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この何年か、特に民主党が政権をとった2009年ごろから日本社会全体の右傾化を強く感じるようになった。周囲でも、在日外国人に参政権を与えるのはよくないとか、そういうことをいままで政治に何の関心もなかったような人が口にするようになった。右翼といえば特攻服の街宣右翼と相場が決まっていたが、若者や女性の参加も目立つ「在特会」のような団体の活動も活発化してきた。竹島や尖閣列島の所有権問題が起きると、少し前まで中国や韓国に対して好感を持っていた人まで「在特会」と同じような主張をするようになった。いわく、南京大虐殺はなかった、従軍慰安婦は捏造された、強制連行はなかった・・・・非正規社員にしかなれず将来に展望の持てない若者が民族排外主義に走るのは普遍的な現象である。また、日本は中国や韓国とちがってきちんとした歴史教育をしていない。日本が韓国を文明化したかのような荒唐無稽な主張がまかり通っているのは、日本の植民地主義と侵略戦争をきちんと教えてこなかった教育に責任の過半があるが、こういう歴史意識のない軽薄な連中とは縁を切ればそれで済む。一方で、無罪が確定した小沢事件、大阪地検特捜部主任検事証拠改ざんにより無実の罪で収監された村木厚子事件など検察と警察の横暴は目にあまるものがある。特に2011年5月20日に東京高裁で行われた大弾圧はすさまじい。仮執行の停止を求める弁護団に会おうとしない裁判長に抗議しようとした三里塚空港反対同盟とその支援者に機動隊が突然襲いかかり、89歳の北原鉱治事務局長はじめ50名を逮捕した事件である。何の法的根拠もない逮捕であり、50名全員は無罪で奪還されたが、原告団団長の超高齢の女性をさえ逮捕しようとした無茶苦茶な弾圧だった。こうした右傾化と警察国家化に対しては闘わなくてはならない。そのために何が最も有効か、しばらく考えていた。一つは全国住民運動、反公害闘争の頂点であり結節点である三里塚空港反対闘争を支えることである。成田空港は、閣議決定から47年たったいまも当初計画の半分しか作られていない。反対同盟を中心とした勢力が実力で阻止してきたからだ。11月28日の横堀団結小屋破壊阻止闘争に参加したのも、三里塚闘争の再々度の高揚を願ってのことだ。もう一つは労働運動に対する攻撃に反撃することだ。いま強まっているのは、都市雑業に従事する路上生活者に対する排除攻撃である。公園のベンチを改変したり花壇を作って寝られないようにする陰湿なやり方から、堅川河川敷などに見られるような話し合いを無視した強権的な排除まで、行政と警察が一体となった弱者排除が行われている。資本主義社会の矛盾は、日雇い労働者やホームレス、障害者や病者、被差別部落民やアイヌ民族、ブラジルからの出稼ぎ移民二世といった底辺の弱者に集中する。資本主義の矛盾が高まる中では、ナチスドイツがそうであったように、こうした弱者への差別を媒介にナショナリズム、排外主義がかたち作られていく。昨年、はじめて釜ヶ崎を訪れてみたが、山谷・寿・笹島にも行って、まず現場の人たちに会って話をきいた上で何ができるかを考えたいと思っている。もう一つは学生運動である。学生は、いつの時代にも最も先鋭に社会の矛盾を暴き、そしてその最前衛で闘ってきた。60年安保でもベトナム反戦運動でも、学生が身を挺して闘ったからこそ労働者や市民も立ち上がっていった。国家権力が最もおそれるのが学生運動の再興だろう。そうであるならば、学生運動の復興と復権のために協力するのが最も意義がある。こう考えて調べてみた。それでわかったのは、法政大学で2006年3月14日以来、のべ118名の逮捕者と33名の起訴者を出すという大弾圧が行われる一方、法政文化連盟を中心とする学生運動が力強く広がっているという事実。2012年5月31日には東大ポポロ座事件以来という暴処法による起訴を粉砕して無罪を勝ちとっている。起訴されたら有罪率が99.9%の日本の刑事裁判での無罪判決は、この逮捕と起訴がいかにでたらめなものだったかを示している。言ってみれば、正義は彼らの側にあるということだ。正義の味方であるわたしは、彼らを支援することにした。しかし法政大学といえば昔から中核派の拠点校。「無罪戦士」たちがセクト主義者かどうか確かめる機会をうかがっていた。ネイキッドロフト(新宿)で無罪戦士のひとり恩田亮主催の「全日本無罪祭」があるというので東京滞在を一日のばして行ってみることにした。この恩田亮こそ、最初に注目した人物。暴走族あがりのヤクザのような容姿容貌がイカしている。デモではいつも黒ヘルをかぶっている増井真琴、何ともイキのいいアジテーションが愉快な斉藤郁真(全学連委員長)もYOUTUBEで見て知っていた。当日の模様は日刊サイゾーでレポートされている。内容はこのレポートにあるように盛り沢山だったが、最初に上映されたドキュメンタリー映画には驚いた。ビラまきや立て看の自由さえない現在の大学の姿、そうした活動を行う学生を警察に売り渡して恥じない腐敗した大学人たちには心底腹が立つ。当事者たちに迷惑がかかるのでなければ、ひとりまたひとりと闇討ちにするところだ。サイゾーのレポートに付け加えるとするなら、今回、法政文化連盟の新委員長になった武田ゆひまるは、委員長にふさわしい人物という印象を持った。こういう催しには、左翼・新左翼くずれの「人間のクズ」が必ず何人か来るものである。この日も、やはりそういう人物が登場しピントはずれの質問をしまくったのだが、それに対する武田ゆひまるの対応・回答は正面から問題の本質をえぐりだした見事なものだった。わたしの学生時代、学生活動家というと党派の機関紙に書いてあるのと同じことしか言えないような人間が多かった。自分の言葉で何かを語ることのできる人間はほとんどいなかったと言ってもいい。しかし武田ゆひまるをはじめ、この日のパネラーにそういう人間はひとりもいなかった。仮に彼らのうち何人かが中核派でも、ありえないことだが全員が中核派だとしても、彼らは信頼できるし、少なくとも彼らの大学に対する闘いはあまりにも当然なことばかりなので支援していきたい。武田ゆひまるはささいなことで無期停学になった。この処分に対しては裁判闘争を行うというので、ぜひ支援していきたいと思っている。「優しいエセサヨク」島田雅彦をツイッター上で糾弾するなど、さっそく活動を開始したところだ。彼らのような立派な若者は、全共闘の時代にもいなかった。青春、若さのすばらしさを胸一杯に呼吸できた催しだった。左から恩田亮、斉藤郁真、菅谷圭祐(ゆとり全共闘)、早見慶子(元戦旗派)左から斉藤郁真、黒猫菊花(中核派全学連)、武田雄飛丸左端が恩田亮、白衣に黒ヘルが増井真琴、増井のすぐ後ろに黒猫菊花が少し見える。横断幕の中央が武田雄飛丸
December 17, 2012
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音楽の楽しみはアンサンブルにあると思うので、よほどのことがなければ独奏楽器のリサイタルに行こうとは思わない。特にピアノのようにがさつな響きの、音色の変化の乏しい楽器の場合は。しかしこのコンサートはどうしても行ってみたかった。チェルニーがピアノソロに編曲したモーツァルトの「レクイエム」が演奏される非常に珍しい機会だからだ。小川京子は小樽生まれで札幌育ち、モーツァルト研究者で評論家の海老沢敏をパートナーに持つピアニスト。前半はシューベルトの「グラーツ幻想曲」と「さすらい人幻想曲」 というハ長調の作品2曲を並べ、後半にピアノ版「レクイエム」 という構成。「レクイエム」は弦楽四重奏版などでも聴く機会は増えたが、ピアノで演奏する場合に危惧される点がいくつかあった。ピアノは音を点としてしか表現できない。歌や弦楽器や管楽器のように、ひとつの音を長くのばしてクレッシェンドできない。琴と同じで、出された音は減衰するしかない。だから、ピアニストの演奏はたいていのばあい、テンポが速くなっていく。もっとじっくり細部を聴きたいと思ってもどんどん進んでいってしまうと感じるケースが多い。しかしベテランで重鎮の小川京子はさすがだった。響きの空白をおそれることなく、適切なテンポでじっくりと歩をすすめていく。チェルニーの編曲もかなり原曲の意図をつたえるもの。ただ、もう少しダイナミズムの変化があった方がこの曲の劇性を表現できたとは思う。前半のシューベルトにも感じたベテランならではの味わい。コンチェルトをバリバリ弾きまくるようなコンサート・ピアニストからは聴くことのできない、枯淡でもなく熟練ともちがう何か、それを聴くことができたのもいい経験だった(キタラ小ホール)。
June 3, 2012
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毎年、7月の第一土曜日の午後三時から行われている唐牛健太郎の墓参会に参加してきた。朝6時に車で家を出て函館着は13時30分。昼食の場所を探すのに手間取って14時を過ぎてしまい、函館駅から徒歩3分のところにある大門横丁のすぐ隣にある「長月」という蕎麦屋に。偶然入ったがこれが名店と言っていい店で、食べログ第8位の評価は低すぎる。もしこの店が8位なら、函館はよほど蕎麦の名店の多い土地ということになる。蕎麦は中もりにしても値段が変わらないというのは良心的。一品料理も多いので、今度は夜に来てみたいと思った。ガイドブックに載っている「名店」を訪ね歩くより、こういう偶然がうれしい。供えものに、家の庭に咲いている赤い花を3輪、イチゴの産地として知られる豊浦にある道の駅で唐牛健太郎にちなみ「けんたろう」種のイチゴを買い、福島県の日本酒「奥の松」を持参した。今年の参加者は真喜子未亡人をはじめ全国から25人。どんな人たちが参加するのか興味があったが、組織や団体を背景にした参加者は皆無。唐牛健太郎の友人や元同級生を中心に、唐牛に思いを寄せる個人が、墓参のあとの酒宴なども楽しみに参加しているようだった。元ニセコ町長で衆議院議員の逢坂誠二(50歳)が3番目くらいに若い参加者ということからわかるように、参加者の高齢化には60年安保闘争から51年、没後27年という歳月の重みを感じる。しかし、真喜子夫人をはじめみな若々しく元気で快活、溌剌としているのには驚く。墓参といっても、形式的なことは一切なく、墓の前での立食パーティといった趣き。この墓というのが場所も形も唐牛健太郎にふさわしくユニークだ。健太郎に墓は似合わないと反対していた真喜子夫人も、この場所ならと心が動いたという。作られたのは1990年7月のこと。100人が集まった除幕式では前衛舞踏家が踊り、ジャズや練鑑ブルースが流れたりしたらしい。海を見下ろす墓地のいちばん高いところにあるが、すぐ上に無縁仏の大きな墓がまるで守護神のように建てられている。隣は函館一の名家の立派な墓だが、それよりもいい場所にある。秋山祐徳太子がデザインした、インド産の500年はもつという御影石の墓石のまわりを植物が囲い、墓の正面には彼の母キヨさんが書き残した字を使って唐牛健太郎の名前が刻まれている。墓のデザインは、海を愛した唐牛にふさわしく波を表したものだというが、炎のようにも、いくつもの山脈のようにも見える。人類史に特筆される大「事件」であった60年安保闘争に青春のすべてを燃焼させ、その後は波乱に富んだ人生を送った彼の生きた奇跡そのものを象徴しているようにも見える。前衛美術家がデザインすると墓もこうなるのかと、写真で見て知ってはいたが感嘆した。函館市は、観光ガイドから一パイ500円というクレージーな値段でイカを売っている函館朝市を削除し、唐牛健太郎の墓を詳細な地図入りで掲載すべきだ。その秋山祐徳太子も来ていた。昔、東京都知事選の時期に東京にいてポスターを見たことがあったが、とても75歳には見えないほど若々しい。もっと奇妙キテレツな人かと思っていたがそうではなく、たしかに個性的ではあるが、何より唐牛健太郎にも通じる自由闊達な精神の持ち主と見た。「いまだ下山せず」の著者、泉康子さんも来ていた。今年74歳の彼女は、昨年の「唐牛健太郎写真展」のメモリアル・ブックを製作し、ゴールデンウィーク前には気仙沼や石巻でヘドロかき出しなどのボランティア活動をしてきたらしい。その行動力には驚くほかないが、「人間の可能性の次元にたいして尽きせぬ関心を寄せながら・・・人間の現実性の次元にたいしても徹底した注意をはらう生の根本的課題にとりくむ際の知力、体力そして胆力において・・・最も信じうる能力をもったもののひとり」であったという西部邁の唐牛評(哀しき勇者)を思い出した。震災と原発事故が起きたとき、唐牛健太郎が生きていればと何百回思ったかわからない。彼が生きていれば、卓抜な指揮官、司令官として千人分の働きをしたにちがいないからだ。東電を叱咤し官邸を恫喝し、米軍や自衛隊、万単位のボランティアを束ねることができるのは彼しかいなかっただろう。そうした唐牛の知力・体力・胆力に通じるものを、泉さんからも感じたが、これは60年安保当時のブント活動家の多くが持っていたものにちがいない。唐牛健太郎は、西部邁が書いているようにそれが並はずれていたのだ。だから島成郎がわざわざ北海道まで全学連委員長にスカウトに来たのだろう。ちなみに島成郎「ブント私史」と西部邁「60年安保 センチメンタル・ジャーニー」は世界初の独立左翼であったブントに関する証言、歴史的資料として一級である。翌日は登山の予定だったので、墓参会だけで失礼して18時からの酒宴には出席しなかったが、来年の墓参の際には出席するつもりだ。唐牛健太郎が愛した女性と酒を飲み交わし歓談できると思うとその日が待ち遠しい。それまでは節酒と体調管理を心がけよう。
July 2, 2011
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ギリギリまで迷ったが、やはり行くことにした。毎年7月第一土曜日の3時から行われている唐牛健太郎の墓参会である。唐牛健太郎は、「共学同事件」で政治運動から身をひいたが、日本共産党の「汚れた青春」キャンペーン、反トロツキスト・キャンペーンの餌食となった。トロツキストは右翼からカネをもらい、挑発的暴力行為で警察を利しているという、あの自己保身合理化キャンペーンである。ロシア革命を肯定する立場からはトロツキーは偉大な革命家であり、日共の反トロツキストキャンペーンに惑わされることはない(少数派だった宮本顕治は多数派からトロツキストと規定されていた)。しかし、田中清玄を右翼の黒幕とした「汚れた青春」キャンペーンは、日本共産党の枠を超えて影響力を持った。清貧を旨とする左翼・新左翼全体がそれを信じた。しかし田中清玄は武装共産党時代の委員長であり労働運動の指導者だった。転向したとはいえ右翼になったわけではなく、せいぜいリベラルといったところだ。ハイエクとの交流など、知識人として一級だったといっていい。こうした事実確認を怠った知的怠惰、実業家=右翼といった固定観念にとらわれた思想的な弱さの克服なしに、知的再生はない。人間的誠実さの出発点も獲得できない。つまり、日共の反トロツキストキャンペーンを一瞬でも信じてしまった人間は、その贖罪が不可欠だということだ。そしてその贖罪は、唐牛健太郎の墓参を行ってはじめてその端緒を得ることができる。かつて敵対陣営にいた人たちが陸続と唐牛の墓に参る。そうした人たちが献花に訪れている事実もあるようだが、こうしたことをぬきに戦後日本の虚構たる「革新」の根本的な転換はありえないと考えたので、今年も行くことにしたのである。驚いたのは新右翼の鈴木邦男氏が参加していたことだ。なんでも、1982年ごろ、講師に来てもらったりと交流があったらしい。唐牛を招く鈴木氏も、その招きに応じる唐牛も、なんという度量の広さか。左から元早大反戦連合で自治労の高橋公氏、前衛美術家の秋山祐徳太子氏、鈴木氏。高橋氏が手にもっているのは唐牛と鈴木氏のツーショット写真。途中から雨になったので墓地の中にある喫茶店に場所を移したが、鈴木氏の飾り気のない、腰の低い人柄が印象的だった。労働組合の幹部には尊大な俗物も多いし、日共や革マルのようなカルト的セクトにはまったく話の通じない人間が多いが、そうした人たち、あるいは右翼にしろ左翼にしろ自分は安全なところにいて無責任な「評論」にふける人間たちと比べたとき、鈴木氏の人間的な誠実さと善良さは歴然としている。それにしても、何十年か前には「いつかこの男を殺すことになるかもしれない」と思った男と出会い、打ち解けて話をし、その人間性に感銘を受けるとは、人生は何が起きるかわからないものである。
July 6, 2013
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24日は唐牛健太郎展2010のオープニングイベント「唐牛健太郎を語る」に行くことにしていた。そのイベントは14時からなので、その前に温泉二ヵ所をはしごすることにした。一ヵ所は、朝6時からやっている湯の川の山内温泉。湯の川温泉は中学の修学旅行以来なので38年ぶり。迷ったが、早くから入ることができるのと、唐牛健太郎ゆかりの町の雰囲気を味わいたかったので、ここにした。電車通りに面してはいるものの、わかりやすい場所とは言えないので、メモ代わりに向かいの郵便局も撮っておいた。そうしたら、驚いたことに、この「山内温泉」は唐牛健太郎がいつも通っていた温泉であり、郵便局は彼の母キヨさんが保険外交員としてずっと勤めていた場所だったということが写真展でわかった。もしそれを知っていたら、山内温泉の番台の人や、年配の常連と思われる人たちに唐牛健太郎のことを尋ねていたのに。函館から60キロほどのところにある北海道最古の温泉、知内温泉に向かう。海沿いの国道を走ると、曇天にもかかわらず独特の明るさを感じる。同じ津軽海峡に面していても、海が北側に広がる青森と南側の函館ではまったく雰囲気がちがう。この明るさが、唐牛の明るさの1%くらいの背景になっていたのかもしれない、などと考えながら海からそれて山道を20分ほど走ると知内温泉に着いた。開湯して800年というが建物などにはそれほど古さを感じない。飲泉もできる熱いお湯が惜しみなくこんこんと注がれている。水で埋めないと入ることができないほどだが、熱い湯が好きな人にはいいかもしれない。1973年に作られたという露天風呂は混浴。唐突だが、わたしはブントである。日本に数千人から数万人いると思われる「ひとりブント」のひとりであり、ブント唐牛派を自認している。歳をとったので、たいていのことはゆるすことができるようになったが、唐牛健太郎についてデマを述べたり、知ったかぶりで解説したりする連中だけは容赦しない。唐牛は形のあるものを何も残さなかった。著作もない。行動だけで、33万人が参加した60年安保闘争を切り開いた。その人物について多くの人が書いているが、青木昌彦が追想集に書いた次の言葉がその人柄を最もよく表していると思う。「君は1959年初夏、彗星のごとくにわれわれの前に現れ…君の登場に新しい時代の到来を予感せずにいられなかった。君の全存在は官僚主義に対する自由闊達、権威への盲従にかえるに明朗な自立への志向、優柔を圧倒する決断と意志の力を発揮してやまなかった」一度でいいから実物と会ってみたかった。そう思う人はたくさんいるが、たいていの人は何か残している。著作や作品を通じて想像できる。しかし唐牛は何も残さなかった。放浪といえる人生を送った、それだけが残った。唐牛健太郎とはもしかすると会うチャンスがあった。彼は1980年代の初め、札幌徳州会病院の設立のために札幌に来ていたのだ。元北大全共闘の行動隊長だった知人が、興奮してカロケンに会った話をしていたことがあった。そのときは何とも思わなかったが、惜しいことをしたものだ。函館に戻り、「唐牛健太郎を語る」に。中学や高校の同級生、北大の元学生自治会委員長、湯の川町内の人などが個人的な関わりの範囲で故人について語った。母キヨさんは、想像通り立派な人だったようだ。水産会社の経営者だった父親がメチルアルコールで死んだため、母ひとり子ひとりで、友だちが帰っても、母親が帰ってくるまで外で遊んでいたという。キヨさんのインタビュー記事「信ずる道をあゆませる」は、東大闘争のときの「キャラメルママ」とはあまりに対称的だ。イベントではまもなく公開される函館出身の作家、故・佐藤泰史原作の映画「海炭市叙景」についても語られていた。唐牛家に土地を貸していた地主の孫娘にあたる人もこの映画に協力したらしいが、この人が語ったエピソードから感じた「正義感の強さ」が印象的だった。話しているのは唐牛健太郎が委員長になった全学連第14回大会で、目前でその就任あいさつを聞いたという東京在住の「元闘士」。70はとうに越えていると思われるのに、若く見えて驚いた。その左隣に座っているのは毎年7月に行われているという墓参の世話人役をしている人。なんでも、最近は唐牛を直接知らない、若い女性の参加が増えているという。たしかに、残っているわずかな映像などを見ても、カッコイイ。石原裕次郎よりずっとイケメンだったという証言もあるが、若い女性のアンテナ感度はさすがだ。墓参には参加させてもらうことにした。
October 24, 2010
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このプラスチックシーラー(アスクワークスFR200A)は買って4年ほど。ちゃちな機械なので耐久性があるとは思えなかったがトラブルなく使えている。キッチン家電として使っているので使用頻度が少ないせいかもしれない。電池式のシーラーは100均にも売っている。しかし、たとえばかつお節の袋のように幅が広いものにはかえって使いづらいと思ったし、卓上式だと両手が使える。それほど高いものでもないし(送料込2000円程度)手に入れてみたところ優れものだった。もともと想定していた用途は焙煎した珈琲豆のパッキングのため。しかし、ビニールやナイロンやプラスチックの袋なら何でもシーリングできるので、大袋で買った食品の保存にも大活躍している。開けた袋菓子などはつい全部食べてしまう人も多いだろう。残しても湿気のせいでまずくなる、と理由をつけて完食しがちだ。しかしシーラーがあればその心配はないし、保存も楽。この手のものはヒーター線が断線しがち。しかし墨田区にあるこの会社からは、こうした消耗品も手に入れられるし交換も自分でできるようなので長く使っていけそうだ。20センチと30センチの製品があるようだが、20センチでほとんど不便を感じない。ペットフードの大袋なども工夫すればシーリングできるし、小さめの袋(ジップロックなど)に入れ直せばいいだけだからだ。キッチン家電は買って失敗したと思うものが多い。ただでさえ狭いキッチンがさらに狭くなったり、洗うのが手間だったり。パスタマシンもホームベーカリーも結局一度も使わず処分してしまった。電動スライサーはすぐ切れなくなったし洗うのが手間なブレンダーはやめた。しかしこの卓上シーラーは、早く手に入れなかったことを後悔するくらいで、使いかけの食品が美しく保存できるのには生活の質が上がったような錯覚さえ感じる。
May 22, 2016
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