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この帽子子どもたちに人気です。近頃子どもたちに加えて若いママさんと推定70才代の高齢者の女性いや女優さんから記念写真お願いします。ーと言われるようになりました。実兄が昨年末に天国に行ってしまった。子どもの頃は、よくケンカをしたものです。でも、常に、笑顔G大切だとおしえてくれました。明るく笑顔でお客様をお迎えします。バレーボールチームの女子小学生の皆さんが、おじさん優勝したよー。ーと報告してくれた。ご父兄の皆様からおじさんに優勝したことを報告するように。半年ぶりにお会いしました。負けた悔しさで、涙が今度は笑顔で再会!もちろん今回もメンチカツを購入されました。また,愛(あい)ましょう。ありがとうございます。ーと言って握手して別れました。嬉しい一日でしたー♪
2025.02.25
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平成6年に、オリジナルで、考えた人事制度です。商標登録もしました。悩んで、悩んで、失敗の繰り返し。そして、平成10年頃からオーダーメイド型ではなく、オーダー・メイド型にしたのです。すると、一段とスタッフの定着率が、良くなってきました。毎日、毎日眠れない日が続いていました。赤ちゃんが、自然と言葉を覚えたようにある日を境にして、この人事制度が確立化していきました。平成19年には、当時の橋本県知事からこの制度を評価されて、表彰状をいただきました。#ロコレディオーダー・メイド型雇用人事制度#働き易い環境づくり#女性活躍を応援
2025.01.28
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道の駅や、テーマーパークで、実践していることをまとめてみました。石破さんに、通じることを願っています。題名: 日本が誇る「伎芸(ぎげい)おもてなし」の魅力とはこれは、本や、新聞のネタではありません。この私が、会社経営をするようになって、約35年経験して感じたことや、失敗したことや、気づいて修正したことをまとめたものです。では、どうぞ~。技芸ではなく、この「伎芸」です。わかりやすく言うと、「フーテンの寅さん」や「筑波山のガマの油売りの口上」や「バナナのタタキ売り」などのパフォーマンス型の接客に近いです。似ていますが、少し異なります。この手法を「伎芸型おもてなし商売道」と名付けて、商標登録もしました。現代社会では、効率やスピードが重視される一方で、人と人との温かなつながりが求められています。「伎芸おもてなし」は、そんな時代の中で、日本特有の心配りや伝統文化を現代に蘇らせる特別な存在です。その魅力は、単なる接客の枠を超え、訪れる人々に忘れられない場面を提供する点にあります。昔の紙芝居屋さんの飴売り。飴が欲しいのではなく、紙芝居を観たい。そんな世界観を復活しようと考えました。「おじさんの漫談を聴きながら、コロッケや、クレープを食べたい」と言われることが、多くなってきました。大切なのは、心を掴む笑顔の力「伎芸おもてなし」の核となるのは「笑顔」です。しかし、ここで求められる笑顔は単なる形だけのものではありません。真心から湧き出る笑顔には、人の心を解きほぐすパワーがあります。私は道の駅などの場所で、キッチンカーの前で、パフォーマンス型の販売を行っています。ご来場者たちに、初めて訪れたこの場所で出迎えられた笑顔が温かければ、それだけでその場が「特別な空間」になるように、丁寧に話しかけます。皆さんは、言葉以上の安心感と歓迎を感じ取り、「ここに来てよかった」と感じて頂けるように配慮します。漫談風に、話しかけていきます。「今日は、どちらから来たのですか?」と軽く声をかけて、「我が町は人口が減っているので、引越ししてくださいヨ」とか、「ふるさと納税よろしくお願いします」とか、「お米の美味しい地域ですので、ぜひぜひお米を購入してください」などなど。自分自身が、販売していない商品も、町のPRの為に、お声掛けします。決して、ヘッドマイクは使わず、地声で笑顔をつけてトークします。会話で作る「快輪」伎芸おもてなしでは、「快輪(かいわ)」と呼ばれる双方向のコミュニケーションを重要視します。一方的に話しかけるのではなく、相手の反応を引き出しながら自然な会話を楽しむ技術です。例えば、季節や地元の話題をさりげなく取り入れた会話が展開することで、訪れる人々は心の距離を縮めます。これにより、一瞬の出会いが特別な思い出となり、また訪れたいという気持ちが生まれるのです。実際に漫談家の毒蝮三太夫さんと会った時に、「そのコツ」を教えて頂きました。「羽富さん、リズムを意識するんだよ」とアドバイスを頂きました。感謝を伝える一つひとつの所作「伎芸おもてなし」の根底には、「感謝」の精神があります。商品を手渡す際の細やかな動作や、お見送り時の深いお辞儀など、すべてにおいて「感謝」を表現することを徹底します。例えば、店先で商品を手渡す時に添えられるひと言や、帰り際に送られる温かな笑顔は、小さなことのように思えますが、それが訪れる人々にとっては心に残る大きな出来事となるのです。「気品と礼節」が基本なのです。販売終了時は、もちろんその場所に感謝の気持ちを伝える為に「一礼」します。周りの掃除もします。技術を超えた「心」のおもてなし「伎芸おもてなし」は単なる接客スキルではなく、「心」を込めた行動そのものです。会話の中では、相手のちょっとした言葉や表情を読み取り、それに応じた対応を即座に行う柔軟性で対応します。また、笑顔や言葉を超えて、全身を使った表現によっても感謝の気持ちが伝えられます。これこそが「伎芸」の名にふさわしい、奥深い技術なのです。未来に繋がる「おもてなし」は、武道に通じます「伎芸おもてなし」は、ただの商業的な取り組みではありません。それは日本の伝統文化や精神性を未来に伝えていく大切な役割を担っています。この心を次世代に受け継ぐことで、地域全体が活気づき、人々の絆がより深まるでしょう。「伎芸おもてなし」は、訪れる人々に感動を与えるだけでなく、それを提供する側にとっても、自らの価値を見つけ直す機会となります。実際のエピソードから見る感動私がお世話になっている道の駅常総で「伎芸おもてなし」を体験した観光客が、出迎えの笑顔と共に常総の名産品の魅力を教えてもらい、その土地ならではの話題を親戚、知人たちにそのことを話しをします。その観光客は商品を購入するだけでなく、その場を去る際には「また来たい」と深い感謝の言葉を残しました。「また、あなたに愛(あい)たい~」と。 そして、後日再会することが、しばしばあります。まとめ「伎芸おもてなし」は、人々に感動と喜びを提供するだけでなく、日本が誇る伝統的な文化や精神を未来に紡ぐ役割を果たしています。一つひとつの所作や会話(快輪)が、訪れる人々の心を豊かにし、忘れられない体験として刻まれるのです。その場に立ち会った誰もが笑顔になり、また次の出会い(出愛)を楽しみにする。このような循環こそ、「伎芸おもてなし」がもたらす真の価値となります。このような活動が、地方創生に繋がることを確信しています。
2025.01.26
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私は、今、ウクレレ教室に通っています。月に2回。1時間の練習です。先生に「終止感」を感じて下さい。それを意識してください。・・・と。それを会社経営につなげると?チャットGPTより。音楽における終止感の設計は、会社経営における「段階的な成功」や「成長のサイクル」を形作るための優れたモデルです。適切な区切りを設け、次への流れを意識し、感情を大切にすることで、組織全体のパフォーマンスとモチベーションを向上させることができます。会社経営にも、言えますね。勉強になります。
2025.01.25
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キッチンカー劇場のワクワク漫談 毎回、毎回、道の駅に出向くと、漫談のような事が、続きます。 ある日曜日の夕方の出来事です。キッチンカーの前に13人ほどの行列ができています。揚げたてコロッケの香りが漂う中、私は漫談家・羽富都史彰として今日もステージに立ちます。このキッチンカーはただの販売所ではありません。ここは「お客様が主人公」のワクワク劇場です。寒空の下、最初の一声が勝負「寒い中お並びいただきありがとうございます!でも、この寒さ、揚げたてのコロッケで体も心も温まりますよ!」私の第一声に、並んでいるお客様たちがちらりと笑顔を見せます。そのとき、前に並んでいた奥様がこんなことを言いました。70歳代のご婦人様が綾小路きみまろ氏のショーのような話しぶりです。「うちの旦那も昔はおたくのコロッケのように夫婦熱々だったのよ。でも、数年するとね~浮気ばっかりして、女性のお尻ばかり追いかけてたの」とか、「私たちにも、新婚時代があったのよ。近頃は、冷えた味噌汁のような間柄。惰性で2人で、いつも、朝食を」などなど。話しが止まりません。まさかの暴露発言。列の後ろからクスクスと笑い声が漏れました。私もすかさず返します。「旦那様と、昔はコロッケみたいに揚げたてホカホカの間柄だったんですね!」奥様は大笑い、ご主人は少し照れくさそうに「いやぁ~、今はすっかり冷めちゃって、妻の秘書になりましたよ」と返してくれました。こうして自然と場が温まり、列全体がワクワクした空気に包まれます。お客様が主人公、私は脇役私がキッチンカーで大切にしているのは、「お客様が主人公」という考え方。商品を売るのはあくまで手段で、お客様に「ここで買ってよかった」と感じてもらうのが目的です。そのため、会話の中で自然とお客様を引き立てます。例えば、列に並んでいた別のお客様が「どのコロッケが一番人気ですか?」と質問してきたときのこと。「普通なら『ビーフ、カニクリームコロッケが人気です』って答えるんでしょうけど、それじゃ面白くないですよね?」と私は心の中で思い、こう答えました。「一番人気?それは私ですよ。コロッケを揚げる姿がキムタクではなく、綾小路きみまろだって評判です」お客様たちの間に笑いが広がります。その後ろから「そんなことないだろ!マツケンだよ」と声が飛んできた瞬間、「違うよ、毒蝮三太夫だよ~」と一言。これでまた列全体が笑顔に包まれます。毒蝮三太夫ばりの軽い“毒”もひとつまみ。毒蝮さんのような軽い“毒”を混ぜるのも大切です。たとえば、ご年配のお客様が「私なんか年寄りだから、油物は控えないとね」と言うとき。普通なら「そんなことないですよ」と否定するだけでしょう。でも私はこう言います。「年寄りなんて、誰が決めたんですか?むしろ油で私の頭のようにピカピカに磨きをかけましょう!」するとお客様が「その手があったわね!」と大笑い。列の後ろにいた別のご夫婦も「そうだ、揚げたてが一番だ!」と盛り上がり、寒さも忘れる雰囲気になります。ワクワクを生むのは心の交流キッチンカーでは、料理の美味しさだけでなく、お客様との「心の交流」が一番大切です。ただ商品を渡すだけではなく、お客様がその場で感じるワクワク感をいかに作れるかが勝負。そのため、目の前の一人一人をしっかり見て、対話の中で「その人らしさ」を引き出します。ある日、列に並んでいたご夫婦(70歳代後半)が私に言いました。「この人(旦那さん)、今じゃ私の運転手みたいなものよ。昔は仕事ばかりで家庭をほったらかしだったのに。」私は旦那さんに向かって言いました。「いやあ、運転手どころか、最高のパートナーじゃないですか!」すると旦那さんがニヤリと笑って一言。「若い頃は妻に全部任せてたけど、今は妻の秘書兼運転手ですよ。でもそれが意外と楽しいんですよね。」それを聞いた奥様も笑顔で「まあ、感謝はしてるけどね」と付け加えました。まとめ:キッチンカー劇場の裏側キッチンカーという空間は、単なる販売所ではなく「小さな劇場」です。お客様が主役で、私はその脇を固める役者。笑いと会話でワクワクを生み出し、その時間を「特別な思い出」に変えるのが私の役割です。毒蝮三太夫さんのような軽い毒を交えながら、漫談家としてお客様の心に触れ、笑顔を引き出す。お客様が手にするのはコロッケですが心の中には「あのキッチンカー、また行きたいな」という気持ちが残る。これが私の伎芸型おもてなしです。寒空の下でもお客様の笑顔があれば、キッチンカーの舞台はいつだって温かいのです。
2025.01.24
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部下スタッフを育てるコツ(指針)とは??? 私の失敗から学んだ「おもてなし教育」の指導方針 成功事例ではありません。失敗を公開することで、同じ過ちをして欲しいくないだけです。1. 頑張っていたつもりだった私 私は小売・サービス業に43年間関わり、店舗運営や人材育成に取り組んできました。特に部下教育に力を入れ、「結果を出すこと」を最優先としてきました。しかし、結果を出すために厳しく接し、「やる気がない」「この仕事に向いていない」と思ってしまったことも多々ありました。 振り返ると、私の「教え方」に問題があったのです。部下たちは「やり方」を知らなかっただけで、決して「やる気がなかった」のではありませんでした。この気づきを経て、具体的な改善策を導入し、指導法を大きく見直しました。 2. 上手くいかなかった指導の事例 当時、部下とのコミュニケーションが不足していたことで生じた具体例をご紹介します。 • タバコの臭いを残したまま売り場に立つスタッフ →「常識だろう」と思い込んで注意したが、根本的な改善策(臭いを消す具体的な方法の説明)が欠けていたため、問題が繰り返された。 • 「笑顔を届けよう」と抽象的に指示 →スタッフは「どう具体的に行動すれば良いか分からない」と困惑し、結局笑顔がぎこちなく、接客態度も向上しなかった。 • 新人が挨拶をしない理由 →新人が「お客様を見かけたら挨拶するべき」とは理解していたが、「どのタイミングで挨拶するべきか」までは明確に理解していなかった。 これらの事例を通じて、「抽象的な指示」ではなく「具体的な行動の指導」が必要であると痛感しました。 3. 私が行った改善策 私が行った改善策を以下にまとめます。それぞれに新入社員が「腹落ち」しやすい具体例を添えました。 (1) 行動を具体的に分解する 指示を細かい行動レベルに分解し、新人が実践しやすいようにしました。 例1: 笑顔の接客 • 抽象的な指示: 「笑顔で接客して」 • 具体的な指示: • お客様が店内に入った瞬間、目を見て、笑顔で「こんにちは~、寒い中ありがとうございます」とか、 「お久しぶりですね」などなどと声をかける。 心無いあいさつ「いらっしゃいませ」出来るだけ、避けます。 • 笑顔の作り方を鏡の前で練習し、口角を上げる感覚をつかみます。 例2: 売り場の清掃 • 抽象的な指示: 「店内を綺麗にしておいて」 • 具体的な指示: • 20~30分ごとに店の陳列や、床の汚れと店頭入り口をチェックする。 • 床に落ちているゴミはすぐに拾い、清掃が完了したら報告する。 (2) 行動の意味を伝える 新人は「なぜその行動が必要か」を理解することで、動機づけが高まります。 例1: 挨拶のタイミング • 行動: お客様が入店して3秒以内に笑顔で「日常の挨拶・・・雨の中、ありがとうございます」と 声をかけます。 • 意味: 入店直後の挨拶は、お客様に「歓迎されている」と感じてもらう最初のポイントに なるためです。 例2: 商品陳列の整理 • 行動: 売り場の棚を一列ずつ確認し、乱れた商品を正しい位置に戻します。 • 意味: 整然とした陳列はお客様に「信頼感」を与え、購買意欲を高める効果があります。 (3) ミスを叱るのではなく寄り添う気持ちで! 失敗を責めるのではなく、背景を理解し、解決策を一緒に考えてみます。 例1: 新人スタッフが注文を間違えた場合は? • 叱責する代わりに「どうして間違えたのか」を一緒に確認します。 • 手書きの注文メモを採用し、確認用のチェックリストを作成します。 例2: 商品補充が遅れた場合は? • 問題の原因を「棚の配置が分かりにくい」ことと特定します。 • 商品棚に番号ラベルを付け、新人が簡単に場所を覚えられるように改善します。 (4) 反復練習を習慣化します 行動を自然に身につけるまで何度も練習を繰り返します。 例1: レジ接客の練習 • 声の大きさやスピードを確認しながら、先輩スタッフと模擬練習を実施します。 • 「ありがとうございます」のタイミングが自然になるまで反復します。 例2: クレーム対応のシミュレーション • クレーム対応の基本フレーズを暗記します。(心からお詫びする。低姿勢の見本を教えます) • 実際の対応を想定したロールプレイングを10回以上繰り返しします。 4. 「腹落ち」するための具体例 新入社員に「なるほど」と思ってもらえる事例を意識して説明します。 例1: 自転車に乗る練習 • 「一度バランスを覚えれば、何年ぶりでもスムーズに乗れますよね。それは体が覚えているからです。同じように、仕事のスキルも何度も練習すれば自然と身につきます。」 例2: 車の坂道発進 • 「初心者の頃は坂道発進や縦列駐車に苦手意識を持つものですが、練習を重ねるうちに、コツをつかんでスムーズにできるようになります。仕事も同じで、繰り返し経験すれば必ず慣れます。」 例3: コーヒーの淹れ方 • 「初めてドリップコーヒーを淹れるときはお湯の注ぎ方が難しく感じますが、回数を重ねるうちに、自然と良い味を出せるようになります。これも『経験』の力が基本となります。」 5. 振り返りと未来への指針 最終的に、部下を育てるためには次の点を重視することが重要です。 • 部下の行動には必ず「原因」があることを理解します。 • 行動を細かく分解し、具体化して伝えます。 • 行動の背景や意味を丁寧に説明することで、動機づけを高めます。 • ミスに対して叱るのではなく、寄り添いながら解決策を一緒に考えるクセを上司が身に付けます。 • 繰り返し練習することで、自信とスキルを身につけていきます。※まずは、手本を示す。そして、練習してもらって、出来ている箇所を褒める。 やって見せて、させてみて、褒めてやらねば、人は動かじ。(山本五十六氏より) まとめ 部下育成は「教える」だけでなく、「伝える」ことが大切です。仕事のスキルは一朝一夕では身につきませんが、行動を分解し、意味を伝え、反復練習を通じて自然に覚えさせることで、誰でも成長できます。 この指導法は、新人だけでなく、すべての従業員のスキル向上に役立ちます。「おもてなし」の心も、具体的な行動を通じて初めて育まれるものです。
2024.12.26
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映画『男はつらいよ』シリーズ、特に主人公のフーテンの寅さんは、日本の多くの人々に愛され続けてきたキャラクターです。その生き様や価値観は、現代社会にも通じる普遍的な教訓を提供しています。ここでは、寅さんの人生観から学べるポイントを「子どもの教育」に絡めて、考察します。寅さんの人生観:自由と自己表現の重要性 寅さんの人生観を語る上で欠かせないのが、「自由な生き方」と「ありのままの自分でいること」です。彼は決まった仕事に縛られず、日本全国を旅しながら人々と出会い、自分の存在を自然体で表現します。 この姿勢は、子どもの教育にも大いに活かせます。現代の教育は、テストや受験のための勉強に追われることが多いですが、寅さんのように「枠に囚われない生き方」を教えることで、子どもたちはより柔軟で創造的な思考を身につけることができます。例えば、次のような教育的アプローチが考えられます: • 好奇心を育む自由な時間の確保寅さんの旅のように、子どもたちが好きなことを探求できる時間を与えることが重要です。自由に遊び、学び、探求する経験が自己表現の力を養います。 • 失敗を許容する教育寅さんは恋愛で失敗を繰り返しますが、その失敗を恐れず新しい出会いに飛び込む姿勢を見せます。このように、子どもたちにも「失敗は学びの一部」という意識を持たせることで、挑戦を恐れない人間に育てることができます。 寅さんの人間関係:思いやりと共感の力 寅さんのもう一つの特徴は、どんな人にも思いやりを持って接し、共感する力に優れている点です。彼は、旅先で出会うさまざまな人々の悩みや問題に親身になり、時には解決策を模索します。この「他者を思いやる心」は、子どもの社会性を育む上で非常に重要です。 教育への応用 • 共感力を高める体験学習寅さんのようにさまざまな人々と触れ合う経験を子どもに提供することで、相手の立場に立って考える力を育むことができます。地域活動やボランティアに参加させることが効果的です。 • 日常の中で感謝を教える寅さんは、家族や仲間との時間を大切にしています。この姿を参考に、子どもたちに感謝の気持ちを持つ習慣を教えることで、家庭や学校での人間関係が円滑になります。 寅さんの生き様:幸せの定義を教える 寅さんは物質的な成功を追い求めるのではなく、人とのつながりや心の豊かさを幸せの基準にしています。現代社会では、物質的な成功や結果を重視しがちですが、寅さんのような価値観を教育に取り入れることで、子どもたちは本質的な幸せを見つける力を持てるようになります。 教育への応用 • 非競争的な活動の推奨スポーツや文化活動など、競争ではなく協力を重視する活動に子どもたちを参加させることで、物質的な結果に囚われない価値観を育むことができます。 • 「今を楽しむ」ことの大切さを教える寅さんの生き方は、「今この瞬間を楽しむ」という考え方が根底にあります。例えば、子どもたちが好きなことに没頭できる時間を作ることで、心の充実感を味わわせることができます。 寅さんの弱さと強さ:自己肯定感を育む 寅さんは失敗や弱さを多く抱えていますが、それでも自分を否定することなく、ありのままの姿で人と接します。自己肯定感の低い現代の子どもたちにとって、このような姿勢は大きな学びになるでしょう。 教育への応用 • 弱さを認め合う環境作り子どもが失敗や弱さを隠さず、安心して表現できる環境を作ることで、自己肯定感を高めることができます。これは家庭や学校での信頼関係の構築に役立ちます。 • 「個性を活かす」指導寅さんのように型にはまらない個性を尊重する教育を行うことで、子どもたちが自分らしく生きる力を身につけることができます。 まとめ フーテンの寅さんの人生観は、子どもの教育に多くの示唆を与えてくれます。自由な生き方や他者への思いやり、物質的成功に囚われない価値観、そして自己肯定感を大切にする姿勢は、現代の教育において重要な要素です。寅さんのような「人間らしい生き方」を子どもたちに伝えることで、競争や成果主義に疲弊しない、豊かな人生を歩む力を育むことができるでしょう。 教育者や保護者として、寅さんの生き方を通して、子どもたちに「本当の幸せとは何か」を問いかけることが大切です。
2024.12.16
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寅さんと家庭愛:家族の温かさが育む心の豊かさ 寅さんの物語における「家庭愛」は、柴又の団子屋「くるまや」を中心とした家族の絆に象徴されています。寅さん自身は放浪の旅を続けながらも、実家に帰るたびに家族の温かさに癒され、また新たな一歩を踏み出します。とくに、妹・さくらとの深い絆は、家族の愛情が持つ力強さを象徴しています。 教育への応用子どもたちにとって、家庭は人生の基盤であり、安定した愛情を受けられる場所です。寅さんの物語が示すように、親や兄弟姉妹との信頼関係を築くことで、子どもたちは困難に立ち向かう力や他者への思いやりを育むことができます。例えば、家庭内で「感謝を伝える日」を設けたり、家族で一緒に過ごす時間を増やすことで、心の成長を支えられるでしょう。 地方創生と寅さんの教え 寅さんは日本全国を旅し、地方の人々と深い交流を重ねています。この姿は、現代の「地方創生」において重要なヒントを与えてくれます。寅さんの旅の目的は商売や人助けですが、その結果として地域の人々の生活に溶け込み、地元の文化や風景を広く伝える役割を果たしています。 地方創生の観点寅さんのように、人とのつながりや地域特有の文化を大切にする姿勢は、地方創生の取り組みに通じます。たとえば、以下のような活動が考えられます。 • 地域の魅力を活かした観光推進寅さんの足跡をたどるような旅行プランを作り、映画のロケ地や地元の名産品を巡る観光を提案する。 • コミュニティの復活地方の小さなコミュニティでイベントやワークショップを開催し、人々がつながる場を提供する。1つ、1つのことから、気づきを頂きます。体調がわるくなったときは、今一度、自分自身を振り返る時間だとかんじることを60歳を過ぎてから、感じるようになりました。 • 教育と地方創生の連携子どもたちに地域の文化や歴史を学ばせるカリキュラムを作り、地域愛を育むことで、地元に留まる若者を増やす。 寅さんが体現する「家庭愛」や「人と人とのつながり」は、子どもの心を豊かに育てるだけでなく、地方に新しい活力を与える鍵ともなります。このような観点から、寅さんの生き方は教育や地方創生にとっての羅針盤といえるでしょう。アパレル興亡では、私のサラリーマン時代のことが、名前を変えて、登場します。堀川利幸の投影として、登場します。
2024.12.14
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寒くなってきました。道路も凍っています。運転には、気をつけてください。私は、42歳の時、12月13日に交通事故に遭いました。信号無視で、車が突っ込んで来ました。約30分ぐらい意識が、なくなった?目が覚めると、????????????????????その後から、発想がドンドン浮かぶようになってきました。一度、生き返った?命を大切にします。
2024.12.12
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「羽富流オーダー・メイド型雇用人事制度」の詳細解説しますね。この言葉は、商標登録をしています。お使いしたい場合は、ご相談を受けます。 羽富流オーダー・メイド型雇用人事制度は、中小企業を中心に注目される人事制度で、従業員一人ひとりの状況に応じた働き方や評価基準を提供します。この制度では、年齢給や勤続給といった従来型の給与要素も取り入れながら、個別最適化された雇用制度を目指しています。企業が人材不足や労働環境の多様化に対応するために、柔軟性と公平性を兼ね備えた制度として設計されています。平成6年に私が、考えた制度です。仕組みを試行錯誤しながら、微調整して制度がしました。 1. 羽富流オーダー・メイド型雇用人事制度の特徴 (1) 年齢給・勤続給を含む報酬体系 • 年齢給の導入年齢に応じた基本給を設定し、従業員の生活安定を支援。特に育児や介護など、家庭での負担が大きくなる年代において、最低限の安心感を与える役割を果たします。例:30代後半以上の従業員には、年齢に応じた昇給を実施。 • 勤続給の採用長期的な勤務を評価し、定着率向上を狙う。勤続年数に応じた昇給があることで、社員が安心してキャリアを積める環境を整備します。例:勤続年数ごとに基本給をアップ、勤続30年以上の社員には特別表彰制度を導入している。 (2) 個別対応型の雇用設計 • 柔軟な勤務形態従業員のライフスタイルに合わせて、フルタイム、短時間勤務、リモートワークなど多様な働き方を選べる仕組みを提供。例:育児中の社員は、保育園の送迎に合わせた短時間勤務やフレックスタイムを選択。 • 職務内容のカスタマイズ従業員のスキルやキャリア志向に応じて業務内容を調整。単調な作業ではなく、成長意欲を引き出す役割を割り当てます。例:経理担当だった社員が、希望に応じてマーケティング業務に挑戦する機会を得る。 PTA役員に就任時には、インセンティブ手当を支給。 (3) 評価基準の多様性 • 成果重視+プロセス評価成果だけでなく、業務に取り組む姿勢やプロセスを評価に含めることで、多角的な評価を実現。例:営業部門では売上目標達成だけでなく、チームへの貢献度や顧客対応の質も評価対象に。 失敗大賞エントリー制度を導入。 • 目標管理制度 (MBO)従業員自身が目標を設定し、その達成度合いに応じた評価を実施。個人の成長を支援する形で運用されます。 (4) 報酬体系の柔軟化 • 年齢給・勤続給の他、成果報酬を併用固定給に加えて、業績に応じたインセンティブを支給することで、やりがいを提供します。例:売上目標を達成した営業社員にインセンティブの成果報酬を支給。 課題として ● 個別対応を行うことで、他の従業員から不満が出る可能性がある。特に成果報酬と年齢給・勤続給のバランスを取るのが難しい。 ●経営者の意識改革の必要性 短期的な利益を優先する経営幹部にとって、長期的な視点での制度改革は難しいと 感じられることがある。 4. 導入成功のためのポイント1. スモールスタート一部の部署や対象者で試験的に導入し、課題を明確化する。2. 透明性の確保給与や評価の基準を明確にし、従業員間での不公平感を軽減する。3. 専門家の支援人事制度設計に関するコンサルタントや社労士を活用して、効率的に制度を構築する。4. ITシステムの導入勤務時間管理や評価を効率化するためのツールを導入し、運用負担を軽減。 結論 羽富流オーダー・メイド型雇用人事制度は、年齢給や勤続給を取り入れながら、個別対応を徹底することで企業と従業員の両方にメリットをもたらす制度です。特に中小企業においては、人材の定着や組織力強化に寄与する重要な仕組みと言えます。ただし、設計の複雑さやコスト負担、経営者及び経営幹部の意識改革などの課題を克服する必要があります。スモールスタートや専門家の活用を通じて、段階的な導入を進めることが成功への鍵となるでしょう。微調整、微調整がその都度、必要となります。
2024.12.11
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「ありがとうの力が未来をつなぐ:日々の感謝を大切に」 温かい料理が運ばれてくるたびに心がじんわりと癒され、その経験が私に感謝の心を育みました。飲食店での「ありがとうございます」の一言は、当たり前のようでいて、とても力を持つ言葉です。この小さな行動が、社会をより豊かにする大きな原動力になることを日々感じています。 感謝がつながる瞬間 先日、家族と訪れたファミレスでの出来事です。私たちのテーブルを担当してくれた若い女性スタッフの心のこもった接客に感動し、その場で彼女を褒めました。店長にもその素晴らしさを直接伝えると、スタッフのその彼女は涙を流し、感謝の言葉に胸を震わせてくれました。この瞬間、自分が発した「ありがとう」の言葉が彼女の人生の一部として刻まれたことを実感しました。 一方で、家族は「恥ずかしい」と冷ややかな反応。それでも私は、この文化の中で感謝を直接伝えることの重要性を再確認しました。 感謝の言葉が減る現代社会 近年、感謝の言葉を直接伝えることが少なくなっています。これには以下のような背景があると考えられます。1. 感情の抑制文化日本では、感情を表に出さないことが美徳とされ、控えめな表現が推奨されてきました。このため、人前で感謝の気持ちを表現することをためらう人が多くなっています。2. デジタル化の影響メールやSNSが普及し、スタンプや絵文字で感謝の意を伝えることが一般化しています。便利ではありますが、直接的なやり取りに比べ、心に響く力が弱まりがちです。3. 忙しさと効率重視の社会現代は、仕事や家事などに追われ、感謝の気持ちを表す時間や余裕が減っています。効率優先の生活の中で、感謝の行動が後回しになりがちです。4. 日常化による意識の薄れ家族や同僚など、身近な人との接触では「ありがとう」が省略される傾向があります。親しさの裏返しではありますが、大切な感謝の気持ちが失われてしまうことがあります。 感謝の力を伝える活動の必要性 「ありがとうは口から出る宝石」と感じる私は、日々感謝を伝えることを大切にしています。例えば、小中学校の教育や家庭内で「ありがとう運動」を取り入れることが、感謝を自然に表現する文化の復興につながると考えています。 私自身の原点は大学生時代の新聞配達です。毎朝3時30分起床。毎朝配る中で、お客様からの感謝の言葉や笑顔がどれだけ自分を励ましたか?お金を払って、「ありがとう。配達してくれて、ありがとう」と。こうした経験が、今でも私の行動を支える原動力になっています。 感謝が生む連鎖 「ありがとう」と伝えることは、その人の一日を少し明るくし、さらにその感情が次の誰かに伝わる可能性を秘めています。この感謝の連鎖が広がることで、社会全体がより温かくなるのではないでしょうか。 まとめ 忙しい毎日だからこそ、感謝の気持ちを表すことの価値は高まります。たった一言の「ありがとう」が、誰かの心を癒し、新たな絆を生むかもしれません。これは、決して特別なことではありませんが、積み重ねていくことで社会を変える大きな力になります。 「ありがとう」を声に出す習慣を、ぜひみんなで続けていきましょう。それが、人と人の心をつなぎ、未来をより明るいものにする鍵となるのです。これも、地方創生のきっかけになるかと思います。
2024.12.05
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私は、昭和57年4月~昭和62年8月末まで東証一部上場「東京スタイル」さんに、勤務していました。百貨店3部に属していました。地方の百貨店担当でした。仙台の藤崎デパート、山形の大沼デパート名古屋の松坂屋名古屋本店静岡の西武甲府の岡島などなどを担当していました。当時のデパート婦人服担当バイヤーは、エリートコースであり、出世コースとも、言われていました。とにかく、アパレルメーカーの営業マンに対しては、顎(あご)で使う。常識の無い発言が多かったです。毎日が苦痛でした。威張っているのが、仕入れ担当者(バイヤー)でした。殆どのデパートが、委託条件。返品は、着払い返品。ビニール袋に入れずに、平気で、返品する。自分勝手に写真撮りして、セールちらしに載せる。もう酷い状態でした。場貸し屋ですね。そんな状態でしたので、今の段階になって、あ~でもない。こ~でもない。・・・・というのは、当たり前の状態ですね。悪くなるのが、当然ですね。のれんに、胡坐(あぐら)をかいたツケが回ったのだ。・・・・・と思います。私は昭和62年10月に一般社員として、小売業(ロコレディ)に転身しました。小売業は、全くの素人の私。(もちろん、この時は、後継者になるとは、思いませんでした。)私は、今度は、小売業で仕入れする立場でしたが、決して、デパートのような横柄な態度や、安易な仕入れの委託販売は、しませんでした。デパートのやり方を反面教師として、絶対、営業マンが嫌がることは、やらないのが、私の信条でした。そして、支払いが、悪い百貨店は、ゆくゆくなくなると思っていました。特に、支払いが悪いのが、当時西●系と松●屋系のデパートでした。でも、地方のデパートで、綺麗な商売をする仕入れ担当者(バイヤーさん)もいました。それは、ADOグループ(伊勢丹G)でした。常識無い返品や、値引きは、一切無しでした。素晴らしいバイヤーさんもいました。西友西武グループの高野勉バイヤーは、厳しいことも言うが、丁寧な対応でした。この人のおかげで今の私がいます。当時のデパート業界は、勢いがありました。百貨店の花形は、アパレル。特に、レディース部門。(メンズ部門では無かった。)その中でも、婦人服が、花形の中で、一番出世コースでした。(どの部門より、早く部長職に)なぜなら、売上面、粗利益率面でも、百貨店の中では、一番だったからです。外商部門より、力を持っていたのが、アパレル部門でした。詳しくは、「アパレル興亡」企業作家 黒木亮氏の本をお読み頂くと、嬉しいです。その登場人物として、「堀川利幸」が、出てきます。モデルは、4人。4人とも、東京スタイル関係者?そのうちの1人が、私です。(まとめとして)百貨店の衰退は、時代の流れもありますが、創業者の思想が無くなった。(三方良しの気持ちが、消滅した。)お互い様、お互い様の心が無くなったので、衰退したと私は、考えています。デパートで、お子様ランチを食べるのが、月に一度の愉しみでした。(オリエンタル中村や、松坂屋名古屋栄本店で、 お子様ランチを食べた味は、今でも忘れません)デパートには、夢があった。でも、それを無くしたのは、時代の流れもありますが、保身になった横柄な態度のバイヤーや、幹部の責任もあるかと、思います。(百貨店で、バイヤーを3年やると、担当者の家に蔵が建つと言われていました。)奢(おご)れるもの久しからず。・・・だと思います。
2024.11.30
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題名「あなたが、羽富さん? 会いたかったです」 先日、あるご夫婦様(60歳代)と偶然にも、出会いました。「もしかして、羽富さんですよね~。」から始まります。 「実は、私は、平成10年に、つくば市洞峰公園の体育館の受付パート勤務で、 働いていました。 当時、平均月に忘れモノの問い合わせが10件以上は、ありました。 約10年間勤務したので、相当の忘れ物の問い合わせを受付で対応していました。 でも、羽富さんのことだけは、忘れていなかったです。 それは、忘れ物をして、受付にいた私に話しかけてきたんですよ。 何を忘れたか? 記憶はないのですが、調べて見つかってその態度が 素晴らしかったのです。 何度も、何度も、お礼を言って下さって、ニコニコしながら感謝の気持ちを伝えてくださった。あまりの感じの良さで記憶が残っていました」 すると、この私も、記憶を想い出して、「わかった~、ロッカーキィーに車のカギを忘れたことですね~」と。その奥様が、当時のことをすぐにご主人様にお話しをしたそうです。「パパ、今日ね~忘れ物されたお客様がいたのよ。 わざわざ、名刺を差し出して、本当に困った様子で、 私に話しかけてきたのよ。約30分? 40分?して、 見つかるとね~、親切に探して下ってありがとうね。 何度も、何度も、頭を下げたのよ。」晩御飯時に話しをしたそうです。あれから、26年が過ぎても、羽富さんのことを覚えていました。なぜか?NHKニュースや、新聞や、インスタや、この情報紙から、拝見して「街おこしをしながら、商売をしている姿に感動して」ノートに記録していなくて、頭の中で記憶していたのです。 その羽富さんが、目の前に私たち夫婦の前に、偶然にももう、涙が出てきます。ハンカチで目をあてながら、握手を求めてきました。私も、涙が出そうになってきました。「また、愛(あい)ましょう~ね」と言って、お別れしました。一期一会の心ですね。
2024.11.22
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#伎芸型おもてなし商売道#羽富流オーダー・メイド型雇用人事制度#ロコレディ
2024.11.21
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人にフォーカスすることを日々実践していきます。
2024.11.17
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65歳になって、気づきもより沢山になってきました。私は、数多くの失敗を繰り返して、来ました。その都度、どうしてこんなことになったのか?寝る前に、反省をします。平成19年の秋に、当時の茨城県知事から、表彰状を頂いたことがあります。全く、予期もしないことでした。オーダー・メイド型雇用人事制度(商法登録申請中)の件で、直接県知事から、表彰時に、声を掛けられました。びっくりしました。悩んで、悩んで、どうしたら良いか?創業者とも、この人事制度では、意見の違いもありました。何度も、何度も、創業者に説明をしました。「わかった。おまえが、そこまで言うなら、やってみろ」と言われました。勤続年数が少しづつ伸びてきました。勤続年数給と年齢給制度も設けました。そして、今年の秋に、後継者を含めて、再度微調整しました。変更するところと、継続するところの微調整です。引き続きよろしくお願いいたします。
2024.11.11
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今、衆議院選挙の期間中ですね。私は、期日前投票に市役所まで、出向きました。選挙の時だけ、お願いされても良い気持ちはしませんね。常日頃からの活動が必要ですね。国政選挙ですので、商人としては経済活動や街の活性化について重点的に行なって欲しいですね。県会議員とか、市会議員とは違い国の安全や、国家として教育問題についても、興味をもっています。商いと同じですね。ありがとうをお互いに言える関係づくりだと思います。
2024.10.18
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10月の3連休は、つくば市沼田のわんわんランドさんにて、クレープとコロッケのキッチンカーで出向きました。物凄いご来場のお客様でした。館長さんの話しを伺くとこの3日間は、天候も良く過去最高の人出だったと。3日間の間にも、ドラマのような出来事が、またまたありました。1つ目は、推定40歳前後のママさんとお嬢様(小学2年生)です。母子家庭だと言われました。「ママ~、おじさんと記念写真を撮りたいのよ~。」と言われました。「ママも、一緒にね~。」と。私みたいな年配のおじさんと3人では、誤解を受けるかもしれないので、丁重にお断りすると、ママさんが、察知したようで「では、OOちゃん、おじさん2人で写真ね~」とパシャッ~と。離婚して、子どもに寂しい思いをさせたくないようで、車でココに来たそうです。「おじさんのような陽気な男性と知り合って愉しかったです。」と言われました。お嬢様が言います。「おじさん、いつまでも元気でいてね。」と笑顔で答えてくれました。(またまた、涙)また、2つ目はある70歳代のご夫婦様とその家族で6人でご来場された方より、「あなたの呼び込みで、3回も来ちゃったよ。コロッケを2回、3回目はクレープを孫たちが欲しい。」と言うから。「素晴らしい~、トークだね」と言われて、家族全員と私も加わって記念社員をパシャッ~と。そして、3回目は、40歳代半ばの男性と息子さんの2人で。「昨年、妻と離婚した。仕事疲れもあるが、アパートでは、犬が飼えないので、半年に1回ぐらい ココに来ています。」と。 そして、「息子が亡くなったじぃちゃんの性格に似ているあなたを観て、写真を撮りたがっています。一緒に写真に入ってください。」と言われて、パシャッ~と。そして3つ目は若い女性2人(推定30歳代前半)が、「おじさん~、チーズコロッケをこぼして、ワンピースを汚してしまったので、ティッシュをください」と。ネコ舌の方は、熱々のコロッケですから、気を付けて下さいませ。・・・と言ったにも、関わらずこぼしてしまった。「私の本業は、アパレル小売業です。だから、済抜きのお手伝いさせてくださいね。」と言うと、「えっ~、アパレルのお仕事が本業」と大笑いされました。そしてこの2人からも、またまた写真をぜひぜひと懇願されました。「お客様から、ありがとう」と言われる商いを今後とも、継続していきます。#ロコレディ扇屋グループ#キッチンカーでの出来事#伎芸型おもてなし商い道
2024.10.16
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つくばわんわんランドさんにてキッチンカーでお世話になっています。クレープとコロッケでお世話になっています。ご存じの方も、多いかと思いますが、わんわんランドさんのオーナーさんが、宝来館、つくば山水亭、日本語学校などを経営されています。先代からのお付き合いです。もう60年になるでしょうか?私は、婿養子の2代目です。従業員の立場で入社しました。東郷社長の親時代からのお付き合い。東郷まさ会長さんが存命時にこの私に言いました。「羽富さん、あなたのお父様、お母さまとは、終戦後から商売の道で、一緒だった。 戦友みたいですね。商いという道での友人であります。」と言われたことがあります。そのことは、故 羽富 正三からも、聞いていました。「羽富さん、わんわんランドで、お店出さないか? 力を貸して下さい。」と言われたことがあります。キッチンカーでのテストマーケットでは、わんわんランドさんで、練習をさせて頂きました。数多くの失敗体験を積んで時には、怒られて注意を何度も、何度も、受けました。懐かしい想い出です。感謝しても、感謝しきれない。だから、入場者数のアンケートも私から、提案させて頂きました。もう、何回も、何回も、アンケートでお客様からのご要望などをお聴きして、館長さんや、営業本部長にも、報告していています。まとめお世話になっている。それを独自のアイデアで恩返しをする。感謝して、おたがい様、おたがい様の心を大切にしたいですね。
2024.10.13
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中学1年生時の記憶です。 お昼ごはんの時間が、一番大好きな時間でした。 男3人兄弟で、母親は、毎日一升ごはんを焚いていました。 もう、育ち盛りでしたので、毎日の食事は、愉しみでした。 クラスメイトの「なほこちゃんのお弁当が気になっていました。」 隣に座った「なほこちゃんのお弁当」の思い出です。 「なほこちゃんのお弁当はいつも、美味しそうでした。彩り野菜がいっぱい。」 いつも、隣りにいるお弁当が気になっていました。 「トシ坊、私のお弁当食べる?」「うん、うん、食べるよ~。」「今日は、ママにお弁当を2つ作ってもらったの。トシ坊が、ママが作るお弁当をほめてくれるので ママ、トシ坊の分もお願いね~」と言ったら、「喜んで~」と。約2週間ぐらいその光景が続きました。 なぜ、2週間で終わったのか? それは、父兄会の席で、母親が偶然にも、「なほこちゃんのママの隣に座ったのです。」すると、ママさんが「トシちゃんが、なほこのお弁当を観て、綺麗だね~。美味しそうだね~。・・・と褒めてくれるので、毎日、2個お弁当を持って行くんですよ~」と。 母親が自宅に戻ってくると、「としあき。座りなさい。」と言われて「他人様の大事なお弁当を食べるとは、何事だ。何を考えているのだ。」 と怒られました。 それ以来、お弁当は、母親だけのお弁当になりました。 他の母親が作るお弁当がなぜ美味しく感じるのか? それは、謎でした。 今振り返ると、「愛情たっぷりのお弁当に感じていたと思います。」 「亡くなった母親のお弁当をまた食べたくなってきました。」 「秋野菜 妻の手料理で 孫に食べさせたい。 作としあき」
2024.10.07
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長い間、私のことを近所の子ども達にも、「宇宙人~」とか、「妖怪」とか、言われていましたが、「ぎげいにん」を名乗ることにしました。ある意味では、「やぶき物」「ごじゃっぺ物」とも言われています。伎芸の「伎」は、にんべんの「伎」を使います、テクニックの「技」ではありません。AIを使って調べました。伎芸人(ぎげいにん)とは、人を笑わせる芸人やコメディアンは、まさに技芸人の一種といえます。伎芸人とは笑いを提供するための技術や芸を持っており、そのスキルを日々磨き上げています。彼らのパフォーマンスは観客を楽しませ、時には社会や文化について考えさせる力を持っています。 #ロコレディ伎芸人#常総ごじぇっぺ短期大学校#伎芸型おもてなし商売道
2024.10.05
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「亀の甲より年の功の時代???」 先代羽富正三(義父)と車に乗って市場をリサーチした時の話です。もう20年以上前になりましょうか?「いいか、最低20回は、攻める市場(出店場所)に出かけよ。よく観察せよ」と教えてくれました。ある日、昼時にあるレストランで食事をしました。注文したのはエビチリ炒飯です。程なく、注文したエビチリ炒飯が出てきました。それを見た正三会長が、ウェイトレスさんに向かってこのように言いました。「この炒飯、エビが少ないですね。サンプルには、4匹エビが乗っているよ」と。丁重に言います。それを聞いたウェイトレスさんが「これはサンプルですから」するとさらに正三会長は「ダメだよ。それでは『ウソ』になってしまうよ。ならば『これはサンプルです』と記載するべきだよ」と、とても優しい言い方で対応されました。この言い方が、またすごい。感情的ではなく、人を諭すようなゆっくりとした口調でその女性に言いました。その後、エビが4匹入りのエビチリ炒飯が出てきました。会長が大きな目で、キラリと光る眼差しで言いました。「いいか、としあき。自分が考えていることと違った局面になった場合、普通は怒ったような顔になるが、逆なんだよ。優しい顔で、言うのだよ。物静かな言い方をするんだ。自分が勘違いということもあるからな。そのように対応しながら、自分を鍛えるのだヨ」と子供を諭すような言い方をしました。「静かな言い方で話せば話すほど相手に効く。興奮したり、感情で話せば自分の負け。なぜ84歳の年寄りがわかるのか?それはな~、自分でもそうやって失敗したからだよ」血のつながりのない親子関係であっても、愛情を注ぎながら、心の経営を教えてくれる。亡くなった会長である羽富 正三(義父)には感謝の気持ちで一杯です。
2024.09.29
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過去に描いたエッセイを再度、再度、書き直しました。駄菓子屋さんには、夢があった。昭和40年代の前半の出来事。 申し訳ない気持ちが、今蘇ります。想い出しながら、書きたいと思います。 私は、男三人兄弟の次男坊です。 私が、小学生時代の話しです。 兄とは、1つ違い。 弟とは、4つ違います。確か、小学二年生ごろだったか? 3年生だったか? 想い出せませんが、そんな頃 だったと記憶しています。近くに、近くに、 駄菓子屋さんがありました。「榊原-さかきばら」さんというおばちゃんが、 お店を経営していました。お好み焼きと、駄菓子屋さんの2つを経営していました。 坪数は、3坪ぐらいでしょうか? 6坪ぐらいでしょうか? 子どもの頃の記憶ですので、 もう記憶にないぐらいです。いつも、いつも、クジを引いたり、 アイスクリームも買って、 兄と、弟と週に1,2回出かけていました。 歩いて、歩いて、 子どもの足ですから、3分ぐらいかかるでしょうか?いや、5分かかるでしょうか? 歩いて、あるいて、通っていました。いつも、いつも、 「ホームランバー」というアイスを買っていました。 確か~、10円だったと記憶しています。 棒に、「ヒット」とか、「ホームラン」と刻印されていたかと 思います。何回、買っても、何回かっても、 「はずれ」 という刻印が、してあります。、セミが、ミン~、ミン~と大合唱しているお昼過ぎの2時ごろだったと思います。そんな暑い日に。子どもの浅知恵でしょうか? そうか、 自分で、「ホームラン」と描けば、当たりになる。・・・・・・・と考えたのです。 ズボンに、ペンを隠して、 ペンで。そして、持っていたペンを取り出して、 草むらに隠れて、「ホームラン」と描いたのです。そして、お店のおばちゃんに 「おばちゃん、当たったよ~」と叫んで「としちゃん、おめでとう~」と言ってくれました。「ハイ、どうぞ」とニッコリ笑ってくれました。 慌てて、慌てて、お店を飛び出して、 アイスを食べました。美味しかった。 美味しかった。 ほんとうに、美味しかった。1日に2個アイス 食べることは、母親からは、怒られるので、 その棒は、草むらに捨てました。すると、どうしたことでしょうか?????? 腹が、急に痛くなったのです。 そうです。腹が冷えて、おなかを壊してしまったのです。 昭和の時代です。 昭和40年代前半の話しです。 悪いことをした。 申し訳なかった。 そんなことを反省しながらも、10年の月日が、過ぎていきました。 心の優しいおばちゃん(当時60歳ぐらい)でした。今でも、涙が出てきます。 こうやって、書きながらも、涙が出てきます。 私が、成人した後にそのおばちゃんが、亡くなったことを 母親から、聞かされた。、「としあき~、駄菓子屋のおばちゃんが亡くなった」と。帰省した時に、すぐに榊原の駄菓子屋さんに出向きました。仏壇に向かって、「おばちゃん、ゴメンネ。おばちゃんゴメンネ。」と 謝りながら、手を合わせました。すると、 家族の方から、 「あのね、うちのばーちゃんは、としちゃんのことが、好きだったようですよ。 としちゃんが、将来、喫茶店を経営するから おばちゃん、その時は、ご馳走するね。 それまで、長生きしてね。 そんな優しいことを言うとしちゃんが、好きだよ。」と 教えてくれました。 もう、涙でした。 そして、 「あの子は、将来、社長になるよ。きっと将来社長になるよ。」とも 言っていました。とお聴きして、号泣しました。お店は、亡くなった49日後に閉店したそうです。そして、13回忌ときには、「おばちゃん、社長になったよ」と仏壇に報告しました。合掌。#駄菓子屋#ロコレディ#羽富 都史彰#私の想い出#伎芸型おもてなし商売道もう、ごめんなさい。 文章が、書けません。 街のこどもが、はやく大人になりたい。 ・・・・・・という社会にしたいです。そんな想いがあるからこそ、「将来は、子ども達が早く大人なりたい環境をととのえたい」と考えて、地域の子ども達と意識的に接するようになりました。子供お神輿の手伝いや、ボランティア活動をもう15年以上行っています。今は、小さな会社を経営する身となりました。商売は、笑倍(しょうばい)として小さくても、キラリと光るお店を目指しています。
2024.09.28
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10回、無事に懐かシネマ終了をしました。皆さん、おかげで無事に終了しました。最終回は、涙、涙、涙でした。心から、感謝申し上げます。2024年9月吉日#懐かシネマ実行委員会#常総市野外上映会
2024.09.26
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おはようございます♪ 今回集英社文庫本アパレル興亡が5月に発売されました。 2016年5月17日 経済小説作家 黒木 亮氏から・・・。突然メールを差し上げますご無礼をお許し下さい。私は主に経済小説を書いている黒木亮と申します。主な作品に「巨大投資銀行」「ザ・原発所長」 「排出権商人」「トリプルA」「鉄のあけぼの」「法服の王国」「冬の喝采」等がございます。取材の過程で東京スタイルの磯貝常務のお名前を聞き、インターネットで探していましたら、羽富社長のブログに行き当たりました。取材のご検討宜しくお願いします。黒木亮 そしてアパレル興亡の本が出来上がった。 (内容紹介)徹底取材で業界の最前線を作品化してきた経済小説の旗手が、大手婦人服メーカーを舞台に、戦後のサクセス・ストーリーとバブル後の衰退を描く。会社とは何かを社会に問うた村上ファンドとの攻防、社長の死後継指名、競合他社との経営統合まで、アパレル業界、百貨店から映し出される戦後日本経済の栄枯盛衰の物語。2020年2月20日発売。 価格 2.090円(税込)出版社 岩波書店 単行本 496ページ発売された。ベストセラーになった。 オリエントレディ堀川ほりかわ 利幸 としゆきという名前で 私が登場します。(東京スタイルの社名も個人名も変えています。)フィックションではありますが、事実に基づきアレンジして書かれています。昭和57年4月~62年8月迄 勤務しておりました 当時の役員に百貨店の売り場にて、「バカ野郎~」ビンタで叩かれました。軍隊のような会社でした。平気で殴る。 テレビ番組「兵隊やくざ」とか、「どてらい男」のシーンのように ビンタで、叩かれます。 「何で、目標達成出来ないのか?」と朝礼では、詰問されます。 月曜日の朝礼は、お昼過ぎまで、 続くことも、しばしばありました。 上下関係は、すべて入社順(高卒、大卒関係なく)で、OOさん付けとなります。 自分自身が、経験したことが、本で、紹介される。 不思議な気分です。 そして今回集英社文庫本から21日に出版される。内容も改訂されています。上下巻の2冊になります。
2024.09.20
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第10回懐かシネマ上映会無事に終わりました。ボランティアスタッフさんたちに,この10年間お世話になりました。本当にお世話になりました。有難うございます。こんな寂れた街に街おこしは無駄だと言われました。オレは水海道生まれの75才になるが、おまえらは補助金目当てだろう!ーと第7回懐かシネマの開催される1時間前に言われた。しゃべるだけ、しゃべって,立ち去った。悔しかった。残念だと思った。近くにいた協賛してくださった年配者さんから羽富さんよく耐えたねー。素晴らしいオレも悔しいけど、やろうよ。映画上映会やろう!ーと励ましてくださった。若い世代の時代だ!私は全面に出ないようにします。花火大会のボランティア活動は来年で引き下がります。政治の世界と街おこしは似ています。潮時をそろそろ迎えます。キャンディーズさん山口百恵さんのようにバランス良くバランス良く。若い世代のフォロー役として。第10回懐かシネマ上映会の報告書をまとめて,商工会市役所に提出していきます。引き続きよろしくお願い致します。懐かシネマ実行委員会会長東郷治久絵師井桁豊担当羽富 都史彰
2024.09.17
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第10回懐かシネマ上映会は今日9月7日千秋楽を迎えます。
2024.09.07
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私は、昭和57年にアパレル業界に入った。その時は、イトーヨーカ堂さんや、ユニーさん、ジャスコさん、三愛、三峰、鈴丹、テイメン、タカキューなどなどが、大人気でした。デパートは、伊勢丹、三越、西武、そごう、高島屋さんなどなど。時代の流れでしょうか?やはり、在庫を持つことが、怖いです。在庫を持たない。すなわち、アパレルメーカーに委託販売をお願いする。デパートが、不動産屋さんになって、場所貸しのお店になってします。お客様が徐々に減って来る。それが、怖い。
2024.08.29
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オリジナルです。ロコレディオリジナルのビジネスモデルです。ありがとうございます。
2024.08.19
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「はとみさんは、なぜ、一部上場の会社を辞めて、中小零細の小売店に転職したのですか?」...という質問を先日、受けました。自己資本比率75%の会社でした。超優良企業の東京スタイルさんに勤めていました。(現在は、TSIホーリディングスになりました。)大学生時代から、まったく、まったくアパレル業界には、興味は、ありませんでした。洋服のことを友人たちと話したことは、まったくありませんでした。就職課で、勧められるままに企業訪問をしました。東京スタイルさんに、入社してまる3年ごろから、転職を意識しました。転職に関して、2年以上悩みました。(昭和60年~62年春ごろ)当時、故羽富 正三(しょうぞう)との面接は、20回以上だったと記憶しております。では、どうして、「転職」・・・そう思ったのか?それは、私が、仙台の藤崎百貨店を担当していた時です。(昭和59年ごろです)親子連れ、今度、短大を卒業する一人の女性とお母さんが、東京スタイルの売り場(仙台の藤崎百貨店の2階)に来て、会社面接のセット・アップ(スーツ)を探していました。私が、まだ髪の毛がふさふさ時代ですから、感じがよく感じたのでしょう。お買い上げ頂くことになりました。その時に、そのお母さんが、衝撃的なことを私に言ったのです。「東京と仙台のキャベツの値段が、違うのに、どうして、同じメーカー、同じ品番の商品の洋服が、全国共通の同じ値段なの?」と聞かれました。わたしは、「えっ~、」と思わず、言ってしまい、答えることが出来ませんでした。出張が終わり、課長にその時のことを報告すると、「おまえは、バカか?何故、洋服と食べ物を一緒に考えるのだ。一緒にするのではない。」と言われました。私は、どうしても、納得できませんでした。コピー機も、電話料金も、保険料も、何故日本全国、同じ価格で、販売になるのでしょうか?物価は、仙台と、東京・・・全然違います。ガソリンの値段、ネギの値段、その地域によって、違うのに、どうして、洋服の値段は、同じなのだろうか?もう、卸しの仕事に、矛盾を感じてきました。辞めよう、もう辞めよう、大企業の営業マンは、歯車のほんの1つのパーツだ。私でなくても、他の人でも、良いのだ。紙切れ1枚で、人事異動。いろいろな人に相談しました。先に東京スタイルを辞めた同期の営業マンにも、相談しました。反対も、多かったのも事実です。親戚は、ほぼ、全員反対。「茨城みたいな田舎に行って、小売業?メーカーにいなさい。死んだオヤジさんも、嘆くぞ。せっかく、一部上場会社に、入って、なぜ、茨城だ?名古屋へ帰って来い。」と言われました。当時の故羽富 正三との面接で、「なぜ、メーカーを辞めたいと思う?」と聴かれ、いろいろなことも、言いましたが、今でも、覚えているのが、「仙台に出張に行った時、なぜ、キャベツの値段が、日本全国値段が違うのに、同じメーカー、同じ品番の洋服の値段が、全国同じ値段か?このことについて、お客様に聴かれ答えられなかった自分が、情けないと思いましたが、羽富 正三さんは、どう思われますか?」と聴いたのです。それは、昭和60年の秋か?昭和61年の春だったと記憶していますが、何せ、28年以上前の話しです。時期は、定かでは、ありません。でも、今でも、その光景は、覚えています。「そうですか~、凄い体験をされたのですね。あなたのような真剣に考える人が、是非わが社で欲しい。実は、わが社は、将来、あなたが悩んでいることを解決したい店の品揃えを強化していきたい。私も、あなたと同じ考えです。洋服の値段が、何故、全国共通の値段が不思議だ。メーカーで決めた価格ではなく、本当に、本当に、本当に同業他社とは、価値が違う満足価格を推進する店作りを将来考えている。オリジナル商品の開発も、考えている。でも、わが社には、まだそのノウハウが無い。是非、力を貸して欲しい。」と言われたのを覚えています。私は、悩みました。悩みました。悩みました。この社長故正三が、将来の私に義父になるとは、夢にも、思いませんでした。今、転職を考えている人たちに言いたいです。今勤めている会社の悪口を言うような人は、転職しても、成功の確率は、低いと思います。でも、長く同じ会社にいれば、良いという意味ではありません。もう、会社に、ぶら下がる考えや、現状維持や、休まず、遅れず、・・・このような考えは、通用はしないと思います。もし、自分(あなた)が、社長としたら、今の自分(あなた)を採用しますか?自分で、採点してみろ。・・と東京スタイルの磯貝常務取締役(当時)によく、言われました。いつまでも、会社にぶら下がるな。定年まで、いようと思うな。自分をもっと、高く売れ。故高野義雄社長にも、新入社員時代に、よく言われた言葉です。また、東京スタイルの入社式に、「いいですか?みなさんは、一部上場の会社に入社された。でも、最初は、この会社も、小さかった。この会社を、無借金経営の会社にした。・・・と故高野 義雄社長様から聞きました。私は、先代の社長の住本さんとは、姻戚関係ではない。お前達も、社長を狙(ねら)え。」とも言われました。当時、まだ一人も、東京スタイルには、定年退職者は、いませんでした。それぐらい、厳しい会社でした。給料日を忘れるくらい働きました。私だけではありません。ほとんどの同期の営業マンが、給料日の明細をもらって「あっ~、今日 給料日だ。」と言って、みんなで、笑ったものでした。営業マン(大学卒)が、72名入社。1年間に、同期の新入社員が、3分の1辞めました。3年間で、半分以上辞めました。そして、お世話になって、5年半。東京スタイルを退職しました。昭和62年8月末に、有給休暇(40日)と振休残も、要らない。・・・・と思って、円満退職しました。10月2日に亡父親の法事を終えて、10月3日に、軽自動車に乗って、名古屋を朝4時ごろに出て、茨城県の水海道に、引越ししてきました。ロコレディという会社に入門することになり、商売の基本を故羽富 正三から教わることになったのです。小売業の世界に飛び込んだのです。もちろん、毎日が、失敗の連続。悩みました。苦しみました。でも、自分で決断したので、後悔は、しませんでした。でも、3回も退職届(ロコレディ)を書いて、涙を流しながら、当時の社長故羽富 正三の前で、破りました。もちろん、独身時代の出来事です。悩みました。親戚も知人もいない。仕事が、うまくいかない。独身の私です。昔付き合っていた彼女からも、電話がありました。でも、「また、会いたい。」と言われましたが、丁重に、丁重に、断りました。なぜか?今の自分自身に、自信が、持てなかったからです。でも、創業者故羽富 正三は、いつも、いつも、親切に丁寧に応対してくれました。決死、甘い言葉は、ありません。親切でしたが、商売には、厳しい人でした。この私が、後継者になるとは、夢にも思っていませんでした。姻戚関係でもないのに、本当に、本当に、本当に、わたしのことを氣にかけてくれました。そして、ある日「商売が、好きか?」と聞かれて、「好きです。」と答えたら、「後継者として、やってくれないか?」と言われました。
2024.08.14
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私は、仕事で悩んだんだら、上司に聴くのではなく、女性に聴くべきだと確信しています。上司の男性より、部下であっても、母親であっても、女性に聴くべきだと考えています。まず、人間関係に悩んだら、宇宙人(かぶき者)に。近くに、宇宙人(かぶき者)がいなければ、女性です、女性に聴くのです。年代を変えたり、異業種の女性に何度も質問します。数年前に。あるショッピング・センターに出店している化粧品屋さんのオーナーの奥さんに声をかけました。もちろん、ビュティーレディー(化粧品アドバイザー)さんにも声をかけます。わたしが言います。「すいません、教えて頂きたいのですが、今、ディスカウトショップが、この同じショッピング・センターにもありますが、同じ化粧品が、値段が違って、クレームになりませんか?」と聴いたら、その奥さんが、ニッコリ笑いながら、「はとみさん、それは、よくありますよ。あちらは、20%引き。こちらは、定価のまま。どうぞ、あちらで、お買い上げください。・・・とお客様に言います。こちらは、専門のアドバイザーの女性もいますし、アフターフォローは、オーナーである私が、責任をもって行いますからね。・・・と言います。」と教えてくれました。その女性オーナーは、さらに「無理に値段をライバル店に合わせようとするから、問題がおきる。私は、従業員にも、自分の扱っている商品に自信をもて。同じ商品でも、こちらの方が、売れるハズだ。値段ではない、モノを売ろうとするから、値段の競争になる。お客様の立場で、お客様の言葉でしゃべる。そろそろ、基礎化粧品がなくなる時に、お手紙を書いたり、お電話をする。しかもね~、これだけは、はとみさんでも言いたくないけど、言っちゃうね。いいですか、はとみさん。お客さまひとり、ひとりにあった接待をするし、アプローチをします。どうやって、みつけたか?はとみさん、いつも嫌な質問しますね~。でも、答えちゃうね~。できるだけ、お客さまの肌にさわるのですよ。スキンシップして、そのお客様の生活様式を知るのですよ。後は、カンですよ。このカンが良く働くのですよ。」とツバを飛ばしながら、教えてくれました。「肌に触る」この行為が、人間関係を良くする行為とは、・・・参考になります。「肌に触って、カンを磨く」これこれ、コレなんですよ。男性である私は、出来るだけ、出会った人とは、握手します。死んだオヤジも、よく握手していました。少し、目が熱くなってきました。オヤジが、やっていたさりげないしぐさが、今、この私が、知ろうとは、・・・・・・。すいません、涙が出てきました。人との出会いは、まず握手から始まる。・・・そんな言葉を死んだオヤジから、よく聴きました。お礼を言って、その奥さんとの快輪(かいわ)は、終わりました。どうですか?それとね~、異業種のある社長様が教えてくれました。「同業者とは、ボクは、あまりしゃべらないね~。グチが出やすい。お陰様で、経常利益で、12%以上利益がでています。」と50歳代半ばの男性が教えてくれます。「どうして、そんなに利益が出るのですか???」と質問をします。すると、「はとみさん~、ボクは、コインランドリーと、洗車場を経営している。 掃除は、もちろん綺麗にする。それとね~、本当は教えたくないんだよ~。でも、はとみさんだから教えてあげるね~。ノートを1冊用意して、そのノートを情報誌代わりになっているんです。犬の欲しい方いませんか???とか、ピアノを教えます。とか、リフォームしますよ。とか、このコインランドリーを使う人たちの共通の話題を作っています。」と教えてくれました。 コミニティーを作っているんです。この男性は、ご来店された方に、家庭で作っている野菜をプレゼントしたり、子育てに悩んでいる若い女性に、子育てのアドバイスをしたり、交通事故で、悩んでいる人には、弁護士を紹介したり、会社経営で悩んでいる人には、税理士を紹介したり、コインランドリーと、洗車場が、コミニテイーの場となっているのです。早速、現場へ見に行きます。すると、空手道場のポスターが貼ってありました。胴衣を洗いに来る人たちが、2,3人のお母さんたちが、遠征の打ち合せをしていました。「はとみさん~、女性の意見に耳を傾ける。その意見の場を男性であるオレたちが作るべきだよ。」と教えてくれます。すると、ある女性が、この経営者の男性に声をかけます。「冷蔵庫が壊れてしまった~。すぐ修理にくる電気屋さんを紹介して~???」と耳にすると、その男性が、携帯電話で、連絡をとって、「2,3時間後に、お宅へ訪問するって、言われました。」と頭を下げながら、お礼を言っていました。もちろん、その男性は、手数料をとりません。どうやら、コミニテイーの基礎は、男性が作り、運用は、女性。・・・・・これが、良いみたいですね。
2024.08.03
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心の迷いを吹っ切るために参禅にいった飛雄馬。しかし、そこでも何度も打ち据えられ、恥をかかされる。その時、どうにでもしろと開き直ったのだ。「ほほう! どうしたかげんかのお若い人。全然、打たれんようになんなすった・・・いい姿勢になられた・・・怪我の功名らしいがの」「ひどく短気と見え、禅坊主の言葉に腹を立て、打つなら打てと五体の力を抜いたとき、いい姿勢ができとった・・・」 「打たれまい、打たれまいと凝り固まった姿勢ほどもろいものはない。打たれて結構、いやもう一歩進んで打ってもらおう。この心境を得たとき難しく禅などといわんでも、悩み苦しむ人生の森の迷路に自ずと道も開けると思うのじゃが、いかがかのう」私は、この漫画から、気づきを頂く。星 飛雄馬は、体重が軽い。よって、球が、軽いという欠点を持っていた。「球質が軽い。ならば、それを活かすには、????????」商いにも、通じる部分があります。
2024.07.27
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夢を観ました。子どもの頃の夢です。駄菓子屋さんには、夢があった。 申し訳ない気持ちが、今蘇ります。・・・・・・・・・・・・・・ 以前にも、書きましたが 再度、落ち着いて、落ち着いて、 想い出しながら、書きたいと思います。 私の生まれは、名古屋市内です。 私は、男三人兄弟の次男坊です。 私が、小学生時代の話しです。 兄とは、1つ違い。 弟とは、4つ違います。 確か、小学二年生ごろだったか? 三年生だったか? 想い出せませんが、そんな頃 だったと記憶しています。 近くに、近くに、 駄菓子屋さんがありました。「榊原-さかきばら」さんというおばちゃんが、 お店を経営していました。 お好み焼きと、駄菓子屋さんの2つを経営していました。 坪数は、6坪ぐらいでしょうか? 3坪ぐらいでしょうか? 子どもの頃の記憶ですので、 もう記憶にないぐらいです。 いつも、いつも、クジを引いたり、 アイスクリームも買って、 兄と、弟と良く出かけていました。 歩いて、歩いて、 子どもの足ですから、3分ぐらいかかるでしょうか? いや、5分かかるでしょうか? 歩いて、あるいて、通っていました。いつも、いつも、 「ホームランバー」というアイスを買っていました。 確か~、10円だったと記憶しています。 棒に、「ヒット」とか、「ホームラン」と刻印されていたかと 思います。 何回、買っても、何回かっても、 「はずれ」 という刻印が、してあります。 ある暑い日、 子どもの浅知恵でしょうか? そうか、 自分で、「ホームラン」と描けば、当たりになる。 ・・・・・・・と考えたのです。 ズボンに、ペンを隠して、 ペンで。そして、持っていたペンを取り出して、 草むらに隠れて、「ホームラン」と描いたのです。 そして、お店のおばちゃんに 「おばちゃん、当たったよ~」と叫んで 「としちゃん、おめでとう~」と言ってくれました。 「ハイ、どうぞ」とニッコリ笑ってくれました。 慌てて、慌てて、お店を飛び出して、 アイスを食べました。 美味しかった。 美味しかった。 1日に2個アイス 食べることは、母親からは、怒られるので、 その棒は、草むらに捨てました。 すると、どうでしたことでしょうか?????? 腹が、急に痛くなったのです。 そうです。 腹が冷えて、おなかを壊してしまったのです。 昭和の時代です。 昭和40年代前半の話しです。 悪いことをした。 申し訳なかった。 そんなことを反省しながらも、 月日が、過ぎていきました。 心の優しいおばちゃんでした。 今でも、涙が出てきます。 こうやって、書きながらも、涙が出てきます。 そのおばちゃんが、亡くなったことを 母親から、聞かされた。 私が、成人した後に、亡くなった。 仏壇に、「おばちゃん、ゴメンネ。おばちゃんゴメンネ。」と 謝りながら、手を合わせました。 すると、 家族の方から、 「あのね、うちのばーちゃんは、としちゃんのことが、好きだったようですよ。 としちゃんが、将来、喫茶店を経営するから おばちゃん、その時は、ご馳走するね。 長生きしてね。 そんな優しいことを言うとしちゃんが、好きだよ。」と 教えてくれました。 もう、涙でした。 そして、 「あの子は、将来、社長になるよ。きっと将来社長になるよ。」とも 言っていました。 もう、ごめんなさい。 文章が、書けません。 街のこどもが、はやく大人になりたい。 ・・・・・・という社会にしたいです。
2024.07.26
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昭和57年から昭和62年まで、アパレルメーカーにいました。百貨店業界のことも、当時からおかしな、おかしな、理不尽なことだらけでした。アパレル興亡(作家 黒木亮氏)にも、書かれています。外商値引きをどうして、メーカー負担なのか?セールのチラシを勝手に、写真撮りする。チラシ協賛金を勝手に請求する。もう、これだけではありません。数々の理不尽なことが、ありました。「メーカーをバカにする大手百貨店」こんなの商売ではない。そして、小売業に転職して理不尽なことを止めて、直接お客様のニーズにこたえる商いをしたいと考えるようになりました。羽富 正三との出会いが私の人生を変えました。「茨城県に来ないか? 君を採用したい。」と何度も、何度も、言われました。約1年半悩んだ結果、お世話になることを決意しました。商いの基本を徹底的に教わりました。厳しい創業者故羽富 正三でした。1つ1つ、教ええくれました。まず、褒められることは、なかった。まだまだ、商売人ではない。ある日、土浦市大和町にあるウララ(イトーヨカード)の施設内のトイレで、「オシッコから、血が出てきました。」と電話で報告すると「そうか、としあき。 これで、オマエも商売人になったなぁ~。 すぐ、病院へ行け」と言われました。約2週間 入院しました。過労で、点滴を3日間打つ状態でした。復帰すると、すぐに、関西方面に出張に行くことになりました。百貨店とアパレル業界が疲弊しているのは、共通項があります。それは、それは、「業界の意味不明な常識ばかり」華やかな業界の裏側は、ドロドロ状態が、日常茶飯事でした。今は、だいぶ改善されたかと思います。支払いは、悪い百貨店が多かった。松坂屋、西武、そごうは、特に支払いが悪かった。バイヤーの高飛車の態度。でも、東北関係の百貨店や、量販系のチェーン店舗のバイヤーさんは、人として接してくれました。特に、西友グル^プ、先代藤崎百貨店、山形の大沼百貨店、平塚の梅屋十字屋グループさんなどなど。感謝の気持ちで一杯です。懐かしい想い出ばかりです。
2024.07.16
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アパレル興亡の作家 黒木亮氏が 「誠実さが無ければ、会社は、生き残れない。」・・・と語っております。 約60人に取材。 其のうちの1人が、この私です。羽富 都史彰です。 本の中では、 堀川利幸という名前で、登場しております。 この人物には、4,5人のエピソードを一人の人物にまとめている。・・・と解説しております。私の体験や情報が投影されています。 村上ファンド事件では、「東京スタイル株事件」として、マスコミに数多く取り上げられた。この時は、もうロコレディに入社していた。いたたまれない気持ちで、 東京スタイル東京・四谷の本社にFAXを 高野義雄社長に送った。 もちろん、返事なんか期待は、していない。なぜか、なぜか、手紙を書こうと思った。 自然に手が動いた。もちろん、創業者羽富 正三にも、報告した。「そうか、としあき。感謝の気持ちを持つことは、素晴らしいことだよ。」と言われた。 東京スタイルで、数々の学びを得た。 感謝の気持ちでいっぱいです。 営業マンとして、色々な体験をしました。 色々な気づきを頂きました。東京スタイルの社風は、軍隊のような 上下関係が、厳しい社風でした。ドンドン、人は退職していく。退職を見込んで、採用人数を拡大していたようです。私が、入社した時は、酒井取締役人事部長さんでした。それは、それでよかったが、 やはり、やはり、やさしさも大切かと思いました。 嘘をついて、「名古屋に帰って、名古屋の会社に勤める。」と言って 退職した。ロコレディに入社して、 12月30日に、当時の上司木村係長から、 電話をもらった。 涙を流し、涙を流し、 「ウソをついて申し訳ない。」と謝りました。 「もう、終わったことだ。何とも、思っていないよ。 飯でも、一緒に食べよう。」と言われて涙があふれて、あふれて・・・・・。 そして、東京スタイルがTSIホールディングスになった。 そして、東京スタイルは、休眠会社になった。自己資本比率75%。経常利益率10%以上あったが、サンエーインターナショナルに全て持って行かれてしまった。 まとめ 心の経営の時代が、到来です。#東京スタイル#ロコレディ#磯貝勝#羽富 都史彰
2024.06.18
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やはり、年配者は、色々な経験をしています。その経験が、マイナスだと思いません。経験から、身に付けた気づきや、技法も沢山あります。創業者からの教えを参考に描きますね。「創業者の話しは、よく聴け?????」 会長故正三(しょうぞう)と車に、乗って市場をリサーチした時の話しです。もう、15年以上?20年になりますかね~。 「いいか、最低20回は、攻める市場(出店場所)に出かけよ。 よく観察しろ。」と、教えてくれた。 そして、昼時にあるレストランで、食事をした。 「会長、ナニにしますか?」 「エビチリ焼飯にする」と会長が言います。 そして、配膳されると、ウェイトレスさんに向かって 「エビが、サンプルより少ないですね」「サンプルには、4匹エビが、乗っているよ。」と。丁重に言います。 と会長が、言うと「サンプルですから。」と女性スタッフさんが。 「ウソはダメだよー。だったら,サンプルです。」と記載するべきだよー。 優しい言い方で対応された。 義父であったが、 いつも鋭い解説をして商いの道を教えてくださった。 感謝の気持ちでいっぱいです。 そうか、ココでも勉強になる。 会長が、大きな目で、キラリと光る眼差しで、 「いいか、としあき。自分が考えていること と違った場合 普通、怒ったような顔になる。 逆なんだよ。 優しい顔で、言うのだよ。 物静かな言い方するんだ。 じぶんが勘違いということもあるからな。 そのように、対応しながら、自分を鍛えるのだヨ。」 と子供を諭すような 言い方をする。 血のつながりのない親子関係であっても、愛情を注ぎながら、 心の経営を教えてくれる。 先日も、私ごとでありますが、興奮して、顔色を変えたつもりでは、なかったが ある人を誤解させてしまいました。 「静かな言い方で、しゃべれば、 しゃべるほど、相手に効く。 興奮したり、感情でしゃべれば、 自分の負け」 「大手企業は、看板があるから、殿様商売すれば良い。 中小零細企業は、相手を優しく包む感じで、打ち合わせするのだぞ。」 「電話で、商談はするな。誤解の原因になる。」 本当に、勉強になった。 そして、すぐに、実践するよう努力する。 「いいか、としあき~。 心の経営が、あってはじめて、テクニック論が通用する。 いきなり、効率とか、テクニックで 商売をしようとすると、 一時的に成功したように見えるが 長くて3年であろう。 なぜこの年寄りのオレ、84歳が わかるか? それはな~、自分でもそうやって 失敗したからだよ。」 私は、黙って運転するのみでした。 「いいか、もう一度、言うぞ。としあきの目的は、何だ? それはな~、会社を安定させることでは、ないか~。 全社員が、後1分、後1枚、後1コ、後1つ。 経理は、後1枚仕分け伝票を書く。 どうしたら、後1円経費が浮くか?社員が、後1分(ぷん)。 会社がどうしたら、よくなるか? 考える。営業担当は、後1人に声をかけよう。後1枚お勧めしよう。 その考えを付けさせる環境は、社長自らの仕事である。」 眼に涙が溜まり、運転しづらくなりましたが、黙ってうなづく私でした。 「心の経営にマニュアルはない。すべて、素直に勉強。そして、経験のみである。」と故会長正三は言って、 また一言付け加えて、 「常に、どうしたら、出来るか? これを考えろ。何故失敗したか これも大切だが、 どうしたら、もっとよかったか? モット、良い方法は なかったか? この方が、もっと大切である。」 と指導してくれました。
2024.06.14
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異業種さまの経営者様から、アドバイスを頂きました。反省から、気づきを頂く。失敗や、過ちから、数多くのヒントを頂く。9勝6敗の経営。6敗の負けから、次の勝ち(価値)のヒントがあります。深く、考える。創業者故羽富 正三から「いいか、としあき。 考え、考え、考え抜くことだ。」「そして、悩んだら、他人の頭脳を使え。」まだまだ修行の身だと感じました。会社経営は、先輩社長さまより、9勝6敗の考えが、大切だよ。失敗を1つ1つつぶしていくことだよ。
2024.06.12
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私は、大学生時代に就職先に、アパレル業界は 全く考えていなかった。将来、新聞記者になろうと思った。 だから、勤労奨学生として、新聞配達をした。でも、新聞配達をして、新聞業界の裏を知った。丁度その時に、読売巨人ジャイアンツ江川選手の空白の一日事件があった。各社の新聞記事は、江川選手を大げさに記事にした。新聞も良く売れた。ペンの怖さを学んだ。母方のじぃさんからは「新聞記者になったら、出入り禁止だ。」と脅された。明治生まれのじぃさんには、頭が上がらない。(父親が、ガンで亡くなった。経済的な応援が、少しは、あったからです。)話しを戻します。毎朝、3時半起床。 配達所から、大学まで、1時間15分。30分早くおきなければ、ならいない。夕刊も、集金も、新規拡張も行っていた。昭和53年の10月末に ばぁちゃん(母親方)から、新聞配達先の寮に 夜7時ごろだったと記憶している。 「トシ君、あなたのお父さんは、ガンなのよ。末期のガン。 手術が成功しても、3年か生きられない。あなたのお母さんには、胃潰瘍の手術だと言ってるが、もう手遅れのなのよ。」と言われた。 11月頭に手術。 その日は、朝刊を配り終えて、休みをもらった。新聞配達の所長に 嫌みを言われながらも、名古屋に帰省した。 そんな労働条件の当時でした。 「胃潰瘍位の手術で、名古屋に帰省を言うと 甘い。」と言われながらも、懇願しました。 次の日の15時ごろには、もう 配達所にいました。(川崎市多摩区 JR稲田堤駅付近) そして、昭和58年からは、 東海大学の無返済奨学金(勤労奨学金)に合格しました。 3年間、頂きました。 大学3年生の時です。 父親を昭和55年10月に亡くしました。就職の件では、悩みました。 担当ゼミの先生にも、相談しました。 そして、 東海大学の就職課の長岡さんという職員さんにも、相談しました。 「トシ坊、アパレル業界に行けよ。オマエみたいな営業向きな男は、 アパレルメーカーの営業マンだ。 アパレルに興味が無い? そんなことは無い。アパレルメーカーの営業マンは、今不足気味だ。 東京スタイルという東証一部上場会社に勤めて、 お母さん孝行をしろよ。」と言われましたが、 名古屋支店のある会社が、第一希望でした。 就職の件で、 名古屋に帰省しました。 長男である兄貴に、 「トシ坊、名古屋に帰って来い。 兄弟3人で、お母さんを助けよう~」と言われました。 次男である私も、それが良いかと思って、名古屋支店がある会社を選ぼうとしました。 そして、戻って 就職課に出向きました。 「長岡さん、私は、父親を大学3年生で亡くしています。名古屋支店のある会社 三陽商会が第一希望です。」と伝えました。 昭和56年8月に、三陽商会名古屋支店の支店長の面談を受けました。 「良い感触を得た」と思い、内々定の返事を頂きました。 本面接の為に、就職解禁日の10月1日を迎えることになりました。 晴天でした。朝5時に起床。 小田急電車に乗って三陽商会の本社に向かいました。 日経新聞をもって、並びました。 そして、昭和56年10月1日の朝7時に、到着。 東証一部上場の「三陽商会の東京本社(信濃町))に、スーツを着て並びました。 もちろん、東京スタイル(東京・四谷)にも、8月末には、会社訪問をしていました。 結果は、三陽商会第一次面接合格。でも、携帯電話の無い時代です。 電報が、届かなかったのです。( 当時の電電公社の配達人さんは、アパートが判らず、配達しなかったのです。) あとから、判明しました。(もう、頭にきました。) 合格の自信はあった。 なぜなら、三陽商会の名古屋支店長から「内々定」の返事が、あったから。 就職課の長岡さんが、三陽商会人事部に電話すると 「おたくの大学の学生さん、合格でしたが、今日、第二次面接に来ませんでしたので、不合格にしました。 営業マン希望300人から、100人に絞り込みました。残念ですが、諦めてください。 電報が、届かない。そんなことは、わが社には、関係の無いこと。電電公社に言ってください。」と。 涙を流しました。 薄電球のアパートに帰りました。 泣き崩れました。 亡き父親の遺影を観ると 「笑っている父親になっていたのです。」 そう見えたのです。(後からきづきました。東京スタイルに入社して、ロコレディに入社する運命だったのです。) 頭にきて、父親の遺影を投げ捨てました。 「おれは、三陽商会名古屋支店に行くんだ。母親を助けるんだ。」とその写真に向かって言いました。 その後、形だけの第二次面接を三陽商会本社で、人事部役職無い人が、小さな部屋で、1人だけで、受けました。 気持ちの無い第二次面接でした。 「もう、形だけの面接ということを悟りました。もちろん、不合格でした。」 ライバルは、三陽商会だ。 今に、見ていろ~。・・・と心の中で、誓いました。東京スタイルに絶対受かってみせる。 三陽商会の第2次面接(電報で、指定されていた10月5日)の日程では、 東京スタイルの第2次面接を受けていました。 会社説明会は、約1,500人(営業・デザイナー、生産部門などの全ての希望者) 第2次面接を終えて、第3次面接では 営業部門だけで、350人でした。 役員面接でした。 高野社長から、質問をうけました。 「どうして、東京スタイルという会社を希望したか?」 「大学生時代で、嬉しかったことは? 悲しかったことは?」 この3つを聞かれました。 「私は、営業マンになりたいのです。アパレルのことは、全くわかりません。 入社して、アパレルのことを学びます。営業マンになりたいのです。 嬉しかったことは全国の友人を持てたことです。悲しいことは、大学三年生時に、 父親をガンで、亡くしたことです。父親は、剣道家でしたので、私の心の中では、父親は、生きています。 勤労奨学生として、新聞配達をして、新聞拡張学生チャンピオンなったことが、嬉しかったです。だから、営業マンになりたいのです。」と答えました。 ファッションについては、一切言いませんでした。 わかるはずは無い。興味が無いアパレル業界ですからね~(苦笑い) ファッションを語った学生(青山学院、慶応大学、早稲田大学)は、ほとんどの学生は、不合格でした。 見事に、私は採用が決まりました。(営業マン71人の採用です。) 昭和56年年末に 名古屋に帰省すると 長男である兄貴に「トシ坊、おまえは、わざと三陽商会の面接落ちたな?????」といきなり、 殴りかかってきました。 「兄貴、信用してくれ。おれは、三陽商会名古屋支店の支店長からは、内々定を。そして 第一次面接合格していたんだよ。 合格の電報が配達されなかっただけだよ。信じてくれ。」と答えました。 母親は、「としあき、お前は、東京へ行け。 亡くなったお父さんは、としあきには、好きな道を行かせろ・」と言っていたよ。 そして、昭和57年4月1日に 東京スタイル本社勤務になりました。 寮は、東京杉並区高円寺北に遭った東京スタイル高円寺寮に入寮して、 軍隊のような営業マン活動がはじまったのです。 月末の2日間は、会社で、寝泊りが当たり前。 売上目標がいかないと、罵声を浴びさせられる。 月末の棚卸しは、フロアーにゴミ一つ落ちていない状態で。 「高野社長、巡回」という言葉から、在庫のチェックが始まります。 「ご苦労様です。」・・・この言葉は、先輩であっても 「ご苦労様」という言葉で、統一されていました。 ラルフローレン事件は、 3階に集合でした。(私が所属する百貨店3部は、4階でした。5階は、量販店グループ) 3階は、百貨店第2部のフロアーでした。 「ラルフローレン ブランドが、オンワードグループにとられた。」 と高野社長から発言がありました。昭和60年の3月から、小売業の転職を考えていました。 「おれは、小売店向きだ。名古屋に帰るぞ。」と。 すると、 セゾングループのバイヤーさんから 「茨城県のロコレディという会社が、トシ坊に会いたがっている。」と 言われました。 「羽富 正三という社長さまが、オマエに会いたがっている。」と言われました。 つくば万博の時です。 約20回の面接・面談を繰り返しました。 昭和62年10月に入社しました。 そして、平成元年5月に 結婚しました。 養子縁組です。 人生は、塞翁が馬ですね。
2024.06.10
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ロコレディは、2024年4がつから、婦人服ブティックチェーンと名乗っていません。地代の流れで、専門店向けアパレルブランドの統廃合が進んでいます。主要取引先さまとこの3年間試行錯誤しながら、打ち合わせを何度も、何度も、繰り返してきました。よって、ビューティーアパレルエステ事業と名乗るようにしました。トータル的な美を提案することが、本当の美ではないか?それと、他人と比べるのではなく、昨日の自分自身を返信することを目的とします。美と健康と食の文化を育むロコレディを一歩、一歩前に進んでいきます。現在は、アパレル店舗は、2店舗キッチンカー、ケフェイベントを主体とした事業は、3つ。そして、温熱療法を含んだエステ事業にも、取り組んでいます。#ロコレディ新事業#トータルビューティーの世界#伎芸(ぎげい)の世界#新事業の立ち上げオーダー・メイド型雇用人事制度を開発し、茨城県内に9店舗を展開しています。この制度は、女性スタッフの心理や働く環境を研究し、失敗を重ねながら練り上げたもので、女性が長く勤めてもらえる仕組みとなっていますまた、高齢者を活用し、会社の経営を安定させることにも力を入れており74歳の最高齢者も社内にいます
2024.06.09
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大学の無返済奨学金制度を受けようとしました。もちろん、不合格でした。奨学金の説明会には、2,000人???全く、記憶がありませんが、最終書類提出は、700人を超えていたかと思います。45年も前の話しです。記憶が定かではありません。不合格。父親の命が、3年持たない。ガンで、あと3年弱の命。授業料が払えなくなる。1年契約の新聞配達勤労奨学金を延長するか?・・・とも、考えました。すると、何と補欠合格になったのです。「君の熱心さには、負けたよ~」「これからは、しっかり勉強するだよ。」と学生課の職員さんに言われました。30人の採用で、一人が辞退したので繰り上げ合格になったようです。毎月、2万円3年間 大学から、奨学金を頂きました。新聞配達の経験が、今でも、生きています。
2024.06.04
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あら〜、はとみさん。とかお久しぶり。とか私のこと覚えていますか?などなどのお声かけが多くなってきました。ありがとうございます。常に考えている。これを繰り返して下さい。ーと75才の社長様からご指導を頂いています。接する時にこの人と親戚なような間柄になりたい。ーと考えて接しています。
2024.05.26
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百貨店業界が、疲弊している。なぜか?それは、百貨店に勤務している人より出入りしている業者の営業マンさんや、配達人さんに聞くとよくわかるかと思います。100%ではありませんが、特に大手の百貨店の仕入れ担当者(バイヤー)は、横柄な人が多かった。お中元、お歳暮などなど。付け届けが頻繁だったです。三越のバイヤーを3年やると、蔵が建つ。・・・と当時言われていました。当時は、三越の社長は、岡田さんだったと記憶しています。アパレル興亡では、力のある百貨店と地方の百貨店の力の違いが、載っています。堀川利幸さんという人は、都内伊勢丹本店(新宿)担当。でも、場面を変えると地方百貨店にも、受け止められる場面が出てきます。「おい、トシ坊。 商品を抜け。 売れ筋の商品だ。 スグ、、抜いて商品を担当百貨店に納品する。」この場面は、私も今でも、鮮明に画面で頭の中に残っています。ぜひ、ぜひご一読してください。色々な人になった気分で、読み返すと商いのヒントが見えてくるかと思います。堀川利幸(アパレル興亡)登場人物にフォーカスしてきてください。
2024.05.25
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5月21日に集英社文庫本アパレル興亡上下の2冊が発売される。
2024.05.21
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私は、昭和57年4月~昭和62年8月末まで、東証一部上場「東京スタイル」で、お世話になりました、とても、厳しい会社でした。平気で、ビンタで殴る。そんな会社でした。今は、アウトですね。パワハラもありました。当時の社長高野義雄氏には、大変お世話になりました。私の直接の上司は、常務取締役磯貝 勝氏でした。退職する時に「オマエは、乳酸菌でもあり、ばい菌でもある。」「いいか、乳酸菌になるように、働けよ。 そして、転職して 上場したら、俺をパーティーに招待してくれ。」と退職日の最後の日。8月31日に言われました。退職理由は、生まれ故郷である名古屋に帰省して、名古屋の会社に勤める。出来れば、一宮市にあった東京テキスタイルと言う子会社に転籍を希望していましたが、それが、通らず、転職する。そんなストリーでした。でも、本当は、昭和60年の秋ごろに茨城県にあるロコレディという会社から、お声がかかったのです。約20回面接、面談が故羽富 正三(ロコレディ創業者)から声掛けがありました。私の将来の義父になるとは、夢にも思いませんでした。月日が流れ、その後東京スタイル事件がありました。マスコミも、騒ぎました。村上ファンドから、猛烈に叩かれたのです。当時は、もうすでに私は、妻と結婚して、婿養子になっていました。東京スタイルの本社に手紙を書いてFAXを流しました。その前には磯貝勝常務取締役にハガキも書きました。もちろん、返事など期待していませんでした。言いたいことも、たくさんありましたが、封印していました。するとある日突然企業作家黒木亮氏から、メールが届いたのです。会いたいです。ぜひ、取材に・・・・・・・。ここから、先は、本をお読みくださいませ。伊勢丹本店担当の同期も、紹介しました。私の投影が、ビンタで殴られた。売れ筋の商品を地方のデパートに納品。ラルフローレン事件の部分などなどです。東京スタイルの創業者住本保吉氏がごはんに味噌汁をかける部分は、私の先輩から聞いた話しを情報として提供しました。時代背景や、登場人物に成り代わってぜひぜひ、お読みくださいませ。堀川利幸は、4人の情報を基に、登場しているようです。https://www.ibaraki-gyosei.or.jp/kouhou/pdf/250/09sinkijuku.pdf
2024.05.20
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技芸ではない。伎芸(ぎげい)なのです。にんべんです。人の心を大切にする芸能の技術です。あえて、にんべんの方を使用します。妓芸もかんがえましたが、「人の心:を大切にする日本の伝統歴史を大切にしながら、守破離の考えを基礎にしています。チャットGPTより伎芸(ぎげい)は、歌舞や音曲などの芸能に関する技術や、それに関連する技のことを指します。具体的には、舞台芸術や演劇、音楽などのパフォーマンスにおける技巧や表現方法を意味する言葉です。また、「伎芸」は美術や工芸などの技術を含む広い意味で使われることもありますが、一般的には芸能の技術を指すことが多いです。日本の伝統文化においては、能や歌舞伎、日本舞踊などの伝統的な芸能における技術や表現を「伎芸」と呼ぶことがあります。この言葉は、技術や芸術性を高め、観客を魅了するための熟練した技や表現を重視する日本の文化の精神を反映しています。伎芸は、単に技術的な能力だけでなく、芸術作品としての美しさや感動を伝えるための芸術家の創造性や感性も含んでいると言えるでしょう。接遇は、ふるまいを基礎してアレンジして伎芸とし、芸術と考えました。この接遇や、おもてなしの基礎を踏まえたのが、伎芸(ぎげい)型パフォーマンスと考えました。
2024.05.17
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ご縁を大切にしています。数多くの失敗や、気づきで自分の行動を見直しています。何事も、前向きにプラス発想、肯定的に考えるようにしています。一期一会の心です。胡散臭い人をすぐに見分けるコツも見えてきました。60歳も半ばです。経験も成功体験より失敗した出来事にフォーカスしています。成功体験は、時間とともに、賞味期限が切れてきます。感じよく、感じよく年齢を重ねていきます。
2024.05.16
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過去の経験が、邪魔する???実は、成功体験が、邪魔して、失敗体験が、活かされる。・・・と考えています。特に、50才を越えてくると、30才代とか、40才代で失敗したことが、活かされるようになってきました。がむしゃらに、がむしゃらに働いて、失敗したことが、後から活きてくる。本当に、50才代を越えて気づくことが、たくさん出てきました。そして、60才代半ばにして「そうか、そうだったのか~」とわかることが、多くなってきました。亀の甲より年の劫。年齢を重ねるごとに、物事を深く判断することが、出来るようになってきました。65歳にもうすぐなります。70才代に向けて、この失敗体験を語る時期が来た。・・・・・・と感じるようになってきました。
2024.05.12
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数字を意識することで、ワクワクします。仮説を立てることで、どんな数字になるのか?予想します。私は、競輪、競馬は、やりませんが、競馬新聞を読んで、分析する感じでしょうか? 創業者 羽富 正三から、商売のイロハを教えて頂きました。私の義父です。昭和60年(1985年) つくば万博の年に、出愛(であい)がありました。その時は、私は、東京スタイルの営業マンとして、セゾングループを担当していました。 まったく、赤の他人でした。 ロコレディに入社して、 数字の読み方を教えて頂きました。販売枚数を意識するのか? それとも、販売金額で、判断するのか? それとも、もっと、もっと、奥の奥まで分析するクセを教えて頂きました。アパレル業界の方も、数多く私のブログ、FBを読んでおられます。 ある年の冬のコートの商戦の結果を報告したいと思います。 昨年の9月にいろいろなことが、ありましたが コートは、昨年より、販売点数は、増えました。 「えっ~、この暖冬でも、売れた?????」 詳しく描きますので、分析してください。 販売点数は、昨年の103%でした。 ただし、ウールコートは、昨年の60%以下です。 ダウンコートや、ベストコート、1枚仕立てにコートが、人気でした。 単価の安い商品が売れた????? いいえ、非ウール系が売れたのです。 ウールは、110センチ丈が、完売しましたが、クロ以外は、アウトでした。 ベストコートは、もう追加、追加、追加の状態でした。 冬物コート在庫コントロールも、早めに手を打ちました。 単価は、もちろんウールコートの方が、高額なので、一品単価は、下がりました。 でもね~、昨年コート販売高以上に販売したお店が2店舗ありました。 カシミヤーのロングニットコートも、人気があり、年内にすべて完売をしました。 もし、創業者 羽富 正三が生きていたら、このように言うでしょう~。 「いいか、としあき。よく聞けよ。 数字だけで、判断はするな。細かく分析をすることだよ。 世間では、コートが売れていないと言うが、本当にそうか? コートにも、たくさん種類がある。お客様が、お持ちでない、軽めの素材や、他のお店で、展開していないコートであれば、お客様が集まってくるんではないか? いいか、としあき。あまり 世間の売れ筋情報や、デマに騙されるな? 細かく、よく観ろ~」と言うと思います。 実は、小さいいサイズのコートは、ほぼ年内に完売していました。 他のお店で、展開していないサイズが売れたのです。 他は、他。 弊社は、弊社。 いよいよ、春から、夏物への切り替えです。 お客様、ありがとうございます。 参考になりますか?????
2024.05.07
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近頃、女性の活躍する場面がますます増えてきていることが、テレビなどで、紹介されています。 コレは、歓迎することでは、ありますが大事な部分をマスコミは、報道しません。先日も、夜、女性社長や、女性幹部の方が紹介されていましたが、 一方的な報道でありました。 放送時間内での決められた時間内では、仕方が無いかもしれません。いいですか?女性は、素晴らしくて、男性がダメというわけではないと思います。 女性の素晴らしい感性を活かしながら男性が、得意な場面を活かす。 あくまでも、あくまでもバランス良く。それが、基本です。そうなんですよ。適材適所では、ないでしょうか? ご質問のメールがきました。女性からです、「わたしは、はとみさんの逆で、男性が90%で、女性が、 少ない職場です。どうしたら、男性が女性であるわたしたちにもっと、もっと、仕事を与えてくれても、良いかと思いますが、いかがでしょうか?」なるほど~、そうですか?男性中心の会社ですか?どうでしょうか?あなたが、男性タイプになるのです。女性の特性を少し、抑えて、男性気質になったら、どうでしょうか?感情的に話すのではなく、理論的に、考え行動する。 女性の特性を少し、抑えて、男性気質になったら、どうでしょうか?感情的に話すのではなく、理論的に、考え行動する。 または、徹底的に、女性としての特技を活かし、本来の感性を前面に出して、行動したら、どうでしょうか?職場の女性は、比較的根回しが苦手です。 根回しというより、段取りでは、ないでしょうか? 会議の前に、段取りをして、事前に自分の意見を調整します。 段取りという言葉は、硬いです。わたしは、必要なことだと思います。事前の準備。すなわち、コンディシニングすなわち、準備体操なような感じです。表現を変えるなら、下準備ではないでしょうか?料理でいう「仕込み」ではないでしょうか?この仕込みを知るのに、結構時間が、かかりました。 会長故正三が言います。「いいか、としあき。下準備は、女性は、苦手真人が多い。でもなぁ~、このことを女性自身が気付いていない女性が多い。女性は、時々、横着をする。常識的なことにも、かかわらず、手を抜く。うちもばぁーさんも、そうだ。いいか、忘れるな。女性は、セクショナリズム(縄張り)を出す。その点を注意しないと、ドンドン自己中心で、仕事をしていく。防ぐ方法は、男性であるおまえが、常に状況を把握すること。」と以前教えてくれました。女性は、スグ偏ります。仕事熱心な女性ほど、バランスを崩します。では、男性はどうか?男性は、女性より、体裁(ていさい)を気にします。「格好」を気にします。わたしは、会社、会社によって、男性と、女性の比率は、違うと思いますが、本来男性がする仕事を女性に任せてみる。任せて、どうもうまくいかないなぁ~・・・と感じたら、男性に回す。女性がする仕事を男性がやってみる。・・・状況をみる。すべて、実践して、対策を立てる。わたしなんか、しょっちゅう、この繰り返しですよ。失敗も多い。でも、反省する。 「女性幹部が、言ってきても、改善する場合と、改善しない場合と両方あります。」女性である、あなたそう女社長であるあなたですよ。そして、女性幹部であるあなたですよ(幹部にならなければよかったとメールくれたあなたですよ)。なかなか、女性を幹部にしない会社で、幹部になるまで育ててくれた会社の社長様に感謝ではないでしょうか?やりましょう、そして、この会社に入ってよかった。また、この会社を作ってよかったといわれる時がくるまで、顔晴(がんば)れしましょう。職場の女性に私は、役職を付けるべきだと想います。 後継者の方や、現役の女性社長様は、是非、一緒になって、自分の目標に向かって、いきましょう。 参考になりますか???あくまでも、あくまでも、私が体験したことを描いていますので、他の人との見解と違う場合があります。あくまでも、あくまでも、参考程度に。
2024.05.04
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悩んでいる女性スタッフを源氣(げんき)にさせる方法とは???・・・・・このブログを書き始めたころから、女性相手の仕事をしてきた数多くの失敗を書き続けてきました。 その失敗から数多くの学びがありました。 どうも、女性とパートナーを組むとうまくいかない。 悩み、苦しみながら、どうしたら???・・・・・と毎日考えていました。 でも、ある日、突然見えてきたのです。 女性と接する時のポイントが。 もう、ビックリです。ゴルフのパットラインが、見えるように。自然に、日本語を覚えたように。 コツが見えるようになったのです。 じわっと~、じわっと~、心に感じてくると思います。 私は、男3人兄弟の次男坊。体育会系の家庭に育ち。 大学時代までは、女性とは、無縁。 就職先が、レデイースアパレルメーカー株式会社東京スタイル・・・ここが、また、体育会系の会社であった。 底から、私の苦悩が、はじまりました。 話しを戻します。 実は、先日、ある女性スタッフから、相談を受けました。「社長、少し、体の調子が良くないのです。以前は、仕事のストレスは、仕事で解決できたのですが、 どうも、人間関係や、売上げのことで、悩みが多くて?????」と相談を受けました。 私は、このように、アドバイスをしました。「なるほど~、そうか。あまり自分を痛めつけるな~。今の状態では、何をやっても、うまくいかないかもしれないなぁ~。まぁ、ゆっくりやれよ~、焦るなよ~。社長の私も、応援sるからね~。 心配するな! 病院へ行って、よ~く看て貰え。 時には、温泉でも、行って、気分転換してきなぁ~。誰でも、そういう時期はあるよ。 この私だって、あるよ。 でもね~、この時期を通り過ぎると、急に、また、成長がはじまるんだよ。・・・と先輩社長様に教えて頂きました。 顔晴(がんば)れしようよ。」と言うと、目の奥から、キラリと光る宝石が見えました。 私も、涙ぐみながら、アドバイスをしました。 ポイントは、プライベートな部分と仕事の部分を分けて、アドバイスするのではなく、うまく、ミックスしながら、相手に威圧感を与えずに、話しをもっていくと、女性は、落ち着くようです。 そして、もう一つアドバイスをしました。 「もし、気分を変えたかったら、今書いている字を変えてごらん。 いつも、何気なく書いている自分の字を変えることによってきっと、新しい自分に氣がつくよ。 晴れやかになるよ。」ともアドバイスしました。 参考になりますか???
2024.05.02
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