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酒を呑みながら何時間かかけてビジネス書を1冊読んだ。読みやすいものだと200ページちょっとの本で1時間半、歯ごたえがある中身だと2時間くらいあれば、という感じである。途中付箋とかメモとかとりつつ、つまみを取り替え、その皿を洗い、酒をつぎ足し…なんてことをやっている。これは紙の本ならではの良さだと思う。電子書籍に付箋を貼るのはデータ的にはできるが、立体で可視化できない。また目は画面からのUVで痛むし、外部からのメールや連絡などが入ってくれば集中力が途切れる。付箋に本のツッコミを書いて貼ったりするが、これも紙だからこそできる。さて、昨日は『ザ・ビジョン』(ケン・ブランチャード/ダイヤモンド社)という本を読んだ。とあるクライアントとの話題に上り、久しぶりに本を買って読んだ。小説風で面白かったのだが、いいなと思ったのは、ビジネスハウツー本でありながら、物語性があり、かつ仕事以外に応用できるなということだった。自分の身の回りの卑近なことに置き換えて、あれやこれやと考える。これは脳を刺激してくれる。酒と相まって、脳がいろいろ動くので脳内分泌がさかんになる。あぁ、これは良質のドラッグだ(笑)その本のP138に「価値観」について説明している部分があって、こんなことが書いてあった。「(略)人間はいろいろなものにこだわりを持っているからね。でも、そのなかで一番大切なものは何?リスクを冒してでも手に入れたいと思うものは?それこそが君の核となる価値観だ。それをおさえれば人生におけるさまざまな選択を、意識的に行っていける」すぐに大きめの付箋に思ったことを書いた。「無防備でいられる場所や人。いま死んでもあきらめのつく居場所」リスクを冒してでも手に入れたいものが「死に場所」だなんて矛盾しているのかもしれないが、死を思うからこそ今がある=メメント・モリが自分の根幹なんだなと思った。満足できる「死に場所探し」をして私は生きている。そして「無防備」という言葉が出てきた理由を考えるために、人生を回顧してみたのだが、無防備でいられることがこれまであんまりなかったが故なのかな、と。私はこれを欲しがっているんだなと思った。客観的に見れば、自分はかわいそうな奴だなぁとも思ったが、長い間そうして生きてきて、麻痺してよくわからなくなってしまった。無意識から、自分の求めているものが出てきて、それを言語化したものをみて、少し悲しくなった。<お酒メモ>10月5日水曜日蒼空 雄町 生 500ml
2022年10月06日
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ウェザーニューズもその昔、過労自殺騒動があったし、今回の電通もそうだが、保有株が「ブラック企業」扱いされることが多い私(^^;ワーカホリックで、バリバリ仕事をこなして成果も出す友人に「俺も雅も、たたき上げでやってきた人間は、体質がもともとブラックだから発言に気をつけなよ~」と言われ、ああ、確かにそうかもなと思ってしまった。でも、自分の仕事で「てっぺん」を目指すんだったら、普通の人よりも何倍も努力と工夫が必要。これも真実である。そんな風に考えている私が、改めて電通「鬼十則」を読んで見た。【鬼十則】1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。 2. 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。 3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。 4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。 5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。 6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。 7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。 8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。 9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。 10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。 出典:『電通「鬼十則」』(植田正也・PHP研究所 2001=2006)1~3、9については「確かにそうだ」とすこぶる同意。でも、サービスの意味やサービスをする対象を間違えるとトラブルの元になることもある。誰かにとってのサービスが、違う誰かにとっては「嫌がらせ」になることもある。だから優先順位をつけて、サービスすることが必要になってくる。4については、仕事の経験が蓄積されてくると、次第に困難な課題に突き当たるから、結果「難しい仕事」に挑戦することになるわけで。別に狙わなくても自然に訪れるものだと思う。5は最近、巷でいわれているグリット(物事をやり抜く精神力)に通じることではないだろうか。これも当たり前のことだよなと感じる。6も「そりゃそうだ」という話。8は結果論を言っているんだなと感じるのみ。でも7については、個人的にはちょっと理解ができない。自分の場合「ひらめき」というか、アイデアや目標が突然降ってくるパターンが多いので、長期計画を立ててもその通りに行かない。むしろ鬼十則の5のように、やると決めたことをきちんとやろうと思えば、忍耐や工夫、努力と希望みたいなものは必然的についてくるものなのだと思う。最後の10の「摩擦」は、人それぞれ解釈があるだろうけれど、「萎縮するな」という意味だと捉えている。周囲の空気を読みすぎて、自分がやりたいことをやらないことは損だよ、ということを説いている気がする。決して蛮勇や無謀さのススメというわけではない。こうして考えると、鬼十則っていい言葉だなぁと思うのだが、最近の世論からするとこれは不規則発言なんだろうな・・・。
2016年11月02日
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たまたま復刻版の『キン肉マン』を読んだのだが、久しぶりに見るととても面白い。初期の『3年奇面組!』や『ドラえもん』、そして手塚作品に見られるような(今から見れば)唐突なコマ運びや、何にも配慮しない、ちょっと差別が入ったニュアンスのギャグがてんこ盛りで、非常にシュールな感じがする。『美味しんぼ』の「福島の真実編」で放射能の表現について先日物議を醸したばかりだが、昔のものと比較すると、美味しんぼの表現は、風評被害だ!と怒る側の人とか、まだ「何か」を気遣って描いている気がする。だから今の漫画は大人しいと思う(ちなみに、私は『美味しんぼ』を読んだけれど、放射能の表現に関して、あれは偏見満載だし、現実に存在している人に語らせたりして、ちょっとずるいやり方だと思っている)。それにしても『キン肉マン』を読んで、もともとこういうぶっ飛んだところがあるから漫画なんだよな、リアリティありすぎの漫画ばかりになっても、それはそれで世の中の窮屈さを漫画に持ってきているだけで、カタルシスがないよね、などいう感想を持った。ラーメンマン、キン骨マン、ロビンマスクなど、いわゆるキン消しになった主力超人が、読者の発想で誕生し、その読者の名前が堂々と漫画に掲載されているのも新しいと思った。現代だったら個人情報がどうの、著作権は読者にあるから謝礼をよこせだの、うるさいことがたくさん出てくると思う。そういうことを考えずにおおらかにフィクションを作っているからこそ、面白さやスケールのでかさが生まれたのだとも感じた。思えばそういう「きわどい漫画」が昔は多かった。あるときからあんまり漫画を読まないし、今定期購読している漫画がほとんどないのは、「小さくまとまりすぎている」「過去のヒット作品の焼き直し的なストーリー」が目に付きすぎるからかもしれない。
2014年05月30日
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村上春樹の『1Q84』を週末に読了した。正直言うと村上春樹は苦手なので学生時代人から借りて以来ほとんど読んでいないし、興味もないのだけれど、取引先との会話でどうしても必要なものだから、生まれて初めて買って読んでみた。「いつもの春樹ワールドっぽくない」ということで、ファンの間からは毀誉褒貶出ているようだ。個人的には「どうして登場人物を紹介するのに、まず詳細な服装の説明からはじまって、次に食べ物を食べさせたり、料理を作らせるのだろう」「セックスの描写ばかりで飽きる。中途半端な描き方するくらいなら、渡辺淳一さんに任せなさい」「描写にクラシックがよく出てくるので、クラシック好きはたまらないだろうなぁ」ということをまず第一に感じた。これは表面的なことなのだが、作品の内容に対しての感想といえば、「村上春樹と言う国民が狂奏曲を奏でるような人気を誇る作家の作品ですら、現実を超えられなくなったんだな」ということだった。『1Q84』というお話の下敷きには、村上春樹がオウムを取材し、それに対する視点が練りこまれている。小説『アンダーグラウンド』やオウム信者インタビュー集『約束された場所で―underground 2』でも村上春樹はオウムを題材にしているけれども、本書はオウムに惹かれる人の持つ「空気感」を表現しようとして、「さきがけ」という教団を登場させている。また、エホバの証人のメタファである「証人会」という宗教組織も登場させている。ただ、ここの掘り下げ方が浅くて、少し残念だった。オウム、エホバというモチーフが抱えているものを表面的にさらっただけで、そこの信者の心の動きとか、なぜそういうものに惹かれるのかとか、これら宗教に帰依した人は普通の人に見えない何を見ているのだろうか。その感情の「ゆれ」が、あまり描けていないような気がした。それは自分がそれらの宗教に携わる人たちと会ってきている経験があるからなのかもしれない。小学生では私の周りにはエホバの信者を親に持つ友人がいて、体育でケガをして出血したとき、交通事故に遭ったときにはものすごく大変だった。中学時代はオウムの修行道場が近くにできた。ある日、通学路に昨日まではなかった、教祖の写真を入れたステッカーが家の近くから学校まで、等間隔で貼られていた。まるで私の居所を知っているかのように。なんだか気味が悪かった。高校に入ると、今度は名古屋の友人がオウムに入ったと信仰告白をし、やがて出家してしまった。それをやめようと何度も手紙を出したのだが、だんだんその手紙をやりとりする間隔が短くなり、書かれた文字がペンから鉛筆に変わり、封筒がはがきになった。友人宛に投函してから2日後に消印のない返信が届き、私の住んでいる家の近所にある道場に行って、話をして欲しいと書かれていた。そこで私が話をした人は、地下鉄サリン事件の後、逮捕され、ワイドショーに何度も名前と、経歴が出てきた。大学時代は、出家信者になった息子の脱会を手伝ってくれと、カナリアの会に所属する女性に懇願され、面識もないのに、一晩説得したことがある。私がかかわったそういう信者さんのことを考えると、なんだかずいぶん村上春樹の本は、その宗教たちがただのモチーフでしかない本の中に出てくるような信仰に触れた人たち、あるいは虐待を受けた人たちが読んだら、哀しい気持ちになるんじゃないかな、と思った。読み終わるともう夜も深くなっていた。私は十五夜だということを思い出して、窓を開けてベランダに出た。数時間前に台風が通り過ぎたせいで、雲はほとんどなく、目の前に白くて大きな月が、いた。月は1つだった。しばらくみていたけれど、1つのままで、少し安心した。
2012年10月02日
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ジョージ・オーウェルの『1984』を読み終えて、今度は村上春樹の『1Q84』を読んでいる。それはともかく、オーウェルのは大学時代に読んだ印象とだいぶ異なる感じ。オーウェルの描く世界の未来は人々は「二重思考」を身につけ、党が目の前に指を4本突き出して「いくつだ?」と聞いても、「5つ」が正解ならば、自分の意識では5つにも「本気で見える」。管理された民の、思考の行き着く姿を描いている。これは著者目線だと「よくないことだ」「おそろしいことだ」「自我が洗脳され、権力にのっとられた」ということを示しているのだと思う。ただ、この話を読んでいて般若心経の一説を思い出した。「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖(しんむけいげ むけいげいこ むうくふ)」という部分なのだが、この意味をざっくり要約すると「心にこだわりやつまづきのない状態となれば、こだわりがないのだから恐怖も起こらなくなる」といったところだろうか。こだわりがなければうがったものの見方や邪推・妄想に囚われず、平穏でいられるというわけである。ひょっとしたら「悟り」も『1984』の拷問で得られる思考のいきつく先は同じ状態なんじゃないか?この本にはそう読めるのである。自我にとっては「権力に思考をコントロールされる」のは「たまったものじゃない=悪いこと」と感じるが、その視点で描かれた社会が『1984』なのかな?と、感じた。一方、仏教は自我を自ら放逐する=悟ることを説く。仏教の考え方は、言ってみれば自分で自我を武装解除するものである。大学時代は一方的にそういう1984的社会が悪いもの、恐ろしいものだと思ったが・・・強制的に誰かがやるか、自分でやるかの違いだけなのかも、なんて感じている自分もいる。坐禅に足しげく通うようになってから、ちょっと頭がおかしくなったのかな。ということにしておこう(笑)<お知らせ>9月29日のギネス友の会のご案内は、ご参加予定の方に昨日メールをお送りしました。届いていない方は、再送しますので、恐縮ですがその旨ご連絡いただけますと幸甚です。
2012年09月26日
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ミヒャエル・エンデの『モモ』を無性に読みたくなって、結局明け方まで貪るように読んでいた。『モモ』は、現代社会を痛烈に風刺した児童文学だ。話の内容をかいつまんでいうと、とある街にあるとき「『時間貯蓄銀行』に貯金をしないか?」と声をかける灰色の男たちが大人たちを訪ね歩く。大人たちが普段無駄に過ごしている時間を「貯蓄」し、それに対して利子を払う、というのだ。介護施設に居る母を見舞うことや、仕事中にするお客さんとの会話…そういった日常にあるありふれた時間が「非効率」だとして、それらの行為をやめて、貯蓄することが良いことだというのだ。そして、いつしか大人たちは貯金をはじめてゆく。すると大人たちはあくせくして、仕事では必要以上のことはせず、無駄なおしゃべりもなくなり、いつも忙しそうに歩くようになり、街全体がだんだん無機質になっていく。これをやめさせようと主人公でホームレスの「モモ」が灰色の男たちが所有する『時間貯蓄銀行』の金庫に蓄えられたみんなの時間を取り戻そうとする、というストーリーなのだ。私はこれを読んでいて灰色の男たち(=時間泥棒)は、現代の「効率主義」のメタファーだなぁと感じている。少し前に流行った「グーグル化」とか「カツマー」といったものもそういう側面が多少あると思うのだけれど、日常からムダだと言われるものを一つ一つ排除して残るものは何なのかな、と思う。お金を得る代わりに、何かを節約する代わりに、何か本当に大切なものを喪ってしまうこともあるんじゃないか、なんて思う。私は日常のちょっとしたコミュニケーションの時間ってとても大事だと感じている。オフィスの中で違うフロアの女性が、紅茶が好きだと行ったら、お気に入りのティーバッグをいくつか持っていって「これも美味しいよ」と話しかけることも好きだし、電車の中で子どもがこっちを見ていたら話し掛けたり、あやすことも好きだ。効率化を考えれば「仕事で関係のない人に何かをあげることはメリットがない」のかもしれないし、電車の中ではiPhoneでニュースを読んだり、PCを立ち上げて仕事をするのが最善なのかもしれない。でも、赤ちゃんをみてホッとするとか、アンバーの照明の下でお酒の入ったグラスをきらきらさせながら呑むのは、私にとってはぬくもりある、とても大切な時間なのだ。そういう時間を排除して、たくさん仕事をして、何でもかんでも早く片付けて、一体その先には何があるのだろう?遊びとかムダを排除すれば、人の心は機械のようになり、きっと余った時間でまたお金を稼ぐために必要な「次の効率化」をめざずだけだろう。そんなきりのないことを続けて、どこに行きたいのかな。他人に賞賛されることはもちろん素晴らしいし、仕事を早く片付けられるのもすごいことだ。でもそこには「自分が豊かさを感じる」という視点よりも「他人によく思われたい」という意識がまず先にあるような気がする。人生はもちろん各人の好きに生きればいい。だけれど少なくとも効率的なことを追求することで、自分の心の中に「天国」(≒安らぎとか楽しさとか、おかしみ)は得られるのかな、と思う。『モモ』は今から30年以上前に書かれた作品だが、当時の時代背景がこうだったのか、それとも未来を意識して描いたのかはわからない。でも、少なくとも現代の哀切が鋭く切り取られているお話だから、私はこの本を何度も何度も手にとってしまうのだ。
2010年02月12日
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いじめられたとき耐えてたんだよね。中学んとき、番長ってのがいて、ずーっとやられてたんだけどね。(中略)いきなりレンガでぶん殴ったことあるもん。そいつが歩いてきて、後ろから行って、ガクーンって。頭、完全に陥没して、そいでボコボコ殴っていたら、「死んじゃう、死んじゃう」ってなって。でも一番の嫌われ者なんだよ、そいつ。何てこたなかった。親よばれて、警察の相談所の奴が来て、兄貴たちが走り回ったから、許してもらったけれど。そういうのをやっちゃう。だから途中で「何だコノヤロー!」って文句言えば、それぐらいで済むんだろうけれど、俺、耐えちゃうんだよね。そんで、いきなりポンとキレるからダメなんだよ。そういうときは冷静な計算とかもはたらかないもんね。だから、「行け!」って言ってるとこがあってね。こう、自分で俺自身に「行け行け」っつって。刺されるかもしれないなんて関係ないって。 ――『余生』北野武(ロッキン・オン)北野武の独白録を、学生時代から時々読んでいる。映画の「キタノ・ブルー」に象徴されるように、彼はどこか自分の生きかたをシニカルにとらえていて、自分の行動をもどこか客観的に捉えている。「自分が何をしたいか」というより、「どうやったらそこに溶け込むことができるか」という役割みたいなものに、神経質にこだわる一面がある。バラエティで着ぐるみを着ているのも、おそらくそういう性分からなのだろう。そして、彼が自分を語るとき、この人は私と同じ仲間なんだな、という気持ちにかられる。心に抱えている「いきもの」が、臨界を越えた途端、制御できなくなるのを知っているのだな、とも思う。普段人と会う機会が多いせいか、さまざまな人を見てきた。仕事ではアグレッシブなせいか、自分が今まで生きてきた日数くらいの数の人間に、お会いしているのではないだろうか。多くは素敵な人で、付き合ってくれる人たちは、私みたいなのと異なって、人格者が多い。けれども、時には失礼な人、自分の要求ばかり押し付ける人、ひどいときには私に「お母さん」役を求める人がいる。恋愛感情や同情をその人に持ってしまったのなら別だけれど、そうでないときはとても性質が悪い。相手を傷つけたくないから、はじめはやんわりと諭す。しなだれかかられたときには、人の「情」の範囲でその人の気が楽になるようにと祈りながら、できることをする。いいように利用されているなとわかっていても、多少なら知らないふりをして、手伝ったり、だまされてみることもある。多分、そういうことをするようになったのは、親がすごく厳しくて、自分のやることはほとんど否定されて育ったからだと思っている。たけしの親もそうだったと書いてあった。環境は人の心を創る。そのせいかな、似たような幼少期を過ごした(と思われる)たけしの、時に見せる激しい衝動とか、道化の役を自らわざわざ引き受ける気持ちが、何となくわかる。でも、そういうことをやっている自分が哀しくなって、「負」を溜め込むコップから溢れるから、時に暴発してしまう。それがたけしにおけるフライデー襲撃事件だったり、バイク事故(本人は自殺かも、って言っている)だったりする。フライデー襲撃の時、たけしは愛人を守るために他人を傷つけた。行為自体については、あとから後悔したんだと思う。そういう自分の心の処理ができなくなって、愛人の元に行くといって、バイクに乗り、無意識に自死を選んだのではないだろうか。ブレーキを切ったあとがまるでなく、検視だけで判断すれば、まるで本人が突っ込みたくてやったようにみえる事故だったからだ。私はもしそれが真実だとしても、何ら驚かない。もし、自分が彼の立場だったら、多分そう考えて同じことをしたと思うのだ。<お酒メモ>ソアベ・クラシコ 1/2本チリカリテラ カベルネソーヴィニヨン グラスで1つ
2008年05月31日
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昨晩突然酒が呑みたくなって、深夜0時過ぎから本格的にワインをあけてしまった。美味くて、思わずかなり酒が進んでしまった(結局ハーフボトルくらい)。冷蔵庫をあけて適当に出したつまみとワイン。左は小豆島の生オリーブ。日本で唯一オリーブを生産していると言われているところのもので、塩蔵していない。味もフレッシュなので、毎年秋冬に発売されるときに、かなりの量を買い込むことにしている。その隣のお皿はレバーのパテ(軽井沢の腸詰屋で購入)とオランダのハードタイプのチーズ(山羊乳)。葉っぱは台所で育てているバジルをもいだ。レバーパテはディップにしたかったので、グリルで軽く焼いたピーマンとパプリカで代用した。それをいただきながら、『ロックフェラー回顧録』を読みふけっていた。御年93歳になろうかという、ロックフェラー家3代目の末っ子、D・ロックフェラーの自叙伝である。70年代にチェース・マンハッタン銀行のトップになった、かの人物である。この本はハードカバーで650ページ以上もあるため、家で毎日1章を目安に、ちょこちょこと読み進めている。他の本と並行して読んでいるので、後戻りしては読み返すこともしばしばだ。そんな楽しみ方をしているのだが、ふと、この部分に目が止まった。1988年、ロックフェラー自身が北京でトウ小平に会ったときの一文である(トウの字が機種異存文字で出ないのでカタカナで表示)。「トウ小平は自分の世界観について、噛み締めるように語った。二十一世紀は“アジアの世紀”となり、ラテンアメリカも徐々に勢力を伸ばし始めるという。またアフリカが世界の指導者になるときだとさえ考えていた。中国が当分は西洋のテクノロジーと資本に頼ることになるという観測の一方で、欧米列強国が衰退するという見解もそれとなく示した」(第18章「竹のカーテンを越えて中国へ」・338頁より)「黒い猫も白い猫も、ネズミを取る猫は良い猫だ」という「黒猫白猫」論を展開し、中国の市場開放への先鞭をつけたトウ小平。この発言はいかにも彼らしい視点だと思う。最近言われている「デカップリング論」。サブプライム問題でアメリカがコケ、先進国の経済成長が鈍化しようとも、BRICsを始めとする新興国の新しいパワーが、それを補うというかの論調である。もしその「デカップリング」が起こるのならば、20年近くも前にトウ小平はそれを予見していた(あるいはその仕組み作りをしようとしていた)ということになる。このトウ小平の発言について、当時D・ロックフェラーがどういう風に感じたのかは、言及されていないのでわからないが、非常に興味深いなと思った。『ロックフェラー回顧録』は現在全体の半分ちょっとを読み終えたところで、気になって付箋を貼った箇所は7カ所。読了時に自分がいくつ、どの部分に付箋を張るか、今からとても楽しみである。
2008年05月06日
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伝説の元特捜検事の自叙伝『反転』(幻冬舎)を今、読んでいる。著者の田中森一は、たたき上げ系の検事で、数々の名事件を担当していたのだが、齢40を過ぎて弁護士に転身。そして暴力団関係者や許永中など、闇の怪紳士との交流から、とある詐欺事件の片棒を担いだとされ、逮捕・起訴され、最終的に被告となった人物だ。経歴だけ見れば、正義を司る天使が欲に負けて堕天使に堕ちた、と捉えるのが自然だが、どうもそうは思えない。というのも、彼の述懐を読んでいると、「自身はずっと同じ主義(ルール)を貫徹して生きてきただけだ。今までそのやりかたは肯定されてきたのだから、俺は無罪だ」と考えているように見えるのである。赤い絵の具に青を少しずつ混ぜていくと、赤紫になり、次第に色濃くなって紫になり、青紫になり、最後は青になる。最初は赤の範疇に入っていた色に、異なる色を少しずつ加えると、気が付かないうちにまったく別の色の範疇として認識される。積み重ねというのは恐ろしいもので、今まで周囲から肯定されていた「基本」のやりから、少し外れて「応用」を効かせていくうちにまったく毛色の異なることをしてしまうことがある。「このやりかたはOKだったから、さらに考えを発展させてこうしよう」とやっているうちに、だんだん基本のルールを逸脱してしまう。彼は、少しずつ新しい色の絵の具を足していくうちに、「合法」「コンセンサス」「常識」といわれる社会のルールを逸脱してしまったのではないだろうか。どうも、村上ファンドの村上さんしかり、そうやって道を踏み外す人が最近多い。両者とも、業界の寵児と言われた存在である。自分の芸の才覚に溺れて、絵の具を足しすぎてしまったが故の結果なのかもしれない。己がカンバスに塗ったグラデーションが、何色になってないるのか。技巧や描くことそのものだけに血眼にならず、時には塗った色を人はどう認識しているのかを、俯瞰することが大切なのだろう。<お酒メモ>プレミアムモルツ缶、ヱビス缶、あわせて350mlくらい。
2007年08月15日
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今日は酒を呑んでもよかったのだけれど、船上での宴席をお断りして自炊。屋形船呑み会だったからである。水辺でなければ参加したのだけれど、身体の大事を優先した。というのも、7月とは思えない涼しさから、少しだけ背中がぞくぞくしていて、風邪がぶりかえしそうだったからだ。で、帰宅後は家でのんびり。今日は21時頃帰宅できたので時間がたっぷりあった。最近家にいるときは、小鳥を手首の当たりにのせて読書するか、小鳥をPCのモニタの上に掴まらせてPCをいじっていることが多い。傍らに四季報と電卓は欠かせない。CPは若干あるけれど、別に新しい銘柄を探そう・買おう、という気持ちはない。基本的には手持ち銘柄で買い増しリストに入っている銘柄をより詳しく調べているところである。雑誌以外にこの1週間で手に取った本は『リバタリアン宣言』(朝日新書)『ウォータービジネス』(岩波新書)『鈍感力』(渡辺淳一・集英社)『もう、国には頼らない。』(渡邉美樹・日経BP)『宋文洲の傍目八目』(宋文洲・日経BP)★『ヘッジホッグ』(日経新聞社)★『金融商品取引法』(渡辺喜美・文春新書)(★は読書中)なんだか「ワタナベ」さんがやたら多い(^-^;だいたい、1日1冊弱のペースで読んでいる。レバレッジリーディングや速読はしない。もし本人に会う機会があったら、あるいはどこかで本の話題が出たら、ということを想定して読んでいるからである。自分に課しているのは、要領よく読んで「要旨」を把握することではなく、行間に隠れた「本音」や「嘘」「矛盾」を掴みとることだからである。要旨だけ読んでいると、ともすれば記憶中心の読書になってしまう。著者の主張を素直に受け取るだけになってしまう可能性だってある。でも、人も本もそうだけれど、「性善説」ばかりで相対してはいけない。それは莫迦を見る危険性のほうが高い。「本に書いてあることは基本的に良いことである」というのは、情報量が少なく、本の文化的価値が高かった昔の時代の話である。今は出版点数が増え、流動化が進んだ書物の世界では、何でもかんでも早く読んで、吸収して、鵜呑みにすることはあまりよくないと思っている。「間違ったことが書かれている可能性もある」「視点に偏りがある」ということを念頭において「性悪説」で書を読むことを、心の片隅において行うべきだと考えている。それは、企業の有報の「本意」を感じ取る訓練にも繋がるのだと思う。
2007年07月18日
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以前、免怒苦齋.さんに一読を進められていた『日本資本主義の精神』(山本七平・ビジネス社)を読んだ。「終身雇用など、同時の性質を持っていた日本の企業は、どんな理由からその独自のシステムを作り上げたのか」ということが、とうとうと書かれている本である。著者がこの本の中でいいたいことを要約すれば「日本の会社は、利益を求める機能集団であると同時に、会社そのものが働く人にとって『ムラ』(=共同体)でもある」という一言に尽きると思う。自分もそういう風に感じて日々仕事をしているので、とりたてて新鮮な論だとは思わなかった。ただ、本の中で少し引っかかった文章があった。それ働くことに関する次の一文である。「これは、あらゆる面に見られる日本的特徴である。このことは経済性を無視しても、成果が全く無くても『ひたすらやった』ことに意義を感じ、同時にそれが、その意義を認めよ、という形になり、それが認められないと、不当と感じ、強い不満を抱くという結果になる」これはつまり、「実際の成果よりも『ひたすらやった』行為そのものを評価する社会だから、だらだら残業が増え、結果として会社の収益を圧迫する慣習が日本にはある」ことを指摘している。確かにそういう一面はあると思う。経済がグローバルになり、世界の企業と競争しなければならない時代に、こういう慣習が根強く残ることで、販管費がなかなか下がらないのは、企業にとっては頭の痛い問題だろう。だから、特にグローバルで活動している企業が多く参画している経団連は、ホワイトカラーエグゼンプションを導入したいと声高に叫んでいるのだと思う。経団連の会長や副会長の顔ぶれを見ると、かなりの数の人が留学経験や駐在経験があり、特にアメリカで過ごした人が多い。彼らはおそらく「空気を読んで、他人と歩調を合わせる」「努力していることをそれとなく人に見せ、共同体への忠誠と奉仕をアピールする」といった、いわゆる「ムラ社会」のルールは不要だと思っている。コストがかかるだけで、企業にとっては「ムダ」だと考えている面が強いのである。是非はともかくとして、精神が「脱亜入欧」して、黒い目のガイジンになってしまっている、と言い換えてもいい。最近はいろんな大手企業がホールディングス(HD)化するのがブームだけれど、あれも多分アメリカでガバナンスを学んで、それに心酔した経営者がやっているだけなんだと思う。事業部ごとに会社化し、それそれの部門の利益率、作業効率を高め、持ち株会社(HD)はトップダウンでそれを管理、適宜指示を出せばよい。シンプルで解かり易いじゃないか、という考えだ。私が会った何人かの社長は、いつもこんな感じのことを言っていた。でも、本当にそうなのだろうか。HD化した企業には、全体的に見て利益が足踏みしてしまうところもある。「横のつながり」を捨ててしまうからだ。「しくみ」というのは、それを導入する場所の文化に合わせて適宜改良してやらなければいけない。それを理解せずに、ただ単にHD化した企業は曲がっているように見受けられる。かつての日本人は「共感する」「『同じように行動して』ともに何かを成し遂げる」ということに喜びを感じる体質だった。横同士の連携をすることで、周囲の呼吸を知り、一歩遅れていればそれを『恥』と感じてこっそり頑張る。そしてある程度の成果を出す。そういう細かいところでの現場の頑張りの小さい積み重ねが集まって、結果として大きな利益につながっていったのだと思う。そもそも「はたらく」という語源は「端(=周囲)が楽になる」というところからきている。周囲のために働き、回りまわって自分にも恵みがやってくるという生き方なのである。日本人にとって労働は自分も他人も幸せになる「仏行」であり、現在もその文化はDNAに刻まれているような気がする。だから、その習性を知った上で、HD化した会社は強くなる。会社全体が一体感を持てるような企業風土を取り入れたり、成果主義を導入してもゆるやかだったり。どこかに「仲間意識」を持たせる施策を取り入れている。そういう会社が、HDという縦の糸と、ムラ社会という横の糸をうまく織り成して、より強い「日本型企業」に脱皮しているように思えるのだ。(免怒苦齋.さまへ追伸)今仕事中でちょっと忙しいのですが、忘れないうちにと思って記しました。こんなところで堪忍してください。
2007年01月12日
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昔は本を読むときは、1冊ずつ初めから終わりまで丁寧に読んでから、次の本を読むようにしていた。そのほうが集中して内容に対峙できるからだ。しかし、最近は「自宅で読む本」「会社で読む本」「移動中に読む本」と同時に複数冊を並行して読むことが多くなった。というのも、書類などを持ち歩いているとうっかり鞄が5キロ以上になってしまうからだ。そんなわけで、移動中はコンパクトで軽い新書や文庫などを中心に読むようにし、ハードカバーは自宅やオフィスで取り組んでいる。並行して本を読むのを以前は毛嫌いしていたが、いざ、物理的な理由から行うようになってからは、この読書法も悪くないなと思っている。先日も『宇宙が味方する経営』(伊藤忠彦著)というスピリチュアルなビジネス書(というか、ビジネス書の棚に置かれている単なるスピリチュアル本だったのだが)と、文庫『まともバカ』(養老孟司著・講演録)を読んでいた。前者は「神様が・・・」と著者自身の不思議な縁や幸運な出来事から、神の力を信じ善く生きることを説いているが、後者は「頭のいい東大生が、物理を理解し計算ができる一方で空中浮揚を信じてオウムに入ったのはなぜなのか」みたいなことが書かれている。偶然にも、非科学vs科学の話をチョイスしてしまったというわけである。養老さんの書いてある内容を前提に、伊藤さんの書いた内容に突っ込みを入れたり、他方伊藤さんが養老さんの本に「それは違うでしょう」と反論したり。読書を止めて頭を休めると、そういうことが、自分の頭の中で繰り広げられていく。頭の中で奇妙な組み合わせでディベートがはじまるのだ。並行で本を読んでいくことで、そういう楽しみがときに訪れる。並行読みは脳にケミストリーを起こす作業である。わざと毛色の違ったものや、仲の悪い著者同士の本を並行して読むことで、自分の中に変わったアイデアや、批判精神などが生まれやすくなるのだ。本自体への集中度は1冊ずつ読むよりも浅くなってしまうだろうが、多元的にモノを思考するには、なかなか面白い脳のトレーニングだと思う。今現在は『インテリジェンス 武器亡き戦争』(佐藤優/手嶋龍一・幻冬舎新書)『富の未来・下』(トフラー・講談社)『日本資本主義の精神』(山本七平・ビジネス社)の3冊を、適宜読んでいる。『インテリジェンス~』はタイトル違いだが「インテリ」の2人の自慢話みたいで、あんまり内容がない。女性がこんな風に表現するのもアレなのだが「自信過剰な人たちの自慰行為を見せ付けられている」ような本で、あきらかに対談の掛け合わせが売れている理由の50%以上を占めている感じがする。そもそも、諜報活動に片足突っ込んでいるジャーナリストや役人が、こうして表舞台に出てぺちゃくちゃ喋ることに不自然さを感じるのである。そう、まるで相場師が相場で飯を食えなくなったから、株式評論家に転身したような臭いがするのだ。こう感じさせるのは編集のまずさによるんだと思う。というのも、彼らが自らの手で書いた著作・寄稿はたいてい目を通してきたが、この本から受ける印象とはまったく違うからだ。多分、対談を原稿にしたライターや編集者が、彼らの資質を感じさせる大切な部分を切ってしまって、なんだか陰謀論みたいな臭いのするところだけ遺してしまった結果なのかも、と思わせる。残念だ。『日本資本主義の精神』は2/3くらい読んだのだが、うーん、形容しがたい。内容に対して「そうだよね、うん、そう思うよ」って納得はするが、著者がここから何を訴えたかったのかがまだ見えてこない。免怒苦齋.さんに感想を求められているのだが、ちゃんと後述できるか不安。勉強になるのはトフラーの本。あらゆる世の中の事象が短いチャプターでまとめられている。そこから「どんな社会になるのか、世界はどんな需要を産み出していくのか」、そういうことをトフラー自身も考えているのだが、肝心な答えは用意されていない。だから、読みながら自分でもその答え(未来の姿)を考えなければいけない。この本には投資のヒントがたくさん詰まっている。答えが提示されていないからこそ、受け手である読者の思考を試す「人を選ぶ本」、だと思う。読み手のセンスや知識によって、薬にも屑にもなりうる本だと感じながら読んでいる。なんて、まだ読み途中なのに偉そうに書いてしまった。実は新聞や週刊誌などを読みながらこれらを読んでいるので、1日に数10ページずつしかすすまない。だから読み終える頃には本が以前(=1冊ずつ読む時代)よりもくたびれるようになったのだけが、残念である。
2007年01月09日
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先日、ライブドアとフジテレビのニュースが出たころ『MBAバリュエーション』(日経BP社・2400円+税)という本を久しぶりに読み返しました。この本は一言で言えば・会社を買収するときに、適正な価格はいくらか・それを算定するための計算式とはどんなものなのかということを、非常にわかりやすく書いた本です。著者が実際にこのような分野で働いていたこともあり、具体例や想定問題などが満載で、数学の苦手な人でもゆっくりと読めば、わかる内容になっています。この本を読めば、・現在ニュースで報じられている第3者割り当て増資や転換社債が会社にどのような影響を与えるのか・株式が割安だと計算するにはどの指標をみたらよいかということが具体的に理解できます。私が投資をやる上で、人の意見に惑わされることなく自身をもって四季報から会社を探せるようになったのも、この本のおかげです。税込みで2500円ちょっとですが、この本を買って、儲けた額は何百、何千倍になるのかしら? 計算してみないとわかりませんが、とかくお勧めです。<お酒メモ>すでに酒が入り・・・ウィスキー三昧です。SCAPA17Y、THE GLENLIVET12Y、TALISKER10Y、RAPHLOAIG12Y すべてショットで。。
2005年03月22日
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最近心に残った本のひとつに、『人間とは何か』(岩波文庫)というのがあります。これは『ハックルべリィ・フィンの冒険』『トム・ソーヤ』の生みの親で知られるマーク・トウェインの晩年の作品です。彼は晩年、何かに犯されたのかのように人間不信となり、悲観論漂う作品ばかりを作るようになります。この本もそのひとつなのです。おそらく、長女の死、妻の重病、末娘のてんかん、他人の莫大な負債を背負うなど、相次いだ不運により、自分を内省化するようになったのでしょう。そして、彼流の「人間」というものに対する厳しい見方が形成されていったのです。プラトンの著作のように青年と老人の対話形式で語られるこの本では、「人間は外部からの作用によってのみ働き、自分は行動したいという衝動にのみに従って生きる機械である」と述べる老人と、それを否定しようとして「自己犠牲」などの例を持ち出し、老人に反証する青年とのやりとりが続きます。要するに、「人に言われたことによって、人は自分の意見を修正したり、自分の意見に自信を持ったりする。でもそれは自分の手柄ではなく、自分がそうすることで気分が良くなるという欲求にしたがってそうなっているだけだよ」ということです。本の中に要約されている「自分の考え方が変わるのは、外部の作用によってであり、自分が思考によって変わるものではない」というエッセンスには本当に驚嘆させられます。絶望の中で見た救いようのない悲観論、他律的な自己によって磨かれた文章は、私の考える「人間の本質」に近いものだと思うのです。結局、自分の意思で動いていると思っても、人間は他の人や見えない力に動かされている。ということを強く実感させられる本です。非常にためになる著作だと思いますが、元気がないときに読むのはおすすめできません。「うつ」状態の人はより落ち込むこと請け合いです。
2005年02月25日
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