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宮城谷昌光「三国志読本」文藝春秋2014年刊 全12巻の宮城谷昌光さんの正史「三国志」の完結を記念しての一冊。 これまでの吉川英治、柴田錬三郎の「三国志」は、『三国志演義』を基にしており、 とても楽しい小説だったが、これらは小説の上に小説を立てたものであり、 歴史小説ではなく、時代小説になっている。 そこで、陳寿の『三国志』を基に、歴史小説を書いた、といいます。「中国古代史入門―どこから学べばいいのか」 宮城谷さんがどのように、中国古代史の世界に入っていったのか、が実に面白いです(^^♪ ≪哲学書や倫理書(四書五経)を入門書とするよりも、歴史書であると同時に 人間学のテクストである『史記』からはじめるのがよい、と私はおもいます。≫ さまざまな出版社から本がでているが、≪私がお勧めするのは、やはり原文、注、訳の三つが揃っている本です。 では、私自身が何からはいったかといえば、朝日新聞社版の『中国古典選』からです。 当時は箱入りの大きい本で、その巻一の最初の章が「晋世家(しんせいか)」の抜粋です。・・≫≪朝日新聞社の『史記』はよい本なのですが、あくまで抜粋ですので、さらにその先、 ということになりますと、 明治書院からでております『新釈漢文大系』ということになります。 その叢書は、基本的な中国の古典が網羅されているものでして、ある意味で決定版だとおもいます。・・ ただし、実はまだ刊行中でして、叢書は完成されていないのです。 自分が生きているうちに完結するだろうか、と心配されている方がときどきいらしゃるほどです(笑)。 すでに百巻以上でておりまして、朱子の『近思録(きんしろく)』も、王陽明の『伝習録』もあります。 たとえば、『伝習録』は、幕末のころの志士たちや、大塩平八郎ように朱子学を批判する人 にとっては必読書だった。 では、なぜ彼らはそれを読んで過激な行動に奔ったのか。 いったい何が書かれてあるのか。 人聞きではなく、自分で実際に読んでみることが、大切だとおもいます。 どこかで入り口がみつかりますと、中国史、中国学というのは、『新釈漢文大系』のように、 十年や二十年ではなく、四十年、五十年単位で楽しめる大きな世界なのです。≫<目次>自作解説 三国志の世界(『三国志』の沃野に挑む―大歴史絵巻の豊穣なる世界曹操と劉備、三国志の世界―正史からみえてくる英雄たちの素顔『三国志』の可能性―歴史は多面体だからこそおもしろい『三国志』歴史に何を学ぶのか―構想十年、執筆十二年の大長編を終えて)対談 歴史小説を語る(水上勉―歴史と小説が出会うところ井上ひさし―歴史小説の沃野 時代小説の滋味宮部みゆき―「言葉」の生まれる場所吉川晃司―我々が中国史に辿り着くまで江夏豊―司馬遼太郎真剣勝負五木寛之―乱世を生きるということ)講義&対談 中国古代史の魅力(中国古代史入門―どこから学べばいいのか白川静―日本人が忘れたもうひとつの教養平岩外四―逆風の中の指導者論藤原正彦―英語より『論語』を秋山駿―春秋時代から戦国時代へマイケル・レドモンド―碁盤上に宇宙が見える項羽と劉邦、激動の時代―ふたりを動かした英雄たちと歴史的必然)
2017.05.04
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井波律子「三国志名言集」岩波書店2005年刊 桃園結義・・≪同年同月同日に生まるるを求めず、 但だ同年同月同日に死せんことを願う。≫ 曹操評・・≪子(し)は治世の能臣(のうしん)、 乱世の奸雄也。≫曹操が董卓暗殺に失敗し逃亡途中でつかまった時、関所の役人に言った言葉・・≪燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや。≫ 小人に英雄の志などわかるはずがない。水鏡先生が、不遇続きの劉備に言った言葉・・≪伏竜・鳳雛、 両人の一(いつ)を得れば、 天下を安んず可し。≫孔明を得た劉備の喜び・・≪吾れ孔明を得たるは、 猶(な)お魚の水を得たるがごとし。≫荊州を得た劉備へのアドバイス・・≪馬氏の五常(ごじょう)、 白眉最も良し。≫ 馬氏の五常のうち、白眉(馬良、あざなは季常)がいちばんよい。 後半は、「出師の表」が紹介されています。≪死せる諸葛、 能く生ける仲達を走らす。≫<目次>1 得て何ぞ喜ぶに足らん、失いて何ぞ憂うるに足らん2 忠言は耳に逆らう3 酒に対いて当に歌うべし。人生幾何ぞ4 既に隴を得て、復た蜀を望まんや5 竹は焚く可くも、其の節を毀つ可からず6 天数 茫茫、逃がる可からず
2017.05.03
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】「幕末大名」失敗の研究 [ 瀧澤中 ]瀧澤中「幕末大名」失敗の研究 (PHP文庫)2015年刊 超日本型政治家・阿部正弘・・≪「阿部正弘は実によく人の話を聞く男だが、自分の意見というものを 述べたことがなかった。 ある人が不審に思ってそれを阿部に問うと、阿部は笑って、 『自分の意見を言って、もし失言だった場合、それを言質にとられて 職務の失策となる。だから、人の言うことをよく聞いて、善きを用い、 悪しきを捨てようと心がけている』と答えたという」松平春嶽『雨窓閑話稿』≫ しかし、ペリー来航・・≪「何もしない」ことで政治を動かす。 「不作為の政治」の名手でもあった阿部の政治手法が、この場合には災い したというべきである。≫≪彼らがやったのは、結局のところ人事異動による対応であって、 組織そのものを改編するには至らなかったのである。≫≪幕末の政治状況は、複雑である。 しかし、そこに属した者を思想的な派閥に分けると、意外とわかりやすくなる。 まず、幕府を助け、現在の幕藩体制を維持する、という佐幕最右翼は、 井伊直弼。 幕府は助けるが、大幅に政治体制を変える、という佐幕左派に、 幕臣、勝海舟や土佐藩の山内容堂・・≫ら。≪幕府とはケースバイケースで協力しながら、権力獲得を目指す攘夷右派の 薩摩藩。 幕府と距離を置き、必要なら幕府の手先を殺し、攘夷を実行する。 攘夷最左翼の長州藩や水戸藩士。≫ 戊辰戦争直後は、佐幕左派が、攘夷右派の薩摩藩に敗れたといえる。 徳川慶喜という問題・・≪・・筆者は慶喜の政治的信頼感のなさ、 言い換えれば誠実さの欠如について指摘したい。≫≪慶喜が個人として有能であったことは間違いない。 しかし、騙し合いの代名詞のように言われる政治の世界でも、 「誠実さ」がない人間は絶対に大きな仕事を成し遂げられない。 「この人についていくと、途中でハシゴを外されるのではないか」 と思えば、誰も従わなくなるのである。≫ 西郷隆盛の南洲遺訓にも、≪制度やしくみより、まずは人物である。 指導者が立派であれば、制度はうまく回る。 指導者がだめならば、いくら良い制度をつくってみたところで 意味がない、というのである。≫<目次>第1章 徳川幕府が気づかなかった売国への道―井伊直弼と田中角栄(田中角栄を唸らせた、北京の宿舎敵の敵は味方 ほか)第2章 生き残った山内容堂、殺された坂本龍馬(「兵隊やくざ」と「ノブレス・オブリージュ(高貴なる責任)」遠山の金さんが見つけた土佐藩江戸火消し ほか)第3章 「真珠湾攻撃」なき戊辰戦争で失敗した、松平容保(京都守護職という「銃座」京師の地を死に場所としよう ほか)第4章 西郷隆盛にとっての、「島津久光」という失敗(西郷の「田舎者」発言に憤然とする久光君主であることを忘れ、家臣であることを忘れ ほか)第5章 水戸藩と長州藩、維新さきがけの組織疲労(組織維持のコツは「倦まずたゆまず」指導者として最低限持たなければならない条件 ほか)
2015.05.31
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】「戦国大名」失敗の研究 [ 瀧澤中 ]瀧澤中「戦国大名」失敗の研究 (PHP文庫)・・本能寺の変後の織田家重臣の明暗2014年刊 本能寺の変後の、織田家重臣の明暗・・ そもそも、秀吉が「人たらし」になった理由・・≪武家としての背景がなく、独自の家来も持たず、一兵卒から叩き上げた 秀吉の出世術の一つは、織田家の中に、自分に好意を持つ人々をつくっていく ことであった。≫ 秀吉は、槍働きの代わりに、「人たらし」を自然と身につけたが、 それが政治力を高め、絶大な力となった。 特に、さまざまな普請を通して、商人たちには、「秀吉についていると 商売になる」と思わせ、利益供与を行うことで分厚い人脈ができた。 一方、 柴田勝家も、面倒見の悪い男ではなかったが、秀吉のような大名や土豪から、 文化人、商人たちに及ぶ人脈はなく、結果、資金がなかった。 もともとは信長子飼いの佐久間信盛が追放された理由は、「(所領を増やしてやったのに)新しい家臣を雇うこともなく、 その所領を金銀に換えるとは何事か。言語道断だ」 という、ダメ管理職の典型のような態度にあった。 そして、本能寺の変・・≪もちろんどの織田家重臣も信長の死で背景を失うが、しかし自分で人脈をつくり 政治力を蓄えてきた者とそうでない者の差が、背景を失った瞬間に出る。≫ 関ヶ原の合戦や大坂夏の陣での教訓・・ 五奉行のうちの一人、増田長盛は、関ヶ原の合戦において、 西軍にいながら、家康に内通するも、 戦後裏切りを認められず、幽閉され、息子の盛次が父の汚名を晴らすべく 大阪城に入城したことを知り、自害する。 この長盛の生き方に対して、瀧澤さん、手厳しいです。≪増田長盛の内通行為を「生き残るため」と弁護するならば、筆者は、 「生き残るためならば死ぬ気で戦うべきだった」と言いたい。 命や家を護るのに命を賭けないということが、はたして戦時に可能なのか。 増田長盛や毛利輝元を見れば、すでに出ていると言えよう。≫ 関ヶ原の合戦後、大阪城に籠城していれば、秀吉子飼いの武将は 秀頼に刃向うことはなかったろう。 立花宗茂は主張したが、毛利輝元以下が拒否した。≪要は籠城の決断力の欠如と、そしてそれを指揮する指揮官の不在によって、 これは選択されたなかったのである。 戦わなかったがために追いつめられた例は、歴史上いくらでもある。≫ <目次>第1章 武田勝頼の致命傷第2章 足利義昭のしぶとい首第3章 織田家臣団の有能ゆえの危険な未来第4章 あり得なかった関ヶ原合戦の計算違い第5章 なぜ秀頼は豊臣家を守れなかったのか終章 政治力はいかにしてでき、いかにして失うか
2015.05.31
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関ヶ原 敗者たちの復活戦【バーゲンブック・人文】価格:719円(税込、送料別)河合敦「関ヶ原 敗者たちの復活戦」グラフ社2009年刊 以前追っかけていた?!、立花宗茂つながりで手に取った本。 関ヶ原の合戦後、西軍についた大名の多くは、改易・減封されますが、いったん改易された後、復活を果たした大名が、数少ないもののいました。 その理由を探っていますが、現代の左遷人事など不遇期の過ごし方の参考になると思っています。 立花宗茂の場合・・≪力を蓄えた牢人時代≫があった、といいます。 牢人時代の≪この間、彼は単に徳川家に御家再興を懇願するばかりではなく、 余暇を利用して自分のスキルを、驚くべき速さで向上させていっている。 宗茂は牢人時代に、中江新八や吉田茂武(しげたけ)から弓術の免許を受けた ことがわかっている。 また、妙心寺の了堂宗歇(りょうどそうけつ)に帰依して、禅の修行にも 励んだとされる。 このように、心身ともに鍛え、己を磨いているのである。 もともと宗茂は、丸目蔵人頭長恵(まるめくろうどのとうながよし)から 剣術の免許を得ており、剣の達人でもあった。 さらに後年の記録によれば、連歌や茶道、香道、蹴鞠(けまり)、狂言 などに通じていたことも判明しており、おそらくそうしあ文芸・遊芸に 磨きをかけたのは、この牢人時代だったと思われる。 自暴自棄にならず、心身の鍛錬に励んだ宗茂。 結果としてそれが彼自身の器を大きくし、将軍秀忠や家光の信頼を 勝ち得ることになっていくのである。≫ つまり、「武のスキル」・・宗茂自身、数々の戦いで戦功を挙げ、 なおかつ、軍略や戦術など深い軍事知識を有していたこと。 それに加え、「武のスキル」だけでなく、「文のスキル」である連歌や茶道、 香道、蹴鞠(けまり)、狂言に通じていたことで、 平時置いても重宝されたといえる。 さらに、宗茂の性格は、裏表がなく、人に愛される性格であった。 結果、余人を持ってかえがたい人物となった。 ・・これが、宗茂復活の秘訣かもしれません。【中古】 関ヶ原敗者たちの復活戦 /河合敦【著】 【中古】afb<目次>いぶし銀の粘り強さ築城の名手 丹羽長重ナンバーワンに執着した猛将茶人武将 上田重安武を捨て、風雅に生きる歌人大名 木下勝俊十数年の努力で復活した粘り勝ちの男 岩城貞隆旧領を上回る石高で復活した奇跡の男 新庄直頼三天下人に抜擢されたできる交渉人 滝川雄利コネに翻弄された水軍の一族 来島康親己の矜持を貫く不敗の名将 立花宗茂
2015.05.30
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】ミシュレ伝 [ 大野一道 ]大野一道「ミシュレ伝 1798‐1874―自然と歴史への愛」藤原書店1998年刊 ジュール・ミシュレは、1798年8月21日、パリ、 トラシー街16番地に生まれた。≪ジュールは洗礼を受けていない。 革命の余波さりやまぬ当時、すべての教会は閉鎖されていて、 翌1799年12月にならなければ開かれないからである。≫ 幼児洗礼を受けられなかったことが、ミシュレの宗教観に、 何か決定的な影を投じている。 また、父親は印刷所を営業していたが、1812年、ナポレオンの政令 により、活動停止に追い込まれる。 反政府的な言論活動を少しでも抑圧したいナポレオンの意向により、 一家は収入を断たれ、困窮に陥る。≪貧しく育ち、革命の理想を父からたたき込まれていたミシュレが、 めぐまれない人や、時の王政復古という反動政権に反抗する人々に対し、 深い共感を抱いていたことはまちがいない。≫≪歴史教師とは、自分として新しい見方なり事実の発見をすることなく、 これまでに分かっていることを、分かりやすく生徒に伝える働きをする人間と考えよう。 歴史研究家とは、何らかの個別事項に関して新しい見方なり発見なりをした人、 あるいはなそうと日夜努力している人と考えよう。 歴史家とは、独自の世界観のもとに人間の歴史全体の意味なり意義なりを 説くことのできる人と考えよう。≫ ミシュレの中には、この3つが併存していた。 社会的には、教師でありながら、研究活動を行い、やがて歴史家となった。 『フランス史』の「序文」にて・・「私はヴィーコのみを師としていた。 生きた力に関する彼の原理、人類は自らを創造するというその原理が私の本と教育とを 作った」「彼はデカルト主義を攻撃した。 単にそのドグマチックな部分のみではなく・・その方法に関してもである。」 デカルトは、「歴史の研究を嫌悪し、人類の共通感覚を軽蔑し、個々人の知恵に ゆだねられるべきものを技法へと還元することにこだわり、 幾何学的方法を、厳密な証明を含むことの最も少ないものごとにも適用しようとした等 を攻撃した」「しかしヴィーコはデカルト主義の恩恵も認めていて・・ 『われわれは真実の判定基準を個々人の感覚においたデカルトに多くを負っている』 とも述べている。」 つまり、デカルトは、中世的な呪縛を断ち切り、自己の頭で自由に考えて真偽を判定する 近代的精神を生み出した点で、絶大なる功績を持っている。 しかし、純粋意識の絶対化をはかることになったため、 歴史性、つまり物事の時間内での生成という現実を見失い、個々人を超え、ある種共通の 感覚をもって人類が集団として生きているという現実も見失ったという点を、 ヴィーコは認めなかった。 ミシュレは、ヴィーコとの出会いを通して、歴史家の世界観を手に入れた。 『世界史入門』のおいて、「この小さな本は」「世界の歴史を、自由を求める戦いとして、運命的世界に対する自由 の不断の勝利として、要するに永遠の7月(革命)としてながめるものだった。」 『フランス史』においては、 ミシュレはフランスを「一人の人として眺めた」 つまり「フランスがフランスを作った」のであり、 「フランスは自らの自由が生み出した娘」だからである。 「進歩は決して持続した直線的なものではない。 それは螺旋状の線を描いている」 歴史は、前進と後退を繰り返しながら、 しかし長い目で見れば、何らかの方向・・自由と平等へと動いている。 「しっかりした学識の上に乗った想像力」・・これがミシュレの特色だった。<目次>少年ミシュレ―『覚え書』を中心に青春の肖像―初期の『日記』を中心に若き教師の歩み歴史家として立つ『フランス史』の世界―(中世ルネサンス以降)栄光への道の陰で危機を越えて原点へ―「民衆」の発見革命、この永遠なるもの―『フランス革命史』を中心に騒乱の中で恋が…そして新しい生へ大いなる自然の発見歴史と自然とを結んで―晩年の日々
2015.04.04
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《みすず書房》フィリップ・アリエス 杉山光信訳歴史の時間 【中古】afbフィリップ・アリエス「歴史の時間」訳 杉山光信みすず書房1993年刊 冒頭にあるロジェ・シャルチェによる解説「歴史との親密さ」より。≪1954年、この書物があらわれたとき、フィリップ・アリエスは40歳であった。 職業としては、1943年にかれが入った熱帯果実についての研究所の資料センター の責任者であった、≫ そのため、アリエスは、『日曜歴史家』を自称した。 1954年時点の、アリエスの主張は、当時としては珍しいものでした。≪歴史学を「史実についての客観的な知識」として定義するのではなく、 「諸構造の科学」と定義すること。 歴史学の企てを、政治や軍事にかかわる史実と同様に、 経済や社会にかかわる現象などの歴史の史料の全体を組織することで、 一つの全体史の企てと性格づけること。 歴史家はそれぞれのものの感じ方の背後にある「心性の構造」を見つけだすために 史料にたいして「精神分析」をすべきであると主張すること。 「相互に他に還元できない閉じた全体的な構造」間での比較のなかにしか 歴史学は存在しないとすること。≫ アリエスは、「歴史との親密さ」を主張した。 それまでの歴史学から「歴史との親密さ」を取り戻すためには、「自分の文化、自分の時代、自分の家族の外に存在したものを理解しようという 関心、差異への好奇心なのである。 そこに、他者と対決することなしにはアイデンティティはないし、 現代と出会うことなしには生きた伝統はなく、 歴史の非連続の理解なしには現在の知性はない」と指摘した。 <目次>第1章 子どもが歴史を発見する第2章 マルクス主義の歴史学と保守の歴史学第3章 現代の人間の歴史への参加第4章 歴史を前にしての態度・中世第5章 歴史を前にしての態度・十七世紀第6章 「学問的」歴史学第7章 実存的な歴史学第8章 近代文明のなかの歴史学
2015.04.03
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】【まとめ買いでポイントアップ_KDKW】立花宗茂「義」という生き方 [ 江宮隆之 ]立花宗茂 「義」という生き方 (新人物文庫) 江宮 隆之 KADOKAWA/中経出版2014年刊 宗茂の誕生年月、場所とも諸説あるが、 永禄10年(1567)8月18日生まれ、 豊後国国東(くにさき)郡筧(都甲荘筧城。大分県国東郡安岐町(あきまち))が有力である。 宗茂と名乗ったの時代は晩年の一時期のみと短く、 統虎、鎮虎(しずとら)、宗虎、正成、親成、尚政(なおまさ)、俊正、経正、 信正、立斎などと次々に諱(いみな)を変え、その数は十にも及んでいる。 下剋上の戦国の世の中で、 ≪おそらく最も武人としての節を通して生き抜いたのが、立花宗茂であったろう。 宗茂は「武将」として卓抜した采配を振るい、その実力を遺憾なく発揮し、 さらには表裏のない人柄と生き方とによって、味方ばかりか敵方の武将までも魅了した。≫ その宗茂の節を通す生き方は、義父と父より受け継いだものであった。≪斜陽であっても大友家を最後まで守る。 これが道雪と紹運の決意であった。これは、主君の「恩」に「奉公」という形で報いる、 という九州の武将に残っていた鎌倉時代的な士風がその根底にあったからである。≫ そして、このことは、≪最も苦難の中にあった主家・大友家を見限ることなく、大義に生きようとした宗茂を、 太閤秀吉は最大に評価した。 秀吉が知った「宗茂像」は「律義で誠実、勇気があって知謀にも優れている」 というものであった。≫ 「立花宗茂、その忠義は鎮西一、その武勇また鎮西一」 また、宗茂にとって、関ヶ原の合戦で改易後の浪人時代から大名復帰までの時期が 最も苦しい時期であった。 ≪こんな宗茂から、現代人の我々が学ぶことができるのは、 決して諦めないこと、 今の不遇を嘆かないこと、 やる気を失うことなく常に前のみ見て生きること (これは希望を持つという人生の原点でもあるが)、この三点に他ならない。≫≪人はどんなふうに生きたらいいのか、それを、宗茂の浪人時代が教えてくれる。 不遇な時期を経験して再生した男は、人間としてさらに成長し、その後のステップアップに 役立つことになる。いわば、プラス志向で生きることが、さらなるプラスを呼び込むという ことである。≫ 関ヶ原の合戦で西軍について再登用された大名は宗茂しかいないといわれているが、 実際には他にもいます。 陸奥中村・相馬義胤(6万石→嫡男・利胤に陸奥中村6万石) 越前大野・織田秀雄(5万石→扶持米3000俵) 加賀小松・丹羽長重(12万5千石→陸奥白川10万石) 磐城平・磐城貞隆(10万石→信濃川中島1万石) 筑後内山・高橋直次(1万8000石→常陸柿岡5000石) 伊勢神戸・滝川雄利(2万石→常陸片野2万石)らであった。 このうち、高橋直次とは、高橋家(紹運)のあとを継いだ宗茂の実弟であった。 陸奥中村・相馬義胤(6万石→嫡男・利胤に陸奥中村6万石)≪関ヶ原の戦いでは大坂に嫡子・三胤(蜜胤・利胤)を残し、自らは所領の守りを固め、政宗に相馬領を通過させた。 義胤の娘は岩城貞隆の正室となっており、相馬、岩城、佐竹は連帯している。 慶長7年(1602年)、牛越城下において相馬野馬追のさなかに義胤に対し、関ヶ原で徳川方に与しなかったとして 改易されたものの、蜜胤の訴訟や本多正信の説得などがあり、 同年10月、嫡子をもって相馬氏による三郡の再統治を認められた。≫ 河合敦『関ヶ原敗者達の復活戦 負けてもなお生き残る人物とは』グラフ社、2009年 も、読んでみたい。<目次>序章 「義」の人・立花宗茂第1章 かくあるべき幼児教育第2章 一人娘の婿養子第3章 二人の父第4章 秀吉と柳川一三万石第5章 文禄・慶長の役第6章 ◆(ぎん)千代という生き方第7章 関ヶ原合戦第8章 家臣団の苦労第9章 大名への復帰終章 最後の武人
2015.03.22
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【送料無料】 名将言行録 現代語訳 講談社学術文庫 / 岡谷繁実 【文庫】立花宗茂・・名将言行録 現代語訳 (講談社学術文庫) 岡谷繁実訳 北小路 健、中澤 惠子2013年刊 立花宗茂の章・・≪宗茂の人柄は、温純で寛厚で、人徳があって驕ることがない。 功があっても自慢することがない。 人を使うのも、おのれの意にしたがってしかも自然である。 善にしたがうこと、あたかも自然の流れのようである。 佞人(ねいじん)(口先上手なゴマすり人間)を避けて遠ざけ、 奢侈を禁じ、民に対しては撫するように恩を与え、 士を励ますには義をもってした。 そのために士はみな、宗茂の役にたつことをしようと楽しみにした。 その用兵ぶりは、奇襲といい正面攻撃といい、いずれも天性の妙を 発揮した。ゆえに、攻めればかならず取り、戦えばかならず勝利を得た のである。≫ 関ヶ原の合戦で西軍についたため改易されたものの、 徳川秀忠に認められ、陸奥の棚倉の大名に復活し、その後、 旧領の柳川城主に返り咲きます。 その理由を、秀忠はこう述べています。「以前に僻遠の小邑に封じて置いたが(関ガ原の合戦ののち三年間、 宗茂は陸奥棚倉に移されていた)、それに対して怨みもせず、 いかりもせず、ただただ義命に安んじていたことは、 まことに満足に思っている。それゆえ、このたび柳川の旧封を授けるから、 ますます武備を修めよ」 それに対して、宗茂は、落涙してその恩を深く感じた。 また、宗茂自身、敵になりながら復活できたことをこう振り返り、 家中のものたちに訓戒しました。「しかし考えてみると、一つに当家の武勇が道雪以来、世に恥じることがない。 これらのことなどをご賞玩(しょうがん)あったせいでもあろうか。 そうだとすると、今後はいっそう上下ともに武備を忘れてはならぬ」 立花家の家風・・「戦は兵数の多少によるのではない。一和にまとまった兵でなくては、 どれほど大人数でも勝利は得られないものだ。 道雪以来わしにいたるまで、少人数をもってたびたび大勝利を得た。 これは兵の和による。その一和の根本は、日ごろから心を許しあって 親しんでいることによって、ただ一言によっても身命を捨てるのだから、 大将たる者は心得ておくべきことだ」 現場主義・・ 天正二十年(1592)四月、征韓の役にて、 宇喜多秀家が諸将を集めて軍議を開いた際、 秀家が、「それは太閤にうかがってから出発することにするか、 それともうかがわずに出発するか」と問うた。 福島正則と加藤清正はそれぞれ意見があわない中、 小早川隆景が宗茂に意見を求めたところ、「拙者はかつて”将在軍,君命有所不受(※1)”(将が戦場に臨んでいるときは、 君命を受けずに行動することもある)ということばを聞いたことがあります。 いま、海を渡って兵をだしているというのに、事ごとに内地におられる殿下に うかがいをたててから事にあたろうとすれば、おそらく時機を失ってしまいましょう。・・」 (※1)『史記・孫子呉起列伝』の言葉 宗茂の謙虚さ・・「数年いろいろと試してみるが、人間というものは、戦場での働きについては、 後になるとたいそう飾り立てて申したがるものだ。 それは、われながら少し働きが足りなかったと思えばこそ、 なお大袈裟にいいたがるのであろう。 まだ働きが足りぬと思うのであれば、それはまことの侍の道を知っている者だ。 少しの働きを大きく自慢することの多いのは仕方のないことだ」≪小瀬甫庵が『太閤記』を編輯(へんしゅう)するとき、宗茂に「貴殿の記録を」と求めた。 宗茂は笑って「拙者のしたことは天下の公論に基づいたもの。 どうして名をあげるために、その功績を記録するようなことがあろうか」といって、 何も与えなかった。≫ <目次>北条長氏(早雲)太田資長(道潅)山中幸盛(鹿之助)毛利元就武田晴信(信玄)上杉輝虎(謙信)直江兼続織田信長柴田勝家池田輝政蒲生氏郷島津義久伊達政宗戸次鑑連高橋鎮種立花宗茂豊臣秀吉黒田孝高(如水)福島正則加藤清正真田幸村徳川家康
2015.03.21
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【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】孤闘 立花宗茂 上田秀人/著上田秀人「孤闘―立花宗茂」中央公論新社2009年刊 これまで読んだ「立花宗茂」像とは、一線を画した解釈でした。 女城主だった妻・◆千代(ぎんちよ)との確執の本当の理由はどこにあったのか? 高橋家の長男でありながら、戸次(立花)道雪の養子になったのはなぜか? ただ単に、道雪から懇請されたからというのはあまりにナイーブではないか? その仮設は、道雪が好きな人にとっては、不愉快な解釈かもしれません。 家康などと同じような境遇にあった宗茂に対して、側近はこう言います。「さよう、父上である高橋鑑種さまよりも、道雪どのよりもすぐれた将となりなされ。 それしかございませぬ。」 逆境からスタートした宗茂ですが、タイトルが示すとおり 孤軍奮闘する中で、部下や領民を味方につけ、 敵からも一目も二目も置かれる存在になることが、 自分自身を活かす道であることを理解して悪戦苦闘します。 それは、常に、寡兵を持って大軍と戦う「負けない」戦いの繰り返しでした。 のちに、「立花が関ヶ原に参加していれば、負けていた」と家康にいわしめましたが、 宗茂に率いられた立花の三千は、他の大名の一万の兵に匹敵するといわれる 少数精鋭部隊でした。
2015.03.14
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二木謙一「戦国武将群雄ビジュアル百科」ポプラ社2009年刊 本書も、「立花宗茂」を知りたくて手に取ってもの。 「立花宗茂」の項のサブタイトルには、 「関ヶ原後に返りざいた西国一の勇将」とあります。≪大友宗麟の重臣高橋紹運(たかはし じょううん)の長男として生まれる。 秋月氏との戦いで初陣ながら武功をあげた。 この宗茂の働きに、息子のいなかった立花道雪(どうせつ)が養子にほしがった。 道雪の求めに紹運は、最初首を横にふったが、最後はうなずいた。 1581年、宗茂は、道雪の娘◆千代(ぎんちよ)と結婚し、娘婿となって 立花氏の跡をついだのだった。 1585年、道雪が亡くなる。 宗茂は筑前(福岡県)立花城主となり、紹運と大友氏の筑前を守るのだった。 1586年、九州を北上する島津氏の大軍のために、紹運は岩屋城で自害し、 宗茂の弟直次の宝満城も降伏してしまう。 立花城も島津氏の大軍に包囲されたが、宗茂は翌年の豊臣秀吉の九州攻めまで ねばりぬいた。 秀吉から宗茂は西国一の武将とほめられ、その功績から筑後3群をあたえられ、 柳川城主になるのだった。≫ 関ヶ原合戦後の戦後処理で、西軍に加担した大名・武将は約170名を数え、 その多くは改易・減封されたが、その中で、後に大名に復帰できたのは11名います。 しかし、その多くは、大阪冬夏の陣での活躍により、子の代になって 父親の代の旧領を新封・再封されたもので、一代で復帰したのは宗茂ただ一人でした。 その秘訣はどこにあったのでしょうか? 事実としては、 1604年、本多忠勝の推挙で、秀忠の相伴衆の一人となり、 その後、陸奥棚倉に1万石を与えられ、大名に復帰する。 その後、大坂の冬夏の陣で、徳川方として活躍し、 1620年、柳川城と筑後3群が与えられる。<目次>【第1部 武将列伝】津軽為信/南部信直/最上義光/伊達政宗/蘆名盛氏/佐竹義重/佐竹義宣/北条早雲/北条氏政/上杉謙信/上杉景勝/直江兼続/武田信玄/武田勝頼/山本勘助/真田昌幸/真田幸村/今川義元/斉藤道三/織田信長/森蘭丸/池田恒興/竹中半兵衛/蜂須賀小六/山内一豊/徳川家康/徳川秀忠/酒井忠次/井伊直政/榊原康政/本多忠勝/大久保忠世/前田利家/柴田勝家/大谷吉継/結城秀康/朝倉義景/浅井長政/豊臣秀吉/豊臣秀長/豊臣秀頼/石田三成/足利義昭/三好長慶/明智光秀/尼子経久/尼子晴久/大内義隆/毛利元就/毛利輝元/吉川元春/小早川隆景/清水宗治/福島正則/宇喜多秀家/長宗我部元親/龍造寺隆信/鍋島直茂/立花宗茂/大友宗麟/島津義弘/黒田官兵衛/黒田長政/後藤又兵衛/加藤清正/小西行長/小早川秀秋/宗義智/尚寧【第2部 合戦録】1542年 月山富田城の戦い/1553年 川中島の戦い/1560年 桶狭間の戦い/1570年 姉川の戦い/1572年 三方ヶ原の戦い/1573年 小谷城の戦い/1575年 長篠の戦い/1582年 備中高松城攻め/1582年 本能寺の変/1582年 山崎の戦い/1583年 賤ヶ岳の戦い/1584年 小牧・長久手の戦い/1585年 四国攻め/1585年 第1次上田合戦/1587年 九州攻め/1590年 小田原攻め/1592~93年 文禄の役/1597~98年 慶長の役/1600年 第2次上田合戦/1600年 関ヶ原の戦い/1614年 大坂冬の陣/1615年 大坂夏の陣
2015.03.08
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】知識欲の誕生 [ アラン・コルバン ]アラン・コルバン「知識欲の誕生 〔ある小さな村の講演会1895-96〕」訳 築山 和也藤原書店2014年刊 19世紀末・・1895年から96年にかけての冬の間、 フランスのリムーザン地方の田舎、モルトロール村において、 小学校教師であるポール・ボモール氏による大人向けの連続講演会が開かれた。 テーマは、フランスの歴史、植民地建設、農業の進歩、祖国崇拝、労働の尊さ など、講演は10回に及んだ。 当時の識字率は、70%と推定されているが、 学校卒業後の大人たちには、読書の習慣はなかった。 この講演会以前の1870年頃までは、行商人による本の流通・・行商文学なるものがあったが、それもなくなっていた。 知識欲・・に飢えていた村人は、男性の半数、女性の4分の1が、ボモール氏の講演会に足しげく通った。 驚くべきは、この講演会の内容が再現されていること!!! アラン・コルバンさんの面目躍如といったところですが、内容は読んでのお楽しみです。<目次>日本の読者へ序第1章 講演者・ボモール氏はどんな人物か第2章 聴衆はどんな人々だったか第3章 「フランスが領土拡張したマダガスカル」(第1回講演)第4章 聴衆の知識源は多様第5章 「愛国心について――自由・博愛・連帯と祖国防衛」(第2回講演)第6章 「共和政のために命を捧げたヒロイン、 シャルロット・コルデー」(第3回講演)第7章 「ジャンヌ・ダルクは誰のものか」(第4回講演)第8章 聴衆は知識を口伝えで得ていた第9章 「どのようにして農業の生産性を上げるか」(第5回講演)第10章 「祖国防衛のための団結について」(第6回講演)第11章 「フランスとプロイセンの戦い――ロスバッハとヴァルミー」(第7回講演)第12章 「フランスの植民地建設――アルジェリア、チュニジア、スーダン」(第8回講演)第13章 聴衆が植民地について知っていたこと第14章 「霜の被害を避けるには――原因と影響」(第9回講演)第15章 「勤労の大切さ」(第10回講演)結論出典について/原注/書誌について訳者解説関連年表(1339-1994)フランス植民地帝国の版図
2014.11.09
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】世界史入門 [ ジュ-ル・ミシュレ ]ジュール・ミシュレ「世界史入門―ヴィーコから「アナール」へ 単行本」訳 大野 一道藤原書店1993年刊 ミシュレさん・・もの言いが、時代がかっていますが、とても格好いいです。≪世界とともに一つの戦いが始まった。 それは世界が続くかぎり終わらない戦いである。 つまり人間の自然に対する、精神の物質に対する戦いである。 歴史とは果てしないこの闘争を物語る以外の何ものでもない。≫ そして、人類の「自由」についての歴史・・≪ペルシアは運命の中で自由が始まるところである。 宗教は自らの神々を、より物質的でない自然の中から、とはいえやはり自然 そのものの中から選び出す。≫ ≪人間の自由は息たえることなく、インドからペルシアに向かったのと同様に エジプトからユダヤの地へと、その解放の歩みを続ける。≫≪だが人間の自由は、逃走してユダヤの地方の山に到達するまでは息つぐことがなかった。≫≪ヨーロッパは自由の地だ。 ヨーロッパに触れた奴隷は解放された。 これはアジアから逃れてきた人類にも言えることだ。 この西洋の厳しい世界の中で、自然は自発的には何も与えず、必然の法則として自由の訓練を課す。 敵に対してしっかりと身を寄せ合うことが、そして都市と呼ばれる堅い結合体を作り上げることが、 まさしく必要だった。≫≪ロックの感覚論はヴォルテールや、社会の発展を風土の影響下に置いたモンテスキューを介してしか ヨーロッパのものとはならなかった。 道徳的自由は感情の名においてはルソーによって、 観念の名においてはカントによって要求した。 だがフランス人の影響力は唯一ヨーロッパ的だった。≫ ミシュレは、いかにしてミシュレとなったか?「全体としての生命の復活―『フランス史』1869年の序文」より・・≪私はヴィーコを師としていた。 生きた力に関する彼の原理、人類は自ら創造するというその原理が、 私の本と教育とを作った。≫「偉大なる天才の孤独―『ヴィーコ選集』まえがき」より・・≪ヴィーコは前進するにつれて自分の歩んだ道程を消し去ってしまうという誤りを、 あまりにしばしば犯してしまった。そこから彼の成果の一見したところの不可解さが生じた。 だがデカルト学派に対する、幾何学的方法の濫用に対する、 つまりあらゆる文学とか、芸術とか、あらゆる創意発明の才とかを枯渇させ破壊する 危険のある批判的精神に対する、彼の見事で巧みな論戦、この否定的側面の方も、 他方に劣らぬ独創性をもっている。≫ ヴィーコの言葉・・「諸国民は頽廃によって分裂し、自らを破壊していく傾向にある。 孤独の中に四散したそれらの残滓から諸国民は再生し、自らをまた新たにする。 神話の不死鳥にも似て。 -何がそうしたことを可能としたのか? おそらくは精神である。 なぜなら人々は知性によって、そうしたことをなしたからだ。 運命がなしたわけではまったくない。 なぜなら人々は選択することで、そうしたことをなしたからだ。」<目次> 世界史入門偉大なる天才の孤独―『ヴィーコ選集』まえがき全体としての生命の復活―『フランス史』1869年の序文社会主義、軍国主義、産業主義―『19世紀史』第1巻序文ヨーロッパ精神と時代の産物―『19世紀史』第3巻序文「今世紀全体への、およびその急速な衰退への一瞥」ジュール・ミシュレあるいは精神の自由【楽天ブックスならいつでも送料無料】全体史の誕生 [ ジュール・ミシュレ ]【楽天ブックスならいつでも送料無料】フランス史(1) [ ジュール・ミシュレ ]【楽天ブックスならいつでも送料無料】フランス史(2) [ ジュール・ミシュレ ]【楽天ブックスならいつでも送料無料】学生よ新版 [ ジュール・ミシュレ ]
2014.11.09
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水間政憲「ひと目でわかる日韓・日中 歴史の真実」PHP研究所2012年刊竹島問題について、本書では、1951年に、ディーン・ラスク米国務次官補から韓国への書簡で、竹島は日本領と断言していたことが紹介されています。in the Declaration. As regards the island of Dokdo, otherwise known as Takeshima or Liancourt Rocks, this normally uninhabited rock formation was according to our information never treated as part of Korea and, since about 1905, has been under the jurisdiction of the Oki Islands Branch Office of Shimane Prefecture of Japan.The island does not appear ever before to have been claimed by Korea.・・竹島は、およそ1905年以降、日本の島根県の沖諸島支所事務所の管轄権の下にある。韓国の主張するように、それ以前に、この島が現れたことはない。また、合わせて、1951年の米国の公式見解を参照することも紹介されています。Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific 1202-1203 page より。 ジョン・フォスター・ダレスと韓国大使との間で行われた会議の議事録。 Mr.Dulles noted that paragrarh 1 of the Korean Ambassador's communicationmade no reference to the Island of Tsushima and the Korean Ambassador agreed that this had been omitted.Mr.Dulles then inquired as to loation of the two islands,Dokdo and Parangdo, Mr, Han stated that these were two small islands lyingin the Sea of Japan, he believed in the general vicinity of Ullungdo,Mr.Dulles asked whether these islands had been before the Japanese annexation,to which the Ambassador replied in the affirmative.If that were the case, Mr.Dulles saw no particular problem in including these islands in the pertient part of the treaty which related to the renunciation of Japanese territorial claim to Korean territory. <目次>尖閣諸島 動かぬ証拠「中国」尖閣諸島 動かぬ証拠「台湾」尖閣諸島を日本領と記載した中華民国からの感謝状竹島は日本の領土:動かぬ証拠南京問題:動かぬ証拠慰安婦問題、動かぬ証拠
2014.02.09
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水間政憲「ひと目でわかる「アジア解放」時代の日本精神」PHP研究所2013年刊 GHQによる焚書坑儒・・ 昭和3年1月1日から昭和20年9月2日まで、約22万タイトルの刊行物が公刊されたものの中から、 9288点の単行本を選出し、審査の結果7769点を、 1946年3月17日、「軍国主義・超国家主義の『宣伝用刊行物』の廃棄に関する指定」として、 全国の国公立図書館や私立図書館より廃棄させ、書店の流通から外したこと。 それは、 「西欧諸国が人種差別を当然の権利と称して、アジア・アフリカを侵略し、 植民地化してきた歴史上の汚点を批判的にまとめたもの」だった、といいます。 タイ、ビルマ、中国国民党なども、欧米に宣戦布告していたということ。 その事実以上に、ビルマ・・ミャンマーの自国の歴史教育においても教えられて いないことに、根深さを感じます。西尾幹二さんの「GHQ焚書図書開封」シリーズも、手に取ってみよう、と思います。<目次>ベトナム解放への道王朝国家タイは日本の同盟国だったアジア解放へ疾走する自転車部隊アジア解放に協力していたタイ軍日本軍に協力的だったマレー人タイ国との絆タイ国の恩義を忘れてはいけない英不沈艦の撃沈がアジア解放を決定づけた英国植民地政策の先兵(不沈戦艦)が海の藻屑となった日日本軍に引き継がれていた武士道精神〔ほか〕
2014.02.09
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関ヶ原古戦場・・大谷吉継、宇喜多秀家、石田三成、島左近、笹尾山交流館、島津義弘、小西行長、関ヶ原歴史民俗資料館、関ヶ原鍾乳洞 関ヶ原の合戦を描いた作品は多数ありますが、 みなもと太郎さんの「風雲児たち」を初めて読んだ時は衝撃でした。 もともと幕末・明治維新を描く作品でしたが、 舞台は、いきなり400年前の関ヶ原の合戦に舞い戻ります。 西軍でほんとうに戦ったのは、石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家のわずか3隊のみ。 残りは、内応、日和見、裏切りだらけ。 そんな西軍の中で、 ≪なんのために関ヶ原にきたのかまったくわからない藩が三つある すなわち長州 薩摩 土佐の三国であった。≫≪かれらが歴史のなかにこの戦いの意味を見出すまでには およそ三百年の時の流れを必要とせねばならなかった≫ 1600年の関ヶ原の合戦の半世紀後の1655年、 八丈島で一人の老人が息を引き取る。「岡山 五十七万石 棒にふったが・・なんのなんの 三千世界より尊い生命を まっとうすることがいちばん果報じゃわい 豊臣家中納言 宇喜多秀家 享年八十二 悔いはにゃあて・・」 東証大権現・家康と命をやりとりをして、 一番長生きした宇喜多秀家が、一人勝ち・・した、という見方もできるかもしれませんね~
2013.10.14
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伊吹山から下山後、関ヶ原鍾乳洞へ・・ 鍾乳洞というより、洞窟探検でした。 ニジマスが印象的でした。 関ヶ原歴史民俗資料館へ移動しようと思っている途中で、 「大谷吉継」の文字が見え、右折・・ 大谷吉継のお墓が山中にありました。 お墓をお参りした後、 大谷吉継の陣跡へ・・ 大谷吉継の陣跡・・ 小早川秀秋が陣取った松尾山を見る眺望地・・ 1万5千人に及ぶ小早川秀秋の大軍を、3度にわたって撃退した 大谷吉継軍の奮闘ぶりを描いた立札を見ながら、自然と胸が熱くなりました。 大谷吉継の盟友・平塚為広の碑・・ 南天満山の宇喜多秀家の陣跡・・ 笹尾山の石田三成本陣・・ 麓には、島左近の竹矢来・馬防柵でできた陣跡・・ 笹尾山の展望台・・ 大砲の試し打ちを2度見せていただきました。 朝から、50発以上撃ったとのこと。 笹尾山交流館・・ 来週末の「関ケ原合戦祭り2013」のポスターを平野耕大さんが 描かれたこともあり、「ドリフターズ」の原画展が開かれていました。 関ヶ原決戦地・・ 島津義弘陣跡・・ 関ヶ原開戦地・・福島正則が宇喜多隊へ一斉射撃をしかけた場所 北天満山・小西行長の陣跡・・ 関ヶ原歴史民俗資料館・・ 徳川家康・最後陣地・・ 床几場・・家康が、討ち取った武将の首実検をした場所 ここまでで約4時間ほど・・ 今回は、西軍に偏愛した関ヶ原古戦場めぐりでした。 次回は、登頂までに40分ほどかかる松尾山と、東軍の陣跡も見てみたい。
2013.10.13
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歴史としての身体―ヨーロッパ中世の深層を読む (叢書ラウルス)池上俊一「歴史としての身体―ヨーロッパ中世の深層を読む」(叢書ラウルス)柏書房1992年刊≪からだとこころからヨーロッパ中世をみなおす、 とは生身の人間、その時代・地域に現実に生きながら、 喜び悲しみ、泣き笑い、夢をみ絶望し、そして老いて死んでいった 人間に可能なかぎり即して、その時代の特質を考察する、 ということがその意図の一つである。≫ そしてもう一つは、身体や感情に刻み込まれた知や迷信やメタファー を媒介として世界に投げかけられるメッセージと、 それにたいする世界からの応答を受け取る感性の独特の様式、 それらをつうじて、ヨーロッパ中世の森の深奥に秘された謎を解明 しようというもくろみである。≫ 狼男・・ 古ゲルマン社会においては、その社会の基本単位であるジッペという 血縁共同体の存立を脅かすような、殺人・墓荒らしなどの犯罪者をさした。 狼男とされた彼らは、実際のオオカミの頭を被せられ、 共同体の外の世界へと追放されたのである。
2013.01.20
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阿部謹也「中世を旅する人びと―ヨーロッパ庶民生活点描」(ちくま学芸文庫) 中世の旅人は、現在と異なり、とても危険な目にあうことを覚悟しなければならなかった。 道路は整備されず、倒木や土砂崩れ、結氷、洪水などが残り、 盗賊に襲われる危険も多かった。 道標も不備であり、分かれ道は、そのつど、その人の運命を左右した。 ≪旅人は他国の森や林を通って未知の街道を歩かねばならない。 それはさまざまな霊が支配する空間を通過することを意味する。≫ 村の入り口で出会った黒犬は、自殺者の霊か、魔法にかけれらた人間の姿とみた。 特に、十字路は、良き霊と悪しき霊が集まる場所と考えられ、 十字路に経つと、霊の力で未来が見えるといわれた。 中世の職人は、そんな中、遍歴した。≪遍歴は十八、九世紀には青少年の人格陶冶の手段とみなされていた。 実際に多くの同職組合規約では職人の遍歴の目的を、 「若く未経験な職人が他国でいわば他人の飯を食い、 新しい技術を習得するため」としており、 親方になるなる前の修業の旅と位置づけられていた。≫≪だから「遍歴こそ職人の大学だ」とすらいわれたのである。≫ <目次>1 道・川・橋2 旅と定住の間に3 定住者の世界4 遍歴と定住の交わり5 ジプシーと放浪者の世界6 遍歴の世界
2013.01.20
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読書の軌跡阿部謹也「読書の軌跡」筑摩書房1993年刊 阿部謹也さんによる書評集。 大作が多いので、少しずつ手に取っていきたいと思います。 ハーマン・メルヴィル『白鯨』≪訳者の田中西二郎氏の解説によると、流行作家であったメルヴィルはこの小説を 書いたためにその地位を失い、文壇から消えていったという。・・ 流行作家が売れる本を書くことに飽きて、 本当に書きたいものを書くためにあえて恵まれぬ晩年を甘受したという話は 若い私には強く訴えるものをもっていたからである。≫ 「1588年にイギリス軍はスペインのアルマダ艦隊を破ったというは易い。 しかし誰が船酔いや下痢のために苦しみ、漕げなくなって非情な海に投げ出された ガレー船の漕手のことを語るだろうか」(ブルクハルト) ヘルマン・ハインペル『小さな提琴、首府のミュンヘンの一少年』≪人間は一生のどの段階においても完成したものであり、 どの時期にも星が瞬き、どの年代においても大きな恵みが用意され、 何時でも愛によって生きる。≫ フィリップ・アリエス『<子供>の誕生』 ヨーロッパにおいて、家族の絆が意識されはじめるのは、 12、13世紀以降であり、16、17世紀になってはじめて私的な交わりの 場としての家族が成立した。 それまでは、家は多くの他人を交えた半ば公的な生活の場であった。 だから、子供も立って歩き始めれば、小さな大人として扱われ、一緒に仕事をした。 16、17世紀になって、子供の存在が、大人と異なる無垢なものであり、 大人の汚れた世界から隔離しなければならないという考えが生まれた。 フィリップ・アリエス『死と歴史』 キリスト教が普及する以前と以後の死生観の違い。 古ゲルマン人は、円環的時間意識の中で生き、死後も現世と同様にヴァルハラで 生活しうると考え、動産や家畜などを墓に携えていった。 一方、キリスト教においては、直線的時間意識のなかで生きることを強要され、 現世は一回生を受けるだけ、死ぬときも一人。死後は天国や地獄や煉獄に行く 運命にあると考えざるをえなくなった。 彼らが恐れたのは、死そのものよりも、死後の罰。 死後の罰を怖れる人々から、圧倒的な財を集めたのが教会であった。 フィリップ・アリエス『死を前にした人間』 ノーマン・コーン『シオン賢者の議定書』ユダヤ人世界征服陰謀の神話 シオン賢者の議定書(プロトコル)≪・・少数派の狂信的行為と多数派の無関心が結びついたとき 民族殺しが可能となったという著者の発言には耳を傾ける必要があるだろう。≫ 池上俊一『歴史としての身体』≪人間が世界を捉え、理解しようとするとき、その基準は自己しかない。 現代の社会には自己以外の基準らしきものがあまりに幅をきかしているために、 世界を捉える基準が人間自身であるということはともすれば忘れられている。≫ テツオ・ナジタ『懐徳堂』「人は誰でも身分をとわず固有の徳をもっており、 正しくものごとを理解する能力がある」という理念のもと、 武士などのエリートに独占されていた学問を、農民や商人に開かれたものにした。≪身分をとわず、個人の能力で選別せず、誰にで門戸を開いた教育・研究の機関 としての懐徳堂が基本的には宗教を排し、合理的な思考を育てようとし、 日常生活の中にすべての思想の源泉を見ようとしていたことが十分に描かれている。≫
2013.01.05
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トマス・プラッター「放浪学生プラッターの手記―スイスのルネサンス人」訳 阿部謹也平凡社1985年刊 1499年、スイス生まれのトマス・プラッターの自伝。 1572年1月28日から、16日間で書かれたもの。 貧しい家に生まれ、幼くして父は亡くなり、母は再婚し町を出る。 そのため、プラッターは、6歳で山羊番として働くが、何度か死ぬ目に遭います。 その後、放浪するひよっ子となる。 ひよっ子は、乞食をして食べ物をもらうが、みな学生に召し上げられた。 面白いのが、校長は生徒にしようとするが、それを断り、 学校の床の上で眠り、放浪を続けたこと。 それでも、チューリッヒで貧乏生活を送っていた時、 ある家に家庭教師として雇われ、食事をごちそうになるようになる。 この機会に、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を同時に学ぶ。 この時の猛勉強ぶりがすごい。≪ほとんど眠らずに夜を過ごすことも多く、 睡魔と戦うために大変な苦労をした。 しばしば冷たい水を口に含み、生の蕪や砂を口に含んで、 万一眠りこんでも砂が口の中でザラザラしてすぐに目が覚めるように しておいた。≫ こんなプラッターさんのもとへ、ヘブライ語を学びたいという説教師が教えを請いにきます。 その人の家で、文法書を読み、ヘブライ語の聖書と対照し、一緒に練習します。 そこに、80歳ぐらいでヘブライ語を学びたいという老人がきたので、 教えに行ったといいます。 これが16世紀の話とは正直驚きでした。≪私の出身身分は大変低いにもかかわらず、 神は名誉を与えてくださり、この有名な町バーゼルで大学の外の ギムナジウムを31年間にわたって統率し、そこで多くの高位の 人びとの指定を教育し、多くの博士や学者、所領の領民や所領を 支配する貴族の子弟や裁判所の判事や市参事会員となった者たちを 育てたのである。≫
2012.12.31
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阿部謹也「ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界」平凡社1974年刊 1284年6月26日、ハーメルンの町から130人の子どもたちが 行方不明になった。 この事件の背景にあるハーメルンの人びとの悲しみと苦しみは いかなるものであったか。 阿部謹也「自分のなかに歴史をよむ」(ちくまプリマーブックス) さまざまな説のうち、有力なものは、 東欧、ポーランド、チェコ、ハンガリーへの入植であったというもの。 たとえば、ハーメルンからトロッパウへの道は600キロもあり、 もし無事に辿りついたとしても、そこにあるのは未開の原野であった。 そのため、最初の冬を過ごすための食料や資金を持っている必要があった。 つまり、食い詰めた人々ではなく、かなり余裕のある層で、 十分な計画をもって村を離れた。 12~13世紀のヨーロッパは激動の時代であり、 商業の復活と遠隔地貿易再開により、 先祖伝来の領主に代わって、新参者が新しい領主として君臨するようになった。 「この村はもう俺の村ではない」と思った農民が多数いた中、 東部から勧誘を受け、先祖伝来の地を棄て旅だっていった。 ただし、 ハーメルンの場合、人口増と慢性的な土地不足の中、 下層民の子どもには、もはや新家庭をもって独立した家計を営む可能性がなかった。 当時のハーメルンの130人は、近代のハーメルンなら2000~2500人の 若者が突然消えてしまうほどの比重を占めていた。 <目次>第1部 笛吹き男伝説の成立(笛吹き男伝説の原型1284年6月26日の出来事植民者の希望と現実経済繁栄の蔭で遍歴芸人たちの社会的地位)第2部 笛吹き男伝説の変貌(笛吹き男伝説から鼠捕り男伝説へ近代的伝説研究の序章現代に生きる伝説の貌)
2012.12.31
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阿部謹也「中世の星の下で」(ちくま学芸文庫) ヨーロッパ中世の人びとは何を思い、どのように暮らしていたのか、 を描いた35編の論考。 ヨーロッパの知識人のあこがれの引退生活は? 「羊飼いの生活をしたい」 という返事がかえってくることがある。 オルテガ・イ・ガゼなどもそうだったそうな。お風呂・・≪一日楽しく過したければ風呂へ行け。 一月を楽しく過したければ豚一頭を屠り、 一年を楽しく過したければ若い妻を娶れ。≫(16世紀)≪中世の浴場は公的な場であって、殺人をおかした者は罪を贖ったのちでも 被害者の縁者が入浴している浴場に姿を見せてはならなかった。≫ 浴場で争いあってはならず、盗み死罪となった。 浴場は平和の場とされていたからである。 債務を負って債務者から追われているものも、浴場内にいる限り 捕えられることはなかった。平和領域アジールでもあった。 しかし、このような浴場は、木材価格の急騰と梅毒の流行という直接原因とともに、 人と人との関係を規定していた公的な権威の変質があった。メメント・モリ・・ 15世紀に「死を思え」の叫びがヨーロッパの人びとの胸中に、 諦念と恐怖を植え付けたのはなぜか? 中世における死の原因は、 自然的原因としては、病気、老衰、暴力による事故死などとももに、 超自然的原因があった。呪術、死霊、死者の招きなど。 ヒステリックなまでの死の恐怖、「死の幻影」は、 中世社会の秩序が崩壊していき、 衰退の運命を味わわされつつあった貴族社会とキリスト教の悲鳴と みることもできる。遠かった書物・・≪ハルツの砕石工は、1860年に六巻本のシラー著作集を買うのに、 四週間分の収入をあてなければならなかったし、 十九世紀初頭にベルリンの読書教会に入ろうとした労働者が 年会費十二~二十ターレンを払うと、年収の十~十五パーセントが とんでしまったという。≫ いまがいかに恵まれた時代であることか! 以前、成毛さんが、年収330万の頃、7割が本代だったという話が きいて驚いたことがありましたが、 ハルツの砕石工、偉いですね!!!<目次>1 中世のくらし(私の旅 中世の旅石をめぐる中世の人々中世の星の下で ほか)2 人と人を結ぶ絆(現代に生きる中世市民意識ブルーマンデーの起源について中世賎民身分の成立について ほか)3 歴史学を支えるもの(ひとつの言葉文化の底流にあるもの知的探究の喜びとわが国の学問 ほか)
2012.12.31
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阿部謹也「西洋中世の罪と罰 亡霊の社会史」(講談社学術文庫)2012年刊 今年、ちょうど500冊目の本。 11月に手を取った加門七海さんが面白く、一時、怪談実話系にはまっていましたが、 網野さんや阿部さんを通して、このような物語が、中世の世界観のものであったこと を再認識した年の瀬でした。≪エッダ、サガに登場する粗野でたくましい死者のイメージは、 中世後期の『黄金伝説』『奇跡をめぐる対話』では、生者に助けを求める哀れな姿となる。 その背景には何があったのか?≫ (「BOOK」データベースより) ヨーロッパ中世の12世紀から13世紀にかけて、大きな変化が起こる。 もともとゲルマン民族の原初の世界意識を伝えるエッダやサガには、 天国・地獄の図式はなかった。 しかし、キリスト教の普及とともに、 「贖罪規定書」以前の死者の国(元気な死者たちが暴れ回る)が、 だんだんと弱い死者の国(地獄・煉獄からの助けを求める)へと変化していった。 ヨーロッパと日本の歴史の根本的な違いの一つ。 それは、罪の意識の問題にある。 そもそも罪とは何か?≪これはキリスト教の聖書に基づいてくり広げられる壮大な生活のモデルに基づくものである。≫ 「贖罪規定書」には、7つの大罪やその他さまざまがあり、 死後の世界をイメージさせることで、罪の意識を個人に植え付けようとした。 1215年のラテラノ公会議により、成人男女は年に一回は、 司祭に告解をしなければならないと定められる。 罪の意識は、個人の問題ではなくなる。 フーコーは、罪と権力の関係についてこういう。「個人としての人間は、長いこと、他の人間たちに基準を求め、 また他者との絆を顕示することで(家族・忠誠・庇護などの関係がそれだが)、 自己の存在を確認してきた。 ところが、彼が自分自身について語りか得るかあるいは語ることを余儀なくされている 真実の言説によって、他人が彼を認証することになった。 真実の告白は、権力による個人の形成という手続きの核心に登場してきたのである」(『性の歴史1 知への意志』)≪中世の人間にとって死はいたるところで待ち伏せしていた。 いついかなる瞬間に命を落しても少しも不思議ではない状況のなかに、 中世の人びとは生きていたという厳しい事態をまず頭に入れておかなければならないだろう。≫ ヨーロッパにおいて、キリスト教以前は、大量の財宝が墓に埋められていた。 そのため、金銀の流通に大きな影響を及ぼしたとさえいわれている。 また、この風習がなくなることで、商業が復活し、都市の成立に結びついたという人さえいる。 亡霊は、冬に出現することが多く、特に冬至の頃が最も多い。 3月になると亡霊の数は減ってくる。 また、亡霊は、日暮れ時に現れる。 日が昇ったり、灯がついたりすると、亡霊の力は弱まる。 亡霊の現れる場所も、だいたい家のまわりだった。 これらの亡霊や土地の守護霊は、キリスト教により追われた。<目次>はじめに第一章 古ゲルマンの亡者たち第二章 死者の国と死生観第三章 キリスト教の浸透と死者のイメージの変化第四章 中世民衆文化研究の方法と『奇跡をめぐる対 話』第五章 罪の意識と国家権力の確立第六章 キリスト教の教義とゲルマン的俗信との拮抗--贖罪規定書にみる俗信の姿第七章 生き続ける死者たちあとがき註
2012.12.31
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阿部謹也「西洋中世の男と女―聖性の呪縛の下で」(ちくま学芸文庫) アメリカは、新しい土地・社会という印象が強い。 しかし、 ヨーロッパが中世社会が絶対王政によって大きな変化が生まれた際、 この絶対王政を逃れた人びとが作った国であるため、 中世から、絶対王政を経ずに、近代国家となった国といえる。 そのため、 絶対王政を経た社会が禁止した個人の武装が認められている。 陪審員裁判もヨーロッパ中世のやり方をやや緩くして運用している。 カトリックはどんな罪を犯しても、告白して罪をあがなえば赦されるという抜け道があるが、 プロテスタント、ピューリタンの場合、この抜け道がない。 古代人の宇宙観・・グノーシス派の宇宙観≪この世は月の下にある地球と七つの惑星圏、第八の恒星天というものを経て、 神の叡智界へ広がっています。 そして最後の叡智界は神の叡智そのものが表れる世界であって、そこから下に向けて 徐々に叡智が低下し、地に至ってはゼロになる。≫ 古代末期の人々は、不運とか不幸とかをもたらすものは、 呪術師の力で動く超自然の力ダイモーンだとみていた。 また、人は死ねば、肉体を地上に残し、霊は天に昇り、神々の世界に座を占めることも 不可能ではないと考えていた。 一方、キリスト教は、古代人の宇宙観とまったく異なる宇宙観を生み出した。 人間は最後の審判に際して、肉体とともにすべての死者が甦り、 善行を積んだものは天国へ、悪行が多かったものは地獄へ行くと定められていると教えた。 古代人にとってのダイモーンや守護霊は、 天使や悪魔として位置づけられた。 PS1 キリスト教が入ってきて400年も経つのに、 日本において、なぜキリスト教が普及しないのか? 人口のわずか1%。 その理由は、 キリスト教には、公の面と土俗的な面の2つの大きな面があるにもかかわらず、 土俗的な面を切り捨てて公の面だけが入ってきているから。 ・・つまり、近寄りがたい。PS2 「Aという字は何色か?」 ということに、アメリカの学生は答えられないと教養を疑われる。PS3 英語で奴隷を意味する「スレーブ」とは、スラブを指す。 ローマ帝国において、スラブ人が大量に奴隷として入ってきたため、 スラブ人が奴隷という名詞になった。PS4 中世において、外科医は床屋の主人が兼ねていた。 その名残が、床屋の店先にある赤と青と白の印。 あれは、動脈、静脈、包帯をあらわしている。<目次>第1章 『緋文字』の世界第2章 古代・中世の宇宙観のなかの男と女(古代人の宇宙観ローマ人の男女関係)第3章 聖性の形成・解体と聖職者・女性(ユダヤ教と男女関係初期キリスト教と男女関係聖なるものの変質)第4章 聖なるむすびつきとしての結婚(ゲルマン人の結婚教会に管理される結婚贖罪規定書から)第5章 娼婦たちと社会(娼婦の位置娼婦と娼婦宿)第6章 中世の男と女にとって愛とは何か(聖性の呪縛の下で個人の誕生)
2012.12.30
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阿部謹也「世間を読み、人間を読む―私の読書術」(日経ビジネス人文庫)2001年刊 阿部謹也「読書力をつける (知のノウハウ)」の文庫本。 「補論 私と図書館」が、追加されています。 が、この補論がとても良いです。 ヨーロッパにあって日本にないもの? 一見、いくらでもあるように思えますが、よく調べてみると、 昔話やメルヘンなどでは、違いはあまりない。《ただ、はっきりしていることは音楽なのです。・・ 特に、ポリフォニー。》 日本の音楽は、古代から近代まで、ほとんどがモノフォニー、単声音。 一方、ヨーロッパは、オーケストラに象徴されるポリフォニー。 このポリフォニーの音楽が生まれたのは、修道院。 ザンクト・ガレンのような修道院であり、 そこでは、文字だけでなく、音楽、特に合唱が教えられた。<目次>第1章 何を読むか第2章 「読書」を読み解く第3章 教養とは何か第4章 生きる知恵を学ぶ―哲学とは何か第5章 歴史をどう見るか補論 私と図書館
2012.12.30
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阿部謹也 「教養」とは何か (講談社現代新書)1997年刊 教養とは何か?≪人類の長い歴史の中で「いかに生きるか」という問いが発せられたのは そう古いことではない。 そのような問いが問いとして意味を持ち得るためには「いかに生くべきか」 という問いに対して自ら答えを出し、その答えに従って生きて行く可能性が 少なくとも存在していなければならないからである。≫ 12世紀になり、都市が成立し、新たな職業選択の可能性が開かれて はじめて「いかに生きるか」という問いが実質的な意味を持つようになった。 何を職業とすべきかを考える中で「いかに生きるか」という問いが重要な 意味を持った。これが「教養」の始まりであった。≪「自分が社会の中でどのような位置にあり、 社会のためになにができるかを知っている状態、 あるいはそれを知ろうと努力している状況」を「教養」があるというのである。≫ 学校教育は、建前だけを教えてきた。 一番大切なことは、自分が「世間」に出た時に解るものとされており、 解った人のことを大人という。 人は公的なことを発言するときは、欧米流の内容を主として発言し、 公的な場を離れた時は、自分の「世間」に即して本音でしゃべった。 大人は世間の厳しさを身に染みて知っているが、 子どもに教育することができない。 それは、「世間」が、文字や言葉によらない知の世界であり、 西欧的教育では捉えられない内容を持っているためである。≪教養があるということ最終的にはこのような「世間」の中で 「世間」を変えてゆく位置にたち、何らかの制度や権威による ことなく、自らの生き方を通じて周囲の人に自然に働きかけてゆく ことができる人のことをいう。≫<目次>序章 建前と本音第1章 公共性としての「世間」第2章 「世間」の中でいかに生きるか第3章 個人のいない社会終章 「世間」と教養
2012.12.28
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阿部謹也「自分のなかに歴史をよむ」(ちくまプリマーブックス)1988年刊 阿部謹也さんと、恩師・上原専禄先生との出会いと、 40歳の歳の差を越えての交流が素晴らしいです。 上原先生のアドバイス・・ 「どんな問題をやるにせよ、 それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね。」 何か本を読んだり、人の話を聞いたときに、自答すべきことは、 「それでいったい何で解ったことになるのですか」 「解るということはいったいどういうことか」 「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」 ハーメルンの笛吹き男の伝説・・ 1284年6月26日に、ハーメルンの町の子どもたち130人が行方不明 になったという史実。 新しい学説だと、当時のハーメルンの町は、上層市民と下層市民の格差は広がり、 下層市民の子どもたちは、成人しても職がなく、将来の見通しがたたなかった。 そこで、この日、貧しい市民の子女65組、計130人が集団結婚式をあげ、 現在、舞楽禁制通りと名付けられている通りを通って東門を抜け、 東ドイツ、あるいは東欧方面に入植した、といわれています。 そして、植民を斡旋する植民請負人が、笛吹き男とみなされた。 同様に、グリム童話なども、架空の話ではなく、 少なくとも当時の人々の願望としては真実であったのではないか、といいます。≪・・私にとって歴史は自分の内面に対応する何かなのであって、 自分の内奥と呼応しない歴史を私は理解することはできないからです。≫<目次>第1章 私にとってのヨーロッパ第2章 はじめてふれた西欧文化第3章 未来への旅と過去への旅第4章 うれしさと絶望感の中で第5章 笛吹き男との出会い第6章 二つの宇宙第7章 ヨーロッパ社会の転換点第8章 人はなぜ人を差別するのか第9章 二つの昔話の世界第10章 交響曲の源にある音の世界
2012.12.28
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網野善彦・鶴見俊輔「歴史の話」(朝日選書)朝日新聞社 ○日本の資本主義の起源 江戸時代後期の日本の寺子屋教育は、 同時代のイギリス、フランスを超えていた。 幕藩制度の中の勘定方という小役人が、 海外の諸国と交通を管理する為替管理を処理する方法、 計数管理能力を身に着けていた。 経営能力の源流は、13世紀後半から14世紀ぐらいの 荘園や公領の請負人にあった。 また、同時期に企業家があらわれていた。 禅宗や律宗の僧侶が、勧進聖(かんじんひじり)になって寄付金を集めた。 関所を立てて、関所料を取り、将軍や天皇の許可を得て、一軒一軒から 十文ずつ棟別銭(むねべつせん)を徴収し、巨額な資本を集める。 そして、唐船をつくり、中国に貿易に行き、 大量の陶磁器や銅銭を持ってきる。 その利潤をさらに資本とし、橋を架けたり、港を修築したり、 寺院を造営するなどの土木工事をやる。 当時は、勧進上人が企業家として、公共事業をやっていた。 延暦寺の山僧も金融業をやっており、 彼らは、帳簿管理の技術も持っていた。○蒙古来襲の理由 モンゴルが九州に襲来したのと同じころ、 13世紀後半にサハリンにも4度攻め込んでいた。 なぜ侵入したのかというと、 あの時点でアイヌがサハリンから北東アジアまで入って交易を活発に やりはじめており、そこで元と衝突した。 宮本常一『日本文化の形成』<目次>1 歴史を多元的にみる(国民の生活から離れる知識人たち「烏合の衆」が秘める思想的な強さわからない問題がたくさんある「お前は何民族だ?」と聞かれたらずっと秀才だった人間の思い込み ほか)2 歴史を読みなおす(「意味の重層性」を欠く日本の学術語歴史的変化の中で揺れる文字の面白さ山中共古と『東京人類学雑誌』いま崩れようとしている「百姓は農民」像襖の下張りに潜んでいる事実 ほか)
2012.12.19
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Jared Diamond - Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human SocietiesW W Norton & Co Inc; New e1999 ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄(上)―1万3000年にわたる人類史の謎」 ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄(下)―1万3000年にわたる人類史の謎」 New Guineans, Yali asked me,"Why is it that you white people developed so much cargo and brought it to New Guinea, but we black people had little cargo of your own?" The history of interactions among disparate peoples is what shaped the modern wold through conquest, epidemics, and genocide.Why were Europeans, rather than Africans or Native Americans, the ones to end up with guns, the nastiest germs, and steel?For this book, here is such a sentence: "History followed different courses for different peoples because of differences among peoples' environments, not because of biological differences among peoples themselves."Al of that human history, for the first 5 or 6 million years after our origins about 7 million years ago, remained confined to Africa.By about half a million years ago, human fossils had diverged from older Homo erectus skeltons in their enlarged, rounder, and less angular skulls.Human history at last took off around 50,000 years ago, at the time of what I have termed our Great Leap Forward.Much of human history has consisted of unequal conflicts between the haves and the have-nots: between peoples with farmer power and those without it, or between those who acquired it at different times,The peoples of areas with a head start on food production thereby gained a head start on the path leading toward guns, germs, and steel. The result was a long series of collisions between the haves and the have-nots of history.The importance of lethal microbes in human history is well illustrated by Europeans' conquest and depopulation of New World. Far more Native Americans died in bed from Eurasian germs than on the battlefield from European guns and swords.By 1618, Mexico' initial population of about 20 million had plummeted to about 1.6 million.For the New World as a whole, the Indian population decline in the century or two following Columbus's arrival is estimated to have been as large at 95 percent.Where do innovations actually come from? For all societies except he few past ones that were completely isolated, much or most new technology is not invented locally but is instead borrowed from other societies.Inventing a writing system from scratch must have been incomparably more difficult than borrowing and adapting one.The importance of isolation is most obvious for Hawaii and Tonga, both of which were separated by at least 4,000 miles of ocean from the nearest societies with writing.The largest population replacement of the last 13,000 years has been the one resulting from the recent collsion between Old World and New World societies.Among the resulting proximate factors behind the conquest, the most important included differences in germs, technology, polotical organization, and writing.In short, Europe's colonization of Africa had nothing to do with differences between European and African peoples themselves, as white racists assume.Rather, it was due to accident of geography and bigeography - in particular, to the continents' different areas, axes, and suites of wild plant and animal species. That is, the different historical trajectories of Africa and Europe stem ultimately from differences in real estate.ContentsPROLOGUE YALI'S QUESTION The regionally differing courses of history PART ONE FROM EDEN TO CAJAMARCA CHAPTER 1 UP TO THE STARTING LINE What happened on all the continents before 11,000 B.C.? CHAPTER 2 A NATURAL EXPERIMENT OF HISTORY How geography molded societies on Polynesian islands CHAPTER 3 COLLISION AT CALAMARCA Why the Inca emperor Atahuallpa did not capture King Charles I of Spain PART TWO THE RISE AND SPREAD OF FOOD PRODUCTION CHAPTER 4 FARMER POWER The roots of guns, germs, and steel CHAPTER 5 HISTORY'S HAVES AND HAVE-NOTS Geographic differences in the onset of food production CHAPTER 6 TO FARM OR NOT TO FARM Causes of the spread of food production CHAPTER 7 HOW TO MAKE AN ALMOND The unconscious development of ancient crops CHAPTER 8 APPLES OR INDIANS Why did peoples of some regions fail to domesticate plants? CHAPTER 9 ZEBRAS, UNHAPPY MARRIAGES, AND THE ANNA KARENINA PRINCIPLE Why were most big wild mammal species never domesticated? CHAPTER 10 SPACIOUS SKIES AND TILTED AXES Why did food production spread at different rates on different continents? PART THREE FROM FOOD TO GUNS, GERMS, AND STEEL CHAPTER 11 LETHAL GIFT OF LIVESTOCK The evolution of germs CHAPTER 12 BLUEPRINTS AND BORROWED LETTERS The evolution of writing CHAPTER 13 NECESSITY'S MOTHER The evolution of technology CHAPTER 14 FROM EGALITARIANISM TO KLEPTOCRACY The evolution of government and religion PART FOUR AROUND THE WORLD IN FIVE CHAPTERS CHAPTER 15 YALI'S PEOPLE The histories of Australia and New Guinea CHAPTER 16 HOW CHINA BECAME CHINESE The history of East Asia CHAPTER 17 SPEEDBOAT TO POLYNESIA The history of the Austronesian expansion CHAPTER 18 HEMISPHERES COLLIDING The histories of Eurasia and the Americas compared CHAPTER 19 HOW AFRICA BECAME BLACK The history of Africa EPILOGUE THE FUTURE OF HUMAN HISTORY AS A SCIENCE Acknowledgments Further Readings Credits Index
2012.12.16
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ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄(下)―1万3000年にわたる人類史の謎」訳 倉骨彰草思社2000年刊 ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄(上)―1万3000年にわたる人類史の謎」の続き・・≪まったくゼロの状態から文字システムを考案することは、 既存システムで使われているものを拝借するのにくらべ、 比較にならないほどむずかしい。≫≪文字を持つようにならなかった社会は、 文字の発祥地から離れすぎていた。≫ ハワイやトンガは、4000マイル(6400キロ)以上、離れていた。 ところで、 発明はどのようになされるか? 「必要は発明の母」と呼ばれるように、なんらかの必要があるときに発明は生まれる。 実際の発明は、人間の好奇心の産物である。 また、特定の発明家が有名になるが、その先行者の功績の積み重ねが必要となる。 また、技術はどこからやってくるのか? 独自に発明されるよりも、外部の社会から取り入れる場合の方が多い。 ≪一つの発明が一つの社会で独自に誕生するか、 それともよそから借用されるかは、その発明自体の難易度と、 その社会と他の社会との隣接度という二つの要因に依存している。≫≪科学技術は、それまでの技術への精通を前提として前進する。 科学技術の進展過程が自己触媒的である理由の一つはここにある。≫≪この1万3000年の人類史において最大の人口の入れ替えは、 旧世界と新世界の衝突によってもたらされたものである。≫≪・・ユーラシアがアメリカを征服することになった直接の要因のうちで もっとも重要なのは、病原菌をめぐる状況のちがいであり、 技術や、政治システムや、文字システムをめぐる状況のちがいであった。≫≪結論を述べると、 ヨーロッパ人がアフリカ大陸を植民地化できたのは、 白人の人種主義者が考えるように、ヨーロッパ人がアフリカ人に人種的な差 があったからではない。 それは地理的偶然と生体的偶然のたまものにすぎない。≫Jared Diamond - Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human Societies<目次>第3部 銃・病原菌・鉄の謎(承前)(文字をつくった人と借りた人発明は必要の母である平等な社会から集権的な社会へ)第4部 世界に横たわる謎(オーストラリアとニューギニアのミステリー中国はいかにして中国になったのか太平洋に広がっていった人びと旧世界と新世界の遭遇 ほか)エピローグ 科学としての人類史
2012.12.16
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ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄(上)―1万3000年にわたる人類史の謎」訳 倉骨彰草思社2000年刊 なぜ世界は、富と権力がかくも不均衡な状態にあるのだろうか? なぜ人類は、それぞれの大陸においてこれほどまでに異なる歴史を辿ってきたのか? という大きな問いに答えようとする試み。 欧米の歴史に重きを置かない「逆転の人類史」・・ 本書の要約・・≪「歴史は、異なる人びとによって異なる経路をたどったが、 それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、 人びとの生物学的な差異によるものではない」≫ ニューギニア人のヤリの質問・・「あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、 私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。 それはなぜだろうか?」 ≪さまざまな民族のかかわりあいの成果である人類社会を形成したのは、 征服と疫病と殺戮の歴史だからである。≫だから、本書の目的は、 「勝者と敗者をめぐる謎」・・≪アフリカ人やアメリカ先住民ではなく、ヨーロッパ人が銃や病原菌や鉄を 持つようになった究極の要因を探究≫することである。 人類の歴史は、700万年前にはじまる。 アフリカに生息していた類人猿がいくつかに枝分かれする。 ゴリラ、チンパンジー、そして、現生人類の祖先へ。 10万年前から5万年前の「大躍進」の時期に、 われわれの祖先に画期的な変化が起こる。 人類の喉頭が発話可能な構造となり、言語能力を伸ばすことができ、 機能的な進化が人類の脳に起こった。 紀元前1万1千年前の世界に行ったとしたら、 アフリカが、「先にスタートを切り、一歩リード」していた。 ≪世界史では、いくつかのポイントにおいて、疫病に免疫のある人たちが 免疫のない人たちに病気をうつしたことが、その後の歴史の流れを 決定的に変えてしまっている。 天然痘をはじめとしてインフルエンザ、チフス、腺ペスト、その他の伝染病 によって、ヨーロッパ人が侵略した大陸の先住民の多くが死んでいるのだ。≫ 2000万人いたメキシコの人口は、 一人の奴隷が持ち込んだ天然痘により、 1618年には160万人にまで激減した。 コロンブスのアメリカ大陸発見以降200年間で、95パーセントも減少した。 ≪人類史の大部分を占めるのは、「持てるもの(Haves)」と 「持たざるもの(Have-nots)」とのあいだで繰り広げられた衝突の歴史である。 しかし、この衝突は、対等に争われたものではなかった。≫ 農耕民として力を得た「持てるもの」が、その力を「持たざるもの」へ 行使した不平等の歴史であった。 狩猟採集生活に対して、食糧生産を他の地域に先んじてはじめた人々は、 銃器や鉄鋼製造の技術を発達させ、 各種疫病に対する免疫を発達させる過程へ歩み出した。 この一歩の差が、「持てるもの」と「持たざるもの」をわけた。 ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄(下)―1万3000年にわたる人類史の謎」Jared Diamond - Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human Societies <目次>プロローグ ニューギニア人ヤリの問いかけるもの第1部 勝者と敗者をめぐる謎(一万三〇〇〇年前のスタートライン平和の民と戦う民との分かれ道スペイン人とインカ帝国の激突)第2部 食料生産にまつわる謎(食料生産と征服戦争持てるものと持たざるものの歴史農耕を始めた人と始めなかった人毒のないアーモンドのつくり方 ほか)第3部 銃・病原菌・鉄の謎(家畜がくれた死の贈り物)
2012.12.16
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阿部謹也「読書力をつける (知のノウハウ)」日本経済新聞社1997年刊≪・・教養とは、「社会のなかで自分がどういう位置に立っているのかということを、 自分の手である程度、解明できる状態」をいうと考えています。 つまり、「自分が社会のなかでどういう位置にいるか」ということがわかれば、 「自分が社会にどういう貢献できるか」がわかりますし、 「自分の仕事がどんな意味をもつのか」もわかるわけです。≫≪「読書の歴史を考えない読書論はありえない」と私は思っています。≫ 「自分が自分の目で読む」という行為は、ごく最近、ヨーロッパでは16世紀以降、 であり、それ以前は、誰かに読んでもらって聞く、という形だった。 18世紀以前、つまり、16~17世紀ぐらいまでは、書物の数が少なく、 音読が読書の普通の形だった。 宗教改革以降、「黙読」という形ができてきます。サン=ヴィクトールのフーゴー・・ ドイツの東ザクセン出身、律院の教師。1141年11月4日没。 『ディダスカリコン』 「人生における最高の慰めが知恵だ」 その「知恵の研究の主たる内容は哲学だ」 哲学とは、すべての人間的、神的な書物の根拠を徹底的に探究する学問である。 ただし、 フーゴーのいう哲学とは、 思弁学、実践学、人工・人造学、論理学の大カテゴリーから成り立つ。 実践学のうちには、経済学・政治学・国政学も入る。 人工・人造学のサブカテゴリーには、機織学、兵器学、商学、農学、医学・・ と続きます。阿部謹也さんの本、表紙が楽しいですね~<目次>第1章 何を読むか第2章 「読書」を読み解く第3章 教養とは何か第4章 生きる知恵を学ぶ―哲学とは何か第5章 歴史をどう見るか
2012.12.16
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網野善彦「続・日本の歴史をよみなおす」(ちくまプリマーブックス)1996年刊 「お百姓さん」とは誰のことか? 従来は、「農民」のことだ、と思われていましたが、 非農業民を含む、人々を含んでいる言葉だった。 奥能登の百姓、時国家の場合、 大船を持ち、日本海を舞台に交易を行い、 製塩、製炭、山林や鉱山を経営し、蔵元として金融業も営んでいた。 でも、大農場がなかったため、頭振(あたまふり)、水呑(みずのみ)と呼ばれていた。 水呑とは、「土地を持てない」人ではなく、 「土地を持つ必要がない」人もたくさんいた。 7世紀に日本国が成立して以降、1300年ほどの歴史の中で、 14世紀から16世紀にかけての時期を除き、 他のすべての時期を通じて、「農は国の本」「農は天下の本」という 百姓が農民として健全な姿であるという農本主義が国家の側から 人民に吹き込まれてきた。 国家にとっては、土地に租税を課していたため、百姓が農民であってほしかった。<目次>第1章 日本の社会は農業社会か第2章 海からみた日本列島第3章 荘園・公領の世界第4章 悪党・海賊と商人・金融業者第5章 日本の社会を考えなおす
2012.12.15
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網野善彦「日本の歴史をよみなおす」(ちくまプリマーブックス) 1991年刊 網野善彦「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」(平凡社ライブラリー)の中で、 網野さんが、高校の歴史教師だったとき、生徒からの質問に満足に答えられなかった質問、 「なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか?」 という問いへの答え。 14世紀の南北朝の動乱の中で、日本社会における権威の構造が大きく変わる。 その結果、聖なるものによって特権を得ていた技術者たちが没落していく。 そのため、鎌倉時代の仏教が担ったこととして、 一つは、「非人」の救済であり、 もう一つは、律僧による勧進(かんじん)、寄付金集めから、寺院の建設、中国大陸との貿易までを 行った。 旧来、マジカルな神仏の権威に支えられていた商業・交易から、 新しい考え方による商業・金融を担いはじめた。 また、浄土宗や一向宗、時宗、日蓮宗、禅宗、律宗などの「鎌倉仏教」は、 悪人、非人、女性にかかわる悪、穢れの問題に、 それぞれ正面から取り組もうとした宗教であった。 それが、16、17世紀までに、世俗の権力によって徹底的に弾圧されたり、 骨抜きにされていく中で、 被差別部落や遊郭、「やくざ」つまり、非人や遊女、博打打に対する差別が定着していくことになった。 <目次>第1章 文字について第2章 貨幣と商業・金融第3章 畏怖と賤視第4章 女性をめぐって第5章 天皇と「日本」の国号
2012.12.15
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中沢新一「悪党的思考」(平凡社ライブラリー)1994年刊 網野善彦さんの『異形の王権』を踏まえて・・ 後醍醐天皇は、崩壊の危機に瀕していた中世的な権力の構造を、 天皇の政治的・宗教的な権威を中心にして改革しようとした。 後醍醐天皇は、畿内を中心に活動していた商人たちのすべてを、 天皇に直属する供御人に組織しようとした。 さらに、自らの貨幣を鋳造することによって、 「富」の発生する境界場を掌握し、あらゆる商人を宗教的な回路 をつかって直属民にすることをとおして、商業という「力」の場を、 いっきにとりおさえようとした。 後醍醐天皇は、悪党と商人と職人と古代的宗教者と、 「職人的なるもの」の持てる力を総動員しようとしていた。 一方の武士は、農業的な世界をバックにしていた。 しかし、後醍醐天皇の新政が挫折した後、 それまでの「自然」「富」「神」などの再構成、再配分がなされ、 均質な空間としての「日本」が作り出されることになった。<目次>歴史のボヘミアン理論へ真言立川流と文観春画―ピュシスか、テクネーか?妖怪画と博物学市場の言葉のアルチザン―宮武外骨論江戸の王権―そのアルケオロジー一八六八年の王権異教的モノテイスム黄色い狐の王
2012.12.15
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網野善彦「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」(平凡社ライブラリー) 高校の歴史教師だったとき、生徒からの質問に満足に答えられたなかった 「日本の歴史の中で、なぜ天皇は滅びなかったのか?」 「なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか?」 という問いへの、数十年後の網野さんが出した答え。 無縁・公界・楽市という空間には、自由があり、アジールだったのではないか、 という仮説です。 ただし、縁切り寺のような例をみると、 これは≪裏返された「自由」の場≫であり、 「牢獄」の自由に似ていたのかもしれません。 でも、身分制度の強固だった江戸時代においてさえ、縁を切って、 新しい人生をリスタートさせる場が存在し、 戦国時代まで遡れば、夫婦の縁だけでなく、 主従の縁、貸借関係の縁まで、切る力があった、といいます。 無縁・公界・楽でのルール・・ 1.不入権 2.地子・諸役免除 3.自由通行権の保証 4.平和領域、「平和」な集団 5.私的隷属からの「解放」 6.貸借関係の消滅 7.連座制の否定 8.老若の組織 世界史的にみても、西欧の自由都市は、そこに逃げ込んだ農奴が 1年と1日、居住すれば、自由な身分として解放されるという慣習が 確立していました。 しかしながら、 江戸時代に入るとともに、 楽は、信長・秀吉に牙を抜かれてとりこまれ、消え去り、 公界は、苦界に転化し、 無縁は、無縁仏のように淋しく暗い存在になっていった。 <目次>「エンガチョ」江戸時代の縁切寺若狭の駈込寺―万徳寺の寺法周防の「無縁所」京の「無縁所」無縁所と氏寺公界所と公界者自治都市一揆と惣十楽の津と楽市楽座無縁・公界・楽山林市と宿墓所と禅律僧・時衆関渡津泊、橋と勧進上人倉庫、金融と聖遍歴する「職人」女性の無縁性寺社と「不入」「アジール」としての家「自由」な平民未開社会のアジール人類と「無縁」の原理
2012.12.14
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網野善彦「異形の王権」(平凡社ライブラリー)1993年刊 「異類異形」・・一種の妖怪、鬼、鬼神などを形容する。 鎌倉後期以降、しばしば人間の服装、姿態などについて、 否定的・差別的な意味で用いられるようになる。 近世社会の差別の問題は、単に「穢多・非人」のみにとどまらず、 「異類異形」とされた人々の中で考えられなくてはならない。 南北朝期は、悪党が跳梁し、「婆娑羅」の風が風靡し、 異類異形の姿は、むしろ大いに好まれた。 また、中世前期までは、童あるいは童形の人は、 「聖なる存在」として、人ならぬ力を持つとされていた。 飛礫は、中世前期・古代後期においては、 呪術的・神意的な意味を現実に持ちつつ、 社会の中に広範囲にわたって躍動していた。 後醍醐天皇の政治・人事は、 古代以来の議政官会議-太政官の公卿の合議体を解体し、 「個別執行機関の総体を天皇の直接掌握に入れること」を 「最も基本的な改革目標」としていた。 この後醍醐天皇の右腕であった「異形」の僧正・文観は、 「職人」的武士の楠木正成、 「悪党」、非人までを動かし、 邪教とまでいわれたような異様な祈祷や呪術を駆使した。 しかし、後醍醐天皇の新政の頓挫により、 それまでの天皇に多少ともうかがわれた「聖なる存在」は、 失われた。 神仏に仕える女性としての、天皇家・貴族との婚姻も普通のことであった 遊女は、南北朝以降、社会的な賤視されはじめた。PS 中世日本において、女性の一人旅が普通に行われていた、といいます。 しかし、それが可能だったのは、≪私はこうした一人で旅をする女性の場合、 性が解放されていたのではないか、と考える。≫≪一人で旅をする女性が、男に「捕られる」ことをむしろ 当然とする慣習があったことを前提にしなくては理解できない ことではなかろうか。≫と網野さんはいいます。 「性が解放されていた」とは、あまりな解釈では、と思います(>_
2012.12.14
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日本王権論 網野善彦・宮田登・上野千鶴子春秋社1988年刊 上野さんの問題提起から、宮田さんと網野さんがその答えを 引き継ぐかたちで対談が進みます。 アメリカで日本研究・記紀研究をして上野さんが発見したこと。 それは、「天皇は<ヨソモノ>」だったということ。 天皇は、日本人の常民の祖先だったのはではなく、 <ヨソモノ>だった・・・と、記紀を通じて、天皇制のイデオロギーは 繰り返し言っている。 また、天皇制は、他のユニークな王権とも比較することができないと いわれることがあるが、比較文化の立場からすると、世界的には同種の 構造がある。 オセアニア圏と非常に似た王権だといえる。 さらに、天皇制のアイデンティティ。本当に一貫性があるのだろうか。 応神朝の時にも、継体の時にも、はっきりした断絶があり、 桓武の時にも、はっきり変わっている。 なのに、明治期の天皇に、カリスマ的な呪的霊能・・古代の記紀が達成しようとした 神聖王権のイデオロギーが千年以上も死なずに生きていたということになるが、 本当にそうなのか。 能、お茶、お花、庭園、歌舞伎・・ 能は猿楽、 お茶は、賤視されていた宮籠、 お花なども、婆娑羅の芸能の流れを汲む。 庭園は、「山水河原者」という非人によって担われていた。 つまり、日本独特の文化と言われているものは、 みな非人ないしそれに準ずる人々によって担われていた。 これらに対する聖から賤への転換が、 南北朝動乱を境に起こっている。 日本の「民族史的」変換の時期といえる。 後醍醐天皇は、人間のいちばん奥底にある力、セックスを王権の力とし、 非人を軍事力として動員した。 しかし、後醍醐天皇の王権は、3年でつぶれる。 天皇王権の一貫性というのは、「失敗した王権としての一貫性」といえる。 もし後醍醐天皇の王権が20~30年続いていたら、後醍醐亡き後、 天皇王権そのものも消滅してしまっていたかもしれない。 「敗れた王」は、<祭司王>となる。 以降、<世俗王権>と<祭司王>との二重王権となる。 宮田さん曰く、≪僕は、女性と妖怪と日和見と、「長者殺し」によって、 天皇制は解体できるというコードを持ってるわけ(笑)。≫ 網野さん曰く、≪<小さな神々>とオカルト、それだとしたら、天皇に置き換わる力には ならないんじゃないかな。 もし<大きな神>が過去にあったら置き代わっていたと思いますよ。≫ <目次>第1章 古代王権のコスモロジー―王権と「外部」第2章 後醍醐の新政と民族史的転換―〔聖〕と〔賎〕の変化第3章 王権の変質―天皇制はいかにして存続したか第4章 近世社会における天皇の位置―フォークロアの中の天皇第5章 江戸王権の支配構造―階級社会と「礼」の構造第6章 現代の民俗コードと天皇制
2012.12.14
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網野善彦・宮田登「新版 歴史の中で語られてこなかったこと」(歴史新書y)洋泉社2012年刊 10数年前、横浜で、網野善彦さんと宮田登さんの対談・・鼎談?! を、聞いたことがあります。 テーマは、宮田さんの「妹の力」だったような(^^ゞ 1998年当時の網野さんの問題意識・・≪私が最近、根底から考える必要があると思っているのは、 「日本という国は昔からあって、いつまでもある」というぼんやりとした意識、 「日本という孤立した島国だ」、 「日本は農業社会である」 という常識の三点で、これらは、現代の日本人の歴史認識の「公理」になっていると 思います(笑)。≫≪幕末から明治にかけての日本の前には、いくつかの選択肢があり得たと思います。 明治政府は最悪に近い道を選んだと思いますが、 今後、私たちが進むべき道の選択を迫られたときには、 最善にできるだけ近い道を選びたいものです。≫ ・・今回の衆議院選挙での最善の選択肢って何なのだろう・・・か???<目次>第1部 歴史から何を学べばいいのか?(歴史からヒントを得る“文学や映像の世界”「農業中心史観」が隠蔽した女性の役割女性史の常識を覆す“桑と養蚕の世界”“女性と織物の歴史”を民俗学が解き明かす“老人の役割”を認める歴史を発見する古い伝統に裏付けられた「接待」と「談合」の歴史日本人の国家意識を作った「地図の思想」
2012.12.12
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網野善彦「日本中世に何が起きたか―都市と宗教と「資本主義」」日本エディタースクール出版部1997年刊 日本の資本主義の源流は、14世紀まで遡って考えてみる必要がある、といいます。 中世の古文書においては、 「市場」は、「市庭」と書くのが普通である。 市の立つ場所・・ 大きな大樹の下、虹が立つとき、河原、中州、浜、坂、山の根など 自然と人間社会との境、 神仏の世界と俗界の境、 無縁の場。 いったん神のものになったもの、商品を交換することができた。 金融という行為も、古くは神仏との関わりなしには、 成立しえなかった。 物を貸して利息を取るという行為の最も原初的な形態は、「出挙(すいこ)」。 初穂として神にささげられ、神聖な倉庫にしまわれていた稲を種籾として 農民に貸し与え、秋に神への感謝、御礼の意をこめて、若干の利息をつけて、 倉庫に戻す。 「芸能」・・手工業者の技術だけでなく、宗教者や呪術者の能力も含めた 芸能も、境界的な行為ということもできる。 11世紀以降、借上、商工民、芸能民、さらに海民、山民の一部は、 したしば神仏そのもの、あるいは、天皇に直属する形で姿を現してくる。 これらのものを最も積極的かつ大胆に組織しようとしたのが、 後醍醐天皇であった。 すべての神人、つまり商工業者や金融業者などの職能民を天皇の直轄下に 置こうとした。 縄文時代の平均年齢は、 男 31.1歳 女 31.3歳 30歳をこえると生き残る人の数は多いが、 ゼロ歳児の平均余命は、わずか14.6歳。 15歳の平均余命は、16歳。 この厳しい条件の縄文社会には、男女差別はなく、 まだ民族自体が成立せず、民族差別もなかった。 被差別部落もなく、 病人や身体障碍者に対する差別もなかった、と考えられている。 日本に弥生文化が入ってきてから、約200年間の弥生前期は、 列島東部は縄文文化、 列島西部は弥生文化 という時代が続いた。 生活基盤のまるで異なる二つの文化が、200年間続いたことは、 その後の歴史に重大な意味を持っているように思える。 14世紀以降、南北朝の内乱に入る前後から、 遊女に対する差別が明らかに進んできた。 14世紀にはあった遊女が母親という記載は、 15世紀の貴族の系図から消え、 「地獄辻子」「かせ辻子」などと呼ばれるようになった。 また、15世紀になると、非人に対する差別も、固定化しはじめる。 なぜ南北朝の動乱以降、遊女や非人の地位が決定的に低落したか、 なぜ賤視されるようになったか。 それは、この動乱を境に、 天皇、神仏の権威が決定的に低落したことと、表裏をなしていると考えられる。 それまで、聖なるものと見られて、平民から区別されていたがゆえに、 差別、賤視の対象となる。<目次>絵師の心―一遍と「乞食非人」境界に生きる人びと―聖別から賤視へ中世の商業と金融―「資本主義」の源流補論―市の思想中世における聖と賤の関係について中世における悪の意味ついて中世の音の世界―鐘・太鼓・音声一遍聖絵―過渡期の様相宗教と経済活動の関係
2012.12.12
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網野善彦「蒙古襲来〈下〉転換する社会 鎌倉時代後期」(小学館ライブラリー) 遍歴する中世の職人・・ 鎌倉時代の非農業民は、ほぼ共通して、遍歴することなしに、 その生業をなりたたせえなかった。 それゆえ、 自由な遍歴を保証されることは、かれらにとってまさしく生活そのものの要求であった。 かつて禁野、禁河など、山野河海に自由な立ち入りができる支配権は天皇が掌握していた。 遍歴する職人たちは、天皇に、立ち入りの特権を保証された。 この職人には、傀儡師も、獅子舞も、白拍子も博奕打ちも、 下司や公文と本質的に変わらない特権を持っていた。 10世紀、武士たちは、郡司百姓たちから「屠膾の類」という罵言を投げかけれていた。 一方、日本の職人は、特権を与えられていた。 しかし、武士が、統治者となったとたん、 もっとも忌み嫌ったのが、かつての自分たちでもあった「悪党」であった。 武家政権の成立・発展とともに、新しい・厳しい差別が生まれてきた。 13世紀前半に成立する中世社会は、農業的な自給自足社会ではない。 相互に独自な農業部門と非農業部門との分業体系が存在していた。 また、農業から商工業が文化したのではなく、 商業民族と世界史的にいわれるような非農業民から、商工業が生まれたのではないか。 ところで、 高麗においても、三別抄のような非農業民が、農業帝国と化したモンゴル軍によって 徹底的に弾圧される・・といった東アジア世界としても、 非農業民が排斥される流れがあった。 <目次>弘案の「徳政」と安達泰盛(弘安の改革安達泰盛と霜月騒動)百姓と「職人」(「惣百姓」と「一円領」の出現道々の細工交通路と関所)訴人雲霞のごとし(得宗御内人の専権得宗貞時の独裁渦を巻く暗闘)転換する社会(悪党・海賊の躍動分化する村落と都市)鎌倉幕府の倒壊(幕府最後の光芒道学者上皇と専制的天皇血の海のなかで)13世紀後半の日本
2012.12.12
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網野善彦「蒙古襲来〈上〉転換する社会 鎌倉時代中期」(小学館ライブラリー) 中沢新一さんつながりで、網野さんの本を、20年ぶりに手に取っています。 冒頭の「本書の視角」で、 これまで私たちがイメージしていた民衆像は、江戸時代の庶民の姿であり、 このイメージのまま、中世の民衆を類推すると実像と大きく違っている。 その一つの例が、「飛礫(つぶて)」であったのではないか。 中世の大人が行った飛礫は、 江戸時代は、子供遊びの「石合戦」になる。 芸能の一つである「博奕」と、博奕打ちを「職人」とみなした社会が、 博奕は「罪悪」とみる社会の違い。 飼い馴らされ、管理された社会とそうでない社会の違いがあったのではないか。 紙背文書・裏文書・・ 市川の中山法華経寺には、日蓮自筆の聖教四冊があるが、 これらの古文書の裏に、本来捨てられるはずだった文書が残っている。 下人・所従や貸借関係の文書や、訴訟の文書などなど。 そこから見えるのは、さまざまな非農業民の姿であった。 非人・・「清目」という寺社の清掃や葬送などの仕事を課役として担っていた人々は、 中世においては、「宿」の管理特権を承認された人々であった。 江戸時代には、「差別」の重圧に呻吟していた姿と大きく異なる。 柳田国男によると、 現在の農村の3分の2、あるいは4分の3は、室町時代以降に始まった村 である。 非農業民に基礎を置いていた鎌倉時代の農村は、様相は大きく異なっていた。 「悪」とは何か? 「悪」は、わるいこと以上の意味を持っている。 悪源太、悪禅師、悪権守、悪左府・・・ 彼らに共通するのは、「気性の激しい意や剛強な意をそえる接頭語」と解釈 されていること。「悪」は、強さも意味した。 弘安の役の際の捕虜の扱い・・ 当時の日本人は、宋朝治下にあった中国人には親近感を持っていた反面、 モンゴル人・高麗人に対して苛酷な処刑をしている。 蒙古襲来後、 「ムクリコクリ」(モンゴル・高麗)という、 子どもを脅かす言葉が残った。 <目次>飛礫・道祖神「撫民」と専制(宮将軍の東下北条時頼とその時代批判者の出現)二つの世界、二つの政治(田畠を耕す人々海に生きた人々「殺生」を業とする人々交通と流通にかかわる人々)「蒼い狼」の子孫(モンゴル帝国の出現苦悩する高麗)文永の役(北条時宗の登場襲来の前夜異国人との戦い)建治元年―日本(襲来の余波外寇をよそに)弘安の役(元軍再襲にそなえて元軍の壊滅)
2012.12.12
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【送料無料】日本文学史早わかり [ 丸谷才一 ]丸谷才一「日本文学史早わかり」(講談社文芸文庫)2004年刊≪勅撰集は宮廷の文化的な力を誇示するために編まれた。・・ しかし大事なのは、その文化的な力がただちに政治的な力として働くといふ事情である。 一般に国の統治といふのは、素朴な意味での政治力 - つまり軍事力や警察力だけで おこなはれるものではあるまい。 そんなことをすれば大変なものいりだし、人気(じんき)が荒れる。 そこで当局は文化的政策によつてあるいは威圧し、あるいは信望を得ようとするのである。≫ めでたし、詞めでたし、初句はもじ、 のともやともあらむは、よのつねなるべし、 ・・・と、新古今をべた褒めする本居宣長 日本文学の中心には、あの後鳥羽院御撰の詞華集がある。≪『新古今』は一方では古代文学の終りを飾り、 他方では近代文学の先駆をなす。・・ もし『新古今』がなければ、われわれがそれ以前の文学を味はふことは不可能 かもしれなかつた。 そのことをよく示す象徴的なものとしては、『古事記伝』の著者における 『新古今』への傾倒がある。≫<目次>日本文学史早わかり香具山から最上川へ歌道の盛り雪の夕ぐれ花趣向についてある花柳小説文学事典の項目二つ夷斎おとしばなし
2012.09.17
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【送料無料】それでも、日本人は「戦争」を選んだ [ 加藤陽子(日本近代史) ]加藤陽子 それでも、日本人は「戦争」を選んだ朝日出版社2009年刊 高校生向けの5日間の連続講義。 日清・日露戦争までは、他国から見ても防衛戦争としての理由づけも納得感があります。 それ以降は、はなはだ曖昧・・ リットン調査団が、日本寄りの立場を表明していたというのは意外でした。 太平洋戦争だけで、別途、5日間の講義が期待したいですね。 ・・って、すでに行われたのかもしれませんが(^_^;)E.H.カーの歴史観・・ 1.歴史家が本当に関心を持つのは、 特殊なものではなく、特殊的なものの内部になる一般的なものである。 2.歴史は科学である。 歴史は教訓を与える。 歴史上の登場人物の個性や、ある特殊な事件は、その次に起こる事件に なんかしらの影響を与える。 でも、そのことによる意思決定・・その多くは過剰反応であるが、 災厄をもたらすことも多い。日露戦争・・ 山県有朋は、開戦の1か月まで、外交交渉に期待をかけていた。 ロシア側の新資料の公開で明らかになったのは、 ロシア側により積極性があり、 朝鮮半島、韓半島の戦略上の安全保障の観点から、日本はロシアと 戦ったと説明できる。 日露戦争は、帝国主義時代の代理戦争。 ロシアに財政的援助を与えたのがドイツ、フランスであり、 日本に財政的援助が与えたのがイギリス、アメリカであった。 戦費捻出のための増税のすごさ・・ 地租は、田畑は2.5%から5.5%へ、2倍強の増。 市街地は、20%の増。 所得税は、1.7倍の増。日中戦争・・ 1935年時点の胡適の見立て≪日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。 今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。 上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」という八文字にまとめられよう。≫ 汪兆銘の妻・・「蒋介石は英米を選んだ。 毛沢東はソ連を選んだ。 自分の夫・汪兆銘は日本を選んだ。 そこにどのような違いがあるのか」と反論した。アーネスト・メイ『歴史の教訓』<目次>序章 日本近現代史を考える1章 日清戦争 ―「侵略・被侵略」では見えてこないもの2章 日露戦争 ―朝鮮か満州か、それが問題3章 第一次世界大戦 ―日本が抱いた主観的な挫折4章 満州事変と日中戦争 ―日本切腹、中国介錯論5章 太平洋戦争 ―戦死者の死に場所を教えられなかった国
2012.08.25
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【送料無料】日本の古代道路を探す [ 中村太一 ]中村太一「日本の古代道路を探す―律令国家のアウトバーン」(平凡社新書)2000年刊 タマキングこと、宮田珠己さんの 「はるか南の海のかなたに愉快な本の大陸がある」 で紹介されていたので、手に取ったもの、 「日本の古代道路はどのような道路だったのだろうか?」 驚くべきことに、≪奈良時代・平安時代前期のわが国には、「まっすぐで幅の広い」計画道路が 張り巡らされていた! ≫ 10キロ以上にわたって、まっすぐな区画が続いており、 駅路は、この直線的な区画を組み合わせた道路として、全国的に造られていた。 北は、秋田・宮城から、南は、鹿児島まで、 本州だけでなく、佐渡、隠岐、対馬までの道路網が張り巡らされていた。 道路の幅は、宮都周辺で、24~42メートル、 全国的には、12メートルから、3~6メートルだった。 現在の高速道路の一車線が3メートルなので、実に広いことがわかる。 不思議なのは、この立派な道路が、一千年のうちに、消え失せたのはなぜか? という謎が残ります。 8世紀から17世紀に起こった出来事は、武士の時代・・ 群雄割拠の戦国時代があったこと。 日本列島を300余の国に分けて、部分最適を求めた結果、 古代の偉大な道は消え失せてしまった、ということなんだと思います。<目次>プロローグ 計画道路の「発見」第1章 古代の道路と交通制度第2章 古代道路の探し方第3章 計画道路の形成―大和第4章 古代の大動脈―山陽道第5章 道路網の再編―東国エピローグ これからの古代道路研究
2012.08.23
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【送料無料】スクープ!!こち亀平清盛だいすきBOOK [ 秋本治 ]スクープ!! こち亀 平清盛だいすきBOOK (こち亀 だいすきBOOK) 三上修平、秋本治・原著創美社2011年刊 NHK大河の清盛便乗本・・なんでしょうが、 「こち亀」のメンバーが伝えてくれるので、手に取りやすいと思います。 清盛嫌いの麗子さんが、だんだん清盛ってそんな悪い人ではなかった、 と思うだけで成功しています。 ただし、マンガではないので、マンガと思って間違って買わないように(^^ゞ瀬戸内海と厳島神社・・≪「海上航路、特に瀬戸内の航路こそが、清盛の家を大金持ちへと導いてくれた、 まさに黄金の道だったわけね。 そして、その黄金の道の安全を守ってくれていたのが、厳島神社にまつられた 女神様だった」≫大輪田の泊・・ ≪今の神戸港です。 もともとは、奈良の大仏建立に協力したことで有名なエライお坊様、行基が 開いたといわれている小さな港だったんですが、 清盛はこの港を外国から来た貿易船も出入りできるような、 大きな港に作りかえようとしていたんです。≫ そして、経ヶ島伝説・・ 強風と波から、航行する船を守るため、港の前面に大きな人工を島を作ることとした。 工事関係者が、海の神様に人柱をささげようと言い出した際、 清盛が、人柱の代わりに、石にお経を書いて、海に沈めさせた。
2012.08.23
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【送料無料】世界史のなかの平清盛 [ 加来耕三 ]加来耕三「世界史のなかの平清盛」勉誠出版2012年刊 清盛こそが、12世紀の神戸にポートアイランドを建設した。 神戸がまだ福原と呼ばれた頃、現在のポートアイランドの西寄り、 兵庫港のあたりに、「経ヶ島(きょうがしま)」を建設する。 当時、東国の武士には、農耕と牧畜にしか頭がなかった。 ≪「われらのように、青丹に塗った交易船を海に浮かべ、 万里の波濤を越え行くという華やかさが、源氏にはない。」≫ 経ヶ島の埋め立てに使った推定土砂量は、216万トン、 作業員は延べ、3900万人といわれています。 11トントラックを20万台分以上、 4万人が、丸3年間働くという壮大なものだった。<目次>はじめに 序 章 藤原基房の憂悶 第一章 武家棟梁の因縁 第二章 海上王国への野望 第三章 目標・大宋国の興亡 第四章 平家滅亡 終 章 清盛の遺産 付録 系図・年表 あとがき
2012.08.20
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【送料無料】平清盛福原の夢 [ 高橋昌明 ]高橋昌明「平清盛 福原の夢」(講談社選書メチエ)講談社2007年刊 清盛の夢・・≪新王朝にふさわしい新都建設、東アジア世界全体に深い関心を 寄せる天皇と面目を一新した国際貿易港大輪田泊、 それらが藤原道長に擬される外祖父清盛と平家の精強な軍団によって支えられる、 そのような王権を構想していた・・≫清盛が福原に居を構えたのはなぜか? 大輪田泊の存在である。 瀬戸内海航路の要港。 大阪湾は、大小河川の運び込む大量の土砂で水深が浅く、大船の出入りに難がある。 嘉応二(1170)年九月に、福原に宋人がやってきていた。平家の貴族化の実態・・≪自らの上に何重にも構築された家格の壁を一気に牛蒡抜きしていきた平家には、 それだけの準備を整える時間の余裕などあるはずもなかった。 愛好家向けの歴史書などでは、いまでも「平家の貴族化」などと非難の言葉を 投げかけられているが、有力貴族にとって必須の重要儀式を主宰する能力もないのに、 そういわれたのでは、当人たち自身が一番びっくりするに違いない。≫福原幕府・・≪日本人の常識では、幕府といえば鎌倉幕府以降の武家権力しかない。 そして鎌倉幕府の成立は武家中心の新時代の開始と同義語と見なされている。・・ しかし国家論的にいえば、幕府は朝廷にとって代わった新国家ではなく、 国家の軍事警察部門を担当する権門、 単一の中世国家を構成する一重要機関にとどまる。≫ その意味では、平家は後白河院政のもとで、間違いなくその任にあたっていた。≪頼朝の幕府の画期性を信じて疑わない人々は、平家のそれとの共通性を見落としている。 彼の歴史的評価は、幕府を創設したことにあるのではなく、 平家の創り出したひな型を踏襲し、その手法をより厳格、 より本格的に追求した点にもとめられるべきである。≫ <目次>序章 皇胤第1章 権力への道第2章 太政大臣から福原禅門へ第3章 日宋貿易と徳子の入内第4章 六波羅幕府第5章 平氏系新王朝の誕生第6章 福原遷都終章 還都その後
2012.08.15
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【送料無料】英傑の日本史(源平争乱編) [ 井沢元彦 ]井沢元彦「英傑の日本史 源平争乱編」(角川文庫)角川学芸出版2008年刊 日本史の中で、平家が完全な悪役であったのはなぜか?≪一言で言えば、それは開拓者(パイオニア)の悲劇である。 後の時代に「あたり前」になったことでも、最初にそれをやった人間は、 往々にして非難される。 そして、ひどい話なのだが、その「初めてやった」という功績も忘れ去られる。≫ 清盛がやったことは何か? それは、「初めての武家による政治」である。 「初めての武家政治」ではない。 「武家政治」とは、「武家による武家のための政治」のことである。 清盛が、「初めての武家による政治」・・朝廷政治を武家が行ったのに対し、 頼朝は、朝廷から独立して政治を行った。 開拓者(パイオニア)の悲劇とは? 朝廷や貴族の目から見たら、「賤しい」武家出身でありながら、 鹿ケ谷の密議を画策したとはいえ、「法王」さまを幽閉した 「成り上がり」「恩知らず」と思われた。<目次>源義経平清盛源頼朝後白河法皇木曾義仲藤原秀衡北条時政武蔵坊弁慶平重盛平維盛〔ほか〕
2012.08.15
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