佐竹台8丁目25番地―12

今日から「佐竹台」('99/08/07)



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私は阪急のころからのBWファンだったが、ひいきのチームに所属しているけど、
どうしても好きになれない選手がいた。彼の名は「佐竹学」。当時入団3年目。

なぜ好きになれなかったのか?理由はただ1つ。
当時の仰木監督が彼を使う理由が分からなかったからである。

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特別打つわけでなく、三塁の守備も、
トレードでヤクルトに行った前任者の職人・馬場敏史と比べると…。

で、足もそんなに速くない。

他のチームの三塁手には鈴木健(L),中村紀洋(Bu),片岡篤史(F),初芝清(M)等の
そうそうたるメンバーがいるというのに…。

ついつい比較して、だから余計に「なぜ?」という気持ちが強かった。

ただパワプロ'99開幕版に、「チャンス○」の能力があるのを
知って「ふ~ん」、と思った程度だった。

失礼な話だが、むしろ軽んじていて、ゲームの「ダビスタ」で、血統の良い期待の馬には
「イチロー…」「タグチ…」とか名付けていたが、血統の良くない、
期待できない馬には「サタケ…」とつけていた。

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その思いが一変したのが、この年の8月7日。

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当時私は大学4年で、GS神戸に弟と外野のいつもの
E-8列の席にて観戦していたBW-L戦。
この年11勝を挙げた、BW先発の金田は立ち上がりに2安打で1点失うも、
その後は全く危なげないピッチング。

対するL先発の豊田はそれ以上の完璧なピッチングで、
7回まで無失点。息を呑む文字通りの投手戦。

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8回裏、BW先頭の全く期待していなかった8番三輪が左越二塁打。
BW0-1Lで無死二塁。
当然送りバントの場面。ここでのバントの成否は、展開を一変させる。

ここで先述のパワプロ'99で「バント×」のついていた9番塩崎。
走者は足の遅い三輪。
バント空振り走者飛び出し、や小フライでは取り返しがつかないことになる。

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嫌な予感がした所で、少しタイミングを遅らせて、仰木監督は代走に松元を送る。


仰木監督はここら辺の勝負勘は確かな人である。
「マジック」とは、決して大掛かりなイリュージョンだけではない。


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仕切り直しで塩崎がバントの構え。当時はイチローも所属しており、球場は大入り。
その空気が張り詰める。特に一塁から右翼席に掛けて、視線が集中する。


M、Hの応援のようにいつもはまとまりがなくても、
ファンの数は他チームより少なくても、
試合の重要な場面では球場全体が張り詰め、集中して見つめる。
そして、それが良く似合う、素晴らしく美しい球場。

翌'00年限りで海を渡ったイチローが、去り際に
「野球の分かるファンが本当に多い」と表現してくれた、この雰囲気。
そんなBWとファンの「チームカラー」が好きだった。
今も野球は好きだけど、この頃は今よりももっと好きだった気がする。

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話を戻すと、塩崎は重圧に負けず無事にバントを決め1死三塁。
1番田口が簡単に右犠飛を上げ、同点に。

この後、試合は1-1のまま、延長突入。金田は続投。
西武は豊田を9回投げきらせて、交代。

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そして、延長11回。表、金田は投げきった、被安打わずか3本。

その裏。L投手はこの回の頭から土肥。

先頭の3番イチローが右中間二塁打を放つ。
続くは4番DHプリアムの代走で入っていた打者時代の嘉勢。
バントの構えも、西武は敬遠策をとり、続くニールとの勝負を選択。

ここでニールが2-3から、いつもなら空振りする、外に逃げる
スライダーを我慢して歩き、無死満塁。

ここでLは投手交代、木村恵二に(※Ronさん、多謝)。
6番谷は初球を簡単に打ち上げて浅い中飛、
これでは俊足イチローも還れない。

続くは7番・守備から入った斉藤で、当時の彼の打力では当然の代打五十嵐。
しかし見逃し、空振りで2ナッシングに追い込まれる。

このタイミングで、東尾監督は投手交代、左腕の橋本に。
続く8番が左を苦手とする、そしてベンチに残りがいない捕手の日高だけに、
交代自体は妥当な判断。ただ、タイミングは少し不可解だった。

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そして、これに対して仰木監督が告げた、打席に向かう代打の代打がいた。


背番号25。佐竹学。

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弟と「初球が全てだろう」と話し合っていた。

そして、私は心の中で「ここで打ったら、絶対に軽蔑とかしない。
ずっと応援する。だから打ってくれ。」と願っていた。

その初球は大きく外れたボール。この時点で勝負は付いていたのかもしれない。

ファールで粘り、そのたびにドキドキが強くなる。


そして橋本の投じた4球目を振った佐竹の打球は、
三遊間、前進守備の遊撃手・松井稼頭央の右を鋭く抜けた。


佐竹はそれを確認すると、ヘルメットを大きく上空に
投げ飛ばして一塁まで駆け抜けた。

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ヒーローインタビューを受ける金田と佐竹。


その後、佐竹はわざわざライトまで小走りで駆けてきて、
帽子を取り、手を挙げペコリと頭を下げた。
「さ、た、け~」コールを受けながら戻る、
彼の背中の25番が最高に格好良かった。

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帰りの地下鉄、すっかり佐竹ファンになった帰り道。
そこで気が付いた事があった。

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私が阪急ファンになったきっかけは、
母方の実家に帰省した際、阪急電車が好きになり、
'84年、小1の時に「阪急ブレーブス」って球団の存在を
知ったからだった。

私の父は野球好きでは無いが、母方の祖父が野球好きで、
野球の楽しさを教えてくれた。

岡山で育った私の周りには阪急ファンが一人もいないのが悔しくて、
弟を無理やり阪急ファンに「洗脳」してしまった。

でも、毎年夏休み、年に1回だけ、普段住む岡山では
絶対に見られない阪急ブレーブスの試合を、祖父にねだって
連れて行って貰うのが本当に楽しみだった。



そして偶然にもその祖父の住む家の住所は「佐竹台」だった。


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この年のオフから、ネット環境に触れることになり、
掲示板等に出現するようになった私は、

迷わず「佐竹台」と名乗ることにした。

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でも、それ以来私が見に行くと…。

ま、長くなるので、それは別の話に。

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昨秋で、残念ながら応援するチームの選手では
なくなってしまったけれど、これからももちろん、

私はずっと、ず~っと、

佐竹学選手のファンを続けていくつもりです。

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シーズン中には、日記の方でもちょくちょく
取り上げていこうと思います。


['05/01/28]


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