| セピア色の記憶 第六章 |
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| 時をこえて 1 長野発七時五十分のあさまは、ホームをすべり出しスピードを増していった。 網棚に置かれた油絵の包みに、ちらっと玲奈は目をやった。となりにすわっている修も、無言であった。車体の振動を身体中で感じながら、時折流れる車内ア ナウンスに、はっとさせられていた。 一時間半ほどで、東京に着く 。東京駅で山の手線に乗りかえ、新宿東口の百貨店に着いたのは、店がオープンしてまもなくだった。 「修、重くない?」 「大丈夫だって」 額により、重さを増している油絵の包み。いつのまにか修が、たくましい男の子になっていたことに玲奈は気づいた 。 展示会場には、まだ時間的に早いこともあり、人の入りはまばらだった。展示された絵をぐるりと見回した瞬間にも、玲奈は祐一らしさを感じていた。 「玲奈、すっげー。これなんかさ、一、十、百、千、万……。百万だぜ! 百万あれば、ゲームソフトが、ええっと……」 「もう、修ったら……」 「すごいよな。たった一枚で、この値段」 「でも、わたしは、泉の絵が一番好き。あのときも、祐一さんの絵はいくつかあったと思うんだけど、これしか目に入らなかったから。絵の価値なんて、そんな ものだと思うの。どんなに高い絵でも、いいと思わなければそれまでだし、名もない画家の絵でも、いいものはいいんだし……」 「あのう、なにかお探しのものなどございますか?」 玲奈の言葉をききつけたのか、展示会の主催者らしき男性が歩み寄ってきた。 「いえ、あのう、先月長野でやっていた展示会で、古沢さんの絵を買ったんですけど、今日、こちらに見えるってきいたので……」 「ああ、古沢先生ですか……。午後一時ころ、お見えになる予定です。先生は、今、売れてますからね。お忙しいところ、ご都合をつけていただいているんで す。今回の展示会は、先生の作品が主ですからね」 玲奈は、ふとつきあたりにある絵に目をやった。 「この絵……」 「ああ、これでございますか。これは、古沢先生のご希望で、展示のみにさせていただいております」 軽井沢の別荘で、真琴をモデルに描いた、あの絵だった。 「まあ、先生のお若いころ、まだ名もないころの作品でして、技術的には未熟な点も指摘されておりますが……。それでも先生のファンには、のどから手がでる ほど、ほしいとのお声のかかるものです」 「なんか玲奈と似てるよな、この子」 光と影。それが、この絵のタイトルであった。 「玲奈、飯でも食って待ってよーぜ」 一時間余り、この展示場で絵を見ていたことに気づいた。 「そうね、どこ行く?」 「ここにあるだろ」 「えー、でも高いんじゃない?」 「一万五千円の予算に入ってるぜ、昼飯代。こんなこと一生に何度もあることじゃないしさ」 「修、おおげさよ」 修の言葉をさえぎって、玲奈は笑いながらいった。修も気づいたらしく、照れて頭をかいた。 「でも、中学生としては、めったにできないことよね」 「そ、校則違反だしな」 「行こう、修」 玲奈たちは、エレベーターで八階に行った。 「ねぇ、なんにする?」 「オレ、なんでもいいよ」 「よくいうわよ、修の方が好ききらい多いくせして」 「おお、そうだった。じゃあ、ハンバーグ」 玲奈たちは、ハンバーグランチを頼んだ。ふと窓から外を見る。あわただしく行き交う人や車。そして、まわりのテーブルには、若いカップルたち。こんなにた くさんの人がいるのに、ここで玲奈のことを知っているのは、修だけ。そう考えると、不思議な気がした。 「玲奈の知ってる祐一さんて、どんな人?」 ハンバーグを口に運びながら、修がたずねた。 「うーん、そうね。結構、かっこいいわよ。背は高いし、やさしいし……」 続けようとして玲奈は、祐一のことをたいして知らないことに気づいた。それでも、祐一のことがわかっているような気がしていたのは、真琴の感情が身体にみ なぎっていたのだろう。 「今の修より、カッコいいかもね」 いたずらっぽく玲奈はいった。 「祐一さんのこと、好きか?」 「えっ?」 ドキンと心臓が打った。 「ばーか、真琴として好きかってきいてんだ」 「真琴は、祐一さんのことがすごく好きよ。それはね、わかるもん。でも、真琴って好きな人と一緒にいられて、祐一さんもやさしいし、幸せだなって思ってた んだけど……。好きになったから、つらいことだってあるんだなってわかったんだ」 修には、話していなかった。大学生の女の人の存在と、その後の真琴と祐一のすれちがいは。たまたま垣間見てしまったふたりの世界は、やはり他人には話して はいけない気がしていた。本来なら、他者が入りこめない、心の領域だろうから。 「今、祐一さんって、五十近いだろ? どうなってるかな」 「すてきなおじさまに決まってるでしょ?」 「ハゲおやじかもしれねーぞ」 「もう、修ったら……。あ、ハンバーグ食べる?」 「もーらい」 玲奈が食べきれなかった分を、修がぱくついている。 「オレが大学生になるころはさ、きっと祐一さんよりいい男になってるぜ」 「問題は、修の頭で、大学に合格するかってことよね」 「あ、ひでーいいかた」 アイスティーのストローをもてあそびながら、玲奈はいった。 高校生になった修。大学生になった修。そのころ、どうしているんだろう。玲奈は、カラカラという氷の音をききながら、ふと思っていた。 2 玲奈たちが、再び展示会場にもどると、古沢祐一はすでに来ているらしかった。先ほどの、スーツ姿の男の人が声をかけてくれ、玲奈たちは控え室に通された。 「古沢先生、さきほどお話した……」 古沢先生と呼ばれた男は、外を眺めながら、たばこをふかしていた。 「僕の絵を買ってくれたそうだが……」 そういって、ゆっくりとふりかえった。男は、目を大きく見開いて、無言のまま玲奈を見つめた。どこか品のある、画家としての風格をそなえた男だった。 「あの、先生?」 案内した男の方が、逆にその様子を驚いて祐一をうながした。 「……いや、失礼。ちょっと僕の知り合いに、そのお嬢さんがよく似ていたもので」 「真琴さんに、ですか?」 すかさず玲奈がいった。 「どうして真琴のことを知っているんだ」 「この絵……」 修が荷をほどき、絵を祐一の前に差し出した。 「この絵は……」 祐一は、なつかしそうにつめ寄った。 「わるいが、僕は、このお嬢さんたちと少し話がある。サイン会は、少し遅らせてもらえないだろうか」 祐一が、スーツ姿の男に交渉してくれた。その男が立ち去ると、玲奈たちに腰かけるようにうながした。 「信じてもらえないかもしれないけれど……」 玲奈は、祐一にむかって、語りはじめた。絵を買ってから、夢をみるようになったこと。軽井沢にその別荘と泉が本当にあったこと。そして、買った絵を描いた のは、夢に出てくる祐一という男らしかったこと。玲奈が話し終えると、祐一はポケットからタバコをとりだした。しばらく無言のままであったが、その火をも み消すと口を開いた。 「真琴は、僕の妻だった。二年前に、ガンで亡くなったが……」 真琴は、たしかに存在していたのだ。真琴の記憶をたどって、ここまでやってきた。 「この絵は、僕がまだ売れない画家のころに手放してしまった。あとで買い戻そうとしたんだがね、どのルートでどこにいったのか、全くわからなくてね……」 そこで男は、ひと呼吸おいた。 「あの展示会場にある真琴の絵は、見ていただけましたか?」 「軽井沢の別荘で描いた絵ですね」 「そんなことまで知っているんだ、信じられない話だが……」 軽井沢の別荘といいあてたことで、祐一は再び驚いた。 「玲奈といいます。はじめて祐一さん、あっ、古沢先生に……」 玲奈が言い直すと、 「祐一、でいいですよ」 と、おだやかな笑みを浮かべた。 「はじめて祐一さんに、夢の中で会ったとき、真琴とよばれたんです。この人は、どうしてわたしを真琴と呼ぶんだろうって思ったんです」 「そうでしたか……」 「わたしが真琴になっているときは、真琴の意識がないのです。ただ身体が真琴の本能のように動いてくれるから、祐一さんも気がつかなかった感じなんです。 でも、わたしの行動で、真琴の運命をかえてしまうのではと思うとおそろしくて……。この絵を描いた祐一さんに会えば、何かわかるのではないかと思ったんで す」 「あのころの真琴は、少しおかしかった。こういういい方をすると変だが、精神的なものではないかと思っていたんだ」 「精神的?」 「あの子が、半月も早くに夏休みに入ったのも、体調がよくなかったからなんだ。もともとあまり丈夫ではなかったが、貧血がひどくて倒れることもしばしば だった。風邪のような状態が続いてね、微熱が下がらなかったりで、夏休みには少し早いが静養をかねて軽井沢に行ってたんだ。医者にいわせれば、精神的なも のからくる不調では、とのことでね。ただ、身体の調子がわるいというよりも、真琴自身が少し変だった。たとえば、行ったはずのないキャンプに行ったと話し てくれ、その次の瞬間には、自分で話したことも記憶していない……」 「スイカの話?」 祐一は、また驚き、玲奈を見つめた。 「出会うべくして、今日ここで僕は玲奈ちゃんに会ったということかな。信じられない話だけど」 「真琴さんが祐一さんと結婚して、そしてもう亡くなっているということは、もし、わたしが、あの夢の続きを見て、なにかとんでもないことをしても、真琴さ んの運命は変わらないってこと?」 「玲奈のとるべき行動は、決まっていたということじゃないかな」 今までだまっていた修が、口をひらいた。祐一は、あらためて修に気づいたように見た。 「あ、わたしの友だち、幼なじみです」 「玲奈ちゃんの彼氏?」 玲奈は、ぽっと赤くなって修を見た。修もつられるようにほおを染めて、うつむいた。 祐一は、ほほえんで玲奈たちを見比べ、話を続けた。 「あの年の夏は、いろいろなことがあった。ひょっとして、あのことも?」 「大学のお友だちとのこと?」 「……まいったなぁ」 祐一は、苦笑しながら頭をかいた。 「あの夏、ドライブに行った時、真琴にきかれた。あの女の人とは、どういう関係だったのか、と。好きでもない女の人を抱いたというのなら、つまり遊びなら 許せない。好きで抱いたのであれば、今までの真琴に対する接し方が許せない、と。あたかも恋人のように接していながら、一方でつきあっている女がいたとい うのが許せなかったんだろう」 そこで、祐一は、ひと呼吸おいた。 真琴は、やはり祐一に問いただしていたのだ。許せない……。今の玲奈にとっては、真琴のその感情は、遠いものだった。まだ、もっとその前の段階のハードル さえ、飛び越えていない。修に、好きだってことさえいえない。 「……ひょっとして玲奈ちゃんだったのか。どうして認めてしまうんだ、と。なにもなかったといいきれば、信じるのに、といったのは……」 玲奈は、こくりとうなずいた。 「真琴の気持ちがわかったから。身体を通して真琴は、わたしに訴えていた」 「あの言葉がなければ、真琴とは、前のような関係になれなかったかもしれない。こういういい方をすると、男のずるさかもしれないけれどね……。あの時の真 琴は、見て見ぬふりをすることなど、決してできない年頃だったんだろうと思うんだ。僕は、玲奈ちゃんにいわれたとおり、その後、真琴が何をきいても、疑っ ても、そんなことはなかったといい続けた。真琴が亡くなるまで」 祐一は、真琴とのやりとりを思い出したかのか、ひとり笑った。 「でも、どうしてこんなことになっちゃったのな。時間をとびこえて」 「あのころの真琴と、通じる何かがあったんだろう。引力のように、ね」 祐一は、玲奈と修を交互に見ながら、そういった。 通じる何か? 祐一を思う気持ちと、修を思う気持ち? 「不思議な話だが、あの絵が玲奈ちゃんの手元に渡ったのは、宿命的なものだったのかもしれない」 見た瞬間から、どうしてもほしくてしかたなかったあの油絵。 「あの、絵は、お返ししましょうか? とても気にいっているけれど、祐一さんのところにあった方が……。探してたんでしょう?」 「いや、それは玲奈ちゃんがもっていてくれた方が、真琴も喜ぶと思う。あの絵は、僕にとって、あの別荘で真琴を描いた『光と影』と共に思い出深いものだか らね」 「あの絵を見て思ったんです。どうして光と影というタイトルにしたんですか?」 真琴の絵は、あの油絵と同じで、赤、黄、緑、青の四色を主体に描かれている。ひだまりとでも題した方がふさわしいくらい、おだやかで明るい作品であった。 「あのころの真琴のイメージかな。決して光だけの存在ではない。光があるから、影ができる。素直で、陽気で、一途で、ちょっとおませで……。 一方で、僕が 真琴に感じていた影に値するようなもの、今になって考えてみると、真琴の心の葛藤だったのかもしれない。十五歳の少女が、大人への階段を上るための」 祐一は、亡き妻の少女の頃に思いをはせているらしく、しばらくぼんやりしていた。 大人への階段。玲奈の気分がブルーになるのも、大人への階段を一段一段上っているからかもしれない。 「あのころの僕は、どんな感じだった?」 「大人で、おだやかで、やさしくて、暖かくて、一緒にいるとほっとできて……。でも、ずるい」 「なるほど。あのころ、真琴に聞いたら、同じことをいったかもしれないな」 修とのことが、ぎくしゃくしていた頃、祐一にひかれていった玲奈。不安定な中で、祐一は、修にないものばかりをもっていた。束の間でも、ほっとできる居 場所だった。修には、ずるさはない。あるのは玲奈と同じ、不安定さ、ゆらぎである。 「ただね、真琴から見れば、大学生だった僕は大人に見えたかもしれない。僕自身の意識としても、そうだったと思う。今になって思うと、あのころは、なんて 幼いというか未熟だったんだと思ったりする。人なんてそんなものさ。いつでも、今の自分を基準に物事を見るから。当時の真琴だって、自意識としては、子供 ではなかったんだと思う。それでもね、年を重ねるに従って、ずるさというか、要領よく生きていけるようになる。『泉へ』や『光と影』を描いた頃の僕は、そ れでもまだ純粋なところを多くもっていたからね。だから、手放したくないんだ、あの絵は。真琴との共有する思い出とともに」 祐一の真琴に対する思いは、玲奈にも伝わってきた。祐一と接することで、確かな真琴の手応えのようなものを、玲奈は感じていた。 2 帰りのバスには、まだかなりの時間があった。街の中をふらつき、時間をつぶした。輸入雑貨の店をのぞいたり、街角で買ったアイスクリームをなめながら歩い た。はじめて、修と共有した時間だった。 玲奈は、ふとプリクラの前で立ち止まった。 「あ、修、とってこうよ」 「なんだよ、いつも玲奈、とってるだろ? スケジュール帳だかにたくさんはりつけてさ」 「だって、修とはとってないもん」 「ったく……。ガキみたいに」 「修だって、ガキでしょ?」 玲奈たちは、プリクラの前に立った。 「修、どれにする?」 「どれだって、同じだよ」 「修、これにしよっ」 「なんでそんな地味なやつにするんだよ。もっとおもしろいのあるだろ」 玲奈の選んだものは、セピア色にプリントされてくるものだった。 「だって、これがいいんだもん」 「わかったよ」 「修、ほら、笑わないと! 決定ボタン、押しちゃうよ!」 「うるせーな」 修との共有した時が、とまった一瞬。プリントされるのを待っている間、玲奈は、道ゆくカップルに、自分たちも同化しているような気がした。 玲奈のブルーな気分は、おちついたセピアの中に沈んでいた。 「おっ、なかなかかっこよくとれてるじゃん」 「修もはる?」 「いいよ、はるとこなんかないしさ」 「じゃあ、お財布にでもはれば?」 「財布?」 「だって、人に見せるもんじゃないでしょ? お財布なんか……」 「そうだけどさ……」 しぶしぶながらも、財布を差し出す修。さっと財布を取り上げ、とったばかりのプリクラのシールをはりつけた。続けて、自分のスケジュール帳にも、ぺたりと はった。 「ばーかみてー。玲奈、香織とかにそれ見せるなよ」 香織ともしばらく会ってない、と玲奈は思った。夏休み中は、塾でしか顔をあわさない。軽井沢からもどって以来、会っていなかった。玲奈が軽井沢に行ってい て、塾のお盆休みがあり、続いて香織が家族旅行。そんなわけで、香織と話すひまもなかった。都会よりも少し短い長野の夏休みが、もうすぐ終わる。 香織に、いきなりこのプリクラを見せたら、どんな顔をするだろう。そして、この夏のできごとを話したら……。 この夏のできごとは、今のところ、修とのふたりだけの秘密だった。 セピア色のプリクラは、たくさんはられた中で、ひときわ輝いているように見えた。 「でも、やっぱり、古くさい感じがするよな」 「そういわれるとね」 玲奈が感じた真琴の世界。セピア色の真琴の記憶。今は、朽ちかけていたレンガ造りの別荘。時とともに記憶は薄れ、とりまく世界も風化される。それでも、祐 一にとっては、今なお色鮮やかな思い出。『光と影』の絵のように、祐一の心の中で、真琴は生き続けている。 「でもさ、オレたちが、あの家に引っ越してきたころも、もうこんな感じなんだよな」 「えっ?」 ふと真琴のことを考えていた玲奈は、修の言葉ではっとした。 「考えてもみろよ。オレが生まれてから、あの家に住んでいる時間の方が長くなっちゃったもんな。だって、九年目だぞ。一年生の時に引っ越してきたんだか ら」 それだけ長い歳月、玲奈は修のとなりに住んでいたのだ。時には、近いのに、もっとも遠い距離を感じたことさえあった。 はじめて会った小学一年生の修と玲奈。その記憶は、あらためて思い起こすと、遠いセピア色をしていた。それでも、断片的に色鮮やかな記憶がある。 のら犬がいて、修と走って逃げたこと。カサを忘れた修と、玲奈のカサをふたりでさしてきたこと。ころんだ玲奈に、あわててかけ寄ってくれた修。 「そんな昔のことなんだね」 玲奈は、プリクラをひとさし指でなでながら答えた。 もうすでに真っ暗になっていた。五時過ぎに新宿を出発したバスに揺られていた。長野のバスターミナルに着くのは、九時。家に着くのは、さらにそれから三十 分ほど後である。 「今、塾の夏期講習にでてるんだよな、オレたち」 「そう」 ねむそうに玲奈が答えた。 夕食として買い込んだハンバーガーを食べつくしたふたりだった。 「あのさ、玲奈……。玲奈? なんだ、ねちゃったのか?」 がくんとバスがゆれ、玲奈は修の肩にもたれかかった。その時、玲奈が手にしていたぼうしが落ちた。 帽子を拾おうとした、修の動きがとまった。 「起きちまうよな……」 そんな修のやさしさは、玲奈の耳にはとどいていなかった。 3 さわさわと木の葉をゆらし、レースのカーテンの間から風が入りこんだ。 「もう夏も終わりだ。東京に戻れば、まだ残暑が厳しいだろうがね」 木々の間から光の粉が舞うような、まばゆい季節は、足早に流れゆく雲が終わりを告げていた。 真琴の世界? 「真琴、ほら、なんとか仕上がったよ」 祐一は、画材道具を片づけながら、絵を玲奈に見せた。一枚は、新宿で見た『光と影』と題された真琴の絵であった。もう一枚は、玲奈の手元にあ る『泉へ』で ある。どちらも絵の具のにおいの残る、誕生したばかりの、鮮やかさが感じられた。 「この夏は、すっかり遊んでしまった。そろそろ卒業後のことも考えなくてはならないのに……」 「お父さまの仕事、手伝うの?」 「そのくらいしかできないだろう、僕には。美大で、絵ばかり描いていた僕にはさ」 ふと真琴の部屋を見回すと、整然と片ついている。部屋のすみには、ダンボール箱がいくつも置かれ、ここを発つ用意ができているらしかった。 「わたしは、いい勉強になったわ。この夏」 「なんの?」 「男の人について」 男の人と限定していいものか、わからない。たまたま垣間みた、祐一の姿。人のずるさ、身勝手な思い。そんなものを玲奈は、真琴を通して感じたこの夏。で も、それはあえてここで、祐一にはいわなかった。真琴自身が、いわなかったことを、玲奈は現在の祐一からきいてしっていたから。 「まいったな……」 いつかのように祐一は苦笑した。 「祐一さんが、それを教えてくれたのよ」 「だからね、本当は、なんでもなかったといったじゃないか」 玲奈は、そういいきる祐一がおかしくてたまらなかった。 「なんだよ、真琴は……」 祐一は、玲奈の額を指先でつつくまねをして続けた。 「真琴は少し大人になった感じだな、この夏」 祐一に一途な感情でむかいあう真琴。日記で知った、誕生日のながれ星の瞬間はじめてしたキス。そして、祐一がつきあっていた女性とのこと。真琴は、この夏 いくつものハードルを飛び越えただろう。 「そうよ、だって来年の夏は、祐一さんの奥さんになれる年だもん。……ねぇ、祐一さん、この絵のタイトル、決まってるの?」 苦笑している祐一を見ながら、玲奈は、話題をかえた。 「これは、『泉へ』。真琴と何度も行ったことだしね。この真琴の絵は、絵のイメージと僕の考えているタイトルがあわない気もしてね。『光と影』と考えてい るんだけど、どうだろうか?」 「どうしてそのタイトルにしたの?」 二十七年後の祐一にもたずねた。でも、ここでこの絵を描き上げたばかりの祐一にききたかった。 「真琴のイメージかな」 二十七年後の祐一と同じことをいった。 「でも、うまく説明がつかないんだけどね。僕の感じたそのままなんだけど……」 と、続けた。二十七年後の祐一は、説明してくれた。年を重ねるということは、そういうことかもしれない。真琴と共に過ごした歳月で、祐一が発見したことな のかもしれない。 「真琴は、どっちの絵が好き?」 「わたし?」 真琴ならなんというのだろう。自分の絵を指差すのだろうか。 「こっち」 玲奈は、『泉へ』を指差した。どうしてもほしくてしかたなかった、あの誕生日の日。『光と影』がそこにあったとしても、この絵しか目に入らなかったかもし れない。 「どうして?」 「この夏の思い出が、この絵に封印されている気がするから。この真琴……ううん、わたしの絵も、こっちの絵に含まれている。そんな感じがするから」 「祐一さんは、どっちが好きなの?」 「僕? むずかしいな……。どちらも手放したくないほどのできだ」 「画家になっても?」 「画家に? まさか?」 「祐一さんは、画家になれるわ」 「僕が? まさか……」 祐一の声を聞きながら、玲奈は、深い底に沈んでいくような、いつもの感覚に襲われていた。 4 玲奈は、歴史の教科書をパタンと閉じると、目の前にある時計を見た。十時半をまわってから、時計ばかり見ていた。 十時五十八分。よし、と少し大きめの呼吸をして、窓を開ける。Tシャツの袖口から入るこむ風は、もう秋風といってもいいくらい、冷たかった。昼間はともか く、短パンに半袖Tシャツで、外に出るには、はだ寒いくらいの時間だった。ベランダに出ると、修に声をかけられた。 「オッス!」 むかいの修はすでにきていた。 「修、あんたね、勉強してるの? 夏休みが終わればね、すぐテストよ」 玲奈は、自分自身が上の空で、時計ばかりを見ていたのを棚にあげて修にいった。 「……ったく、うるせーやつだな」 「修、あしたから学校だね」 お盆のころから、夜になるとどこからともなく虫の音が響くようになった。八月も残すところあと数日である。 「あー、めんどーい」 修は大きく伸びをした。 「あ、玲奈、あれから夢の続き見た?」 「もう東京に帰るみたいだった。荷造りもされていたし……。夏が終わったねって祐一さんがいってた。あー、つまんない」 「なにが?」 「あの夢、もう見られないかも」 「どうしてだよ」 「だって、あの絵は軽井沢だもん。真琴たちが帰っちゃったら、おしまいでしょ? 絵もね、二枚とも仕上がっていたもん」 「あ、そっか」 「あしたから学校だねぇ」 ため息とともに、再び玲奈がいった。 ブルーな気分だった。学校がはじまり、再びどよめきの中で受験がのしかかってくる。それでも大人への階段を、ブルーな気分をひきずりながら、上りつづけな ければいけない。 「何度もいうなよ、年寄りみたいにさ」 「だって……」 受験生という現実。そして、学校での生活。そんな日々に追われていたら、修と共有したこの夏の時間が、セピア色になってしまう。 「玲奈、高校生になったらさ、髪、のばせよ」 「なによ、いきなり」 「玲奈さ、やっぱり似ているよ。真琴と……。髪が長ければ、もっと似てくるよ。祐一さんだって、そういってたし」 修は、自分の部屋をのぞきこんだ。修は、祐一から、真琴を描いた水彩画をもらってきたのだ。その絵が、部屋にかざられているらしい。 「修、好きでしょ? あの『光と影』に描かれた真琴みたいな感じ」 「まあな、やっぱり真琴はさ、だれかと違って、お嬢さまって感じだよな。軽井沢で避暑なんてものができちゃうんだからさ」 「まったく、失礼しちゃう、修ったら」 空には、星が瞬いていた。あの七夕の日から、二人の誕生日から一ヶ月半。季節は、移り変わろうとしていた。 この夏は、いろいろなことがあった。玲奈としても、真琴としても。いろいろなことを感じさせてくれた夏は、忍び寄る秋の気配に、次第に追いやられていく。 ふと玲奈は、夏休み前のできごとを思い出した。由美はあれからどうしたんだろう。妊娠事件でさわいだ一学期が、遠い昔のことのようだった。 人生には、飛び越えなければならないハードルがいくつかある。陸上をやっているころ、軽やかにハードルを飛び越えた玲奈がいた。ハードルにあたれば、もち ろんタイムも落ちる。それでも、高飛びとは違うのだから、飛べないハードルはなかった。 由美も由美なりに、そのハードルを飛んだころかもしれない。 「玲奈、わかった?」 「えっ? なに?」 再び修に声をかけられ、はっとした。 「もう、なんでわかんないんだよ」 「なんのこと?」 「さっき、オレがいったこと」 「髪のばせってこと? 真琴に似ているってこと?」 「っていうかさ……。なんで断片的にいうんだよ」 「修がまわりくどいんでしょ?」 「オレね、玲奈と違って、文系なの。国語の成績なら、オレの方が少し上だよな、たしか」 「あのね、わたしが数学が得意なの知ってるでしょ? まわりくどいいい方されてもわかんないの!」 「そんなにどなるようにいうなよ。……ったく、ムードもないんだから」 「なんのムードよ」 「だからさ、好きだっていったんだよ。玲奈のことが……」 えっ? という問いかけを、玲奈は息とともに飲み込んだ。 真琴みたいな感じ、好きでしょ? まあな。 髪伸ばせよ。 真琴に似ている。 ビデオテープの巻き戻しのように、玲奈は先ほどの修との会話を一瞬で再現していた。 「玲奈、流れ星!」 ジュッという音とともに、一瞬に大きな光が空を横切った。 「今度は願いごと、できた?」 「えっ? 願いごと?」 「ばーか、できなかったのかよ。この夏に二度も流れ星見たくせにさ……」 「だって……。修のせいでしょ?」 「オレのせいかよ、またぁ」 いつもの感覚にもどった玲奈は、そんな修を見てふきだしそうになった。 「修……」 「ん?」 「わたしも修のこと、好きだから」 数学のノートが落ちたあの七夕の夜。玲奈は、あのときの瞬間を思い出した。 「玲奈……」 修がベランダから少しのりだし、玲奈は少し背伸びをした。ほんの一瞬、修の唇がふれた。 「修……」 「玲奈、オレたち、もう流れ星は一生見られないかもな」 修は、照れたように大きく伸びをして空を見つめた。 「この夏に、二度見ちゃったもんね」 もういい。願いごとはかなったから。修に気持ちを伝えたから……。 でも、飛び越えなければならないハードルは、きっとまたあらわれる。真琴が飛び越えたように、またその時、悩み考えればいい。 「玲奈、あした、遅れるなよ」 「修こそね、夏休みの間、ずっと朝寝坊だったでしょ?」 「わかってるよ、あいかわらず、うるせーやつだな。じゃあな」 「おやすみ、修」 修が部屋にもどっても、しばらく玲奈は、ぼんやりとしていた。玲奈と修に夏の終わりを告げるかのように、庭の至る所から虫の音が響いていた。 エピローグ 二学期がはじまって、九月になった。 由美も学校に出てくるようになった。由美は、高校には行かず、子供を産むことにしたらしい。来年、十六歳になったところで、その大学生と結婚するそうだ。 絵里は、夏休みが明けてもあいかわらずだった。ただ、修が少しそんな絵里のあしらい方がうまくなったせいか、修に手応えなしと感じたらしい。今度は、一樹 にあの調子で、まとわりついている。そんなわけで、香織は玲奈と修のことなどに気にかけてる暇はなくなったようだ。玲奈と修の、この夏の秘密を感じとる余 裕などないらしい。 玲奈と修は、学校ではあいすわらずの調子である。そして、夜の十一時には、決まってベランダで他愛もない話をする。 それぞれが、何かを乗り越え、何かにぶつかり生きている。 ベッドの脇の壁には、『泉へ』の油絵がかけられている。祐一に画家になれると話したその日以来、あの夢を見ていない。真琴の世界、セピア色の世界には、も う入りこめなかった。それは、真琴と祐一のあの二十七年前の夏が終わったからかもしれない。 再び夏が訪れた時、十六歳になった真琴と、大学を卒業した祐一に会えるだろうか。そのとき、修とはどうしているのだろう。 高校生になった夏……。 二十七年の歳月を経ても、絵からは、みずみずしい輝きが放たれていた。 セピア色の記憶 (完)
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