夕べ、フジテレビ系列で放送していた「硫黄島からの手紙」を観た。この作品は映画館で観ようと思っていつつ、ついつい見逃して今に至った作品だ。8月15日の終戦記念日に放映することができたのは大変意義深いことだと思う。
この作品が世に出る前からも硫黄島の攻防については悲惨を極めるということで語り継がれてきたが、やはり映像になると戦争の悲惨さ、無意味さ、そして人間というものの本質について大いに考えさせられる。
私もこのブログで日本人の本質に近づこうと、日々考えていることを綴っている訳だが、先の大戦を部分的に過ぎないが知るにつれ、今の日本政府と当時の大日本帝国政府は本質的には全く変わらないのではないかと思う。さらに、極論と言われるかもしれないが、今の北朝鮮政府と今の日本政府もかなり似通っている部分があると思う。
まずこの三者(現日本政府、当時の帝国政府、現北朝鮮政府)に共通しているのは、権威主義による人民統制だ。恐怖政治となっているかどうかは別として、「お上」を絶対のものとしてその体裁を守ることを第一の使命としている。人民の命や権利などはどちらかというと二の次になっているように思えてならない。その「お上」の一員となればゆりかごから墓場まで国家が相応の面倒を見てくれるため、エリートと呼ばれる人は「お上」のメンバーになりたがる傾向がある。そのためのルートが我が国では東京大学⇒国家一種試験などであり、北の国では金日成総合大学⇒朝鮮労働党幹部候補なのだろう。若者はどの国でもまじめで情熱的だから、このルートに入ることに己の全精力を傾ける。そこで出される課題が実に無意味なもので、困難なものであってもそれを乗り越えようと努力する。
このような権威主義に決定的に欠けているものがある。それは「人間、誰しも間違いを犯す」ということに対する答えである。
「お上」が絶対に誤りのない存在ということになっている世界では、「お上」が道を誤ると当然に国家全体が誤った方向に進んでいってしまう。一旦誤った方向に進んでしまうとそれを過ちと認めて軌道を修正することが難しくなる。「間違える」=「権威の失墜」を意味すると考えられているからだ。為政者(ここでは、政治家ではなく官僚のこと)が最も恐れるのは自分達の立場が危うくなることだ。これに直接つながるのは「権威の失墜」とこれら三者の政府は昔から考えているようだ。その証拠に、間違いがあっても絶対に謝らない。以前、薬害エイズ事件で政府の対応に当時の管厚生大臣が頭を下げたことがあったが、霞ヶ関から相当、非難があったとか。これらの世界では「お上」が頭を下げることは自分達の立場を危うくするから「やってはならないこと」とされているようだ。
本来、政府というものは国民の生活を規制し、保護し、調整する役割を国民からの委託を受けるという形で存在しているべきものだと思う。こう書いても霞ヶ関の人々がこれを見ていたらどう思われるかは分からないが、もし今書いたようなことが政府というもののあるべき姿だとしたら、少なくとも現在の我が国の政府とかつての帝国政府は「そのようなことをやっているつもりだけれども実は全く違うことをやっている」といわざるを得ないことが多々出てくる。じゃ、何をやっているの?と問われると「己の保身」というのが一番しっくりくる答えであることが多い。
やはり、どう考えても特定の人、ましてや同じ学府の卒業生という共通点のある特定の人の保身から出る政策というのは怖い。ときに暴走したりすると取り返しのつかないことになったりする。先の大戦がどうであったかは分からないが、例えば戦況が不利になった時に「捕虜になるのは恥であり、皇軍の軍人は誇りある最期を遂げよ」と命令するのは若者に自爆テロを促しておきながら自分達は安全なところにいる悪い大人たちと大差ないように思う。そこには合理性の欠片などみじんもない。ただ、精神論を唱え、それなりに説得力のある戦術もないままに己の振り上げた拳の下ろしどころがなくなったからといってそれを無碍に国民に負担を強いるやり方は今の政府も共通したやり方と言えないだろうか?
話は変わるが、昨今、国内の製造業が極端に業績を悪化させている。この現状を政府はどう捉え、どうしていこうと考えているのだろうか?
いうまでもなく、製造業は我が国の基幹産業である。我が国の国民はモノづくり(大きすぎるものを除く)にかけては世界でも屈指のレベルにある。何故かというと、我が国は資源がない島国だ。例えるならば海に浮かぶ船である。船の中にあるものはごく限られている。だから船の中で起きるできごとには船の中にあるモノで全て解決しないといけない。たとえ鉛筆一本でも船内においては限りなく貴重な財産だ。このような状況では効率的に物事に対処していくことが要求される。資源(=モノ)がない訳だから、あるモノで全てに対処しなければならない。自然、「モノを粗末にするな」、「もったいない」という思想が生まれてくる。そして、それに我々がご先祖様から与えられた手先の器用さが加わり、少量の資源から最大限の成果を生み出すようになる。これが我が国が工業国として成功した大きな原因だと思う。これが戦後の我が国の国富につながってきたのだ。
このことはこれから先も変わらないと思う。日本にしかできないことはいつの世になろうが存在し続けると思う。もちろん、黙って口を開けているだけではジリ貧になるであろうが。何故か。地球そのものが船となってきていることに世界が気付き始めてきているからだ。地球の上に存在するモノ以上に消費することはできないという単純なことにようやく気付いたのだ。そうなると、我々祖先から受け継いできた「船理論」がある意味脚光を浴びることとなり、一日の長がある我が国にアドバンテージがある。つまり、省エネルギーなもの、目に見えないほど小さいもの、大きくないとできないとされていたことなどについては我が国が今から世界をリードしていく分野だ。これを産学官で力を合わせてどこまで推進できるかに我々の将来の相当部分がかかっているといっても過言でななかろう。
しかし、ここで懸念されるのが「お上」のミステイクである。大陸から追い出された古い記憶を持つ我々にとって外交というのはやらなくていいならばやりたくないことである。いつまでも日本丸という船の上だけで物事をしていたい。他の国々がどうなろうと船の上さえ安泰ならそれでいいという考えが我々のDNAに記録されている。そういった性質を持つ国民の上に立つ「お上」にそれ以上のことを求めるのは無理としても、彼らがミステイクを犯したとき、非合理的な保身に走ってしまうと道を誤ってしまう恐れがある。権威主義的な体制がかなり劇的に変わらない限り我々下々の者にとって軌道修正を彼らに促す手段はない。それで世界から総スカンを食らってもそれに甘んじるしか方法がないのが現状だ。
輸出に関してはいろんな問題が存在するのはとてもよく分かる。しかし、だからといって我が国の根幹である製造業に輸出規制などのしわ寄せをしてはならない。いつだったかトヨタ自動車の社長が「政府は額に汗してモノを生産している我々製造業にばかり圧力をかけ、モノを生産しない金融関係に圧力をかけることはしない」といってぼやいている新聞記事を読んだことがあったが、これは本当のことだと思う。我が国が世界でやっていこうと思うとやはり製造業抜きでは話にならない。これを戦略的に皆で(合理的に、納得を得ながら)推し進めようとするのか、それとも半ばエイヤで方向性を決め、失敗したときに国民にだけ責任を取らせ、旗振り役の自分達は免責とばかりにシカトを決め込むのか。
今のようなフクザツな社会では誰しも満点ではありえない。間違うことが当たり前で間違わずにい続けるなどというのはもはや不可能だというのは小学生でも分かりそうなものだ。にもかかわらず「我々だけは絶対だ、間違うことはあり得ない」という態度を取り続ける政府に本当の信頼が寄せられるのはいつの日のことになるのだろうか。
終戦の日を過ぎて、無意味で精神論的な命令により命を落とした何の罪もない我々の先輩方が今の世を見たらどう思うだろうかと考えるのだが、残念ながら、国家のあり方に関してはあまり進歩していないように思う。世が世なら「非合理的な保身」のために上げた拳の下ろしどころがなくなり、その拳が私にも向けられていたのであろう。毎年、この時期になると今日ここに書いたことを考え、胸が痛くなる。
カレンダー
New!
保険の異端児・オサメさんコメント新着