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杜甫の詩に、貧交行(ひんこうこう)という詩がある。翻手作雲覆手雨紛紛軽薄何須数君不見管鮑貧時交此道今人棄如土手を翻(ひるがえ)せば雲と作(な)り手を覆(くつがえ)せば雨となる紛々(ふんぷん)たる軽薄(けいはく)何(なん)ぞ数(かぞ)うるを須(もち)いん君(きみ)見(み)ずや管鮑(かんぽう)貧時(ひんじ)の交わりを此の道(みち)今人(こんじん)棄(す)つること土(つち)の如し手のひらを上に向けたり、下に向けれたりする、そんなわずかなことだけで、すぐ雲行きは変わる。今の世の人情は変わりやすく軽薄な人間がなんと多いものだ。あの管仲、鮑叔との貧しいときから一生かわらぬ友情の話を知っているはずだ。しかし、今の人はそんな友情など泥のように棄ててしまって顧みようとはしない。この「貧交行」は杜甫がまだ若かった頃、長安の都に出て、仕官の途を求めて苦労していた時代の作であるという。人間の軽薄さに幾たびも出会って人間に絶望した杜甫が思い起こしたのが『史記』に描かれていた「管鮑の交わり」の故事だったという。司馬遷が李陵事件で誣告罪(ぶこくざい)に問われた時、誰一人として司馬遷の為に弁護してくれる者はいなかったのです。司馬遷が目にしたものは何だったのだろう。司馬遷は、その書『史記』の「汲・鄭列伝」に書き留めている。 「死ぬ目にあったり生き返ったりして、はじめて交わる人のまことの気持ちがわかるのだ。富んだり貧しくなったりして、はじめて交わりの深さ浅さがわかるのだ。偉くなったり落ちぶれたりして、はじめて交わる人の心の底がみえるもだ・・・ああ、悲しいことだ」と。ふと、杜甫の詩から史記に至るほど、心に響いた詩だった。その悲しい心に何度も読み返してしまった。自分にできることは何もない。しかし、私は自分の交わりのある人たちにこんな思いはさせたくない。惜しみなくできる人となりたいと思うが・・・。
2005.07.30
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