綴

2007年01月11日
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カテゴリ: 【幻】 -第1幕-
 噎せ返るような生々しい血の匂いが、空気を埋め尽くすように充満していた。嗅ぎ慣れない血は、本能的に生理的嫌悪を引き起こし、顔の筋肉が強張り、歪む。
(なに……これ?)
 睦月【むつき】は血の海に座り込んだまま、困惑した。
 どう考えても尋常ではない雰囲気に、背筋に鳥肌がじわじわと浮かび上がりはじめた。恐怖を振り払うように忙しなく左右を見回すが、周囲は光の浸食を一切許さない、深くおどろおどろしい闇だ。何も、見えない。闇の中、血の海だけが浮かび上がるように色を持っている。
 認識できるのは、‘血’のみだ。
(……血)
 頭が赤い液体を認識した途端、吐き気がこみ上げてくる。
 素足に、指先にまとわりつく滑った感触が生々しくて、悪寒で身体が震えた。鼻につく匂いに、神経まで侵されているような錯覚を覚え、気がおかしくなりそうだ。禍々しい血の色が、目にこびり付くようで痛い。
 --気持ち悪い。

 強迫観念にも似た思いに、真っ白だった頭が浸食されていく。本能で感じ取った危機感に忠実であろうと、睦月は全身を使い立ち上がろうとするが、足に力が入らず、そのまま血の海に倒れ込みそうになる。
「……っ」
 身体の前面が血の海に浸り、赤く染め上げられそうになった瞬間、後ろから誰かが支えた。驚愕と一抹の恐怖に、跳ねるように後ろを振り返る。だがすぐに安堵で、睦月は体の力が抜いた。
 張りつめられた風船の空気が抜けたような感覚に、涙が出そうになる。
「……“お兄さん”」
 睦月の呟くような声に、睦月の両脇に腕を通し、ホールドをするように支えている男は笑った。
(良かった……これは、夢なんだ)
 精密画を見ているような感慨を受ける整った顔の中で、左右違った色の瞳が細められていた。艶のある黒髪も、すらりとしたスタイルも、いつもと変わらないストイックさのある暗色の服装も、睦月の目にはよく馴染んだ姿だ。
 見間違いようのない姿に泣き出しそうな安堵を感じ、情けない表情で睦月は笑み返す。これが夢だと断言できる証拠が現れたのだ。この悪夢のような光景が現実ではない。それだけで呼吸が楽になる。
 あまりの非現実さであるのに、夢だと考えなかったことに今更ながら睦月は驚く。だがあまりにも五感を犯す血の感覚に、頭まで血に染められたようだったのだ。血の色と匂いに麻痺させられた脳は、錆びたように機能を果たさなかったのである。
「お…兄さん。あの、その……」

 --はやく、この場所から離れたい。
 そう伝えたいのに、一向に役に立たない口に情けなさを感じつつも、必死に拙いが言葉を紡いでいこうとすることを制するように、睦月より一回り大きな手が口元に少し触れ、遠のいた。
 驚愕に目を大きく瞬かせながら首だけを使い振り返ると、男は血溜まりなど目に入っていないような晴れやかで楽しそうな笑みを浮かべている。
 いつもと変わらない、いやいつも以上に輝かんばかりの笑顔に、睦月は絶句するしかない。
「お、に……さ…ん?」

 パニックを起こしかけている睦月を宥めるためだろうか。男は大きな手を使い優しくかき回すように頭を撫で始めた。
 ゆっくりと頭蓋骨に沿うように動きに、温かい手の温度に、脳味噌にこびりついていた血の欠片が剥がれ、剥がされた欠片は、涙と共に流れ落ちた。睦月は頬を伝う涙が、本気で赤い色をしていないかと不安になるほどだった。恐る恐る涙をぬぐい取る長い指先に視線を移すと、肌色以外の色はない。
 安心に更に涙がいきおいを増しそうになるのを、ぐっ、と睦月は堪える。その顔がユニーク-つまり酷い表情-だったのだろうか。男は楽しげに喉を震わせながら、耳元で囁くように低いバリトンの音色を睦月の鼓膜に注ぎ込んだ。
「これぐらいで泣いていたら、やっていけないですよ?」
「…え?これ、ぐらい、て。だってっ、血が」
「ええ。ですから‘この程度’のことでいちいち泣いていると、干涸らびてしまいますよ?」
 血が、血の海が‘この程度’。
 あまりの男の価値観、いや感じ方に呆然とする朔夜に、男は呆れたような表情だ。
「君は‘あの刻’の記憶を夢に見始めましたからね。それにここ最近、どうも下賤の輩の気配が街のあちらこちらから感じていけない。まぁ、そこから何が起こっているか考えてみると賽は投げられたと、と考えるのが妥当でしょうね」
 一言も睦月は理解できなかった。それと血が関係があると叫びたい。
 だがあまりにも常のように自信に満ちあふれ、尚かつ断言するような響きを持つ男の言葉に飲まれそうになるのに、睦月は必死に流されないよう顔に力を入れ、眉を顰めた。
「何を可笑しな顔をしているのですか? まぁ、いいでしょう。さて、と言うことで事態は動き始めたようですからね。君はどうせ、波乱の中心に置かれるのです。‘この程度’のことぐらい、耐性がないと」
「…………ないと…どうなるの?」
「“壊れます”よ」
 コワレル。
 何が、とは睦月は聞き返せなかった。安堵でとろけていた身体が、再び冷凍されたように筋肉が、神経が氷っていく感覚に背筋が震えた。
 壊れる、という不吉な言葉ももちろん怖い。
 だがそれよりも、目も声も楽しげに笑っている男のことが、何故ここまで恐い。
(…“お兄、さ…ん”? ち、がう……コノヒト、ハ  ダレ?)
 これは人ではない。---爪を研ぎし、獲物を目の前にしている猛禽など比べものにならないほど恐ろしく、他者を圧倒する孤高の、美しいモノだ。
 息も出来ないほどの威圧感を醸し出している男は、愕然と顔を強張らせ微かに震える睦月に気が付いたのか、視線を投げかけてくる。だが、昔から懐き、甘えていた男が別の‘イキモノ’のように感じてしまった睦月は、まっすぐに視線を合わせることができなかった。
 息苦しさを感じるほど鈍い色を纏い始めた雰囲気に押し潰されたかのように、睦月の面はだんだんと俯いていく。このまま足下を見ればまた血の海を見つめることになると言うのに、それでも視線を外したいと思い、睦月は重力に従うように項垂れることにした。目を閉じれば何も見えないのだ、と言い聞かせて。
 だが項垂れる寸前に顎を掴まれ、無理矢理顔を後ろに逸らされる。喉の筋肉が限界まで伸ばされる痛みに閉じかけた目を睦月は開けてしまった。
「おにぃっ」
「ほら、始まりましたよ」
 何を、何が、と問う前に、男は長い指で睦月の顎を固定したまま、ほら、とまた何かを促す。
「見ないのですか? せっかく美しいのに」
「だからっ、何が」
「この世で、僕が最も、いや唯一‘美しい’と感じるモノ、ですよ」
 いつもと同じ声なのに、そこには僅かだが柔らかで温かく、優しい甘ったるいものが、それでいて睦月には理解できないような深い想いのようなものが含まれているように感じたのは気のせいであろうか。思わず睦月は微かに好奇心が刺激され、やっと恐る恐るだが視線を前方に固定した。
(何…あれ?誰?)
 睦月は目の前に入ってきた光景に、筋肉だけでなく骨や肉まで凍り付いたような感覚に襲われた。
 血溜まりの海の上に浮かんでいるように、氷った血の上に座る二つの人影があった。少女を、少女より背が高い人が抱きすくめている。
 美しい光景だった。血に一切汚れていない二人は、共に睦月が見てきた人間の中で一番といっていいほどの容貌だ。
 柔らかで豊かな銀髪に紫色の大きな目がとても印象的な、可愛らしさと美しさとも取れない、だが整った顔立ちの少女である。少女の纏う雰囲気はどことなく危うさがあり、庇護欲が酷く刺激される。それが嫌味にはならず、むしろ女の睦月ですらそう思う。演じているようには到底見えない儚さは、どういう生き方をしたらこういう雰囲気を纏えるのか尋ねたいほどだ。
 だがそれを遙かに上回る容貌が、もう一人の人物だった。雑誌やテレビで見てきた芸能人など平凡な顔立ちに見えるほどで、整った顔立ちでこういう人を‘麗人’と言うのだろう。艶やかな漆黒の髪に覆われている顔は、神像の彫刻と言われれば納得できるほど人間離れしている。中性的な顔立ちだからか、更にそう思わせられる。蠱惑的と言うのだろうか。人の目を、心を強制的に捕らえてならない引力のようなものを感じる。
(キレイなのに、何で…?何で身体が震えるの?)
 底冷えをするように、身体が震え出してしまう。美しさに感銘を覚えたからではない。確かに魅入られる光景だが、惚けこそし、凍えそうだと思うはずがないではないか。
「  」
 腕に抱かれている少女の口が、微かに動いた。声は睦月の耳までは届かなかったが、少女を抱き微笑んでいる麗人の耳には届いたようで、笑みを深めた。菩薩のように完璧で、優しい笑顔だ。
「……ああ、もちろんだ。やっと告げてくれたな」
 幸せそうな声音だ。だが何故かその声が鼓膜を震わせた瞬間、言いようのない悪寒が睦月の体内を走り、足下がふらついた。男に支えられていなければ、今頃骨が溶けたように崩れ落ち、血の中に転がり、溺れていただろう。
 --恐い。
 今まで感じたことがないほどの、崖っぷちに追いつめられ死を迫られたような恐怖だ。
 優しく細められる目は、温かい声音は、愛おしげに少女に触れる手は、どこまでも慈愛に満ちている。満ちているはずだ。10人中10人はそうであろう、と断言するだろう。だが、睦月にはどうしてもそう思えない。
 狂気だ。麗人のすべてに狂気を睦月は感じていた。何故そう思うのか、直感で感じとったとしかいいようがない。だが確実に、底がないほど深く、暗い執念にも似た全てを灼き殺すような強く、凶悪な想いが籠もっている、と睦月は断言できた。
 --見ては、いけない。
 --この先を、見てはいけない。
 --だって、この先は。
 身体の奥底から堰を切ったように、悲鳴が睦月の喉から溢れ出した。
「いやぁぁああぁっ…放し、てぇっ!」
「駄目です」
「やだ……やだっ、やだぁ! 見たくないっ。嫌! こわ、いっ。いやぁ!」
「文句なら、また今度聞いてあげますよ。ほら、しっかりとごらんなさい。目を背けていてはどうしようもないのですし。何より…あんな美しいもの、滅多に見られませんよ?」
 逃げなくては。
 その一念で、渾身の力を込め暴れる睦月を悠々と制しながら、男はうっそりと目を細めた。
 せめて目を背けようとすれば男の指と腕が邪魔をする。ならば目を閉じようと思えば、男が先を制し、人差し指と親指で無理矢理瞼をこじ開けられる。残酷な男の行為に、逃げ出せない事実に、睦月の目から涙は溢れ出し、身も世もない酷い顔となり、絶叫を上げた。
「いやぁっ……やめて!」 
 麗人の細く長い指に、漫画の中でしか見たことがないような真剣が握られている。
 --見ては、駄目。
 ゆっくりと麗人は腕を引き、少女の胸に刀の切っ先を突きつけた。
 --だって、少女は 麗人は。
 少女は刀を突きつけられても脅えた表情一つせず、むしろ僅かに泣き笑いのような顔だが微笑んでいる。それに答えるように麗人も淡く微笑む。
 --この先、二人とも。
 麗人が、少女の胸を突き刺した。少女の震える身体から剣を引き抜くと、深紅の血があちらこちらに飛び散り、麗人の顔や身体を汚した。
 血の固まりを吐きながらも少女は健気に微笑みを湛え、麗人の頬に手を伸ばし血を拭い取るように細い指先を動かす。麗人は剣を握っていないほうの手を少女の手の上に重ね、幸せそうに笑った。
 笑顔のまま麗人は次の標的を自身に換え、己の胸に剣を突きつける。そして躊躇うことなく、力を込めて貫いた。
 すでに事切れた少女を最後の力を込め抱きしめながら、満足げな表情で麗人は前にのめり込むように崩れ落ちた。
 --思 イ 出 シ テ ハ イ ケ ナ イ
 睦月は、声にならない悲鳴をあげた。





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最終更新日  2007年01月11日 17時36分41秒
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Re:【幻】 序章 「原初の夢」(01/11)  
こんばんゎ♪
砂葉SAN,訪問ありがとぅござぃましたo(*^-^*)o
書き込んでますネ~喝采!☆=
マイペースじゃなィと,書いて行けませんょネ~^-^@
私もぁくまでマイペースで,文章も,書いてみなきゃ,わかりませ~ん♪笑
また,遊びにぃらしてくださぃね☆ (2007年01月11日 21時47分35秒)

Re:青空ちゃん。さん  
砂葉  さん
こんばんは。
こちらこそご訪問、ありがとうございます。
はは、本当に字数制限ギリギリまで序章、ということで張りきって書いてしまいました。
マイペースじゃないと、本当に無理です。一気に書き上げるなんて。
青空さんもマイペースに頑張ってくださいね。
楽しみにしています。
こちらこそまたいらしてくださいませ。
書き込みありがとうございました (2007年01月12日 20時21分59秒)

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