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神の慮り(おもんばかり) 大きなことを成し遂げるために 力を与えてほしいと 神に求めたのに 謙虚さを学ぶようにと 弱さを授かった より偉大なことができるようにと 健康を求めたのに より良きことができるようにと 病弱を与えられた 幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった 世の人々の賞賛を得ようとして 成功を求めたのに 得意にならないようにと 失敗を授かった 人生を楽しもうと たくさんのものを求めたのに むしろ人生を味わうようにと シンプルな生活を与えられた 求めたものは何一つとして 与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられていた 私はあらゆる人の中で もっとも豊かに祝福されていたのだ ~ニューヨーク州立大学病院の 病室の壁に書き残された ある患者さんの詩~ ミクシーの中で とっても 素晴らしい言葉を見つけました お借りして ご紹介しました。
2006.04.24
2月6日に 脳内出血で倒れた母が 完全ではないし、まだ麻痺は残っているにせよ 外泊を認めて貰い たった一泊ではあるが今日 家に帰ってきたそうだ。倒れて 病院に駆けつけた時には 植物人間も 覚悟してくださいと医者に言われ そして 手術が終わってからの 母と対面した時には体中が痙攣して止まらず 息子のことも 分からなかった 母その後 何度か 死線をさまい 危険な状態であると 医者から緊急に呼ばれた。病院に 詰めて 意識を失った 母を 見るのは 本当に 辛かった。そんな時に 自分が母と接してきた 長い月日を 思いだしやけに 感傷的にも なったものだ。決して 裕福ではなかった 我が家そこで テニスの世界での 大成は 家計の大きな 負担になったはずだそんな 中を 母は 一生懸命に 応援してくれた母なりの 方法で・・・・・一度 二度と 本当に覚悟を固めた 今回の大病であるそして 母も 二度と 住み慣れた 家に 帰れないと思ったことだろう。 病院で 「 もしも 死んだら 」 と 言うこともあったし 本当に苦しんだんだと 思う。そんな 母が 家に 帰れたこと母の感激 母の感慨 ひとしお 大きいものがあると 思う。私も ついさっき 家に帰ってきた母から電話を受け取り 「 帰ってきた 」 と 報告を受けた私も 「 そうか 」 しか 答えられなかったがこの 約2ヶ月の 心の動きが 蘇り とっても 胸が 熱くなった・・・・もう 少し リハビリを 頑張って早く 退院できれば 良いのだが・・・そんな ことが あって 改めて前回 ご紹介させて 頂いた ー 母 の 貯 金 ーを見たら よけいに 心に響き渡って涙が 流れた・・・・・何回みても 心に響く 浄化の涙を 流してください。
2006.04.15
素晴らしい 感動の物語がに 触れる事が出来た 何も 言わずに まず 見て頂きたい。 母 の 貯 金 日本を支えて来たのは 男ではなく 日本の妻であり 母であるという 話を なんかで 読んだことがある 本当に その通りだと思う。 日本が 世界に誇れるのは 偉大なる 母かも知れない 太陽である 男を陰で支える強さ 如何なることにも 堪え忍ぶ 強さ 今 日本の心が 失われていると 未来を憂う声が いろんなところで上がる 時代は移れども 遺伝子は消えない 日本人に 確と 偉大なる 母の心 母の徳 が 息づいている。 それは 失われる事は ないと 信じたい。 多少 色あせることがあろうと 日本の母の心は 継承され 続けてゆく。 日本の 全ての 母に 感謝 !
2006.04.13
日本人にとって さくらは その精神を表すものだと昔 教わったことがある。つまり さくらのように 一年間 じっと風雪に耐えながら 時機をつかまえて一気に 咲き誇る満開の輝き 美しさを 示しまた 一気に 散り 消える人の生き様と さくら とを 重ねた名言武士とは 死ぬことが 使命ではない生きること 生き抜くことが 使命である武士の 精神的土台は 未だに 日本人の根底に しっかりと 生きている。武士も さくらも 人の 見事なる 生き様をして最高の美しさで 魅せる己れを滅して 大公の為に 滅私奉公することその 大いなる 自己犠牲が 言葉に 表せないほどの美しさとなる さくらも 武士も同じだそれは 日本人だけでなく マザーテレサにしてもガンジーにしても 偉人は この美しさを 帯びるのであろう。人々は 春の さくら の美しさを 瞼の裏に焼き付け一年の 生きる力 生きる元気とするそして 来年の春の訪れを 信じて暑い夏をも 凍える冬をも 堪え忍ぶのである。もう少し がんばれば 堪え忍べば さくらが 見られる。さくらに 会えるそれが 生きる希望 光でもある・・・・さくらの 美しさを 心に 刻もうさくらを 美しいと 歓ぶ人の美しさを 心に刻もう咲き誇りて 喜ぶ さくらの心を自らの 心に 刻もう自らの 生きる 力として心に 刻みつけたる さくら の 心武士(もののふ)の心を 道を照らす光としよう
2006.04.10
実は 先日 トリノオリンピックの際に 日記に書いた ボブスレーの 桧野真由実選手から 直接 ここに 書き込みがありました。ご紹介します。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇はじめまして ボブスレーのひのまなみと申します.私の事を書いていただきありがとうございます。マイナーなボブスレー競技ですが、私がボブスレーにかける思いはメダリストと変わりません。今後も競技をやらせていただけるチャンスをいただければ、大好きなボブスレーを続けたいです。今はバンクーバーに向け、環境を整えているところです。必ずバンクーバーでは勝負したいです。更に努力して一人でも多くの皆さんにボブスレーを知っていただき、応援していただけると嬉しいです。どこか協力していただけるスポンサーがありましたら教えていただけると嬉しいです。今後も応援よろしくお願いします。ひのまなみ。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇草の根の如き 選手にも 光を・・・ 2006 2月7日の日記よりトリノオリンピックも 終わってしまう。荒川静香で沸き立っている日本であるし荒川さんは これから 日本の顔となって凡ゆる分野で 活躍することだろうしかし 忘れてならないのは 青春の全てをかけて オリンピックに挑んできた アスリート達である。 それは 壮絶な 戦いであったはずだ・・・スキー フィギュア スケート ジャンプ 等々メジャーな競技に参加する 選手は 恵まれているしかし マイナーな競技は 参加する経費も自分で稼がなければならないのだ・・・そんな エピソードを 紹介したい。【女性アスリートの素顔と私生活】桧野真奈美(ボブスレー)ソリは塗装のはげた旧式タイプ 競技を続けるため、自作のTシャツを母校の小学校などで売り歩いた。 長岡千里(29)とのコンビでトリノ五輪に臨むボブスレーの桧野真奈美(26)だ。 日本ボブスレー・リュージュ連盟は、「財政難の赤字団体」(広報担当者)のため、資金援助は期待できない。高価な新式ソリはとても手が出ず、強豪ドイツチームが500万円の最新鋭ソリで好記録を連発するのを横目に、旧式で塗装のはげたボロボロのソリを補修してきた。 海外遠征費は1人当たり最低180万円かかる。練習よりも、費用捻出のための時間が長くなった。100社以上の会社を回り、必死に頭を下げた。資金集めが嫌で競技を離れる選手は後を絶たず、国内女子の競技人口は十数人を数えるのみだ。 「桧野は、妹、弟の3人きょうだいの長女で、父親は普通のサラリーマンです。今年の正月に中学時代の恩師の家に一緒に年賀の挨拶に行ったが、彼女は出された酒にも口をつける程度。頭の中はオリンピック一色のようでした。Tシャツのデザインは、チョンマゲ姿のサムライの絵が描かれていた。『これだと遠征先の外国人にも受けるから』という理由だそうです」(地元帯広市の緑園中学時代の同級生) 普段は、キャンプ場などを併設する「十勝エコロジーパーク」の非常勤職員として勤務している。4月から11月まで、競技のないオフシーズンしか働けないため、収入は微々たるものだ。 「園内の窓口業務が彼女の仕事です。明るく活発な女性で、歌手の平井堅のCDをよく聴いています」(同僚職員) 帯広の緑園中学時代は夏は砲丸投げ、冬はスケートの選手として活躍。ともに全国大会で入賞を果たした。身長160センチ、体重60キロというパワフルな体つき。とくに下半身はどっしりとたくましく、馬力を生かしたスタートダッシュが得意だ。それでもボブスレーは体重があるほど有利になるため、60キロでも小柄な部類に入る彼女は不利だ。 「前回のソルトレークシティー五輪もW杯ポイントで出場資格がありましたが、連盟の資金難などもあって男子だけの派遣になり、涙をのんだ。今回は逆に女子チームだけの出場。4年前には右ひざ靭帯の大手術も受けている。その苦労を知っているだけに応援したくなります」(前出の同級生) 今季のW杯での総合成績は23位。世界の壁はまだまだ厚いが、一発逆転に期待したい。ゲンダイ・ネット 2006年1月30日 掲載資金不足から 自分で Tシャツを作って それを売って渡航費から 滞在費等を稼がないといけないのは 何とも 悲しい話である。私も 海外遠征には 結構行かせていただいたし、それは 勿論 贅沢は決して出来ないが・・・ ( 一日の食費等々 ) 最低限の生活は出来るものであった。又 アメリカにテニス留学している時も 資金を浮かせる為に食事の時に 水に砂糖を入れて 砂糖水を飲んでジュースの代わりにしたりいろいろな 工夫をして 生き延びたものだ・・・・ご飯だけを注文して 塩をかけて 食べたり・・・・とにかく 何でもそうだろうが 現場は大変なのである。経済大国日本になり 荒川さんも これから どれだけ稼げるのだろうか・・・・ すごいと思うしかし 日本が メダルを取れない と 文句をいう間に こんな 健気な 桧野さんを 応援する為にみんなで Tシャツを買う運動をしたり・・他にも 資格があるのに 資金不足で オリンピックに行けない選手を みんなで応援したり現地に行っても お金がないために 十分な 成績が残せないような そんな 状況を 打破しなければならないと 思った。小泉総理は トリノの荒川さんと 電話で話してご満悦だったかも 知れないが、しかし 荒川さんと同じように 一生懸命 資金不足の中メダルを目指してきた 選手が沢山いることを知って貰いたいし予算的に ほんの少しで良いから こんな選手達に最低限の資金を回して 上げて欲しい。国民の皆さんにも 少し 関心を寄せて貰いたい。そう 思った。光があれば 陰があるどっちが 良いという事はない両方とも 大事なのだ。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇資金カンパの為の Tシャツ購入は こちら チームスピード桧野真奈美選手を バンクーバーに 送りだそう!!
2006.04.05
昭和9年 に アメリカから ベーブルース、ゲーリック等の 大リーグの大物が来日し、日本人の前で 本場の野球を披露した。私の高校時代の先生で、巨人軍で沢村選手と一緒に野球をやっていた前川先生という名物先生がいた。その先生は国語の先生であったが授業の楽しみは 野球の話を聞く事だった。その前川先生が ベーブルースなどの大リーガーを みてとにかく 化け物のようで すごかった。 日本人は まさに赤子のようだったそうだ。その 日本野球が 世界の頂点に立った日本中が 歓喜に 溢れたはずである。この時 大リーガー達が来日して以来 日本にもプロ野球の産声が上がった。戦時中は 英語禁止で野球をするなど 日本らしいこだわりがあったりもしたが基本的に 日本人は 野球が大好きだ。日本人が 大好きなのが高校野球である。私も 堀越学園の出身で 僕が高一の時に我が校は 甲子園に行っている。同窓生の半分が野球部だったから学校生活は 大いに彼らの影響を受けていた。私は 高校時代から ナショナルチームに入り日本代表にもなっていたから 成績は抜群であったはずだが、 クラスの中心は野球部だったので いつも 端のほうで小さくなっていた。彼らには逆らえない。しかし 彼らの野球の練習は半端ではなかった聞くだけで 俺には出来ない。 というようなものすごく厳しい練習を積んでいた。しかも 徹底した自己管理のもと凄まじい精神力と 体力 を持っていたあれだけ やっても 西東京の代表になれないのである。 高校球児というのは そういう意味では日本独自の世界ではあるが 世界に誇れる世界であると私は 思う。 武士道の名残が 高校野球には在る。春と夏の風物詩 甲子園を観て 彼らの涙に見る人がみんな感動する。応援席の涙にも感動する。そんな 素晴らしい世界である。彼らがグランドに流してきた 血と汗と涙の結晶が違う形で ものすごい 成果を生んだ。プロ野球も 日本人にとって 大きな活力源となってきた少し前までは 夜といえば ナイター中継を観るのが日本の家族の定番にもなっていた。さらに 好きな人たちは 夜に プロ野球ニュースを観る。どこが優勝するかで 景気が大きく影響されるらしいそれは ファンの社長や幹部が 優勝に気を良くして大いに投資が促進されるからだそうだ。実際に 経済効果がある 以外の効果が大きいと 聞いた事がある。高校 大学と 私は 後楽園に会社があるラケットメーカーを使っていた。その時に 私がお世話になっていた 担当者が本当に経験した 話だが広島に出張していて タクシーに乗っていたらしい外は 夕立の様な 大雨だったそうだそして 仕事の話になって 後楽園の関連会社であることを 運転手に告げた時その運転手は 突然車を止めて 「 金は いらないから 降りてくれ 」 と 言って 大雨の中 本当におろされてしまったそうだ。 後楽園といえば 巨人 その 憎き敵の下っ端を 乗せるわけにはいかない。と 金も貰わずにおろしてしまうひどい 話だと思うかも知れないしそれを聞いたときは 憤慨もした。しかし その運転手は それが 儲けに繋がらなくともまた もしかしたら 後で ものすごい クレームになるかも知れなくとも 自らの信念を貫いた。野球が好きで それが 大きく 仕事を 犠牲にした。そんな ファンが 野球を支えている。万年ビリ と言われてきた 阪神が 星野元監督の力もあって 優勝したときは やはり みんなが感動した。そうやって 野球は 日本の文化となってきた外国の文化や こだわりとは 違うほどに深い 強いのだ。ベーブルースの野球に 度肝を抜かれ赤子のように遊ばれた 日本野球が世界一に輝いた。素晴らしい 快挙である。まさに 日本人の悲願であり今まで グランドで汗を流してきた 全ての野球マンの 努力の結晶として 手に入れた栄冠である。そして 野球を愛する 多くの日本人のその 思い 祈り 願いの結晶でもあると思うのは 私だけであろうか・・・この前 トリノオリンピックで荒川静香選手が 金メダルを取ったときも日本人の 集団的潜在意識は 大きく浄化された 日本中に 快 を 生み出したからだしかし この 日本野球 世界の頂点に立つはそれとは 比べものにならないくらいに大きな 勲章だと言える。野球を愛してやまない 人々 全ての栄光だと言っても良いのだ。 それだけ 日本の野球は 根深く 国民に根ざしているおめでとう 日本 !!!おめでとう 全ての 野球マン!!!そう 心から言いたい気分だ。王さんもうれしいだろう。先のオリンピックで 朋友 長嶋さんが倒れて 志 一歩届かず 金を逃した。長嶋さんの分まで頑張ろうというのがあったはずだ。イチローも めちゃくちゃ 頑張ったみんな 一つになって頑張った。あの 屈辱の誤審 から 目の色も変わった。韓国の国民感情に火がついて二連敗したが さすがに三度目の正直で 日本の意地を見せた。そして 断崖絶壁に落ちるところにアメリカがメキシコに負けるという神風が吹いた。神風とは 當に 日本らしい勝ち方である。昨日の優勝の瞬間 私は たまたま野球にとっても深い関係の人と観ていたその人は プロ野球にとっても深い人縁を持っていると聞くその人は 大声で 万歳三唱した。みんなも 万歳した。わたしも 思いっきり万歳をして心 まことに 爽快であった。うれしい とにかく うれしい私も 子どもの頃は 王 長嶋に憧れた野球少年だったのだ。 最高の一日だった。少年の頃に 戻れた 気がした。
2006.03.22
2月28日 トリノオリンピック 日本選手団が帰国した。記録的な 900人が出迎えたそうだ。荒川選手のお陰で トリノは フィーバーとなった。もしも 荒川さんがメダルを取れなかったならば日本は メダルゼロの十字架を 4年後まで引きずらなければならないし少なくとも 2年後の 北京までオリンピック好きな 日本国民は敗北感の中にいなければ ならない。戦後は終わったというふうにいう人もいるがしかし 日本人の集団的潜在意識にはしっかりと 敗戦の 記録が刻まれている。だから 西欧諸国に対する コンプレックスはそう簡単に ぬぐい去れるものではない。その中で メダルゼロの烙印は選手だけが 背負うのではなく日本全体が 背負わなければならない。集団的潜在意識には それが刻まれてしまう。たかが オリンピックだがしかし 皆が 等しく 熱中するからこそしっかりと それは 刻まれるのだと思う。今回 そのがけっぶちから 荒川選手が大逆転の金メダルを取ったが故に、ゼロも一個も 数学的には そんなにかわりないがしかし 元来 金は難しいとされてきたフィギュアーで ロシア アメリカの強豪を抑えて金メダルを取ったことで 日本人は我を忘れて 金メダルの 快に浸った今 日本人の 集団的潜在意識は 非常に活性化されているそして 過去のコンプレックスも 大きく浄化されていると思う。荒川選手に 心から 感謝したい。さて 昨日 2月28日に 荒川選手は 凱旋帰国したがここに 妙な奇縁を感じた。昨日の 2月28日は 34年前に やはり 日本が一つになった日だった。それは あさま山荘事件の 人質救出 強行突入の 日であった。あさま山荘事件は 連合赤軍という過激派が 長野県軽井沢にある河合楽器保養所である あさま山荘に籠城。同保養所の 管理人 牟田泰子さん が人質になった事件である。人質 絶対救出を 絶対使命として 1600人を越える 警察官が 送り込まれそして 事件勃発から 強行突入まで 10日間この時 交通事故は 激変 窃盗事件も激変とにかく 日本中が テレビに釘付けになった。強行突入の日の テレビ視聴率は 日本史に燦然と輝く 89.7% ほぼ 日本人 全てが 人質救出を願って テレビに釘つけになったこの時に 日本は 一つになった と いえる。まさに オール・フォア・ワン である。強行突入に際して 大きな鉄球が 建物を壊すのに皆 一喜一憂する。そして 殉職者が出た 多くのけが人が出た一体 どうなるのか 泰子さんは 生きて救出できるのか。みんなが 生きての救出を 願い 祈った。私も この時 小さかったが テレビの前に座り込んで ことの成り行きを 固唾を飲んで見守った。そして その時は 来たあたりが暗くなった 5時30分すぎ警察は 最後の 勝負に出た。犯人達が立て籠もる ベッドルームに延長放水で 壁を打ち破り 決死隊を先頭にして 弾丸が飛んできても どうなっても犯人 一斉検挙に 皆が突入する。まさに 命を張っての 大勝負であるこの時点で 人質の 泰子さんの安否は 分からない。午後5時40分 過ぎ 突入の成功が告げられた。そして アナウンサーが 牟田泰子さん 救出の 一報を 叫ぶ。この時 日本中が 泰子さんの無事を 自分の事の様に喜んだ 感動した泰子さんのことを 心から心配したのだ。そして 連合赤軍に 皆で勝利したようなそんな 感動を味わったのだ。勝利に酔った。皆 よかった よかったと 歓喜した。この時 日本は 一つになった無条件に 一つになった。無心になった 泰子さんの生存を祈っていたからだ。まさに この時 日本の集団的潜在意識が 大浄化されたと言って良いと思う。顕在意識でも 潜在意識でも そして集団的潜在意識でも 日本は 一つになっていた崖っぷちから 生き返るのが 日本である。今回の トリノオリンピックの 荒川選手もしかりあさま山荘事件では 殉職者二名を出しての 崖っぷちからの大逆転であった。2月28日は そんな日であったことを 忘れないでいたい昨日の夜 密かに 私は このあさま山荘事件の映画 「 突入せよ!! 」 を 見て 感慨にふけってしまった。今 牟田さんご夫婦は どうなさっているのだろうか?その後 絶対にマスコミにもでずに ひっそりと 生きてこられたと聞いている。 泰子さんも 忘れようとも 忘れ得ぬ この事件の事をどのように 思い出すのだろうか?その後 どの様に この事件を 背負って人生の道を 歩まれたのであろうか。それを思うと とっても複雑である。しかし 一人の日本人として今回の 荒川選手の金メダルも 皆と共に喜び。そして 34年目の今日も 日本選手団の帰国の様子をテレビで見たのだろうか?もはや 人々の記憶から 遠のく228だがその時 日本は 確実に 一つになって泰子さんの無事を祈った。 それだけは事実である。その事実は 確かに 泰子さんにとって大きな負担になったに違いない。是非 健康で 長生きして 貰いたい。そう 祈るばかりである。日本における 集団的 快を生んだトリノオリンピックの 荒川 金メダルそして 34年前の あさま山荘事件牟田泰子さん 無事救出 勿論 この二つだけではないはずだ。しかしあえて 昨日は その不思議な巡り合わせを 考えてしまった。この時検挙された 連合赤軍の 犯人達はその後 過激派によるハイジャック によって人質交換の条件として この あさま山荘事件の犯人との交換が為された。時の総理大臣 福田さんの言葉が「 人命は 地球より 重し 」だった。未だに 犯人達は どこかで 生きている。罰を受けることもなく。そういう 意味では あさま山荘事件は34年経っても まだ 終わっていないといえるかも 知れない。又 2月28日には 銀座のスエヒロにあさま山荘警備に関わった 警察庁 警視庁の 戦友が集まって この時に殉職した 内田、高見両殉職者への代表墓参と 遺族の近況報告を行い。 そして会の始めにお二人の御冥福を祈っての黙祷を捧げる。その追悼行事を行っているそうだ。 昨夜もそれは行われたに違いない。 又 長野県警のほうでも 旧友会 とよぶ会を作って228に会合を催しているそうだ。最後に 謹んで この壮絶なる あさま山荘事件で 殉職した 故 内田尚孝警視長 故 高見繁光警視正お二人の勇気を称え 心より 御冥福をお祈りします。
2006.03.01
トリノオリンピックで 大きく注目を集めたのが カーリングだ。多くの人が チャンスをつかむために 頑張っているのだがどういうルールなのか わからないけど ついつい 見ちゃうのだ。それは みんな同じだったと思う。たぶん メダルが取れない日本勢の中で すごく健闘したしテレビでも それを 取り上げたからだ・・・・私が カーリングを見てて思ったのは 彼女達がまばたきを しないからだった。ストーンを投げてから ものすごい集中力でまばたきもせずに 視線を 定めている。しかも その集中が アルファー波の様な深い集中なのだ。 例えば 座禅して 三昧に入っている 僧侶の顔は とっても美しいし どんな人でも三昧に入っているときの表情は最高の表情をする特に 眼が美しくなるし 力が抜けてまばたきも しなくなる・・・私も テニスをしていた頃に 不安が多いときは 無意識に プレー中に まばたきを沢山してしまう。 だから 意識してまばたきを がまんする練習もやったものである。カーリングの彼女たちも すごく 深い集中をし世界の強豪達に立ち向かっていた。すごく 良い顔をしていたなんせ まばたきも しないで 集中していた。素晴らしいと 思う。後で 知ったが 日本チームの中の小野寺歩さんと林弓枝が主人公のモデルである映画が 18日から公開されるそうだ。 シムソンズ マイナーなスポーツが 日本勢全体の不振から一気に注目されて しかも 自分たちがモデルになった映画が 時を同じくして 公開されるなんてなんて ラッキーなんだろう。 映画は ソルトレークオリンピックを目指して女子高生達が 初心者から カーリングを始める青春で けっこう 感動できるらしい。そして 映画が始まると 同時に 思うような成績を上げられなかったソルトレークの記憶を かき消すように世界の強豪を 相手に 堂々と戦っていた。そして もうすこしで メダルというところまで健闘したのでる。日本中が あの まばたきもしない 真剣な 表情に惹かれ、 テレビに釘付けになった。素晴らしい サクセスストーリーだと思う。しかし そんな彼女たちも ものすごい苦労をしてきたらしい。そんな エピソードを 紹介したい。 【女性アスリートの素顔と私生活】 小野寺歩(カーリング)2月にはモデルにした映画も公開 カーリング代表として2度目の五輪に挑戦する小野寺歩(27)。彼女をモデルにした映画「シムソンズ」も製作され、2月18日に公開される。 ごく普通の中学生だった小野寺は、幼なじみとカーリングチーム「シムソンズ」を結成。札幌学院大学に進学した02年に見事ソルトレークシティー五輪出場を果たした。そして昨年11月、スキップ(主将)として国内最終予選で「チーム長野」との激闘を制し、2度目の五輪キップをもぎ取った。 ただし、挫折と苦労の連続だった。前回ソルトレークシティー五輪は2勝7敗の8位で予選敗退。「緊張で何もできなかった」(本人)と屈辱だけが残った。しかも、地元の北海道常呂町に戻ったところ、「基幹産業は畜産とホタテ漁」(町役場)という過疎の町に若い女性の就職口はなかった。チームは解散し、「嫁にでも行こうか」と引退も考えたという。 そんな時、青森市が市民の生涯学習の一環として専用カーリング場を造るという話を聞き、ソルトレークシティー五輪からの同僚の林弓枝(27)と2人で施設運営公社に就職した。 「身分が嘱託のため、給料は一般のOLさん以下。スポーツ専門員という肩書でコーチをしたり、スポーツ会館の受け付け業務をこなしています。海外遠征費などの捻出に資金がかかるため、爪に火をともすような生活をしているはず。お付き合いしている男性の噂も聞きません。普通の年頃の女性のようにワイワイ飲み屋で騒ぐような機会は少ないようですね」(青森市文化スポーツ振興公社の上司) 青森市内のアパートにひとり暮らし。そんな彼女の苦労を見かねた青森県、市、地元商工会が先頭に立って、街頭募金で1000万円の遠征費用を集めてくれた。その資金をもとにチームのメンバー5人は9月から3カ月以上もカナダ・バンクーバーで合宿を張ることができた。もっか世界ランキングは8位だが、その合宿中の大会では昨年の世界選手権5位のロシアを下し、「隠れたメダル候補」(関係者)と評価は急上昇している。 「4年前の自分に勝ちたい。メダルを取って笑顔で日本に帰ってきます」 映画のようなハッピーエンドは迎えられるのか。ゲンダイ・ネット 2006年1月31日 掲載これも 爪に火をつけるような 生活を送っているまるで 禅宗の僧侶のようだ 一切の無駄を除きアルファー波全開の 練習につぐ 練習。私も まばたきと 心境 そして 行動にもう一度 意識を 向けてみようか・・・
2006.02.27
トリノオリンピックも 終わってしまう。荒川静香で沸き立っている日本であるし荒川さんは これから 日本の顔となって凡ゆる分野で 活躍することだろうしかし 忘れてならないのは 青春の全てをかけて オリンピックに挑んできた アスリート達である。 それは 壮絶な 戦いであったはずだ・・・スキー フィギュア スケート ジャンプ 等々メジャーな競技に参加する 選手は 恵まれているしかし マイナーな競技は 参加する経費も自分で稼がなければならないのだ・・・そんな エピソードを 紹介したい。【女性アスリートの素顔と私生活】桧野真奈美(ボブスレー)ソリは塗装のはげた旧式タイプ 競技を続けるため、自作のTシャツを母校の小学校などで売り歩いた。 長岡千里(29)とのコンビでトリノ五輪に臨むボブスレーの桧野真奈美(26)だ。 日本ボブスレー・リュージュ連盟は、「財政難の赤字団体」(広報担当者)のため、資金援助は期待できない。高価な新式ソリはとても手が出ず、強豪ドイツチームが500万円の最新鋭ソリで好記録を連発するのを横目に、旧式で塗装のはげたボロボロのソリを補修してきた。 海外遠征費は1人当たり最低180万円かかる。練習よりも、費用捻出のための時間が長くなった。100社以上の会社を回り、必死に頭を下げた。資金集めが嫌で競技を離れる選手は後を絶たず、国内女子の競技人口は十数人を数えるのみだ。 「桧野は、妹、弟の3人きょうだいの長女で、父親は普通のサラリーマンです。今年の正月に中学時代の恩師の家に一緒に年賀の挨拶に行ったが、彼女は出された酒にも口をつける程度。頭の中はオリンピック一色のようでした。Tシャツのデザインは、チョンマゲ姿のサムライの絵が描かれていた。『これだと遠征先の外国人にも受けるから』という理由だそうです」(地元帯広市の緑園中学時代の同級生) 普段は、キャンプ場などを併設する「十勝エコロジーパーク」の非常勤職員として勤務している。4月から11月まで、競技のないオフシーズンしか働けないため、収入は微々たるものだ。 「園内の窓口業務が彼女の仕事です。明るく活発な女性で、歌手の平井堅のCDをよく聴いています」(同僚職員) 帯広の緑園中学時代は夏は砲丸投げ、冬はスケートの選手として活躍。ともに全国大会で入賞を果たした。身長160センチ、体重60キロというパワフルな体つき。とくに下半身はどっしりとたくましく、馬力を生かしたスタートダッシュが得意だ。それでもボブスレーは体重があるほど有利になるため、60キロでも小柄な部類に入る彼女は不利だ。 「前回のソルトレークシティー五輪もW杯ポイントで出場資格がありましたが、連盟の資金難などもあって男子だけの派遣になり、涙をのんだ。今回は逆に女子チームだけの出場。4年前には右ひざ靭帯の大手術も受けている。その苦労を知っているだけに応援したくなります」(前出の同級生) 今季のW杯での総合成績は23位。世界の壁はまだまだ厚いが、一発逆転に期待したい。ゲンダイ・ネット 2006年1月30日 掲載資金不足から 自分で Tシャツを作って それを売って渡航費から 滞在費等を稼がないといけないのは 何とも 悲しい話である。私も 海外遠征には 結構行かせていただいたし、それは 勿論 贅沢は決して出来ないが・・・ ( 一日の食費等々 ) 最低限の生活は出来るものであった。又 アメリカにテニス留学している時も 資金を浮かせる為に食事の時に 水に砂糖を入れて 砂糖水を飲んでジュースの代わりにしたりいろいろな 工夫をして 生き延びたものだ・・・・ご飯だけを注文して 塩をかけて 食べたり・・・・とにかく 何でもそうだろうが 現場は大変なのである。経済大国日本になり 荒川さんも これから どれだけ稼げるのだろうか・・・・ すごいと思うしかし 日本が メダルを取れない と 文句をいう間に こんな 健気な 桧野さんを 応援する為にみんなで Tシャツを買う運動をしたり・・他にも 資格があるのに 資金不足で オリンピックに行けない選手を みんなで応援したり現地に行っても お金がないために 十分な 成績が残せないような そんな 状況を 打破しなければならないと 思った。小泉総理は トリノの荒川さんと 電話で話してご満悦だったかも 知れないが、しかし 荒川さんと同じように 一生懸命 資金不足の中メダルを目指してきた 選手が沢山いることを知って貰いたいし予算的に ほんの少しで良いから こんな選手達に最低限の資金を回して 上げて欲しい。国民の皆さんにも 少し 関心を寄せて貰いたい。そう 思った。光があれば 陰があるどっちが 良いという事はない両方とも 大事なのだ。
2006.02.27
昨日は、荒川選手の金メダルが 日本国に関わる 集団的潜在意識の浄化に大きく繋がった事を書いたが、事実 荒川選手の滑りとか 金メダルに涙を流した人が 沢山いたそうである。まさに 浄化の涙となったに違いない。いろいろと調べている中で 驚いた事がある。それは 普通 フィギュアスケートの選手は滑り三昧の生活を送り、全ての力を 練習に注ぐのが常識の様に思っていた。荒川さんもそうだったと錯覚していた。彼女は、普通に授業を受ける 高校生活を送り、それは他の選手とは 大きく違う点であり、それを 荒川さんは 密かに 誇りにしているのだそうだ。しかも 早稲田に進学した中で 選手生活を送りながらもなんと コンビニや ファーストフードで アルバイトもしたそうだ。今や 国民的ヒロインとなった 荒川さんが 私達の様な 普通のお客様に「 いらっしゃいませ。 お箸は 何本 お付けしましょうか? 」なんて 言っていたのだ。お金に困っていたわけでは ないかもしれないが自立を目指して 臨んでいたのだろうか・・・そして 就職活動も 普通の学生の様に したそうだ。しかし 卒業間近の 3月に行われた 世界選手権で優勝していろんな 流れが 変わっていったみたいだ。本当は この 優勝した時に 引退しようと 思ったらしい。しかし トリノの女神が 荒川さんを 引き寄せたのかも知れない。 舞台は 最上段に繋がっていた。他の選手が 全てが整えられて 普通の若者とはっきりと違う環境 生活を送っていたのに荒川静香は きっぱりと 普通の若者の様に生きてきた。 そして それを 誇りにした。普通に学び 普通に働くそして 全ての 選手を追い越して頂点に 登りつめたまるで シンデレラの様ではないか
2006.02.26
荒川静香さんの 金メダル めちゃくちゃ 感激しましたね!! 日の丸が真ん中 そして 2位に アメリカの星条旗3位に ロシアの国旗。 超大国を越えた 金メダルは女神が微笑んだかも 知れないが 日本にとっては とっても大きな意味があると思った。人の生命を司る 潜在意識の下に民族とか国家的レベルの 集団的意識がある。この オリンピックは この集団的意識にはめちゃくちゃ 大きく影響を与えているようだ。日本中が 快 の 心に 満たされた一日だった。昨日一日 日本中が 荒川 金メダルの話題で沸き返った事だろう。しかも 感激 嬉しいの感情を 一杯にして・・・・幸せを呼ぶ 快の心持ちで 日本中が満たされた。日本にとって そんな 素晴らしい日だったのではないだろうか・・・・小泉総理は 直接荒川さんに電話を入れて 国民を代表して お礼を言ったそうだ。天皇皇后陛下も 荒川さんに 会うことを何よりも 楽しみにされているだろう。今回 なかなか メダルが取れなかった日本だが全てのメダルが 荒川さんの金メダル 一個に集約されたのでは ないかと 思えるほど・・・なかなか取れないメダルに 実は 日本全体がイライラしていた。 しょうがないと思っていても無関心を装っていても 内心 イライラしそして 悔しい思いをしていたんだと思う。そのイライラのなかで 荒川さんは奇跡とも思える 大逆転を果たした。私も ショートプログラムを見たがあの コーエンさんの完璧な滑りと金メダルだけを狙ってきた スルツカヤ選手もすごい 滑りだったし、 荒川さんはメダルさえ取れればいいやと 私は思っていた。しかし その両選手が プレッシャーから 自滅して しまった。荒川さんは 自分の滑りを 最高に 出し切ってメダルよりも これで引退を決めていただけに自分のスケート人生の 集大成の想いを込めての滑りだったからこそ 最高のパフォーマンスが出されたんだと 思う。実に あの滑りの間に スケートを巡っての過去のシーンが 走馬燈の様に 回想されたのだそうだ。そんな 荒川さんの想いが トリノの女神を引き寄せんだろう。いかんせん アテネで日本はメダルを 取りすぎた。メダルは 当たり前 という そんな超大国の様な 感覚を 国民が抱いてしまったのかも 知れない。私は テニス留学もしていたから 日本人と外人との 体の違いも 分かっていたからこのスポーツの分野で 日本人が 体の大きな外人に勝つのは とっても大変なのを知っている。国民全体の体力の違いは歴然としているからだ・・・それなのに アテネでは柔道や体操などのいわゆる 日本のお家芸でのメダルも多かったが過去最高の獲得に 日本中が湧いた。しかし 今回の トリノでは いろんな意味で節目だったのかも 知れない。なかなかメダルが取れなかった。日本中が 沈んで行ったのを 感じたのは私だけであろうか・・・スポーツ新聞も 一面で トリノをのせることも 余りなく 野球のキャンプなんかが扱いが大きかったと 思う。しかし 日本中が 大きな声では言えないけどメダルを 切望していた。いわゆる 渇いた状態だったかも 知れない。もしも この侭 トリノが終わっていたならばせっかく アテネでつけた 日本の自信を失って後二年後まで それを 引きずらなければならない。しかも 2年後には 日本のリベンジとなる。そんなのは いやだ。そんな矢先に 超大国をおさえての 金メダルだ日本中がどれだけ 昨日 沸き返っただろうか・・・日本中が 快 で あった日が 過去 どれだけあっただろうか。 そんな全国 快指数をもつ視点も 必要かもしれない。みんな 荒川さんが すごい すごいと 良いながらそのすごいは 日本人となり そして荒川さんと 同じ 日本人である 一人一人の自分自身に 発せられる すごいなのである。自分を誇れることなんか そんなに あるわけがない。日本は 戦争で 自信を大きく失った。神の国と信じていた国が 崩壊しそして 焼け野原から みんなで頑張ってここまで 日本は復興した。そんな 失意の中で 日本人の心に火をつけたのは力道山であった。 外人をやっつけること力道山と自分の境遇を重ねて 快の心持ちを求め そして力道山が勝つと その 喜びに皆が浸りそして 復興への 心のバネとした。東京オリンピックは 日本の復興を世界に示す大事な事業となり その中で 東洋の魔女は日本を裏切った ソ連を破って 金メダルを取りそれに 日本中が 湧いた札幌オリンピックでは 笠谷さんなどの日の丸飛行隊が 金銀銅独占という圧勝で これも 日本中が 感動して 圧勝に酔った。全国的快ホルモン全開状態である。又 あさま山荘事件では 日本中が人質救出を祈り その祈りは 通じた。夕方になるが 人質救出の瞬間。87パーセントの視聴率は歴史の中で 未だに 破られていない。これも 全国快ホルモン 全開の状態であっただろう何れにしても 荒川静香さんの 金メダルによって日本中が 一つになった。 なれた。みんなが 快 になれた。国家的 集団的意識の 大きな浄化だったに違いない。国家の繁栄や 文化の状態に この 集団的意識の浄化は 絶対に不可欠なのである。単に 意識で 頑張る そんなことではなく偶然起こる 国家的シンクロにも全体的な 潜在意識の状態は 大きく作用する。そんな中 国中が 一つになる事は とっても大事国中が 手放しに 感動感激することは とっても大事その感激が 国家的意識に しっかりと 刻まれるのである。世界平和を実現する 中核の国 日本にとってとっても 意義のある 全体的快ホルモンで あったと思う。ありがとう 荒川さん!!!!そして 長い 選手生活 本当に お疲れ様!!!
2006.02.25
2月6日に母が脳内出血で倒れてから 早くも 3週間が過ぎました。闘病生活の中で 時間がなかなか取れずに 更新も出来ずに、又励ましのメッセージにも 十分な お返事も出来なかった事を まず お詫びします。母は ここ数年 透析を受け続けてきた事もあって、その上での 脳の障害は 大きな負担になるようで、 この間も 何度か 生死の境を行ったり来たりしました。 しかし 持ち前の生命力の強さから 帰還し ようやく安定した感があります。これからは 透析とリハビリを受ける為に 来週にも転院し新たなる闘病の段階に入る事となります。この間 出来る限り 病院に付き添い いろんな事を学びました。母の思い出もしかり 又 医療についても いろんな事を学びました。 又 時間を作って 書いてゆこうと思いますのでよろしく お願いします。
2006.02.25
母親の事では 多くの方から 励ましの心を頂きました。心から御礼を 申し上げます。今のところ 経過も 順調で 回復に向かって母も 精一杯 頑張っています。皆様の心に 心より感謝 申し上げます。さて 今朝 相互リンクの申し入れがありました。その サイトは 潜在意識活用ブログ で よく 潜在意識の勉強に 立ち寄っていた ところでした。私の サイトなんかを 相互リンクに 選んでいただいた事はとっても 光栄だと 感激したところです。左脳社会 左脳文明の 限界に来ていることは多くの方が 感じていると 思います。自分自身の未来を開くのも 新しい社会を開くのも潜在意識の活用が 大きな キーワード であるということが いずれ 社会の常識になる と信じます。このような 繋がりを通じて 大きな和となると信じます。 潜在意識活用ブログ にも 是非 お立ち寄り下さい。
2006.02.14
母が脳出血で倒れた母は 透析も受けているので、大変に難しいと医者は言った。 しかし 何とか 手術は成功した。しかし 回復も遅く 何度か 死線の淵を 歩くこととなった。今まだ 母は いのちの炎を燃やして懸命に戦っている。私は 久しぶりに 母のそばで 看病をし 母との いろんな事を 思い出す様にした。今まで 忙しく走ってきた自分にとってなかなかできない時間であった。私は 一人っ子であった。小さな頃は わんぱくで、眼を離すとすぐにどこかに 行ってしまい、大変にあわてたそうである。故に、アメリカから特別な 子供服が取り寄せられたそれは 背中から ベルトが出ている服で犬の散歩のように 母が そのベルトを持って私は 歩き回ったそうである。母は テニスが好きで 明治神宮外苑の銀杏並木にある神宮クラブというテニスクラブに テニスをしに出かけたそうである。しかし 私が クラブの植木を 片っ端から抜いてまわって めちゃくちゃにして母は 二度と クラブに いけなくなったそうだ。私は 小学校三年生から テニスを始めた。始めは あまりにわんぱくであった自分には何かをやらせないといけないと思ったらしい。そんな動機で 始めさせられたテニスであった。しかし コーチにも 恵まれて 少しだけ 強くなり中学二年の時に 関東中学でシングル ダブルともに優勝してしまった。そんな時に 私達家族が所属していた テニスクラブにテニス界の 名門 法政大学テニス部の OB の人がやってきた。 その方が 私の相手をしてくれた。そして 母は 法政大学の いろんな話しを 聞き出していた。法政には 泣く子も黙る 有名コーチがいた。神和住 九鬼 平井 等を育てて 世界へ送った鬼の松本監督である。あだ名は 日吉のゴッドファーザー だった。厳しくて 有名で、 まさに伝説の 筋金入りの鬼コーチだった。その OB は 私に 法大の春合宿に 参加することを提案してくれた。 甘い合宿ではなく、特に下級生にとっては地獄の合宿である。母は 私に その法大の合宿に参加するように 言った。そんな時、松本先生とは無二の親友であり当時の テニス記者クラブの重鎮でもあった朝日新聞の片山さんが どこで 私の話を聞いたのか知らないが 私を記事として取り扱いたい と 言ってきた。取材の申し込みだ。 全国版の 新聞に 紹介されるのだ・・・・多少は 興奮したが。しかし その興奮は母の一言で すっとんだ。取材は テニスの写真をとってそして ありきたりな インタビューをこなしたどんな内容だったのか 自分が何を言ったのかも覚えていない。 中二の時の話しだ。私への問答が終わった時に 片山さんは母へ質問をした。確か 合宿に送り込む 親の心境は ?とか そんなんだと 思う。その質問に 母は 耳を疑うような 一言を 言い放った。「 カタワになっても 良いから 鍛え抜いて もらいたい。 」死んでも良いから 鍛え抜いて貰いたいとそう 鬼の松本に 強烈な メッセージを全国版の 新聞を通じて 伝えたのである。確かに 中二といえば まだまだ 体も完成されておらず大学生でも 簡単に倒れる 二週間の合宿は壮絶だった。 母がいう通り 私は カタワになるくらい 鍛え抜かれた。しかし 何とか 生きて 生還したのであった。それから 松本先生に 徹底的に 鍛え抜かれた。雨が降ろうが 槍が降ろうが 練習は続いた。しかし 松本先生は 私が 高校二年の時に他界された。それでも 私は ジュニアの日本代表選手となり又 ナショナルチームに入れるまでに成長していた。大学は 勿論 法政に進んだ。 しかし 日本にいるだけではだめだ。アメリカに行って 世界を目指さないと いけないとナショナルチームの監督の薦めもあって私は 留学する事になった。行く先は アメリカ テキサス州でありその小さな大学には 前年のジュニアの日本代表が一人。そして 私と一緒に 世界選手権に日本代表として 遠征した男。彼は その後 伊達のコーチになり、今は 日本デ杯チーム (ナショナルチーム)の監督をしている。そこは 日本テニス協会からも 未来のテニス界を背負う 選手を育てる 重要な地とされた。當に 日本テニス界の 梁山泊 と化していた。三人の強者が 結集した。この留学に出発したのは 19才の1月の始めであった。その出発の日の朝 東京は 一面真っ白な 大雪だった。それを 私をいたく 可愛がってくれた 祖父は「 雪が 出発を 綺麗に はらい清めてくれた。」と 言ってくれた。しかし その時 母は また 驚く事を 口にした。「 親が 死んでも 帰って くるな。 」故郷を離れて 不安なこともあるだろうし世界から列強が集まってくる アメリカである。それは 想像を絶する 苦労がつきまとうと思ったのであろう。 確かにその通りであった。そんなことを 母は 予想したのか私を この一言で、 背水の陣へ 押しやった。私は むこうについて すぐに 二人の 日本人にも勝ってそして 他の 選手にも 勝って チームのナンバー1の椅子を もぎ取った。考えれば 何かに付け 厳しい母であったがその 底には 大きな 愛が 流れていることは言うまでもない。一日も 早く 元気になって貰いたい。 ( つづく )
2006.02.13
先日 自分が生きている 奇跡の源である。自分の生命に感謝を込めて ありがとう といっぱい いっぱい 言ってみよう と 書いてみました。今日 思ったのは 自分自身が 今まで歩いてきた道それは 運命とか 宿命 と呼ばれる 自分自身の法則があります。この自分の運命に 感謝を込めて ありがとう と言ってみようということです。人生 生きていると いろんな事を経験しなければなりません。良い想い出 心痛む想い出 窮地に追い込まれた事や悲しい事 苦しい事もあったし 良いことよりも 悪いことのほうが印象には残りますから 記憶に残ってしまうのかもしれませんね。しかし 少し冷静に考えてみれば 例えば 病気病気とは 生きていく上で 自分自身の中にある 毒素とか悪いものを 駆逐する 事が 病気ですよね。悪しき因縁が体に でるという事は 過去に起こった 悪いことを 清算する。 借金を返してゼロに戻す事が 現象として現れているのでそれは 自分が 進化する中では とってもプラスの事なんです。 確かに 病気の時は 苦しいです。その苦しい想いが 記憶に残ってしまうからいやな想い出となってしまうけど 人生の長いサイクルで考えれば それは とってもプラスになる事かも知れません。だから 生きる上で この 清算はつきものだし病気があるから 更に生きる事ができます。もちろん 苦しく 悲しいから そんな ありがとう なんて気持ちには なれないと 思いますけど しかしこの病気を起こす 力が 自分の為に病気にしているのに自分自身のことを 愛して 魂の底から愛して それをしょうがなく引き起こしているのに その相手から いやだ いやだと 毛嫌いされたみたい。例えば 可愛い子供に 心の込められた プレゼントを贈ったとします。 しかし その子供から 貴方はすごく 嫌われていて 大声で泣かれて 「大嫌い」と騒がれて そして そのプレゼントを捨てられてしまったら 貴方は どう思いますか?どう 感じますか? すごく悲しくなるでしょう。しかし それでも 潜在意識というか 遺伝子というか自分自身を 愛してやまない存在は そんな 悲しい想いをものともせずに 引き続き自分のために 働き続けていきます。楽しい思いや 生きる為に必死になって働くことには一切感謝されません。 しかし ひとたび苦痛の伴う 病気や 失恋などを 起こすと目の敵のように 嫌われます。それでも 生命という 潜在意識 遺伝子は命終わるまで 必死に働いてくれるのです。失恋にしても 離婚にしても これも胸が引きちぎられるほどに 苦しいものだと思います。しかし このパートナーとの縁は 相性とか過去世とか 一族の先祖から継がれている 遺伝子とか総合的に計算されて 組み合わされているものだと思います。だから 恋をしている時は 相手の事しか見えないし心が燃えているから もう他の事は何も見えない。しかし 自分自身の 深い意識では この縁がどう結ばれてそして 次にどんな縁と出会うのか みんな知っているのだと思います。しかし そんな事分かってしまったら そこでの恋愛 縁に 計算が入るし その時は 目の前の相手を心から愛する 一所懸命 心から助け合う それが自分自身の 生命の進化だから 計算させてはいけないだから 恋は盲目 と言ったんだと思います。失恋は 苦しいものです。 だけど その失恋から 多くの事を学び そして 生命は 次の段階に進めます。人生の 中間テスト 期末テストみたいなものです。一度 赤点をとっても 次で合格すればいいわけですからそんな事も 全て 生命は 知っているんだと思います。だけど その恋愛とか 結婚の失敗の苦しみは尋常ではないでしょう。しかし それも 自分でも気づかない最高の人生を歩む為の 一里塚なのかも 知れません。そんな中で 自分自身の運命は 的確に 一日一日一年一年の 時間を 刻んでくれます。そんな 自分自身の 運命に ありがとう と 言ってみたらいままで 自分の為に 一生懸命に 働いてきた 生命はとっても 喜ぶと思います。 それを神と呼ぶこともあるだろうし遺伝子だと いうこともあるだろうし 呼び方は様々でしょうがそんな 生命を歩ませてきた力は 確実に 自分自身の中にある、もう一人の自分だと 思います。全ては 自分の為 だったのです。なのに いやなことには いつも 感情が反抗しただろうし楽しいことを 生命がプレゼントしてくれても それに感謝することもなかったでしょう。自分自身の 生命に ありがとうと 感謝すると共に自分自身の 運命にも ありがとうと 感謝してみましょう。その時々に 悲しかったり 苦しかったことも大きくいえば 自分の為だったんだと そう 思い直してそれを 自分に嫌われてでも 起こしてくれたその存在に ありがとう と言ってみましょう。そうしたら 自分自身の 中にある 多くのマイナスの感情が 雲が消えるように 綺麗になってゆく澄みわたった 大空のように なってゆくと思います。自分の歴史 自分の足跡 自分の道全ては 他に無い 最高のものその時々の シーンは 全て感動に溢れるシーンいやなことも 全ては 明るい未来を開くためそれを 贈ってくれたのは まぎれもなく最高に 自分自身を 愛しているもう 一人の 自分。そのもう一人の自分に ありがとう と言ってみましょう。そして その 1シーン 1シーンに 愛しげにありがとう と 言ってみましょう。そうしたら 自分の人生が もっと もっと 輝いてきますだって 自分の人生を光り輝かすのは 自分自身だし輝いているか どうかを 決めるのも紛れもなく 自分自身だから・・・・・私の 歩いて来た道 ありがとうそして これから 開かれる道 ありがとうこれからも どうか よろしく!!!
2006.02.03
太古の時代から 人は 神に祈りを捧げてきました。 多くの事を祈ってきました。 そんな祈りを通じて 人は 成長してきたのかも知れません。 自分自身の 成功や成長を願って 唱える アファメーション という のも あります。 そして 神を讃えたり 他人の幸せを願ったり 多くの人々の幸せを 願ったりする時は それが 祈りとなります。 祈り というと 宗教的なイメージが 強いですが しかし 自分自身の心を 養ったり 強くするには 祈りは とっても 有効だと思います。 己れの信じる神があれば その宗教的な祈りを 捧げればいいでしょうし しかし 現代には 現代にあった 祈りを 創造して良いと思います。 自分自身の 大きな願いを 自分だけの祈りにして それを 捧げる事 は とっても 心を豊かにするし 又 潜在意識を とっても豊かに 開発すると 思います。 日本には 仏教があり そのお経は とっても難しくて 祈りとは 言いにくいかも しれません。般若心経をお唱えする 観音経 法華経を お唱えする あとは 念仏をお唱えする。 なかなか意味まで理解して 祈るには 難しいと思います。 難しいから ありがたい とも 言えますが・・・・・ このお経が簡単に 誰でも 祈れるものになったら いっぺんに お坊さんが失業しちゃいます。 だけど 自分自身の心に 染みるような 心が震えるような そんな祈りを 自分のオリジナルで つくるのも 良いと思います。 そこで マザーテレサの 話題を一つ マザーテレサは 多くの貧民を救いました。 その活動は とっても過酷なものであり、暑い 暑い インドの気候は 當に 日本の常識では考えられないほどのものです。 先日 このマザーテレサの映画が上映されました。 オリビアハッセーが とっても素晴らしいマザーを 演じていました。 その マザーテレサの サイト に 生前マザーととっても親好が深く多くのマザーの写真を撮った 沖さんが とっても興味深い事を 言っていました。 それは 「 マザーは1日に 6時間も お祈りをしていました。 これが 彼女の 活動の 原動力なのです。 それが 無かったら あの様な活動は 1時間たりとも できないと おっしゃっていました。」 マザーテレサのお仕事は 最も貧しい人々に仕える というものです。 それが イエスキリストに 仕えることである。 いつも 思うのですが あの 使命に対する 信念と言ったら 尋常ではなく その信念を 養うには 朝 4時に起床して 4時半からのミサから始まり 1日の 時間がある中で 祈りの時間をみつけては 何がなんでも 祈ったんでしょう。 これは 僕も インドとか アフリカで経験しましたが この 最も貧しい人々に、仕える 仕事は 本当に過酷なものです。しかも その仕事に対する 目的を 揺らがす事なく、 終始 信念を貫いて 仕事をやりぬくこと。 しかも 私なんかは そんな 長い時間では ありませんが マザーとか シスター達は 一日中 一年中 一生それが続くのです。 その後 マザーのドキュメンタリー映画を観ましたが 各人は 私物は一切持ち込まず 一食の食事は 貧しい人々と全く同じだけ 少しのロティーという パンみたいなのと 少しのおかずだけ。 施設に収容した 貧しい人と同じものを食べる というのが すごいですね。 しかも マザーが来日した時の話しでしたが 新幹線で移動している間も ずっと 一人祈っていました。 本当 簡単にできる仕事ではないこと 痛感しました。 実は 昨年の10月に インドに行ったとき バナラスで マザーハウスに行って来ました。 その時の話しは 又 紹介しますが そこにいる人々は シスターの心を受け継いで とっても 明るい人ばかりでした。 大いなる偉業には 大いなる祈りが 必要である。 過去 成功者の中に 瞑想を習慣としなかった人は 皆無である。 活動には心が伴う その心を養う努力をしなければ 活動においての 成功は あり得ない。 まさに マザーは 1日 6時間の 心を養う 努力を 来る日も来る日も 続けたのです。その結果、多くの命を救う活動を 展開できたのでした。 インドの行き倒れは 本当に悲惨です。 というのも カースト制度によって 不可触民は 本当に 人として 扱われていません。 だから 不可触民が死にそうになっていても 汚れるからと いって 上のカーストの人ならば 助けの手を差しのばす ことは しません。 そこでただ 息を引き取るのを 待つだけです。 そんな事は 先進国では考えられない事だと思いますが、今 世界の中で 唯一と言ってもよいでしょうか 公認の人種差別制度である カースト制度が 未だに大きな力で 大衆を支配している インドでは 行き倒れは 日常の事なのです。 そんな 死に行く人を 一人一人 助けては 施設に収容する。 救われた人々は どんな気持ちでしょうか。 もはや 死ぬこと覚悟したところを 助けて貰い しかも 食べ物を与えられ 必要に応じて 薬まで 与えられるのですから・・・・ その感激喜びは 尋常ではないはずです。 そんな すごい偉業も 毎日の 6時間の 祈りから 生まれていたし 活動の原動力の源が 祈りだったのです。 心清からぬ 力は 何れ 滅びます しかし 美しい心から 発する 力は 永遠に語り継がれます。 マザーテレサの様に・・・・
2006.02.01
いろいろな 成功法があるなかで 結構好きなのが 「 ありがとう 」 と唱える事です。 これを唱えれば シンクロが起きるとか いろんな説がありますが、しかし 実に 自分が謙虚になって 他に感謝の気持ちを現す というのは とっても気持ちの良いものです。始めは 成功法として やっていても だんだんそんな欲心は どっかに消えてしまって、ただ純粋に 人として とっても大事な事をしている感覚になります。 成功なんか どうでもよくて ただ 感謝していたいそんな とっても清々しく 素敵な感覚になれます。この前 直感で感じたのです。この感謝 ありがとう を 誰に言ったら良いのだろうと・・・・もちろん 今までお世話になった人や いろんな対象が浮かんできます。その時に ふと 思ったのです 「誰か 大事な人を 忘れていないか・・・」その 忘れていた人が なんと 自分自身でした。自分自身と言っても 自分自身の 命に 感謝する。そして 自分自身の 命を 維持してくれている 生命体専門的に言えば 何といえばいいのでしょうか潜在意識であり 潜在能力であり 自律神経であり遺伝子のレベルのもの。自分の 心臓を 全く休む事もなく 生まれてから 今までずっと動かしてくれている 力 意志。エネルギーを 得るために消化させ 排泄まで 全自動で行ってくれる 消化器生命の維持の為に 休むことなく 生命保持の指令を発する脳。体に ばい菌が入ったら 病気にならないように それを退治してくれる 白血球や 病気になっても 自然に病気が治るように働いてくれる 機能新しい生命を生む為に 働く 役割等々 人体の神秘は 数えれば 切りがありません。自分自身の成功とか 貧富とか 社会的地位とか 学歴等この 全ての人に 平等公平に 備わっている 生命の奇跡から比べれば 本当に つまらない事であり、 人として生まれてこの生きている というよりも 生かされている又は 生かせていただいている と 言っても過言ではない生命の奇跡の力にこそ 人は ありがとうを いうべきだと私は 思いました。自分の 意識できる 顕在意識を 自分1 とするならば自分の意識できない 潜在意識を 自分2 とする。この自分2の奥底に この 生命を動かす 神秘的なすごい 力が 働いている。生まれてから 今日までそして この生命が終わりを告げるまで 一瞬の休みもなく 働き続けるんです。 もしも 私達が 疲れているときに 「少し休みたいなあ」と思うような そんな事を 自分2が思って、そして 実行してしまったら その時に この生命は 共に 終わってしまう。だから 細く長くとも 私達が意識することもなく 文句ばっかりいわれても この 自分2は 必死に働き 続けるのです。どんな 人でも 実際に自分自身が愛情をこめて その人に尽くしたならばその人から 「ありがとう」の一言でも 言って貰ったら すごく嬉しくなって。そして その人の為に もっと もっと尽くそうと 思うのが自然ではないでしょうか。 それと 同じように 私達は自分自身の 生命を維持する為に 一瞬の休みもなく 働き続けている自分自身の生命に 心を込めて 「 ありがとう 」と 言って上げたい。本当に 感謝をしなければ ならないのは この自分だった。これは 成功の為に 駆け引きで 自分を誉めるのではなく生きている 奇跡 に 改めて 感激感動して その自分の生命の 原動力に 心から感謝するこれこそ 今まで忘れていた すごい 最高の ありがとうだと思います。この 2~3日 この 自分の生命への ありがとう を 唱えているのですが、 なんか 自分自身の 体中の細胞が 躍動し始めた感じ言葉では 言い表す事が 難しいほどに 活性化されている感じ。そして 今まで 無理して やっとやっていた 苦手な事が どんどんと 自然にできちゃったり すごく 不思議な事が続いています。自分自身の 生命への ありがとう自分自身 への ありがとう自分の 人生への ありがとうこれは うぬぼれでもなく 自意識過剰というものでもなく自分自身を 最も 謙虚にさせる ことができる不平 不満 愚痴 は 一応置いておいてそんな 自分自身の悩みが とっても小さなものであるそんな ことに 気がつかせて貰えることだと思います。人を よく 小宇宙と 言います。宇宙の縮図が 自分自身の中にある人には 60兆の細胞があってその一つ一つに 30億の遺伝子信号が組み込まれているそうです。人ほど すごいものはなくその 自分自身に 感動感激しない法はないという ことになります。一度 休むこともなく 働き続けてくれる自分の体や心 そして 生命に心を込めて 「 ありがとう 」 と言ってみませんか?自分自身が とっても 喜ぶと 思います。感激すると 思います。
2006.01.27
ライブドアーの堀江社長の逮捕によって いろんなところに影響が出ているようです。近鉄買収の名乗りを上げたところらへんから 有名になり始めて そしてニッポン放送株の時 天下のフジテレビと堂々とやり合った事政治家への立候補など 財界にも新しい流れが 生まれたと 感じたばっかりでしたから残念なニュースでしたね。今の財界の主流は、何と言っても 太平洋戦争で 日本が焼け野原になって、今まで信じてきたものも 失ってそこから トタンを拾って 一から日本を立ち上げてきた人たちが 主流になっているでしょう。日本の再興を願って 必死に 脇目もふらずに頑張ってきた人たちが やっぱり 強いですね。だから この流れを 新しく 作り替える事は並大抵の事ではないと思います。この堀江社長の言動を見るときに 思うのは王の器 と 徳 という事です。王というのは リーダーの事しかし 堀江社長の場合は 新しい財界のリーダーとして一会社の長というよりも 財界の王となるべき人材だったわけです。もちろん 楽天とかソフトバンクとかの リーダーと共に という事です。なぜか わかりませんが この堀江社長と これも 日本の財界の王であった松下幸之助さんを 比べてしまいました。王は 常に その器と徳を問われます。古代には 皆既日食があったら 大衆は それを神の怒りだと言って王の徳が無いから 神が怒ったとして その王を殺したそうです。最近は どれだけ利益が上がったか で 全てが決められていますがしかし その基準そのものが 間違っていると 思います。最近 松下幸之助さんが残した パナソニックの製品で 欠陥商品が出ましたね。その時に 失敗は 失敗 潔く責任を取って 全面広告を出して お詫びをしてそして 全ての製品を回収して すぐに 責任を取りました。自らの過ちを認めて それの 責任を 潔く取る これも王の器の大きさを 示すものだと 思います。 松下幸之助さんの 心が継承されていると いえると思います。松下幸之助さんは 小さな町工場から事業を始めたから弱者の気持ちは ようく分かっている。どんなに 大きな会社になろうとも 原点は常に自分が弱者の 町工場の社長だった事。だから 絶対に驕り高ぶりが無い。誰に対しても 辞を低くして接する。これは有名な話らしいですが 松下幸之助を訪ねてきた人を松下さんは その 相手がどんな人であっても例え 若い雑誌記者や 取引先の若い人であっても帰り際には 絶対に エレベーターまで 自ら見送ったそうです。そして 最後に エレベーターの扉が閉じる時その相手に対して 深々とお辞儀をしたそうです。その 姿を 相手は絶対に忘れないそうです。 心から感激しちゃうでしょうね。札束は 腐るほどあるのに 絶対に札束で 相手のほほを叩くようなそんなまねはしない。 朝 会社に来て まずすることは 会社に祀った 神様の社に 手を合わせて祈るところから始まる 神佛への感謝 祈りから 全てを始める。そして 自分たちの利益を 社会に還元する。特に 素晴らしいのは 日本人の心が貧しくならないように心を養う為に 誰でもが気軽によめる 雑誌を刊行したその為に 出版社を創設した。P H P という 雑誌を知っておられるでしょうか宗教や 精神世界のような 肩の張ったものではなくしかし 人として とっても大事な 豊かな心を養える 普遍的な 雑誌です。 これは 素晴らしいと思います。そして 素晴らしい天下を造るには 立派なリーダーを育てなければならない。 それは 政治家だ経営だけでは 天下は 語れない。その為に 未来のリーダーを育成する松下政経塾を立ち上げます。この政経塾に入ってまず やることは なんだと思います。掃除です。 掃除が出来ない人は 立派なリーダーにはなれない。 人のいやがる事を出来なければだめだとも 受け取れるでしょう。又は 民がやっている事を心を込めて出来なければ 立派なリーダーにはなれない。そうとも言えます。まだまだ 沢山の 立派な事業があると思いますが特に 私が注目するのは この二つの事業です。事業とは 幾ら儲けるかではなく例え少しの額であっても 儲けた金を どう使うか。極論を言えば 何の為に儲けるのか。何の為の事業なのか。そんな 問いにぶつかるのだと思います。そんな時 王の器 王の徳 が問われます。ホリエモンと松下幸之助 少し考えただけでも 理解出来るはずです。そして 観点は少し違うかも知れませんが この地球には 様々なる問題が蓄積されています。戦争の問題 平和を築くこと。 環境問題。 温暖化そして 犯罪がどんどんと増えて 道徳が失われていること。等々 数えれば きりがありません。これらは 全て 今 国家のリーダーであり、経済のリーダーである多くの 王達の器 王達の徳 によって決められているわけです。ホリエモンの一件は 全体から見れば とっても小さな問題だとも言えます。世界の王達の器を大きくする事。そして自ら 立派な王としての徳を培うこと。そんな努力を 王達にするのは 無理な事でしょうか。思い切って 全ての武力を 弱者救済に使う。 環境の改善に使う。こわれた地球を治す為に使う。1000年 2000年後の地球を 素晴らしい地球にする為に使う。一国家 一宗教の 器を越えて もっと大きな器を みんなが力を合わせたら 築くことが出来るのに・・・・・ そう思います。眼前の利益を追い求め やってはいけない事を やってしまう。そんな 王には 遅かれ 早かれ 裁きが下ってしまう。崩れやすき 沙上の楼閣では だめなのです。王の器と 王の徳 を 常に養う心構えそれが これからの 世界では必要になると思います。
2006.01.26
昨日 シロアリの論理を書いて 私たちの潜在意識に マイナス要素の強い殺人 犯罪 等々の情報を 無意味に取り入れる事は 世情を大きく乱す事に繋がるのではないかと 発信させて 頂きました。そんな 先から とんでもないものを 観てしまいました。そして 今更 なんで といっても良いのですが、911 の ドキュメンタリー です。 たまたま ツインタワーにほど近くの消防署で、新米消防士の密着取材を行っていた プロデューサー兄弟二人が911の朝 消防車に乗りながら 事故の瞬間をカメラで捉えそして そのまま ツインタワーに 入ってそれから ビル倒壊から 消防署への奇跡の帰還そして すぐに 生還者の捜査と 瓦礫の撤去當に 想像を絶する程の過酷な 仕事に徹する男達のドラマ そして 遠巻きではなくツインタワーの中での映像は あの 911事件の本当に リアルな 現実 そのものでした。きのうは 今の世情を 憂う事を考えしかし その中で 現実を しっかりと捉える事。これは 大変に重要だと 本当に思いました。あの 世界が変わった 911世界の豊かさの象徴だった ツインタワーが もろくも倒壊した事。そして その中に 多くの犠牲者が 出ました。今 世界で行われている事は果たして これらの 犠牲者に 胸を張れる事なのかあまりに 突然すぎ そして 誰もが予想し得なかっただけに 多くの犠牲者の想いを感じようとするとき「 ただ 無念だったろうな 」 と 思うしか出来ないのです。愛する家族を残し まだまだ やりたい事が あっただろうにしかも 死ぬときは せめて 家族に看取られて そして手を握られながら あの世に旅立ちたいと 誰もが思うだろうに。 それが一瞬にして 心身がバラバラになるが如くに 命をおとしてしまったのです。また 無実の市民を守ろうとして 必死に80階を目指し階段を上がっていった 多くの 消防士が 突然のビルの倒壊で 命を失いました。ただ これが 一生をかけるだけの 誇りを持てる 仕事だとインタビューでも 答えていた 勇士たる 多くの犠牲者の御胸が 一体 どんなものなのでしょうか・・・・私は あの時に テレビで その瞬間を 何度も観て確かに 大きなショックを受けました。しかし このドキュメンタリーを観て 更に 大きなショックを受けました。と いうのも 最後にニューヨークに行った時に実は ツインタワーの下で 世界の経済の安定を 必死に祈った事がありました。それは 世界に 財が 平等に 行き渡り 貧困や 飢餓が 一切無い 世界を 創り行く事 それを必死に祈らせて 頂きました。 1時間 2時間と 祈ったと思います。そんな 祈りを捧げたところだったので 余計に ショックでした。しかし このドキュメンタリーでは 私が祈っていた場所が 映像に収められており、うぬぼれかも知れませんが 自分の祈りが届かなかったから こんな事件が起きたんだと そう自責の念に さいなまれた事もありました。この 911の 意味は 一体何だったのでしょうか確かに アメリカは 正義の名の下に アフガニスタンを叩きました。そして 次に フセインを叩きました。叩たけば 叩かれる。 その憎悪の鎖は 未だに 切れる事はありません。 確かに 首謀者に対する 対処は当然の事です。しかし 罪の無い アフガニスタンやイラクの市民を 殺める事は果たして 亡くなった多くの犠牲者が 喜ぶことなのでしょうか。それよりも 911の犠牲者の上に キリスト教もイスラム教もユダヤもパレスチナも関係なく 殺し合いは やめる事にしました。みなさんの生命の犠牲の上に この地球に 永遠の平和が 訪れました。全人類が みなさまを 平和のヒーローとして 忘れる事はありません。そう 胸を張って 正々堂々と 言えることの方が よっぽど喜ぶと 思います。911から 人類が学んだ事は 一体なんだったのかそして 911から 始めなくては ならない事は 一体なんのかその一歩は もしかしたら まだ 始まっていないのかも 知れません。そう 思えてしまいました。もしかしたら 繰り返される イラクの惨状をみても犠牲者の皆様も もしかしたら嘆いているのではないかと思えました。どうやったら 平和になるのか・・・・そして 今の 現実は 一体どうなっているのか・・・・そんな 世界の現実からは 私たち 目をそらしてはいけないし そこから 逃げてもいけない人の意識を いたずらに 低くする 情報は 入れる必要は無い。しかし だからといって 世界の現実を見ないで自分だけ 綺麗な世界に いる事 これもいけないことだと 思いました。多くの人々が 悲惨な状態の中で 生きている現実表には 報道には 隠された 現実を しっかりと捉えて それを みんなで どうすれば 良いのか少しでも 改善出来るように 努力する事そして 二度と 911の様な事が 起きない事を真剣に 目指さないと いけないと 思いました。この ドキュメンタリーは最後 こう締めくくります。 私は 911 を 決して 忘れない 人類が 911を 忘れないこと そして 多くの犠牲の上に 世界平和への 尊い 一歩が 踏み出さす為に そして どれだけ かかるか 分からない それだけ それは 遠い道程かも知れない しかし やり遂げるまでは 決して 911を 忘れない そう 多くの 犠牲者の 御霊に 誓いたいと 思います。
2006.01.24
これは 私だけでないと 思いますが、最近 目をおおいたくなる 耳をふさぎたくなるようなそんな 事件が沢山あります。自分の子供や親を いとも簡単に殺してしまう。まるで ゲーム感覚で 児童を殺めてしまう。それに 大きなところでは いとも簡単に戦争を起こしてそれこそ 万単位の人が 命を落としてしまう。その 残忍な光景が いとも簡単に映像として目に入ってしまう。 等々そういう 事が 最近多くなってきました。つい最近 たまたま シロアリの事が 頭によぎりました。シロアリは 例えば 一匹 家の中で見たら床下の土台は もはや 莫大なる シロアリが木を食い尽くした後。 家の中で 数匹の シロアリが徘徊していたらもう 手遅れ といいます。( 少し 大げさかも知れませんが・・・)最近の 残悪なる事件は シロアリみたいなものなのかも知れません。家の中は 顕在の世界 今意識 認識出来る世界床下で 家全体を支えているのが 実際に私たち 人間の心身を動かしている 潜在意識。毎日毎日 ワイドショーや サスペンスそれに 多くの読みやすい推理小説こういうところで 理性はもちろん働かせながらも多くの 残忍な情報を 無意識に取り入れているのは 事実だと思います。潜在意識は 一回取り入れた情報を 決して忘れる事はありません。そんな中、 私たちの潜在意識は 社会の潮流の中で無意識の間に どんどんと マイナスに侵されてしまっているつまり シロアリに食い荒らされてしまっている状態でそれが 最近顕著に 進行しているのではないでしょうか。シロアリを 悪者みたいにして 言って申し訳ないのですが( シロアリさん ごめんなさい )そして 個々人の潜在意識が 殺人とか 自殺とか 誘拐とかそういうものを 自然に受け入れてしまって昔では 社会的 大ニュースになるような 殺人事件でも最近では 新聞にものらない 日常的な事件になってしまっているそれだけ 世情が 悪化しているその大きな要因として 日常に無意識に 目にしている殺人事件だとか 自殺だとか そういう情報がこれも無意識の間に 潜在意識に蓄積されて 自分と 同化してしまっている。少量の毒を 毎日 飲み続けて 心身が麻痺してしまう事と 同じ事が 行われているのかも 知れません。これは 実際に経験した事なのですが昔 海外のとある国に行った時の事です。その国は 犯罪がものすごく 多く殺人や 誘拐 レイプ ストリートチルドレンが 数百円のお金の為に殺し屋をしている そんな国なのですがそこに行ってびっくりしたことが日本で言えば 駅の売店みたいなところでこれも日本で言えば スポーツ新聞みたいな新聞ですね。そんな位置にある新聞だと思うのですがその新聞の一面に 正々堂々と殺人事件の 遺体の 写真が掲載されているのです。殺人事件ですから すごい写真だということはいうまでもありません。 それを見て 私はびっくりしました。こんな写真を見たくて この新聞を買う人々。それが 始めは気持ち悪くても だんだん慣れてきて何にも感じなくなってしまう。そして だんだん いざとなったら 自分でも人を簡単に殺せるようになってしまうのでは ないか。そして その国も 犯罪率は 実際に 高いし貧困であえぐ 国でもあり、そんな状態はこの一件は 氷山の一角かも 知れませんけどその 新聞にのせられている 写真が作り上げているのだと 思うのです。日本では そんな事は今のところありませんけど毎日の様に 殺人 ゴシップ 誘拐殺人 等々の情報が いやでも 目に入ってきます。そして 残忍な写真も フライデー等々の情報雑誌には 結構のるようになっています。そんな 無意識に取り入れている 極マイナスの情報がシロアリの様に 潜在意識という 命の土台を食い尽くしそのシロアリの 少しが 表の世界に出てきているそれが 最近の 信じがたい様な 事件の姿なんじゃないかと そう思えてならないのです。個々人の 潜在意識は 日頃 目にする 耳にする 口にする情報によって 大きな影響を受けます。そして その個々人の潜在意識の 集合体がその一族や 民族 国家の 土台となる 集合的潜在意識というものです。 個々人の潜在意識の全体的 状態が 結局は 集合的潜在意識の状態を決定する。 故に 個々人の潜在意識の浄化は とっても必要だし自分自身が取り入れる 情報をコントロールすることはとっても 大事だと思います。そして 集合的潜在意識 の 根本的浄化は その民族や 国家の 繁栄の為には とっても重要です。特に その国家の犯罪率は 国民に何を見せるのか がとっても 重要となると思えてならないのです。ただ 日本人の 潜在意識も 既に 大きく シロアリに食い荒らされている 恐れが あります。海外の 国家でも それは 同じです。全体の 集合的無意識が マイナスに汚されないようにする。そんな 対応が とっても必要だと 思います。
2006.01.23
発想源という 有名な メルマガに とってもいい話がのってました。 それを 紹介した ブログから引用させて 頂きます。人と人の出会いや 巡り合わせは 常に 一期一会。特に 近くて 大事な人との縁は 後回しにしがちですがこれを 読んだら 少し 考えないといけないと思いました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー《 発想源より 》----------------------------------------------------- 【第57回】 2005年の私へ ----------------------------------------------------- 時は移って、2015年の1月1日。 祐子は、 昨年建設されたばかりの羽田第3旅客ターミナルに到着した。 旅客業務が3つのターミナルに分散されたせいか、 ターミナル内はまだ空いているスペースがたくさんあり、 様々な企業がブースを出して、 空港内で退屈する帰省客を相手にイベントを行なっていた。 あるパソコン会社のブースの前で、祐子は立ち止まった。 「今年の新作PCです~。触ってみませんか~。 今、タイムメールサービスが無料で体験できまーす」 若い女性販売員の声に、ついつい祐子は聞き返してみた。 「タイムメールサービスって何ですか?」 「はい、今ここで書いたメールが、10年前のPCへ送られる、 というサービスなんですよ」 「え、10年後じゃなくて?」 「そうです。10年前ですね。昨年、アメリカで時空をゆがめる技術が 開発されたんですが、それを応用しての試験サービスなんですよ。 もしよかったら、触っていきませんか」 すごい時代になったな…と、祐子は感心した。 未来に掘り出すタイムカプセルは聞いたことがあるが、 まさか過去にメールが送れるサービスが登場するなんて。 飛行機の離陸時間には十分に余裕があるので、 半信半疑で触ってみることにした。 「10年前のメールアドレスってご存知ですか?」 「あ、昨年まで使っていたので覚えています。 これって、そのメールアドレスに届くのはいつですか?」 「10年前ですから、2005年の1月1日の午前10時頃ですね! その時のお客様自身を思い出しながら、書いてみて下さい」 「2005年の1月1日かぁ…」 祐子は目を閉じて、ちょうど10年前の自分を思い浮かべてみた。 しばらくして、小さくうなずいてメールを書き始めた。 件名:2005年の祐ちゃんへ 本文: 高原祐子さん、こんにちは。 私は2015年、10年後のあなたです。 何か信じられないかもしれないけど、 そういうサービスが10年後にはできてるんだって。すごいネ! 今、大学の冬休みですよね。 あなたがこれを読んでいるのが、 ちょうど2005年の1月1日の朝だといいな。 今日の午後3時ごろ、あなたに一本の電話がかかります。 故郷のお母さんからです。 「あけましておめでとう」って。 あなたは、その時には同じ大学の彼氏と一緒に家にいて、 お母さんもウルサイぐらい元気な声で話してくるから、 「もう、いちいち鬱陶しい電話かけてこないで!」 って、彼氏との時間を大切に思うかもしれないね。 でも、きちんと話してあげてね。 あなたのお母さんは明日、この世からいなくなります。 その電話が、最後の電話です。 お母さんと話せる、最後の電話。 お母さんの声を聞いたら、 すぐにその日のうちに、故郷に帰ってあげてね。 妹の玲子はアメリカに留学中だから、 帰ってあげられるのはあなただけだよ。 一緒にいる彼氏のことは放っておいででも、帰ってあげてね。 あなたが大切に思っているその彼氏も、 後に「親が死んだぐらいでメソメソするようなヤツは嫌いだ」 などと言って別れるような、つまらない男だよ。 玲ちゃんが産まれてすぐお父さんが亡くなってから、 女手一つで私たち姉妹を苦労して育ててくれたお母さん。 お礼が言える時間は、たった1日しかないよ。 お礼が言える時間を持てなかったら、 少なくとも10年、後悔し続けるよ。 玲ちゃんも「私が留学にさえ行ってなければ…」って、 何度も何度も留学を後悔し苦しむことになるよ。 そして何より、娘たちの健康を最期まで気遣いながら、 お母さんは一人ぼっちで最期を迎えることになるよ。 すぐに帰ってあげてね。 お母さんに会ったら、伝えてあげて下さい。 祐子も8年後にお母さんになるよ、って。 娘にはやさしいお父さんもいるからね、って。 玲ちゃんも「海外よりやっぱりここがイイ!」って、 故郷の良さを理解して戻ってきてくれるよ、って。 あなたの娘でよかったと、 20年間、私たちを育ててくれてありがとうと、 伝えてあげて下さいね。 私のように何年も苦しまないように、 何年も後悔し続けないように、 お母さんに顔を見せて、お礼をたっぷり伝えてね。 P.S. 私は今の夫と出会えて、随分元気になりました。 若松祐子 祐子は少し涙目になりながら、書き終えた。 横に立つ販売員を見ると、 彼女は画面を見たままボロボロと泣いていた。 「あ、読んでました…?恥ずかしいなぁ…」 「すみません、つい…。あ、送信ボタンはこれです」 「送信完了」の文字が画面に現れた。 「ありがとうございます。今お客様が書いて頂いたメールを 印刷致しましたので、もしよろしければ 新作PCのパンフレットと一緒にお持ち帰り下さい」 若い販売員は、印刷用紙とパンフレットを手渡した。 販売員はまだ泣いていた。 「こちらこそありがとう。10年前の私、読んでくれるといいな」 「そうですね」 「今から、母の十回忌で故郷に飛行機で帰るんです。 お墓にしか言えないけど、たくさんお礼を言ってきます」 振り返ると、少し離れたところで夫と娘が手を振っている。 祐子は、販売員にお礼を言って、ブースを後にした。 販売員は泣きながら、祐子の後姿を見送った。 どれだけ電信通話機器が発達しても、 どれだけ電子機器が発展しても、 直接会ってお礼を伝えることはなんと大切なことなのだろう。 その若い販売員の女性も、20歳の大学生だった。 「このアルバイト終わったら、 私もちょっと実家に帰ってみようかな…」 彼女は小さくつぶやき、涙をぬぐってから、 再び笑顔で次のお客様への呼びかけを始めた。 ===================================
2006.01.22
今日も 元気のでる 言葉を 紹介させて いただきます。こころ負けそうだなと思うと あなたは負けるもうダメかなと思うと そこからダメになるやれると思う心のどこかに無理かもしれないと 思う心がある次から次へと 無理がでてくる失敗しそうだなと思うと あなたは失敗する成功している人を 見てごらん最後まで成功を 願い続けている人だけが成功しているでは ないかすべては 「 あなたの心 」 が決めるのだもし あなたがそう願うならあなたは その通りの 人になるさあ、出発だ強い人が 勝つとは限らないすばしっこい人が 勝つとは 限らない頭のいい人が 勝つとは 限らない「 私は できる 」そう 思える人が 結局は 勝つのだから
2006.01.21
素晴らしい言葉に接して とっても元気を貰いました。紹介させて 頂きます。この世で 一番の奇跡自分の恵みに感謝しなさい自分のかけがいのなさに 感謝しなさい自分の枠を 越えなさい選ぶ力を 賢く用いなさい考える力を与えられています。愛する力も与えられています。意思の力も与えられています。笑う力も与えられています。想像する力も与えられています。創造する力も与えられています。計画する力も与えられています。話す力も与えられています。祈る力も与えられています。私たちは既に、偉大な力を 全て持っています。憎む事より、愛する事を選びなさい。泣く事より、笑う事を選びなさい。破壊するより、創造することを選びなさい。諦める事より、忍耐することを選びなさい。人の噂話をするより、誉めることを選びなさい。傷つけることより、癒す事を選びなさい。盗むことより、与えることを選びなさい。ぐずぐずする事より、行動する事を選びなさい。堕落するより、成長することを選びなさい。呪うことより、祈ることを選びなさい。死ぬ事より、生きることを選びなさい。貴方は、開かれた可能性を持った 「成る人間」です。 貴方は この世で 一番の奇跡
2006.01.19
僕の大震災を紹介したいと思います。実は、震災の年の始めから、祖母が入院したので、その付き添いの為に新年から 14日まで ずっと神戸にいたんです。調度 当時はテニスのコーチをしていて15日に ロイヤルとのテニスの会があってそこでファミリーのコーチをしなければならず仕方なく 14日に東京に帰ったんですね。もし そのロイヤルとのテニスが無ければ 僕も震災をモロに 体験していました。そのロイヤルに 助けていただいたようなものです。今思えば 感謝 感謝です。17日の朝は 本当に偶然に というか 虫の知らせというか5時頃に 目が覚めました。 その後 ウトウトしていたんですが、つけていたテレビフジテレビの 八木アナウンサー が「大きな 地震が あったもようです。」それが 大震災の第一報でした。しばらくは詳細な情報は入らず。そして いきなり 生田神社倒壊のニュースに接して「 これは まずい。 」 と 始めて 蒼白になりました。家に電話をかけても かかりません。正直な感想 家族を失ったと思いました。それでも あきらめずに 何度も電話をかけ続け思いついたのが コレクトコールで電話をする事。これ 災害の時 普通回線がパンクしている時にはとっても良い 方法です。 もちろん 相手によりますけど・・・・これで 一発で 電話が通じました。運良く 家族は生き延びて 家の母屋は壊れましたが 新宅は 多少壊れただけで住むにも困る事は ない とのことここで 胸をなで下ろします。しかし 母屋の修復に すぐに帰ってこいとのこと水も ないし たべものも不自由しているそれに 屋根を直す ブルーシートに 等々沢山リクエストがあること あることそれから 急いで 家の近くで 買い込みをはじめます。重量が なんと 100キロにも なりました。18日の午後に 準備をすませて 神戸に戻りました。それを 家から羽田までは タクシーにそこで チェックインする時にグランドホステスから「 お客様 荷物は 20キロまでなのですが・・・」と言われる。 こっちは必死で そんなことも忘れていてとっさに 「 これは みんな 救援物資だ! 自分のものなんか全く入ってない。それでも そんな事をいうのか!!」 ととにかく 真剣に 訴える。 絶対に引き下がれない。そしたら その グランドホステスも あきらめて乗せてくれました。大変だったのは 伊丹についてから東京ではタクシーもあるけど 伊丹からは乗ることができません。どうしたかというと 西宮の親戚の家までとにかく 移動する伊丹から 阪急の西宮北口まで 荷物を持って 移動する。その親戚の家まで 神戸から 車で 父が迎えに来る。そんな 段取りでした。伊丹から 蛍池行きのバスに乗ってそこから阪急電車に乗り換えます。その移動が 本当に大変でした。 重たい荷物をかついで電車にのる もう 筋肉はちぎれそうになるし、そこの 100メートル 200メートルは 100キロにも等しいものでした。そして 無事親戚の家にたどり着き 父親と会えて西宮から神戸の家にゆく時の あの町並みの光景一生忘れないと思います。家々が倒壊し 火事がところどころで起きてそして 三ノ宮では 灯りが消えた町並みでビルが道に 倒れている。これは 世の終わりの光景なのか と 思ったほどです。そこから 神戸の生活が始まりました。家の復旧は 大変でした。なれない力仕事を昼中かけてやって 夜は病院で祖母の付き添いをしました。 震災の時の病院も 本当に大変。多くの人々の 震災と 接する事ができてとっても いろんな事を 学びました。私の震災経験は 自分なりには大変でしたけど家族は失っていないし 寝る家もあるし突然家族や友人を失った方を思えば そして避難所で過ごしている方々を思えば 本当に恵まれていました。逆に その時に 多くの方々に 東京からもってきた少しの水を配ったり。 カイロを配ったり食べるものが なくなった子供さんに チョコレートを上げたり在宅で家の復旧をしながら 出来る限りのヘルプをさせて頂きました。 ボランティア元年と呼ばれる 阪神大震災。今は アフリカ や インドに行って 同様に 困っている方々をヘルプしたり 弱い立場の方々を応援したり出来るのもこの 阪神大震災での 経験があったからだと思います。その時の思いが 今 もっとかわいそうな アフリカのキンボア君などの縁を結んでいただいたのだと思います。そういう 流れが 阪神大震災から始まったあそこが 原点だったと 思うんです。だから余計に 感慨深く 震災のニュースに接してしまいます。阪神大震災で大事なのは 街の復興もそうですがそこに立っていた 人々の 想いそこを 通過した 人々の想い なんだと思います。昨年 神戸で孤独死をした老人が 63名もいたそうです。そんなつらい想いを乗り越えて 10年生き延びてその最終駅が 孤独死 というのは 辛すぎます。神戸のみんなが 一つになって 助け合いながら震災を乗り越えた 想いを 誰にも理解することのできない本人達の想いを 共有してゆかないと いけないのだと思います。神戸の助け合いは 日本中に伝わりました。これからも 一つの神戸として 助け合いを続けてゆきたいものです。 絶える事無く・・・
2006.01.18
もう 11年か・・・長いようで 短かった この11年でした。私の実家も 神戸に在り 当時は東京に住んでいましたが準被災者とでもいいますか その一人でした。楽天でも いろいろと 震災の事は書いてきましたが僕にとっての 震災は 助け合う素晴らしさを学びそして 耐えることと 感謝すること多くの事を学んだ気がします。でも 今朝 まず浮かんできたことがあの 長田で 家屋が倒壊して父親が下敷きになった。妻と娘は なんとか逃げれたけれどもそこに 火事の炎が襲ってくる。その時に父親は 「もう良いから 逃げろ」と 妻と娘を逃がそうとする。しかし 妻と娘は 必死に 父親を助けようとする。しかし 最後には 大きな炎が 襲ってきて家と父親を 飲み込んでしまった。そして、次の日に 焼け野原となった自宅で一生懸命に 父親の遺骨を 探す 妻と娘の姿そして 何にも出来ないから 段ボールの紙に父親を弔う 言葉を綴って 自分たちだけの野辺送りをする。そんな 人々は 今 どうしているんだろうなあという事を 朝 想っていました。この朝が来れば もちろん その時の 忘れようにも 忘れられない光景を思い出し。いや ことあるごとに 脳裏に焼き付いた父の叫びを 思いだし。その想い出と 共に 必死に生きてきたこの11年だったんだろうな・・・・辛かっただろうな・・・・そういう人々にこそ 頑張って貰いたい。何にも出来ないけど 亡くなった方々の冥福を祈りたいと思いました。神戸では 一人一人の震災があります。朝には 長田の人々を思い出したけどそれには重い軽いは関係なくみんな大変な思いをして 必死に生きてきた11年だったんだと つくづく思います。数日前に 三宮の交差点に立つ機会がありました。その時に 見事に復興して 綺麗になった神戸を見てすごいな 日本人って と 思いました。戦争で負けた時も 焼け野原から みんなでがんばって復興した日本。そして 神戸も みんなで必死にがんばって復興させた。この震災の時に 素晴らしいと世界から絶賛された事日本人は素晴らしいと うならせた事は配水車が来たときに みんなが順序よく並んで待っていた事だったのです。 避難所の食事の配給も同じ事です。それに この時に 暴動や略奪が全く起きなかった事。昨年 アメリカでおきたハリケーンニューオリンズの光景を見られたと思います。多くの人々が理性を失って 略奪に走っていました。これ 私が思うに アメリカでなくとも世界中でこんな状態になったら これは起きると思います。 しかし 日本ではみんながそれをしなかった世界が驚いた事実なんです。私たちには当たり前でも世界ではそうでは ないことも あるんですね。この震災は そんなことを 期せずして証明した災害でもありました。 日本の素晴らしさを 世界に知らしめた・・・・心から 亡くなった方々の ご冥福をお祈りします。みんな 頑張って 頂きたいがんばれ 神戸!!
2006.01.17
いい風に吹かれないと 人は優しくできません。でも、いい風に吹かれるためには いい風が吹いている所に自分から行かないとだめです。このことに、最近気づきました。みなさん、いい風は、黙っていても 吹いてきてくれません。かといって、どこか、南の島にでも 逃げる訳にはゆきません。厳しい現実と 向き合いながら、 自分自身の力と家族や仲間の助けを借りながら、いい風を吹かせましょう。 高倉 健近々 「 単騎、千里を駆ける 」 が公開されるはずですが、日本の国民的スターである 健さんの 味わい深い言葉を紹介させて 頂きました。「 いい風は 黙っていても 吹いてきてくれません 」厳しい現実と向き合いながら・・・果敢に 向かい風に向かってゆく そんな凛とした気概がここに感じられますね。健さんといえば 唐獅子牡丹 等 とっても力強い印象があります。しかし、 健さんは とっても謙虚な方で映画の撮影が始まる時に、どんな若造の新人俳優にも「 高倉と申します。よろしくお願いします。」ととっても 丁寧に 挨拶をされるそうです。やもすると 上下関係がうるさく 先輩のいじめがあったり。そんなイメージがありますが、みんな一緒に 良い仕事をする為にはメンツは 仕事の中で しっかりと示す事なんですね。想像するに 挨拶された方が 面食らってしまうと思うのですが・・・・・それは 一緒に いい映画を撮りたいという 姿勢そして 人としての 素晴らしい姿勢が 貫かれています。又、健さんは 映画の撮影中 長い長い待ち時間にも決して 椅子に座らないそうです。その理由は 映画はチームで作るもので自分が待っている間も 走り回っているスタッフがいる。そのスタッフが 必死に仕事をしているのに 自分が 椅子に座っているのは 申し訳ない。だから そんな かけだし 一番下にいるスタッフとも いつも 一緒に仕事をしているんですね。だから 椅子に 座らない。そういう すごい心がけをもった方なんです。ここに 日本人の真髄 和の心があると思います。上下関係なく みんなで一つのものを作り上げる。この和の心が 戦後の焼け野原から こんなにも早く復興を果たせたのでしょう。そんな心を 象徴的に現している 健さんの椅子だと思います。でも この話。全てのリーダーに 聞いて貰いたいし自分自身も そんな心を持ちたいと思います。健さん かっこいいですね。
2006.01.16
実に この新年で 300回目の日記となりました。最近は いろいろと あって なかなか更新出来なかったのですが、新年があけて 新しい試みを いろいろと 試したくなりました。そして 300回を以て 試験的に サイトの模様替えをして見ました。 今まで長年お世話になった 四つ葉のクローバーは 実に フリーページが読みにくいという ご指摘を頂きすっきりとする事にしました。そして サイトの名前も 「 和み と 輝き 」 と直感で感じたので そうしました。というのも ここから発進する内容は 和み・・・ つまり多くの人々が和める事 大きな和み 平和を 求めるムーブメントが起こせれば 良いなと 思います。輝き・・・ これは 人が人として 更に輝いてゆく事を 求める事。 これは いろんな意味で 人の進化 を追求する事。この二つを大きな柱にしたかったからです。自分だけの成功や成長を求めるだけでは 孤立します。この 世界 多くの人々との 和を築いて 始めて成り立つ世界です。聖徳太子が 日本の根底にある 精神構造をこう表現しました。 「 和を以て 尊しと為す 」これは 世界に誇る 立派な精神であり、 今の日本経済の発展を築いた 大きな力です。そんな 新しい試みを してゆこうと 思います。今までは 自分勝手に 自分の書きたいことばっかりを 書いて来ましたが これからは 少し考えて 書いてゆこうと思っています。これからも よろしく 御指導頂きますように お願い申し上げます。
2006.01.15
平成18年 清々しい新年を迎える事が出来ました。昨夜は 除夜の鐘を聞きながら 今年一年を振り返り己れの煩悩 つまり 悩みを祓い清め朝には 一年の計に 想いをはせ一枚の書面に それを書き留めました。今年一年が良き年でありますように、皆さんに 多くの幸いが 訪れますようにそして 未だに苦しんでいる 多くの民が心安らかに 生活出来るようになりますように。戦争や争いが起きませんように災害で 人々が苦しみませんように無意味な犯罪が無くなりますように人々の心が 荒むことなく豊かな社会 世界となりますように互いに助け合える 世界になりますように公害で 自然が壊されませんように多くの 病気で苦しむ方々が健康に なれますように私たちの先人であり 今の社会を必死に築き上げて下さった多くのお年寄りが少しでも 病気もせず 元気で 長生きできますようにそんな ささやかな 祈りを 捧げさせて 頂きました。今年も よろしく お願いします。少し づつですが 体も楽になっています。いろいろとご心配をおかけしていますが大丈夫です。 今年は自分らしさを取り戻すように頑張ります。
2006.01.01
昨日 仰木監督が亡くなった事を 書きましたが、いろいろと調べると この楽天にも仰木監督の事を中心に ブログを続けておられる方がいらっしゃったり、本当に多くの方に慕われていた 仰木監督なんだと思いました。仰木監督は 今 大リーグで 活躍している イチローの恩師としても 有名ですが、この訃報を聞いたイチローは 本当にショックで しばらく言葉が 発せられなかったそうです。調度 仰木監督の 来歴と多くのエピソードが紹介されたサイトを見つけたので ご紹介します。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 から 仰木監督のページを 転載させて 頂きます。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 より 「仰木 彬」 仰木 彬(おおぎ あきら、1935年4月29日 - 2005年12月15日)は、昭和後期・平成期のプロ野球選手、監督。血液型A型。来歴・人物東筑高等学校から1954年、西鉄ライオンズに投手として入団。当時の三原脩監督に野手としての素質を見いだされ二塁手に転向。好守備で西鉄の黄金期を支えた。当時から三原監督とは野球理論について議論を交わしており、これが後年の監督時代に芽を吹くことになる。 1967年現役引退。2年間西鉄のコーチを務めた後、1970年に三原が監督を務めていた近鉄バファローズに移籍。近鉄では18年間コーチを務め、1988年に監督に就任。黄金時代の西武と激闘を繰り広げ、1989年にオリックス・西武との三つ巴を制し、2位オリックスにわずか1厘差でリーグ優勝。1992年に近鉄監督を辞任。近鉄監督時代には吉井理人・野茂英雄・中村紀洋を育て上げた。1年間ABCの解説者を務めた後、1994年にオリックス・ブルーウェーブの監督に就任、イチローの素質を見いだした。1995年2度目のリーグ優勝。1996年には監督としては自身初の日本一に輝いた。2001年限りでオリックス監督を勇退。奇策による好采配は恩師三原にあやかり「仰木マジック」と呼ばれた。2004年に野球殿堂入り。2005年に、オリックスで指揮を取り3年連続最下位のチームを4位に浮上させたが、高齢による健康面の問題から1年で退任し、球団シニア・アドバイザー(SA)に就任。 2005年6月4日の対広島戦で投手交代の是非をめぐって、44分の遅延行為により退場処分を受ける。仰木は「審判にはコースについて少し抗議したというものであって投手交代ではない。審判が聞き違えた」と主張したが、認められなかった。この試合の球審だった土山剛弘は「確かに『投手交代、菊地原』と聞き、仰木監督が復唱した」と主張し、両者の言い分は真っ向から対立した。仰木自身は後にテレビ番組にて「言うたかもしれんなぁ」とコメント。 2005年12月15日、肺がんのため福岡県内の病院で死去、享年70歳。エピソード西鉄入団当初は投手、それも「超大物」ルーキーであった(高卒で南海ホークス入団後即2年で50勝をあげた宅和本司より上といわれていた)。しかしフリーバッティングで不運なヒットを連打され、それを見ていた三原監督から「お前は投手としてのツキがないから二塁手転向」といわれ、その5秒後にはセカンドのポジションにいたという。ツキだけで大物ルーキーを野手転向させる三原も三原だが、それに対しあっさりと二塁手になってしまうのもすごい。このあたり、監督になってからも見られる発想の柔軟性、物事に捉われない性格と機転の速さが見て取れる。 入団時に当時のマスコミが「野獣の群れに貴公子が紛れ込んだ」と評するほど端正な顔立ちだったため、女性人気が高かった。 1958年4月7日、北九州市民球場(当時は小倉球場)の第1号本塁打を阪急ブレーブス・梶本隆夫から放った。 西鉄選手時代から今までかなりの遊び人で知られる。選手時代は「グラウンドの外ではいくらでもムチャやってくれたらいい」と選手に言っていた三原監督に「仰木と豊田泰光だけは遊びに制限をかけんといかん」といわれたほどで、西鉄の島原キャンプの休日に船で天草までナンパをしに行ったものの、海が荒れてその日のうちに帰れず、翌日になってコッソリと参加したら三原監督からバントの練習だけをするように命令されたというエピソードを持つ。 監督になってからも『ニュースステーション』出演時に当時キャスターだったテレビ朝日の小宮悦子アナウンサー(現在はフリーキャスターとして『スーパーJチャンネル』のメインキャスターなどを担当)を本気で口説いていたというエピソードもあるほど、遊び人であった。(西本幸雄辞任後は毎年のように近鉄の次期監督候補として名前が挙がりながらも結局18年もコーチを続けることになったのは、そういった仰木の遊び人ぶりを球団首脳が心配したからだと言われる)。 またかなりの酒豪で、西本監督時代の投手コーチだった杉浦忠とキャンプで相部屋になった時に連日酒を酌み交わしながら野球談義を続け、最終日に2人で空き瓶の本数を数えたところキャンプの日数と同じだったという逸話が残っている。 本人がそういう調子である為、グラウンド外で何をしようが、試合で結果を出せば何もいわないタイプである。反面、練習はかなり厳しく、走りこみの量は12球団1と噂されるほど。さらに試合でも勝負に徹する冷徹さを持ち合わせている。かつては近鉄監督時代に、当時の権藤博投手コーチや抑えの切り札吉井理人との対立も噂された。 温厚そうに見えてかなりの激情家である(仰木の出身地である福岡県中間市は遠賀川沿いに位置し、「川筋者」と呼ばれる気性の荒い人間が多いことで有名である)。近鉄監督時代は殴られた選手がベンチの壁まで吹っ飛んだ、と言うこともあったとか。 近鉄時代から日替わりで打線をメンバーチェンジしていたというイメージがあるが、実際はシンプルな野球をしていた。オリックス時代に「猫の目」と言われるほど打線を組み替えたのは、1994年からパ・リーグに導入された全試合予告先発制度の影響が大きい。 イチローを育てたことで目立たないが平井正史、鈴木平、小林宏、大久保勝信と仰木の下で活躍した投手は数年後にケガで悩まされることが多かった。投手起用に関しては勝利のためには無茶もいとわないため、投手コーチとしばしば対立した(近鉄時代の権藤博、第1次オリックス時代の山田久志との対立はファンによく知られている)。 「イチロー」の名付け親と思われているが、登録名の変更のアイデアを出し、進言した実質の名付け親は新井宏昌コーチであり、それを認めたのが仰木である。 彼が育てた選手でメジャーリーグに旅立った者が多い。しかもその全てが仰木を師匠と公言している。イチロー、田口壮、吉井、野茂、長谷川滋利など、その人間的魅力が伺われる。イチローはキャンプ中の仰木に会うためだけに宮古島までわざわざ出向いた。また吉井は「仰木さんに要らないといわれたときが自分の引退のとき」と言っている。 アメリカへイチローを激励しに行ったときは「パンチパーマ」「サングラス」「ステテコ」という格好だった上にイチローがあまりに恐縮していた為「イチローがジャパニーズマフィアに脅されている」と騒ぎになった。ただし、この話は仰木の下でプレーしたこともある金村義明のネタという説もある。 パンチ佐藤をかわいがっており芸能界転向を薦めたのも仰木である。そのとき仰木はパンチに「お前は野球をやっても大成できんが芸能人なら大成できる」といった上にパンチも怒るどころか「ハイ辞めます」と二つ返事で答えたらしい。 野球殿堂入りの祝賀会に10.19決戦のメンバー、さらにアメリカからイチローも出席した表彰ベストナイン(1960年) 正力松太郎賞(1996年) 野球殿堂入り(2004年) フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 より 「仰木 彬」 より 転載
2005.12.17
名将 仰木監督が亡くなりました。私の実家は神戸で 震災の折に被災したので、あの年に仰木監督率いるオリックスが「がんばれ 神戸」を合い言葉に 優勝したことに とっても感動したのを覚えています。そして 何よりも プロ野球史上に 燦然と輝く 名場面の一つ10.19 川崎球場の 優勝をかけた ダブルヘッダー10.19 近鉄の指揮をとる 仰木監督 10.19 昭和最後の年…日本中が感動した日 パリーグの一番 長い日 阿波野インタビュー 「ホームランの後の 記憶がないんです。」あの時僕は 調度大阪に出張してまして、 もう大阪の多くの人が 仕事そっちのけで仰木監督率いる 近鉄を応援をしていました。あの 第一試合の 終盤なんか 絶叫が そこいらにこだましていました。僕も興奮しましたね。そして 第二試合で 最後引き分け が決まって 近鉄の優勝が無くなった時。 それでも選手が 守備につかなくては ならず肩を落としながらも ベンチを出る時仰木監督は くらい表情でもなく 内心は 複雑な心境であったでしょうが気丈に 最後まで 指揮を執りました。その時の 横顔 がテレビで映し出されたのですが、 その仰木監督の姿を見てとっても感動したのを 覚えています。なんでもそうですが、優勝することは とっても難しいしかし 歴史に残り 人々の心に刻み込まれる 名勝負 名場面を 残すことは更に 難しいと思います。どの世界でも 選手のギャラが 信じられないほどに上がっていますが、果たして 人が見て感激させられる勝負をみせる選手がどれだけいるでしょうか。思い出すだけで 胸が熱くなるような シーンを歴史に残すことは 簡単ではありません。あの 10.19 多くの人々の人々の心に 勝負の素晴らしさ戦う男の素晴らしさ が刻まれました。そんな 名勝負を残せた 仰木監督は幸せだったかも 知れません。その血脈が しっかりと イチローに伝わり大リーグまで 揺さぶっています。心より 哀悼を捧げます。 10.19 昭和最後の年…日本中が感動した日 パリーグの一番 長い日 阿波野インタビュー 「ホームランの後の 記憶がないんです。」★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★仰木さん死す、がんと闘い1年指揮 近鉄、オリックスで指揮をとり、3度のリーグ優勝、1度の日本一に導いた仰木彬氏が15日午後4時10分、呼吸不全のため福岡市内の病院で死去した。70歳。仰木氏は肺がんで闘病中だった。通算14年に及ぶ監督時代に、イチロー(マリナーズ)、野茂英雄ら名選手を多数育て、意表を突く采配は「仰木マジック」と呼ばれた。今季は近鉄球団と合併した新生オリックスの指揮をとったが、体調不良で辞任し、同球団のシニア・アドバイザーに就任。だが、退任後は入退院を繰り返していた。葬儀は本人と家族の意向で、家族、親族のみの密葬で行われる。 酒を愛し、野球を愛した…。現役時代は二塁手として西鉄の黄金期を築き、近鉄、オリックスでは監督としてチームを優勝に導いた仰木さんがこの日夕方、福岡市内の病院で、息を引きとった。 「グラウンドで死ねたら本望や」。 それが最近の仰木さんの口癖だった。 昨オフ、近鉄、オリックスの合併により誕生した新球団の監督を引き受けた。すでに体調を崩していたが、古巣の窮地を見過ごすわけにはいかなかった。シーズン中も極秘裏に定期検査を繰り返していたが、がんは容赦なく体をむしばみ続けた。 今年は「野球界への最後のご奉公や」と冗談めかしながら、気力を振り絞ってきたが、ついに力尽きた。 パ・リーグ一筋の野球人生だった。西鉄では、三原監督にその非凡な才能を見いだされた。中西、稲尾、豊田らと、野武士軍団といわれた常勝チームをけん引。コーチ業を経て就任した近鉄監督時代、その戦術は“仰木マジック”と称された。名監督だった三原魔術が仰木野球の原点だった。 18年間のコーチ時代を経て、88年に近鉄監督に就任。梨田、大石、阿波野らを擁して、伝説の『10・19』の名勝負を演じた。阪神大震災に見舞われた95年、オリックスで“がんばろう神戸”をスローガンにリーグ優勝。打ちひしがれた被災者を励まし、勇気づけた。連覇、そして長嶋巨人を破り日本一。熱パ仕掛け人として球界を盛り立てた。 まだ2軍選手だった鈴木一朗を「イチロー」とした名付け親だった。天才打者を世に送り出し、今やメジャーを代表するプレーヤーに育て上げた。体をひねって投げる野茂の変則フォームも、そのまま奨励するなど、個性重視がその特性だった。メジャーへ巣立った教え子のもとへ、ここ数年は、毎年のように渡米して激励していた。 しかし今オフ、オリックス球団は仰木続投を望んだものの、それもかなわないほど病状は悪化の一途をたどった。酒豪として知られ、カラオケのマイクをもつと演歌や、越路吹雪の曲を歌った仰木さん。この日午後9時過ぎ、遺体は北九州市内にある自宅に運ばれた。グラウンドでは大逆転を何度も演じたが、奇跡は起こらなかった。【寺尾博和・編集委員】(日刊スポーツ) - 12月16日9時57分更新
2005.12.16
少し前に、おもしろい小冊子を手に入れました。その中に、南アメリカの先住民に伝わる ハチドリの物語が書かれています。その物語を 紹介します。とっても 短い 物語ですが、そこに込められた 意味は 大変に 深いものがあります。ー○ー○ーー○ー○ーー○ー○ーー○ー○ーー○ー○ーあるとき森が燃えていました森の生きものたちはわれ先にと逃げていきましたでもクリキンディという名のハチドリだけはいったりきたり口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます動物たちがそれを見て「そんなことをしていったい何になるんだ」といって笑いますクリキンディはこう答えました「私は私にできることをしているの」ー・ー・ーー・ー・ーー・ー・ーー・ー・ーー・ー・ー人類は 今 おそらく その歴史始まって以来、最も大きな壁に ぶつかっています。地球温暖化 という 大問題です。ハチドリのお話に 出てくる 燃えている森は、 実は地球のことなのです。刻々熱くなっていく私たちの地球をどうしたら 冷やすことができるのでしょうか?ー・ー・ーー・ー・ーー・ー・ーー・ー・ーー・ー・ー私たち人間は 自然界に大きな影響をあたえるほどの大きな数になりましたが、ひとりひとりは小さな存在です。でも幸いなことに 私たちは 水のしずくをたくさん集めれば、火を消せるという事を知っていますし、その気になれば 実行することも出来ます。ただ、仕事の大きさを前にした 小さな自分の事を見て 「そんなことをして 何になるんだろう」と 思ってしまうだけなのです。クリキンディーの話をしてくれた キチュア人の 友だちは、話のあとにこうつけ加えたものです。「あまりに大きな問題にとりかこまれている私たちは、ともすれば 無力感に押しつぶされそうになります。でもそんな時は、このハチドリの事を思い出してくださいね。」 とさて 燃えていた あの森は どうなったのでしょう森は燃えてなくなってしまったのでしょうか。 それとも・・・・物語の続きを つくるのは あなたです。 「私にできること 地球の冷やしかた」 より 抜粋 ー○ー○ーー○ー○ーー○ー○ーー○ー○ーー○ー○ー今 カナダのモントリオールで開催されている 地球温暖化防止に向けた京都議定書の第1回締約国会議 には110カ国にもわたる国々の閣僚が参加しているそうです。その中 アメリカが 更に 拒否の姿勢を示しているとのこと。世界一 温暖化を進めている 国が この和の中に入らないことは 極めて 大きな問題だと 思います。武力による世界平和には 率先して 力を示すのに、この様な 最も重要なる 生活レベルからの 地球を守る運動には 加わらない。もちろん この運動は 経済への影響も大きいでしょう。しかし 近代文明を保護することとこの地球を守ること と どっちが大事でしょうか。私は この地球温暖化の問題は 全く大衆には知らされていない。 極めて重大な問題だと考えています。日本は 世界の国の中でも 最も 気候に恵まれた国だといえます。インドや アフリカに行くと 本当に それを痛感します。インドの 灼熱の炎天下で 気の遠くなるような労働に耐えている 人々を見ていると 感謝しなければとそう いつも思うのです。しかし この日本にいたとしても 最近の気候が おかしいのは 皆さんが感じていることだと思います。しかし とある文献によると この温暖化のヒートアップは始めは緩やかですが しばらくすると 一気に温度が高くなるそうです。そんな時、北極南極の厚い厚い氷が とけて多くの陸地が 海に沈みます。実際に この海岸線に 住んでいるのは津波の時でわかったかも知れませんが、貧困なる労働者層の人々です。こういう 弱い立場の人々が いつも命の危険にさらされ 実際に亡くなってゆくのです。なんと 悲しい話でしょうか・・・・ですから この 地球温暖化 という 大きな問題には全人類が 真剣に取り組まなければ 大変な事になると思うのです。国家という 大きな枠組みから 民衆の目線の 生活レベルからも一丸となって向かわなければ。よく映画で 宇宙から 宇宙人が攻めて来たときに大統領と庶民が協力して 地球を守る 物語があります。 これアメリカのハリウッド映画だと思いますが、地球の外の宇宙人が相手なのではなく私たちみんなが引き起こした 地球温暖化から地球を守る事が とっても大事だと思います。アメリカも 地球を守る ヒーローになりたかったら地球温暖化という 非常に切迫した問題でも世界のリーダーとして リーダーシップを発揮するべきではないでしょうか・・・まさに ハリウッド映画の様に。勇ましく イラクまで 戦いに行った様に。テロよりも 戦争よりも 多くの人々の 命が危険に さらされているのですからまずは 私たち 一人一人が ハチドリになろうとすることから 地球は守られるのでしょうね。
2005.12.08
世界中に 多くの言語がありますが、日本語のレベルは非常に高いそうです。高いという意味は、波動が高く スピリチャル的に とっても高いという意味なのですが英語の本を 日本語に邦訳したものでも 波動の高さを 比べると 日本語の方が高くなると とある方が言われています。日本語には昔から 言霊 という力が込められていると信じられて来ました。 言葉自体のスピリチャル的な 力の事ですが、そんなのも 日本語くらいなものでしょう。そんな中 とってもおもしろい コラムを見つけました。ありがとう の 力 の事です。よく ありがとう と 唱えると 良いと言いますがそれを証明する様な 文章です。それと 日本語の素晴らしさ 日本人の素晴らしさが本当によく 現れていると思います。ですから それを ここに紹介させて 頂きます。=================================1. 「ありがとう」には力がある================================= 最近、「ありがとう」に力があるということを唱える人が、あちらこちらで出てきました。 水に「ありがとう」という文字を貼り付けて結晶写真を撮ると、美しい写真が取れることは、皆さんご存知ですね。、 「ありがとうおじさん」と呼ばれる指導者もいらっしゃる。 「ありがとう」を繰り返し唱えつづけると運命が好転すると説く人も多くいらっしゃる。 また、「ありがとう」を何万回も唱えて、実際に奇跡的な出来事に出会ったという体験談もインターネットのあちこちでみられます。 「ありがとう」には、確かに、不思議な力があるようです。 では、「サンキュー」 と唱え続けても、「ありがとう」と同じような奇跡的な出来事が起こるものでしょうか? 残念ながら、「サンキュー」では、「ありがとう」の不思議な力は出てきません。これは断言できます。 「サンキュー」よりも、「ありがとう」の方が、はるかに力が強いと、私は断言します。理論的に断言できます。 「ありがとう」には、確かに力がある。 では、「ありがとう」に、なぜ、どうして、そのような力があるのか、その理由、仕組み、メカニズム、 つまり理論的な説明は、皆さん、ご存知でないようです。 そこで、今回は、「ありがとう」が、どうしてそのような不思議な力をもっているのかを、理論的に説明してみましょう。 (実は、これ、本メルマガの第1号で解説しているんですが、今回は別な説明をして理解を深めていただきます。)==================================2. 「ありがとう」は潜在意識をゆり動かす================================== たとえば、「サンキュー」を百万回唱えるとします。 その時に意識はどういう状態になるか考えてみてください。 I → thank → you (私) (感謝する) (あなたに) これを百万回繰り返しても、そこにあるのは、「私」と「あなた」の二者関係だけです。 「サンキュー」百万回の世界は、目に見えるこの世に限定されるのです。 この世で、表面意識の世界で、往ったり来たりを百万回繰り返すに過ぎないのです。(これを英語のショートカット構造と名付けました。) ところが、「ありがとう」は、隠れた世界とつながります。 (宇宙法則、神)・・・・隠れた世界 アップして ↓ ↑ ダウンする (あなた)←・ ・ ・・ ( 私 )・・・見える世界 「有り難い」とは、目に見える「私」が目に見える「あなた」に感謝しているようでいて、実は、「私」の存在を根底から支え、「あなた」という存在を根底から支えている、根源の力に対する感謝が含まれているのです。 「私」 と 「あなた」 と 「根源の力(神)」 の 三者関係 が 「ありがとう」の中には秘められているのです。 私はこの構造を、ありがとうの「アップダウン構造」と名付けました。 「アップダウン構造」は、潜在意識(深層意識)に架け渡されたハシゴのようなものです・ こういう構造をしている「ありがとう」を百万回唱えてみなさい。 潜在意識、深層意識が、どれほど刺激されることか。 「ありがとう」は潜在意識をゆり動かし、深層意識を呼び起こすのです。 「ありがとう」を繰り返し唱えることによって、「アップダウン構造」を通して、潜在意識、深層意識 が表面意識に怒涛のように流れ込んでくることでしょう。 だから、奇跡が起こるのです。 潜在意識の力、というのは、いまや常識でしょ。 「ありがとう」一語を唱えつづけることによって、潜在意識の力、深層意識の力を、自分の表面の意識にもたらすことが可能なのです。 隠れた世界の力を、こちらの世界に呼び込むことを、宗教的に表現するとどうなりますか? そう、 祈り です。 「ありがとう」は、それ自体が 祈り と同じ構造になっているのです。 「ありがとう」に不思議な力があるのは、それが 祈り と同じ「アップダウン構造」をしているからです。==================================3.「ありがとう」の構造は、日本語全体の構造================================== 実は、アップダウン構造は、「ありがとう」という単語ひとつに限ったこととではありません。日本語全体がアップダウン構造をしています。 私はこのことを、日英翻訳三十数年の実務経験の中から見出しました。 詳しくは拙著『ありがとう日本アップダウン構造』(下記)をご覧下さい。 日本語全体が、アップダウン構造をしている。 ↓ ↓ ↓ 日本語全体が、祈りと同じ構造をしている。 ↓ ↓ ↓ 日本人の意識が、祈りに満たされている。(無意識のうちに) ↓ ↓ ↓ 日本人の意識が、潜在意識(深層意識)の恩恵を受けている。 西洋一神教の宗教意識から観れば、日本人はまるで無宗教のように思われます。ところが、その真実は、こんなにも深く、本源世界と結びついていたのです。 これが、日本民族の素晴らしさの根本要因であると私は観ています。 だって、アップダウン構造は宗教ではないから、宗教的対立が起こりません。それでいて、日本語を使うだけで、「宗教的」恩恵、つまり潜在意識、深層意識からの恩恵をたっぷりと受けているのですから、こんなウマイ話はありませんね。 そこで読者の皆さんにお願いです。 この「ウマイ話」をできるだけ広く知り合いの方々に教えてあげていただけませんか。 どうか、このメルマガの本号「ありがとうは潜在意識をゆり動かす」を友人知人の皆さんにメールに添付して送ってあげていただけませんか。 きっと喜ばれると思いますよ。 「ありがとう」を送ったら、必ず「ありがとう」が帰ってきますよ。。 「ありがとう」の素晴らしさ、日本語の素晴らしさ、日本民族の素晴らしさをお互いに確認し合おうではありませんか。 よろしくお願いいたします。■ 日本の不思議はアップダウン構造 ■第9号(2004/11/16) 終わり■■ 発行所:トランスペース研究所 http://www.transpace.jp/■■ 著者:昌原容成(まさはらようせい)masa@transpace.jp■■Copyright (C)2004 Transpace Institute All Rights Reserved
2005.12.02
すごいニュースを 目にしましたネパール南東部で、六ヶ月間飲まず食わずで 瞑想を続ける少年がいるそうです。その少年はラム・バハドゥール・バムジョン君と言って、釈迦の化身とまで 言われていそうです。この少年の事を、ネパール当局は 宗教団体や科学者に 正式に調査する様に 要請。ここ 数週間、ネパールやインドから 少なくとも10万人がの信者が この少年を一目見ようと 集まっているそうです。信者は50メートル離れた所から、この少年を見ることが許されており、夜は信者によって カーテンの中に隠されるそうです。 瞑想続ける「釈迦の化身」少年の謎究明へ 果たして、六ヶ月間 飲まず食わずで 生き延びる事が出来るでしょうか?人には 隠された力が 沢山眠っていて、食べ物が無くても 一種の宇宙エネルギーのようなもので 生き延びる事が出来るとは 聞いた事があります。それに、未だに中国で 生き延びている仙人も 六ヶ月飲まず食わずというのは普通の事なのかも知れません。精神レベルとか その本人の持つ波動みたいなものがすごく高い場合には、 人として必要なものも 無しで生きる事が出来るし、凡人である 私たちの方が おかしいのかも知れません。ただし 釈迦の化身 というのは どうかと思います。釈迦は 多くの人々を救う為に 学校を開いて 人材を教育しそして 大いに民衆に説法をしたんだと思います。当時からあった カースト制度の疑問を抱き生老病死の四苦からの解脱を 目的にしたのでした。結局 長い長い難行苦行だけでは 悟りは開けないとスジャータの 乳粥を口にした 話は 有名です。もしも この少年が本当に すごい聖人賢者であるならば釈迦の化身 としてではなく ラム・バハドゥール・バムジョンとして多くの人々を導いて貰いたいと 思います。実際に ネパールとは 世界の中で 最も貧しい国の一つです。その 塵世の中に 蓮華の花の如くに 綺麗に咲いた花なのかも知れません。民衆を導くには、 それだけの背景が必要です。飲まず食わずで瞑想するのは その 背景としては 十分ですが民衆が必要なのは その瞑想から 何を得て 何を皆に伝えるかでは ないでしょうか・・・・もしも これが本当であるならば すごいの一言です。そして 口を開いて 多くの言葉を語ってもらいたいと思います。聖者は 常に その志を問われます。せっかくの難行を 大きな愛へと 繋いで貰いたいと願っています。
2005.11.29
無呼吸症候群の事を書いたとたんに、多くの楽天仲間の皆様から 暖かい励ましや素晴らしい情報をお寄せ頂いて 大変に感激しています。 本当にありがとうございます。本来ならば日記に書くべきところなのですが、10月から11月の始めにかけてインド アフリカ 韓国と 駆け足で走ってきました。10月10日にインドに旅立ち、現地では体調を大きく崩し赤痢の疑いがかけられましたが ただの腹下しであったことが判明 フラフラになりまがらも 19日に帰国そして なんと 20日にはアフリカに向かって出発しました。さすがに これは こたえました。しかも この寝る時につける機械は 日本製ですから海外の 220ボルトの電気を使っている国では変電機が必要となります。 その変電機をそんな体調だった事もあって 忘れてきてしまってアフリカの途中で止まった ドバイでそれら一式を あわてて買い集めました。アフリカに行ったならば 無い可能性も 大でしたから。もう 真っ青になってました。そして 11月2日にアフリカから帰国して、11月7日には 韓国へ・・・・なぜだか分かりませんが、私が選んだフライトほ殆どが夜のフライトだったので 寝るときに付ける機械が使えず浅い眠りでした。それよりも インドとかアフリカに行くと 停電という魔物が住んでいます。今までは 停電があってもそんなに気にしませんでしたが、しかし夜中に 停電があったら、機械が自動的に止まってしまいます。気がつかない間に 呼吸障害が発生する という感じで 大変でした。 特に アフリカでは 停電は 毎日 毎晩の事 日常茶飯事の事大変に神経を使いました。まあ 何とか この危機を乗り越えて 生きて 帰国しました。正直いうと 何度か 危ない目にあったのですがなんとか 乗り切った とう感じです。なんか 今 この先月のつけが 回ってきている感じでどっと 疲れが 吹き出しています。しかし 楽天仲間の皆様の励ましに その疲れも 吹き飛びました。重ねて 御礼を申し上げます。
2005.11.24
早速 多くの方々から 励ましの言葉や 有力な情報を書き込んで頂きまして、心から感謝申し上げます。それぞれのブログにおじゃましまして、お礼の言葉をお伝えさせて頂きました。特に りょうさん ありがとうございました。心に入れておきます。この無呼吸症候群は よく自動車事故を起こす という事で 注目されてきた様です。なんか 電車の事故でも 運転手が無呼吸症候群だったそうです。その様な事故以外では 命に関わるような事は無い。となんかで読んでいたので すっかり安心していたんですね。だから 昼間に眠いと感じたりすることは 結構あったのですが放っておいたのが よくありませんでした。私が行っている医者は この無呼吸症候群の専門医の様に ネットで紹介されていました大阪には 無呼吸症候群を扱っている大きな病院があるのですが電話してみたら 初診の予約が一ヶ月先まで一杯だ と いうではありませんか。 これはだめだと思って 他をあたっていたら今の西宮にある耳鼻科なんだけど 入院もできて かなり信用できる 医者だと思ったので 思い切って電話をして予約を取りました。始めて診察を受けて レントゲンを撮ったり 超音波でいろんなところを調べてそれで 実際に検査入院をして 詳しく 脳波 心拍 呼吸 等々寝ている時の状態を詳しく調べる事になりました。入院した時に かなり多くのコードを体に付けて 一晩中 体の状態を調べるのですが この時たまたま 先生が 夜こられて 僕の状態をみて下さったんです。 そして これはひどい という事になって途中で 「これ以上寝ていては 危険」 という事で ドクターストップになってしまいました。 先生も 今までかなり多くの無呼吸症候群の人をみてきたが 君みたいな重症は 始めて という 不名誉な お墨付きまで 貰ってしまいました。とにかく 寝ている間に 一時的に 心臓が止まっている様だし その心電図をみて 先生もあわてたらしいです。起こされた僕は 起こされて眠たいから 「起きて少し休みなさい」と言われても 起こされて休みなさいは ないだろうと ボーとしていました。そんな状態だとは知らないもので 先生のあわてぶりをみて これは尋常ではないのだなとは 思ったのですが・・・なんか不思議な 感じでした。それで すぐに 寝るときに空気を送り込む機械を貸してくださりこれから毎日寝るときには この機械をつけて寝る実際には鼻にマスクの様なものをつけて 寝る事になったのです。そこで 無呼吸症候群の人や いびきのひどい人は 口呼吸のくせがついているらしい。そこでその口呼吸のくせをなくさないといけないと指導されたので、 これからは 寝るときに 口に小さなテープを貼って寝る事にしました。 しかし その上に 鼻が詰まっている時には 機械を使わないようにと言われたのですが 寝ているときに鼻がつまっているかどうか自分ではあまり意識していないので わからない事があって一度 鼻がつまって大変な思いをした事がありました。とにかく これ以上 放っておいたならば命の保証は無かった。 それに既にダメージがあるのでそれを治療しなければならない ということで今 新しい生活が始まっています。
2005.11.22
日記をだいぶさぼってしまいました。リンクを張っていただいている方々、申し訳ございませんでした。何の告知もしなかった事は、悪いことをしたと思っています。実は、体調が悪くなってしまいました。その病名は 「 無呼吸症候群 」寝ている間に 呼吸が止まってしまう病気です。つまりは 太り過ぎから起きる病気なんですが最近その症状がとても重たくなってしまって昼間も普通に仕事がするのが とっても大変な状態になってしまいました。つまり夜の間に 深い眠りにつけないんですね。もしも深い眠りについたら その侭眠りから帰る事が出来ない。その侭 永遠の眠りについてしまうんですね。私の場合 この無呼吸症候群も 「 最重症 」の状況で、これからぼちぼちお知らせしますが、検査の時に 「これ以上寝ていたら危険だから 起きなさい」と先生に起こされたくらいでした。検査入院の結果 寝ている時の 酸素摂取量というのかそれが 致死量 の様に 少ないし心電図 が止まってしまうつまり 心臓が一時的に止まってしまう一時間に 50数回 呼吸が止まって最高 40秒も呼吸が止まっている・・・・等々 様々なマイナス要素が 発覚していまいました。この無呼吸症候群の 治療は 寝るときに 空気を送り込む機械を使って寝ることそれと 痩せる事 それしか治る道は無いみたいです。先生に まず 高校時代の体重に戻る事 と言われました。しかし 私の高校時代は テニスのジュニア代表になってバリバリの現役でしたから 高校時代の体重に戻るとしたら50キロは痩せないといけない事になります。人 一人分 やせないと 治らないなんて本当に希望も無い とも思いました。機械を使って寝ていても完全に無呼吸の状態が無くなるわけではないし装着が失敗したら 最悪です。この日記を休んでいた間にも 実は インド ウガンダに行ってましたが、そんな時に 停電が日常茶飯事にあるので本当に閉口してしまいました。しかし 何れにしても 機械を使って 体調は改善に向かっていると信じます。 50キロ減量がいつの日になるのかわかりませんが 頑張ってみます。と いうわけで 日記を書いても マイナスの事になってしまうし いろいろと大変でしたので 長い 長い お休みになってしまいました。しかし ここに カミングアウトしまして細々とでも 日記を続けようと思います。ご心配をおかけしまして申し訳ございませんでした。
2005.11.21
昨日の日記に引き続き、塩の湯について書きたいと思います。今朝、朝シャワーを浴びる時に、早速 試して見ました。特に 頭に粗塩を固めてのせて それで シャワーを浴びると頭一体が、一瞬にしてなんと言って良いかわかりませんが、爽快感 晴れ渡る感じがしました。 あのトニックシャンプーを使ったような メントール系の爽快感というのではなく、頭から出ているオーラが 一気に晴れた 汚れが晴れて オーラが拡がったそしてオーラの色が 澄んで綺麗になった感じです。これは 素晴らしいと 思いました。しかし、頭は良いのですが、全身には行き渡る感じがしません。だから、頭の次に、粗塩を入れたかけ湯を 右肩からが一回それと もう一回 左肩から・・・・これで 全身に爽快感が 拡がりました。だから 頭 右 左 の三回に分けて粗塩のかけ湯を行えば すごく効果があると思います。全身のオーラが陽の気になって陰とか 悪いものが付かなくなり幸福が舞い込んで 厄が祓えます。自分が陽の気となって 陽なる幸福を引っ張る事ができます。後、大事な仕事の日とか 大事な試験、試合の日の朝に心身を引き締める為に、 気力を発揮して武運を高めるにも とっても効果があると思います。各自で 自分に合った 方法を試されては 如何でしょうか・・・・
2005.07.26
ASAYAさん のメルマガ 成功するセレブとブルジョワの幸運の風水力 に とっても感じ入る事が書いてありましたので、ご紹介させて頂きます。00000000000000000000000000●お風呂で、悪運を断ち切る方法● ツキがないなと、思ったら、お風呂で疲れを癒しましょう。 シャワーだけで、済まさないで下さい。 浴室に、粗塩の盛り塩をして下さい。浴槽に粗塩を入れて、 入浴すると、悪運を落とせます。 頭に、粗塩を一つまみのせて、シャワーをかければ、悪運落としに、効果大です。 間違っても、残り湯で、洗濯に利用しないで下さい。 悪運が、服に染み付きます。必ず、寝る前に捨てて下さいね。0000000000000000000000000これ 私も 心身を浄める時には 必ずお風呂に塩を入れていました。夏のシャワーの時も 頭に粗塩をのせてシャワーを浴びる これはとっても良いと思いました。お風呂の 最後に 2~3杯 しっかりと 粗塩を入れたお湯を かけ湯するとものすごく心身爽快になります。 体に付いた 悪い物が。 つまりお風呂に入って石鹸等々では落ちない 陰気なものを 洗い落とすには 塩の湯に入るか粗塩のかけ湯が最高です。塩の浄化力は 殺菌作用等々がありますが、しかし目に見えない世界の 悪しきものまで 綺麗にしてくれます。一家の開運にも良いそうですから 試してみたら良いと思います。私も 早速 塩のかけ湯を 再開します・・・・・試してみて下さい!!
2005.07.25
楽天仲間の ゆーみんさんの今日の日記に 祈り という 素晴らしい 心洗われる 名文が紹介されました。これを読んで 思わず 涙が流れました。さっそく これを 私自身の祈りとし この心を失わないよう 誓いました。ここに ゆーみんさんの 祈り を 紹介させて 頂きます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー美しいこの地球をお守り続け下さい。 空よりも広いもの、それが私たちの心であるならば、 その心を空に鏡として映し出して下さい。 そして私たちに気づきを下さい。 人は空を見上げてきました。今も昔もかわりません。 そして美しいと感嘆し、癒されてきました。 地球が神様のオアシスであるならば 私たち人間のオアシスでもあるのです。 今、空の上からこの地球を眺めています。 世界中のあちこちで、この地球を救おうと 祈りを続けている人たちがいます。 その人々の祈りが神様に届きますように。 そして宇宙までも届きますように。 「愚かな者たちがいるのではないか」と 思われるかも知れません。その事を思うと胸がつまり、 またとても恥ずかしく思います。 けれど、そんな大人たちはやがて世を去ります。 次の世を担う子供たちに愛を、真心のある子供を 育てるように、私はそのお手伝いをする事を誓います。 だからこの地球を、人間を見捨てないで下さい。 朝、陽が昇り、夜に星や月が出る。 それを神様からの感謝と思い手を合わせる、 そんな日が来ることを私は祈ります。 今まで何も気づかないで生きてきた私です。 悪い事もして、人を傷つけてしまった事もあります。 人に言えない恥ずかしい事もしてきましたが、 これからはこの地球を救うために生きていくと誓います。 人々が目覚めなければならない時が来た事を十分承知しています。だからそのために私は祈り続けます。 同じ思いを持つ人たちがこの世にあり続ける限り。 この美しい地球が宇宙の神様のオアシスであり続ける限り。 私は祈り続けます。 地球の神様、親神様、宇宙の神様 私のこの尊い命を地球に送って下さったことに感謝いたします。心からありがとうございます。 BY ゆーみんさん
2005.07.21
この数日間、新聞やニュースは ロンドン の文字で 埋め尽くされています。特に、今回起きたテロ行為では 多くの方々が亡くなられたし、怪我も負われました。心から 哀悼の意を現したいと 思います。まず ロンドンオリンピックの開催です。北京オリンピックの次のオリンピック。 つまりなんとも 東洋文明の核である北京の次に、西洋文明の核とも言えるロンドンでオリンピックが開催されるのは、 なんか隠された意味が すごくあるのではないかとそう思うほどに 因縁めいたものを感じます。というのも、長い人類の歴史の中で 情報の交流や 人的交流が限られてきたが故に、東洋と西洋という 大きな二つの文化の流れが生まれた。しかし これだけ情報が交わり 人も変化を遂げている中で、人類というか この地球の文明は 近々 劇的なる変化を遂げるのではないかと思うときが 最近よくあります。つまり 環境が 人を変える。 人も環境を変えるけど、 やっぱり環境が人を変えるのならば 暫くしたら今 世界の先進国の元首が 話し合いの場を持っていますが、こんな 国家の元首の意向を無視して 民衆同士の交流がとっても活発になって来て そして草の根的に どんどんと民衆の意識改革が 推し進められるのではないかと・・・・・・そして 民衆が独自に 世界平和を求め 安定した地球の環境を求めそして 何よりも 民衆同士が 調和を求めて 東洋とか西洋の 同化が始まるのではないかと・・・・・・分断や分裂を国家元首が 演出しようとも もう情報化時代は 民衆をあざむき続ける事は 不可能になって 民衆同士が 立ちあがって地球規模の調和を求めて 団結し始めるのではないかと そう思うときが 最近よくあるのです。そんな中 北京とロンドンのオリンピックの開催は東洋と西洋の 一体化 調和を大きく推し進める事になると思います。但し テロの様な 野蛮な行為が 一日も早くこの地球上から無くなる事を 本当に祈念して止みません。
2005.07.08
今日は 七夕ですね。最近 ほのぼのとする映画 チルソクの夏 という映画を観ました。まだ 韓国では日本の歌を歌ってはいけない頃の話し 1977~78ですか。下関と釜山の陸上の交流試合を通じて、日本の走り高跳びの選手と釜山の走り高跳びの選手が 恋におちる。映画の紹介には「遠い昔、メールや携帯の無かった時代。私たちは彼と、一年に一度 絶対に再会する約束をした。」その再会が チルソク つまり七夕の日なんですね。なんて ロマンチックなんでしょうか・・・・しかし 日本にも朝鮮人への偏見が、今よりもきつかった頃でもあり、家族の反対の中で チルソク つまり七夕の日の再会を遂げる話しです。話しは ほのぼのとしているし、その頃の時代背景がよく映し出されていて、とっても純粋になる 心が洗われる気がしました。しかし 私にも この頃 韓国人にさんざんな目にあって 何度も悔しい思いをしたので このチルソクの夏は その頃の熱い思い出が再現されて 別の意味で懐かしい気がします。というのは、当時の 韓国の反日感情は 私達の想像を絶するものがある。だからサッカーでもそうですが、韓国の打倒日本の意識はこれもう 執念を越える ものすごい意識になっていました。そこで 私のやっているテニスでの 年一回。熱い 熱い夏に韓国から 命を懸けて 打倒日本の悲願を達成するために国家を上げて鍛えられた 選手が派遣されていました。しかも それが 全日本ジュニア選手権。日本テニス協会主催の日本のジュニア ニッポン一を決める 日本のジュニア選手に取っては最高の檜舞台をです。 なんと この大会を選んで 韓国から 数名の選手が 毎年派遣されていたんです。ここに来る韓国の選手が これまた すごく強いんです。強いという意味は、 世界に通用するような強さではなく、どんなに暑くても どんなに相手の日本選手が強くても 絶対に負けないし、諦めない もうスッポンの如き精神力 忍耐力で もうねばりまくるんですね。コートも当時はクレーコートですから スピードテニスはなかなか通用しないんですね。それが 韓国の選手は 国家プロジェクトで 学校にも行かないでこの全日本ジュニアの為だけに 一年を通じて 厳しいトレーニングを積んで来るんです。 毎日30キロのロードワークに テニスの練習と様々なトレーニング。 それに精神力が強いから もう この暑い時期の全日本ジュニアでは もう日本の選手は みんな 根負けしてしまうんですね。それはそれは いやな 相手でした。しかも 自分が負けそうになると、ボールを 外に打ち放って 自分で取りに行くわけでもなく、 その時間を使って休んで 体制を整えてしまうんです。それを何度もやるから もう 頭に来てしまって私ではなかったですが 私の仲の良い友人が これをやられてしまってペースを崩して 勝てる試合を負けてしまったからもう 僕も 頭に来てしまって もう喧嘩寸前の状態になってしまいました。この時 両親は KCIA(韓国のCIA つまり情報部員)に 睨まれて後で 仕返しされたら困るから 大人しくしてなさいと 真剣に言われた程でした。 それらしき人が その韓国のチームにはきちんと付いているんですね。 そんなの構わない やるんだったら やってみろと開き直っていましたが・・・・それに この韓国の選手達は みんな もうニンニクの臭いぶんぶんでもう毎晩のように 栄養のある焼き肉食べて、ニンニクたっぷりでそんな事もあって スタミナ一杯でしたね。 もう このニンニクの臭いをかいだだけで 負けそうでした。という事もあって、当時の全日本ジュニアの優勝者の多くが 韓国人でした。高校野球には朝鮮高校の出場も認められないのも当然なのを 考えればテニスは 開けていたんですね。この全日本ジュニアで優勝した選手は 韓国で一生楽に食べていけるそれだけ国家が力をいれて 保障したんですね。 すごいですよね。たった一週間で 日本人を打ち負かせて 優勝したら一生 楽に食べて行ける。 オリンピックでもないのにそれだけ 日本に対する 反日感情が 強いという事だし、あれだけの執念は、国家を上げて 国の仇討ちをしているようなそんな愛国心が根底に流れているからだったんでしょうね。そんな 厳しいテニスの チルソクの夏からすれば 映画の内容はほのぼのとした 楽しいものです。 しかし 今急速に接近した日本と韓国の関係に至るまでに、 敵対の歴史があり、 反目の時代を超えそして 本当の兄弟になれるんでしょうか・・・・韓流ブームになって、日本のおばさまがヨン様に酔いしれています。又レンタルビデオ屋では 韓国のドラマや映画が占めるスペースが ものすごく大きくなって、文化的には 両国は急接近しています。やがて 世代交代が進んで 両国のいがみ合いを知らない人々が中心となって 両国の交流がどんどんと進められる時代がすぐそこに来ているのかも知れません。このチルソクの夏の時代には まだ 日本と韓国は 近くて遠い国と呼ばれていました。そんな時代の心洗われる純愛物語に 私も感動を覚えました。 映画の中でも 両国の選手が大げんかをするシーンがありますが、私も こんな風に喧嘩してたんだなと想うと すごく懐かしかったです。今 一年で二回は韓国を訪れているのですが、当時一緒に戦った全日本ジュニアの覇者達は 今どうしているのでしょうか?本当に 一生困らないだけの年金を貰える様に なったのでしょうか?多分 時代も変わって 普通のサラリーマンになったり奥さんになって 普通に生活をしている様な気がするのですが・・・・このチルソクの夏でも 長い長い時間を超えて 二人が再会するシーンで映画は終わっています。 当時 現実的には そんな甘いロマンスなんかとってもでは無いけど 生まれるはずもないのですが、 しかし長い時間を超えて 再会して 今度は楽しみながら テニスをするのも良いかも知れないと この映画を観て思いました。調度 韓国の寅さんこと 申さんが ママさんバレーの交流試合を毎年アレンジしています。 ママさんテニス大会での良いし何某らの 交流が出来たら 楽しいでしょうし又 両国の素晴らしい 心の架け橋になるでしょうね。そして 今はいがみ合っている 北と南の両朝鮮ですが、何時しか 政治体制が変わって 本当の文化交流が実現することも これも素晴らしい事だと 思います。全ての国家のいがみ合いを 越えて人と人の 心の交流が 大きく発展する事を祈念したいと思います。今晩の チルソクの夜の約束として 自分自身の未来に約束しようと思います。 チルソクの夏 とっても 良い映画でした。皆さんも 是非 ご覧になって下さい。 チルソクの夏 公式サイト
2005.07.07
私は兵庫県の福知山線ぞいに住んでいます。あの尼崎での大列車事故では、多くの尊い命が失われました。心より哀悼を捧げたいと思います。調度あの事故の日の朝、私はインドに旅立ちました。関空のテレビに事故の様子が映っていたので、これは大変な事故だとは解りましたが、インドでもこの事故は大々的に報道されており、すぐさまみんな教えてくれました。あれだけの事故は世界的に報道されていたわけです。ですから 私自身は、沢山の報道が為された日本のニュースの殆どを見ていません。しかし、これも大きなシンクロだと思いますが、あの事故の前々日に、何を想ったのか、高倉健の映画「鉄道員(ぽっぽや)」をレンタルで借りて観ていたんです。こんな事を言ったら多くの方々が反感を持たれるでしょうし、亡くなった方々の遺族もお気を悪くするかも知れません。しかし、私が海外に行ってつくづく思うのが、日本の鉄道の優秀さです。しかし、今回の事故はあくまでも会社の管理体制の欠陥であり、その許で働いている国鉄マンや 従業員。つまり鉄道の現場は まさしく世界一の優秀さを誇っています。今回の事故が、オーバーランがあったにしても、20秒遅れた分を取り戻す為にスピードを出しすぎた という事実。こんなこと海外では 絶対に考えられない事です。今回のインドでは、これもまた始めて鉄道に乗りました。日本で言えば東京、大阪の新幹線の様な重要幹線でした。しかし結局1時間遅れ。しかもその遅れに対して一切のお詫びはありませんでした。というか、車内アナウンス自体がないんです。「次は○○○」みたいな案内が全くないんです。 これ夜中なんか絶対に寝過ごしてしまう人がいると 思いました。 実は、先日、久しぶりに大阪に行くために、福知山線に乗りました。 やっぱりというべきか、一両目と二両目は人があんまり乗らないみたいですね。しかし私は、その事故現場でどうしても、亡くなった方々に手を合わせたかったので、運転手の真後ろに陣取りました。まず、運転手は痛々しいほどに、指差確認に徹していました。信号がある度に、指を指して確認 していました。 そして 驚いた事に 運転席の右上に 時刻表が張ってあります。その時刻表を こまめに これもやはり指差確認。 指で今の通過場所と時刻表の時間と時間を確認して 正しく時間に運転しているかを これも本当に 1分に2回 3回は確認している感じでした。信号の指差確認と 時刻表の指差確認。 もう10秒に一回は手を動かしている そんな感じでした。 勿論 形だけの安全運転 というのではなく。 まばたきひとつしないで注意深く運転している 心から 自分達が今置かれている立場を自覚し、慎重 かつ 神妙に 運転をしている。そんな感想でした。さて 福知山線も そろそろ尼崎に着こうか とする時に、突然 列車が 減速しました。 大きく 60 と書かれた看板が張られていました。 時速60キロの合図です。そこから暫く行ったところに 事故現場のマンションが在りました。未だに 傷跡深く、ここで100名の尊い命が失われた事を考えると本当に胸が痛くなりました。 思わず 手を合わせ 御冥福をお祈りさせて頂きました。高倉健さんの鉄道員(ぽっぽや)は、余りに仕事熱心で、絶対に仕事に穴を開けない国鉄マンで、娘が急病になった時も、奥さんが病に倒れた時も、絶対に仕事を休まず、その為に娘も亡くなり、奥様も亡くなってしまう。仕事への情熱に涙が流れる映画でした。しかし この国鉄マンのみならず、戦後の日本の経済成長は、こんな想いで仕事に打ち込んだ人々のお陰で築き上げられた事を 私は日本人として誇りに思います。そして時代が過ぎたとしても こんな国鉄マンの想いを何時までも継承して頂きたい。日本の誇りの一つが鉄道です。世界に類を見ない素晴らしい鉄道です。 そこで働く人々も、二度とこんな大事故が起きない様に 日頃の精進をお願いしたいです。ただ問題は 幹部の意識にあると 私も思います。 何れにしても 日本人の仕事に不可欠なる電車。国の安定の根底に、安全なる移動手段があるわけで、二度とそんな国民の思いを裏切るような事故が起きないように 祈って止みません。しかし 痛いほど 指差確認を繰り返す運転手を見る限り 今は大丈夫だと確信しました。 ここだけでなく、全国の運転手が この精神を失わないで安全運転に心掛けて頂きたいです。
2005.06.29
なんか 久しぶりの日記になってしまいました。 すいません。今日は夏至の日です。超古代の遺跡も今日の日に合わせて様々なる仕掛けがかけられており、とってもスピリチャルな一日なんだと思います。 大昔の人々が この日の に想いをかけ大いなる建造物。例えばエジプトのピラミッド イギリスのストーンヘッジ等々。夏至の日の影が 大いなるデザイン通りに 地上に芸術を描きます。超古代の人々の 叡智に 心より敬意を表したいと思います。日本では 夏至の今晩、夜8時から10時まで 100万人のキャンドルナイト が行われるそうです。マザーベアーさんのサイトに紹介されているので、私もこれを知ることが出来ました。こんな時も時、全くのシンクロだったのですが、調度 映画の「東京原発」を観ました。 東京に原子力発電所を造ろうという突飛な事を 都知事が言い出す。という筋書き。それと共に原子力発電所の 驚くべき隠された事実 危険性が紹介されています。 これが事実ならば 絶対に考え直さなければならない。 どんどんと原子力発電所は日本中に造られているけれど、それに隠された危険性があるとするならば、これは国民全体が事実を知ってそして エネルギーの問題を 考え直さないといけないとそう思いました。 私は、アフリカとか インドという 偶然でしょうがとっても停電が多い国に よく行きます。その停電は とっても不便に その時は感じます。それに比べて日本は 本当に恵まれた国だと 思います。停電なんか 一年を通じても 殆ど無く、 たまに雷が落ちたり、地震が来たり 台風が来たりそんな自然環境によって停電することは たまにあります。しかし停電しても すぐに 電力会社の人々が 献身的な仕事をこなして、 すぐに回復するのが 通例でしょう。そんな意識は アフリカ インドには 全く無くて、停電当たり前。 直らなくても仕方ない。全てがそんな調子で、民衆は 我慢するしか ないんです。しかし その便利だと思っていた日本の電力も その殆どが原子力発電に頼っている という事をこの映画を観て 知りました。この原子力発電が 極めて危険であり、そしてこれから一万年も消えることのない 産業廃棄物の毒 と共に 人間は生きていかなくてはならない事や その他 沢山の危険や 害が万延している事も知りました。安全なエネルギー対策は これ政治家のモラルを取り戻すと共につまり 一切の利権に媚びない政治を 現す と共に絶対に 人類全体が 真剣に取り組まなくてはならない事だと痛切に感じました。そして アフリカや インドのロウソクの生活と放射能の危険にさらされて 生きる日本の生活本当に幸せなのは どっちなんだろうと考えました。文明が発達して、電気があるのが 当たり前の生活に慣れてしまった 私達。 この安定した電力の供給には大きな犠牲が 伴っていることを 国民は絶対に知らないと いけないと思います。いつしか この原子力発電も 安全な発電に切り換えなければならない 時が来るでしょう。それにしても こんなものを 真剣に沢山造っている政治家 行政 等々 一体何を考えて居るのでしょうか。事故が起きてからでは 遅すぎること。それに 地震大国 日本の上の 原子力発電所は當に 日本を滅ぼす 凶器そのものに変わる可能性が 十分にあると 思います。今晩は そんな意味で 私もローソクをつけてエネルギー問題を 考えてみたいと思います。そんな中 100万人のキャンドルナイトの呼びかけ文を 転記しておきます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー100万人のキャンドルナイト呼びかけ文私たちは100万人のキャンドルナイトを呼びかけます。2005年の夏至の日、6月21日夜、8時から10時の2時間、みんなでいっせいに電気をけしましょう。 ロウソクのひかりで子どもに絵本を読んであげるのもいいでしょう。しずかに恋人と食事をするのもいいでしょう。ある人は省エネを、ある人は平和を、ある人は世界のいろいろな場所で生きる人びとのことを思いながら。プラグを抜くことは新たな世界の窓をひらくことです。それは人間の自由と多様性を思いおこすことであり、文明のもっと大きな可能性を発見するプロセスであると私たちは考えます。一人ひとりがそれぞれの考えを胸に、ただ2時間、電気を消すことで、ゆるやかにつながって「くらやみのウェーブ」を地球上にひろげていきませんか。2005年、6月21日、夏至の日。よる8時から10時。でんきを消して、スローな夜を。100万人のキャンドルナイト。
2005.06.21
アフリカからの帰りのトランジットで、アラブによったので、前回同様に、虹香さんとお目にかかることができました。特に、虹香さんもアフリカ救済のために 大変なる援助を頂き、ただただ感謝感謝です。虹香さんは 癒しのお仕事をされているので、愛のチップを貯めて、それを全部アフリカ救済のために使って下さりました。その心が本当にうれしいです。もちろん 皆さんの愛に 沢山の 沢山の愛が込められているのが ようくわかります。しかも その愛のチップを貯めて、私にも驚くようなプレゼントをして下さりました。それは 虹香さんが働いているスパの利用券と 60分のオイルマッサージでした。虹香さんは シンブさんは、一生懸命にアフリカ救済のためにがんばっているから神様も贈り物を下さるんです。 それを代わりに私からプレゼントします。という 感動 感激の手紙も添えて下さりました。本当に 涙が出るほどに 嬉しかったです。本当は、貧しいアフリカの救済に行っているのですから、時間もお金も 自分のために使うべきでは無いと 常々自分に言い聞かせて 行動しているのですが、さすがに この虹香さんの申し出を断るわけには 行きません。 短い時間でしたが、とっても疲れが癒される時間を過ごすことができました。アラブのスパは 男性には男性 女性には女性が施術することになっているので、フィリピンのヒーラーがアフリカの疲れを 十二分に癒してくれました。これも 愛のチップを貯めて 下さったもので、 本当に汗水たらして貯めてくださった真心こもったプレゼントです。 魂に響きました。お釈迦様の伝説に 貧者の一灯という話があります。昔 お釈迦様の時代に、お釈迦様に帰依した人々が 灯火を奉納する慣わしがありました。その折に 王様は お金に物を言わせて 大きな 大きな灯明を奉納しました。そして 他の人々も それなりの灯明を奉納していました。その時 とっても貧しいおばあさんが やってきました。そのおばあさんは とっても貧しかったので 灯明を奉納することができません。しかし そのおばあさんの 信仰心はきわめて深かったのです。困ったおばあさんは 一心に自分の髪の毛を切り落として、その髪の毛を売ってやっとの思いで 小さな 小さな灯明を奉納することができました。それは それは そのおばあさんの喜びは深かったのです。そして 奉納されたすべての灯明がともされて、お釈迦様が説法を始めます。その時 突然に 強い 強い風がその場を吹き荒れました。そして ほとんどの灯明は その風によって吹き消されてしまったのです。しかし たった一つだけ 消えないで残った灯明がありました。それが その 自分の髪の毛を切り落としてでも 信仰心を表したおばあさんの灯明だったのです。真心のこもらない 沢山の奉納よりも真心のこもった 真実の奉納が 何よりも強く 消えることはないという 説話です。 貧者の一灯 というお話です。これ決して虹香さんが 貧者だ というのではなく、沢山の真心がこもっていたということです。虹香さんの贈り物は 一回一回の仕事の中で 一生懸命に汗水たらした中やっといただけたチップを 貯めてくださったものです。アフリカにそのプレゼントが渡ったことで アフリカの人々もそんな心を感じる事ができるでしょう。 そした私にも もったいなくも こんなプレゼントを頂き 虹香さんの 真心に 本当に感激しました。 虹香さん ありがとうございました。これ 虹香さんのみになく、今回 多くの方々のアフリカに向けた愛は すべて本当に 真心のこもった 愛でした。 本当に貧しい人々を 何とか救いたいそんな 必死な思いが 私には ひしひしと伝わってきました。 この輪は 小さな輪かも知れない。 しかし この輪を これからも大きく 大きく育てて行こう 本当にそう思いました。中には 必死になって貯めた 2000円を送らせていただきますとメッセージを寄せてくださった方もおられます。その責任を 重たく 感じさせていただきました。この集まった愛は こんな真心の沢山 沢山こもった 大きな大きな愛その想いを アフリカに伝えることが 本当に大事なんだと 痛感しました。本当に 皆様のその心に アフリカの弱者に代わって 感謝を申し上げます。虹香さんだけではなく 大きな愛の和が 今回できました。これを 形にこだわらずに さらに育てることができたらどれだけ 素晴らしいかと 思います。虹香さん お忙しい中 時間を作ってくださって 本当にありがとうございました。また お目にかかれることを 楽しみにしております。
2005.06.05
昨日夜に無事にアフリカから帰国しました。 帰りにはトランジットで、アラブによって虹香さんと 有意義な時間を過ごす事が出来ました。 その様子は又改めて報告します。今回 思いがけない ジョセフ君の悲報に接して、始めの方は 本当に重たい旅となってしまいました。 ジョセフ君に会って 皆さんの元気を与えて、 奇蹟を起こすことが出来れば どれだけ素晴らしい事だろうか と 秘かなる期待もあったが故に、 本当に残念で 残念でなりませんでした。本当に 夜も寝れない程 に様々な事が 頭に浮かんで来ました。何よりも 多くの方々から 大きな愛を届ける事が 大きな仕事だったが故に、それを成就出来なかった不甲斐なさを 思う時に 悔しくてなりませんでした。まず ジョセフ君の最期の事を お話ししますと。最期の方は、薬も効かない程に衰弱していたそうです。 一週間ほど 何にも話せない状態が続きました。 そして 薬も単にお金が無いから使えないのではなく、衰弱が激しいが故に きつい薬も使えなかったらしいです。それに、これは驚いたのですが、 彼の両親はエイズで亡くなったそうで、その遺伝を彼も受けていて、HIV 陽性だったそうです。 これは私も知りませんでした。それが故に最後の治療も、施薬も本当に狭い選択肢しか 無かったようです。その診断書も見せて貰いました。 生きながらにして親の重たい病を背負い、命を日々削りながら生きなければならなかったジョセフ君は、本当に可哀想だと思いました。しかし、現実にはジョセフ君の様な子供も、アフリカには沢山、沢山いる事を思うと、本当に心が痛みます。 ジョセフ君のお墓は、その地域の人の共同墓地の様なところに埋葬されていました。私達はジョセフ君の遺影をフレームに入れて、持って行きました。それをお墓の上において、その上で簡単な葬儀を営ませて頂きました。私達のやり方ですが、それでも地元の多くの方々が参列して下さって、一緒にジョセフ君へ哀悼の意を表しました。 私は、ジョセフ君へのレクエイム(鎮魂歌) を 心を込めて朗読させて頂き、御霊に触れる事が出来ました。(前回の日記に その全文を掲載しています)ジョセフ君は、最後 ボランティアの叔父さんが ずっと付きっきりで看病をしてくれたそうです。その叔父さんは ジョセフ君とは何の関係も無い叔父さんなのですが、私の友人の依頼を 快く受け入れてくれたそうです。その叔父さんも お葬式ではジョセフ君の事を思い出したのか、大きな涙を流していました。その涙が ジョセフ君の最期がどれだけ 壮絶だったのかを なんとなく感じてしまいました。 私の日記で ジョセフ君の事を紹介して以来、多くの方々の応援を頂き、彼の寿命も延ばすことが出来たのだと思います。今回彼の生命力が許すならば、皆様の愛の結晶をフルに活かして、出来る限りの支援をしようと思っていましたが、それも出来ずに本当に残念です。しかし その分で 多くの方々の命を助ける支援をする事が出来ました。その事は又明日にでも報告させて 頂きます。とにかく 多くの方々の書き込みやトラックバックもありがとうございました。ジョセフ君は 天国で 本当に喜んでいると思います。彼に代わり 心より御礼を申し上げます。ジョセフ君は 天国で これからも 多くの子供達の幸せの為に天使となって 頑張ってくれる事を 私は 信じています。
2005.06.04
天国へ旅立った ジョセフ・キンボア君へ辛かっただろう? 苦しかっただろう?本当に 君は 頑張ったね。最後の最後まで 命の火を絶やさず病気と孤独と貧困に闘い続けたねだけど 神様が もう良いよって...ジョセフ君は すごく頑張ったからもう 私の所に来て良いよって君を懐に 招いてくれたんだね。天国で お父さんやお母さんと 会えたかい?君が 孤独と闘って 探し求めた 優しいお父さんとお母さんに 会えたかい?一人で眠る夜に 君は何を想っていたんだろう?厳しいアフリカの自然の中で たった一人で君は生活を営み そして ひもじさと 常に一緒だったね。一日に一切れに芋やトウモロコシ そして 3時間歩いて取ってきた 茶色の水を 大事に大事に 飲み そしてそれを使って生きて来たんだね。 お風呂にも入らず水を節約する事しか出来なかった...君は 学校に行こうと思って 勇気を出して 学校の門を叩いたけれどもそれでもお金がかかる事を知って 泣きながら学校を立ち去ったんだよね。そんな子供が 一人もいない 世界を創らないといけないね。君は 遠い遠い道程を 頑張って病院に行った。その時に先生は お金が無いから助けられないと 君の命を断ったんだよね。 悔しいね。辛いよね。君と同じように 病院から帰らなければならない子供が 一人もいないそんな世界を創らないといけないね。そして君は たった一人で あの小屋で生きてきた。近所の人の援助を受けながら。一人で寂しかっただろう?一人で悲しかっただろう?孤独なのが 貧困や病気よりも もっともっと 一番辛いことだったんじゃない?そんな子供が 一人もいない そんな世界を創らないといけないね。ジョセフ君は 多くの事を 私達に教えてくれました。ありがとう。この世界に 君の様な孤独や貧困と闘っている 子供が沢山いること。恵まれた世界に住んでいる 私達は 本当に水や食べ物や家族に感謝しなければならないこと。それは当たり前の事ではなく、感謝の中で頂き、そして家族がいる事は 本当にありがたい事を 教えてくれました。そして なんといっても そんな恵まれない人々に 愛を送ることを教えてくれました。ありがとうね。君の死を 私達は忘れない君の死を 私達は決して無駄にはしないから辛く 苦しく 悲しい人生を終えた今 神様の懐に抱かれてそして神様が会わせてくれたと思うけど懐かしい 懐かしい お父さん お母さんと一緒に憩いの時間を送って下さい。ジョセフ君 本当に よく頑張って生きたね。辛いこと 苦しいことに 本当によく我慢して 生きてきたね。みんなが 君に 拍手喝采だよ...ジョセフ・キンボア君これから 君は聖ジョセフとなって天に昇り アフリカの大いなる大地に根付き風となって山野を駆け君と同じ様な 貧しい子供達を 守り給え君と同じ様に 孤独に苦しむ子供達に 愛を囁きその心を癒し給え君と同じ様な 飢えに苦しむ子供達 に 少しの食べ物と綺麗で清らかなる 水を与え給え君は 学校に行けなかったけれども 知恵の神となって多くの子供に 正しい生きる道を示し給え全てのアフリカの子供達の 守護神となりいや 全世界の子供達の 守護神となって聖なる子供の楽園を 創造し給え平和で 清らかなる 人々の楽園を創造し給えジョセフ・キンボア君の 死を悼み君に 心からなる レクイエムを送るアフリカの地に眠る 君の墓標にこれを刻み永へに 君の生と 死を 止めおく私達の 記憶の中に 君の生と 死を刻み新しい世界の創造への 誓いを捧げん
2005.05.25
皆様の祈りのお陰で、何度も危篤を乗り切ったジョセフ・キンボア君ですが、5月18日に永眠されました。謹んでお知らせいたします。享年8才でした。 今回、ジョセフ君を助ける為に、多くの方々の愛と共にアフリカに入りましたが、もはや普通の薬も効かず、きつい薬も体力が弱って使えないまでに衰退していたそうで普通の状態を維持していたにも関わらず、容態が急変して、ついに帰らぬ人となってしまいました。ほんのもう少しで会えるところだったのに、私としても残念でなりませんでした。多くの方々の愛に、結果を出すことが出来ずに、申し訳なく思っております。ただ、衰弱は大変なもので、最早ここまで生きた事も奇蹟だと現地の人間は言っておりました。何度も危険な状態を回復したのは、間違いなく皆様の愛と祈りのお陰だと信じます。ジョセフ君に代わって御礼を申し上げます。私も、アフリカに入り、まずはジョセフ君の状態を確認し、そして皆様からの愛を形にするべく動いていました。実際に彼の住んでいるところはかなりの田舎で、行くのも時間が掛かる上に、その前にどうしても行かなくてはならない所があったので、彼に会うことが出来ませんでした。ただ、もっと早い時期に(体力がある時に)対応していなければならなかったらしく、それに対応出来なかった事が、本当に悔やまれます。 私が、初めてジョセフ君に会ったのは、昨年の秋でした。本当に衝撃的な出会いでした。この地球にこんな世界があるのか と 彼は多くの事を教えてくれました。それを楽天日記で紹介し また多くの方が 衝撃を受けたことは又事実だと思います。彼は始め、もはやこの世は地獄そのものだ という様な 絶望を悲壮を全て背負っているような そんな 悲しい顔をしていました。普段からそんな顔をしていました。私が笑顔で微笑みかけても 始めはぴくりとも表情を変えませんでした。しかし 話を聞けば、2~3才の時に両親に先立たれ、それからというもの、たった一人で生きて来た。近所の人の援助を受けながらも 日本の様に親戚が引き取る事も無く、又、行政の施設に入るわけでもなく、不便な、水も無いところにたった一人、三畳半ほどのバナナの葉っぱで作った小屋で、彼はずっと生きて来たんです。私が衝撃だったのは、彼の一日の食事でした。たった芋一切れが 彼の一日の食事でした。そして小屋の横には その芋を煮る為の 小さな台所がありました。ずっと一人でそんなことをして来たのです。 もう私は 生きた心地がしませんでした。その時に この地球に、絶対に何とかしなければならない、ジョセフ君の様な子供が ひとりぼっちで生きていく そんな世界を絶対にどうにかしなければ ならない。そう心に誓ったのです。そして、ジョセフ君の事を日記で紹介したのでした。多くの方々から共感を頂きました。ジョセフ君は 多くのメッセージを 多くの方々に伝えたと思います。孤独と闘いながらも 誰も彼を引き取れない現実そして彼は 小学校に通う年になり、近所の友人達が 学校に通い始めたのを見て自らの手足で勇気を出して 小学校の門を叩きます。その時に、多少なりとも教科書代、ノート代が必要な事を知ります。その時にジョセフ君は 自分ではそのお金は出せない事を悟り、泣きながら学校を立ち去ったそうです。多分数百円の事だと思います。しかし、それさえ彼は 近所の人の援助を要請することは出来なかった。普段 食事を分けて頂いているだけでも大変な事を知っていたのです。それは彼にとって本当に勇気のいる行動だったでしょう。しかしその壁を越えられなかった絶望感は とっても大きなものだったと思います。本当に可哀想でなりません。又、今回の病気と闘うにしても、私の現地の友人も頑張って、彼を遠い遠い病院に連れて行きます。そこで応急処置はしたそうですが、入院が出来るお金をもっていないが為にジョセフ君は それだけで病院から帰らなければならなかったのです。そんな状態から少しでも脱する為に 私もアフリカに向かったのですが 間に合いませんでした。本当に残念です。最早病院から追い出された時に、命を落とすことは決定的だったのかも知れません。そうやってお金が無い人が 病院から追い返されて、そして死んで行く。こんな現実を本当にどうにかしなければなりません。ただ ジョセフ君には 皆様の愛が やがて届く事は 友人がしっかりと本人に伝えたそうです。その事に対してジョセフ君は 苦しい状態にも関わらず、嬉しそうな表情をして、「皆さん、ありがとう」と ゆっくり 心を込めて告げたそうです。それを聞いて 皆さんの愛は ジョセフ君に伝わった。大きな愛の架け橋が 日本とアフリカに掛かった事を知り 本当に嬉しく思いました。皆さん 本当にありがとう御座いました。心より御礼を申し上げます。5月24日 ジョセフ君の眠る地に行き 簡単ながらも お葬式をさせて頂きます。そして 彼のお墓を作ってあげようと思っています。又 その点 又皆様の愛の結果は 他の多くの苦しむ人々に伝えさせて頂きますのでその結果も御報告させて頂きます。
2005.05.24
今日からアフリカに旅立ちます。インドのレポートを書く間もなく、あわただしく旅立たなければならない事 お許し下さい。そして 多くの方々からジョセフ君にあてた 多くの激励を頂きました。 遠く離れた国ですが、こうやって祈りを捧げて貰えるジョセフ君は本当に幸せです。 何とか完全治癒の道が無いのか 模索したいと思います。そして、皆様からお寄せ頂いた 尊い真心を 十二分に活かして来たいと思います。多くの真心に対して 心より感謝を申し上げます。これらは、皆様の愛を送り届ける事であり、私も精一杯の真心を届けさせて頂きます。つきましては お一人お一人と繋がる形を望んでおります。心と感謝が良い形になればと思っていますし、それを帰国後に御報告させて頂きますので よろしくお願い申し上げます。そして出来ましたならば、今回 心を寄せて下さった方々に 現地からの写真や、御礼の声等々を届けさせて頂きたく思いますので、名前と住所等を メッセージに記して頂けると幸いです。 他の大きな組織ではありませんが、効果の上がる援助を現地に留めて来たいと思っています。よろしくお願いします。ジョセフ君のその後の報告は 現地からまだ入っていませんが、少しずつ 良くなっているんだと思います。又詳細がわかりましたならば 御報告させて頂きます。帰国は 6月2日くらいになると思いますが よろしくお願いします。皆様の 大きな愛を 送り届けさせて 頂きます。
2005.05.15
昨日、インドより帰国しました。長い間留守しましたが、その間ジョセフ君の危篤の知らせを、インドで受けて 慌てて皆様の応援をお願いしましたところ、多くの方々より、心を 祈りを捧げて頂き、又 この状態をいろんな形で彼の事を紹介して頂きました事、心より感謝を申し上げます。ジョセフ君は 非常に深刻な状態からは 脱したそうですが、未だに予断を許さない状態である との報告を受けております。今ジョセフ君の住んでいるところは 雨期に入っているそうで、あのバナナの葉で出来た家は、雨期には住むに非常に苦しいそうです。雨と湿気と暑さで、体力も落ちているんだと思います。私の友人が、ジョセフ君を60キロ離れた病院に連れて行ったそうです。勿論近くには病院が無い為で、それも車に揺られてですので、命を落とす覚悟で移動したんだと思います。 勿論 その病院では応急処置はしてくれた様ですが、お金が無いために入院はさせてくれなかったそうです。 そして又60キロの道中を帰ってきたそうです。この現実・・・・ 日本ならば考えられない事ですが、しかしお金が無くとも、思い切って移動しただけでも 大変な事なのかも知れません。 殆どの病人は、60キロの道中を移動する術もなく 命を落としているんだと思うと、本当に複雑です。ここでお金の無い 子供を引き受けてしまえば、他のお金の無い子供達も 引き受けなければならなくなる という事でしょうか・・・・ なんとも無情な事です。むごすぎます。今回、多くの方々より アフリカ救済の為に 心を入れて頂きました。そこで 現時点 集まっているものを 来たる15日に持って行きます。そして きちっと 皆様の心を 伝えてさせて頂こうと思います。そんな中 ジョセフ君の 病気治癒にも しっかりと心を入れて来たいと思います。とにかく 気管支系の病気だそうです。 栄養失調の中、汚い水を飲んでいる中、本当に厳しい病気の治癒は、奇蹟 中の奇蹟なのかも知れません。しかし奇蹟は実際に起きますから 信じれば 実現しない事はないのです。再び ジョセフ君が この大きな試練を乗り越えて、夢溢れる立派な大人に成長するように 皆様の祈りを よろしくお願いします。インドは、とっても熱く 大変でした。しかし 約6000人の カースト制度の 最下層奴隷階層 不可触民の階層の人々と会って来ました。特に 小学校を回って 祈りを捧げそれに ささやかなるプレゼントをして来ました。韓国のレポートも書いていない間に インドに行ってしまいそれから 又 すぐにアフリカに再び向かわなくてはならない事は大変かも 知れませんが、後でじっくりとお伝えするべきことをお伝えさせて頂く事とし しかし今は ただ ジョセフ君の健康を願わずにはいられません。
2005.05.12
今、私はインドに来ています。 インドの次にはアフリカに向かうので、アフリカと何度か連絡を取っている中で、驚くべき事が入って来ました。あのジョセフ・キンボア君が瀕死の重体で危篤状態にあるそうです。 しかし、それでも医者にかかるお金も無い中で、あのバナナの葉で出来た小屋で一人で病気と闘っているそうです。 気管支系の重たい病気を持っているので、前回アフリカに行ったのは2月でしたが、5月まで命がある保証は無いと、現地の人間は言ってました。その時は、ジョセフ君はとっても元気だったので信じられなかったのですが、それが現実になるとは思っていませんでした。 とにかく、5月中旬にはアフリカに行くから、絶対にその時まで生きているように、万全のサポートをする事。そしてその為にも、祈りを精一杯捧げる事を現地の者にも言っておきました。 余りに悲しすぎる現実に、呆然としています。 小さい時に両親を亡くして、たったひとりぼっちで精一杯生きて来て、これから人間として色々な幸せを手に掴まなくてはならないのに、無情にも小さな命を失わなければならないのでしょうか。 それはアフリカで、あんな泥水を日頃から飲み、そして毎日の食事も芋一切れでは、病気を持っている身には辛すぎるほど厳しい環境です。治る病気も治りません。前回行った時に、こうならないように、もっとサポートをしておくべきだったと後悔してなりません。 どうかジョセフ君が生き延びますように。この病から解放されますように。 祈りを捧げて頂きたいと思います。心より よろしくお願いします。 この日記は、インドでは更新出来ないので、友人に頼んで更新して 頂きました。又、インドの報告も帰国したら、させて頂きます。
2005.04.30
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