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こんにちは、風邪っぴきYURIでございます。 ここ何年か風邪のひきかた(?)が変わってきたように思います。 少し前までは風邪もめったにひかなかったですし、 ひいても美味いもん食べてゆっくり寝れば、 たいてい一晩で回復したのですけれど・・・。 今はもう、それが通用しなくなっています(涙) 早めに受診して薬をもらってこないと、 長引くことが多くなったんですよね~。 自分で努力して体力をつけて(これがすごく抽象的^^;)、 自然治癒力(これが輪をかけて抽象的^^;)を高める努力をしなくては。 なんて思っています・・・。 人は年をとり、 新しい命は成長するのです。 実は今日、小学校の恩師の訃報がはいりました。 小学校2年生の時に担任の先生が産休に入ったときの「産休先生」。 ほんの何ヶ月間だけでしたが、 私はこの先生が大好きでした。 目立たない「頑張ってる」を見つける名人の先生。 今でも彼女と繋がっていた元教え子たちは、 どの子もいわゆるおとなしい、目立たない子達。 私はどちらかというと、 プールの塩素のために髪の毛がまっ茶っ茶で、 別の意味で目立ってはいましたが、 家でのごたごたのため不眠になるような小学生でしたから、 学校ではぼおおおおおおっとしているへんな子でした。 すっごく厳しい先生で、私も何度も叱られましたが、 私は先生が大好きでした。 単純なことです。 先生は私をいつも見ていてくれたから。 誰かに関心をもたれるなんて、 私には過ぎた贅沢だと思っていた私のことを、 見て、触って、汗を噴出しながら怒ってくれた人だったから。 今年のお正月。 毎年必ず元旦に届く先生の年賀状が届きませんでした。 いつかこんな日がくるとは思っていました。 先生のご年齢ははっきりとは知りませんでしたが、 先生が私の先生であったとき、 そのお顔にはもう、くっきりとした皺を刻んでいらっしゃいましたから。 成人してから何回か先生とお会いした時に、 先生の娘さんとも面識がありましたから、 連絡をしてみようと思いはしたものの、 何かご事情があるのかもしれないとも考え、 そのままいようと思っていた矢先でした。 今日、医者から帰ってポストを見ると寒中見舞いが一通。 先生は昨年の2月に亡くなられていました。 最後にお会いしたのは7,8年前、 お声を最後に聞いたのは夫と結婚した年。 晩年は弓道と水泳を愛する温かい人でした。 目と鼻の先に娘さんご夫婦が住居を構えていらっしゃいましたが、 先生はずっと一人暮らしを楽しみ、 教え子が尋ねることを何よりも楽しみにしてくださっていました。 それでもお会いできる機会というのは限られていましたが、 年賀状やお手紙でいろいろなお話をすることができました。 同級生のお話を聞くことができました。 私にとっての年賀状。 年賀状を出す、メールでご挨拶する、 それにブログでご挨拶する、 それにこだわりは持っていませんが、 年賀状で挨拶を交わすお相手とは、 この一枚の紙がご縁を長くつなぐものであると、 これまでもこれからもずっと大切にしていくと思います。 まだまだメールなど使えなかった看護学生の頃のお話。 人が生まれる瞬間を間近に見たのは後にも先にもあれ一回だけ。 そのとき生まれた女の子が、 もう中学3年生になり受験勉強に生を出していると、 お母さんからもらった年賀状にありました。 あれから一度もそのお母さんともお会いしてはいませんし、 これからだってその可能性は決して高くはありません。 それでもご縁は続いています。 「時の経つのは早いですね」 そんな言葉がお互いの年賀状にありました。 縁て不思議ですね。 私は幼い頃も、 たくさんの人に命を吹き込んでもらいました。 立派な大人とまではいえないまでも、 良く育ったほうだと思います。 先生にいただいた関心とぬくもりと汗は、 今は私が次世代に注ぎたいと思っている大切なものですよと、 お線香の前で先生にそんなことをお伝えしようと思っています。 涙でがなく笑顔で、先生のご冥福をお祈りいたします。
2008/01/11
宮島へ旅行に行っていた両親からお土産。牡蠣を上品に煮たものです。ひとつずつ真空パックになっていて、きれいな箱の中に6個入っていました。おお、これは旦那と3個ずつだわ~と思いまず1個。ふおお・・、び、美味でごじゃりまする~。 ということで、2個、3個・・・。( ´)∀`)つ[]<マィゥ~ マィゥ~ マィゥ~ 残りはあと3個。これは旦那の分。でも、あと1個だけ・・。ううん、だめだめ。これは旦那の分。でも・・、ううん、だめだめ。そんな時、休憩中の旦那から電話。「ゆっくり休めてる?ごはん食べた?」おお、そうだ。いいことを考えついた!!「ねえ、お父さんとお母さんからお土産もらったよ。 牡蠣だよ牡蠣。美味しいよ。上品な味付けで。」「へええ、楽しみだな~。」「うん、6個分かれて入っててさあ。」「うん。」「美味しくて3個食べちゃった(* ̄∇ ̄*)b。」「・・(゚∇゚;)・・。」「アタシがさっき食べたみっつのうちさあ、ふたつは私のでさあ、 あとひとつはてぃーきむ君(仮名)のだったってことにしない?」「ふひょ(笑)、いいよ。」「ありがとう!!じゃ、私の分はあとひとつ残ってるから食べるね。」「でさあ、きっとあとふたつは二人で食べることになるんだよね。」「・・・おお!!その手があったか!頭いい!!」それを両親に電話で話したところ、30分後には牡蠣がもうひと箱我が家に到着。(実家と我が家は徒歩15分)しょーもない嫁、しょーもない娘でございます。あれ?!「商売人の娘」について日記書こうと思ったら、前置きでこんなに長くなってしまいました。ま、いっかと筆を置く。
2008/01/06
何だかいい感じです。書けるうちに書いておくって、私にとっては実はすごく大切かもしれないと思いました。歩みを感じるために、断片を固まりにするために、去年からいろいろな試みをしていました。マインドマップやコーチング。これはきっと私にとっては調理なんだなあと。食材があってこそ、どんな風に調理しようか考える。それが私のスタイルなのかもしれません。ちょっとどんくさい私に合う方法なのかもしれません。ここや「ほぼ日手帳」(笑)につらつらと書いたものが、私にとっての食材なんです、きっと。ここで調理しようと思うから書けなくなるわけで。もちろん、調理済みのものが出てきたってかまわないのですが、そうでない覚書もとても大切なんだとわかりました。さて、昨日の続きです。私が勉強を始めたかったもの。それは翻訳のお勉強でした。当時は製薬会社で働いていたこともあって、医薬の分野にとても興味がありましたし、日本語にかかわれる仕事をずっと探していましたから。日本語教師を目指した時期もありました。とても興味深い仕事であり、実際に教えることも大好きでした。でも、会社での書類やようやく作成の時であっても、正確な日本語は必要になってきます。要するに能力がないのだと身に沁みました。「日本語にかかわる仕事」って、一体、自分は10年間も何を探してきたんだろうと、ただただ看護師の仕事から足を洗うための何かを、あれでもないこれでもないと逃げながら探していたのかと、そんな風に考えていた矢先の出会いでした。その講座の先生は言葉の本質を真摯にみつめる方でした。その方の著書をむさぼるように読み、いてもたってもいられずに講座に入会し、会員だけが読める著書も入手し一気に読みました。この道を行こう。はっきりとそう思いました。言葉の本質に真摯に取り組めば、私にもこの仕事ができるかもしれない、そう思い、仕事も減らしてまずは10年間、ここで頑張ってみようと決心しました。でも、結局2回、課題を提出しただけで、私はそこでの勉強を辞めることになりました。「なりました」というと不可抗力のようですね。いいえ、続けようと思えば続けられたのです。介護や家族の死や経済的なこと。どれも乗り越えてきたのですから、軌道を戻すことはできたのです。難しい仕事だから怖気づいたとは思いたくありませんし、実際そうではないと思っています。ただ、夫と日本で生きていくために、何が一番いい形になるのかを考える必要はありました。義母が他界して、夫は日本で生きていくことを決め、一番やりたいことを私に告げました。それにはただ単純にお金が必要でした。ここで、自分の10年後に賭けて頂戴とは言えませんでした。それほどの覚悟を持つことができなかったのです。お互い好きにやりましょうとも言いたくなかった。それが私の選択でした。おいおい、そんなに重要なことかい?と思いますか。ええ、とても重要で大切なことでした。将来、自分に言い訳をしないための、自分で自分の人生の責任を取るための。迷うことは責任を取ることです。責任の場所を確保することです。私は夫とともに開業準備に取り掛かることにしました。その講座にはもう2年ほど籍を置いているのですが、実際、技術的なことは何一つ勉強を始めませんでした。ただ、商売(と言ったら怒られるかもしれませんが)の厳しさ、どんな仕事にも通じる仕事に対する姿勢、そういったものを感じ取ることができ、筋の通った何かを持ちたい、闘うことができる人間になりたいと思うことができました。その方のブログと相互リンクさせていただいていますが、何もお断りをしていないので詳しいことは書きません。私が入会していることもご存知ではないだろうと思いますが、こんな独り言の日記でひっそりと感謝を述べたいと思うのです。その方に人生を変えてもらったのですから。実はまだ、退会手続きをしていません。そこの会報誌がとても面白くてついつい先に延ばしていたのですが、仕事をするために切磋琢磨する人たちが集まる場所に、私のようなものがいつまでもいてはいけません。そろそろ、手続きをしなければいけませんね。手放したものがこんなにも自分の中にしっかりと残る。手放すのも初めてならば、そんな経験も初めてです。将来に繋がる選択であったと、そんな風に振り返ることができる未来を作っていきたいです。さて、もう少し自分の棚卸し、してみようかと思っています。蛙の子は蛙。商売人の娘の血は商売人のDNAで溢れている??
2008/01/06
現在、医療機関で二交代勤務に就いていますが、一回夜勤をやってガーッと寝ると、あっという間に3日間くらい過ぎてしまいますね。そしてあっという間に年をとるのかしら・・?でも、お休みを充実させることができるので、もう少し実力をつけて休日は仕事を忘れられれば(爆)、もっと休日を有意義に使えそうな気がします^^さ、この日記で気持ちを切り替えて、夢に向かう自分の世界に浸っちゃいましょ。いきなりですが、私は親に何かを反対されたことがありません。でもって、始めたことをすぐに放り出したこともありません。水泳は3歳から13歳まで続けました。経済的理由であきらめた大学進学も短期留学も、社会人になってから自分で稼いで実現させました。働きながら日本語教師養成講座と大学を卒業しました。看護師もなんちゃってナースではありますが、今年で丸15年^^なんとか続けてきました。大きな成功をしたわけではありませんし、こんなの普通よおと言われるかもしれません。心の赴くままにやってきましたので、「これ!」というたった一つのものを達成してもいません。それでもこの経験は私の大きな力になっていて、私の中では立派な成功体験です。でも、今回初めて「手放す」という作業をしました。もちろん今までも何かをあきらめたり、別の道を行くという経験はしてきましたが、これだ!みつけた!と思うものを、一歩踏み出したばかりで手放した経験はこれが初めてです。そして初めて知りました。手放すって力がいるものですね。時期的にはもう2年も前のことになるのですが、私はこれで生きていきたいと思うものを見つけました。私が愛する日本語を使ったお仕事。努力して者になるのか、適性はどうなのか、それは全くわかりませんでしたが、実際にそのお仕事にかかわっている方のブログを読んで、そこから勉強の場につながって、時間もお金も将来の自分に投資しよう、まずは10年頑張ろうと、一歩踏み出したその時期に自分をとりまく環境が変わっていきました。正確に言いますと、地獄のような日々にひと段落したので、楽天ブログも始めたところだったのですが、それでもまだ変化の渦中にいたのだと気がついた時期でした。(どんな日々だったか知りたいですか?うふふ、いつか・・)・・・やばい、疲れた。かるーくと思ったのですが、書き出すと自然に気合が入ってしまう。普通であれば、ここでワードに保存して、(今は下書き昨日があるようですが)また後日に練りにねるのですが、今日は取り合えずここでアップしちゃいましょう(笑)おお!それがいい!賢いぞ私!!・・と、言い訳して自分を甘やかす私。ま、続けることが目標ですし。この続きは夜にでも書こうかな。
2008/01/05
さてさて・・。はえーな「次回」・・( ̄◇ ̄;)mixiの日記の転載なので本日アップでございます。転載と言ってもそっくりそのままは赤裸々なので、楽天では少しソフトに編集してありますが(笑)以下、mixi日記を「ほぼそのまま」転載したものです。ー。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-。-ええ、この題名、そのまんまですわ。 このかん、開業について旦那とえらくバトりまして。 バトッたと言うよりも私が切れた・・。 でもね、わかっていたことなんですよ。 こういう男なんですよ。 そういうヤツと結婚したんですから、 私だっていろいろと妥協しなくちゃいけないんですよね。 が! 開業したいと言ったきり、 勉強もせず、必要なら融資をと言ってくれた義弟に直接挨拶もせず、 事業計画書を作って周囲に自分の計画を発表しなければという気持ちもなく・・。 そりゃあ韓国の友人と飲みに行くのは奨励しますし、 気分転換は誰だって必要ですから文句はいいません。 でもでもでもでも。 もし、私が開業を思い立ったならば、 夫に頭をさげ、親戚に事業計画を公表し、 資金融資を申し出てもらったならば、 燃えに燃えて開業準備に着手します。 実際してましたし。 そう、私が。 本を読み漁り、友人に声を掛け、 20代のころ入り浸っていたバーのおねーさんに会いに行き、 学生時代にお世話になったちゃんこ鍋やの奥さんに会いに行き、 物件相場を調べ、月商、客単価、仕入れなど、 断片ではありますが仕事の合間に少しずつ進め、 10キロの白菜でキムチを試作するその横で・・、 うちのバカ亭主はPSPに夢中。私はブチ切れた自分こそが気の毒になりましたよ。 ちっくしょおおおおおおお!! このバカてええええしゅーーーーー!! ヽ(#`Д´)ノ┌┛きいいいいいいいいい!!ってことで、宣言しました。 「あんたは私の店の従業員だ。店長やらしてやるからありがたく思え、 あんたに経営者は無理だぁ!!」 ああ、すっきりした~~~~。 旦那は固まっていましたが、 しばらくして「俺の人生店長どまりかあ」とつぶやく。 むかつきますが、こいつと結婚した責任、きっちりとらせていただきます。 ってことで、本格的に起業準備を開始しました。 来年は商工会議所の創業塾に参加予定です。 料理の師と仰ぐアジュンマがレシピをくれることになったのも幸運です。 資本金も2年節約を重ねた時点で、親戚からの融資を足せば、 10坪ほどの店をいくつかの候補駅で出すことができる計算です。 親戚の融資が得られない場合は3年後ですね。 計算どおりに進まないのが起業だと思いますが、 頭の中は店のアイディア、コンセプトではちきれそうです。 いろいろな人の意見を聞きながら断片を固まりにしつつあります。 今はこういう機会をくれたうちの優秀な店長候補に感謝です(爆) 水泳で培った根性と、自分の行動に責任を持つ精神力、 看護師で培った臨機応変さと、幼い頃の両親の背中、 翻訳の通信講座で実感できた商売の厳しさ、 前の会社で培った書類作成能力。 全てが生きてくるでしょう。 そして、何よりも人!! mixi含めた周囲の人が何より大切だということを、 ご無沙汰していたこのかんに一層強く感じていました。 来年はもっともっと「人とのつながり」を大切にしていきたいです。 スタートラインを引く作業中に何度転ぶかわかりませんが、 「徒然なるままに」で起業日記を書きつつ、 夢に向かって進んでいきたいと思います。 バカ亭主ではありますが、やはりこの人はプロ。心の芯が弱めの私は彼なしでは起業することはできませんし、 開業してからも、彼の能力なしでは店は回りません。 その話をしない時には愛する旦那様ですしね。 相変わらず私が子どもみたいにあまえてますから。 私は「コーチング」というのを受けているのですが、 コーチに言われたとおり、役割分担が大切なのでしょう。 あ、あと「七変化」??ぷぷぷぷ・・。 くうううう!始まりの音が聞こえるぞおお。ー。-。-。-。-。-。-。--。-。-。-。-。-。-。この日記は全体を上から撫でるような視点で書いたいわば目次。これを決心するまでの自分の迷いや気持ち、一つ一つの細かい枝葉がありますので、それを書いていきたいと思います。まずは「そぎおとし」これは結構時間がかかりました。「先立つもの」を確保するためとはいえ、新しく始めた仕事には大きな力を注ぎ込む必要がありましたから。さてさて、次回。どうしよう、今日中にアップしたりして(爆)
2008/01/02
あけましておめでとうございます。いやいや、年が明けましたな。明けちゃったんですね~~(汗)何の締めもなく言葉もなく、ひたすらバタバタとして年が明けました。「大晦日?!、なにそれ?」ってなぐらい、年が明けようが暮れようが、もうすでに何かが始まってましたから、今この瞬間も助走期間の中継地点におります。もちろん実家で「煮物づくり」の恒例行事はしっかりとこなしました。朝から晩まで煮物を作り、朝から晩までそれを食べ続ける(笑)これ、我が家のお正月です。しばらくブログから離れていましたが、昨年までの日記を振り返ってみました。すると・・、なーんてなんて気合の入った日記だろうと、我ながらびっくりするわけでございます。なんせ全体から細部にいたるまで、何度も書いては書き直し、離れては近づき、どれだけ力使ったんだよってな日記ばかりですから。私は日本語が大好き。形も音も規則も・・。でもって、自分の心を映し出しつむぎだす材料としても。だから時々書けなくなってしまいます。(売れない作家のようなこと言っていますが・笑)書きたいと思っていたことが、文章にするまでにまとまっていなかったり、どの言葉を使って表現しようかと迷っているうちに、遠く遠く彼方に去っていってしまう。これでは私も欲求不満です。で、今年からはもう少しかるーく欲張らず。今までより一層「徒然なるままに」書いていこうと思います。だから今、自分が何の助走期間にあるのかは次回お話します。35年以上生きてきて初めて「そぎおとす」という作業をしました。今まで始めたことは納得いくまでやるほうでした。初めの一歩で手放すことはなかったんです。でも、ほとんど一歩も踏み出すことなく、手放したものがあります。それでも不思議なことに得たものは大きかった。始まりの音が聞こえたんですね。そぎ落としたのではなくてするっと落ちた。一歩前に出たから足跡ができた。そんなことだったんだと思うんです。ま、とりあえず。「今年も稼ぐ」健康第一でわが道を行きます。
2008/01/02
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