり、本書はこれを哲学的に考察することから始まります。問題となるのは、これら嗜好品が単に楽しむためだけでなく、精神的不安を紛らわすためといった何らかの「目的」のために摂取されるようになる可能性があることです。お酒はわかりやすい例で、本来なら単にお酒の味を楽しむところを「酔うことで憂さ晴らしをする」といった目的が入り込むことで色々な弊害が現れます。アルハラもそのひとつですが、もっと深刻なのがアルコール依存症です。この状況を念頭に、本書腰巻きの裏表紙側では、「享受の快を剥奪することは、人間に病としての依存症への道を開く。…すべてを手段化した時、我々はおそらく、これまで見たこともないような依存症に出会うことだろう。人間から享受の快を剥奪してはならない。それは人間の生すべてを目的-手段関連に従属させることだからである。」これを言い換えると「目的というやつが人生をつまらなくする」(磯田道史)のみならず、それが手段として正当化されることで依存症を発症し、さらには犯罪に手を染めるといった文字通りの道徳的腐敗へと至る扉が開かれてしまうというわけです。従って、このような隘路に陥ることを避ける上でおそらく唯一の処方箋は「何かが楽しめなくなったらそれを止める」ことです。ちなみに、この問題は現代の資本主義社会における際限のない「消費」という深い(深刻な)現実にも直結しています。曰く、「『浪費』は満足すれば止まるが、『消費』は止めどなく続く、なぜなら消費は『物語』によってそれ自体が目的化されるからである。」例えば、高級レストランでのちょっと贅沢な(浪費的な?)食事は単なる「楽しみ」である一方、「グルメガイド」に従って「食べ歩き」をはじめると、食事をした有名レストランの数を競い、あるいはその様子をSNSに挙げて自慢することなどが「目的」となり、レストラン巡りが止めどなく続くことになります。(しまいには「欲しいものが欲しい!」という倒錯に陥ることになり、楽しいどころではなくなってしまいます。)こう考えてくると、「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」 (『論語』)という孔子の言葉にも新たな深い意味を読み取ることができる気がします。ところで、亭主にとって興味深いことに、「楽しい」とは人間の感情のひとつであり、この問題は「感情の哲学」という普遍的なテーマに繋がっています。國分先生によると、彼の論考の出発点となった「嗜好品」についての考察を行った数少ない哲学者の一人がカント(1724-1804)であり、彼の有名な「3批判」と呼ばれる著作のひとつである「判断力批判」の中で取り上げられています。そこでは人間の「感情能力」と、その高次の対象である「美しいもの・崇高なもの」、および低次な対象である「快適なもの」という概念の関係を論じているとのこと。「快適」とは感情というよりは身体の受動的状態を反映する「情動」に近いもの、という近年の脳科学的知見に照らせば、ヒトの感情を「能力」と見たり、その対象が高次だの低次だのと分ける議論には違和感もあります。とはいえ、18世紀の人間が純粋に思弁だけに基づいて「楽しい」とはどういうことかをそれなりに論じて見せたという点は、それ自体でなかなか興味深いことに思われます。なお、判断力批判の中の議論については、「3批判」の他の著作(純粋理性批判、実践理性批判)との関係も含めて國分先生自身による解説記事をウェブ上で見ることもできます(こちら)。
2026年01月04日
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皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
2026年01月01日
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今年初めに予告されて以来、亭主も心待ちにしていた表題のCDが11月にリリースされ、最近ようやく落手。週末に10枚組の最初の1枚(「I」とラベルされただけ)を一聴しただけでいろいろな思いか交錯し、付録DVDをチラ見したところで飽和状態になっている感があります。とにかくハープシコードの音がなんとも印象的。「I」で使用されているのは仏・アルザス地方のコルマールにあるウンターリンデン博物館に所蔵されているヨハンネス・ルッカース製(1624年)のハープシコード。今からちょうど400年前の楽器がこのような豊潤な響きを聞かせてくれる、というだけでも驚異的です。(しかもマイク2本だけで録り、余計な後付けの音響効果なども一切施していないとのこと。)亭主はスイスの研究所に短期滞在していた1980年代前半、同博物館に所蔵されているマチス・グリューネヴァルトの代表作として知られるイーゼンハイム祭壇画を一目見ようと友人と車でコルマールを訪問した際、ついでに入った資料館のようなところ(?)で件の楽器が陳列されているのを目にした覚えがあります。もちろん、その頃のクラシック音楽シーンではまだハープシコードといえばノイペルトやアンマーといった「モダンチェンバロ」が主流で、亭主もオリジナル楽器はおろかそのコピー(ピリオド楽器)の演奏すら耳にしたことがなく、目前の古びた楽器を眺めてもどんな音が出るのか想像すらできない状態。せいぜい「骨董品」の類という印象しかありませんでした。(あれから半世紀近く、亭主もいつの間にか古楽をこよなく愛する日曜ハープシコーディストとなり、ピリオド楽器の響きを愛でることができるようになったという意味では、長生きした甲斐が大いにあったというもの。)ちなみにライナーノート(何と日本語の全訳付き)によると、この楽器は1680年ごろにフランスに渡ったと推測されるものの、最初に記録に現れたのは1778年で、外交官でアカデミー会員でもあったラ・ファイ侯爵(有名なラ・ファイエット侯爵とは別人)が所有し、コンデ公の旧狩猟小屋注)に置かれていたとか。その後19世紀初頭には「荒廃状態」となってサド侯爵の次男に相続され、一族の所有物として1978年まで受け継がれたとのこと。これを英国のコレクター、アラン・ルービンが買い取って1979-1980年にパリの工房で修復、その後パリの仲介者を通じてウンターリンデン博物館に収まることになりました。この経緯から見ると、亭主が目にした1980年代当時はまだ同博物館に所蔵されるようになって間もないころだったこと、また亭主の想像に反して楽器は演奏可能な状態だったことが知れます。さらに、1993年にクラヴサン奏者のブランディーヌ・ヴェルレは、あるジャーナリストにこの楽器のことを「魔法のような、素晴らしいチェンバロ…(中略)…私が愛してやまないルッカース。手放すことなどできない」と語ったとか。ロンドーがこの楽器から紡ぎ出す響きを耳にすれば、誰もがこの言葉に納得するだろうと思います。ところで、ウンターリンデンにある楽器が18世紀フランスで大きく改造されている点は要注意で、もともと移調用に作られた2段目の鍵盤は上下同じピッチで鳴るように作り変えられ、音域も拡大。また、この改造に伴って楽器全体のピッチもA=415 Hzから400 Hzに変わったと推測されるようです。実際、亭主がロンドーの演奏を自宅のハープシコード(A=415 Hz)で少し追ってみたところ、ちょうど半音下がっていることを確認。いわゆるヴェルサイユピッチ(A=395 Hz)に近いようです。さて、こうしてCD1枚目を聴くなり楽器のことにどハマりしてしまった亭主ですが、もちろんロンドーの演奏についてもいろいろと思うことが山ほどあります。ただ、下手に言葉にするとあとで後悔しそうなので、ここではごく表面的なレベルの感想でお茶を濁すしかなさそう。それでもあえてコメントすると、ロンドーが弾くプレリュード・ノンムジュレは、他人に聴かせるための演奏というよりは、彼自身と楽器の響きとの個人的な対話とっいた趣きです。彼のこれまでの演奏を知る人であれば、演奏会で楽器の前に座って瞑想し、鍵盤上の手がいつの間にか動き出すとともにじわりと音楽が動き始める、というあの独特の間合いを覚えていると思います。ルイ・クープランのプレリュード・ノンムジュレこそは、そのような彼のスタイルに完璧にフィットする音楽に思われます。それもそのはず、ロンドーはなんと6、7歳のころ、初めて弾いたのがイ短調のプレリュード・ノンムジュレ(ボウアン手稿第7番)だったとかで、彼はこの「人生の出会い」によってなかば必然のようにこの世界に導かれていったと語っています。(本人がとある対談で語ったところでは、彼がハープシコード[クラヴサン]を知ったのは5歳の時。ラジオから流れるその音色に感動し、親に「この楽器、弾いてもいい?」と聞いたのが始まりだとか。その後、前述のブランディーヌ・ヴェルレの下で6歳から20歳まで学んだということなので、幼少時のロンドーをプレリュード・ノンムジュレに導いたのはヴェルレだったことが知れます。)ただ、他の演奏家による演奏との比較、という点では、上記のような「ロンドー節」は若干好みが分かれるかも?(まぁ、まだ1枚聴いただけなのでなんとも言えませんが…)いずれにせよ、この音盤のおかげで、これからの年末年始の休みはまったく退屈せずに過ごせそうです。注)原文では"relais de chasse (hunting lodge)"。ただし、ウィキペディアによると「ラ・ファイ(1674-1731)は膨大な美術コレクションの持ち主で、パリに2軒、ヴェルサイユに1軒のホテルも所有していた。1719年に古いコンデ城を取得すると、当時の最も流行の芸術家たちと建築家、ジョヴァンニ・ニッコロ・セルヴァンドーニに依頼し、精緻な改修を施した。内装装飾にはフランソワ・ルモワーヌとその弟子フランソワ・ブーシェ、アントワーヌ・ヴァトーとその弟子ニコラ・ランクレ、さらにジャン=バティスト・ウードリーを起用した。」とあるので、件のハープシコードはこのコンデ城に豪華な調度品の一つとして置かれていたのではないかとも推測される。
2025年12月28日
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いきなりクイズで恐縮ですが、カラヤンは何国人でしょう?ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)といえば、日本人クラシック音楽ファンも崇拝してやまないあのベルリン・フィルの終身主席指揮者・兼音楽監督(1956~1989)として有名でした。なので、昔の亭主なら反射的に「ドイツ人」と答えたと思います。が、彼がザルツブルグ出身のオーストリア人であり、音楽をザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学んだこと、ウィーン・フィルの首席指揮者(1946~)やウィーン国立歌劇場の音楽監督(1956~)を務めていたことを考えても、彼の精神的・文化的背景はオーストリア人としてのカラーが農厚だったと想像できます。この例に限らず、日本ではそもそもオーストリアという国の存在感が希薄で、せいぜい「音楽の都・ウィーン」を擁する中部ヨーロッパの小国という印象しかありません。それどころか、同じドイツ語圏ということで、ドイツの一部のような感覚すらあります。(なのでカラヤン=ドイツ人と思い込みも容易に起きる?)ところが、カラヤンが生まれた当時、オーストリアはヨーロッパ最後の世界帝国であったハプスブルク帝国の末裔である「オーストリア=ハンガリー二重帝国」として落日の輝きを放っていました。同国ではドイツ人が占める割合は人口の4分の1程度、3割ぐらいがマジャール人、あとは様々な民族的背景を持つ人たちからなる多民族国家。首都ウィーンはこんにちで言えば米国のニューヨークのようなもので、19世紀末にかけて多彩で豊潤な芸術・文化が花開いた都市として歴史に刻まれています。(音楽や造形芸術のみならず、例えば有名なフロイトの精神分析もこのような文化的背景の下で生まれたとも言われています。)一方で、現在のドイツの原形を作ったのが、18世紀以降に軍事的新興国としてポーランド北方から西進しながらのし上がってきたプロイセン王国。新興国ドイツ(1871~)が進取の気性を持って富国強兵と経済・社会の近代化に邁進した状況は、同時期に「明治維新」という政治革命を経た日本と同じでした。19世紀後半以降にドイツが自然科学の研究で世界をリードし、産業としての化学工業を大きく発展させたこともよく知らられています。(職業科学者=俸給をもらって研究する人が大学のようなアカデミア以外で誕生したのも同国が最初と言われています。)これらを一言で要約すれば、オーストリア=凋落する古い世界帝国、ドイツ=日の出の勢いで進化し続ける新興国、という全く対照的な時代背景を持っていたと言えるでしょう。(オーストリア=ハンガリー帝国は第一次世界大戦の終了とともに1918年に消滅し、現在のオーストリアがその忘れ形見という感じで残っています。)精神的な面においても、例えばドイツでは何事も「極端」で振れ幅が大きいのに対し、オーストリアは中庸を好むらしい(悪く言えば微温的?)。実際、近年においてもウィーンとベルリンでは楽壇の雰囲気は大きく異なるようで、大雑把に言えば前者が「古き良き伝統」にこだわるのに対し、後者は基本的に新しい物好き。例えばオペラでも、ウィーンでは作品の時代に即した舞台作りが好まれる一方、ベルリンではほとんどが現代へと読み替えた舞台・演出だとか(「オーケストラに未来はあるか」浦久俊彦・山田和樹、ARTES)。というわけで、ドイツ語圏のクラシック音楽を十把一からげで考えるのではなく、コインの裏表のような「2つのドイツ」を意識して眺めていると、いろいろな差異を発見できて楽しみも増すというものです。ちなみに、これはもう一つの重要な精神的背景である宗教についても同じで、旧プロイセン王国の影響が強い北ドイツはプロテスタント、南ドイツとオーストリアはカトリックという違いがあることも思い出されるべきでしょう(詳しくはこちら)。ところで、最近の新刊として話題になっているのが「地球の歩き方・ハプスブルグ帝国」。これまでの旅行ガイドが「地理」を中心にし、時代背景的にはごちゃ混ぜの名所・旧跡巡りの案内書だったこととは一線を画し、まずは正面から「歴史(事蹟)」を取り上げて、そのモニュメントとしての名所・旧跡を辿る旅を提案しようというもののようです。(亭主も大いに興味を覚えて早速1冊ゲットしたところで、これってもしかしてターゲットとなっているのは「教養主義」に弱い亭主のような世代か、と思い当たり、まんまと乗せられたことに気づくことに。)亭主はまだ旧帝国の首都ウィーンには足を踏み入れたことがなく、足腰が大丈夫なうちに訪ねたいと願っているところですが、今は円安の上にロシアの軍事侵攻がいつ終わるとも知れず、その気になれずにいます。せめて本書を眺めながら空想の旅にでも浸るか…
2025年12月21日
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もう先々週のことになりますが、亭主もファンである古楽アンサンブル「アントネッロ」の主催者で、コルネット(=ツィンク)奏者の濱田芳通さんが朝のFM番組「古楽の楽しみ」に登場し、5日間にわたって彼が関わった古楽界の大御所や演奏仲間についての面白いエピソード・裏話を交えた軽妙なトークを大いに楽しませてもらいました。番組に取り上げられたのは、ジョルディ・サヴァール、ブルース・ディッキー&コンチェルト・パラティーノ、グイド・モリーニ、マルコ・ビーズリー&アッコルドーネ、ルネ・ヤーコプス、そして最終日は自身の楽隊アントネッロでした。これらのうち、ジョルディ・サヴァールとルネ・ヤーコプスについては亭主もある程度馴染みがありましたが、コルネット奏者のブルース・ディッキーと鍵盤奏者のグイド・モリーニについての話を見聞きするのは多分初めて。特にディッキーさんは、濱田氏の先生という以前に、「この楽器を現代に奇跡的に甦らせた立役者」で、「どんなトランペットの名手でも、この古楽器のコルネットを吹こうとするとまるで発情期のネコの声のような音しか出なかった」のを、研究と鍛錬を重ねてこの楽器から驚くほどの美しい音色を引き出し、現代の人々を魅了する楽器として甦らせたとのこと。(ここでトランペット奏者が出てくるのは、コルネットが復活する以前には彼らが代役を務めることが多かったからです。)その他にも、ジョルディ・サヴァールは遅刻魔(それも日を跨ぐ!)だとか、グイド・モリーニが即興の名手で、濱田氏が彼とパレルモで共演した演奏会ではその素晴らしい即興演奏で聴衆を圧倒し、コンサートを一人でかっさらって行ったことなどのエピソードが披露され、これらを通して濱田氏自身の古楽やその演奏家仲間に対する思いが伝わってきます。そのようなこぼれ話の中でも特に亭主の関心を引いたのが、ルネ・ヤーコプスの回で言及があった鍵盤奏者、ニコラウ・デ・フィゲイレドについてのもの。以下はその部分を放送から文字起こしたものです。さて、ヤーコプス氏のオーケストラにはいつも優れた音楽家たちが集まっていましたが、中でも忘れられないのがチェンバロとフォルテピアノのニコラウ・デ・フィゲイレド氏です。 モーツァルトのオペラでは、 チェンバロでレチタティーヴォの部分を伴奏するのが常でしたが、当時すでにフォルテピアノが使われていたことがわかって以来、その歴史的実践に伴い、ヤーコプス氏の指揮するモーツァルトのオペラではフィゲイレド氏がフォルテピアノを弾いてレチタティーヴォの伴奏をしていました。ここではその素晴らしさを是非お聞きいただきたいのです。まあ、これ以降このような派手なフォルテピアノによるレチタティーボの伴奏は皆が取り入れるようになりました。彼らはまさにその先駆けと言えるでしょう。それではヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲、歌劇「コシ・ ファン・トゥッテ」 第1幕から「剣を抜かれよ」他、レチタ ティーヴォの醍醐味をお聴きください。指揮はルネ・ヤーコプス、演奏はコンチェルト・ケルン、テノール、ヴェルナー・ ギューラ、バス、マルセル・ボーネとピエトロ・スパニョーリです。(以下CD演奏) フィゲイレドさんとは、個人的にも親しくしておりましたが、残念ながら2016年55歳の若さで亡くなられました。演奏仲間であると同時に、私は彼の大ファンでしたので、彼のスカルラッティのソナタ集を国内版としてプロデュースしたことがあります。そのアルバムから1曲をお聞きください。ドメニコ・スカルラッティ作曲ソナタニ長調、カークパトリック番号119、チェンバロの演奏はニコラウ・デ・フィゲイレドです。 (以下CD演奏)ソナタK.119は、スカルラッティのソナタの中でもとりわけ有名な曲ですが、フィゲイレドの演奏は誰の演奏にも増してスピーディーで、世紀の変わり目以降に古楽演奏に流行した高速テンポの先端を行く感じです。調べてみると、亭主がフィゲイレドのことを知ったのはちょうど15年前(2010年)、朝の古楽番組がまだ「バロックの森」だった頃、若き(!)大塚直哉さんが1週間担当された週で、彼の演奏によるソナタK.141、K.380、K.381が番組でオンエアされ、「K. 141のモーレツな演奏速度にビックリして目が覚めた」と、当時始めたばかりのこのブログに書き残しています(こちら)。亭主はその当時から件の音盤をなんとか入手しようと試みたものの、なぜか手に入らない状態で不思議に思っていましたが、濱田氏の話を聞いてそのわけがようやくわかりました。フィゲイレドのCDは、日本国内のワオンレコードという会社からアルケミスタというレーベルでリリースされ、2008年頃には売られていたようですが、その後廃盤になってしまったようです。(当時の案内チラシはこちら)こうなってくると、このCDに収まっている他のスカルラッティ・ソナタも是非とも聴いてみたいところですが、中古品は高値で手が出ません(サブスク音源にもない?)。なんとか再リリースを期待したいところです(濱田さーん…)。[追伸]その後、piter912さんより上記の演奏がYouTube上で聴けることを教えて頂きました(こちら)。
2025年12月14日
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先週末にこのブログでベートーヴェンを取り上げたこともあり、少し気になって「ベートーヴェン フォーエバー!」と題された去る木曜日のテレビ番組「クラシックTV」を録画で拝見。この番組には珍しく、一人の作曲家の生涯と作品を4回に分けて語るというシリーズもので、今回が最終回とのこと。古株のクラシックファンとしてベートーヴェン様のことは一通り知っている気になっていた亭主ですが、今回に限ってはMCである清塚クンのさりげない歴史的背景についての指摘にハッとさせられることがありました。それはベートーヴェン(1770-1827)の晩年にあたる1815年以降のヨーロッパが「ウィーン体制」と呼ばれる反動的な国際体制になり、フランス革命以前の絶対王政を復活させるとともに、革命でヨーロッパ中に広がった自由主義や平等思想、ナショナリズムを否定し、これらを弾圧するようになった時期に当たっていた、ということです。そしてこの時期に生み出されたのがあの交響曲第9番。ベートーヴェンが当初自分の交響曲第3番を「フランス革命の英雄」ナポレオンに献呈しようとしていたところ、ナポレオンが「皇帝」になったことに憤慨して楽譜の献辞を破り捨てた、という有名なエピソードからは、ベートーヴェンが革命の思想・理念に深く共感してたことがわかります。そんな彼にとって、ウィーン体制とは失望としか言いようのない政治状況だったと思われます。(ちなみに、ウィーン体制という呼称の由来は、ナポレオン戦争の終結後1814-5年に開かれた戦後処理の会議が開催されたのがウィーンだったからで、この体制は1848年まで続きました。)とはいえ、これで経済・社会の発展を邪魔する保守反動体制に対するブルジョア市民階級の不満が収まるはずもなく、彼らはこの間さまざまな抵抗運動を起こしていました。「世界史の窓」というHPを眺めると、例えばドイツではブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)が1817年に蜂起し、イタリアではカルボナリ(炭焼党)が1820年に蜂起。スペインでは1820年に憲法制定を求めて立憲革命が起こり、ロシアでは1825年にデカブリストの反乱が起こったとのこと。(興味深いことに、ここでは左派リベラル思想と国粋主義・民族主義がともに反動体制に対峙していた、という構図が見えます。)こうして見ると、このような反体制的な思想の延長線上に19世紀末以降のマルクス主義・共産主義を含む左派リベラル思想があることと、日本でそのような政治思想が知的エリート層に浸透した大正から戦前昭和期にかけて、ベートーヴェンの一大ブームが巻き起こったことには、何か関係があるに違いないと思わせられます。ここで鍵になるのは、やはり彼の最高傑作にして最大の問題作(?)である交響曲第9番です。器楽である交響曲にあえて合唱を付け加え、しかも歌詞の元になったシラーの詩「自由賛歌」は、フランス革命の直後、ラ・マルセイエーズのメロディーでドイツの学生に歌われていたもの。当時の文脈からは、「歓喜」とは反動的な政治体制から解放された喜びに他ならず、ベートーヴェンはこれによってフランス革命の理念・思想の擁護を意図していたとも想像されます。「ベートーヴェンと日本人」の中で、著者の浦久氏は日本でこの時期に起きた関東大震災という未曾有の大災害を取り上げ、苦難に喘ぎ意気消沈した当時の日本人を第9番交響曲が大いに勇気づけたことで人気に火がついたと推測しています。(同じ構図が第二次世界大戦の惨禍とそれからの復興における戦後の「第9ブーム」でも語られます。)これはこれで説得力のある見立てですが、亭主としては戦前・戦後(昭和時代)を通じて日本におけるクラシック音楽の主な聴衆であった知的エリート層が、「歓喜の歌」の中にある抑圧的な政治体制からの解放への欲求、あるいはその背景としての自由・平等・博愛といった左派リベラル的な思想を見出したことがベートーヴェンブームに繋がったのだろうと想像させられます。クラシックTVでは、ベートーヴェンの葬儀に1万人とも言われる参列者が集まったことが紹介されていました。これについても、番組ではベートーヴェン個人の人気、あるいは彼の音楽への敬意という文脈で解説されていたようですが、前述のような背景を考えると、むしろウィーン体制への異議申し立てを込めて足を運んだ人たちが大勢いたことを示すもの、と合点した亭主でした。
2025年12月07日
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指揮者の山田和樹氏との対談本「オーケストラに未来はあるか」や、その中でも取り上げられていた「138億年の音楽史」といった著作を通じて浦久氏に大いに興味を持った亭主、最近になって表題の本(新潮新書、2020刊)を購入。この週末に楽しみながら読ませて頂きました。腰巻の惹句に「クラシック音楽が『異物』から『教養』に変容する姿を描いた発見と興奮の文化論」とあるように、本書はベートーヴェンの音楽を明治期に輸入された「西洋音楽」のシンボルとして、それが日本人にどのように受容されていったか、その背景となる日本の社会情勢や例の「教養主義」との関係も丁寧に見ながら詳説した本です。あるジャンルの音楽の受容史とは、一言で言えば「感受性(感情)の変容の歴史」。とはいえ、音楽も含め、新生明治政府にとって西洋文化とは自国の「外見」を西洋風に装うためのもので、軍隊のための音楽など国家制度の一部として取り入れたのが始まりでした。一方、西洋音楽輸入のために政府に設置された「音楽取調掛」では、面白いことに当初は米国から来た教師による「教育」としての西洋音楽を導入しようとしていました。(例えば、この方針に従って初等学校に音楽という科目が設けられ、小学校唱歌などの教科書も編纂され、学校で実際に使われました。)ところが、その後音楽取調掛(のちの東京芸大)の教師陣がドイツ人に変わると方針が大きく変わります。すなわち、そのミッションが教育音楽から「芸術」としての西洋音楽の演奏家=芸術家養成に大きくシフトしていきます。(このことは、日本の西洋音楽受容史における一つの重要な分水嶺になったと見ることもできます。)そしてこの時期、幸田延や久野久などが欧米に留学し、そこで学んだ「芸術」としての西洋音楽を日本に普及しようとするわけですが、「教育」をなおざりにしておいて聴衆が育つはずもなく、明治期には西洋音楽とは官僚・華族・文学者・富裕市民など一部の知的エリート層の好奇心を満足させる程のもで、一般庶民とは縁遠いものだったことが伺えます。(なお、この頃の面白いエピソードとして、明治期に文学者の間で突然ワーグナーブームが巻き起こり、その音楽を実際には聴いたことがない上田敏と森鴎外との間で議論が盛り上がったことが紹介されています。これはワーグナーがニーチェの哲学と強く結びついており、ワーグナーも音楽というよりはドイツ哲学思想の一部として受容されたからだというのが著者の見立てです。)ところが、明治の終わりから大正時代にかけて、旧制高校ー帝国大学で「教養主義」が盛んになるとともに、欧米で市販され始めたSPレコードで彼らの音楽に接することができる様になり、輸入されたバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった音楽家の音楽が徐々に人気を集めるようになります。いうまでもなく、これらの音楽家は新生ドイツのナショナルアイデンティティとなった「絶対音楽」の代表者たち。こうして、教養主義とドイツ音楽を中心としたクラシック音楽が一体となった時代が始まり、第二次大戦中に一旦抑圧されたものの、戦後復活してしばらく続くことになります。(これ以降、クラシック音楽=レコードを介して鑑賞される音楽という状態が100年以上も続いたわけで、最近の「レコー芸術」休刊という事態が業界に与えた衝撃が大きかった理由もわかるというもの。)そして、元号が昭和へと変わった直後の1927年、ベートーヴェン没後100年を記念して東京、大阪などの主要都市で行われた彼の交響曲を中心とした演奏会、特に第9番のそれが大成功を収めたことで、ベートーヴェンは西洋クラシック音楽の中心にあって最大の人気を誇るようになる、というわけです。(ちょうどこの頃、N響の前身である新交響楽団がプロオケとして誕生し、交響曲の本格的な演奏も可能になったという背景もありました。)ちなみにこれより以前、「楽聖」という言葉はクラシック音楽の大作曲家全体を指す言葉であったのが、このベートーヴェンブーム以降に彼だけを意味するようになったと推測されています。その意味で「ベートーヴェン=楽聖」という呼称は「バッハ=音楽の父」と同じく、日本固有のものなのでした。(ちなみにこの「楽聖」という呼称、お隣の中国でも通じはするらしいとのこと。)上記ような歴史的文脈で、例えば音楽評論家の吉田秀和(1913-2012)の最初期の著作である「主題と変奏」を振り返ると、彼が大正末〜昭和初期のドイツ文化をベースにした教養主義文化の申し子であったことがよくわかります。(その主な主張が絶対音楽としてのドイツ・クラシック音楽を擁護するものであることは明らか。「ショーペンハウエルのフルート」というお題は、旧制高校の「デカンショ」ブームの反映そのものに見えます。)こうして西洋音楽の受容史をじっくり眺めると、日本のクラシック音楽における「芸術至上主義」とは、政治思想において明治・大正・昭和と日本の知的エリート(インテリ)層を魅了した「左翼リベラル思想」と同類のものに思えてきます。ここで左翼リベラル思想を一言で「革新」というのに倣い、「音楽=芸術=美」という芸術至上主義を「芸術」の一言で置き換えれば、前回のブログで取り上げた「革新幻想」と同じように「芸術の擁護者でなければインテリではない(?)」というクラシック音楽業界内の(聴衆も含む)同調圧力を「芸術幻想」と表現してもよいでしょう。昭和も遠くなり、世の中の大半は「革新幻想」から覚めたようですが、「芸術幻想」の方はいまだに根強いものがあります。亭主としては、これを変えるべく頑張っている山田和樹氏や浦久氏に改めてエールを送りたいと思います。
2025年11月30日
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今年の夏に「教養主義の没落」(2003)という本を手にして以来、同じ著者の本を端から読んでいる亭主ですが、表題の本は「丸山眞男の時代」(2005)に続く3作目。中公文庫で上下二冊という結構なブツ量も何のその、やはり大変面白く一気に読ませてもらいました。原書は2011年10月に中央公論社から刊行され、2015年に文庫化されたもので、文庫版には「おまけ」として2つの補論(1. 昭和戦前期「左傾学生」の群像ー統計的考察、2. 鉄のトライアングルー進歩的文化人・岩波・朝日)が追加されています。文庫本の解説記事の冒頭を借りると、革新幻想とは「左派(リベラル)にあらずんばインテリにあらず」という進歩的な同調圧力(空気)のことだとか。同調圧力とは「議論の余地なく正しいことを認めよ」という意味です。このような「政治的信条としての左派リベラル思考」(共産主義やマルクス主義もそのひとつ)への傾斜は、明治時代末の旧制高校を中心とした「学生エリート文化」に始まり、次第に帝国大学そのものがそのような文化の牙城となった「大正デモクラシー」を経て、日中戦争から第二次大戦中にかけては右派的思想(国粋主義、「近代の超克」論、日本浪漫派など)の盛り上がり(=逆向きの「空気」)と軍部の思想統制によって一旦壊滅させられますが、戦後に再び大学知識人や大衆化したエリートを中心に日本全体を風靡することになります。タイトルに「戦後史」とあるように、本書は特に終戦直後から現在までの期間に的を絞って日本社会におけるそのような「空気」の変遷を辿ったものですが、その最大の特徴は、論考の対象にとなる政治的な事柄について、ともすればやってしまいそうな「価値判断(左右いずれか寄りの政治的立場に立って称揚する、あるいは貶めること)」を自ら禁じ、時代を降りながら「岩波書店の雑誌『世界』の隆盛と凋落」、「進歩的教育学者の教育支配」、「旭丘中学校事件」、進歩的文化人についての参照光としての「福田恒存」、「小田実・ベ平連・全共闘」、といった時代を画する人物や事象の背後にある「空気」の実態やその社会全体への影響を中立な立場で評価している点にあるといえます。(なので、読者がいずれの立場にあっても大変面白く読めるわけです。)もうひとつの特徴は、このような精神史的論考を統計データの収集や新聞・雑誌記事の博捜に基づいた実証主義的な手法で行っている点にあります。この点は全2作にも共通ですが、本書ではこれに加え、著者自身の同時代人としての体験(戦後最初の大学紛争だった「60年安保」直後の1961年に大学に進学し、65年に生保会社に就職、その2年後に大学院に入り直して教育社会学を専攻、学位取得後に大学教員として勤務)が随所で語られ、当時は分からなかった若い頃の著者自分の置かれた客観的な状況や行動の意味が明かされていく、という謎解きのような面白さもあります。(亭主は著者よりだいぶ年下ですが、昭和の青春世代には広く共有できる面白さだと思われます。)さて、「左派リベラル思想」そのものと、これを問答無用に他者へ押し付ける「独善」とは全く別の話です。(左右どちらであろうと、後者の様な態度はよくて権威主義、へたをすればファシズムと同類になってしまいます。)戦後の日本では大学関係者といった知的エリート層の政治信条である「左派リベラル思想」が社会を広く支配し(革新幻想)、これに対して異論や疑念を許さないような(〜独善的な)雰囲気が長く続きました。著者によれば、その究極にあるのが1960年代後半に起きた全共闘運動など先鋭化した(エリート化した)「活動家」の思想で、彼らはその出自である大学そのものや進歩的文化人ですらも批判の対象にしました。(このあたり、前著「丸山眞男の時代」によく描かれています。)米国で似たような例であるポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)についても、ポリコレ自体よりは、これを民主党支持のエリート層から独善的に押し付けられることへの不満が爆発した(反知性主義に火がついた)のが「トランプ現象」とも言えます。現在直面する政治的分断と排除の理論も、リベラル・保守それぞれの独善的な振る舞いに由来しています。(その背景には、例の「目的による手段の正当化」という道徳的腐敗の影も見え隠れしています。独善とは結局、自分が善と思う目的を実現するためには何をしても構わないという思考に他ならない?)「革新幻想」に振り回された戦後日本の歴史を踏まえ、「革新幻想の帰趨」と題された終章で示される日本社会の現状に対する著者の認識には厳しいものがあります。いまや社会の主役はマス化した大衆で、そのような「『幻像としての大衆』を想定して言論活動や政策がなされるのが現代大衆社会の特徴である」と言います。「高い身分に伴う義務」ならぬ「大衆であることの義務」が前景化し、指導者がポピュリズム狙いのパフォーマンスに走るか大衆圧力をかわす「保身」だけに走りがちなのも、指導者の資質の問題というより、層としての中間インテリや中間エリートを欠き、劣化した大衆社会圧力によるのではないか。本書の結びに書き付けられた「日本は古代ローマの様に滅びに向かいつつあるのではないか」という著者の予言、不気味なリアリティを持って迫ってくる感じです。
2025年11月23日
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既に旧聞となりましたが、先月(10月)英国のとあるオークションで、物理学者アルバート・アインシュタイン(1879-1955)がかつて使用していたヴァイオリンが2億円という高値で落札されたというニュースが伝わりました(たとえばこちら)。アインシュタインは「死とは何か、それはモーツァルトが聴けなくなること」という名言(?)を残したほどの音楽好きで、アマチュアヴァイオリニストでもありました。(友人でピアニストのアルトゥール・シュナーベルは、一緒にモーツァルトを弾いている間頻繁に拍を間違えるアインシュタインに呆れて「君は数も数えられないのかね」とからかったとか。「天は二物を与えず」で、音楽でも天才とはいかなかったようですが…)件の楽器は、彼がナチスの迫害を恐れて米国に逃れる直前に、友人の物理学者マックス・フォン・ラウエに託したものだったそうです。ところで、アインシュタインに限らず物理屋さんには音楽好きが多い、というあまり根拠のないウワサもありますが、かのアイザック・ニュートン(1643-1727)はどうやら音楽を解さなかったようです。ニュートンといえば、若い頃にペストの流行を避けて疎開していた田舎でりんごが木から落ちるのを見て万有引力の法則に思い至った、というエピソードでよく知られる物理学者。(日本では科学雑誌の名前にもなっています。)彼の生年を見ると、音楽の世界ではジャン=バティスト・リュリ(1632-1687)、ブクステフーデ(1637-1707)、あるいはヘンリー・パーセル(1659-1695)といった前期バロック時代の音楽家たちに近い感じですが、享年84歳と当時としては例外的に長命だったせいで、我々がよく知るヘンデルの英国時代(1712年〜)とも15年近くのオーバーラップがあります。ニュートンは人生の後半に英国政治と関わるようになり、1696年からは王立造幣局長官の職を勤めるようになります。在職中は贋金作りを摘発するのに手腕を発揮したりする一方、ちょうどヘンデルが英国に現れた1710年ころから過熱し始めた株式投資に手を出し、最後には大損を被っています(これがのちに「南海泡沫事件」と呼ばれるようになる1720年ごろのバブル崩壊)。その際、ニュートンは「私は天体の動きは計算できるが、人々の狂った行動は計算できない」と言ったとか。一方、ヘンデルの方は、この投資ブームに乗って一儲けしたようで、これを元手に彼を支持する貴族たちと1719年にオペラ運営会社「王室音楽アカデミー」を設立、その芸術部門の中心人物として活躍するようになります。ここから生まれたのが「ラダミスト」、「ジューリオ・チェザーレ」、「ロデリンダ」といった作品の数々でした。ではニュートンが彼の音楽をどう見ていたか?最近聴く機会があったコルティによるヘンデルのハープシコード組曲集CDのライナーノートにその様子を伝える記事がありましたので、引用すると以下のようになります。ヘンデルの即興演奏と作曲の才能を誰もが驚異的だと思たわけではない。作曲家の友人ジェームズ・ハリスのノート(1743年4月21日付)によると: 「著名なアイザック・ニュートン卿は、ヘンデルがチェンバロを演奏するのを聞いて、彼の指の弾力性以外に特筆すべき点を見出せなかった。...かくして、人間、たとえ最も偉大な者でさえも(俗に言うように)自分の本領から外れると、必然的にこのような事態が生じるのである。... 存在するものと存在しないものを区別する知性において、彼に勝る者はいなかった。しかし存在するものの中で、何が公正で美しく優雅で洗練され、何がその反対であるかについて…彼は全く理解していなかったと想像せざるを得ない。 老いたニュートンはヘンデルのオペラの魅力にも同様に無関心だった。1720年4月18日、新設された王立音楽アカデミーのためのヘンデル初の新作オペラ『ラダミスト』のリハーサルがあると告げられた偉大な科学者は、考古学者ウィリアム・スタックリーにこう語った。「オペラは一度しか観たことがない。第一幕は楽しんだが、第二幕で忍耐が尽き、第三幕では逃げ出した」。同じ「天は二物を与えず」でも、こちらは音楽への関心が薄い、とうレベルの話だったようで、これには亭主も意外の感を強くしました。(ちなみに、ニュートンが導き出した「万有引力の法則」、実は経験則以上のものではなく、そこで仮定されている「2つの物体が何もない真空を介して力を及ぼしあう」などという考えは、いわば「念力」にも似て怪しげなもの。もし彼が今の世にこんな論文を書いて専門雑誌に投稿しても却下されたでしょう。このような怪しげな仮定をしなくても万有引力を理解できるようにしてくれたのが、他でもないアインシュタインの一般相対性理論なのでした。)
2025年11月16日
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ピアニストのアンドラーシュ・シフが「高松宮殿下記念世界文化賞」という賞を授与され、授賞式(10月21日)のために来日したとのことで、その際に行われた合同記者会見と個別懇談会の席でのインタビュー記事がいくつかのネットメディアに出ているのを最近になって目にしました。亭主が見たのは「ぶらあぼ」(10/22)、産経新聞(11/1、オンライン版)、朝日新聞(11/6、夕刊)ですが、特に産経、ぶらあぼの記事中で引用されたシフ本人の発言が大変挑発的で、彼の音楽観や芸術観を率直に語っていて大変興味深いものがあります。まず、合同記者会見(他の部門も含め五人の受賞者による)で、シフは「芸術(音楽)は”ショービジネス”ではない」と宣言。さらに、その後の懇談会で「”ショー”も”ビジネス”も、私はどちらの言葉も好きではありません。芸術はエンターテインメントではない。もっと深い次元があると信じています。それは学びであり、生の音楽を聴くという唯一無二の経験を皆でシェアするという面もあります。演奏はその場限りのもので、翌日のコンサートは全く違うものになってしまう。その瞬間にしか存在しないからこそ意味がある。一人でリビングで聴く音楽ともまったく違います。人と共有することが大切なのです」(ぶらあぼ)。さらに、会見直前にショパン国際ピアノ・コンクールの結果が発表されたことから、コンクールに話を向けられたシフ氏、真っ先に「ベリー・バッド」という言葉が口をついて出たとのこと。さらに「私もオンラインで視聴していましたが、退屈してしまいました。コンクールは消えてしまえばいい。こういうことを言うのは少数派でしょう。音楽はスポーツではありません。芸術なのです。スポーツは速さ、距離などを測ることができますが、芸術は計り知れない要素の集合です。審査員のいるスポーツのフィギュアスケートなどは芸術に近づくと問題が生じるのです。人の趣向、エゴ、嫉妬心などの感情が入り込みます。芸術で測れるものがあるでしょうか。主観的な趣向だと思います」(産経)。A新聞の記事では「コンクールはエンターテインメントであり、教育に何ら貢献するものではありません」という発言も引用されています。この後、シフは若い音楽家へ伝いたいこととして「音楽はワインと似ているところがある」、その心は「どちらも熟成しなければならない」点だと曰います。「良い音楽家になりたければ、充実した人生を送ること。練習ばかりしていてはいけません。美術館や映画館や劇場に出かけ、友人と時間を過ごし、自然の中を散策する。こうした生き方のすべてが、あなたの音楽を豊かに実らせていくのです」(A新聞)。特に前半のショービジネスに関する発言、このところ「芸術」(クラシック音楽もこれを標榜している)と商業主義の相剋という問題について色々と考えている亭主から見ると、あまりに浮世離れしている、という感想を否めません。特に残念なのは、初めから「芸術」と「エンターテインメント」を相反するものであるかのような二項対立の図式で捉える彼の思考回路です。その背景には「真面目な音楽」としてのクラシック音楽、という19世紀的な音楽観(=教養主義)、あるいはそのような「高級文化(ハイカルチャー)」の体現者としてのエリート意識が透けて見えます。「聖今生陛下派」ピアニストであるシフ閣下(彼は英国でナイト=男爵に叙されている)としては、バッハやベートヴェンの音楽をエンターテインメント(娯楽・おもてなし)と捉えるなどという不真面目な輩はけしからん!というわけでしょう。一方、「最高の芸術は最高のエンターテインメントでもある」と捉えれば、二項対立的な思考回路からは容易に解放されます。そこでは、シフが言う「生の音楽を聴くという唯一無二の経験を皆でシェアする」体験それ自体もひとつのエンターテインメントです。(それとも、シフ先生はそういうふうに「勉強が楽しい」という生徒を「真面目にやれ!」と叱るのでしょうか?)シフは1953年生まれ、クラシック音楽がまだ「エリート文化」として健在だったころにキャリアを積んだ演奏家です。この時代には、音楽を享受する側である聴衆も演奏家と同じレベルで音楽に向き合うこと(「集中的聴取」)が当然視されていました。とはいえ、1980年代以降の聴衆は大衆化し、彼らからアイドル並みに扱われる演奏家も出てきました。そのような聴衆からすれば、なぜクラシック音楽がエンターテインメントであってはダメなのか、と問いたくなります。芸術、あるいは音楽もそのように享受されることに何の不都合があるのか。ビジネスとしてのクラシック音楽が今のところ何とか成立している理由も、そのような聴衆の存在あってのことです。(聴衆を気にせず自分の音楽を追求できるのは大学や音楽学校といったアカデミアにいる音楽家ぐらいでしょう。)それにしても、「音楽はショービジネスではない」と、ある種の理想論を掲げながら、一方で演奏会というショービジネス(興行)のシステムにちゃっかり乗っかってお金を稼いでいることについて、シフ男爵閣下は何の矛盾も感じていないのだろうか、と訝る亭主でした。(なお、亭主はシフの演奏のファンであり、かつて彼の奏でるバッハなどを大いに楽しんだことが思い出されます。)
2025年11月09日
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先月落手したフランチェスコ・コルティによる3セットのCDのうち、昨年(2024年)10月にリリースされたという表題の1枚をじっくり拝聴。亭主にとってドメニコのソナタを入れた新譜CDを手にするのは、ピエール・アンタイのそれ以来3年ぶりです。ただし、アンタイのCDはヘンデルのハープシコード組曲とドメニコのソナタが交互に演奏され、二人の音楽家のキャラを比較しながら楽しむという、ある種音盤上の演奏会のような作りでした。ドメニコのソナタだけを入れたCDとしては久々というところ。とはいえ、驚いたことに音盤は1枚きり、最長でも70分強という限られた尺を考えれば、555曲ものドメニコのソナタのソナタからどれを選んでくるかは、それだけで演奏家にとって十分なチャレンジです。一昔前であれば、セールスも考えてまずは有名なソナタをピックアップし、これらと自分の好みのソナタと適当に組み合わせたアルバムに仕立てるのが定石という感じでした。ではコルティはどのような作戦で臨んだのか?以下は収録作品のリストです。01. ソナタ ニ短調 K.213: Andante02. ソナタ ニ長調 K.214: Allegro vivo03. ソナタ イ長調 K.208: Adagio e cantabile04. ソナタ イ長調 K.209: Allegro05. ソナタ 変ロ長調 K.248: Allegro06. ソナタ 変ロ長調 K.249: Allegro07. ソナタ ホ長調 K.215: Andante08. ソナタ ホ長調 K.216: Allegro09. ソナタ イ短調 K.217: Andante10. ソナタ イ短調 K.218: Vivo11. ソナタ ハ長調 K.242: Vivo12. ソナタ ハ長調 K.243: Allegro13. ソナタ ロ長調 K.244: Allegro14. ソナタ ロ長調 K.245: Allegro15. ソナタ イ長調 K.219: Andante16. ソナタ イ長調 K.220: Allegroこれらを見るとすぐに気づくこととして、カークパトリック番号で200番台前半のソナタのみが取り上げられていることが分かります。ドメニコのソナタの主要な原典のひとつとして、ヴェネチアのマルチアーナ図書館が所蔵する手稿(「ヴェネチア手稿」全13巻)が知られていますが、上記リスト中のソナタはすべてその第3巻(K.206〜235)、および第4巻(K.236〜265)から取られています。もう一つは、これらが2曲ずつ調性の対として演奏されていることです。これは、手稿上でこのような対(あるいは3曲で一組)になった配置が作曲者自身の意図したもので、それらについては演奏も対ごとのまとまりとしてなされるべき、とするカークパトリックの「対理論」を踏襲したもの。(もっとも、このような対構成が400曲近くで見られる、というカークパトリックの主張については疑問視する向きもありますが、かなりの数のソナタがこのような相関を持っているように見えることも確かです。)カークーパトリックは自身の著書の中で、ヴェネチア手稿第3、4巻の2巻をいわば「傑作の森」と評しており、そこからコルティが取り上げたソナタも例外なしに名曲揃いです。ペアの演奏順を変えた理由は、アルバムとしての起承転結や曲の性格の対比を考えてのものでしょう。(例えば、ドメニコにしては数少ないアンダンテの速度記号を持ち、シリアスで物悲しい曲調のK.213を先頭に配置する、という作法は、以前にキャロル・セラシやピエール・アンタイのソナタ集でも見られました。)さらに、YouTubeのプロモーションビデオを見ると、コルティが参照しているのはファディーニ版(イタリア、リコルディ社刊行)の楽譜であることが分かります。校訂者であるエミリア・ファディーニ(イタリア人)は、カークパトリックの主張に従ってヴェネチア手稿を最も重要な原典として校訂譜を作成したことで知られています。録音で使用しているハープシコードもイタリアンモデルであることなどを考え合わせると、どうやらコルティがドメニコを「イタリアの音楽家」として遇したがっていることが読み取れます。さて、では実際の演奏はどうかというと、これら二部形式のソナタで前半と後半、それぞれ反復される2回目の演奏では必ず大胆な変奏が加えられ、特に速い楽章では鍵盤の名人芸が爆発。さながらコルティのワンマンショーです。「古楽は自由だ!」というモットーを極限まで突き詰めるとこういうことになるのだろう、と思わせられる演奏でした。 * * * *ところで、今年の初めにこのブログでドメニコの父アレッサンドロが生誕300年の記念の年であることに触れ、それにもかかわらず巷では全く話題になっていないことを嘆いていたところですが、最近になってネットでググるといくつかイベントが企画されているようです。その一つ、「アレッサンドロ・スカルラッティの情熱と華」と題されたコンサートの案内が目に入り(こちら)、チラシの画像を拡大して眺めたところ、左上にある肖像画が何と息子ドメニコのそれになっているのを見つけて「あちゃー…」。このチラシ画像、日本チェンバロ協会のフェースブックにもアップされているのですが、なぜかスルーされているようで何とも残念。
2025年11月02日
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